「急にお呼びたてしてしまいまして、申し訳ありませんでした」
「かまわないさ。気遣いは無用だ」
今日の天明の様子は、先日の無礼さが嘘のように貴族然とした態度だ。それならそれで、紅華も普通の皇族と同じように対応することができる。
(やっぱり第二皇子なだけあるわよね)
紅華が感心していると、天明はにやりと笑った。
「こんなに素敵なお嬢さんのお相手なら、何を置いても最優先で遂行するよ」
(前言撤回)
「それに……俺も、ちゃんと父上に挨拶はしておきたいし」
睡蓮は納得したようにうなずいたが、紅華は首をかしげる。
天明は、紅華と違って密葬にも参列しているはずだ。その時にきちんとお別れをしたはずではないだろうか。
その疑問が顔に出ていたのだろう。天明が苦笑しながら言った。
「ああいう堅苦しい儀式が苦手でね。すっぽかした」
「え?! なんてことするんですか!! 皇帝陛下の葬儀ですよ?!」
紅華すらも、正式な妃ではないからと出席の許されなかった式だ。それを苦手だからといってすっぽかすとは。
「だよな。俺もそう思う。だからやっぱり、真面目に挨拶をしてこようと思ってね」
「当然です。ご一緒に行って、亡き陛下に心から謝ってください」
「厳しいなあ」
「天明様がおかしいんです!」
ぷりぷり怒りながらも、紅華は仕度を着替えるために隣の部屋に入った。用意を終えて戻ってきた紅華は、思わず言葉を失った。
(え…なに、ソレ)
待っていた天明は頭全体を覆う覆面を被っている。顔が見えなくなるので、紅華の実家にあやしげなものを買いに来る貴族がよくかぶっていたものだ。
またぞろ文句を言おうとして、ふと気が付いた。
(あ、そっか。私がまだ正式な貴妃じゃないから、お忍び扱いってことなのね)
ましてや天明は第二皇子だ。夫の晴明を差し置いて別の皇子と出かけるのは、あまり外聞がよくないのだろう。
そう考えると、いらぬ支度をさせた天明に少しばかり申し訳ない気になって、紅華は頭を下げた。
「お待たせいたしました。よろしくお願いいたします」
「じゃ、行こうか」
そうして連れ立って、紅華たちは陵、つまり皇帝の墓へと出かけた。
☆
宮城からしばらく馬車に乗ると、小高い丘が見えてきた。
「あれですか」
「ああ。代々の皇帝が眠る陵だ」
それは、少し高い丘の上にあった。綺麗に整備された階段は、見上げるほどにながい。輿に乗っていくという手段もあったが、紅華は自分の足で歩くことを選んだ。
入り口を守る近衛に身分を告げて、紅華たちは汗をぬぐいながらそこを登り始める。
「おっと。大丈夫か?」
足元のふらついた睡蓮を、天明が支えた。そのまま支え続けようとすると、睡蓮がその手を押し返して首を振る。
「私は大丈夫です。それより、紅華様をよろしくお願いいたします」
天明は紅華を振り返る。
「紅華殿は大丈夫か?」
「足には自信があります。商人にとって俊敏さは大事な要素ですから」
「だってさ、女官長。貴妃に負けていたら立場がないぞ。がんばれよ」
「天明様は平気そうですね」
覆面をしているのに、息を乱している様子もない。紅華たちと違って男であるということを差し引いても、かなりの体力があるようだ。
「これくらいで息があがるほどやわじゃないさ」
紅華の考えを裏付けるように、天明が言った。
「天明様はともかく、先ほどの陛下の顔色はあまりよくありませんでした。ちゃんと、お食事を召し上がっておられるようですか?」
そう聞いたのは睡蓮だ。その顔を見れば、彼女が心から晴明を心配しているのがわかる。
「多少は仕方ないだろう。父上はまだ亡くなる気はなかったみたいで、後継に関してなんの用意もしてなかったし。晴明も、まさかこんなに早く皇帝になるとは思ってもいなかったからね」
