俺は、兄貴と仲が良かった。兄貴は、いつも俺に勉強を教えてくれた。小学校の時の夏休みの宿題も姉さんは部活で家にいないことが多いし、父さんはあまり関わりたいと思わない。母さんも正直、面倒なところがあるから話したくない。だから、必然的に兄貴に教えてもらっていた。兄貴は、教えるのが上手だった。俺のわからないところをピンポイントで理解してくれて、教えてくれる。だから、俺は兄貴を尊敬してたし、好きだった。俺と遊ぼうと言えば、遊んでくれるし、ゲームもしてくれる。大親友なんじゃないかってくらいいつも一緒にいた。家族だし当然だと思うけど、うちは姉さんがいないことがほとんどだし、夕方に帰ってきても、わけのわからないノリで兄貴も俺も困らせる。面倒だし、俺はできるだけ避けるような生活をしていた。
 だけど、いつからか兄貴は勉強を教えてくれなくなった。はっきりしているのは、中学生に入ったころ。兄貴は、父さんに逆らうことなく運動部に入った。元々は、文化部に入ると言っていたのに。運動部に入って明らかに俺といることも家にいることも減った。俺に勉強を教えるなんてないに等しかった。部活がなくても、疲れとかもあると思って俺は、話しかけたりするのはやめた。まだ、小学六年生のころだし、部活がどういったものかもわかってない。だけど、疲れている姿は目で見てもわかった。
 そうやって、少し距離を取っていたのに、部活のない休みの日、俺よりも早く起きていたことがあった。驚いた。いつも部活がない日は俺よりも起きるのが遅いし、昼近くに起きることも普通だった。しかし、今は違う。なぜ、こんなにも早く起きているのか。誰も起きないような時間に俺は起きてる。休みの日だし、十時くらいに両親は起きる。なのに、なんで朝の七時に起きて朝食を食べているのか。不思議でしょうがなかった。疲れは?睡眠は?そんな疑問も浮かんだ。
「あ、おはよ。休みなのに朝早いんだね」
「……お、おはよ。え、兄貴って今日、部活?なんでこんな早いの?」
「…………まあ」
 曖昧な反応だった。
「斗真、何を言ってる。本来、斗真も海利もこの時間に起きるものだろう。生活リズムが変わるのは良いことじゃない。なのに、海利ときたらいつまでも部活がないからと言い訳して昼近くまで寝ているだろう。だから、今回は起こしたんだ」
 父さんが、キッチンから出てきた。
 嫌な想像が安易にできた。想像したくなくても想像できてしまう。こんな残酷なことがあるだろうか。
「斗真だっていつもこの時間に起きるのは生活習慣を乱さないためだろ」
「……」
 言い返せなかった。もともと、俺は父さんに怒られたくないから小学生である以上、部活がないから早く起きても体力的な問題はない。だけど、兄貴は違う。部活もあるし、授業もある。テストで結果出さなければ父さんに怒られる。寝ても疲れが取れないことだってあるのに。
 父さんは、海利を起こしたんだ。生活リズムが、とか言って人の気も知らないで。俺が兄貴の気持ちをわかるわけじゃない。だけど、こんなの怒りを覚えないはずがない。
「海利は、起きなかった。休みの日だからとこんなことするなら起こしてあげるのが親の務めだ。斗真もこんな風な人間になってはいけない。良いね?」
「……」
「良いですね?」
「……はい」
 俺は、しぶしぶ返事をした。答えたおかげかキッチンに戻っていった。
 その間、兄貴が言葉を発することもなく、表情を変化させることもなかった。

