夏休み、最終日。市内は花火祭りの花火が咲いては散ってを繰り返し始めた。
 ああ、終わる。夏休みが終わってしまう。どこにいても無意味だ。僕に、居場所などない。僕に、価値などない。また、地獄の日々に時間を削られ、僕の心も削られ……。
 削られ?そうか、削られたんだ。今までのこの生活のせいで。このいつまでも消えない傷を抱えながら。
 もう、どうだっていいじゃないか。いらない。こんな命、もういらない。
 誰かに必要とされたかった。認めてほしかった。僕は、ここにいていいんだと誰かに言ってほしかった。
 甘えてた。そんなの限られた人間だけだ。
 自宅マンションの五階のベランダの柵に座る。ここからでも花火はきれいに見えるんだ。初めて知った。弟も母親も今、この家にはいない。この家にいるのは僕一人。鍵も閉まってるだろう。そう簡単に僕の邪魔をする人もいない。
 ああ、きれいだ。花火がこんなにも散っている。僕も、今から散っていくんだ。
 花火が満開のころ、僕は後ろに体重を預けた。ふわっと臓器が浮く。体が下へと進む。
 これで終わりだ。僕の人生は終わりだ。やっと終われるんだ。
 なのに、よく聞く走馬灯は見えないんだな。やっぱ、迷信なんだと思う。
 笑みがこぼれた。邪険に思う人たちはこの様を見て喜んでくれるだろう。
 全身に鈍い痛みが走り、僕の視界は消えた。黒でも白でもなく消えた。

 この日、花火が咲くころ、僕は自殺した。
 高校一年生になった。入学式を終えて、自己紹介をして。自分の席に着く前に前の席に座って顔を向けることもせず拍手を返した男子がいた。
 クラスのみんなが私を見て、話しを聞いている中、その男子は私を見ることはなかった。どこを見てるとも言えず、何を考えているのかもわからない。顔に文字さえ浮かばない男子だった。
 私の席は後ろから二番目。六列ある真ん中の廊下側。
 その男子生徒を見るには十分な位置だった。背の高い人がその周りにいるわけでもなく、観察する分には問題はなかった。
 後ろの席の自己紹介が終わって、その男子生徒の自己紹介に入った。だけど、なかなか前に出ることはない。
 気づいたのか、ハッとして教卓に向かう。段差につまずいて何とか教卓に立つとどっと笑いが起きた。本人も恥ずかしそうに笑った。
「えっと、深山。深山海利です」
 彼は、深山といった。深山君だ。あとで話しかけてみようか。ちょっと気になるし。
「僕は、中学まで部活でテニスをしてました。趣味は、ゲームです。ゲームじゃなくてもいいので、おススメのものがあったら教えてください」
 彼は、それだけいって席に戻り、後ろの席の男子が自己紹介を始めた。

「ねえ、深山君だよね?」
 放課後になり、早速、声をかけた。
「あ、えっと……」
 困ったように、視線をそらされてしまった。見たことないタイプだ。さては、女子と話したことがないタイプだな?
「えぇ?さっき自己紹介したのに?早川七海です。よろしく!」
「あ、ああ、早川さん。えっと、よろしく」
 覚えてもらえていなかった。やっぱ、さっきの自己紹介、聞いてなかったんだ。
「ね、ゲーム好きなんでしょ?どんなゲームやるの?」
「……え?ああ、えっとね、乱闘ものだよ」
 名前は言いたくないのか?
「それ、当ててみてもいい?」
「え、うん。別に、良いけど……」
「パソコンゲーム?」
「ち、違うね」
「わかった、PSでしょ?」
「違うね」
「任天堂?」
「うん」
「わかった!大乱闘だ!」
「正解」
 これだけ、盛り上げようとしても深山君は笑顔を一つも見せなかった。ただ爽やかに答えるだけ。
 やっぱ、見たことないタイプだ。
「ねえ、もしかして、女子と話すの初めて?」
「え?いや、違うけど。それより、帰らなくて大丈夫なの?」
 もしかして、私と話したくないからこんな塩対応なのか。帰らなくて大丈夫か聞かれるなんてびっくりだ。まるでさっさと帰ってほしいみたい。えー、そうですか。わかりましたよ。帰りますよ。
「私は、大丈夫だよ。深山君は帰らないといけない感じ?」
「べ、別にそうじゃないけど」
「なら、いいじゃん。もっと話そうよ」
「ごめん、やっぱ用事ある」
「え?」
 やっぱ?
「じゃ、また明日」
 え?ええ?な、なんで、いきなり用事なんて。さっき否定してたのに!まさか、話そうって言ったのがよくなかった?
