いつだって死にたいと思って生きている

 俺は、クラスの隣の席が面白い奴だと思った。自己紹介の時、自分の番に気づかず気づいたと思えば、段差に躓く。こんなやつ、見たことない。
 それから、俺は話しかけるタイミングを計っていた。だけど、中学の転校してきた同級生である早川に先を越された。この日は、話せないなと次の日を待った。
 休み時間、早川は廊下にいたのでこれはチャンスだと話かけた。
「あの、よろしくです」
 失敗した。名前を確認してからにしたらよかった。しかも、ちょっと頭を近づけて言うなんて馬鹿らしい。
「え、あ、よろしく」
 会話終了……にさせたくないので、無理やり話を続ける。
「隣なんでつい。えっと、深山だよね?」
「うん。深山海利。えっと、中野だよね?」
 同じように返してきた。しかも、ちょっと頭を近づけて、バカじゃん。てか、名前覚えてんのか。こいつ、やはり面白いんじゃなかろうか?
「中野俊也。これから、よろしく。俺、勉強できないから教えてもらうな」
「ぼ、僕もあんまりだけど。僕でよければ」
 意外と勉強できそうなイメージを持っていたから意外な言葉に驚く。
「そうだ、部活何に入るか決めてるか?」
「部活?」
「そうそう。入らなくてもいいらしいけど、俺は入ろうと思っててさ」
「僕は、入らないと思うな」
「ていうと、バイト?」
 この学校は、部活に入らない人もいる。強制ではないから入らない人も一定数いる。そして、その一定数は大抵学校側からバイトの許可を得ているのだ。
「……」
「あ」
「そうだよ。この学校、バイトありだから。少しでも貯めようと思って」
「へー、じゃ、今度遊ぼうよ」
「え?」
「カラオケなんてどう?」
「行ったことない」
「まじ?じゃ、海利の初めてもらうわ」
「初めてって。ちょっと、意味深だね」
「カラオケの密室空間であんなことやこんなことを?」
「遮音性も高いしね」
 意味深に意味深を重ねるタイプか。なかなか手ごわい。だがしかし、面白い。
 そんなことを思っていると、授業のチャイムが鳴ってしまった。
 入学式が終わって次の日からすぐ授業があるという不満をこぼせば、海利は優しく笑った。こいつ、やっぱり面白いなとその時思った。
 それからも、授業でわからないところは聞くなどしていた。勝手に、机をくっつけてここ教えてくれと言えば、すぐにわかりやすく教えてくれる。やっぱ、こいつは頭がいい。
 こことここの答えを送ってくれと言ってもそういう日は、返事がなかった。
「LINEって、普段見ない?」
 その日は、たまたま聞いてみたのだ。十時を過ぎると返信が一切来ないからつまらないのだ。
「フィルターってあるじゃん?それが、十時からなんだ」
「え?まじ?高校生でつけられんの?」
「え?逆に、高校生ってつけられないの?」
「ないない。そんなんないだろ。お前の親やばいだろ。彼女とも連絡とれんぞ」
「彼女いないからいいか」
「そうじゃなくて。え?彼女いないの?」
「いないよ。逆になんでいると思われてる?」
「……じゃあ、好きな人は?」
 ある程度、日数が経っていたから聞ける話だった。これを初日にかまさなくてよかったぜ。絶対、嫌われていたぜ。
「……」
「いるの!?」
「声、でかいって」
「いるのか?」
「いないけど、気になる程度?って言えばいいのかな」
「おー。協力するぞ」
「そういう俊也はいないのかよ」
 いつの間にか名前呼びだ。嬉しいぜ。こいつを名前呼びしていて正解だ。
「俺はいないぞ」
「はっきりというのか」
「いないんでな」
「なんだ。ってか、協力とかしなくていいし」
「おいおいおいー。誰が好きなんだ?もしかして、七海か?」
「…………え、いや、別に」
「え!?」
「違う!!うっるさい!」
「ほ、ホントに!?」
「だから、好きではないから」
「じゃ、カラオケに誘おうぜー」
「その話、続行だったのかよ」
「勝手に中止しないでもらいたいね」
「え、な、なんで、わかった?」
「海繋がり?海利の海と、七海の海。名前に海入ってんなあって」
「…………はぁ」
 相当ショックなのかため息をついている。面白いぞこいつ。
「アテンドしてやるべ。待ってろー」
「アテンドしなくていいし。次、移動だろ。行こう」
 ノリと勢いで誤魔化した。彼はショックを隠すことなく廊下を歩いた。同じ相手を好きになったのか。
 海利は、七海のこと好きなのか。なら、七海はどう思っているのだろうか。連絡もやりとりしているみたいだ。可能性はある。
 その日の夜、俺は、真っ白な頭で七海にLINEした。
『深山海利って知ってる?』
『知ってるよー』
『好きか?』
『なんで中野に言わなきゃいけないの』
『何となく。はよ』
『言わない』
『どっちかって言うと?』
『どっちって?』
『好きか嫌いか』
『どっちかなら好きな方かな』
 うぇーい。真っ白な頭が何かをいう。
『おけ、サンキュ』
『なんで?』
『?』
『それを聞く理由』
『何となく』
『誰にも言わないでよ?』
 うぇーい。これはもう確定だろう。ショックが大きい。
『カラオケアテンドしようか?』
『結構です!!』
『海利は行きたそうだったぞ?』
 既読がついてから間があった。
 うぇーい。
 これは、もうそういうことだろう。確定だ。
『あっそ』
 冷たい返しだ。
『海利、辛いだろうなあ』
 また既読から間があった。
『ふざけてるならやめて』
 うわ、激おこじゃん。怖いなあ。中学の時から怒らせるとこわいって噂あったしな。これ以上はやめておこうか。
 スタンプを送って会話を終了させた。
 それからも、海利と話す機会は続いた。席替えしても海利の前の席だったし、俺としても楽だった。
 六月に入ったころ、あるうわさが流れた。
「それ、ホント?」
 廊下で話している女子に声をかけた。同じクラスだしそれなりに会話もしているため入りやすかった。
「確証はないけど。でも、そういう人っぽくない?きもくない?中野も話すのやめた方がいいよ?」
 女子の言うそれには、話すなという警告があるように思えた。
「中野も狙われる可能性あるよ。今のうちに逃げた方がいいよ」
「……考えとく」
 海利は気づいていなかった。会話もするし、変に距離を置こうともしない。だから、もし結末を知っていたならここで聞くべきではなかったのかもしれない。いや、聞いていなくても変わらなかったのかもしれないけど。
「海利ってさ、男と付き合ってたってホントか?」
 人の少ない教室で聞いてみた。
 海利の反応は鈍かった。その顔がどんな表情をしているのか理解できなかった。思えば、入学式を終えて自己紹介を始めたときの海利の様子に近いものを感じた。
「ほんとだよ」
 その目には、俺が映っていないんじゃないかというほどの暗さがあった。
「ごめん、なんていうか、気になっちゃって。今は?前は、ああいってたけど」
「変わってないよ」
「そうなんだ。どっちもいけるってこと?」
「そう、だね」
 曖昧な反応には気づかないことにした。
「俺、男子を好きになるってないから気になってさ。どんな奴だったの?」
 精一杯、同性を好きになることを当たり前のように取り繕いながら。だって、今までの人生で同性で付き合っている人を見たことがないのだ。関わり方を知らない。手本がない。
「良い人だったよ。お互い、世間体を気にして消滅したようなものだけど」
「……世間体?」
「ああ。世間体。人の目を気にしたってこと」
「……」
「こんなこと聞いて、どうするつもりなの?」
「……え?」
「誰かに告げ口していじめの的にするとか?」
「そ、そんなわけないだろ!俺はそんなことしない!」
「だよね。俊也はそんなことする人じゃないよね」
 その言葉がのちに傷つくことなんて知らず、変わらない口調で話し続けた。
「当たり前だろ!そうだ、なんか買ってくるけど、欲しいのあるか?」
「え?」
「ま、まあ。お詫びとして?そんな風に思わせたことに対して謝罪的な。何がいい?」
「お金、使わせたくないんだけど」
「良いから、そんなことに気を使わなくて」
「じゃ、お茶が欲しい」
「麦茶?」
「おーい、お茶で」
 このユーモアに救われる。真顔でふざけてくれるのはありがたい。
「緑茶な。了解!」
 財布を持って廊下に出る。チラッと海利の方を見ても彼は何もなかったように弁当を食べ始めていた。待ってくれてもいいだろうに。
 その後ろで不思議そうに見ている早川と目が合ったが無視して自販機に向かった。
「あとは、お茶な」
 自販機から出てきたお茶を取り、歩を進めた。
「おい、中野」
 目の前で止まったのは藤川だった。クラスで授業をよく邪魔するやつだ。評判は良くないし、クラスメイトも嫌がってる。だけど、誰も咎めないのはそこに纏わってる人たちがそれなりに良いルックスや性格をしているからだと思う。それに、藤川は何かされたらどんな時でもやり返すそうだ。だから、みんな諦めているようなもの。なんでも結構悪辣ないじめをするらしい。
「なに?」
 あまり棘のないように聞く。
「深山海利が、ゲイだってほんとか?」
 それは、煽るようにふざけた面で聞いてくる。
「藤川には関係ないと思う」
 歩を進めて、藤川を通り過ぎる。
「おいおい!それはつまらないなあ。楽しいことしようぜ」
 俺の首に腕を絡めて顔を覗いてくる。
「深山は男と付き合っていた経験があったんだろ?」
 答えなければ首を締め上げる気だ。そう察したら、うんと頷くしかなかった。自己防衛に走ったのだ。
「へー。やっぱりねえ」
 首から手を離した藤川は俺の周りを歩き始める。
「なんで、藤川が知ってる?」
「知らないと思う?俺ねえ、楽しいことがしたい訳よ。クラスが盛り上がるような楽しいこと。それで、聞いて回っているうちにね面白い情報が入っちゃって」
「それが、深山の件」
「そういうこと。だけど、これ俺が調べたわけじゃないんだあ。太田が教えてくれたんだ。だから、恨むなら太田だな」
 なんで太田が?藤川の隣によくいる。何も害はないように見えたけれど、そういうわけではないのか。勘が良くてこちら側からしたら面倒な相手かもしれない。
「楽しいことって?」
「そりゃあ、お前も参加だぞ?参加型のエンタメだよ。テレビであるようなやつ。大丈夫大丈夫。死んだら終わりだから」
「お前」
 不謹慎がすぎるだろと苛立つ。
「安心しろ。学校だけなら人間は死なねえし」
 そんなのわからないだろ。
 お前の力量で人の精神面の浮き沈みが変わるとは思えない。
「なんでそんなこと」
「だから、楽しいことをしようって言ったばかりだろ?クラスだって的があれば楽しめるし団結できる、それは一年間の結束力につながるだろ~。ほら、今お前が買った自販機のドリンクだって的があるから選べるわけだ。多量の的があったら選べない。少量だからいいんだよ」
「だからって、深山を使うのは……」
 間違ってる。こんなことでいじめられるなんてありえない。こいつはいかれてんのか?
「それと、深山って今は女子が好きなんだろ?早川だろ?お前と早川って中学一緒だって聞いた?そんな早川が的になったらどうする?」
「それは……」
 少なくとも深山は悲しむんじゃないか?俺だってあいつが笑わない姿を見たくない。苦しそうにしている姿は見たくない。それ以上に、早川がいじめられるのはごめんだ。
「大丈夫!一発楽しむだけだから」
 それからというもの、藤川は早川のいないところで深山をいじるようになった。太田もその場にいて程よくいじるような感じ。だけれど決して、藤川のような言葉を太田が使うことはなかった。太田は、傷つけるようなことは言わなかった。
 しかし、海利の表情はわからなかった。こんな状況でも俺は海利とは友達だと思いたかったんだ。
 なのに、日に日に増していくいじりはいつしかいじめに変わった。
 そんなある日、俺は気がつけばいじめをする側になった。藤川の悪辣さがよく理解できた。
「おい、中野。お前、最近ちょっと楽しくないよな?ずっとそうやって座ってるだけだもんな。いいぜ、俺の代わりに楽しませてやるよ。これ持てよ」
 それは、どっから持ってきたのかわからないがダーツの矢だった。針はあえて短くしてあるようだったし完全に計算しつくしていた。いじめを隠蔽するための工作なんだ。
「こ、これ」
「大丈夫だろ。え、何できないの?あのさ、こうやってぶっ刺してもっ」
 勢い任せに藤川は海利の腕に刺した。血も出てきてしまっている。
「海利」
「…………大丈夫。どうせ治る。体の傷は」
「いや、でも」
「おい、お前つまんな。楽しくないわ」
 藤川は呆れたようにダーツの矢をしまった。
 その間もずっと血は流れたままだった。
「か、海利……」
「ま、刺されればこうなるよ」
 そんな海利の表情に戦慄したのを覚えてる。痛みも何とも思わないような、全てを諦めてしまっているような表情に俺はこの時何も言うことができなかった。
 それからも、いじめは続いた。太田はなぜだか怯えてしまっていて藤川の話を聞いていないときもしばしばあった。
 ダーツの矢を刺すときのようなことはなくても、それなりに身体的ないじめはあった。みんなが見て見ぬふりをして誰にも言わず、ただその地獄が終わるのを待っていた。早川が教室にこればすぐに引く。それまでの辛抱だとみんなが見なかったことにしていた。それはある種、俺に対する牽制でもあった。
 だが、そんなある日、藤川は早川の名を出してしまった。
「お前、早川のことどう思ってる?」
 藤川の問いに海利が答えないのは当たり前のことだった。今回も無言だった。
「ああ、イライラするな。楽しくないし」
 すると以前持ってきていたダーツの矢を出して、海利の腹に刺した。教卓近くでやっていた。俺はその状況を見てしまっていて、クラスの数人は軽い悲鳴を上げた。中には教室を出た者もいた。腹を抑えた海利に表情という表情はなかった。
「深山って早川のこと好きなんだろ?なら、早く伝えなきゃー」
 海利は反応しない。
「うえ、お前、まだ伝えてないのかよ。意気地なし。最悪だな」
「そんな深山に罰ゲームしたいと思いまーす!そーっれ!」
 どたんと机がぶつかる音がして、勢いよく引っ張られた海利はやられるだけやられてやがて床に座り込んでしまった。
「そろそろそういう態度もやめたほうがいいぞー。お前は、俺の下なんだからな」
「ちょっと!!」
 そこに来たのは早川だった。早川は、購買で買ったであろうパンを机に置いて鬼気迫る勢いで近づいていく。
「深山君に何してんの!そういうのよくないよ!」
「お!本人登場!おい、深山!さっさと言っちゃえよ!」
 だけど、藤川の態度は変わらない。
「お、おい。藤川」
 太田もそれ以外のやつらも止めたが藤川は聞く耳を持たない。
「ほら、立てよ。クラスのみんなで応援してんだからー」
「藤川!」
 早川は怒鳴った。怒らせたのだ。
 だけど、海利は何もなかったように、机にぶつかった衝撃で落ちた自分の弁当の食材を弁当に戻してから、教室を出て行った。
 早川は俺に何か言ったけどそれすらも聞けないくらい俺は悔いていた。
 その日の午後の授業も部活も集中できなかった。
 もしも、俺があの時、自販機の前でうまくごまかせていたら、そんなことを考えては悔やんだ。夜もろくに眠れなかった。俺のせいだ。そんなことを四六時中考えた。
 それでも、海利は学校に来た。昼休みはすぐにどこかへ行ってしまうけれどそれでいいと思った。教室には藤川も太田もいるし、海利に害をなすものはどこにもいないんだ。それでいいじゃないか。
 そんな生活が続いて夏休みに入り、カラオケにも誘えるわけもなくて。
 そんな中、友達と花火祭りに行こうという話になった。
 花火祭りは毎年一回行われてこの地区なら当たり前のように開催される。
 海利も誘おうか迷ったけどやめた。誘う権利俺にはどこにもなかった。
 気が乗らないまま花火祭りを見に行った。
 きれいだった。本来、藤川のようなやつがいなければ海利も普通に楽しめていたのではないだろうか、なんだかそれが眩しかった。
 あいつにも教室で見せてやろうと花火を写真に収める。できるだけスムーズに。自然に。海利が悲しまないように。
 それを、何度も頭の中でシミュレーションした。何度も何度も。
 二学期の始業式。全校生徒が集まる中、俺たちのクラスは体育館に集まらなかった。俺たちのクラスだけ残された。
 教室にはまだ二人生徒が来ていない。海利と早川だ。
 藤川は変わらずふざけてばっかだ。あの二人、夜ヤッたまま朝もしたんじゃね?などと大きな声で発していた。誰も、反応しなかった。
 それはそうだ。一クラスだけ残され、他は体育館だ。こんな異常な事態にふざけられるわけがない。
 少しして、担任と副担任が入って来た。
「先生ー、なんで俺たちは体育館行かないんですかー?」
 藤川はふざけた口調で先生に質問する。
「ちょっと、黙ってろ」
 先生の今まで聞いたことのないような低い声で制されてクラスが無音になったような気がした。
 それから、学年主任と校長が教室に入って来た。
「お前らに報告だ。それも残念な話だ」
 前置きに言った言葉にしては重すぎる空気を持っていた。嫌な予感がした。今にも吐きそうな気分だった。
「八月三十一日。深山海利が自殺を図った。病院で一命をとりとめたらしいが、意識は戻ってない」
 ……は?頭に入ってこなかった。先生がなんて言ったのか。そんなバカな話が……。
 自殺、一命、意識、戻らない?