「天明様なら適当に手を抜くことも得意でしょうけれど、陛下はとてもまじめな方ですからきっと限界まで頑張ってしまわれます。どうか、目を光らせていてくださいましね」
真面目な睡蓮の言葉に、天明は肩をすくめた。
「わかってるよ。ほら、無駄話をしていると、いつまでたっても辿り着かないぞ」
苦労して長い階段を上りきると、色とりどりの花があふれあたりには香の良い香りが漂っている。
紅華は、疲れも忘れて感嘆のため息をもらした。
「美しいところなのですね。彼岸とは、こういうところなのでしょうか」
「そうだな。良い場所だ」
呼吸と身だしなみを整えた紅華は、持ってきた供え物を祭壇に置くと、静かに目を閉じた。
(まみえることはありませんでしたが、あなたの妃になる予定でした)
他にどう話しかけていいのかわからない。一度も顔を見ることなくいなくなってしまった皇帝は、紅華にとっては遠い存在でしかなかった。
けれど、確かにこの国を支え導いてくれた存在だ。知らず、身の引き締まる気がす
る。
神妙な顔で祈りをささげた後、ふと視線を巡らせると、わずかにうつむく天明と顔を伏せて涙を流す睡蓮が目にはいる。嗚咽を堪えてはらはらと涙を流すその姿は、色気すら感じるほど美しかった。
天明の様子はわからないが、一般的な葬送では睡蓮のように人前でも涙を流し、場合によっては大声をあげて号泣することもままある。
(天明様だって、お父様がなくなったんだから泣いてもおかしくはないのに)
そう思った紅華は、もう一つの可能性を思いついた。
もしかして、天明が今日覆面をしてきたのは、泣き顔を見られたくないのだろうか。
だとしたら。
(案外かわいいところがあるじゃない)
無礼なだけかと思った天明だが、そんな一面もあるのかと紅華は少しだけ天明に対する印象を改めた。
しばらくめいめいで祈りをささげたあと、紅華たちは墓前を後にした。
「睡蓮」
「はい」
陵を降りながら、紅華は遠慮がちに声をかけた。
「前の皇帝は、どんな方だったのかしら」
「龍可陛下……ですか?」
「ええ。私は一度も会えなかったし。睡蓮なら、きっとお近くにいることも多かったでしょう」
睡蓮は、天明と一度視線を交わすと、考えながら話しはじめた。
「そうですね。思いやりの深い方だったと思います」
「そうなの?」
皇帝に対しては怖いという想像しかもっていなかった紅華は、意外な気がした。
「はい。近寄りがたい雰囲気をお持ちでしたし確かに厳しいお方でしたが、その実、とても細やかな気配りをなさる方でした」
「そういうところは、晴明とよく似ているな」
隣を歩いていた天明が口をはさんだ。睡蓮はうなずく。
「そうですね。晴明陛下は、龍可陛下ほど畏怖を与えられる方ではありませんが……」
言いかけて、睡蓮は、は、としたように口を閉じた。天明は、睡蓮が言いかけてやめた言葉を続ける。
「だから、晴明が皇帝になることに反対する一派もいるんだよな」
「そうなんですか?」
紅華は天明を見上げた。
「皇位の跡目争いなんて、ない方がめずらしいくらいだ。現に今だって」
「天明様」
ふいに、睡蓮が言葉を遮った。
「あまり紅華様を脅かすのはやめてください」
「俺は、紅華殿のためを思って言ってるんだ。怖かったら、いますぐ実家に帰ってもいいんだぜ? なんなら俺が送ってってやる」
挑発的に天明が言った。紅華の耳に、以前の天明の言葉がよみがえる。
『一刻も早く後宮を去れ』
「天明様は、私が貴妃になることに反対ですの?」
「正直言えば、是、だな」
適当にごまかされるかと紅華は思ったが、天明はあっけらかんと答えた。
紅華自身、自分が誰よりも貴妃に相応しい淑女などとは思っていない。だが、ほとんど自分のことを知らない天明にここまではっきりと言われる理由もわからない。
