その日、朝餉を食べ終えると、侍女による歌の稽古をこなした夕花姫は、キョロキョロと視線をさまよわせていた。
 日頃から暁が護衛として着いてくるし、何度撒いても見つけ出されるため、そのたびに屋敷に連れ戻されていたが。今回は彼に捕まる訳にはいかなかった。
 暁がいないのを確認してから、続いて夕花姫は浜風の部屋へと向かう。
 簾のかかった彼の部屋まで辿り着くと、簾越しに「浜風」と呼んだ。
 またも横笛を吹いていたのだろう、彼の流麗な音色が響いていたが、彼女の声でピタリと止まった。
 簾越しに声が返ってくる。

「なにかな、姫君」
「ごめんなさいね、演奏の邪魔をして……今だったら暁がいないもの。一緒に羽衣伝説を調べに行きましょう」
「うん、楽しみにしていたけれど……でも、姫君はそれについて詳しくないけれど、調べ出すためのあてはあるのかな? 漁師に話を聞くとは聞いたけれど」
「ええ。それで合っているわ。私自身はあんまり詳しくないけれど、詳しい人については心当たりがあるもの。ほら、暁に見つからない内に行きましょう」
「それもそうだね、逢瀬は静かに素早く、かな」

 いちいち言葉の取り合わせに艶を持たせるのが好きだなと、夕花姫は赤面しつつ、ふたりでそろりと屋敷を抜け出した。
 潮風を受けながら、道を歩いて行く。
 昨日は牛車で通った道だが、歩くと緩やかに坂があるのがわかる。

「それで、心当たりとは?」

 浜風に尋ねられて、夕花姫は胸を張る。

「あの子守歌を広めた人に聞いて回ろうと思っているのよ。だから、浜辺のほうで漁村に行ってみようって考えているのよ」
「なるほど……あの歌は漁師特有のものなのかな?」
「不思議なことに、あの子守歌ってあんまり百姓は歌ってないのよね。だから漁師たちのほうがこの歌について詳しいと思ったの」

 天女のことを(たた)える歌なのだから、誰か詳しい人がいるんじゃないだろうか。少なくとも、夕花姫がしょっちゅう浜辺で入り浸るようになった頃には、既にこの子守歌は広まっていたのだから。
 だんだんと寄せては返す波の音が大きく聞こえるようになったところで、海の向こうに船が見える中、漁師たちの住まう小屋の周りで、子供たちが親の手伝いをして魚を干しているのが目に入った。
 ちょうどげんたが夕花姫に気付いた。

「あっ、おひいさんこんにちはー!」
「こんにちは。今日はさちはいないのねえ?」

 さちとげんたは姉弟のように一緒にいることが多いが、不思議と今日はさちの姿が見えない。
 夕花姫は不思議がってキョロキョロと辺りを見回すと、げんたが大きく首を振った。

「うーん、さち、病気みたいで具合が悪いんだよな」
「まあ……お腹でも壊したの?」
「そんな、おひいさんじゃないんだから、なんでもかんでもさちは食べないよ」

 浜風の前でそんなこと言わなくてもいいじゃないか。
 心の底から夕花姫はそう思ったが、隣でくすくすと袖で口元を覆って笑っている浜風を見ていたら、思ったことをそのまんま口に出すことは躊躇われた。
 げんたは夕花姫がむくれているのに意味がわからない、ときょとんとしながらも、言葉を続けた。

「なんか胸がいっぱいで食事に喉が通らないっていうんだ。今日は一日安静にしてろって大人に言われて、小屋で寝てる」
「まあ、まあ……」

 夕花姫は半眼で浜風を睨んだが、浜風は柔和な顔で「彼女とは知り合いなんだ、お大事にと伝えてくれるかな?」とだけげんたに言っていた。
 さちと全く同じような理由で仕事を休んだ女房は、夕花姫が把握している中でもそこそこ出ている。彼女自身に侍女が教えてくれることはほぼないが、廊下を歩いていれば自然とそんな話が耳に入るものである。
 この初恋泥棒。女の敵。
 そもそも端麗な顔の人間にこの国の女はこぞって全くもって慣れてないのだから、浜風の一挙一動で動悸息切れを起こすことだってあるだろうし、実際に国司の屋敷で働く女房の中には具合の悪さで寝込んでしまった者だっているのに、それに対して全くおくびにも出さず我関せずなのだから、本当にたちが悪い。と夕花姫は唸る。
 しかし浜風はそれに申し訳ないという顔もしないのであった。慣れているのか、慣れているのか、と思うが、都の恋愛事情なんて夕花姫にわかる訳もあるまい。
 げんたは相変わらずわからないという顔で「おひいさん?」と聞くので、ようやく夕花姫は本来の目的を思い出した。
 元々は思い出づくりのための探索なのだから、目的自体は果たさねばなるまい。

「あのね、げんた。ちょっと今日は聞きたいことがあって来たのだけど」
「そりゃいいけど。おれでわかることだけしか答えられないよ?」
「ええ、げんたのわかる範囲でかまわないから。あのね、子守歌の出所って知ってる?」
「子守歌っていうと、てんにょさまのおわすはま~の奴?」
「そう、それそれ」
「んー……おれも気付いたら歌ってたから、あんまり誰から聞いたかなんて知らないけど。でもうちの村にだったら、詳しい人はいるよ?」

