今年は空梅雨で、六月が明けても七月になっても、雨がちっとも降らなかった。それでも蝉がじんわじんわと鳴き声を上げ、家の外にはもうもうと陽炎が立ちこめている。
そんな中、私たちはリュックに一週間分の着替えとお年玉を入れて歩いていた。
「暑いねー」
「暑ー」
「アスファルトに今水をかけたら、お湯になるかなあ?」
「サウナの石に水かけたらどうなるか知ってっか? 死ぬぞ」
「マジかぁ……」
私と巽は、いつもの調子でそう言って歩いていた。
既に畑作業の時間も過ぎているせいで、人が皆家の中に引っ込んでしまって誰もいない。その中、私たちは必死に駅に向かって歩いていた。
アスファルトで舗装された道。脇には田畑が広がっていて、道は長い。この辺りは何度も何度も鉄道廃止の話が持ち上がっては「この辺りが陸の孤島になるのをやめろ」と町のお偉いさんが掛け合い、本当にギリギリのところで取り消されている。
私たちは、今日駆け落ちするのだ。親公認の。
私たちが出かけるとき、いつもそれぞれの親に言う。
「ちょっと駆け落ちしてくる」
「あらそう? いつ帰ってくるの?」
「夕方までには」
「行ってらっしゃい」
なんにもない町に住んでいて、それこそ当たり前のように大人になっても一緒にいるんだろうなと思っていたけど、どうも来年はそうではないと気付いたとき、巽が言い出したのだ。
「じゃあ駆け落ちすっか」
ふたりとも、ひどい町でもここを捨てる気はさらさらなくて。
「そうしよっか」
本当にならない駆け落ちを繰り返している。
****
ふたりで眺めているのは、学校帰りに買った旅行ガイド。
この辺りのスマホは不安定で、ネット検索は家でパソコンでしたほうがよっぽど確実だ。
「じゃあ今日は山の宿に行こう」
「夏休みだけど、人が混まないかな?」
「それは大丈夫だと思う。この辺り、車じゃ行けない。歩くか自転車借りるかしないと」
ふたりで出かけた宿は、雑誌に載っているそれはそれは小綺麗な場所ではなく、今にも潰れて幽霊でも出そうなボロ宿屋だった。
私たちふたりが「ふたりで二泊」と頼んだところ、宿屋の奥さんには困った顔をされてしまった。
「高校生?」
「あっ、はい。そうです」
「安くてももうちょっと綺麗な宿あるけど……」
「ここがいいです」
ふたりで宿を決めると、そのまま通された部屋で、テレビのチャンネルを点ける。
チャンネルは国営放送に、よくわからないローカルチャンネルがふたつだけ映った。地元とおんなじだと、ふたりで笑った。
「ここ、ぼろっぼろだけど、山菜料理は美味いんだってさ」
「山菜って苦くない?」
「ちゃんとあく抜きしたら苦くないんだってさ。あと採れ立て」
「朝に収穫するから、それ絶対に苦くないかなあ」
ふたりでゴロゴロする。本当に色気もなにもあったもんじゃない。
ふたりで駆け落ちするにしても、ここまで遠くに出かけたことは、実はそこまで多くない。もっとわくわくしたり、特別な日にしないといけないのに。
ただ私たちは、ふたりで長年つくってきた気怠いずっとそこで転がっていたい、毛羽だった畳のような、ボロボロなのに居心地のいい関係を壊したくなくて、そのまんまなにも言えないでいた。
浴場はふたりでそれぞれ浴衣を借りて入っていった。
宿の外見も部屋もボロボロだけれど、浴場は割と小綺麗で、おまけに誰もいないから広いお風呂をひとりじめだった。
「ふわぁ……」
声を出しても、誰も聞いていない。隣の声は聞こえるだろうかと耳を澄ませたけれど、特に聞こえることもなくて、ひとりで天井に登る湯気を眺める。
ここ、卓球場はなさそうだったな。だとしたら、ご飯だけ楽しみにしていればいいのかな。
そう思いながら、浴衣をどうにか着て、部屋へと戻る。浴衣がどんどん着崩れて、いまいち上手くいかない。
私が崩れた浴衣で歩いていたら、巽もまた着崩れた浴衣でえっちらほっちら歩いていた。
「あーっっ!!」
ふたりで顔を見合わせて笑う。
どうもふたり揃うと馬鹿みたいだ。
食事の時間になったら、奥さんが食事を運んできてくれた。
魚と山菜の天ぷら、山菜の入った味噌汁、なんかの漬物、ご飯。私たちがあまりにも着崩れているのを見かねて「ひとりずつね」と奥さんが着付け直してくれた。これで明日の朝までは持つだろう。
食事をふたりで食べる。
「山菜おいしい?」
「わからん。でも天ぷらは美味い」