(こないだ取っ組み合いしかけたこと、まだ根に持ってしるのかしら。それとも)
「それは、私が貴族ではないからですか?」
せいぜいがところそんなところしか思い当たらない。
自分へと顔を向けた天明を、紅華は、じ、と見上げる。覆面の中に見える瞳は、存外澄んで美しかった。
わずかな沈黙のあと、天明は苦笑交じりにいった。
「そうだな。身分のない妃ほどあわれなものはない。あんたのためだ」
「天明様」
睡蓮のきつい声が飛ぶ。
「紅華様、天明様の言うことなど気にしないでください」
「え、ええ」
「紅華様なら、きっと陛下を支えられる素晴らしい貴妃となられます。どうか、陛下をお願いいたしますね」
真剣な、それでいてどこか憂いを含んだ表情で睡蓮が言った。
「これから先、この国を背負っていく陛下には、紅華様のようなお優しくて強さも兼ね備えた妃の支えが必要なのです」
「え、そんな」
なにかすごく褒められたような気がする。天明が、わざとらしく大きなため息をついた。
「やれやれ。父上を亡くしたばかりで傷心なのは、俺も同じだ。俺にも、紅華殿のような美妃の慰めが必要だとは思わないのか」
「だったら、素直に泣いたらどうですか? 袖の先くらい貸して差し上げますわよ」
「大の男が小娘みたいにわんわん泣けるかよ」
「だからといってそうやって陽気に振る舞われてお心を隠すのは、天明様の悪い癖ですね。ほんっとに素直じゃないんだから」
足もとを注意しながら降りていた紅華は、天明の足がとまったことに気づいて振り返る。たたずんだまま、覆面の下から天明が、じ、とこちらを見ていた。
(う。怒ってる? 言いすぎたかしら)
ぽんぽんと失礼なことを口にする天明だったから、紅華もつい口が過ぎてしまったらしい。
謝ろうかどうしようかと迷いながら天明を見ていると、ふと、その視線が紅華の後ろに向いた。紅華がその視線を追うと、数人の官吏が階段を上がってくるところだった。先頭にいるのは、晴明だ。紅華に気づいて、ふわりと笑う。
「紅華殿、来てくれたんだね。ありがとう」
「はい。今、墓前にご挨拶をしてきたところです」
紅華たちは端によけて晴明たちに道を譲り、膝をついて頭をさげた。
「私もこれから行ってくる。気をつけてお帰りね、紅華殿」
「陛下もどうか、お疲れのでませんように」
「ありがとう」
そうして晴明は、階段をあがっていった。後からついていく官吏たちは、全くこちらを気にしない者、ちらちらと紅華を伺う者、様々だ。肩で息をする官吏も多い中で、晴明は先ほどの天明のように息も乱さずに階段をのぼっていく。
(この階段を毎日……ああ見えて晴明様って、意外に体力あるのね)
「では気をつけてまいりましょうか、お嬢様方」
晴明の言葉をまねたのか、ばか丁寧に天明が言って立ち上がった。少し前のきまずい空気は、そこにはもうなかった。
紅華はただ、はい、と答えて立ち上がった。
☆
広間には、多くの官吏が詰めていた。今日は、皇帝の御霊上げの儀式だ。
皇帝が身罷ってから一週間。これでようやく、亡くなった前皇帝、黎龍可は天に上る。
御霊上げ自体は晴明のみで行う儀式だが、その後にある新皇帝の宣言は公の式のため、紅華も妃の一人として皇帝の近くに席を用意されていた。
晴明の姿を待つ間、紅華は集まった人々を見るともなく眺める。
(あそこにいらっしゃるのが、陛下のご兄弟の方々ね)
官吏とは反対の位置に、白い喪服姿が何人か見える。おそらく前皇帝の妃や息子たちだろう。向こうからもちらちらとこちらを見ている視線を感じた。
さりげなくそちらを観察していた紅華は、あることに気づいてきりりと眉をあげる。
(天明様がいない?!)