 気づけば、俺は教室から飛び出してトイレで吐き出していた。今日、呑気に食っていた朝食を全部吐き出した。
 全部理解したんだ。海利が、自殺した。その衝撃だけでも苦しいというのに、それを止めることができなかった俺も悪人だった。
 全く、面白くない。面白くなさ過ぎて逆に笑えてしまう。
 俺は、人殺しに加担したようなものだった。
 その日、警察が来た。クラスから学年から事情聴取をするためだ。
 だけど、俺は警察からの事情聴取にうまく答えることができなかった。
 楽しくない。何をやっても興奮しない。小学校も中学校もどこにいても誰といても楽しいと思うことはなかった。
 それは、なぜなのか考えては夜は眠れない。昼間に眠くなって授業中に寝ることもあった。
 小学生の時は、昼休みを学級で遊ぶこともあった。体を動かすのは好きだから特に嫌なことはなかった。だけど、楽しくない。
 小学校高学年になりクラスからハブられるようになった。なんでも、俺はみんなと感覚が違うらしく、俺のやってることに不満を持つものもいた。意味が分からない。俺は、楽しもうとしているのだ。お前らも、楽しめるはずだ。人なんてみんな感覚は一緒だ。
 それでハブられたから今度はそいつらを省くように仕向けた。すると、今まで弱者でいたやつらは強者であった人たちへ報復を始める。その滑稽な様を見ているのは楽しかった。これだと思った。立場なんてものはすぐに逆転する。
 だから、俺は、気に食わないやつをつぶすために、弱者の導火線に火をつけて気に食わないやつに攻撃するように仕向けた。その時も、これだと思った。
 これが俺は楽しいと思うのだ。これが俺の楽しみの一つだ。
 それからは、弱者を唆して気に食わないやつに攻撃させる。そして、今度はその弱者を別のやつにつぶさせる。そうやって、遊ぶようになった。
 俺が誰かに声をかければ返事を返す。それが、当たり前のように行われるようになった。それが、本来は当たり前なんだと思った。ハブられることはなくなっていた。
 俺は、クラスを盛り上げようとしている。クラスはそれを良しとしている。だって、クラスは俺のやっていることに何も言わないのだから。なら、見てるだけのやつらはそのまま傍観者であり肯定し続ければいい。
 やりたいことをやる。自分が楽しいと思ったことをやる。
 休みの日に遊びに誘う。当然、誘えば呼んだ奴らはみんな来る。来なかったら、次の日からそいつを的にする。たまに、誘ってもないけど弱者を攻撃させることもまあ、あった。ようは、気分だ。
 だが、それも長くは続かない。
 ある日、俺は中学の教師に呼び出された。一年生の三学期だ。俺は、遊ぶことが楽しくなりテストはほぼやってないに等しかった。その時は、まだ塾には通わされてなかったし部活があるからと言い訳をしていた。部活中に遊ぶこともある。弱者でも強者をつぶすことはできる。弱者なんてその気になれば、死ぬことも殺すこともできる。どこかで聞いたことがある。日本人はその気になると死ぬと。俺は、もったいないと思った。自分の命ではなく他者の命を葬ればいいのにと。殺してしまえばいいのにと。
「聞いてますか?藤川さん?」
 クラスの担任は、怒った顔で俺を睨んでた。全く話を聞いてなかった。
「何スカ?」
 俺は、先生に対して何かした覚えはないし、クラスとはうまくやってる。
 なぜなら、クラスは誰かが遊ばれているとそこに集中するんだ。僕はああはなりたくない、私はこうなりたくない、そんな思いが募ってそいつを的にし続ける。誰が何と言わなくても団結力が生まれるのだ。
「あなたがいじめていると生徒から報告がありました。本当なんですか?」
 いじめ?この先生はバカなんだろうか。俺は、何もしていない。いや、してないわけじゃない。遊んでいるのだ。俺になにか危害を加えたものに対して、わざわざ遊んでやってんだ。それをいじめ呼ばわりなどされる筋合いはない。むしろ、そう思われることに苛立ちを隠せない。先に危害を加えたのは相手側だ。ならば、相手側がいじめの発起人ではないのか。
 しかし、相手は先生だ。親にバレて説教されるのは俺のプライドが許さない。好きな親に迷惑をかけるわけにはいかない。
「わかりません」
 俺は、出来るだけ下からすまなそうに言った。
「わかりませんって、藤川さんがいじめていると生徒から話があったんです。あなたがクラスをいじめる方向にもっていっていると」
 俺の行為がいじめ扱い?そんなわけがないだろう。だったらなんで、俺がハブられたのはいじめにならないのだ。これはただの時間つぶしの遊びだ。
「……すみません」
「それを聞いているんじゃなくて」
「すみません!俺、正直、分かってなくて。いじめなんて抽象的な言葉で言われても分からなくて。でも、そんな風に思われてるなら謝りたいです。だから、先生。その人の名前、教えてもらえませんか?」
「……本当に?」
 ちょろい。この女教師はやっぱちょろい。騙すのは楽だ。息を吐くようについた嘘で騙されるんだ。いや、息を吐くような嘘だから騙されたのか。なんて、心の中で嘲笑してしまう。
「はい。だから、その人の名前、教えてもらえませんか?俺は、そんなつもりなかった。だけど、そう思われてるのもそう思わせたのもきっと俺です。ダメですか?」
 中学生らしく泣きそうな顔で先生を見やる。
「わかった」
 先生は、俺にそいつの名を教えてくれた。デブの女子だ。
 バカだなと思う。そんなことしたら俺がどうするかわかるだろうに。
 だから、俺はそいつにしっかりと謝罪した。クラスの前で、みんなが見ている中、丁寧に、すまなそうに。
 それからは、ちょくちょく話しかけるようにした。
 授業で、分からなそうにしていたところは積極的に教えた。クラスの和にも入ることができた。もともと、誰かが始めたことだけど、俺はそれに火をつけただけ。すると、勝手にメラメラと燃えた。だけど、俺は、先生に疑われてしまった。だから、謝った。それだけのことだ。
「なんで、私と仲良くするの?」
 俺を疑っているんだろう。もちろん、俺はそう思われていることに抵抗もないし、むしろ当たり前だとさえ思った。
「やっぱ、おかしいよな。俺もそう思う。だけど、やっぱり俺は償いたくて。俺は、お前のこと傷つけたし、お前の傷が癒えるのかって言われたら俺は何も言えない。だけど、せめて形だけの謝罪じゃなくて、形式的なものじゃなくて、こうやって和解することがベストだと思うんだ。別に、俺と友達になる必要はないから」
「そうなんだ。なんか、意外だね。私、藤川のことあまり良いイメージなかったから」
「おい!心外だなあ!俺だって、間違ってるって思ったらちゃんと謝るからな!」
 そう言って、お互い笑いあったが、そこに楽しさがあるかと言われたら皆無。
 それから、クラスにも馴染んだそいつは笑顔を見せるようになった。ここまで俺は頑張ってこれた。このために、頑張ったんだ。先生から孤立しているように見せないために。生徒も考え方を変え始めるころを待ってたんだ。
 俺は、その次の朝、一番に学校に行って教室に入る。中学校の教室は鍵をかけないからいつでもだれでも入れる。
 油性のペンでほかのやつの筆記を真似て書きなぐる。バカだのブスだのきもいだのありきたりの言葉をありったけ。そして、俺は、部活の朝練に参加した。これで、俺はアリバイがある状態だ。
 朝練から帰って教室に戻るとまだ先生はいない。だが、クラスは騒ぎになっている。
「おい、大丈夫か?誰だよこんなことしたやつ」
 俺は、すぐに雑巾を水で濡らし、机を拭く。だが、油性のためになかなか取れない。
 何とか取れたときに、先生が来て、朝の会が始まった。
 そして、授業中。犯人探しを始めた。
「誰だと思う?俺、あいつが怪しいと思う」「そもそも、今日、誰が一番に学校に来た?」「あいつ、やっぱ誰かに恨みもたれてんじゃね?」「え、じゃあ、誰?」「わからん」「でも、見つけ出したいよな」
 しかし、その犯人は出てこない。それ当然だ。誰でもないのだから。俺がやったのだから。
 その次の次の授業でそれとなく導火線をつないだ。
「ここまでして、誰も犯人として浮かばないってどうなんだ?」
「それって、この中じゃないってこと?」「じゃあ、ほかのクラス?」「いやいや、ほかの教室まできてこんなことするかね?」「しないか」

「え、まさか、自作自演?」

 はまった。誰かがそういったことでそいつはまた信頼が地の底に尽きた。可愛そうに。俺を先生に言うからこうなる。ちょっと調子がいいからってふざけた言葉を俺に浴びせるからいけないんだよ。気に食わん。お前みたいなブスでデブな女になんで俺が仲良くしなきゃいけない?謝る意味もないだろ?ブスはせいぜい豚箱と同じ場所にでも行って出荷されるのを待てばいいものを。
 俺を怒らせるとこうなることはもうわかったろう?だから、こうなってしまうんだよ。女子だから手加減はしたし、体は傷つかないんだし、問題ないだろう。勝手に、精神崩壊して死んでくれたら、面白いのになぁ。
 だけど、何日たってもそいつは学校に通った。クラスのやつは徐々に省くようになったというのに学校に通い続けた。
 俺は、もう一手打つことにした。それは、部活での居場所をなくすことだ。運がいいことに、このクラスにはそいつと同じ部活の男子がいる。演劇部だ。中学で演劇は聞いたことないし、大会もないだろうけど文化祭とかではそれなりに評価のある部活らしい。まあ、どうでもいいが、それとなく男子に伝えておく。気を付けた方がいいぞというくらいのニュアンスで。ほぼ脅しだけど。
 そして、ついに俺の望みが叶った。そいつは、学校に来なくなった。完全に不登校らしい。学校での唯一の居場所だったであろう部活も居場所がない。これで、あいつが死んでくれれば俺は最高に楽しい瞬間に出会えるんじゃないか?そしたら、俺はやっとこの楽しいという感情を心の底から味わうことができるのではないか?
 そいつが不登校になった時、俺らは二年生になっていた。
 しかし、楽しい瞬間は訪れなかった。そいつは、一年の不登校期間を経て、二年生の三学期に引っ越した。
 心底、つまらないと思った。理由は、どうでもいい。親が県外だか市外に出張になったとかどうとかと言っていたような気がする。ほんとかどうかは知らん。いつ引っ越したのかも正直知らん。
 一年時のクラスのやつらは、先生に話を聞かれたらしい。俺も聞かれた。俺は、『助けになってやればよかった。あの日、後悔したんだ。だから、せめてもの償いとしてクラスの和に入れるようにしようって思った。なのに、気が付けば……』嗚咽をこぼしながら先生に伝えた。ほかの人たちは『あいつの机に殴り書きでひどいこと書かれてあって、藤川が怒ったように消し始めた。だけど、結局、誰が書いたかもわからないし、本人の自作自演なんじゃないかって』と、先生には言ったらしい。
 つまり、そいつは親の県外出張を理由に引っ越したけど、先生はいじめと踏んでいたわけだ。
 だが、そいつはもういないし、どうしようもない。解決しようもんもない。
 三年生の時は、気分が乗らず何もしなかった。塾にも行かされてたし、受験もあってぶっちゃけそれどころじゃなかった。
 そして、高校に入学。そこで、そいつの面影を感じるやつを見つけた。早川という女子だ。今年は楽しめそうだと興奮した。
 だが、自己紹介で、教卓に上がる段差でつまずいたやつがいた。こいつと話してみたいと思った。自己紹介は、爽やかに決して笑顔ではないが愛嬌みたいなものを感じた。こいつがいい。こいつを的にしよう。
 しかし、話すタイミングもなければ、それよりも面影を感じるやつへと視線が行く。早川、妙に気を引く相手だ。
 中学の時のやつに比べて、顔も良いし、スタイルもよさそうだ。中学のやつの顔を覚えているわけじゃないから何とも言えないが。
 早速早川に声をかけようかと思えば、段差で躓いた深山の方へと向かい、会話を始めてしまった。
 また、今度話しかけようかと思いなおした。
 その日の放課後、俺は自販機でパンを買った。親も入学式ということで来ていたから、親用にも買う。俺は、親孝行をしているのだ。なぜって?それは、生んでくれたからに決まっているだろう。俺は、人生に対してつまらない、退屈だとは思うが、親を憎むわけでも恨むわけでもなかった。楽しみが見つかった今、親には感謝していた。
 みんなしていう。なんで、生きるのか、なんのために生まれたのか。そんなの決まっている。楽しむためだ。無能だとか言われてもいい。俺は、これで楽しいんで生きている。それに対して異論も反論も認めない。
 自分用のパンを二つ、親用のパンを二つ。手に持ちながら歩いていると、男にぶつかった。
「うわっ」
「ごめん!大丈夫?」
 そいつは、同じクラスの太田だった。
「おお、大丈夫。確か、同じクラスよな?」
「そうそう、藤川だよね?呼び捨てでいい?」
「当たり前だろ。俺も、太田って呼ぶ」
「覚えてくれてたんだ。よかった。そうだ、LINEでも交換しない?俺、もっと話してみたいし」
「おっけー。俺も話しかけようって思ってたんだよ。陸上部はいるんだろ?短距離?」
 自己紹介で陸上に入ると言っていた言葉を思い出したので、言ってみた。
「いや、長距離。俺、短距離苦手でさ」
 そういいながら、慣れた手つきでスマホを操作する。
「サンキュー」
「藤川は?何部に入るの?」
「俺?サッカーかな」
「得意なの?」
「まあね」
「そこで謙遜しない人初めてだ」
「そういう、太田は?」
「得意だよ」
「太田もじゃねえか!」
 今日の目的は達成できなかったが、太田と仲良くなったのが十分だった。
 中学三年生の時に、少しでもいいから周りに合わせることを勉強した俺は今のままクラスになじめそうな予感がした。
 だけど、それを壊されたのは月が替わるころだった。
 月が替わるころ、太田が深山に話しかけたのだ。
 俺は、まだ深山にも早川にも話しかけることができず、近くのやつらと話すことばかりだった。なのに、あいつは深山に話しかけた。それは、いい。そんなの人の自由だし、俺がとやかく言うつもりは一切ない。あいつは、暗いのだからそういう人たちといろなんて命令するつもりなどない。
 問題は、話した内容だった。
 その内容を聞いたとき、俺の中の何かが笑ったような気がした。
 深山ってそういうやつなんだと心のどっかで笑っていた。太田がいつどこで知ったのか、なんで気づいたのかなんて知らない。だけど、深山がそういうやつで心底ほっとしたのは事実だ。
 あのキャラのままいられたら、間違いなくクラスでもいいキャラとして出来上がっていただろう。クラスからも信頼されて笑顔が一切ないくせに不自然じゃないように見せる達人だ。気持ち悪いが、その事実のを知った時の方が気持ち悪さがあった。
 俺は、それ以降、深山に対する考え方を改めた。深山はそういうやつで男ともそういうことをする、キスでもなんでもする。同姓なのにそういう目で見ている。気持ち悪いことこの上ない。これは、俺の価値観の話だ。今の時代、どう思おうがどうだっていいが、俺自身がきもいと思えばきもい。誰かに言うわけじゃないし、どう思おうが勝手だ。それをとやかく言われる筋合いはない。
 だけど、受け入れている世間の中でこういう小さな箱の中ではいつだってそれをよく思わないやつもいる。小学生の時は、先生だって同性を好きになることをタブーとして笑いの一つとしてそいつを立てた。大人のやっていることを子供がまねして何がいけないというのか。これを言うと、そういうのは自分で判断できるでしょうと第三者の大人たちは口をそろえる。きもいのは大人も一緒だ。群衆に合わせて言葉を変えて、それが自分の意見ですと主張する。そんな奴らの言い分など聞くに堪えない。
 実際、俺は深山がきもいと思った。それは、俺の意見であり自分が考えた末に出た結論だ。中学生で彼氏を作って学校ではどう思われたのか。きっと、俺の学校にいたのならのけ者だったはずだ。深山の学校はそうじゃないのか?確か、深山の学校から来たやつの一人がとてつもない人気を持っているらしい。どうでもいい。教室が違えば、会話すらしない。そいつが何を言おうが、この教室はこの教室の秩序がそろそろ形成されるはずだ。畑には畑のルールがある。郷に入れば郷に従え、だ。
 だが、未だ形成されず。俺は言語化できないモヤモヤを抱えていた。
 少し経った頃、気づいた。俺のこのモヤモヤは一年抱えていたんじゃないかと。塾や受験勉強で忙しかったから頭になかったんだ。一度思い出すと、忘れられなくなってしまう。思い出してしまった。俺は、誰かと楽しみたい。そうじゃないか。楽しむために生まれてきたんだから。だから、親に感謝しているんだ。この気持ちを忘れてはいけない。忘れてはだめだ。
 同時、俺は深山が少なからずクラスメイトから引かれていたことを知った。早川と仲のいい女子がその一人だ。そういう人とは話さない方がいいと早川が深山と話す機会をつぶすようにしていた。ほかの人もそうだ。裏でこそこそ言っているのを見た。俺の意見だけじゃない。
 これは、いい。突発的に思った。クラスの団結にもつながるのだ。深山はその土台だ。今後、体育祭とかあるのだから、良いように使おう。それが、俺たちのためだ。このまま省く流れが出来上がれば、俺の遊びは楽しいものへと変化するのではないか。中学時代にできなかったものが、今年、出来るのだ。きっと、楽しい。その快感はきっと楽しいものだ。
 そう思うと、俺は動き始めていた。クラスのグループLINEと別で、裏グループを作り、仲のいい奴らを集めた。最初は、他愛のない話を。そして、裏グルにいない生徒の不満をそれとなく引き出す。二、三人言ってしまえばあとはみんな言う。そういうやつらなのだ、人っていうのは。
『深山のことみんなどう思う?』
 そんな話を誰かが始めた。俺はすかさず、返信した。
『噂は聞くよな』
 それに続いたやつらが、『正直、きもい』『ああいうやつに限って変な性癖持ってそう』『わかるわあ』『感じいいやつって大体そう』偏見だったり、暴言だったりをここぞとばかりに送ってくる。このクラスで、深山がゲイ説は知れ渡っていたのだ。
 それから、軽くいじってみることにした。
「お前、男子とキスしてどうだった?」
 俺とほかの友達でふざけながら聞いた。返事はなかった。
「ま、いいや。また、聞くな。今すぐには答えられないよなあ」
 うっざ。内心、苛立ちを募らせていた。なぜこうも表情が見えないのか。なぜこうも俺と楽しもうとは思わないのか。
 それから、徐々に俺はエスカレートさせた。
「お前確か、早川のこと好きなんだろ?」
 それにさえ、返事はなかった。目を合わせることもなかった。
「はぁ、ダル」
 俺は、深山の床に置いてあったカバンを蹴った。
「DO YOU KNOW JAPANESE?」
 英語で自分が知ってる単語で聞いてやる。深山は、カバンを取りに戻り、席に座った。
「YES,BUT YOU NEED NOT TO KNOW」
「あ?」
 こいつ、早すぎてわからん。そういや、こいつそれなりに勉強できるって噂だろ。
「今、なんつった?」
 俺の声をガン無視して教室を出て行った。
「あいつ、無視、決定!いいな、みんな!」
 俺を怒らせるとどうなるか思い知らせてやる。
 友達は皆、賛同していた。この時、気づいていればよかったのだ。裏グルにもこの会話にも太田は全く参加していなかったことに。
 早く気付いていれば、俺は確実に深山にオーバーキルを与えていたはずなのに。
 俺は、あいつの態度にイライラを募らせてばかりだった。今まで見たことがないくらいの飄々とした態度。気持ち悪いくらいに爽やかな雰囲気を持ちながら笑顔はない。俺が、何をしても表情に変化がない。
 ならいっそ、傷を入れてしまおう。中学時代のようなものじゃなく、物理的な痛みになら顔を歪めるくらいはするはずだ。
 そう思って、ダーツの矢を出血の少ない程度に針を短くして、自分で実験して、良い感じの長さにする。これくらいなら、ちょっと刺さったくらいのはずだ。少し長めのものも予備で持っておこう。それも、実験しておく。やっぱ、もってくだけ持ってって脅すだけにしよう。ポケットで入れ替えて刺せば、深山も騙せるはず。そもそも、ただ表情の変化を見たいだけだ。あの顔に汚れをつけさせるだけでいい。その手始めがこれだ。いきなり、大きなもので攻撃したりはしないさ。
 そういえば、前に中野に聞いたことがあった。ゲイが事実なのかどうか。だけど、あいつは濁した。そうだ、あいつに楽しませてやろう。
 昼休み、中野にやらせてみるか。
 だが、中野はやらなかった。代わりに、俺が刺した。ちゃんと短い方で。血は出たけど、跡が残るようなものじゃないはず。
 これで、ほかの表情を拝ませてもらおうか。俺は、それが楽しみでしょうがない。
 だけど……。深山は、痛そうな顔一つ見せなかった。痛くて泣きそうになることも。笑ってごまかすことも。
「……大丈夫。どうせ治る。体の傷は」
 ただ、そういうだけだった。そして……。
「ま、刺されればこうなるよ」
 血が流れているというのにうんともすんともしない表情。何を考えているのかさっぱりだった。頭がいかれてんのか?精神的にも追い詰められないのか?こんな傷、残ったら怒れないか?