「わかるー。特になんの変哲もないご飯のはずなのに、異様に美味いね、ここのご飯」
山菜がなにを使っているのか、山菜に詳しくない私たちではさっぱりだった。ただ出されたご飯が、家のお母さんのご飯より洗練されている気がして、どれもこれもおいしかったことだけはたしかだ。
食事を食べ終えたあと、ふたりで布団を敷いてもらっている間、少しだけ外を歩くことにした。
浴衣にスニーカー。結構面白い組み合わせだ。
「山のほうに来たら星見えるかなと思ったのに、さっぱり見えんな」
「わかるー。でも地元でも全然星見えないじゃん」
「月が明るいと星が見えないんだっけか。なら月が綺麗なんだったらいいんだっけか」
ふたりで適当なことを言って、空を仰ぐ。
山のほうのせいか、夜になったら湿気が少しだけ引っ込んで、寒々しくなる。どこかで虫の鳴き声が響き、地元だったら秋の虫の声だなとぼんやりと思った。
ふたりで空を見ながら、「あのさあ」とようやく巽が言った。
「マジで引っ越すの?」
そう聞かれてしまった。とうとう聞いてきたか。私は頷いた。
「引っ越すよ。だって高校ないじゃん」
「高校卒業しなくたって、どうせ畑継ぐんだったら関係ねえだろ?」
「男子はそうかもしれないけど、女子はそれだと困るの。だって地元、中卒で仕事ないじゃん。今だったら東京に行っても仕事ないかもよ」
地元の偉い人が、「少子化だから」という理由で、うちの地元の学校の閉校合併を進めてきて、とうとう畑の中にあるうちの地元にもその刃が牙を剥いたのだ。
結果として地元の高校は全滅。行くとなったら、歩いて通うだけでも時間のかかる鉄道に乗って、三時間近くかけて通わないといけない。まだ在校生もいるのに、いくらなんでも横暴過ぎると地元の偉い人たちが文句を言っても、それより偉い人は「私立に行ってはどうですか」と言って聞く耳を持たなかった。横暴過ぎる。
そのせいで、地元では高校資格を放棄するか、学校のある場所まで引っ越すかの二択が迫られてしまった。
両親が話し合った結果、「今の世の中、先が読めないから学校に行くべきだろう」と、親戚に頭を下げてお金を支払い、学校卒業するまでは私を泊めてくれることとなった次第だ。
今までずっと一緒にいた私と巽は、こうして離ればなれになることが決まったのである。
残るはずの巽が、珍しく唇を尖らせていた。普段はあまりにも達観し過ぎて、人生何周目だよとからかわれているのに。今日は本当に珍しいほどに年相応の男の子だった。
「やだよ。どっか行くなよ」
「私、高校卒業したいよ」
「俺が食わせるじゃん」
「巽にもたれかかっても、巽が倒れたとき、私は支えられないじゃん」
「倒れねえし」
「私よりよく風邪引くし、怪我するし、台風のときに畑の様子を見に行こうとして周りに全力で止められてるのに?」
そう言ったら、巽は気まずそうに顔を逸らした。
本当は離れたくないし、一緒にいたいし、ふたりで高校を卒業したかった。でも。
偉い人はそれを許してはくれなかったんだ。
「ならさあ。もういっそこのまま、本当に駆け落ちする? おじさんもおばさんも心配するけど、本当にする?」
私がそう言うと、途端に巽は泣きそうに顔を歪めた。
ふたりでよく好んで「駆け落ち」と使っているけれど、ふたりとも別にふたりっきりで生きていきたいなんて思ってない。
結局は田舎町に帰らないといけないってわかっているから、せめてできるだけ遠く離れて自分たちの町を見つめ直し、それから満足して戻るための儀式だ。町を捨て去りたいなんて、高校の存在すら許さない町であったとしても、思ってはいない。
結局は巽は私の手を取ると、そのままぐいぐい引っ張っていった。
「明日は海に行こう」
「海? 唐突。反対側じゃない」
「でも海見たい。潮風浴びて、水着の人見たい」
「日焼け止めあったかな」
私たちは、互いの言いたいことがなんとなくわかってしまうから、先回りして先回りして、決して言い出せないように務めることしかできなかった。
一緒に卒業したかった。一緒の時間をもっと過ごしたかった。でもそれができないんだったら。
今の時間をできる限り先延ばしにするしかないじゃないか。それがただの現実逃避であったとしても。
私たちは、駆け落ちすらできないちっぽけな存在で、それでもちょっとだけ悪ぶりたくって、精一杯背伸びして、「駆け落ち」なんて大人の言葉を使い続けている。