少し距離があってはっきりとは見えないし、あまり凝視することもできない。けれど紅華は、その中に天明の姿を見つけることができなかった。
(また抜け出したのかしら。もうっ。苦手だからでなくていいというものでもないでしょうに)
貴妃未満の自分が言うのもなんだが、天明も第二皇子としての自覚が足りないのではないだろうか。
あとで説教してやろうと悶々と考えているうちに、大きな扉が開いて晴明が出てきた。その姿を見て、紅華は目を見開く。
身内の人々と同じく白い喪服に身を包み、表情を引き締めた晴明は普段の優しい態度からはかけ離れた凛々しさをまとっていた。
開いた扉から堂々とした態度で入ってきた晴明は、人々の前を横切って皇帝の席までの数段を上がると、渋い顔をしている紅華を見て微かに目を瞠った。それから、紅華にだけ見えるように、人差し指を小さく口元にあてていたずらっぽく笑う。紅華は、扇で顔をおおってその要求を了承したことを現した。
それを確認すると、晴明は広間に振り向いて声を張る。
「たった今、父上は天へとお上りになった。皆の者も、御苦労であった」
それを聞いて、官吏たちも神妙な顔つきになる。うなだれるものも多かった。その様子をゆっくりと見渡してから、晴明は重々しく続けた。
「しばらくは、我々もこの悲しみから逃れることはできないだろう。だが、その悲しみの中でも、我々は顔をあげ、この国を守っていかなくてはならない」
は、としたように、それぞれの官吏たちが晴明を見上げる。その視線を受け止めて、晴明はうなずいた。
「いまこそ我々は一つとなり、陽可国のためにつくそう。それこそが、父のため、そして国民のためとなる。新しく皇帝となった私に、どうか力を貸してほしい。そして、共にこの国を導いていこう」
朗々とした声に、官吏たちはほとんど無意識のうちに首を垂れた。それを見て、宰相も満足そうにうなずいている。
その姿には、皇帝として人を強くひきつける魅力が確かにあった。
(すごい……)
その姿からあふれ出る圧倒的な力に、無意識のうちに紅華は扇を握りしめながら視線をそらしてしまった。
だから、気づいた。
うなだれる官吏たちの中に、一人だけなぜかちらちらと視線を天井に向けている者がいることに。
(?)
つられて紅華も頭上を見上げる。紅華たちのいる玉座の上には、手の込んだ細工の施された大きな天蓋が飾られていた。
それが、なぜかゆらゆらと揺れている。
(どこからか風が……)
考えて、紅華はどこの窓も開いていないことに気づいた。
「陛下!」
素早く椅子から立ち上がった紅華は、上を気にしながら晴明に手を伸ばす。気づいた晴明も紅華の視線を追って天井を見上げた。
その瞬間、二人の視線の先でその天蓋ががくりと傾いて落下を始めた。とっさに晴明は自分を押し飛ばそうとした紅華の手を引いて胸に抱え込むと、横に飛びすさって倒れ込む。間一髪、二人のいた場所に、天蓋が落ちて派手な音を立てた。きらびやかな破片が、あちこちに飛び散る。
「っ!」
「陛下!?」
「陛下!!」
場が騒然とした。
「ご無事ですか?!」
そばに控えていた衛兵や宰相が晴明をとりかこむ。晴明は、両手を床について少し体を起こすと、自分の真下にいた紅華に声をかけた。
「大丈夫だ。紅華殿は?」
「私も、大丈夫です」
(近い……!)
体が密着した状態になった紅華は、すぐ目の前にある晴明の顔に、そんな場合ではないとわかっていても鼓動が跳ねる。全身に感じる体の重みは、苦しく思うほどではないが意外にずっしりとしていた。
「よかった」
そう言ってするりと起き上ると、晴明は手をひいて紅華を起こす。その仕草に、ふと紅華は晴明を見上げた。
晴明は厳しい顔であたりに集まった官吏たちを見回した。
「さわぐな。官吏たちは下がらせて、すぐにここを片付けろ」
「陛下はこちらへ」
宰相が、指示を別の官吏にまかせて、いそいで晴明と紅華を裏の扉へと誘導する。
広間を出る時に振り返った紅華は、あれほど綺麗だった天蓋がばらばらになっているのを目にした。幸い気づいてよけることができたが、直撃されていたらただの怪我ではすまなかったかもしれない。今さらながらに背筋が冷たくなる。
「陛下、紅華様」
別室で控えていた睡蓮が、青い顔で走り寄ってきた。心配する睡蓮を連れて、四人は近くの一室に入る。