 なのに、何食わぬ顔して教室を出て行った。
 だから、今度は、早川が戻ってきそうなタイミングで俺は深山に話しかけた。流石に、こんな有様なら表情の一つ変えるだろうと。
「お前、早川のことどう思ってる?」
 俺の問いに海利が答えないのはもはや当たり前のことだった。今回も話さない。
「ああ、イライラするな。楽しくないし」
 すると以前持ってきていたダーツの矢を出して、教卓の近くまで引っ張り海利の腹に刺した。クラスの数人は軽い悲鳴を上げた。中には教室を出た者も視界の端で見えた。腹を抑えた深山に表情という表情はなかった。
「深山って早川のこと好きなんだろ?なら、早く伝えなきゃー」
 深山は反応しない。何かが違う。まさか俺……。
 友達は俺が発言する前に暴言を垂れた。
「うえ、お前、まだ伝えてないのかよ。意気地なし。最悪だな」
 その勢いに調子づいた俺は胸ぐらを掴んで、机にぶつける。
「そんな深山に罰ゲームしたいと思いまーす!そーっれ!」
 どたんと机がぶつかる音がして、深山はやられるだけやられて床に座り込んだ。
「そろそろそういう態度もやめたほうがいいぞー。お前は、俺の下なんだからな」
 せめて、無表情を止めろ。俺はお前を刺したんだぞ?
「ちょっと!!」
 そこに来たのは早川だった。早川は、購買で買ったであろうパンを机に置いて鬼気迫る勢いで近づいていく。微妙にタイミングが悪い。まあいいや。
「深山君に何してんの!そういうのよくないよ!」
「お!本人登場!おい、深山!さっさと言っちゃえよ!」
「お、おい。藤川」
 太田が、俺に何かを言おうとするが関係なく続ける。
「ほら、立てよ。クラスのみんなで応援してんだからー」
「藤川!」
 早川は怒鳴った。怒らせたのだ。最高にいい顔をしていると思った。
 だけど、深山は俺から離れて、何もなかったように机にぶつかった衝撃で落ちた自分の弁当の食材を弁当に戻してから、教室を出て行った。
 ふざけんなよ。せめて、痛みに歪んだ顔を見せてくれればいいものを。
 その日の夜、制服のポケットにあるダーツの矢を自分の机に置くと、自分に対する怒りで震えた。
 ダーツの矢で刺したのは、短いもの。制服くらいなら貫通しても肌にはほぼ影響のないものを選んでいたはずだった。なのに、そこに置いてあるのは長い矢の方に血がついていた。
 気を失うかと思った。誤算だった。
 なのに、なぜあいつはあれだけ表情を変えることがなかったのか。あんなの痛いに決まってる。
 俺は、その日以降、深山に暴力はやめた。そもそも、俺の性分に合わない。俺は中学時代まで楽しむと言えば言葉だった。力を使って攻撃なんてしていない。引っ越したあいつにだって力は使わなかった。言葉だけだった。
 深山もそれで行ける。そのはずだ。いつの間にか、道を逸れていたんだ。ここで軌道修正で来てよかった。深山とはもっと楽しみたい。まだ、楽しいことは一つもできていないじゃないか。ここでくたばってもらっては困る。
 だけど、その日以降、深山は4限が終わるとすぐに教室を出て行ってしまう。それが、終業式まで続いた。
 最悪だった。楽しいことはない。少しくらい遊べたんじゃないかと思っても表情が変わらないから何も成しえた気がしたない。
 ならば、二学期だ。二学期に入ればもっと楽しめる。一学期とは一風変わった遊びでもしようじゃないか。
 二学期始業式。俺たちのクラスは残された。ふざけたこと言えば、近くにいたやつらは笑った。まだ、俺に笑いのセンスはあるようだ。
 担任、副担任、学年主任、校長。俺は、そのメンツを見て、ただ事じゃないと察した。なぜなら、深山も早川もいないのだ。
「八月三十一日。深山海利が自殺を図った。病院で一命をとりとめたらしいが、意識は戻ってない」
 担任の話に俺は、少し興奮した。俺から盛り上げる前に、深山が先に盛り上げてくれたのだ。エンターテイナーじゃないか。一命をとりとめたのなら、またクラスに来るはずだ。その時は、大歓迎してやろう。
 ……楽しい。これからが楽しみじゃないか!
 ただ、中野は違った。吐きそうな顔して教室を飛び出したのだ。
「お前らには、このあと警察からの事情聴取に参加してもらう。本来、学校で方針を固めるんだが、自殺未遂だ。それに、色々話は聞いている。警察に協力してもらうことにした。最悪、この中で逮捕者が出るかもな」
 担任はそう脅すと、校長にバトンを渡した。
 校長が話し終わるころ、警察が来て、近くの席の人から、前の席が中野で今はおらず、その後ろが深山なので深山の後ろの人からすぐに事情聴取が始まった。学校のどこかを使うみたいで個室が2部屋あって二人づつの流れになった。だけど、俺たちは教室にいることができず、裏で動かれないようにと教室では警察が二人、担任、副担任、学年主任が見張っていた。
 俺の出番になった。事情聴取の席は、生徒指導室だった。初めて行く場所だ、と呑気に考えていた。
 生徒指導室に入ると、まるで雰囲気が違った。警察二人の目つき。俺はその時、初めて楽しいことが始まると思った。
 俺は、兄貴と仲が良かった。兄貴は、いつも俺に勉強を教えてくれた。小学校の時の夏休みの宿題も姉さんは大学生で一人暮らし、ほとんど家にいないことが多いく、たまに帰ってくるけれどそんなに話さない。父さんはあまり関わりたいと思わない。母さんも正直、面倒なところがあるから話したくない。だから、必然的に兄貴に教えてもらっていた。兄貴は、教えるのが上手だった。俺のわからないところをピンポイントで理解してくれて、教えてくれる。だから、俺は兄貴を尊敬してたし、好きだった。俺と遊ぼうと言えば、遊んでくれるし、ゲームもしてくれる。大親友なんじゃないかってくらいいつも一緒にいた。家族だし当然だと思うけど、うちは姉さんがいないことがほとんどだし、夕方に帰ってきても、わけのわからないノリで兄貴も俺も困らせる。面倒だし、俺はできるだけ避けるような生活をしていた。
 だけど、いつからか兄貴は勉強を教えてくれなくなった。はっきりしているのは、中学生に入ったころ。兄貴は、父さんに逆らうことなく運動部に入った。元々は、文化部に入ると言っていたのに。運動部に入って明らかに俺といることも家にいることも減った。俺に勉強を教えるなんてないに等しかった。部活がなくても、疲れとかもあると思って俺は、話しかけたりするのはやめた。まだ、小学六年生のころだし、部活がどういったものかもわかってない。だけど、疲れている姿は目で見てもわかった。
 そうやって、少し距離を取っていたのに、部活のない休みの日、俺よりも早く起きていたことがあった。驚いた。いつも部活がない日は俺よりも起きるのが遅いし、昼近くに起きることも普通だった。しかし、今は違う。なぜ、こんなにも早く起きているのか。誰も起きないような時間に俺は起きてる。休みの日だし、十時くらいに両親は起きる。なのに、なんで朝の七時に起きて朝食を食べているのか。不思議でしょうがなかった。疲れは?睡眠は?そんな疑問も浮かんだ。
「あ、おはよ。休みなのに朝早いんだね」
「……お、おはよ。え、兄貴って今日、部活?なんでこんな早いの?」
「…………まあ」
 曖昧な反応だった。
「斗真、何を言ってる。本来、斗真も海利もこの時間に起きるものだろう。生活リズムが変わるのは良いことじゃない。なのに、海利ときたらいつまでも部活がないからと言い訳して昼近くまで寝ているだろう。だから、今回は起こしたんだ」
 父さんが、キッチンから出てきた。
 嫌な想像が安易にできた。想像したくなくても想像できてしまう。こんな残酷なことがあるだろうか。
「斗真だっていつもこの時間に起きるのは生活習慣を乱さないためだろ」
「……」
 言い返せなかった。もともと、俺は父さんに怒られたくないという理由。小学生である以上、部活がないから早く起きても体力的な問題はない。だけど、兄貴は違う。部活もあるし、授業もある。テストで結果出さなければ父さんに怒られる。寝ても疲れが取れないことだってあるのに。
 父さんは、海利を起こしたんだ。生活リズムが、とか言って人の気も知らないで。俺が兄貴の気持ちをわかるわけじゃない。だけど、こんなの怒りを覚えないはずがない。
「海利は、起きなかった。休みの日だからと無駄に睡眠をとるなら起こしてあげるのが親の務めだ。斗真もこんな人間になってはいけない。良いね?」
「……」
「良いですね?」
「……はい」
 俺は、しぶしぶ返事をした。答えたおかげかキッチンに戻っていった。
 その間、兄貴が言葉を発することもなく、表情を変化させることもなかった。

 俺は、父さんに怒られないために毎日、平日休日関係なく同じ時間に起きる。休日の今日も朝六時に起きて朝食を食べる。掃除をして、三十分という短いゲーム時間を終えたら、机に向かって勉強をする。昼食を食べて、また机に戻り勉強。夕飯を食べて、また机で勉強する。たまに兄貴にわからない問題を聞く。
 休みの日は、大体こんなものだ。
 友達はいても、わざわざ休みの日まで遊ぶことはないのでこの生活は苦しい。勉強に意味を見出せない俺は、たいていの時間を読書に費やしている。父さんが部屋に来ることがままあるので、耳はいつも澄まして来たら、あたかも勉強しています、という状態を作っておく。
 たまにバレて怒られるけど、兄貴ほど怒られるわけじゃない。だって、兄貴はテストで低い点数を取るだけでも怒られている。一教科良い点数でも他がだめなら説教。点数が取れないなら部活でレギュラーになれと言われていたが、一年生の段階では初心者で二年生のレギュラーの人と同等のレベルになるのは無理な話だ。にもかかわらず、父さんは理不尽に兄貴に怒鳴る。そういう日は、自分の部屋に戻る。怒鳴り声は部屋にも聞こえるから、そういう時は、兄貴には悪いが曲を聴いて誤魔化している。
 俺と兄貴は、仲がいい。小さいころから遊んでるし、一緒にゲームもする。兄貴は、俺にゲームで勝てることはないから兄貴が楽しいのかと聞かれたら答えようがない。
 勉強は、兄貴に教えてもらっているときが一番楽しい。たとえが、分かりやすいし、分からないところは文句も言わず何度でも教えてくれる。たまに、奢れと言ってくる時もあるけど。そんなときは、お決まりで一番やすい水を買ってる。喜んでくれることはない。当たり前だ。
 今日は、兄貴は部活がないらしい。だから、掃除が終われば、部屋で勉強でもするんだろう。だけど、兄貴は、なかなか部屋に戻ってくることはない。不思議に思ってリビングにこっそり向かうと、父さんの苛立ちを隠してますと言わんばかりの声が聞こえた。
「父さんは、勉強しなさいと言いました。部活だけじゃなくて、勉強もしないとテストで点数が取れない。なのに、この結果は何ですか」
 そういえば、兄貴から初めての中間テストで点数とらないといけないとか言って、学校にこもって勉強していると聞いたことがある。
 兄貴は、点数が悪かったのか。
「こんな、英語六点って何ですか?勉強したんですよね?それでこの点数……。範囲も分かっていて勉強もできる環境があるのに、この点数……。お母さんから聞いたけど、部活がないのに帰ってくることが遅いって聞いたけど、どういうこと?遊んでたの?だから、こんな点数?」
 それは、違う!とか言って俺が飛び出すことはない。だって、兄貴の問題だ。兄貴は、兄貴の言葉で言わないと言いたいことも言えないはずだ。母さんのような何も理解せずに反論してしまえば、かえって状況を悪化させるだけだ。
「……海利。はっきり言いなさい。父さんは、こんなことで時間を取りたくない。遊んでたのなら遊んでたと言えばいいんです。英語もできないで部活三昧。そんなバカなことするくらいなら、部活の費用もお父さんは出しません」
 いつもこれだ。俺にもそうだけど、何か父さんに気に食わないことがあれば、学費を出さないだの、お小遣いを渡さないだの言いたい放題だ。親の権利を乱用する。
「何も言わないならいいです。部費は払いません。海利が払いなさい。テスト勉強もせずに遊びに行くような人に渡すお金なんてありません」
「何を言ってるの!!」
 ああ、母さんだ。兄貴は何で言い返さないんだ。英語なんてできなくて当然だろ!くらい言ってやればいいじゃないか。そもそも日本人が英語を覚えて文法に沿って答えを出すなんて、今の大人がやってんのか!って言えばいいだろ!兄貴!言い返せ!