 俺は、父さんに怒られないために毎日、平日休日関係なく同じ時間に起きる。休日の今日も朝六時に起きて朝食を食べる。掃除をして、三十分という短いゲーム時間を終えたら、机に向かって勉強をする。昼食を食べて、また机に戻り勉強。夕飯を食べて、また机で勉強する。たまに兄貴にわからない問題を聞く。
 休みの日は、大体こんなものだ。
 友達はいても、わざわざ休みの日まで遊ぶことはないのでこの生活は苦しい。勉強に意味を見出せない俺は、たいていの時間を読書に費やしている。父さんが部屋に来ることがままあるので、耳はいつも澄まして来たら、あたかも勉強しています、という状態を作っておく。
 たまにバレて怒られるけど、兄貴ほど怒られるわけじゃない。だって、兄貴はテストで低い点数を取ると怒られている。一教科良い点数でも他がだめなら説教。点数が取れないなら部活でレギュラーになれと言われていたが、一年生の段階で初心者で二年生のレギュラーの人と同等のレベルになるのは無理な話だ。にもかかわらず、父さんは理不尽に兄貴に怒鳴る。そういう日は、自分の部屋に戻る。怒鳴り声は部屋にも聞こえるから、そういう時は、兄貴には悪いが小説を読ませてもらっている。
 俺と兄貴は、仲がいい。小さいころから遊んでるし、一緒にゲームもする。兄貴は、俺にゲームで勝てることはないから兄貴が楽しいのかと聞かれたら答えようがない。
 勉強だって、兄貴に教えてもらっているときが一番楽しい。たとえが、分かりやすいし、分からないところは文句も言わず何度でも教えてくれる。たまに、奢れと言ってくる時もあるけど。そんなときは、お決まりで水を買ってる。喜んでくれることはない。当たり前だ。
 今日は、兄貴は部活がないらしい。だから、掃除が終われば、部屋で勉強でもするんだろう。だけど、兄貴は、なかなか部屋に戻ってくることはない。不思議に思ってリビングにこっそり向かうと、父さんの苛立ちを隠してますと言わんばかりの声が聞こえた。
「父さんは、勉強しなさいと言いました。部活だけじゃなくて、勉強もしないと、テストで点数が取れないと。なのに、この結果は何ですか」
 そういえば、兄貴から初めての中間テストで点数とらないといけないとか言って、学校にこもって勉強していると聞いたことがある。
 兄貴は、点数が悪かったのか。
「こんな、英語六点って何ですか?勉強したんですよね?それでこの点数……。範囲も分かっていて勉強もできる環境があるのに、この点数……。お母さんから聞いたけど、部活がないのに帰ってくることが遅いって聞いたけど、どういうこと?遊んでたの?だから、こんな点数?」
 それは、違う!とか言って俺が飛び出すことはない。だって、兄貴の問題だ。兄貴は、兄貴の言葉で言わないと言いたいことも言えないはずだ。母さんのような何も理解できずに反論してしまえば、かえって状況を悪化させるだけだ。
「……海利。はっきり言いなさい。父さんは、こんなことで時間を取りたくない。遊んでたのなら遊んでたと言えばいいんです。英語もできないで部活三昧。そんなバカなことするくらいなら、部活の費用も父さんは出しません」
 いつもこれだ。俺もそうだけど、何か父さんに気に食わないことがあれば、学費を出さないだの、お小遣いを渡さないだの言いたい放題だ。親の権限を乱用する。
「何も言わないならいいです。部費は払いません。海利が払いなさい。テスト勉強もせずに遊びに行くような人に渡すお金なんてありません」
「何を言ってるの!!」
 ああ、母さんだ。兄貴は何で言い返さないんだ。英語なんてできなくて当然だろ!くらい言ってやればいいじゃないか。そもそも日本人が英語を覚えて文法に沿って答えを出すなんて、今の大人がやってんのか!って言えばいいだろ!兄貴!言い返せ!