「陛下、お怪我は」
部屋に入ると、心配そうに宰相が聞いた。
「心配するな、翰林。俺だ」
晴明のふりをやめた天明が、大きく息を吐きながら長椅子に座る。それを聞いた宰相は、すばやく紅華と睡蓮に視線を飛ばす。睡蓮が無言でうなずくと、宰相は急に態度を変えて天明に向いた。
「お前か。今日は、晴明陛下ご本人のはずではなかったか?」
「あれだけ大勢の前に出るのは危険だろう。最近、頻繁だったからな」
「だったら、せめて私には変更のあったことを知らせておけ」
「まだ、俺たちの見分けがつかないのか」
「ついたら大変だろう。だいたい、前陛下でさえできなかったんだ。見分けのつくものなど、いるものか」
「……そうだな」
天明は、ちらり、と紅華を見た。それに気づかずに、宰相は部屋を出ようとする。
「すぐ、典医を呼ぶからおとなしくしてろ」
「必要ない」
宰相は、足をとめて振り向いた。
「だが」
「けがもないし、少し休めば大丈夫だ」
「……本当にいいのか?」
「ああ」
「では、ここで少し休むがいい。私は陛下のところに行ってくる。蔡貴妃様」
宰相は、紅華に向き直る。
「お騒がせをいたしました。落ち着いたようでしたら、よろしければお部屋まで送らせましょう」
紅華は天明の様子をうかがう。すました顔をしているが、その額には脂汗が浮かんでいた。
「わたくしも、もう少し休んでから戻ります」
「かしこまりました。睡蓮、蔡貴妃を頼んだぞ」
「はい」
そう言うと、宰相はもう一度天明の様子を一瞥してから部屋から出て行った。
「紅華様は、どこか痛むところはありませんか?」
紅華の身を案じる睡蓮が聞いた。
「私は大丈夫。けれど、天明様が」
「別に? 俺も、平気だ」
平然と天明は答えた。
(嘘ばっかり)
紅華は天明にとことこと近づくと、背もたれに体を預けたままのその左肩をぽんと叩いた。
「うげっ!」
ふいうちを食らった天明が、飛び上がりながら叫んだ。
「落ちた天蓋にあたっていたのですね」
「ててて……気づいたのか」
「起こしていただいた時に、左側をかばわれたので、もしや、と」
「天明様、失礼します」
「な……睡蓮! やめろ!」
睡蓮は天明の衣に手をかけると、くるくるとその服を脱がし始めた。
「何をする! 睡蓮、あ、こら」
天明は抵抗するが、紅華が指摘した通り片側にうまく力が入らないらしく、あっという間に片袖を引かれて肩がむき出しになった。
みれば、天明の肩から背中にかけて青くなりかけている。
「やっぱり」
「睡蓮……いくらいい歳だからって、もう少し女性としての照れとか恥じらいとか持ち合わせていないのか。そんなことだから行き遅」
「折れてはなさそうですが、これはかなり痛みますね」
「いててててて!」
けがをしている方の腕を乱暴に裏表確認されて、天明が再び悲鳴をあげた。どうやら天明の言葉に少しばかり立腹したようだ。
(睡蓮でも怒ることがあるのね)
紅華は、興味深くその様子を見守った。
「貼り薬を持ってきます。待っていてください」
出血のある怪我がないことを確認すると睡蓮は、薬をもらうために部屋を出て行った。
「すみません、私がもうちょっと早く気づいていたら避けられたかもしれないのに」
うなだれる紅華に、服を戻しながら天明が笑う。
「むしろ、晴明じゃないと気づいていたのに、よく助けてくれたな」
「当たり前です。あれ、直撃してたら、下手すれば死んでましたよ」
「そりゃ、殺すためにやったんだろうし」
天明の言葉に、紅華は、目を見開く。
「え? まさか……あれは、事故、ではないのですか?」
天明は、ちらりと紅華を見たが、すぐにまた服装を整えるために視線を戻す。
「違う。と、俺は思う」
「一体、誰が……」
「言ったろう。跡目争いなんてめずらしくもないことだ」
「でも、だからって殺すなんて」
「皇帝辞めてください、はいわかりました、なんてお行儀よく話がつくと思うか? ぐだぐだ言わせずに死んでもらうのが一番手っ取り早いだろう」
「でも……ということは」
「うん?」
青ざめた紅華は、次の言葉をためらった。天明は、だまって紅華を見つめている。
「その理屈で言ったら、陛下を狙ったのは次の皇帝になれる……天明様が一番怪しいのではないですか?」