「子供の未来のためにお金を払うのは親の義務でしょう!それに、海利だって学校で放課後残って勉強してるのよ!海利の気持ちくらいちゃんと聞いてやりなさい!」
「お母さん、海利は何も言わなかったよ?なのに、それを母さんが言っても証拠がないでしょ」
「証拠なんて言い出したらきりがないじゃない!海利のためになんでお金さえ払えないの!」
「お母さんは、働いてないからわからないでしょうけど、しっかり文句も言わず仕事して残業してもらった給料なんです。なのに、そのお金を無駄にするようなことばかりする海利には払う必要がないと思っただけ。でも、これからはちゃんとやるよね。もし、ここでそういうなら今後もお金は払ってあげます。お小遣いも渡してあげます」
 中学に上がってから、父さんの要求は日に日に増しているように思う。一つクリアしても次の与えられていないミッションがクリアできないならまた怒り始める。
 今回に関しては、テストだけど今までなら掃除、起床時間、勉強時間、ゲーム時間だけでも怒られてきた。俺が悪い時だって、兄貴だからって理由で怒られてた。
 ぼそぼそと謝罪する兄貴の声が聞こえる。
「わかったね。父さんだって怒りたくて怒ったわけじゃない。そんな風に、遊ぶくらいなら必要ないと思っただけなんだ。素直に言ってくれれば父さんは、すぐに許した。だから、今度からはすぐに話すようにね」
 兄貴が戻ってくる。
 急いで、部屋に戻った。勉強するふりをして、部屋に戻ったことを確認して部屋のドアをノックする。返事が聞こえて、中に入る。
「斗真か。どうしたの」
「兄貴さ、友達と勉強してたんじゃないの?」
「……」
「聞こえちゃって。ほら、前、数学苦手だから教えてもらってるとか」
「……聞こえるくらい、大きかったかな。そうだね。だけど、英語は教えてもらってないから。できないのに、勉強しなかった僕が悪いよ」
 いつも聞く言葉だった。『僕が悪いよ』家でよく口にする言葉だ。学校で発してないといいけど、この言葉を聞くたびに辛くなる時がある。
 兄貴は、悪くないのに悪者扱いされて。逃げることもせず、耐え忍んで。こんなの良いとは思えない。
 そして、なぜだか俺はこういう時、俺の方が兄のような気質があるんじゃないかと思うときもある。そんなわけないと、すぐにかぶりを振るけど。
「でも、ほかは?ほら、テストって主要五教科って聞くじゃん?数学、教えてもらったんでしょ?」
「まあね。数学は、三十四点だった」
 五十点満点のテストだ、十分なはず。
「ほら、十分じゃん!英語だけだよ。そんな気追わなくてもいいじゃない?」
「気負ってない」
 そのとき、失敗したと思った。いつもこういうとき、俺は明るく務めてポジティブな発想へと変換する。だけど、この時の兄貴の声は棘があるように思った。
「ごめん。そういうつもりじゃなくて。ほら、算数、教えてもらってたし」
 理系は得意分野だと思ってた。
「ああ、そうだね。レベルの差に驚いてる。また、教えるよ」
「ありがと。これで、教えてもらえなかったら俺、ショックだし」
 兄貴は、優しく笑った。この笑顔が俺は好きだった。
 だから、二年生になって俺が一年生になった年の花火祭りの後。その笑顔が見れなかったことがすごくショックだった。
 中学一年生になり、友達ができて花火祭りが終わり帰った時。
「斗真は、海利に彼氏がいたこと知ってる?」
 姉さんが、父さんに告げたらしい。
 びっくりした。海利が付き合っていたことも、彼氏がいたことも。今や、同性と付き合うことはよくある話だ。俺のクラスでも同性カップルがいるくらいだ。
 だけど、一番驚いたのは、六歳離れた姉さんが海利が付き合っていることを知っていることだ。しかも家にいる。
「知らないよ」
 兄貴に好きな人がいたことは意外だった。俺とただゲームして、勉強を教えてもらうような関係。恋愛について話したことなんてなかった。そりゃあ、中学二年生だし、好きな人の一人や二人はできるだろう。
「ちょっと、座ってなさい。海利が来るまで待ちます」
 何となく察した。兄貴が付き合っていることに対して怒ってるんだ。いや、どちらかというと同性と付き合っていることに怒りを感じているんだ。父さんは、世間体のようなものを気にする。付き合うなら異性。遊ぶなら何時までとか決めてる。大学だって兄貴には国公立の大学に進学しろと言い始めたくらいだ。じゃあ、姉さんはどうなんだといいたくなる。姉さんは、私立の大学に進学したんだ。二人の何がどう違うっていのだろう。
 海利が、帰って来た。食卓に座る異様な光景に兄貴は、無視を決め込んだ。正解だと、内心思った。
「海利、そこに立ちなさい」
 歩みを止めた兄貴は、そのまま父さんの目を見たままだ。その目は、穏やかさのようなものを感じた。以前、真顔で無反応で昼食を食べてた時、父さんが箸を拾ってほしいと言ったがそれに呼応しなかったことが癪に障り怒らせたことがあった。多分、兄貴はそれ以来怒ってないと魅せるためにそんな目をしているんだ。無言だったのは、考え事をしていて、彼女との接し方をどうするかという内容で悩んでいたはずだ。確か、それは一年前だ。
「海利は、男子と付き合っているんだよね?」
 彼女とは一年で終わったらしい。恋愛に無知だったからか、それ以降は図書室とかで恋愛について、女子の気持ちについて勉強したらしいけど、一切共感できないし、学校の授業よりも難しいと嘆いていた。どうせなら、学校の授業で科目として出してくれと言っていた。
「姉さんが教えてくれたよ?なんで、黙ってた?なんで、男なの?海利は、男が好きなの?」
 マシンガンのように質問を重ねている父さん。
「……なんで」
 ボソッと聞こえた気がした。
「正直、気持ち悪いです。海利は、気持ち悪いです。男子と付き合うように育てた覚えはありません。そういった類の漫画も小説もドラマも見せてません。なのに、男子と付き合った海利が気持ち悪いです。父さんなので、海利のことを思って言ってます」
 それから、悲しそうに下を向いてため息をついた父さんがまた兄貴を見据えた。
「海利は、斗真がそんな風になったらどう思いますか?父さんは今、とても悲しいです。ショックが隠せません」
「そんな言い方、子供にするもんじゃないでしょう!」
 母さんが言った。子供のためといつもかばうのは母さんだ。そこにいつも海利の感情は含まれてない。
「父さんは、今、海利に話してます。少し、黙ってください。確かに、今の時代、同性愛についても寛容になっているし、Xジェンダーだの言います。ですが、それを本当に許している場所がありますか?」
「何を言ってるの」
「国は、同性愛を認めてない。だから、結婚もできない。会社でもそんな人を見ることはない。実際に、そんなことしたら周りからの目を考えなきゃいけない。海利は、そのことも分かっているんですか?」
「海利がしたいことをさせてあげればいいでしょ!子供のことを考えているなら!」
 俺は、こういうときただ黙ることに専念する。俺まで話し始めたら終わらないから。
「だから!子供のことを思うなら!同性愛なんていけないんだ!海利!海利はそのまま生き続けたいか?周りからバカにされながら生きたいか?やめなさい!そんな生活では海利はますます悪運を引き起こしてしまう!これは、海利を思って言っているんだ!良いな!しっかり考えてすぐに別れるように!」
 父さんは、怒りを露にしながら自分の部屋へと戻った。
「全く……。海利、海利は、好きなように生きていいからね。好きな人が異性でも同性でもお母さんは許してあげるからね」
 あくまで、母さんは海利の味方でいようとするんだ。
「ごめん、まさかこんな風になると思ってなかった。最近、家に顔出してなかったから」
 ことの発端は、姉さんだ。だけど、姉さんはただの世間話のつもりだったはずだ。その声は聞こえてたし、俺まで巻き込まれるとは予想外だ。多分、祭りに兄貴が男二人ででかけてそういう姿を見てしまったのだろう。
「風呂入ってくる!」
 兄貴は、笑顔でそういった。俺から見た兄貴の笑顔は今まで以上に歪だった。
 部屋に戻った兄貴の部屋に入る。
「どうした?」
「兄貴ってさ、彼氏と付き合ってみてどう思った?」
「どうって?」
「あ、ほら、俺はまだ彼女いたことないし、彼氏もいない。だから、どうなんだろうって」
「……楽しいよ、すごく」
 感情のない声だった。
「風呂行くわ」
 ドアを開けたところで呼び止めた。
「みんな、あんなこと言ってたけど、俺は応援する。俺、兄貴の恋、応援するから」
「ありがと」
 だけど、兄貴は俺に笑顔を向けるどころか、顔さえ見せてくれなかった。どこか、苦しそうにも見えた。
 今更俺は、来てはいけなかったんだと思い知った。

 それからは、兄貴を介して喧嘩することもよくあった。父さんが、兄貴の同性愛いじりを始めたことで母さんが冗談でもやめろと怒る。父さんは、兄貴を立てるためにはこれだけしてあげなければいけない。可愛そうな人にはここまでしてあげないと評価も下がったままだと兄貴にも母さんにも言った。
 評価はどこから来るのか、そもそもいじるものじゃないし、恋心をいじられたら傷つかないのかと思っても、同性愛は悪だとするなんてなんとも昔ながらの古いジェンダー感の持ち主だ。
 何一つ笑えなかった。
 日に日に、増してく喧嘩の量、罵声の量、親が子を傷つけるという環境。どれもが、俺にとっては苦しいものでそれよりも苦しいのは兄貴なんだと思うと何も言えない。
 結局、三年生になった段階で母さんは口を聞かなくなった。海利も笑わないし、勉強も教えてくれない。彼氏とも別れたらしい。
 別れたことを知ってからは父さんは海利をいじめることはなかった。やっと正常な判断ができる人に戻ったのだと感じたのだろう。
 だけど、海利の成績は下がっていく一方だった。
 俺が何を聞いても返事はない。答えが返ってこない。
 理由は、一目瞭然だった。両親の喧嘩が絶えなかったからだ。
 ある日、兄貴はバイトのできる高校に入ると言い出した。俺だけに言ったのだ。部活も元々やりたくてやったわけじゃない。お金さえ入れば、まだ十分生活できるだろうと言い出したのだ。自分のやりたいことのためにお金は貯めておかないというのだ。
 何を言っているのかわからなかった。だけど、すぐに知ることになった。両親が離婚するのだ。
 兄貴の受験が終わり、卒業式を迎えた後、あれこれあったらしいけど離婚が成立。色々決まったおかげで俺もそれなりに受験期は乗り越えられると思っていた。三人とも母さんについた。
 しかし、それは浅はかだった。
 元々、母さんは仕事をしている身じゃなかったはず。だから、仕事を探していた。兄貴は、部活の代わりにバイトを選んだため、ほぼほぼバイトに時間を費やすと言っていた。母さんには、仕事を急ぐ必要はないと言っているのが聞こえた。
 兄貴が、なんでここまでするのかわからなかった。高校生活は放課後が一番楽しいはずなのにバイトに全振りするって何考えてんだと思った。
 だけど、俺はそれどころじゃなくなっていた。受験の恐怖が自分を責めた。私立の高校はお金がかかる。母さんだって私立の授業料を払えるわけがない。就職できても初任給なんて安いらしい。そう思えば思うほど、偏差値が高い公立の高校をと考えると吐き気がしたし、勉強の時間も増えていき、その分ストレスも抱えるようになった。
 だから、自分でも人にストレスをぶつけていることに気づけなかった。兄貴が、少しでもとろいことしていたら、怒りを感じてぶつけた。兄貴が、休みの日に出かけるたびにバイトはしないのか、こんな状況でも遊べるお前が羨ましいだの言い続けた。俺は兄貴を傷つけていた。
 兄貴の表情なんか一切気にせず。顔面蒼白になってもやめてくれと懇願する兄貴の顔を見て余計に、怒りを感じて初めて兄貴の腹を殴った。そんな強くやったつもりもないけど、兄貴は少しの間動けなくなって、俺に頭を垂れた。
「も、もう、やめてくれ……。お願い。ほんとに、もう、やめてほしいんだ。僕はもう、これ以上……。だから、お願い。もう、やめてくれ……やめてほしい。斗真の力になれてないのはわかる。斗真のせいじゃない。僕が、こんなことしてるから。斗真の受験も応援するなら夕飯も風呂も洗濯物も全部、僕がやるべきなのに……。次から、ちゃんとやるから。ちゃんとやるからもう、許して。お願い。ちゃんと、迷惑かけずに静かにやるから。斗真はなんも悪くないから。僕が悪いから……。ちゃんとやるし、迷惑かけないから……」
 兄貴は、そのまま動かなかった。今まで好きだった兄貴の姿がもうここにはいない。
 俺が望んだことを兄貴はやろうとした。家に着いたら風呂が沸いていたり、夕飯があったり、そんな当たり前の生活を離婚した今も俺は望んだ。受験のストレスという言い訳もあった。
 俺は、その時も兄貴の気持ちを一切考えずに告げた。
「兄貴なんか嫌いだ。死んでしまえばいいのに」
 だから、気分転換に友達と来た花火祭りの帰り、兄貴が飛び降りたと聞いて罪悪感と、自責の念に苛まれた。
 俺は、人殺しなんだと自分の無責任な言葉の重みを恨んだ、憎んだ、悔やんだ。
 なのに、それでもこの方が兄貴も俺も楽なんじゃないかと悪魔がささやいたような気がして、それにも怒りを覚えた。
 今思えば、父親に彼氏がいるとバレたときが崩壊の始まりだと思う。
 今までも、父親に怒られることは何度もあった。ゲームの決まった時間を過ぎれば怒られるし、掃除しなければ怒られる。勉強ができなければ怒られる。部活ができなければ怒られる。
 なのに、僕は、中学三年生の時の成績は散々だった。僕が何か言うことで両親は喧嘩。少しでも点数が減れば怒られる。父親はもっとできないのかと怒り、母親はそれに対して、海利は頑張ったと言い返す。
 こういう時、僕はいつも口出ししなかった。何も言わなかった。母親は僕を見てない。それは、うすうす気づいていた。何を言っても伝わった気がしないのだ。
「このままじゃ、いけない気がする」
 テストで点数が下がった時、ボロッと出てしまった言葉だ。
「大丈夫。海利は、頭いいから。今回がだめだっただけだよ」
 フォローになっていたが当時、塾に行こうかと真剣に悩んでいた。だから、母親からその話題が出てくれればいいのに、そんなのは甘えだった。受け身だった。
「だからさ、塾に行きたいんだ」
「そんなことしなくていいよ。金かかるでしょう。父さんに言える?言えないでしょ。怒りたくもないし。海利は、根が真面目だから大丈夫よ」
 結局、取り合ってくれることはなかった。母親からも頭を下げてもらいたかった。塾にもいかず、分からないところがドンドンわからなくなって、気がづけば、何ができないのかもわからなくなった。
 そんな姿を父親は怒鳴った。何もできない、愚か者が!と、散々母親のいないところで言うようになった。同姓と付き合ったくらいでここまで言われると思っていなかった僕は、何も言えなくなった。
 笑わずにいたときも、怒っているのかと怒られ、笑うようにしていれば、何がそんなに面白いんだと怒る。
 そのたびに、母親が介入して喧嘩勃発。何か言わなきゃと思ってもパニックになって自分を落ち着かせることに必死だった。
 受験の一か月前になっても勉強に身が入らなかった。喧嘩が怖くて指が振るえて、めまいを覚えて落ち着かせてそれでも必死に机に向かった。そんなときに、母親が言った。
「離婚しようと思うの。海利も今、父さんのこと嫌いでしょう?こんな環境では海利が障がいを持ってもおかしくない。海利は真面目だから障がいになりやすいと思うの。だからね、引っ越ししようと思って」
 受験勉強もろくにできていない僕に、離婚というワード。最初は、何を言っているんだと頭が真っ白になった。
「……り、離婚?」
「そう。姉は、もう大学生だし、海利は受験が終われば、高校生。斗真だって喧嘩ばっかりする環境は嫌でしょう。だから」
「待って。え、離婚?ほ、本気?」
「本気よ。海利のことを考えて言ってるのよ?」
「……」
 何も言い返せなかった。
 僕のことを思ってそんなこと言うのか?それじゃ、まるで僕が家族を壊したみたいじゃないか。僕が、両親の仲を壊したみたいじゃないか……!
 母親がいなくなった後で、よく考えた。納得した。この時、初めて僕が家族にとって害なんだと気づいた。両親が喧嘩するときは、たいてい僕のことだ。僕が何もしなければ喧嘩はしない。母親にちゃんと言葉として伝えることができていたら。父親ともしっかり会話ができていれば。この家庭の癌だ。自分を呪った。
 家族を壊した最低最悪なゴミだ。
 何度か止めた。通じなかった。僕のためならそんなことしなくていいと何度言ってもダメだった。
 結局、高校一年生に上がるころには離婚調停が始まって、父親もその気だったのかすぐに離婚が成立した。
 ただし、親権は母親へ。父親は、子供が望めば会える。僕が聞いたのはそれだけだった。
 姉さんは、何も言わなかった。家を引っ越してもたまに帰ってきては、昼間のバイトが終わり寝てる。家事なんか手伝うことはなかった。そのくせ、夕飯はまだなのかと怒る。一人暮らしの人間はこうもだらけるのか。料理くらいしてほしいものだと言いたかったけど、自分のせいで離婚したのだから言えるはずもなかった。
 斗真は、僕に受験のストレスをぶつけるようになった。部活が終わればすぐに風呂に入って勉強したいらしくそれを知らずにいたころはちんたらと家事をやっていた。知ってからは、何とか間に合わせるつもりだったが、家からの距離が圧倒的に斗真の方が近いためストレスをぶつけられることの方が多かった。だったら、お前がやればいいだろと言いたくなっても、姉同様自分のせいだと抑えた。
 これが、僕のすべきことなんだ。バイトして、家事をやって、仕事をしているのかもわからない母親の負担を少しでも減らそうと考えたけど、体力も精神も疲弊しきっていた。学校も家庭も散々だ。
 これくらいなら、さっさと死ねばいい。死んだ方が楽になる。そう思う日はよくあった。

 そしてあれがこれいーやーさーさー過去回想へいへいへい…………待てよ。
 僕は、マンションから飛び降りた。五階という圧倒的な高さから。なのに、なんで、こんな風に考えることができる。なぜ、この記憶を持っているのだ。
 ……おいおい、まさか。死んでいない!?
 目を開けば、天井は白く、カーテンの仕切りがあるように思う。何か管のようなものが僕の体につながっている。
 そして、顔を覗く女の人が一人。病院?
 死ねなかったのか。
 ならば、見なかったこと気づかなかったことにしてもう少し寝させてもらおうじゃないか。
「深山君……?」
 この声、どっかで聞いたことある。
 まあ、いいや。寝る。
「深山君!?え、お、起きたよね?あれ、えっと、あ!」
 慌てたその女の人は、僕の頭の近くで何かをはじめた。すぐに誰かが来て状況を説明している。
「深山海利君?目、覚めましたか?」
 目を開けるとそこには女医と看護師が二人。端の方で女子が立っている。早川さんだ。さっきのは早川さんだったのか。
「……ここは」
 ありがちなセリフを吐いてみる。
「病院です。何があったのか覚えていますか?」
「……」
 ああ、そうか。そういうことか。何となくわかった気がする。
「マンションから飛び降りて死ぬはずが、何とか助かったってことですか?」
「そうです。検査しますので、そのままでいてください」
 ありとあらゆる検査が終わった僕は、奇跡的に何もなかったらしい。痛みはまだ引いていないし、足も折ったらしくてギプスをまかれている。まさか、両足折るとは。左腕も折れて使えるのは右腕だけ。腕も両方折れれば笑い話になったかもしれないのに。
「検査に異常はないですが、その体なので入院は続きますからね」
 女医は僕いる病室を出て行った。
「あの」
 看護師を呼び止めた。
「面会謝絶ってできます?」
「……ええ、できますけど」
「していいですか」
「……わかりました。ちょっと待ってくださいね」
 看護師の一人が、僕に状況を説明してくれた。
 どうやら、僕が飛び降りた後近くに来ていた早川さんが声をかけてくれて、その声に気づいた近所の人がすぐに救急車を呼んだらしい。総合病院まで運ばれて一命は取り留めた。だけど、意識は回復せず一か月ほど昏睡状態だったらしい。
 学校のことはわからないから、あとで誰かに聞いてほしいと言っていた。
 あの花火祭りの日から一か月も寝ていたことに驚いた。それ以上に、なぜもっと寝させてくれないのかと苛立ちを覚えた。
 面会謝絶の理由とかを色々話して許可はすぐに出ると思うと伝えられた。
 家族には会いたくない。母親にも父親にも。誰にも会いたくない。できれば、中野にも早川さんにも。あの環境にまた身を置けるほどの精神を僕は持ち合わせていない。
 なのに、なぜ僕の病室に早川さんはいたのか。なぜ、顔を覗かせていたのか。
 まあいい。どうせ、面会謝絶で会うことはない。
 このまま、あとで屋上にでも行こうか。問題はないはずだ。
 しかし、帰ったはずの早川さんは病室に来た。検査があるし、流石に帰ったと思ったけど違ったみたいだ。
 寝ているふりでもして、帰らせるか。
 明日には、面会謝絶のはずだ。
「寝たふりやめてよ」
「……」
 無視だ。目が合ったかもしれないが、寝るときに半目になる人だっている。バレない。
「やめてってば……」
 その悲しそうな声音に僕は、目を開けるしかなかった。
「なんで、そんなことするの」
「……」
 泣きそうな顔で僕を見ている。やっぱ、無かったことにして寝ようか。お休み。
「そういうのホントにやめてってば!ねえ!ひどいよ!!」
 そういうや否や僕の腹を力任せに叩きまくってくる。体の痛みも相まって衝撃が何百倍も増している。
 声が出ない痛みとはまさにこのことなのかと身をもって知った。
 目、覚めたから。覚めましたから。
「一緒に、花火祭り行くって言ったじゃん!浴衣も借りたのに!深山君だって着るって言ってたのに!」
 バンバンと何度も叩いてくるせいで言葉は聞けても、言葉を返すことはできなかった。
「ひどすぎるよ!」
 早川さんは、あふれた涙を両手の甲でぬぐい始めた。
「……帰ってくれ」
 僕は、冷たく言った。もう、いい。うるさい。
 もう、誰にも会いたくない。
「なんで……」
「疲れんだよ。人と話すの。面倒だし。うるさいし。いい加減、消えてほしい」
「……深山、君?」
「黙って消えてくれ。うるさい。一人でいい。邪魔だ」
「……ほ、本気で言ってるの?」
「じゃなきゃなんだよ。消えてくれよ。どいつもこいつも、煩わしい」
「深山君……」
「消えろって!邪魔臭いんだよ!どいつもこいつも消えてくれよ!!」
 早川さんは、目からあふれている涙を拭わず、下唇を噛みながら荷物を持って出て行った。
 一度出た言葉からボロボロと言葉があふれた。今まで感じていた不満も怒りも。なぜ関係のない早川さんにこんなことを言ったのかわからない。
 ちょっとした声さえうるさく感じて、誰かにこの姿を見られてくなくて、だけど、このありさまを見て同情してほしいなんて思った自分もいて。僕のことを理解して可哀そうな被害者だとかばってほしい。守ってほしい。僕を理解してかばってほしい。そんなバカな気持ちが今までどこかにあった。惨憺たる人生をみんなに知ってほしいなんて思ったこともあった。だけど、今わかった。そんなの求めてない。どいつもこいつも邪魔なんだ。僕の前で泣くな、僕の前で笑うな、僕の前で同情するな。
 どいつもこいつも嫌いだ。嫌いなんだ人が。生き物が。感情を持つ生命が。
 一人にしてほしい。安らかに眠りたい。あの時、走馬灯が見えなかった。それは、僕が生きる暗示だったんだとしたら、神様がいるんなら僕は、信じたくない。神様なんか大嫌いだ。こんな地獄を僕に用意して何が楽しい?こんな地獄を生きる僕を見て面白いか?ゴミみたいな感性を持った小学生のようなガキと一緒のクラスにいることの何が楽しい?