「ね、ねえ!じゃ、せめて、LINEだけでもどう?」
 教室に誰もいない中、私は、ドアを出たばかりの深山君に聞く。
「LINE?」
「そう!話せるよ」
「ちょっと、待って……」
 深山君は、ポケットから慣れていない手つきでスマホを触る。何かにホッとしたの指を進める。
「交換してくれる?」
「いいよ。しよう」
 だけど、深山君はLINEの追加の仕方さえ知らなかったため、私が教えてあげた。
「へー、こうやってやるんだ」
「知らなかったの?」
「一週間前に買ったばかりだから」
「そうなんだ」
 今どきは、中学生でもスマホを持つ時代なのに高校生のしかも入学の直前なんて。
「中学の友達は?追加してないの?」
「会ってないからね。機会があれば会うだろうし、その時にでも交換するよ」
「同じ高校にいないの?」
「確か……そういるようなこと言ってた気がする」
「友達なのに覚えてないの?」
「受験もあったし、クラスが違えば話すこともないし覚えてない」
「そ、そんな、ドライ?」
「ドライ、かなあ。ああ、まあでも、そんなもんじゃない?」
 そんなもんじゃないでしょ。少なからず会えば話すでしょ。もしかして、男子って会っても用がなければ話さないの?
「じゃ、僕はこれで。また、明日ね」
 彼と会話をしたのはこれが初めてではなかった。
 話していくうちに話し方だったり顔だったりを思い出した。以前に私は深山君に会っている。だけど、彼はそのことを知らない顔だった。
 その夜、LINEしていてふと思った。私はすぐに返すのに彼はなかなか返してこない。まだ操作に慣れてないのを鑑みても流石に遅いではないか。一番、返信をくれた時間帯は、夜の八時から十時の間。十時になればぴったり連絡が途切れる。高校生でそんな早い睡眠時間は聞いたことない。いるんだろうけど、深山君がそれに該当するのか疑問だ。だって、私と同じくらいだし。百六十センチくらいだと思う。ちゃんと寝てるなら、もっと身長あっても良いと思うのだ。
 そもそも男子は連絡のやり取りを好まないのでは?
 いや、まさか連絡くらい誰にでも返すでしょ。
 翌日、中学からの友達が廊下で私に話しかけてきた。昨日は、私が深山君に話しかけたのもあって放課後に話すタイミングがなかった。別クラスだし、あまり話すことはないと思っていたのだけど。
「七海ってさ、クラスにイケメンいた?」
「え?」
「やっぱ、高校入学したんだし彼氏くらい作らないと~」
「……そうだけど」
「中学は作らなかったんだし、作れば?七海、痩せてかわくなったし」
「そんなことないってば」
「しょうがないなあ。じゃあ、私が、アテンドしてあげようか?私のクラスに男女関係なく仲良くしてくれるイケメンいるから」
 そんなこと言われても。紹介されても仲良くなりそうにない。
「あ、もしかして、良い人見つけた?」
「え?」
「だって、さっきからあの男子のこと見てるでしょ?」
 机で、隣の男子に話しかけられているところだった。
「……って!見てないし!」
「えー、ほんと?もし関係ないなら今度紹介するねー」
 と、自分の教室に戻ってしまった。
 何を勝手なこと言っているのか。好きなんて勝手に決めないでほしい。まだ、二日目なんだから。
 仲のいい人と廊下で会えば話すけど、それは深山君は違うのだろうか。
 私は、深山君に話しかけることが増えた。はじめこそ、普通に話してくれたのに、徐々にそうではなくなっていった。
 六月半ば。深山君は完全に私を避けるような行動をとるようになった。おはようー、と声をかけてもおはようの一言で終わり、すぐにその場を離れてしまう。
 私が何をしたというのか。LINEも最近では一時間越しに返信が来る。
『最近、連絡遅くない?』
 だから、聞いてみたのだ。なぜ、私を避けるのかもこの際聞いてしまおうと思った。
『ごめん。そんなつもりはなくて』
 今日は、いつもより早かった。
『ならいいけど。学校でも明らかに避けてると思うんだけど』
 返事はなかった。
 クラスでできた友達に教室で聞いてみた。
「ねえ、最近、深山君が返信遅いんだよね」
「え?み、深山?」
「遅いんだよー。前は、話してくれたし、連絡もそれなりに早かったのにさ」
「……」
「どうかした?」
「……ううん。なんでだろうね」
 友達なのに曖昧に答えられた。少し含みがあるようにも見える。
「なんか知ってるの?」
 だから、追撃した。
「ううん。しらない。何にも」
 友達だし信じるしかなかった。その選択が、後悔することも知らずに。
 ある日、深山君は一人で廊下を歩いていた。移動教室があったためだ。ほかに誰もいなかったし、声をかけた。