陽可国は長子が皇位を継ぐことになっている。第一皇子の晴明が皇帝になりその子がない今、皇太子は第二皇子の天明だ。
紅華の言葉に天明は大きく目を見開くと、声を上げて笑い出した。
「そうだな。そうか、俺が晴明を殺そうとしたのか。なるほど」
紅華は、小さくため息をついた。
「違いますよね。もしそうならそんな怪我を負うわけないし……もしかして、天明様も同じように命を狙われたりしています?」
楽しそうにくつくつと笑いながら天明は続けた。
「さあ、どうかな。それより、晴明を殺そうとして死んだのが俺じゃ、皇帝暗殺をたくらんだやつらもさぞ拍子抜けするだろうな」
「そんなことを言って。一歩間違えば、こうして笑っていることなどできなかったのですよ?」
「その時はその時だ」
「死んでしまったら取り返しがつきません!」
「なあ、紅華」
いきなり呼び捨てにされて、紅華はびくりと体をこわばらせた。ひじ掛けに片腕をついて、天明は薄く笑っている。
その表情は、同じ顔をしていても晴明とは全く違うように紅華には見える。まっすぐに見つめてくる細い目を、紅華は怖いと思うと同時に、美しいとも思ってしまった。
(この人は……何を考えているのだろう)
自分の死すらもまるで玩具の一つとしか考えていないような天明に、紅華は胸をざわつかせた。
「後宮を出て行くつもりがないなら、間違えるなよ。大事なのは、皇帝陛下……つまり、晴明だ。晴明という皇帝がいて、晴明に子が生まれればその子がまたこの国を継いでいく。あいつさえ生きていれば、この先も国は続いていけるんだ。しょせん、他の皇子なんてどうでもいいんだよ」
「でも……」
紅華は、泣きそうになってうつむいた。
「そんな風に、言わないでください。……確かに皇帝陛下は誰よりも尊ばれる方ですが、天明様だって、代わりになる人は誰もいないんです。どんなに憎たらしくても気に食わなくても、死んでしまっては喜べません。命を投げ出すことを、当たり前だとは思わないでください。誰も言わないなら私が言います。もっと、ご自分を大事になさってください」
短かくはない沈黙のあと、ああ、とため息のように小さな天明の声が聞こえた。
「あー……、やっぱり俺の事は、憎たらしいのか」
しょげてしまった紅華に調子を狂わされたのか、天明があえてからかうような口調で言う。
「無礼な方だなとは思ってましたが、それに加えて自分勝手で能天気な方という印象が増えました」
「……本人を目の前にして、どっちが無礼だか」
「初日から失態をお見せしてしまったので、今さら天明様に取り繕うのは無駄だと思っております」
ふてくされながら言った紅華を見て、天明はまた声をあげて笑った。
「いいなあ。本当にお前は面白い奴だよ。……心配するな。犯人の目星はついているんだ。こっちだって、そうそうやられたままでいるわけじゃない」
その言葉で、紅華は思い出す。
「そう言えば……あの時、一人だけ、天井を気にされた方がいたのです」
「天井? あの場にか?」
天明の視線が鋭くなる。
「はい。ですから、私も気づきました」
「どんなやつだった?」
「官吏の方でした。お顔までは覚えておりませんが……左側のかなり前の方にいた方だったかと思います」
紅華も、天明から視線をはずさなければ気づかなかった位置に、その官吏はいた。
それを聞いて天明は考え込む。その姿を見ながら、紅華は気になっていたことを口にした。
「もしかして天明様は……」
「お待たせしました」
その時、扉があいて睡蓮と、もう一人老年の男性が入ってきた。
「陛下、お怪我をなされたとか」
淡々と言ったのは、この宮城の典医だ。
「心配ない。少し、打っただけだ」
その瞬間から、天明はまた晴明になる。
「見た目に変わりがなくても、体内で傷つくことがあることもあります。少し、見てもよろしいですかな」
「しかたないな」
天明は、先ほど着た服をもう一度はだけ、あざになった部分を出した。典医はそれをあちらこちらから診察して、確かに打ち身だけだということを確認する。
「では、また明日伺います。本日はなるべく肩や腕を使いませんように」
貼り薬をぺたぺたと張りながら、典医が言った。
「わかった。ありがとう」
穏やかな笑顔で天明が言うと、典医は部屋を出て行った。
「晴明のとこに行ってくる」
「あ」