「子供の未来のためにお金を払うのは親の義務でしょう!それに、海利だって学校で放課後残って勉強してるのよ!海利の気持ちくらいちゃんと聞いてやりなさい!」
「お母さん、海利は何も言わなかったよ?なのに、それを母さんが言っても証拠がないでしょ」
「証拠なんて言い出したらきりがないじゃない!海利のためになんでお金さえ払えないの!」
「お母さんは、働いてないからわからないでしょうけど、しっかり文句も言わず仕事して働いてもらった給料なんです。なのに、そのお金を無駄にするようなことばかりする海利には払う必要がないと思っただけ。でも、これからはちゃんとやるよね。もし、ここでそういうなら今後もお金は払ってあげます。お小遣いも渡してあげます」
 中学に上がってから、父さんの要求は日に日に増しているように思う。一つクリアしても次の与えられていないミッションがクリアできないならまた怒り始める。
 今回に関しては、テストだけど今までなら掃除、起床時間、勉強時間、ゲーム時間だけでも怒られてきた。俺が悪い時だって、兄貴だからって理由で怒られてた。
 ぼそぼそと謝罪する兄貴の声が聞こえる。
「わかったね。父さんだって怒りたくて怒ったわけじゃない。そんな風に、遊ぶくらいなら必要ないと思っただけなんだ。素直に言ってくれれば父さんは、すぐに許した。だから、今度からはすぐに話すようにね」
 兄貴が戻ってくる。
 急いで、部屋に戻った。勉強するふりをして、部屋に戻ったことを確認して部屋のドアをノックする。返事が聞こえて、中に入る。
「斗真か。どうしたの」
「兄貴さ、友達と勉強してたんじゃないの?」
「……」
「聞こえちゃって。ほら、前、数学苦手だから教えてもらってるとか」
「……聞こえるくらい、大きかったかな。そうだね。だけど、英語は教えてもらってないから。できないのに、勉強しなかった僕が悪いよ」
 いつも聞く言葉だった。『僕が悪いよ』家でよく口にする言葉だ。学校で発してないといいけど、この言葉を聞くたびに辛くなる時がある。
 兄貴は、悪くないのに悪者扱いされて。逃げることもせず、耐え忍んで。こんなの良いとは思えない。
 そして、なぜだか俺はこういう時、俺の方が兄のような気質があるんじゃないかと思うときもある。そんなわけないと、すぐにかぶりを振るけど。
「でも、ほかは?ほら、テストって主要五教科あるんでしょ?数学、教えてもらったんでしょ?」
「まあね。数学は、三十四点だった」
「ほら、十分じゃん!英語だけだよ。そんな気追わなくてもいいじゃない?」
「気負ってない」
 そのとき、失敗したと思った。いつもこういうとき、俺は明るく務めてポジティブな発想へと変換する。だけど、この時の兄貴の声は棘があるように思った。
「ごめん。そういうつもりじゃなくて。ほら、算数、教えてもらってたし」
「ああ、そうだね。レベルの差に驚いてる。また、教えるよ」
「ありがと。これで、教えてもらえなかったら俺、ショックだし」
 兄貴は、優しく笑った。この笑顔が俺は好きだった。
 だから、二年生になって俺が一年生になった年の花火祭りの後。その笑顔が見れなかったことがすごくショックだった。
 高校一年生になり、友達ができて花火祭りが終わり帰った時。
「斗真は、海利に彼氏がいたこと知ってる?」
 姉さんが、父さんに告げたらしい。
 びっくりした。海利が付き合っていたことも、彼氏がいたことも。今や、同性と付き合うことはよくある話だ。俺のクラスでも同性カップルがいるくらいだ。
 だけど、一番驚いたのは、六歳離れた姉さんが海利が付き合っていることを知っていることだ。しかも家にいる。
「知らないよ」
 兄貴に好きな人がいたことは意外だった。俺とただゲームして、勉強を教えてもらうような関係。恋愛について話したことなんてなかった。そりゃあ、中学二年生だし、好きな人の一人や二人はできるだろう。
「ちょっと、座ってなさい。海利が来るまで待ちます」
 何となく察した。兄貴が付き合っていることに対して怒ってるんだ。いや、どちらかというと同性と付き合っていることに怒りを感じているんだ。父さんは、それなりに世間体のようなものを気にする。付き合うなら異性と、遊ぶなら何時までとか決めてる。大学だって兄貴には国公立の大学に進学しろと言い始めたくらいだ。じゃあ、姉さんはどうなんだといいたくなる。姉さんは、私立の大学に進学したんだ。女尊男卑もいいところだと怒りたくなる。