「ねえ、深山君!」
「……」
 反応がない。
「深山君!」
「……え。ああ、早川さん」
「移動教室、一緒に行こうよ」
「え?」
 何も悪いことは言ったつもりはなかったけど、深山君は考え込むような顔をした。あたりを見渡してから口を開いた。
「あ、ああ、いいよ」
 私といるのが嫌みたいに聞こえる。なんか、ショック。
「なんか、最近、避けてない?」
「……」
「LINEもできれば返信してほしいんだけど。最近全くしてくれないよね」
 最近のLINEの返信は夕方の六時を過ぎたら何の返信もない。今までよりも明らかに返信頻度が落ちている。
「……」
「私、なんか気に障るようなこと言った?」
「……ごめん。僕が悪いんだ。トイレ寄りたいから先行ってて」
 足早にトイレに行ってしまった深山君を見て、ため息をついた。どうやら、私は嫌われているらしい。ショックだ。
 その日の昼休み、友達と購買でパン類を買って教室に戻り、友達に愚痴った。
「最近さ、深山君やっぱ私のこと嫌ってると思うんだよね」
「……」
「さっきも声掛けたら逃げたし。やっぱ、嫌われてるのかなあ」
「……」
「そう思わない?ここまで、避けられると流石に辛いなあ」
「……七海は、聞いてないの?」
 言ってはいけないことを知っているような。
「え?何が?」
 私の知らないことを知っているようで。
「何がって、知らないんだ。ならいいや」
「え、ちょっと待ってよ。言いかけてやめるのはずるいでしょ。気になるよ」
「で、でも、知らない方が……」
「言って」
「……深山君って中学のころ男と付き合ってたらしいよ」
「え?」
「だから、いいたくなかったの」
「ほ、ホントに?」
 あれ、待って。確か、あの時もそうじゃなかった?あの日、友達とはぐれて声をかけてくれたその男子。深山君と顔が似てて初めてじゃない気がして、でも、そのあと来た男子とは友達以外の違うオーラを感じて。
「そんな人のことで頭悩ませなくてもいいよ。あいつは、別の人種だよ?」
「いや、でも……」
 別の人種ってそんな言い方……。
 それから、友達といるときは深山君に話しかけれなくなった。友達が明らかに話させないようにしていて、深山君も私のことを見ない。だから、LINEだけにした。まったく返信が来ないLINEで。
 それからも、話さない日は続いた。正確には、話せないだけど。
 そんなある日、私は友達と購買で買ったパンを持って教室に戻った時、大きな声が聞こえた。それは、クラスでもうるさい男子の声だ。
「あ、ダメ。聞かない方がいいよ」
 友達の声も聞かずに私は耳を傾けた。
「深山って早川のこと好きなんだろ?なら、早く伝えなきゃー」
「うえ、お前、まだ伝えてないのかよ。意気地なし。最悪だな」
「そんな深山に罰ゲームしたいと思いまーす!そーっれ!」
 どたんと机がぶつかる音が聞こえた。
「そろそろそういう態度もやめたほうがいいぞー。お前は、俺の下なんだからな」
「ちょっと!!」
 私は、思わず教室に飛び込んだ。購買で買ったパンを近くの机に置いて。
「深山君に何してんの!そういうのよくないよ!」
「お!本人登場!おい、深山!さっさと言っちゃえよ!」
「お、おい。藤川」
 藤川と仲のいい男子が止めに入っても藤川は止めなかった。
「ほら、立てよ。クラスのみんなで応援してんだからー」
「藤川!」
 私は怒鳴った。
 この時、私は思ったのだ。こいつだ。こいつのせいで深山君は私を避けたんだ。私と会話をしないようにしたんだ。最近、深山君がおかしかったのはこいつのせいだ。勘が働く。
「おー!いいぞ!はやく、深山言っちゃえよ!」
「いい加減にしてよ!」
「いいよ、早川さん。気にしないで」
 深山君は、落ちた弁当をしまって出て行ってしまった。
「み、深山君……」
「おー、これは、早川も好きなパターンか?」
「うるさい!深山君に何したの!」
「いや、うるさいうるさい。耳が痛くなるて」
「中野だって、仲いいんじゃないの!」
「……」
 なんで、無言なの!何か言ってよ。
「おお、お前がそんな怒るなんてなー。これは、深山も好きになる理由がわかるぜー」
「……え?」
 深山君が私のこと?いや、違うってそんなの。
「藤川、お前、やりすぎだって」
 藤川と仲のいい男子が気まずそうに言った。
「最低」
 私は、教室を飛び出して深山君を探した。
 だけど、どこを探しても見つからない。図書室も体育館裏も。保健室だと思って、走って見に行く。
 保健室のドアを開けると保健室の先生と男子が二人いた。