立ち上がった天明に、思わず紅華は声をあげた。けれど、それ以上なんと言えばいいのかわからない。
「……お大事になさいませ」
結局それだけ紅華が言うと、天明は微かに笑いながらひらひらと手を振って部屋を出て行った。
(天明様……)
「では、紅華様もお部屋に戻りましょう」
「ええ」
紅華は、くすぶった思いを抱えたまま立ち上がった。
「おはようございます、紅華様」
声をかけられて、紅華は目を覚ました。いつもなら睡蓮が来る前には起きている紅華だが、夕べはなかなか眠りにつくことができず寝過ごしてしまったらしい。
「おはよう、睡蓮。すっかり寝坊しちゃったわ」
「それほど遅くはないですよ。もう少しお休みになりますか?」
紅華は、目をしばたかせながら思い切り伸びをする。
「いいえ、起きるわ」
紅華が寝台を降りると、睡蓮が着替えを手伝ってくれる。
通常、妃嬪には大勢の侍女がつく。紅華はまだ貴妃ではないが、それに準じる立場として、後宮へ来たばかりの頃は着替えるにも何をするにも大勢の侍女が手伝ってくれていた。
けれど、貴族の産まれではない紅華は、自分のことは自分でやるようにしつけられていた。そのため、自分が動かなくてもいいという状況に慣れることができず、これを全部断ってしまった。結局紅華のこまごました手伝いをしているのは、睡蓮一人だ。
「夕べは遅かったのですか?」
睡蓮が、卓に朝食を並べていく。紅華は、あたたかい粥を手に取った。
「ええと……そう、ついつい本を読んでしまって」
とっさに紅華はごまかした。本当は、昨日のことが気になって眠れなかったのだ。
天明が言うようにあれが事故ではないとすれば、そこにあるのは明らかな悪意だ。その状況を晴明がどう考えているかはまだわからないが、天明はまるで楽しんですらいるように見えた。
今までそんな人は、紅華は見たことがなかった。地位に執着し、金に執着し、己の利にしか興味のない人ばかり見てきた紅華にとって、自分の命にすら頓着しない天明は理解の範囲を超えていた。
けれどそれは、決して不快な感じはしない。むしろ、強烈な光を放って紅華の心を焼く。目を閉じれば、蠱惑的に笑む天明の顔が浮かんできて、結局一晩中眠ることができなかった。
(本当に……なんなのよ、あの人)
それに、天明の怪我も気になる。あんな重そうな天蓋が当たって、本当に打ち身だけですんだのだろうか。様子を見に行こうと思って気づいた。
(天明様って、どこにいけば会えるのかしら?)
皇子とはいえ成人しているのだから、後宮内には住んでいないはずだ。市井に降りていれば、紅華が気軽に家を訪ねることなどできない。
だが、皇族である天明は、宮中においてなんらかの仕事を持っているに違いない。本当にたいしたことのないけがなら、今日も出仕している可能性はある。
「ねえ睡蓮」
「はい、なんでしょう」
「宮城の図書室に行きたいんだけど、いいかしら?」
後宮には専用の図書室がないため、本が必要なら宮城の図書室を使用することになっている。
紅華がなんの目的もなく後宮を出ることは難しい。行事関係以外で外朝に行く用事と言えば、図書室くらいだ。
外朝に行ったからといって天明に会えるとは限らないが、それくらいしか紅華が天明に会う手立ては思いつかない。
(どうしても気になるわけじゃないけど。もし会っちゃえば、ついでに様子を聞いてみてもいいかしら。ええ、ついでよ、ついで)
「良いと思いますけれど……何か、お探しですか?」
「持ってきた本は読んでしまったから、なにか軽いものでもあれば、と思って」
少しだけ視線を外して紅華が言った。手持ちの本を読んでしまったのは事実だが、それだけではないことがなんとなく後ろめたかった。
睡蓮なら天明の様子くらい聞いてこられるだろう。だが、あの後部屋に帰ってからも睡蓮は、痛いところはないか気落ちしてないかと、紅華の方が心配になるくらい気遣ってくれた。なるべく、睡蓮の前で昨日の話題には触れたくなかった。
「かしこまりました。では、使えるように手配いたしましょう」
本の話題が出ていたせいか、睡蓮は特に疑問にも思わないようだった。
「ありがとう。頼むわね」
紅華の朝食を片付けると、睡蓮は手続きのために部屋を出て行った。