 何が、神だ。ただ残酷なものが好きな異常者が、神とか言って頂点に君臨すんなよ。そんなんだったら、殺戮者の方がだいぶマシだ。神なんかいない。こんな道を作り出したやつが神なら認めない。ただの異常者でクズだ。神なんか存在しなくていい。一生、地獄にでもいてほしい。お前が、地獄に行け。僕が地獄にいる必要なんかないだろ。
 家族を壊して、怒られて、何しても文句言われて。学校でもいじめられて、好きでも何でもない人を雰囲気に合わせて好きだとか言って。幼稚すぎる。人のことを何とも思わない小学生の知能にも満たない発言ばっか、行動ばっか。
 ああ、まじでどいつもこいつも死ねばいい。
 人のことを理解できる奴はこの世にいないんだろうな。だからこうやって僕みたいな自殺者が毎年のように出るんだ。僕を生かしてどうするつもりなんだよ。生きたって意味がない。環境は変わらない。どうせ、家族は『家族だから』とかいう理由で会いたくなくても会わなきゃいけなくなって、会えなかったら会いに来て。気持ち悪い関係だ。血がつながってるだけの他人なのに。
 いっそ、海外にでも行こうか。そうしたら、もっと分かり合える人に出会えるかもしれない。
 そんな時間を享受できたらいいのに。
 無理か。なら、また死ぬか。
 どうせ、誰かが止めに来るさ。
 ああ、こんな風に考える自分もすごく死ねばいいのに。
 深山君は、目が覚めた。朝方に起きたから検査も昼過ぎには終わった。だけど、深山君は一学期とはすごい変わりようだった。
 泣きたくなった。ていうか、泣いた。あんな風に暴言を吐かれるとは思わなくて泣いてしまった。今の彼の方が深山くんらしくて正しいかもしれない。
 深山君が倒れてから一人で授業が終わってすぐ向かって、休みの日も今か今かと待っているのに、起きなくて。三島さんという看護師にも顔を覚えられるくらいにまでいたのに。
 やっと目が覚めたのに、こんなこと言われて。
 クラスのみんなが言うように、深山君は私のことが好きなんじゃないの?私だって好きなのに。なんで、花火祭りの当日に自殺なんてするのよ。好きじゃない?いや、違う。そんなはずない。だって、中野だって好きだって言ってた。
 なんで、自殺なんて図ってんのよ‼意味が分かんない!わけがわかんない!
 消えろとか、うるさいとか、黙れとかなんでそんな風に言われなきゃならないわけ!ほんと、わけがわかんない!
 ああ、もう!!
 もういい!!むしゃくしゃする!あんなこと生まれてはじめて言われた!すごい、ムカムカする!
 家を飛び出して、最近知ったおいしい店に向かう。私の町は店が多い。ちょっと歩けばすぐに見つかる。角を曲がり、あまりおしゃれじゃない店にのドアをバンッと開ける。
「あら、久しぶりじゃない」
 深山君のせいでここ最近、持ち帰ることしかできていないせいで仲のいい女性店員さんと話せていない。多分、ここのオーナーだ。
「久しぶりです」
「持ち帰り?」
「いえ、食べます。今すぐ、食べます」
「はいはい、どれがいい?」
 人が少ないため、店員さんにこれとこれとか言って頼めばすぐに用意してくれる。今も、店には私しかいない。
「これとこれとこれとこれとこれ………あと、これとこれとこれ。……これも追加で」
「え、大丈夫?食べれる?」
「食べます。食べたいんです!」
「な、なんかあった?」
「何でもないです!早くください!」
「わかったわ」
 二千円以上の会計を済ませて、いつも使ってる席に座る。対面の席だけど、どうせ誰も来ないからと広々使う。
 ここは、スイーツなら何でもあるから食べたいだけ買ってしまうのだ。だから、たまに制限しないと金欠で行けなくなる。あと、体重を気をつけないといけない。太った姿を好きな人に見られたくはない。
 ……深山君。
 ああああああ!うるさい!思い出すな!ムカつく‼何よ、あの態度!ほんと、腹立つ!
 むしゃむしゃと食べ進める。両手にドーナツを持って、一つ一つ食べていく。
 気が収まらない。なんで、あんなこと言われなきゃならないのよ!ほんとわけわかんない!
 残り二個ほどになったころ、限界が来た。
「もう、ダメ……」
 ケーキもあってここまで食べることができた私はすごいと思う。まだ、食べたりないのに……。お腹が……。
「何か飲む?」
 オーナーだ。
「カフェオレ!」
「砂糖とミルクは?」
「いる!たっぷり!」
 すぐに持ってきてくれたオーナーは正面に座った。仕事が終わったんだ。店は閉まっているし、スイーツももうおいてない。
「どうぞ」
「ありがと!んー!おいひい!」
「大丈夫?持ち帰る?」
「いや、食べます!」
「そんな無理しなくても……」
「無理してないです!」
「好きな人いるんでしょ?太っちゃって大丈夫?」
「もう、いいです。彼は、私のこと拒絶するんで」
「なんで?」
「マンションから飛び降りて一か月昏睡だったくせに、起きたら起きたで怒るんで」
「……え」
 言葉を詰まらせるオーナー。
「言ってませんでしたっけ?」
「言ってないよ」
 そういえば、言う間もなく買った後、家に帰ったんだっけ。あれ、そうだったっけ?
「なんで?」
「わかるわけないです。だって、教えてくれないし、理不尽に怒られたし。クラスのみんなが深山君は私のこと好きだって言ってたのに、おかしくないですか?」
「……それで、もう会わないつもりなの?」
「会いたいです。だけど……」
「なら、会えばいいんじゃない?きっと、怒ってるのは自分自身にだと思うから」
「そんなもんですか?」
「そんなもんよ」
 明日も会えるのかな。なんか、看護師と話してたけどもし明日、面会謝絶だったらどうしよう。
「ほら、そんな顔しない!」
 オーナーが私の頬をつねった。
「うぇええ!?」
 思わず変な声が出てしまった。それに、頬が痛い。
「そんな顔してたら、好きな人が離れてくぞ。好きならアタックしまくらなきゃ」
「う、うん!」
「ほら、食べな!」
「ん!」
 頬から手を離してくれたので、ケーキをフォークで食べる。意外とまだいける。最後まで食べきって感謝を伝えて帰った。
 モヤモヤしたものが吹っ切れた気分だ。
 だけど、お腹に手を当ててみれば膨れてる。太ったかもしれないと体重計に乗ると一キロ太ってた。
「お嫁にいけない……」
 これじゃ、深山君も幻滅するかもしれない。いや、大丈夫。うまく隠せばいい。男子なんて太ったことすぐには気づかないよ!うん!大丈夫だ!
 次の日は、部活もあって少し遅い時間に病院に向かった。演劇部は、裏方でも一緒になって発声練習をしなきゃいけないから大変だ。体力をつけなきゃいけない。運動なんかしたくないのに。でも、瘦せなきゃいけないし……。
 病院に行くまでに大きな坂を登らなきゃいけないんだから十分筋トレだっつうの!
 病院のロビーにつくと受け付けの人に怒りを露にする男子がいた。学ランだしこの辺の学生だ。中学生くらいだと思う。
「だから!ここに兄貴がいんだろ!早く、案内しろって!」
 この子には兄がいるらしい。でも、兄貴って今どきの人は言うのかな。
「ああ!?面会謝絶ゥ?知らねえよ!こっちは、受験勉強の合間縫ってきてんだ!早く教えろや美女ナース!!」
 こういう時ってブスとかいうものだと思ってたけど美女ナースとかいう人いるんだ。なんか、面白い人だ。
「お前、笑顔とか見せなくていいんだって!俺のハート、矢で打ち抜くつもりかよ!ふざけんな!どうでもいいからさっさと兄貴の居場所伝えろや!」
 この人、大声で面白いこと言うじゃん。
「は?俺の兄貴だぞ?深山海利の弟と面会謝絶なのか?意味わかんねえよ!早く教えろっつてんだ!」
 深山海利って!?え、あの子、深山君の弟なんだ。まったく雰囲気から何まで違うじゃん!怒り方もちょっと違うかも!
「ああ、もういいわ。じゃ、これ渡しとけ。ダメなら、お前らで食っとけ」
 ドスドスと歩いていく深山君の弟をまじまじと見る。
 話しかけてみよう!
「ねえねえ!あの!」
「……誰」
 私を見るなり嫌そうな顔で対応してくる。深山君とはやっぱり少し違う。
「深山海利君の弟なんでしょ?」
「……そうだけど。おばさん誰?」
「おば、お、おばさん!?」
「何?」
「いや、どう見たってお姉さんでしょ!!ほら、制服だって着てるし!」
 私は何をムキになっているんだ。
「ああ、それは、すみません。失礼しました。謝罪します。話しかけてくる人っておばさんに多いイメージで」
 イメージで私をおばさん扱いとはいい度胸ね。
「もしかして、兄貴と同じ学校ですか?」
「え?」
「ほら、制服見覚えあるから。もしかして、兄貴の見舞いですか?兄貴は、俺たち家族も学校の人も面会謝絶だとナースからさっき聞きましたよ」
「美女ナースさん?」
「……」
 無反応なのひどい。傷つく。
「あのさ、少しだけ付き合ってくれない?」
「え?」
「君のお兄さんのこと知りたいの。なんで、マンションから飛び降りたのか知りたいの」
「……わかりました。けど、その」
 場所か。
「大丈夫!カフェにでも行こうよ」
「そうじゃなくて、受験生だからあんまり時間を取られたくないから」
「じゃ、話すだけ話してよ」
「……わかりました」
 私たちは、移動した。二人席を取って私は甘々なカフェオレとケーキ。弟君はコーヒー、しかもブラック。大人ぁ。
「何か食べないの?」
「いらないです。欲しがりません、受験に勝つまでは」
 戦時中の人かな?軍人思考かな?
「そうなんだ。それでさ、深山君……海利君は、なんで飛び降りたのかな。何か知ってることない?」
「……」
「なければそれでいいんだけど」
「……ありますよ。俺が、殺しました」
「……え?」
「兄貴は、よく親の喧嘩に巻き込まれてました。自分の意見を言えずに喧嘩しているのをただ黙ってみてるだけ」
 両親の喧嘩。
「だけど、ここ三か月は俺が原因なんです。俺は、さっきも言った通り、受験生で。受験なんて初めてだから必死に勉強しようって思ってて。だけど、兄貴は、とろ臭くてそれに怒れて。俺のわがままで怒って、それを聞くだけで。それも嫌で、怒って」
「海利君にストレスをぶつけてた?」
「そういうことです。俺は、兄貴の変化に気づかなかった。いや、気づいてないふりをした。だから、兄貴の荒み切った言葉や行動をみても死ねばいいなんて言ったんです。あんなこと言わなければ、自殺なんて考えなかったかもしれない」
 深山君が、人と話さなくなったのもそのせいなのかな。でも、それだけだったら死のうなんて思わない気がする。
「ねえ、海利君のスマホって誰が管理してるの?」
 ふと気になったことを聞いた。前から、気になってた。
「一応、父親です」
「一応?」
「恥ずかしい話ですけど、両親は離婚してて。俺は、離婚することだけを聞かされたから何も知らなくて。だけど、スマホを購入したのは父親で。兄貴はそれに同行して。それ以上は知りません。……なぜ、そんなことを?」
「ううん。いつも連絡が遅いからそういうタイプなのかなあって」
「たぶん、それも俺のせいです。兄貴は母に変わって家事をしていて。スマホを触る時間がなかったんだと……あれ、いや」
「どうかした?」
「あ、いや、おかしいなって。少しの間十時以降もスマホを触ってよくて。安心フィルターってあるじゃないですか。あれで、十時で制限されたってのは知ってるんですけど。でも、制限解除するって話が確か、六月とかなのにそれ以降は余計、スマホを触ってないなって」
 スマホを触ってない。六月ごろって確か、八時くらいにはもうスマホに既読がつかなかった時期なはず。
「それってさ、制限がまた厳しくなったってこと?」
「……今思えば。もしかして、父さんが……」
「海利君ってほかになんか言ってなかった?学校のこととか。不満とか言わなかった?」
 弟君は考えるように顔を下に向けてハッとした顔で私を見やる。
「確か、いつか忘れたけど、腕に包帯巻いていた時がありました。その時も、俺は自傷行為するならさっさと死ねよって」
 ひどい弟だ。さっきから傷つけて、その傷をえぐるような発言ばっかり深山君に浴びせて。
「ほかには?」
「ないです。六月末にまた大きな包帯があったのは知ってますけど」
 心当たりがない。大きな包帯なんてどこに使うっていうの。
「それだけ?」
「それだけですね」
「弟君。私が言えることじゃないけど、そういうことを受験があるからとかそんな言い訳で人を傷つけるといつか大切な人を失うからね。弟君のお兄さんがもしこのまま死んでたら、残るのは後悔だけじゃないよ」
 なんでだろう。なんで、こんなに胸が苦しくなるのか。残るのは後悔だけじゃない。深山君の体から出て行く血を見ながら必死に願った。どうか、死なないで。生きていて。たまたま来てくれたおじさんのおかげで救急車に運ばれた。目を覚ますまでの一か月間、ずっと考えた。何がだめだったのか。何が彼をそうさせてしまったのか。なんで彼はあんな風に私と距離を取ろうとするのか。藤川のこと、昼休みのこと、何度も距離を取ろうとしてた。なのに、近づいて。今回も距離を取ってきて、でも病院に行って近づこうとして。
 生きていても、後悔しなくても、深山君は初めて話したころのような爽やかさのかけらもない。
 私はきっと、深山君が生きているのに後悔しているんだ。彼と距離を近づけようとするから。諦められないから。まだ何にも理解してないから。
 ケーキを一口食べても味はしなかった。何度口に含んでも甘いなんて、おいしいなんて感じなかった。カフェオレもおいしくない。
「じゃ、私帰るね」
「……あ、あの。な、名前、なんていうんですか?その、まだ聞いてないと思って」
「早川。早川七海。連絡先でも交換しておく?」
「いや、スマホ持ってないんで」
「……あ、そうなんだ」
 兄弟揃って持っていないなんてやはり親の教育が厳しいのかもしれない。
「俺も帰ります。では、また、機会があれば」
「うん」
 家には帰らず、また病院に戻った。
 弟君は、場所を知らなかった。だけど、私は知ってる。看護師に聞かなくても問題ない。
 スタスタと向かう。看護師に訝しまれたけど気にしない。もう、後悔はしたくない。後悔してそのまま逃げたくはない。
 病室につくと、そこに深山君の姿はなかった。
 おかしい。昨日までここにいたのにいなくなってる。病室のベットにもいないし、名前も書いてない。ここじゃない?
 もしかして、面会謝絶と何か関係が?弟君が病室に行けずに怒ってたのはこれが理由?