「お?あれ、女子だ。同じ学年?」
「上履きから見てそうだろうな」
 学年ごとに違う色の上履き。彼らも同じだった。
「おいおい、探偵風に言わなくていいから」
 と、二人でゲラゲラ笑っていた。
「あ、あの……」
「どうかしたの?」
「み、深山海利君、知りません?」
「お?おい、深山ー?女子が来たぞ?」
 その男子一人がベットに向かって声をかけた。
「いないって伝えて」
 その声は、深山君のものだ。
 だけど、残念ながら私はここにいる。聞こえてしまっている。
「で、君は誰?」
 少し怖い表情で私に迫ってくる。
「おい、やめろって。同じクラスでしょ?じゃ、僕らはこれで失礼するよ。じゃね、先生」
 二人は、ぞろぞろと出て行った。
 何だったんだろう、今の。
「あの、深山君は?」
 改めて質問する。
「そこにいるよ」
 ベットのカーテンを開けるとそこに深山君がいた。やっぱ、いたんだ。
 けど、深山君は私の顔を見て、悩んだ挙句掛け布団を被ろうとする。
「いやいや、無理あるよ」
 そのツッコミに、深山君は仕草を止めた。
 私は、近くに置いてあった椅子に座った。
「ごめん。迷惑かけて」
「ううん。ね、さっきの人は?」
「中学の部活の友達。今日初めて会ったよ」
「そうなんだ」
「帰ったら?君の居場所は教室でしょ?」
「……あのさ、昼食、大丈夫?」
「え?」
「さっき、弁当落ちちゃってたし」
「さっきの友達に買ってもらった。あとで金は返すけど」
「そうなんだ」
「もう、戻ったら?」
「……な、なんでそんな」
「ここにいても意味ないよ」
「……し、心配してきたのに」
「されるようなことはしたかもしれないけど、大丈夫だから。大丈夫。だから、早く戻ったら」
「なんか、ひどくない?私、深山君のことなんも知らなかったんだよ?それなのに、そんな引き離すようなこと。少しくらい話してもよくない?」
「知ったところで幻滅するだけ。もう、十分だ。環境が変わっても言うやつは言ってくる。知らなくていいし、話す必要もない」
 明らかに、引き離そうとしてる。距離を置いて、関わろうとしない。拒絶してるんだ。
「それは、男と付き合ってたから?だから、話したくない?」
 反応はなかった。ただそっぽを向いて私のことを見てない。さっきからずっと見ないままだ。
「そういうこと……。私、深山君のこと信じてるけど、深山君は私のこと信じてないんだね」
「……そうだよ」
 冷たく、彼は言い放った。その間もずっと私を見なかった。
 耐えられなくなって、逃げ出した。保健室から、教室から。廊下の誰も来ないであろう階段で座り込んでしまった。
 なんで、あんな冷めた態度を取るの?
 なんで、私を避けて無視するの?
 なんで、私に迷惑かけただなんて思うの?
 なんで、ばかりが募っていく。
 涙が出てきた。ああ、もう。こんな思いするなら、入学式当日に話しかけなきゃよかった。あの時は、あんなに爽やかな好青年な雰囲気を感じたのに。中学生のころを思いだす。話しかけてくれたその男子は、目の前にいる深山くんのようで信じていた。だけどその男子は違った。私のこと嫌っていた。
 今では、私のことを避けてる。いや、よく考えれば帰らないのかとか聞かれたし、本当は私のこと興味すらなかったんじゃないんか?
 そうだよ。だから、さっきから目すら合わせてくれないんだ。
 私、ホント馬鹿だなあ。もっと早くに気づいていればよかったのに。
「あれ、ここで何してんの?」
 最悪。泣いてるところ見られるなんて。
「あ、ご、ごめんなさい」
「さっきの……」
 さっき保健室で会った男子の一人だ。
「あ、えっと、何だっけ。そうだそうだ。早川さんだよね?深山と同じクラスの」
「……うん」
「そっかあ。僕、そっちのほう行ったことないからどんなクラスかわからないんだよね」
「あの、確か、深山君と同じ中学校だったって」
「……知ってるんだ。そうだよ。あいつね、攻略するの大変だから気を付けてね」
「攻略?」
 その時、予鈴がなった。あと五分で教室に戻らないと。
「こんなタイミングでありかよ。まあいいや。一つ、目を合わせてないときの言葉は気にしなくていいよ。語弊を恐れずに言うとね。じゃ」
「え!?ちょっと、待って!」
 その男子は、名乗ることもせず、颯爽と階段を駆けて行った。
 目を合わせてないときの言葉は気にしなくていいってどういう意味よ……。

 その晩、一人で考えた。目を合わせてないとき。それはつまり、今日の保健室の出来事だろうか。一切、目を合わせなかった。その時の言葉を気にしなくていいのなら……。
 語弊を恐れず電話しちゃおう!