 海利が、帰って来た。食卓に座る異様な光景に兄貴は、無視を決め込んだ。正解だと、内心思った。
「海利、そこに立ちなさい」
 歩みを止めた兄貴は、そのまま父さんの目を見たままだ。その目は、穏やかさのようなものを感じた。以前、真顔で無反応で昼食を食べてた時、父さんが箸を拾ってほしいと言ったがそれに呼応しなかったことが癪に障り怒らせたことがあった。多分、兄貴はそれ以来怒ってないと魅せるためにそんな目をしているんだ。無言だったのは、考え事をしていて、彼女との接し方をどうするかという内容で悩んでいたはずだ。確か、それは一年前だ。
「海利は、男子と付き合っているんだよね?」
 彼女とは一年で終わったらしい。恋愛に無知だったからか、それ以降は図書室とかで恋愛について、女子の気持ちについて勉強したらしいけど、一切共感できないし、学校の授業よりも難しいと泣きながら言っていた。どうせなら、学校の授業で科目として出してくれと泣きはらしていた。
「姉さんが教えてくれたよ?なんで、黙ってた?なんで、男なの?海利は、男が好きなの?」
 マシンガンのように質問を重ねている父さん。
「……なんで」
 ボソッと聞こえた気がした。
「正直、気持ち悪いです。海利は、気持ち悪いです。男子と付き合うように育てた覚えはありません、育ててもいません。そういった類の漫画も小説もドラマも見せてません。なのに、男子と付き合った海利が気持ち悪いです。父さんなので、海利のことを思って言ってます」
 それから、悲しそうに下を向いてため息をついた父さんがまた兄貴を見据えた。
「海利は、斗真がそんな風になったらどう思いますか?父さんは今、とても悲しいです。ショックが隠せません」
「そんな言い方、子供にするもんじゃないでしょう!」
 母さんが言った。子供のためといつもかばうのは母さんだ。そこにいつも海利の感情は含まれてない。
「父さんは、今、海利に話してます。少し、黙ってください。確かに、今の時代、同性愛についても寛容になっているし、Xジェンダーだの言います。ですが、それを本当に許している場所がありますか?」
「何を言ってるの」
「国は、同性愛を認めてない。会社でもそんな人を見ることはない。実際に、そんなことしたら周りからの目を考えなきゃいけない。海利は、そのことも分かっているんですか?」
「海利がしたいことをさせてあげればいいでしょ!子供のことを考えているなら!」
 俺は、こういうときただ黙ることに専念する。俺まで話し始めたら終わらないから。
「だから!子供のことを思うなら!同性愛なんていけないんだ!海利!海利はそのまま生き続けたいか?周りからバカにされながら生きたいか?やめなさい!そんな生活では海利はますます悪運を引き起こしてしまう!これは、海利を思って言っているんだ!良いな!しっかり考えてすぐに別れるように!」
 父さんは、怒りを露にしながら自分の部屋へと戻った。
「全く……。海利、海利は、好きなように生きていいからね。好きな人が異性でも同性でもお母さんは許してあげるからね」
 あくまで、母さんは海利の味方でいようとするんだ。
「ごめん、まさかこんな風になると思ってなかった。最近、家に顔出してなかったから」
 ことの発端は、姉さんだ。だけど、姉さんはただの世間話のつもりだったはずだ。その声は聞こえてたし、俺まで巻き込まれるとは予想外だ。
「風呂入ってくる!」
 兄貴は、笑顔でそういった。俺から見た兄貴の笑顔は今まで以上に歪だった。
 部屋に戻った兄貴の部屋に入る。
「どうした?」
「兄貴ってさ、彼氏と付き合ってみてどう思った?」
「どうって?」
「あ、ほら、俺はまだ彼女いたことないし、彼氏もいない。だから、どうなんだろうって」
「……楽しいよ、すごく」
 感情のない声だった。
「風呂行くわ」
 ドアを開けたところで呼び止めた。
「みんな、あんなこと言ってたけど、俺は応援する。俺、兄貴の恋、応援するから」
「ありがと」
 だけど、兄貴は俺に笑顔を向けるどころか、顔さえ見せてくれなかった。どこか、苦しそうにも見えた。
 今更俺は、来てはいけなかったんだと思い知った。