きっと「駆け落ち」を本当にしてしまうことなんて、できそうもないのに。
<了>
そんな中、私たちはリュックに一週間分の着替えとお年玉を入れて歩いていた。
「暑いねー」
「暑ー」
「アスファルトに今水をかけたら、お湯になるかなあ?」
「サウナの石に水かけたらどうなるか知ってっか? 死ぬぞ」
「マジかぁ……」
私と巽は、いつもの調子でそう言って歩いていた。
既に畑作業の時間も過ぎているせいで、人が皆家の中に引っ込んでしまって誰もいない。その中、私たちは必死に駅に向かって歩いていた。
アスファルトで舗装された道。脇には田畑が広がっていて、道は長い。この辺りは何度も何度も鉄道廃止の話が持ち上がっては「この辺りが陸の孤島になるのをやめろ」と町のお偉いさんが掛け合い、本当にギリギリのところで取り消されている。
私たちは、今日駆け落ちするのだ。親公認の。
私たちが出かけるとき、いつもそれぞれの親に言う。
「ちょっと駆け落ちしてくる」
「あらそう? いつ帰ってくるの?」
「夕方までには」
「行ってらっしゃい」
なんにもない町に住んでいて、それこそ当たり前のように大人になっても一緒にいるんだろうなと思っていたけど、どうも来年はそうではないと気付いたとき、巽が言い出したのだ。
「じゃあ駆け落ちすっか」
ふたりとも、ひどい町でもここを捨てる気はさらさらなくて。
「そうしよっか」
本当にならない駆け落ちを繰り返している。
****
ふたりで眺めているのは、学校帰りに買った旅行ガイド。
この辺りのスマホは不安定で、ネット検索は家でパソコンでしたほうがよっぽど確実だ。
「じゃあ今日は山の宿に行こう」
「夏休みだけど、人が混まないかな?」
「それは大丈夫だと思う。この辺り、車じゃ行けない。歩くか自転車借りるかしないと」
ふたりで出かけた宿は、雑誌に載っているそれはそれは小綺麗な場所ではなく、今にも潰れて幽霊でも出そうなボロ宿屋だった。
私たちふたりが「ふたりで二泊」と頼んだところ、宿屋の奥さんには困った顔をされてしまった。
「高校生?」
「あっ、はい。そうです」
「安くてももうちょっと綺麗な宿あるけど……」
「ここがいいです」
ふたりで宿を決めると、そのまま通された部屋で、テレビのチャンネルを点ける。
チャンネルは国営放送に、よくわからないローカルチャンネルがふたつだけ映った。地元とおんなじだと、ふたりで笑った。
「ここ、ぼろっぼろだけど、山菜料理は美味いんだってさ」
「山菜って苦くない?」
「ちゃんとあく抜きしたら苦くないんだってさ。あと採れ立て」
「朝に収穫するから、それ絶対に苦くないかなあ」
ふたりでゴロゴロする。本当に色気もなにもあったもんじゃない。
ふたりで駆け落ちするにしても、ここまで遠くに出かけたことは、実はそこまで多くない。もっとわくわくしたり、特別な日にしないといけないのに。
ただ私たちは、ふたりで長年つくってきた気怠いずっとそこで転がっていたい、毛羽だった畳のような、ボロボロなのに居心地のいい関係を壊したくなくて、そのまんまなにも言えないでいた。
浴場はふたりでそれぞれ浴衣を借りて入っていった。
宿の外見も部屋もボロボロだけれど、浴場は割と小綺麗で、おまけに誰もいないから広いお風呂をひとりじめだった。
「ふわぁ……」
声を出しても、誰も聞いていない。隣の声は聞こえるだろうかと耳を澄ませたけれど、特に聞こえることもなくて、ひとりで天井に登る湯気を眺める。
ここ、卓球場はなさそうだったな。だとしたら、ご飯だけ楽しみにしていればいいのかな。
そう思いながら、浴衣をどうにか着て、部屋へと戻る。浴衣がどんどん着崩れて、いまいち上手くいかない。
私が崩れた浴衣で歩いていたら、巽もまた着崩れた浴衣でえっちらほっちら歩いていた。
「あーっっ!!」
ふたりで顔を見合わせて笑う。
どうもふたり揃うと馬鹿みたいだ。
食事の時間になったら、奥さんが食事を運んできてくれた。
魚と山菜の天ぷら、山菜の入った味噌汁、なんかの漬物、ご飯。私たちがあまりにも着崩れているのを見かねて「ひとりずつね」と奥さんが着付け直してくれた。これで明日の朝までは持つだろう。
食事をふたりで食べる。
「山菜おいしい?」
「わからん。でも天ぷらは美味い」
「わかるー。特になんの変哲もないご飯のはずなのに、異様に美味いね、ここのご飯」