 じゃあ、どこなんだ。どこで寝てるんだ。
「そこ、何してるの」
「わっ!」
 後ろを向くと看護師が一人、私に声をかけたのだ。
「え、っと」
「どうせ、深山君でしょ」
「……はい」
 素直に認めた。深山君の担当だと思われる三島さんだからだ。一か月間、よく深山君のベットまで来ていたのを覚えてる。
「ついてきなさい」
「あの、すみません。勝手に、こんなこと」
「謝らなくていい。ついてこればいいから」
「怒られますかね」
「バレたらね」
「え?」
「ここよ」
 立ち止まった場所は、さっきの場所からだいぶ離れたところだ。病室だろうけど、なぜわざわざ。
「バレないようにね」
「……あ!」
「一人部屋なの。深山君のお母さまがそうしたいって言ってて。面会謝絶になってるけど、こんなことしてくれるお母さまは子供想いなのよね」
 ……子供想い。
 弟君の話を聞く限り違う気がした。
 看護師がノックをした。扉をあけられて、入ってと言われているようで深呼吸してから入ったのだった。
 昼間、先生が来た。僕が自殺を図ったことに対して説教はなかった。ただお前らしくない、お前に何があったのかと聞かれた。僕は、答えたなかった。
「さあ、なんででしょうね……」
 と、自分でもわけのわからない答えにもならない返事をしただけだった。
 諦めた先生はこの一か月間、クラスで何があったのか教えてくれた。教えなかった僕に教えるという罪悪感を植え付ける戦法だ。まるで、囚人になった気分だ。
 どうやら、僕が自殺を図ったことで警察が動いたらしい。まさか大ごとになるとはと思ったけどどうだっていいとさえ思えた。とくに僕とかかわりのあった中野、早川さん、藤川、あと太田だそうだ。太田は意外だった。僕は、太田と関わることは少なかった。ただ、印象的だったことはある。
『深山って男が好きだったりする?』
 いきなりそんなことを言われたのだ。びっくりした。隠していたわけじゃないし、バレていてもおかしくないとは思ってた。だけど、太田とはその前後で話したことはないし、同じ中学だったわけでもない。
 太田は、答えを聞く前に変なこと聞いたよなと謝って席に戻ってしまった。近くに誰もいなかったからよかったけど、いたらそれなりに話題に上がって大変そうだったからよかった。
 特に藤川は、警察に目をつけられているみたいでよく話を聞かれているらしい。彼は、何もしていないと一点張りだそうだ。だけど、よく聞くにも理由がある。だが、先生はその先の話はしなかった。
 中野と早川さんは、警察には積極的に答えたそうだ。中野は、自分を責める発言が多く、早川さんは、僕に対する文句が多かったらしいと先生から聞いた。
 文句とは何なのか昼も眠れん。中野には悪いことをしたと思ってる。クラスで初めてできた男友達だから変に気負わないでほしい。
 今、そんなことを言う手段はないけど。
 だって、両足、左腕、骨折してるし。体の痛みを和らげるやつもつけてるし。名前は知らん。医療関係者じゃないんで。
「学校には来れるか?」
 最後に先生がそう言った。
「さあ、どうなんでしょうね」
 僕は、聞くだけで疲れていた。学校なんか思い出したくもないし、クラスメイトとは関わりたくない。学校なんか行きたくない。
「……そっか、また来るよ」
 来るなよ。なんて、言えるはずもなく黙っていれば、出て行った。
 昨日、申請したおかげか一人用の病室に移動された。面会謝絶用の部屋が一人用なんだと勝手に思った。もし、面会謝絶室に変更したことによってお金がかかるならいくらするのだろうか。高いはずだ。何階かもわからないから、外の景色も気持ち悪いだけだ。
 もし、家に帰ったら。もし、学校に復帰することになったら。
 考えただけでも恐ろしい。骨折した足も腕も震える。恐怖を感じる。
 もう、戻れない。戻りたくはない。生きていたくもない。
 スマホに着信があった。奇跡的に何もなかった右手でスマホをタップした。父親だ。一度、電話を切った。だけど、また父親から着信が届く。
 逃げれないと思って、電話に出る。
「……海利か?返事くらいしたらどうですか」
 父親が怒ってるときはよく敬語を使う。怒っていますとみせるために。だから、敬語になった時は刺激のないように返事をしないと暴力を振るわれる可能性があるのでしっかりと聞いていないといけない。
「はい」
 そもそも、LINEから直接来てるんだから僕以外の人が出るわけがない。父親の買ったスマホなんだから。
 安心フィルターとかいう束縛アプリのせいでろくに連絡取り合えないし、八時に勝手に変更されたときは怒りを抑えるのに必死だった。家庭のストレス、学校のストレス。全部、抑えなきゃいけない。なのに、少ししたときに『安心フィルターの設定を変えました。海利は、スマホの一か月一ギガというルールを破ったので父さんは仕方なくこうしなければいけませんでした。守れるようになったらまた十時までにします』という、返事があった。僕は、声を荒げそうになったのを覚えてる。斗真の受験勉強の邪魔にならないように抑えたんだ。
 ある日、早川さんに返信が遅いことを指摘された。僕だってよくわかってる。だから、すぐに父親にLINEしようと思った。だけど、出来なかった。なんていえばいい?女子とLINEしたいのでフィルターの解除お願いします、といえばいいのか?無理だ。そんなの無理だ。だったら、ルールはちゃんと守るべきだったでしょう、と返してくる。
 結局、送り返すこともできずに僕はスマホを閉じた。バイトも頑張って探してやっていたし、コンビニの店長も優しくて、年上の女性のアルバイトの人も優しかった。だから、連絡が来るときは僕のことを気遣って早い時間に連絡をくれた。とてもやさしい人たちだった。
 だけど、ストレスをぶつける環境なんかない。今もこうやって父親が連絡をしてきているのだから。
「海利は、死にたかったんですか?死にたかったんならなんでしっかりと死ななかったんですか?なぜ、死にたいと思ったんですか?」
 答えられなかった。すぐ近くにいるように感じて声が出なかった。
「もしもし?」
「………………は、はい」
 弱弱しい声だった。
「聞こえているなら返事をしてください」
「……えっと」
「もういいです。死にたいなら、さっさと死んでください。あなたみたいな愚か者は世間で必要とされません。はっきり言って迷惑です。あなたの病院代、誰が払うと思っているんですか?誰が近所の方に謝るんですか?」
「……」
「そんなことも分からないような人、うちの子じゃありません」
 一方的に切られた。
 声が出なかった。スマホをぶん投げた。壁に当たって床に落ちる。
 こんなものさえなければ
 父親さえいなければ
 母親さえいなければ
 彼氏がいたことを姉が言わなければ
 斗真が受験勉強のストレスをぶつけなければ
 家族なんかいなければ
 藤川みたいなやついなければ
 中野と親しくしていなければ
 早川さんと出かけにいったりしなければ

 ああ、でも結局、家族を壊したのは僕で。話しかけやすかったのは僕なんだ。

 僕がいなければよかったのに。死んでしまえばよかったのに。あの時、完璧な方法がすぐに思いついて実行出来たらよかったのに。なんで、五階から飛び降りて死んでないんだよ。なんで、頭が守られてんだよ。頭からいったはずじゃないのかよ。受け身なんか一切取ってないんだぞ。
 父親だって、もう離婚したんだからうちの子なわけないだろ。いつまで家族ごっこを続けるつもりなんだよ。いつまでこんな地獄に付き合わなきゃいけないんだよ。
 気が付けば夕方。
 ああ、うっざ。こんなこと考えててもいつまでたっても終わりは見えないんだ。
 ノックオンが聞こえた。看護師か。それにしても早いことで。
 僕みたいな死にぞこないがいなければ一人分の仕事は楽できたんじゃないだろうか。ほかの患者を受け入れることができたんじゃないだろうか。
 とりあえず、適当に返事をする。ちょっとしてからドアが開いた。開いたドアから来たのは、看護師ではなくクラスメイトの早川さんだった。
「昨日ぶりだね」
 声が出なかった。父親の時とは違う。驚きで声が出ないんだ。ある意味恐怖ではあるけど、驚きが隠せない。
「暇、だよね?暇つぶしに来たよ」
 ニッコリと見せた笑顔に恐怖しながらも、無心を貫く。
「帰ってくれ」
 やっと出せた言葉がこれだ。あと、傷つけることができそうな言葉は……。
「やだよ」
「……黙れ。帰れ」
 もっと、もっと傷つけれる言葉を。
「やだ」
「いい加減帰れよ。どれだけいるつもりだ」
「まだ、一分くらいだよ」
「…………長い。帰れ」
「短いでしょ!映画でも一時間から二時間だよ!というわけで、そこの席に座らせてもらうね」
 スッと近くにあった椅子に腰おろしている。行動が早い。
「僕は、鑑賞される人じゃない」
「ハハッ!それ、面白いよ!真顔で言われると余計に!」
 と、腹を抑えながら笑っている。どうやらツボったらしい。
「帰れ」
「上映時間は何時間ですか?」
「一分」
「一時間!?やったー!」
 人の話を聞いていないのか?もういい。こういうやつは、無視するのが一番だ。
「ここ思ったより狭いね。一人だって聞いたからもっと広いのかと」
 無視だ。誰から聞いたんだという言葉は胃の中にでもしまっておこう。やっぱり膵臓にしようか。
「足とか大丈夫?」
 心配してくれているのか。ありがとう。だが、無視だ。
「ちゃんとご飯食べてる?」
 まじまじと見られている気がするが無視だ。
「お腹すいてない?」
 お前は、母親か!と言いたくなったがこれも膵臓にでもしまっておこう。
「そういえばね、おいしいスイーツ店があるからさ今度行かない?あ、でも、男子って甘いの苦手だったりするよね。深山君は、甘いの食べれる?まあ、無理なら無理でも無理やりでも連れてくけどさ」
 シレッと怖いことを言ってくるんだ。僕は、絶対についていかない。
「すごい痩せたよね。良いお店、一緒に行こうよ」
 そういう早川さんは少し、その……。ふと、顔が丸くなったような……。
「……」
「そうだ、退院したら一緒に街にでも行こうよ」
「……」
「聞いてる?」
「……」
「ちょっと?」
「……」
「ねえ!」
 ドンと腹を叩かれて電撃並みの痛みが体に広がった。
 そんなこともお構いなしにバンバンバンバン叩いてくる。
「聞いてますかー?」
 痛みで声すら上げられない。四肢の自由が利かないせいで動きにすら制限がかけられてやられるがまま。
「……き、聞いてます。はい」
「ならよろしい」
 やっとやめてくれたおかげで少し安堵した。この子、怖い。
「なんか言った?」
「何も言ってません」
「ほんとに?」
「ほんとにです」
「ふーん。あれ、それどうしたの?」
 机に置いてあったものに気が付いたんだ。
「ゼリーだってさ。斗真が、えっと、弟が見舞いに来てたらしくて、看護師から渡してもらった」
「……弟君、斗真っていうんだ」
「まあ。美女ナースって言われたーって、その看護師は喜んでたっていらん情報もらったけど」
「まあ、弟君、中学生のわりに肌奇麗だし、かっこいいもんね。それ、おいしそうだね」
 ちょっと複雑に思ったのはここだけの話。
「食べる?」
「え!?」
「一人で食べれるわけないし」
 早川さんと話さないつもりだったけどだめだった。失敗だ。今度来るときは、寝てるふりして時間をつぶそう。
「良いの?」
 上目遣いに見てくるので、目をそらした。
「好きなの選んでよ。僕は、なんでもいいし」
「じゃあ、これ!深山君も食べようよ。同じやつ」
 早川さんが手に取ったのは、よりにもよってブドウのゼリーだった。僕の嫌いなフルーツだ。
「どうかした?」
 気づかれてしまったらしい。
「いや、何でもない。いいね、ブドウ」
「でしょ!ブドウのおいしさに気づいてくれる人がいてよかったー!」
 気づいてないし、おいしくないだろ、ブドウなんて。ブドウがおいしいって脳内いかれてんのか?
「ブドウが嫌いな人っているけどさ、悪く言ったらブドウ愛護団体が許してないよねー。私も許さないし」
 変な愛護団体作るなよ気色悪いと口に出さなくてよかった。また、腹を叩かれたら気絶する気がする。できれば、せめてそのまま殺してくれ。
「ほら、食べよ」
「……」
「ブドウの良さをわからない人ってなんなんだろうねえ。おいしいのに、その良さに気づけないなんて損しているよね」
 ペリッと蓋をはがす。ブドウが嫌いですなんて口が裂けても言えない。もう、後戻りできないぞ。
「食べないの?」
 スプーンで大きな一口で食べながら聞いてくる。
「……た、食べるよ」
「あ!蓋がはがせないとか?腕、折ってるもんね。そうだ!私があーんってしてあげようか?」
 何その罰ゲーム。絶対に嫌だ。
「ちょっと、目、逸らさないでよ」
「……」
「しょうがないなぁ」
 何を勘違いしているんだ。
 僕が食べるように置いてあるゼリーの蓋をはがした。そして、使ってないスプーンで掬って僕の前に出す。しかも、ちゃんとブドウが入ってる。
 なぜ、ゼリーなんだ。せめて、羊羹にしてくれ。果物が入った羊羹とか聞いたことないけどそっちの方がいいから。
「ほら、あーんだよ」
 やっぱ、これは何かの罰ゲームだ。
 もしかして、昨日あんな風に八つ当たりしたからか?だから、僕を懲らしめようとしているのではないか?
「どうかした?」
「……あ、え、いや?」
「……もしかして、ブドウ苦手?」
 バレた。
 早川さんの顔を見ないように窓へと目を向ける。
「図星?」
 聞かなかった。そんな言葉は聞かなかったと頭の中で必死に唱える。
「ふーん。そうなんだ。深山君ってそんなことするタイプなんだぁ」
「……」
「深山君って女子に耐性ないんだね」
 何をそんなバカな。
「深山君だもんねえ。初めて話した時からそんな気がしたんだぁ」
 そんな動揺したつもりはないぞ。ただ、名前も知らない人だったから戸惑っただけだ。
「全然、私を見てくれないね」
 ここで見たら負けな気がする。負けというか今後、めんどくさくなりそう。
「……深山君って、なんで死のうと思ったの」
 思わず、早川さんを見てしまった。驚きとかそんな理由じゃなくて多分、この時は拒絶のようなものがあったのかもしれない。
「……関係ない、だろ」
「やっと見てくれたね。こういう手を使えば見てくれるわけかぁ。正直、気になるけど聞かないでおくよ。その代わり、ブドウが好きか嫌いか答えてね」
 どうやら僕は、高校に入学してから初めに話す相手を見誤ってしまったようだ。こんなんなら、塩対応でもして話しかけられないようにしておけばよかった。
 こういうタイプ、苦手なんだよ。ズケズケくるタイプ。ほんと、うざいときはうざい。
「さあ、二択だよ。好きか嫌いか」
 まじでイライラする。
「嫌い。ブドウも何もかも」
「え?果物嫌いなの?」
 自分のを大きく口を開けて大きな一口を食べながら聞いてくる。大食い野郎だ。
「嫌い」
「そう、だったんだ」
「人もブドウも」
「私も?」
 ちょっと茶化すように言ってくる。こういうところイライラする。
「あんたも、みんな、僕も」
「ふーん。じゃ、帰るね。ごちそうさま」
 ちゃっかり全部食べてしまっている。ゼリーを食べきっている。
「明日また来るね」
「……え?」
「いいじゃん。また、気持ち変わってるかもしれないし」
 じゃあね、とにっこりと笑顔を見せて帰って行ってしまった。
 気持ちが変わるって何を言ってるんだ。
 そもそも、なんでこの場所に早川さんが来れた?昨日、あんなこと言ったから来ないと思ったのに。なぜ、来れた?自力で探した?でも、場所はだいぶ変わったはずだぞ。変わりすぎて逆に見つけやすかった?それか、誰かが教えた?じゃ、誰が?斗真は、来れなかったのにどうやって早川さんを連れてくるんだよ。
 ノックオンがした。看護師だ。
「調子はどう?」
 僕の担当になっているらしい看護師だ。
「大丈夫です」
「あら、ゼリー食べたの?しかも、二つ?」
「さっき、人が来ました。それで、ゼリーを食べて。この病室に連れてきました?」
 やりかねないわけでもないけど、可能性のある人は聞いておくべきだと思った。
「ここ、面会拒絶なの。誰も連れていけるわけないでしょ」
 たしかに。
「看護師がそんなことしたら首になるわ。あなたが望んだことを出来なくて、もし仮にPTSDとかの障害があったら責任を取らなきゃならないの。そんな危険犯せないわ」
 確かに。納得。
 だが、障がいか。
 中学二年生のころだったはず。同姓と付き合ったことで父親は怒った。お前は、障がい者なのかと言い続けて、それからは別れたと嘘をついたけど結局のところ三年生になるまでは言われ続けた。テストの点数の低さから両親が喧嘩することもあった。ダメもとで塾に通わせてもらえないかというとき、母親はお金がかかると拒否。父親に言おうとすれば、血相を変えた。「あなたを守るためにいつも父さんと喧嘩になる身にもなってほしい」と。僕を守るために母親は父親と喧嘩する。だから、僕は塾には行かずに勉強した。だけど、何もかもわからなかった。できていた問題もできなかった問題も把握して自分なりに対策を取って勉強した。
 それでも、結果が良くなることはなかった。問題の一つに父親があった。そうやって試行錯誤しながら勉強しているのに「こんなやり方では公立高校には受かりません。一から問題を解き直さないと効果はありません」と、今までミスしてきた問題のメモも少ない小遣いで買った参考書もすべて没収。挙句、捨てられた。それからは、勉強に意欲が出なかった。やらないといけないんだと己を律しようとしても別の問題があった。
 両親の喧嘩だ。僕が、点数を取れてもほかの教科の点数が低いと説教された。そのたびに、母親が前に出て僕を庇おうとした。喧嘩はエスカレート。その喧嘩を近くで見るたびに怖くなる。次のテストで点数が取れなかったらまた怒られるんじゃないか。どれか一つでも点数が取れたら少しは許してくれないか。それで許されたことは一度もない。なら、無理だ。じゃあ、どうしたら……?
 思えば思うほど、僕は勉強するのが怖くなった。拒絶するようになった。机に向かっても喧嘩の様子が流れてきて、またいつかのように手を出すんじゃないかと思うと余計に動けなくなった。手も動かないし、むしろ、震えだす。
 早くやれ、早くやれ、そう思っても体は動かない。この間に、父親が部屋を覗いたらどうするんだ。もう、しゃべれない。そうなったらおしまいだ。早くシャーペンを握れ。問題集を読め。学校の教材を使って勉強しろ。
「大丈夫?」
「……っ!!」
 看護師の声に僕はハッとした。胸元に三島と書いてあった。今更だけど三島という看護師らしい。
「あ、え」
「すごい震えてたけど……寒かった?」
「あ、だ、大丈夫です」
 まさか、思い出しただけで震えるとは思わなかった。
 結局、僕は受験勉強はろくにはかどることもなく受験を迎えたんだ。
「そう?あ、このゼリー片づけるね。あれ、食べてないのは?」
「口付けてないんで、欲しければ上げますよ」
「残念だけど、今日シフト長いから」
 ブドウは食えってか。
「何か言いたいことあったらいつでも言ってね」
「……あの、ここって何階ですか?」
「…………七階よ」
 七階、か。
「あ、そうだ。明日、昼、レントゲンとるからね」
「え?」
「受け身がよかったのか飛び降りあまり問題なさそうだからね」
「……」
「よかったら、退院も早くなるかもね」
 三島ナースは病室を出て行った。
 嫌い。ブドウ、みんな、自分。なぜ、ブドウの話なのに自分も含まれるのか。ブドウが嫌いな自分が嫌いとか?確かにあり得る。ブドウ食べれなかったらやだもん。
 違う。そうじゃない。彼はきっと本心だ。だって、彼はマンションから飛び降りようとしたんだ。自分で。この目で落ちてくるのを見た。トラウマになるかと思った。だけど、彼はそんなこと考えもせず自分のことばかり。それはそうだろう。学校で藤川にあれだけやられたら嫌になる。私も嫌だった。クラスのみんなも暴言がひどかったというくらいだ。中野はそれ以上に言いたそうなことがありそうだったけど、一か月間、何も言っていない。ただ、深山君のことが知りたくて昏睡状態だった一か月間で中野とバイト先に行き、話を聞いたりした。だけど、ネガティブな発言はなかった。よくシフトの被る女子大生はとてもかわいくて嫉妬した。そんな話は今、関係ない。どうせ、言わないのなら深山君に直接聞いてやろう。どこか、いいタイミングで。彼の気持ちが落ち着いたときに。今の彼はネガティブだから。
 しかし、あの時、なんで死のうと思ったのなんて聞くべきじゃなかった。冗談でも言っていいことと悪いことがある。あの時は、全く考えていなかった。
 彼の顔を見たとき、絶対に触れてはいけない部分だったんだと思い知らされた。彼は、ひどく悲しいような拒絶するような言いたくないという意思をひしひしと感じた。『無』そのものを表しそうなくらいな目だった。すぐには消えたけどあの目はもしかしたら私のいないところでいつもそうなのだとしたら。そう考えると、怖くなった。またいつか同じことをしてしまうんじゃないだろうか。
 そんなことしないでほしい。してはいけない。彼がそんなことしていいわけがないのだから。
 とりあえず、お腹がすいたのでいつものスイーツ店に来た。
 今日は、二つほど頼んでいつもの席に着いた。だけど、なかなか食べようとは思えない。気を取り直してフォークでケーキを一口分にして口に入れるときに手が止まってしまう。
 無理やり、口に含んで呑み込んでも味はしなかった。
 やっぱり、深山君のあの目を思い出してしまう。あの『無』そのものを表すような目だ。ああ、そういうことか。私が高校で初めて見たときの深山君の目はそういうことだったんだ。『無』だったんだ。下を向いていたから正確な表情はわからなかったけど、今はわかる。『無』なんだ。
 彼はあの時から、そういった苦しいことに悩んでたのかな。
 ……あれ?だとしたら、藤川のこと以外にも考えることがあったってこと?弟君である斗真のことで?