 深山君のLINEの画面を開いて電話をタップする。
 出るまで待とうと待ってみても、反応はなかった。応答なしでもなく。
 もう一度かけてみようか。でも、これで嫌われたら。
 やっぱ、夜だから連絡してくれないのかな。
 そうだ!朝、深山君を待ってみれば……。でも、深山君、私に迷惑かけたと思ってるし……。どうしたらいいのかわからない。

 結局、考えに考えた結果、昼休みにそれとなくご飯に誘うことにした。
 だけど、撃沈。彼は、昼休みになってすぐ教室を出て行ってしまった。急いで、探してみても彼の姿はない。
 保健室に行っても、彼はいないと言われた。
 次の日も次の日も、その次の週も。彼は逃げた。
 こうなれば、あの男子に聞くしかない。中学以来の友達なら知ってるはず。
 しかし、その男子のクラスがわかるわけもなく更に撃沈だった。探したけど、楽しそうにクラスで男女問わず話してたからやめた。
 これでいなかったらと、保健室に入る。
「どうかした?」
「深山君、いません?」
「……いないよ。最近ずっと探してるみたいだけどどうかした?」
「いえ、ちゃんと話したいんです」
「……けど、いないものはねえ」
 チラッとベットの方を見た気がした。ベットですか?ベットにいるんですね?
「そこ、いるんですか?」
「……そ、そんな、わ、わけ」
 図星だ。絶対にここにいる。
 カーテン越しから声をかける。
「深山君?いる?」
「……」
「あ、あけても、いい?」
 保健室の先生は降参したのか首を突っ込もうとはしない。これはもう話しかけていいという合図だろう。
「……」
「あ、開けちゃうよ?」
 これで違ったら恥ずかしいし、勝手に開けるのも勇気がいる。
「そ、その返事とかしてほしいんだけど……」
 話したくないのに返事をするバカがどこにいるんだと言ってから思った。
「あ、開けるからね!いいね!言ったからね!」
 呼吸を整えて、カーテンを掴もうとした刹那、バッとカーテンが開いた。
「うわっ!?」
 そこにいたのは、深山君だった。やっぱり、いたんだ。
「わかったから。何?」
「あ、えっと、その……」
 そうだ、謝らなきゃ。
「ごめん。保健室の先生には言ってたんだけど、昼休みここで寝させてもらってて」
「え?」
 私は、保健室の先生を見やる。
「ごめんね。以前、同じ中学の子とここに来た時にね、倒れてたらしくて。それで睡眠時間が足りてないことを知って、家じゃ寝れないから昼休みの短い時間だけど貸してるの」
「そ、それで、今まで」
「起こされるの嫌だと思って」と、保健室の先生が隠していた理由を告げる。
「ごめん。知らなかった」
「僕も言ってなかったし。それに、クラスにいるよりはマシだから」
「そ、そうだよね。あ、あのさ、少しだけでいいから私もここにいちゃダメかな?眠いのはわかってる。だけど、その……」
 話したい。だけど、わがままだ。
「いいよ。僕もLINEじゃあまり話す機会ないし」
 今日は、目を見て言ってくれた。これは本当のことなんだろう。
 それからは五分から十分の間、深山君は私と昼休みに話すことになった。深山君は、入学当初のような明るい爽やかな雰囲気が戻って来た。
 夏休みに入るまでずっと、私はこうやって深山君と時々先生も混じって話すようになった。興味本位で声をかけた初日からようやく警戒心がほぐれたみたいで安心した。
 夏休みに入ってからは、私は演劇部に所属しているため、部活の合間にLINEの返事をするようになった。
 八月にも入り、映画に誘ってみた。だけど、彼はその一週間前に予定をずらしてほしいとお願いしてきた。家の都合でその日はどうしてもだめになったらしい。
 それで、私はその三日後にずらして映画に行った。私としてはデートのつもりで服装もメイクもばっちりだったのに、深山君は無彩色の黒の半そでに黒の長ズボンできたのだ。そして、バックまでもが黒だった。財布も黒。靴も黒。明らかに異彩を放っていた。
「な、なんか、すごい見られてるんだけど……」
 それは、あなたが全身黒ずくめがだからですよ。
「あのさ、折角の……。ううん。服、買いに行こうよ!私、男子にコーディネートするのやってみたかったんだ。ついでにワックスもしてさ!」
「え?」
 彼は、困惑しながらも私のされるがままになっていた。そして、ワックスもした。お金は私が払うと言ったのに彼は自分が払うと言ってきかなかった。彼は、なぜワックスを今までしてこなかったのだろうか。かっこいいよりもかわいいになってしまった。戸惑いを隠せていないが、それでも十分だ。かわいい。
「これから、こうしたらいいのに」
「いや、いいよ」
 首を横に振った。
「なんでよ!じゃあ、分かった。私の時だけってのはどう?ね?いいでしょ?」
「……わかったよ」
 深山君は照れたように笑った。
 かわいらしかった。もう、私は好きになってしまっているみたいだ。深山君も私のこと好きなんだよね?クラスの子も言ってるし。これ、デートだよね?完全に!