山菜がなにを使っているのか、山菜に詳しくない私たちではさっぱりだった。ただ出されたご飯が、家のお母さんのご飯より洗練されている気がして、どれもこれもおいしかったことだけはたしかだ。
食事を食べ終えたあと、ふたりで布団を敷いてもらっている間、少しだけ外を歩くことにした。
浴衣にスニーカー。結構面白い組み合わせだ。
「山のほうに来たら星見えるかなと思ったのに、さっぱり見えんな」
「わかるー。でも地元でも全然星見えないじゃん」
「月が明るいと星が見えないんだっけか。なら月が綺麗なんだったらいいんだっけか」
ふたりで適当なことを言って、空を仰ぐ。
山のほうのせいか、夜になったら湿気が少しだけ引っ込んで、寒々しくなる。どこかで虫の鳴き声が響き、地元だったら秋の虫の声だなとぼんやりと思った。
ふたりで空を見ながら、「あのさあ」とようやく巽が言った。
「マジで引っ越すの?」
そう聞かれてしまった。とうとう聞いてきたか。私は頷いた。
「引っ越すよ。だって高校ないじゃん」
「高校卒業しなくたって、どうせ畑継ぐんだったら関係ねえだろ?」
「男子はそうかもしれないけど、女子はそれだと困るの。だって地元、中卒で仕事ないじゃん。今だったら東京に行っても仕事ないかもよ」
地元の偉い人が、「少子化だから」という理由で、うちの地元の学校の閉校合併を進めてきて、とうとう畑の中にあるうちの地元にもその刃が牙を剥いたのだ。
結果として地元の高校は全滅。行くとなったら、歩いて通うだけでも時間のかかる鉄道に乗って、三時間近くかけて通わないといけない。まだ在校生もいるのに、いくらなんでも横暴過ぎると地元の偉い人たちが文句を言っても、それより偉い人は「私立に行ってはどうですか」と言って聞く耳を持たなかった。横暴過ぎる。
そのせいで、地元では高校資格を放棄するか、学校のある場所まで引っ越すかの二択が迫られてしまった。
両親が話し合った結果、「今の世の中、先が読めないから学校に行くべきだろう」と、親戚に頭を下げてお金を支払い、学校卒業するまでは私を泊めてくれることとなった次第だ。
今までずっと一緒にいた私と巽は、こうして離ればなれになることが決まったのである。
残るはずの巽が、珍しく唇を尖らせていた。普段はあまりにも達観し過ぎて、人生何周目だよとからかわれているのに。今日は本当に珍しいほどに年相応の男の子だった。
「やだよ。どっか行くなよ」
「私、高校卒業したいよ」
「俺が食わせるじゃん」
「巽にもたれかかっても、巽が倒れたとき、私は支えられないじゃん」
「倒れねえし」
「私よりよく風邪引くし、怪我するし、台風のときに畑の様子を見に行こうとして周りに全力で止められてるのに?」
そう言ったら、巽は気まずそうに顔を逸らした。
本当は離れたくないし、一緒にいたいし、ふたりで高校を卒業したかった。でも。
偉い人はそれを許してはくれなかったんだ。
「ならさあ。もういっそこのまま、本当に駆け落ちする? おじさんもおばさんも心配するけど、本当にする?」
私がそう言うと、途端に巽は泣きそうに顔を歪めた。
ふたりでよく好んで「駆け落ち」と使っているけれど、ふたりとも別にふたりっきりで生きていきたいなんて思ってない。
結局は田舎町に帰らないといけないってわかっているから、せめてできるだけ遠く離れて自分たちの町を見つめ直し、それから満足して戻るための儀式だ。町を捨て去りたいなんて、高校の存在すら許さない町であったとしても、思ってはいない。
結局は巽は私の手を取ると、そのままぐいぐい引っ張っていった。
「明日は海に行こう」
「海? 唐突。反対側じゃない」
「でも海見たい。潮風浴びて、水着の人見たい」
「日焼け止めあったかな」
私たちは、互いの言いたいことがなんとなくわかってしまうから、先回りして先回りして、決して言い出せないように務めることしかできなかった。
一緒に卒業したかった。一緒の時間をもっと過ごしたかった。でもそれができないんだったら。
今の時間をできる限り先延ばしにするしかないじゃないか。それがただの現実逃避であったとしても。
私たちは、駆け落ちすらできないちっぽけな存在で、それでもちょっとだけ悪ぶりたくって、精一杯背伸びして、「駆け落ち」なんて大人の言葉を使い続けている。
きっと「駆け落ち」を本当にしてしまうことなんて、できそうもないのに。
<了>