 げんたの言葉に、夕花姫と浜風は顔を見合わせた。
 漁師と百姓では耳にする量が違うとは思っていたが、まさかこんなに早くに当たりが出るとは思ってもみなかった。

「すごいね。姫君は知己が広い分だけ、すぐに欲しい情報に当たれるんだから」
「……ありがとう。まさか出歩くことを咎められることはあっても、褒められる日が来るなんて思ってもみなかったわ。それでげんた。その人ってどこ?」
「うーん、今も仕事中だから、大丈夫かなあ。まあおひいさんが声をかけるんだったら、そこまで気を悪くしないとは思うけど」

 そう言って、げんたに手招きされて、そのまま小屋の立ち並ぶ村の奥へと案内された。
 変わり者の姫君がしょっちゅう漁村にまで足を運ぶことは、既に有名な話だった。
 皆が皆、浜風という見知らぬ公達の存在にはきょとんと困った顔をしてみせるものの、夕花姫が歩いていたら慣れたように「こんにちは」と挨拶をしてくれた。
 浜風がまたも感心したような顔で笑うので、またも夕花姫は赤面させる。この数日関わって、彼がやけに口が上手いのとおだてるのが上手いということがわかったのだから、いちいちそれに照れていたらもたないとはわかっているものの、褒め慣れていないとなかなか上手く感情を飼い馴らすことができない。
 村を歩いていると、漁師の仕事は船を出して漁をしたり貝を獲ったりすることだけではないというのがよくわかる。漁に出られない女子供や年寄りは、貝を獲らないときはここで作業をしているのだ。
 魚を開いて日干しにしている者もいれば、漁に使った網を干して繰っている者もいる。
 浜風はその光景を物珍し気に眺めていたが、夕花姫はよく見せてもらっている。そうこうしている間に、村の最奥まで辿り着いた。
 げんたは「ばっちゃあー」と声をかけた。
 そこには背中を小さく丸めてにこにこと笑う老婆が、網を繰っているところだった。
 耳が遠いらしく、なかなかげんたの声が聞こえなかったが、げんたが近付いて「ばっちゃ! お客さん! お話しがあるんだって!」と何度も叫んだところで、やっと目を細めてこちらを見た。
 夕花姫と目を合わせると、細めた目をにっこりとさせる。

「おやまあ、天女様、またいらっしゃったんだねえ」

 そう言いながらころころと笑われて、夕花姫がきょとんとする。
 浜風は不思議そうに彼女に尋ねる。

「姫君は顔が広いようだけれど、このご老人とも知り合いなのかな?」
「私、ここまで来るのはさすがに初めてだし、おばあさまに会うのも初めてなのだけれど……」

 老婆は夕花姫と浜風の声が、耳が遠くて聞こえていないようだが、にこにこと「今日はいい日だねえ」と笑っている。気を取り直して、夕花姫はペコリと頭を下げた。

「はじめまして、国司の娘の夕花と申します」
「ええ……?」
「こ・く・し・の・む・す・め・で・す!!」
「おやまあ……貴族の姫様ですかぁ……わたしになんの用ですかねえ」

 老婆に尋ねられて、夕花姫はげんたに問いかける。

「大丈夫かな、げんたの声も私の声もなかなか聞こえないみたいだけど」
「全然平気。ばっちゃ、耳が遠いだけで、しっかりしているし、うちで一番の物知りだから」
「そう……なら聞いてみるわね。あ、の! 羽衣伝説って、どういうものか、なにかご存じですか!?」

 できる限り声を張り上げたら、老婆の耳にもきちんと届いたようだ。

「おやまあ……久し振りだあねえ、それを尋ねに来たのは。前はいつだったかねえ、聞かれたのは」

 老婆はころころと笑うと、網を繰っていた手を休めて、こちらにゆったりと体を向けた。

「この辺りが平和なのは、つい最近のことだあねえ。それまでは、海が荒れれば人が死ぬし、海賊が現れれば女子供は攫われるしで、大変だったよぉ。海がなかったらわたしたちは生きていけないけれど、海のおかげで命が危ないと、女子供は海に近寄るなとまで言われてたからねえ……」
「ええ……?」

 それは夕花姫の知っている小国の光景とは、あまりにもかけ離れていた。
 男は海に漁に出るし、女子供はその手伝いで浜辺に出て仕事をしている。しかし、そんなに海が危険ならば、女子供は手伝いなんかできる訳がない。
 浜風は静かに尋ねる。

「不思議ですね。私が見て回った限り、浜辺では男も女も関係なく、潮干狩りをして貝を獲ってしましたのに」
「そりゃ変わったからだよぉ……天女様が、この国を大きく変えたのさぁ」
「あの、じゃあ子守歌は……」
「これは実際に起こったことさねえ……もっとも、もうだぁれも信じちゃいないけどねえ。この国に天女様が降り立ってから、一度もしけにやられたこともなければ、海賊だって来ちゃいないけど、それが普通だって思っているから、わからないのさぁ」

 老婆はゆったりと話す。
 夕花姫からしてみれば、誰もかれもがおとぎ話だと思っていた話が、まさか実話だなんて知りもしなかったため、彼女の言葉を途方に暮れた顔で聞くしかなかったのである。