「ねえ、花火祭り、一緒に行かない?ふたりで」
「……え、ああ、うん。そう、だね」
「なにその、曖昧な返事」
「わかった」
「絶対、予定空けておいてよね」
「うん」
 その時の表情は儚げで、だけど見なかったふりをして解散した。
 そして、花火祭りの日。連絡しても返事はなかった。家の場所は大体わかってた。映画を見に行った時に引っ越したことを聞いたおかげか、大体場所はわかった。
 浴衣を着て、深山君にも着てもらうように言ってあった。なければ、甚平でいいからと。
 本当は、現地で集合しようと言っていたのだけど、彼は連絡してこないから家に突撃してやろうと考えた。そしたら、嫌でも連れていける。そもそも嫌なら断ってほしいくらいだけど。
 だけどその日は、なかなか集合場所に来なかった。やきもきしながらずっと待っているのに連絡すらもない。
 親を呼んで近くまで送ってもらった。もうそろそろ花火祭りが始まってしまう。
 駐車場の方からつくと誰かがベランダの柵に座っていた。危ないなあと思いながらも、マンション内へと向かう。花火が始まってしまった。急がなきゃ。そう思いなおした刹那、コンクリートに鈍い音が響いた。
「キャッ!!」
 恐る恐る音の方へと見るとそこにいたのは、血を流した深山君がいた。
 そのときまで、私は気づかなかった。彼が何に悩んでいたのか。何を思い詰めていたのか。彼が、なんで自殺を図ったのか。
 近くにいた男性が気づいてすぐに救急車を呼んだ。
 私は、その間、戸惑いと困惑そして恐怖がない交ぜになったようで頭が真っ白だった。
 俺は、クラスの隣の席が面白い奴だと思った。自己紹介の時、自分の番に気づかず気づいたと思えば、段差に躓く。こんなやつ、見たことない。
 それから、俺は話しかけるタイミングを計っていた。だけど、中学の転校してきた同級生である早川に先を越された。この日は、話せないなと次の日を待った。
 休み時間、早川は廊下にいたのでこれはチャンスだと話かけた。
「あの、よろしくです」
 失敗した。名前を確認してからにしたらよかった。しかも、ちょっと頭を近づけて言うなんて馬鹿らしい。
「え、あ、よろしく」
 会話終了……にさせたくないので、無理やり話を続ける。
「隣なんでつい。えっと、深山だよね?」
「うん。深山海利。えっと、中野だよね?」
 同じように返してきた。しかも、ちょっと頭を近づけて、バカじゃん。てか、名前覚えてんのか。こいつ、やはり面白いんじゃなかろうか?
「中野俊也。これから、よろしく。俺、勉強できないから教えてもらうな」
「ぼ、僕もあんまりだけど。僕でよければ」
 意外と勉強できそうなイメージを持っていたから意外な言葉に驚く。
「そうだ、部活何に入るか決めてるか?」
「部活?」
「そうそう。入らなくてもいいらしいけど、俺は入ろうと思っててさ」
「僕は、入らないと思うな」
「ていうと、バイト?」
 この学校は、部活に入らない人もいる。強制ではないから入らない人も一定数いる。そして、その一定数は大抵学校側からバイトの許可を得ているのだ。
「……」
「あ」
「そうだよ。この学校、バイトありだから。少しでも貯めようと思って」
「へー、じゃ、今度遊ぼうよ」
「え?」
「カラオケなんてどう?」
「行ったことない」
「まじ?じゃ、海利の初めてもらうわ」
「初めてって。ちょっと、意味深だね」
「カラオケの密室空間であんなことやこんなことを?」
「遮音性も高いしね」
 意味深に意味深を重ねるタイプか。なかなか手ごわい。だがしかし、面白い。
 そんなことを思っていると、授業のチャイムが鳴ってしまった。
 入学式が終わって次の日からすぐ授業があるという不満をこぼせば、海利は優しく笑った。こいつ、やっぱり面白いなとその時思った。
 それからも、授業でわからないところは聞くなどしていた。勝手に、机をくっつけてここ教えてくれと言えば、すぐにわかりやすく教えてくれる。やっぱ、こいつは頭がいい。
 こことここの答えを送ってくれと言ってもそういう日は、返事がなかった。
「LINEって、普段見ない?」
 その日は、たまたま聞いてみたのだ。十時を過ぎると返信が一切来ないからつまらないのだ。
「フィルターってあるじゃん?それが、十時からなんだ」
「え?まじ?高校生でつけられんの?」
「え?逆に、高校生ってつけられないの?」
「ないない。そんなんないだろ。お前の親やばいだろ。彼女とも連絡とれんぞ」
「彼女いないからいいか」
「そうじゃなくて。え?彼女いないの?」
「いないよ。逆になんでいると思われてる?」