 それからは、兄貴を介して喧嘩することもよくあった。父さんが、兄貴の同性愛いじりを始めたことで母さんが冗談でもやめろと怒る。父さんは、兄貴を立てるためにはこれだけしてあげなければいけない。可愛そうな人にはここまでしてあげないと評価も下がったままだと兄貴にも母さんにも言った。
 評価はどこから来るのか、そもそもいじるものじゃないし、恋心をいじられたら傷つかないのかと思っても、同性愛は悪だとするなんてなんとも昔ながらの古いジェンダー感の持ち主の言い草だった。
 何一つ笑えなかった。
 日に日に、増してく喧嘩の量、罵声の量、親が子を傷つけるという環境。どれもが、俺にとっては苦しいもので、それよりも苦しいのは兄貴なんだと思うほかなかった。
 結局、三年生になった段階で母さんは口を聞かなくなった。海利も笑わないし、勉強も教えてくれない。彼氏とも別れたらしい。
 別れたことを知ってからは父さんは海利をいじめることはなかった。やっと正常な判断ができる人に戻ったのだと感じたのだろう。
 だけど、海利の成績は下がっていく一方だった。
 俺が何を聞いても返事はない。答えが返ってこない。
 理由は、一目瞭然だった。両親の喧嘩が絶えなかったからだ。
 ある日、兄貴はバイトのできる高校に入ると言い出した。俺だけに言ったのだ。部活も元々やりたくてやったわけじゃない。お金さえ入れば、まだ十分生活できるだろうと言い出したのだ。
 何を言っているのかわからなかった。だけど、すぐに知ることになった。
 両親が離婚するのだ。
 兄貴の受験が終わり、卒業式を迎えた後、あれこれあったらしいけど離婚が成立。色々決まったおかげで俺もそれなりに受験期は乗り越えられると思っていた。三人とも母さんについた。
 しかし、それは浅はかだった。
 元々、母さんは仕事をしている身じゃなかったはず。だから、仕事を探していた。兄貴は、部活の代わりにバイトを選んだため、ほぼほぼバイトに時間を費やすと言っていた。母さんには、急ぐ必要はないと言っているのが聞こえた。
 兄貴が、なんでここまでするのかわからなかった。高校生活は放課後が一番楽しいはずなのにバイトに全振りするって何考えてんだと思った。
 だけど、俺はそれどころじゃなくなっていた。受験の恐怖が自分を責めた。私立の高校はお金がかかる。母さんだって私立の授業料を払えるわけがない。就職できても初任給なんて安いもんだ。そう思えば思うほど、偏差値の高く、公立の高校をと考えると吐き気がしたし、勉強の時間も増えていき、その分ストレスも抱えるようになった。
 だから、気づけなかった。兄貴が、少しでもとろいことしていたら、怒りを感じてぶつけた。兄貴が、休みの日に出かけるたびにバイトはしないのか、こんな状況でも遊べるお前が羨ましいだの言い続けた。俺は兄貴を傷つけていたのだ。
 兄貴の表情なんか一切気にせず。顔面蒼白が似合うくらいになってもやめてくれと懇願する兄貴の顔を見て余計に、怒りを感じて初めて兄貴の腹を殴った。そんな強くやったつもりもないけど、兄貴は少しの間動けなくなって、俺に頭を垂れた。
「も、もう、やめてくれ……。お願い。ほんとに、もう、やめてほしいんだ。僕はもう、これ以上……。だから、お願い。もう、やめてくれ……やめてほしい。斗真の力になれてないのはわかる。斗真のせいじゃない。僕が、こんなことしてるから。斗真の受験も応援するなら夕飯も風呂も洗濯物も全部、僕がやるべきなのに……。次から、ちゃんとやるから。ちゃんとやるからもう、許して。お願い。ちゃんと、迷惑かけずに静かにやるから。斗真はなんも悪くないから。僕が悪いから……。ちゃんとやるし、迷惑かけないから……」
 兄貴は、そのまま動かなかった。今まで好きだった兄貴の姿がもうここにはいない。
 俺が望んだことを兄貴はやろうとした。家に着いたら風呂が入っていたり、夕飯があったり、そんな当たり前の生活を離婚した今も俺は望んだ。受験のストレスという言い訳もあった。
 俺は、その時も兄貴の気持ちを一切考えずに告げた。
「兄貴なんか嫌いだ。死んでしまえばいいのに」
 だから、気分転換に来た花火祭りの帰り、兄貴が飛び降りたと聞いて罪悪感と、自責の念に苛まれた。
 俺は、人殺しなんだと自分の無責任な言葉の重みを恨んだ、憎んだ、悔やんだ。
 なのに、それでもこの方が兄貴も俺も楽なんじゃないかと俺の悪魔がささやいたような気がして、それにも怒りを覚えた。