 それだけでそんな顔するかな。じゃ、ほかにも何か。……離婚。
 離婚が、深山君を『無』にした一番の原因なのでは?
 じゃあ、一番は家族間の問題ってことじゃん。警察に言うべきなのかな。学校側だと思っているのはたぶん、クラスメイトも同じだ。
 でも、クラスメイトに家の問題もあるかもなんて言ったらどうなっちゃうんだろう。きっと深山君の戻れる場所はなくなる。なんとか、中野が彼の帰れるクラスにしようとしてるけど、みんなあまり乗り気じゃない。
 スマホにメッセの通知が来た。
『明日、深山に会いに行きたいから病室を教えてほしい』
 中野からだった。
 無視して、ケーキを食べた。味を感じないケーキを二つ。オーナーと話したい気分でもなくてすぐに家に帰った。

 昼休み、中野が声をかけてきたけど、無視して教室を出て行く。パンを食べたかったけど仕方ない。
「ちょっと、待ってくれ」
「……」
「待て、待てって」
 私の前に出て行く先を阻む中野。
「何」
「いや、昨日のLINE見たんならわかるだろ」
「あっそ」
「いやいや、それはないって。教えてくれ。頼むから」
「なんで」
「知りたいんだよ」
「面会謝絶。だから、無理」
「……え?面会謝絶?」
「そうなの」
「なんで知ってんの」
「聞いたから。だから、会えないよ」
「じゃあ、なんで早川は海利に会ってんだよ」
「……」
 なんで知ってんのよ。
「早川が友達と話してんの聞こえたけど」
「……」
 どうやら、隠せないみたい。
「図星?」
「うるさい。とにかく、教えない」
「それって、教えてくれるってこと?」
「なんでそうなるの!」
「いや、ほら、ドラマとかでよくあるじゃん」
「ドラマじゃないから。キャスティングもされてないし。演劇部の前でよくそんなこと言えたね」
「演劇じゃん。尚更、教えてくれるってことじゃん」
「どういう思考してんの」
「いや、大食いモンスターよりはマシな思考だろ。お前の胃袋どうなってんだよ」
「絶対に教えない」
 なんだこのデリカシーのない人は。大食いモンスターなんて言われたら教えるわけない。もとから教えるつもりはないし。
 大食いなんて……。
「お願い。まじで。な!」
「無理」
「今日、部活ないんだろ?俺もないし、頼むよ」
「いやだ。大食いなんて言われて許すわけないでしょ」
「……気にすんなって。良いから、頼む」
 少し太ったこと気にしてるんですけど!
「いやだ」
「わかった。じゃあ、スイーツ奢るわ。それで頼む!」
「いやだ」
「早川が欲しいって言ったスイーツ全部、買うから!」
「……いやだ」
 危ない。釣られるところだった。
「じゃ、じゃあ、どれだけ高い店のスイーツでも買ってやる。だから、頼む!」
「……いやだ」
「よし、わかった。高い店のスイーツも欲しいやつ全部買う!だから、頼む!」
「…………嫌!大食いなんて言われたし!そんなことで誘われるわけないでしょう!やり方が不審者の手口と一緒の人に教えるわけがない!」
「お!それって、教えてくれるってことだな!」
「だから、違うってば!」
「流石、早川!ありがとな」
 私の言うことを聞くこともせず、スキップしながら教室に戻っていった。

「だから、なんでついてくるのよ」
 放課後、深山君の病室に行こうと自転車で向かっているとその道中で追いついてきた中野と病院まで来てしまった。
「約束は約束だろ?とにかく、今日は、会いに行くって決めてたから」
「大食いとか言ったくせに」
「何、気にしてる?」
「別に」
「気にしてんだ」
「うるさい」
「良いじゃん。深山と二人でデート行ったんだろ?」
「……へ?え、なんで知ってんの」
 友達以外誰にも言ってないはずなのに。
「知らないわけないだろ。お前の友達が教えてくれたわ」
「……」
「きっと、その時も馬鹿みたいに食うことはわかるだろ。それに、お前の昼の机見たら絶対」
「……」
 なんか、恥ずかしくなってきた。
「ま、そんだけ食っても痩せてんだから問題ないだろ。あ、でも、着やせタイプって線もあるよな。着やせで実は太ってます的な……痛って!」
「デリカシーって知ってるかな!!」
 人をデブ呼ばわりして!これでも、食べた分は運動してるんですぅ!!
「あー、はいはい。デリカシーね」
「わかってないよね!?」
「まあでも、実際のところはわからんし?太ってるかどうか、信じるか信じないかはあなた次第的な?」
「あー、もう!帰ってよ!うるさい!それ、絶対に深山君に言わないで!!」
 こんなこと言われたら、深山君に幻滅されるかもしれないじゃない。
「そういえばさ、藤川、最近学校来てないよな」
「知らないよ、あんなやつ」
「やっぱ、気にしてる?」
「してません。もう着くから」
 深山君が入院してすぐ警察から取り調べがあったらしい。私は、気持ちが優れなくて寝込んでいた。次の日、頑張って学校に行けば、藤川がクラスで大はしゃぎしていた。クラスでいつも通り、だけど少し違うのは深山君の悪口を言い続けたこと。「あいつ、まじで面倒だわ。そのまま死んだ方がましだったよなあ」なんて、私を見てニヤつきながら言ったんだ。
 無視を決め込んでいたのに、藤川はわざわざ私の視界に入って煽ってくる。だから、その日から教室にいないようにしていた。ほんとにあの男は何も変わらない。だけど、一週間くらいしてから藤川は学校に来なくなった。
「ここだよ」
 ノックをして、返事がないけど勝手に入った。
「深山君?……あれ」
 病室にいなかった。ベットにいないのだ。
「ほんとにここ?間違えたとか?」
「いや、ここだよ!絶対」
「じゃあ、待つか」
 中野は椅子を私に出してきたのでそれに座った。中野自身は、壁にもたれるように待つだけだった。
 検査が終わった。左足のギプスは外れることになった。久々の左足の感覚は気持ち悪い。軽いし、床に足がつくし固定されてないし。これが、開放感なのかと思うとむしろ吐き気がした。ついで、左腕のギプスも外れた。これにも吐き気がした。もっと締め上げられるくらいの閉鎖的なものが僕にはあっているのかもしれないとなんとなく思ってしまった。なぜ、そんなことを医師の話を聞いているときに思ったのかは僕でもわからない。
 三島ナースは、車椅子に座る僕を病室まで送ってくれるらしい。プライドもくそもないせいでどうだってよくなっていた。
 僕はまだ体自体は安静にしていないといけないらしい。飛び降りたことで臓器にダメージがあってそれで手術をしたからだ。立ってもいいが走るなと。脳への刺激はその日のうちに対処していたらしい。知らんかった。
「よかったね。これで、少しは動きやすくなったんじゃない?」
「そうですね。あとは、右足ですね」
 右足のギプスもなくなったら、その時は今日と同じような感想を抱くのだろうか。
 病室がにぎわっている。おかしい。ここは個室だ。人がいることなどありえない。まさか、また早川さんが?いや、一人でここまでうるさくはできないはずだ。流石の早川さんでも無理な話だ。
 じゃあ、まさか、家族が?
「家族とは会いたくないって言いましたよね?」
「ええ、知ってるわ。誰かしらね」
 三島ナースも驚いている様子だった。どちらかというと、困惑に近いのかもしれないけど。
 ドアを開けた。
「よう、海利!」
 そこにいたのは、中野と早川さんだ。
「三島さん……」
「あら、来ちゃったのね。しょうがない、今日だけは目をつむるわ」
「いつもありがとうございます」
 いつも?それは、つまり三島ナースが昨日も同様に呼んだというのか?
「三島さん」
「じゃ、深山さん。私はまた後で」
「お、い……」
 言うことも聞かず出て行ってしまった。
 ここにいるのは、僕と早川さんと中野だ。どう考えたっておかしい。そもそもなんで早川さんは僕の病室を知っているんだ。場所は変わったはずなのに。すぐに見つけられるはずないのに。
「よ!元気か?」
「まあね」
「何があったんだよー」
「ちょっと、ベランダでバランス崩したんだ」
「まじ?それ怖すぎん?先生から飛び降りたって聞いたからびっくりしたわ。海利ってまさか、体幹ないんだな?俺と筋トレするか?」
「断っとくわ」
「おーい。嘘だろ。また、ベランダでバランス崩さないようにさ」
 きっと、中野は僕が飛び降りたと思ってる。だけど、今は僕に合わせてるんだ。そんなことしなくていいのに。
「なんで、来た?」
「……あー」
 チラッと早川さんを見た気がした。
「二人で話したい?」
「ま、そうだな」
「はいはい。モンスターは邪魔ですよねーだ」
 早川さんは、病室を出て行った。
 何か怒っているように感じたが気のせいだろうか。
「モンスター?」
「ああ、まあ、ね?」
 どうやら、怒らせたらしい。よく、怒らせた人と怒った人二人でここに来たよな。仲良いかよ。
「その、謝らないとって思ってさ」
 謝る?次の句を待つ。
「ほら、俺が海利の好きな人聞いて、それが藤川に知られたから。それと、海利が男と付き合ってたってこと」
「事実でしょ。僕は、男と付き合ってたし。別に、考えてなかったけど、そういうやつもいるよなって」
「俺は、べつにそんなつもりじゃなくて。まさか、あんな風になるとは思ってもなかったから。俺にも責任の一端があるかなと」
「謝れば、責任は果たせると?」
「そうじゃないけど」
「じゃあ、なに」
「俺、学校で待ってるから。海利が学校に行きやすいように待ってるから」
「行かない」
 被せるように告げた。
「僕はもう行かない。学校に行く必要ないと思ってる」
「……え、そ、それって」
「言葉の通り。もう、会いに来なくていい。嬉しいけど、気持ちだけで十分」
「……それって、もう会わないってこと?」
 いや、だからそう言っただろ。
「連絡くれれば会うよ。高卒認定の試験でも受けるから」
「クラスにはもう行かない?」
「行かない」
「藤川がいるから?」
「……それだけじゃないけど」
「じゃあ」
「あのクラスはさ。正直、気持ち悪いよ。人の機嫌ばかり気にして逆らわないようにしてる。ろくに話もしたことないやつに偏見だけで悪意ある視線を向けられて中身を知らないんだ。性能じゃなくて外見だけで見ているようなもんさ。中野みたいに正面から向かい合って話してくれる人が中野くらいなんだ」
「……それ以外は?早川は?」
「早川は……置いとく。まぁ、どうだろうね。話したこともないのに嫌われてるみたいだから。だけど、中野には感謝してるよ。僕が、男と付き合ってたことを知っても普通だったから」
「……」
「ありがとね。もう、来なくていいよ」
「……学校、やめんの」
「そういってんじゃん」
「そか。そうか。わかった。じゃあ、また勝手に連絡入れて海利のとこ行くわ。それくらいは、良いだろ?」
 僕は、頷くだけにした。
「ならいいよ。俺は、それに不満はないし。じゃあな」
 中野は、僕にあるものを渡して出て行った。
 正直、拒絶して二度と会いたくないと言われた方が僕は嬉しかったのだけれど。
「なんだよ、これ」
 それは、演劇のパンフだった。とりあえず、自分のカバンに入れておいた。
「中野、出てったけど……」
「ああ、まあ」
「話し終わった?」
「終わったよ」
「ギプス、取れたんだ」
「まあ、良い感じに治ってるらしくて。あと、半月もしたら右足も取れるって」
「よかったね」
「そうだね」
「退院は?いつになりそうなの」
「……一か月後くらいかな」
「そっか。じゃあ、文化祭には間に合うかどうかだね」
「……確かに」
「どうかした?」
 感づかれてしまったのか。
「なんでもないよ。気にしないで」
「そう?」
 とりあえず、頷いた。
「そうだ、文化祭、一緒に回ろうよ。一年生は、地域の商品を販売するんだって」
「へー、楽しそうだね」
「そうなんだよ!おいしい店ばっかりだから絶対に楽しいよ!」
 文化祭、僕はその時までいるとは思えない。先生にも伝えてあるし、手続きはこれからだ。
 それからは、文化祭の話に花を咲かせた。ずっと食べ物の話ばかりでそんなに期待しているのかと思わなくもなかった。
 思えば、八月に一回、映画を見に行った日があった。その日、おいしそうな店を見てはつられていた。
 食べるのが好きなのだろうか。でも、一緒に昼を食べたけどそんな風には見えなかった。じゃあ、特別食べるのが好きだということではないのか?