「……じゃあ、好きな人は?」
 ある程度、日数が経っていたから聞ける話だった。これを初日にかまさなくてよかったぜ。絶対、嫌われていたぜ。
「……」
「いるの!?」
「声、でかいって」
「いるのか?」
「いないけど、気になる程度?って言えばいいのかな」
「おー。協力するぞ」
「そういう俊也はいないのかよ」
 いつの間にか名前呼びだ。嬉しいぜ。こいつを名前呼びしていて正解だ。
「俺はいないぞ」
「はっきりというのか」
「いないんでな」
「なんだ。ってか、協力とかしなくていいし」
「おいおいおいー。誰が好きなんだ?もしかして、七海か?」
「…………え、いや、別に」
「え!?」
「違う!!うっるさい!」
「ほ、ホントに!?」
「だから、好きではないから」
「じゃ、カラオケに誘おうぜー」
「その話、続行だったのかよ」
「勝手に中止しないでもらいたいね」
「え、な、なんで、わかった?」
「海繋がり?海利の海と、七海の海。名前に海入ってんなあって」
「…………はぁ」
 相当ショックなのかため息をついている。面白いぞこいつ。
「アテンドしてやるべ。待ってろー」
「アテンドしなくていいし。次、移動だろ。行こう」
 ノリと勢いで誤魔化した。彼はショックを隠すことなく廊下を歩いた。同じ相手を好きになったのか。
 海利は、七海のこと好きなのか。なら、七海はどう思っているのだろうか。連絡もやりとりしているみたいだ。可能性はある。
 その日の夜、俺は、真っ白な頭で七海にLINEした。
『深山海利って知ってる?』
『知ってるよー』
『好きか?』
『なんで中野に言わなきゃいけないの』
『何となく。はよ』
『言わない』
『どっちかって言うと?』
『どっちって?』
『好きか嫌いか』
『どっちかなら好きな方かな』
 うぇーい。真っ白な頭が何かをいう。
『おけ、サンキュ』
『なんで?』
『?』
『それを聞く理由』
『何となく』
『誰にも言わないでよ?』
 うぇーい。これはもう確定だろう。ショックが大きい。
『カラオケアテンドしようか?』
『結構です!!』
『海利は行きたそうだったぞ?』
 既読がついてから間があった。
 うぇーい。
 これは、もうそういうことだろう。確定だ。
『あっそ』
 冷たい返しだ。
『海利、辛いだろうなあ』
 また既読から間があった。
『ふざけてるならやめて』
 うわ、激おこじゃん。怖いなあ。中学の時から怒らせるとこわいって噂あったしな。これ以上はやめておこうか。
 スタンプを送って会話を終了させた。
 それからも、海利と話す機会は続いた。席替えしても海利の前の席だったし、俺としても楽だった。
 六月に入ったころ、あるうわさが流れた。
「それ、ホント?」
 廊下で話している女子に声をかけた。同じクラスだしそれなりに会話もしているため入りやすかった。
「確証はないけど。でも、そういう人っぽくない?きもくない?中野も話すのやめた方がいいよ?」
 女子の言うそれには、話すなという警告があるように思えた。
「中野も狙われる可能性あるよ。今のうちに逃げた方がいいよ」
「……考えとく」
 海利は気づいていなかった。会話もするし、変に距離を置こうともしない。だから、もし結末を知っていたならここで聞くべきではなかったのかもしれない。いや、聞いていなくても変わらなかったのかもしれないけど。
「海利ってさ、男と付き合ってたってホントか?」
 人の少ない教室で聞いてみた。
 海利の反応は鈍かった。その顔がどんな表情をしているのか理解できなかった。思えば、入学式を終えて自己紹介を始めたときの海利の様子に近いものを感じた。
「ほんとだよ」
 その目には、俺が映っていないんじゃないかというほどの暗さがあった。
「ごめん、なんていうか、気になっちゃって。今は?前は、ああいってたけど」
「変わってないよ」
「そうなんだ。どっちもいけるってこと?」
「そう、だね」
 曖昧な反応には気づかないことにした。
「俺、男子を好きになるってないから気になってさ。どんな奴だったの?」
 精一杯、同性を好きになることを当たり前のように取り繕いながら。だって、今までの人生で同性で付き合っている人を見たことがないのだ。関わり方を知らない。手本がない。
「良い人だったよ。お互い、世間体を気にして消滅したようなものだけど」
「……世間体?」
「ああ。世間体。人の目を気にしたってこと」
「……」
「こんなこと聞いて、どうするつもりなの?」
「……え?」
「誰かに告げ口していじめの的にするとか?」
「そ、そんなわけないだろ!俺はそんなことしない!」