一人になると、紅華は少しだけ化粧をした。外朝に出るのなら、それなりに身支度を整えなければならない。一通り身支度が終わったところで、ほとほとと誰かが戸を叩くのが聞こえた。睡蓮が戻ったなら、声をかけるはずだがそれがない。
なんとなく予想がついた紅華は、深呼吸をすると用心深くゆっくりと扉をあけた。
「……やっぱり」
「おや? 待っていてくれたとは、嬉しいね」
案の定、そこにいたのは、天明だった。その手には、大きな数本の牡丹を持っている。
「そんなわけないじゃないですか」
「照れた顔もかわいいな」
口の減らない天明に、むっとするも、いつもと変わりなさそうな様子を見て紅華は胸をなでおろした。
「お怪我のご様子は、いかがですか?」
「まだすごい色しているが、薬のおかげか痛みはあまりないな」
「そうですか」
言葉はそっけないが、紅華の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。おそらく無意識だろうその表情を指摘したらまたムキになっておこられそうだったので、天明は気づかないふりをした。
「紅華こそ、怖い思いをさせて悪かったな」
なぜかくつくつ笑う天明を見ながら、紅華は答えた。
「天明様のせいではありませんわ」
「そりゃそうだ。はい、お土産」
渡された牡丹から、甘い香りが漂う。
「どうしたのですか、これ」
「きれいに咲いていたから。昨日の詫びだ」
彼が詫びる必要などないと思うが、せっかく持ってきてくれたのだから、と、紅華は素直にその花をうけとった。
「ありがとうございます。これ、天明様が買ってきてくださったんですか?」
「晴明の真似をして、そこの庭に咲いていたのを勝手に取ってきた。南の庭の牡丹園が、ちょうど見ごろだ」
「牡丹園があるのですか?」
「まだ見てないのか?」
むしろ驚いたように天明が言った。
「はい。ここへきて日が浅いので、まだ後宮の中になにがあるのか、よく知らないのです」
「ならちょうどいい。これから一緒に見に行こう」
「え? でも……」
「決まり。天気もいいし、行くぞ」
勝手に話を進める天明に、紅華は戸惑う。
「そんな急に言われても……」
「見たいときに見に行くのが、一番きれいなときなんだよ。睡蓮は?」
「少し用を頼んであります。じきに戻ると思いますけれど」
「見つかるとまたうるさそうだ。早く出よう」
そう言って天明は紅華の持っていた牡丹を卓の上に置くと、紅華を連れ出した。
(なんて強引な人なのかしら)
なかば呆れながら二人で廊下を歩いていくと、前から来た女官たちがさっと道を空ける。
(ああ、晴明陛下だと思っているのね)
そう思ってちらりと天明を見上げると、さっきまでの気楽な表情とは違ってどこかきりとした涼し気な笑顔を浮かべている。
「紅華殿?」
ふわりと笑うその表情は、まさに晴明そのものだ。これでは、女官たちが晴明と誤解するのも無理はない。というより、天明はわざと誤解させているのだろう。
第二皇子とはいえ男性が後宮に頻繁に顔を出すのはさすがにまずいことくらい、紅華にもわかる。
「便利なお顔ですね。本当に、役にたつこと」
思うところあってそう言った紅華は、その言葉で天明の表情がほんのわずかに曇ったのを見逃さなかった。
「似てはいても、お前は見分けがつくんだろう? なんて言ったって、俺の方が凛々しいからな」
だが、天明は素早く元の笑顔を取り戻した。
おそらく天明は、紅華が聞きたいことに気づいている。なのに話をそらしたという事は、きっと今はまだ聞いても答えてはもらえないだろう。
紅華は小さくため息をついた。
「本物の晴明陛下はお仕事ですか?」
「今頃の時間は、定例朝議を終えて執務室にいる頃だ」
「天明様は、参加されなくてよいのですか?」
「今日は俺が出る予定はないな」
紅華の予想通り、天明もなにかしらの仕事はあるらしい。
「どんなお仕事をなされているのですか?」
「紅華の相手」
「それは今日に限ったことですよね。それに、全く必要のない仕事だと思います」
呆れたように言った紅華に、天明は晴明の顔をしてふわりと微笑む。
「逢引のための時間は、何をおいても必要ですよ、紅華殿。晴明と顔をつきあわせて文書を呼んでいるよりも、かわいいお嬢さんとお花見をしている方がずっと楽しいとは思いませんか?」
爽やかに微笑む様子は晴明とよく似てはいるが、やはり紅華には二人は別人としか思えない。