 わからん。女子の考えていることなどわからん。今もこうして話しているけれど、その笑顔の奥には何を考えているのか、全くわからない。もしかしたら、食べ物のことを考えているかもしれないのだ。
 女子の笑顔は仮面ってか。誰だよ、こんなこと僕に言ったやつは。許せん。
「じゃ、また明日来るね」
「あのさ、もう、来なくていいよ」
「え?」
「ほら、部活とかあるんじゃ」
「ないよ」
「演劇部でしょ?」
 さっきのパンフで思い出した。確か、早川さんは演劇部だ。
「……あるけどさ。でも、一緒にいる方が楽しいし」
「部活は行った方が……」
「今日は、部活ないの。明日も、終わってから行くつもりだよ」
「あ、そうだったんだ。ごめん」
 何か怒らせてしまいそうで謝った。
「じゃ、明日も行くから!またね!」
 考えてみれば、早川さんは、話し上手だと思う。話題を出すのが早いし、会話を弾ませるためのノウハウを知ってるのだ。だから、話していると時間は過ぎるし、気がつけば夕暮れ時だ。初めて会話した時も話しやすいなと思った。不快感がない。
 ここは七階らしい。高いのか低いのか。この病院がどれくらいの大きさなのかもよくわかってない。だけど、窓の外を近くから見てみればそれなりに地面から距離がある。
 マンションの五階から飛び降りるよりも確実に。窓も開く。ただ、風が強い。とりあえず、閉めることにした。
 いつでも、飛び降りることができそうな場所だし、飛び降りれば即死だろう。次は、完璧に……。
 中野からもらったあのパンフをしっかり見ておこうか。あれは何が言いたいのか。
 そのパンフには演劇の地方の大会があるらしい。その大会に演劇部が出るというものだった。来週あたりが本番なのによくもまあ僕のところに来ようと思うよな。やめてくれよ、ホントに。
 それから、一週間、早川さんは夕方に、遅くて七時くらいに来ては話していた。今日、あったことが主だった。
 そして、今日も。
「セーフ!!」
 病室に急いできたのか息を切らしている。
「まだ、あと三十分くらい大丈夫だよね!」
 目はキラキラと輝かせている。
「……そうだね」
 なぜこんなにも来るのか。毎日のように来ては気が済むまで話す。凄い精神力だと思ってしまう。
「ね、明日、何の日か知ってる?」
 知らん。
「明日、土曜日だよ」
「あー、えっと、ゆっくり風呂に入って睡眠をとれる的な?」
「違う!!」
「じゃあ、今日、ゆっくり風呂に使ってにおいも疲れもとれるとか?」
「え!?わ、私、もしかして臭い?」
 肩とかを嗅ぎながら焦っている。
「別に、そうじゃないけど」
「な、なんだ、よかった……」
 心底ほっとした顔で。
「何もわからない?」
「……何も」
「その体ってさ、外出れる?」
「無理だけど。外出許可を取らなきゃいけないし」
 今からじゃ到底かなわない。
「…………そ、っか。そうだよね」
 その顔はさみしそうで。
「じゃ、私やっぱ帰るね。明日、部活が朝からあるからさ」
「そうなんだ」
「じゃあね!」
 この日は、大した話もせず早川さんは帰ってしまった。以前、中野がくれたあのパンフが関係するのだろうか。考えてみても想像はつかなかった。あのパンフどっか行ったし。
 翌朝、まだ八時にもならない頃。ドタバタとうるさい声で目が覚めた。乱暴に開くドア。絶対に、三島ナースじゃない。
「おい、いつまで寝てんじゃボケ!着替えろ!」
 そこに出てきたのは、なんともうるさそうな表情をする中野だった。
「……」
 何を言ってんだこいつ。
「はよ、着替えろ!」
 鬼のようなスピード感で急かしてくる。
「……わかったから」
 とりあえず、着替えた。一応、母親が服を持ってきてくれていた。まだ退院するわけじゃないからいらないと思っていたけど、なぜだか今日必要になった。
「おし、行くぞ!」
 車いすに乗せられた僕は、中野が押して車に乗せられた。
「車に乗ったって誰が運転するんだよ」
「私よ」
「……三島さんが?」
「そうよ」
「でも、外出許可とか」
「俺がもらった」
「なに、勝手なことを」
 そんなことできるのかよ。
「三島さんも乗り気でよかったっす」
「どういたしまして」
 どうやら、できるらしい。謎の団結力で僕を外に連れ出すのかよ。
「激しい運動さえしなければ問題ないから」
「病室でおとなしくしていたいんですけど」
「おいおい、バカかお前」
「何が?」
「今日は、演劇の大会だぞ?いかないわけないだろ」
「……」
 こいつ、それで朝からうるさいのか。昨日、早川さんが何の日か聞いてきたのは演劇の大会があったからなのか。
「でも、早川さんって演技するの?裏方でしょ?」
「あのな、今回は演技するって自分から志願したらしいぞ。誰かさんのせいでな」
「誰だよ」
「さあな」
 おい、待てよその顔。
「どうせ、顧問に言われたんじゃ」
「全く違う。まあいい。行くぞ」
 おい、やっぱりその顔。
 しかし、僕の言うことなんぞ聞くこともせず会場に向かった。
 車いすのせいかすごく人に見られる。うわ、あそこに車いすのやついるぞ、みたいなことを言われている気が。
「もうはじまるみたいだな」
 車で遠くまで来たような気がしなくもない。会場は意外にも人であふれていた。自分の高校の演劇部は見ることができるらしい。
 車いすの場所はないため、舞台には歩いていく。
「……っ」
「歩くのまだ駄目な感じなのか?」
「足とかが骨折でわかりずらいだろうけど、腹筋とかもう終わってる。腹に刺激を与えられたら激痛」
「生まれたての鹿みたいな動きしてるもんな」
 おかげさまでめちゃめちゃ人に見られてる。
「俺の肩貸すのはいいんだけど、それにしても体力なさすぎないか?」
「仕方ないだろ」
「鹿だけに?」
 なんだこいつ、だるすぎだろ。
 何とか椅子に座れただけなのに疲れが来ている。こんなに体力がなくなるものなのか。一か月も寝てたらしいし、それもそうなのかもしれないけど。
「今日、これが終わったらリハビリね」
「……いやだ」
「文句はダメだぞ。絶対に行けよ~。演劇見させてんだから」
 中野が行きたいって言い出したんだろうが。僕が行きたいなんて一言も言ってない。
 演劇の主な話の流れは、主人公のAがひもで首をつって自殺を図る。だけど、そのひもはとれてしまい自殺は失敗。Aについた首の跡に気づいたBとCがAにその首の跡はどうしたのか聞く。そう簡単に聞けるはずもなく、今度はA周辺の人たちに話を聞く。その話を聞いていく中でAに何があったのかを知る。BとCは、Aが二度目の自殺を図るんじゃないかと思い、焦る。それは杞憂に終わることはない。寸前のところで自殺を止める。BとCの説得によってAはこれからも辛いことや苦しいことがあっても人を頼りながらでも生きていくことを誓う。エピローグに、頼るのは恥ずかしい気持ちもあるけど頼れる人がいるのはいいものだと残して幕を閉じる。
 早川さんは、Bの役だった。演劇のことは何もわからないけどとても熱のある演技ではないかと思う。というか、Bが、早川さんそのものだ。涙の演技はアドリブなのか否かわからないけど、女優に向いているんじゃないかと思った。
 まあでも、女子は泣くのが得意とか聞くし、その辺はわからないけど。中学時代の友達がそんなこと言ってた。
 僕は、この演劇をどんな顔してみていただろうか。まるで、分からない。怒りを感じたようにも思うし、途中、聞いてられないくらいに苛立ちを覚えた気がする。その時、表情管理はできただろうか。隣に中野がいる中で僕は、普通な顔していられただろうか。もしかしたら、憎しみにも似た表情を浮かべたかもしれない。
『人生にはきっと幸せなことがある。だから、一緒に生きようよ。もっと、人を頼ってもいいんだよっ……』
 ああ、これだ。早川さんの言ったこのセリフが僕は大嫌いだ。

 演劇も見終わり、早川さんを待とうとしていた中野だったが演劇部は、この後もやることがあるようで会うことは難しいようだった。
「海利、どうだった?わが校の演劇部は」
 なぜ、中野がどや顔で聞くんだ?と思いつつ胃の中でとどめておいた。
「よかったよ」
「そうか!これは、早川も喜ぶぞ!」
 そんなことないと思うけどな。
「実はな、あの脚本書いたの早川なんだよ」
「早川さんが?」
「そうなんだよ。この大会に出るってなって脚本を書かせてほしいってお願いしたらしいぜ。主役じゃなくていいから出たいって志願までして」
 だから、あんな脚本になったのか。あんなものを許せた顧問はどういう心情だったんだろうか。
「……海利?どうした?」
「え、ああ。すごいよなって」
「だよな!俺、脚本とか書けないから素直にすごいわぁってさ。しかも、演技だぜ?どうやって表情を作り出すんだろうな」
 中野は、病院に戻るまで興奮気味に話していた。
 それからも、昼前まで話していた。
「うわ、雲行き怪しくね?」
「夕方は……雨らしいね」
 スマホで調べると、夕方は高い確率で振るらしい。
「まじかー。ま、いっか。じゃ、俺は、部活だから。じゃあな」
「おう、頑張れ」
 中野が出て行った病室で僕はため息をついた。
「……あんな脚本、書けなくて正解だろ」
 気が付けば、そんな悪態をついていた。

 外が曇り始めた。スマホで調べた通り、雨が降るんだろうか。窓を全開にする。外の空気はまずいな。湿気がうざい。秋も近いせいか少し涼しい。どんよりしている。窓の下はマンションよりも高い。このままいけば、即死だ。
 マンションの僕の部屋、汚された跡がある。汚すというよりは散らかされたが相応しいか。まさか、あの日父親がマンションに来るとは思わなかった。来れるはずもなのに、インターホンが鳴って。早川さんと出かける前だというのにあいつがやってきた。結局、その日に僕は自殺を図ったわけで。今こうしているのは誤算でしかない。本当は今、この世にいないはずなんだ。
「深山君!何してるの!!」
 ノックの跡に聞こえた声だ。今日、演劇部で脚本も演技もしていた人の声だ。
 焦ったのか近くまで来て、少し怒りを含ませたような顔になっていた。
「何もしてないよ。外の空気を吸いたかっただけ」
 窓を閉めた。
「な、なんだ……。びっくりしたぁ」
「今日も来たんだね」
「うん!だって、今日の演劇の発表来てくれたんでしょ?」
「中野に連れてかれただけだけど」
「素直じゃないなあ~。ありがとね!来てくれて!」
「……大会は?終わったの?」
「終わったよ。だから、来たんだよ」
「受賞でもした?」
「残念ながらしませんでした……」
 ひどく悲しそうな顔だ。
「そりゃそうだろうね」
「……え?」
 こんな風に言われるとは思ってなかったのだろう。
「で、でもでも、見に来てくれたんならわかると思うけど、あの脚本、私が初めて書いたにしては上出来じゃない?」
「……」
「もしかして、深山君的に悪評だった?」
「……僕はさ、きれいごとが大っ嫌いなんだ」
 早川さんの目を見て言う。少し、怖気づいているようにも見える。
「き、きれいごと?」
「どんなつもりで書いたのかなんてわからないし、誰に当てたものなのかも知らないけど。あれだけ劇中にきれいごとが並べられたら、正直うざい」
「……そ、そんな、言い方」
 中野の言い方からして早川さんが誰に向けて言いたかったのかはわかる。だからこそうざかった。
「人のことを誰かの意見だけで決めつけるやつが、僕は大嫌いなんだ。どうせ、その脚本も僕の周りのことを調べて書き上げたんだろ」
 早川さんの顔が歪むのが分かった。唇を噛んで、目は揺れて、肩は震えるようにして。
「演劇部って演技上手だよな。それも、僕に謝らせるためにやってんの?もういいか?面会謝絶なのにここに来るなんて、人の気持ち考えていない証拠だよ。さっさと帰ってくれ」
「……み、深山君は、そ、そんなこと言う人じゃない!」
「悪いけど、買いかぶりすぎだ。君みたいな脚本家は売れないだろうね」
「だとしても、そんな意地悪言わなくてもいいじゃん!」
「意地悪でも何でもない。本心だよ」
「なんで、そんな……ひどいよっ」
「元々こんな人間だから」
「違う」
「僕のこと見てない」
「違う!」
 被せて言った。
「違う!深山君はそんな人じゃない!だって、バイト先の店長も同じ時間のシフト被る人も優しくていい人だって!深山君の弟君だって、帰ったら食事作ってくれるって!私と話すときも、初めて話した時も優しかった!いつ話しかけても嫌がらなかった!初めて、デートした時だって、私がコーデしたことに文句言わなかった!楽しそうにしてくれてた!昼休みだって、一緒にいたいってわがまま聞いてくれたじゃん!深山君が、そんなこと言うわけない!」
 やっぱり、僕のことを聞いて作ったんだ。何も知らないくせに。
「人のこと詮索するような人に言われても。演劇部なだけあって、流石の演技力だ。そうやって、泣いていればいいんだから。バイト先にもうまいこと演じて聞きだしたんだろ?周りが言っただけの僕なんてただの偽物だ。君はいつまでも偽物に対してきれいごとを言っておけばいいじゃないか。その涙も偽物なんだろ。偽善者が」
 涙を拭いて、それでもあふれる涙を必死に拭って、歯跡が残るくらいに唇を噛んで。僕の目を見て、必死に首を横に振って。
「私、そんな人じゃない……っ」
「自分では気づかなかったのか?それだけキャラづくりできるなら今後は演劇部期待のエースだな」
 と、あざ笑う。
「……深山君は、そういうこという人なの?」
「君みたいな偽善者にはよく言うよ」
 涙をポタポタと床に落としている。
「私、深山君が演劇見てくれたの嬉しかったのに……。ひどいよ……っ」
 僕を睨んで、走って病室を出て行った。
 これでいい。これ以上、あいつのことは考えたくない。この先、死ぬためにはあいつは邪魔だ。こんな地獄、いつまでも生きていたくない。
「ドアも開けっ放しでどうしたの?」
 三島ナースだ。
「いえ、何でもないです」
「そうは見えないけど?さっき、いつも来てる女の子が、走ってったけど」
 三島ナース、もしかして、聞いてたんじゃ……。
「……僕が、悪いんですよ。性格が悪いので」
 ここまで傷つけないと、きっとあいつはいつまでも来る。少し愚痴ったくらいじゃ、何ともならなかったんだ。セリフにイラっとしたし、会いたくないのは事実。あんなもの生産され続けてたまるか。誰の心にも寄り添わない作品なんか消えちまえ。
 もう、会わないことに期待したい。
 窓の外では土砂降りの雨が降っていた。
 深山君が、演劇を見に来てくれたことすごくうれしかった。演技に集中しててどこにいたのかわからなかったけど。中野が、好評だったって言ってたし、来たことも連絡くれてたからニヤけが止まらなかった。大会が終わって、すぐに病院まで親に送ってもらった。大会は、現地集合だったから車で送ってもらったからだ。
 まずはお礼を言わないと。それで、感想を知りたい。もし生きたいって思ってくれたら良いな、なんて思ってた。
 深山君が寝ていた一か月間、中野にも協力してもらって深山君のバイト先に行ってどんな人だったか聞いた。バイト先の人はその時、入院していることを知ったらしい。
 弟君もあの後も何度か会ってたからそこで話を聞いた。
 優しいお兄さんで、優しいアルバイトスタッフ。
 だけど、それなりに問題も抱えてて。学校も家族も。どっちが一番つらいのかなんて本人から聞いたわけじゃないからわからない。
 そもそも、深山君に聞けるわけないじゃない。なんで死にたいと思ったのかなんて聞いても場の空気が悪くなりそうで話を変えた。
 ムカムカする。偽善者だのきれいごとだのそれも演技なんだろとか。すっごく腹立つ。
 しかもこんな日に限って雨だし。親には、病院には長くいるかもしれないからって帰らせた。
 何よりムカついたのは意地悪じゃなくて本心って言われたことだ。できれば、何も言わないでほしかった。本心じゃないって否定できたかもしれないのに。
 中野にLINEする。乱暴な言葉づかいで。
『違った!深山君、全然好評じゃなかった!嘘つくな!なんで、こんな悲しくなるのよ!うざい!うるさい!』
 すぐに既読がつく。
『今どこ?』
『病院から歩いて帰ってる』
 なぜこんな返信をしたのか。
『今から、向かう』
 来なくていい。こんな雨の中、泣いてる女のところに来なくていいから。元から嫌われ者だ。取り繕ってるだけ。
 だけど、なんで、あんな言われ方しなきゃならないの!脚本だってうまく出来上がって、顧問もみんなも良いって言ってくれたのに。先輩に関しては申し分なしだったのに。賞だって取れた!少しだましてやろうと思っただけなのに、あんな言い方して!あんなに言われるなら最初っから受賞したよって言えばよかった。
 もう、最悪。雨なら傘持ってこればよかった。ずぶ濡れだし。嫌になる。頑張って化粧したのにこれじゃあ、取れるじゃない。髪の毛だってこの日のためにいつも以上に手入れしたのに。
 あんな男……。
「早川」
 前にいたのは、中野だ。傘までさして。息を切らしてるから走って来たんだろうけど……。
「来ないでよ!!」
 涙なんか見せたくない。
「嘘だったじゃん!みんなして深山君は私のこと好きだって言ってたくせに!だから、私だってアタックできたのに!嘘つき!!」
 思わず、顔を下に向ける。もう、嫌だ。
「とにかく、濡れるから入れよ」
 小走りに駆け寄った中野の体を突き放す。
「来ないでってば!!」
 勢いに負けたのか当たった場所が傘で飛んでいった。中野まで濡れていく。
「私だけ想いあがってバカみたいじゃん!一緒にいれば、何かわかるかもとか。一緒にいれば、少しは味方になれるかもとか。全部、自分勝手!エゴだったんだよ!そんな風に思われてるんなら最初っからこんなことしなかった!こんなブスと一緒にいたいわけないもん!ちゃんと考えればよかったんだ!こんな女じゃなかったら」
「早川……」
「深山君に嫌われたくなかった……っ!」
 手で顔を隠した。見られたくない。こんな姿。こんな顔。こんな気持ち。
「……」
「なんで来たの……。来なくていいよ……。帰ってよ……」
「……濡れるぞ。近くまで送る」
 それだけ言って、中野は別れるまで話すことはなかった。ただ黙って隣を歩くだけだった。
 涙を流しながらでも、気に掛けることもなく。それが心地よかった。
「傘、使うか?」
 分かれ道で、そう聞かれた。
「いらない。どうせ、風呂入るし」
「……そう。じゃあな」
 私に振り替えることもなく、中野は帰っていった。
 雨は、ますます強くなっていった。走る気力もなくて濡れながら家に到着した。
 雨に濡れすぎたせいか、次の日、私は、熱を出して三日寝込んだ。

 熱が引いて、学校に行った。気持ちは晴れないけど体は晴れたように元気なので行くしかない。
 相変わらず、藤川は学校に来ていない。
 そう、あれは確か、クラスメイト全員が事情聴取を受けてからだ。何があったのかはまるで分ってないし、仲のいいはずの太田もほかの友達と話すくらいで藤川については何も話さない。先生も同様に話していない。
 こうも二か月以上来ないと藤川と仲のいい人たちは心配している。というよりは、気になっているだけで心配しているようには見えないけど。太田だってその一人だからきっとほかもそうなんだと思う。
 それに、一学期よりも雰囲気が良くなっているようにも見える。ピリッとした空気感がそこにはない。
 これも全部、深山君のおかげなんだろうか。自殺を図ることで誰かが告げ口。警察が動くほどのことがあって事情聴取。
 ……聞いてた話と違う。
 深山君が自殺を図ったから警察が来て事情聴取を受けたはず。なのに、私の推論だと警察は事件だとして考えていることになる。子供が自殺しても執拗に生徒に話を聞くのか。藤川が警察に今も話を聞かれてるならそれは事件だとみても不思議じゃない。先生も何も言わないし、間違いではないのかな。
『周りが言っただけの僕なんてただの偽物だ』
 これもまた偽物。私は、今見てるものさえも偽物なのかもしれない。みんな何かの仮面をつけて。みんな何かを歪曲してみていて。みんな何かに偏見を持ちながら。
 これだってただの憶測だ。警察から聞いた話でも先生から聞いた話でもないんだ。
 部活も大会が終わって、今週は休みなので暇だ。病院に行っても謝ったところで話を聞いてもらえるわけがない。
 今日は、中野は話しかけに来なかった。気を使ってくれたんだ。
 部活の人たちも気にかけてくれた。クラスの友達も。だけどまさか、深山君に会っていて、嫌われたかもしれないなんて言えるわけがない。
 こういうとき、大人はお酒でも飲んで忘れようとするんだろう。だけど、未成年だ。高校生だ。そんなことできるわけがない。
 ならば、スイーツでも食べようか。いや、オーナーにこんなこと言ってしまいたくはない。
「……なんで、来ちゃったんだ」
 ついたのは病院だった。習慣づいてしまった可能性がある。
「バカだ、私」
 ため息が出た。帰ろう。どうせ、会っても気まずいだけだし。
 なぜだか、受付の方まで来てしまったが引き返した。
「あの、すみません」
 そんな声に顔を上げる。
「海利って高校生この病院にいます?」
 何だこの人。怪しい。
「……」
「すみません、いきなり。実は、心理カウンセラーとして呼ばれてまして。場所がわからないので知っていれば教えていただきたいなと。同じ高校の制服を着てらしたんで、声をかけたんですが……。知り合いとかではないですか?」
「つい最近、嫌われましたけど」
 何を言ってるんだ私は。この男性に変なこと言わなくても。
「そうだったんですね。それは、大変苦しいものがあったと思います。失礼ですが、病院で会ったことは?」
「ありますけど」
「よろしければ、病室とかお尋ねしてもいいですか?連絡がつかないのでどうしようもなくて」
 一見、心理カウンセラーのような人には見えないけど。どことなくスマートでビジネス的な印象がある人だけれど。
「……ほんとに、心理カウンセラー?」
「ええ。名刺、渡しておきましょうかね」
 名刺入れから名刺を取り出し、私に渡してきた。名は、四宮勇作らしい。
「信じていただけましたかね?」
「……703です」
「ありがとうございます。あなたは、これから703に行きますか?」
「行かないです」
「そうですか。時間を取ってしまってすみません。ありがとうございます」
 四宮さんはエレベーターで行ってしまった。
 どこか誰かの面影を感じる。気のせいだと思うけれど。
 私は、帰ろう。どうせ、嫌われてるわけだし。