「だよね。俊也はそんなことする人じゃないよね」
 その言葉がのちに傷つくことなんて知らず、変わらない口調で話し続けた。
「当たり前だろ!そうだ、なんか買ってくるけど、欲しいのあるか?」
「え?」
「ま、まあ。お詫びとして?そんな風に思わせたことに対して謝罪的な。何がいい?」
「お金、使わせたくないんだけど」
「良いから、そんなことに気を使わなくて」
「じゃ、お茶が欲しい」
「麦茶?」
「おーい、お茶で」
 このユーモアに救われる。真顔でふざけてくれるのはありがたい。
「緑茶な。了解!」
 財布を持って廊下に出る。チラッと海利の方を見ても彼は何もなかったように弁当を食べ始めていた。待ってくれてもいいだろうに。
 その後ろで不思議そうに見ている早川と目が合ったが無視して自販機に向かった。
「あとは、お茶な」
 自販機から出てきたお茶を取り、歩を進めた。
「おい、中野」
 目の前で止まったのは藤川だった。クラスで授業をよく邪魔するやつだ。評判は良くないし、クラスメイトも嫌がってる。だけど、誰も咎めないのはそこに纏わってる人たちがそれなりに良いルックスや性格をしているからだと思う。それに、藤川は何かされたらどんな時でもやり返すそうだ。だから、みんな諦めているようなもの。なんでも結構悪辣ないじめをするらしい。
「なに?」
 あまり棘のないように聞く。
「深山海利が、ゲイだってほんとか?」
 それは、煽るようにふざけた面で聞いてくる。
「藤川には関係ないと思う」
 歩を進めて、藤川を通り過ぎる。
「おいおい!それはつまらないなあ。楽しいことしようぜ」
 俺の首に腕を絡めて顔を覗いてくる。
「深山は男と付き合っていた経験があったんだろ?」
 答えなければ首を締め上げる気だ。そう察したら、うんと頷くしかなかった。自己防衛に走ったのだ。
「へー。やっぱりねえ」
 首から手を離した藤川は俺の周りを歩き始める。
「なんで、藤川が知ってる?」
「知らないと思う?俺ねえ、楽しいことがしたい訳よ。クラスが盛り上がるような楽しいこと。それで、聞いて回っているうちにね面白い情報が入っちゃって」
「それが、深山の件」
「そういうこと。だけど、これ俺が調べたわけじゃないんだあ。太田が教えてくれたんだ。だから、恨むなら太田だな」
 なんで太田が?藤川の隣によくいる。何も害はないように見えたけれど、そういうわけではないのか。勘が良くてこちら側からしたら面倒な相手かもしれない。
「楽しいことって?」
「そりゃあ、お前も参加だぞ?参加型のエンタメだよ。テレビであるようなやつ。大丈夫大丈夫。死んだら終わりだから」
「お前」
 不謹慎がすぎるだろと苛立つ。
「安心しろ。学校だけなら人間は死なねえし」
 そんなのわからないだろ。
 お前の力量で人の精神面の浮き沈みが変わるとは思えない。
「なんでそんなこと」
「だから、楽しいことをしようって言ったばかりだろ?クラスだって的があれば楽しめるし団結できる、それは一年間の結束力につながるだろ~。ほら、今お前が買った自販機のドリンクだって的があるから選べるわけだ。多量の的があったら選べない。少量だからいいんだよ」
「だからって、深山を使うのは……」
 間違ってる。こんなことでいじめられるなんてありえない。こいつはいかれてんのか?
「それと、深山って今は女子が好きなんだろ?早川だろ?お前と早川って中学一緒だって聞いた?そんな早川が的になったらどうする?」
「それは……」
 少なくとも深山は悲しむんじゃないか?俺だってあいつが笑わない姿を見たくない。苦しそうにしている姿は見たくない。それ以上に、早川がいじめられるのはごめんだ。
「大丈夫!一発楽しむだけだから」
 それからというもの、藤川は早川のいないところで深山をいじるようになった。太田もその場にいて程よくいじるような感じ。だけれど決して、藤川のような言葉を太田が使うことはなかった。太田は、傷つけるようなことは言わなかった。
 しかし、海利の表情はわからなかった。こんな状況でも俺は海利とは友達だと思いたかったんだ。
 なのに、日に日に増していくいじりはいつしかいじめに変わった。
 そんなある日、俺は気がつけばいじめをする側になった。藤川の悪辣さがよく理解できた。
「おい、中野。お前、最近ちょっと楽しくないよな?ずっとそうやって座ってるだけだもんな。いいぜ、俺の代わりに楽しませてやるよ。これ持てよ」
 それは、どっから持ってきたのかわからないがダーツの矢だった。針はあえて短くしてあるようだったし完全に計算しつくしていた。いじめを隠蔽するための工作なんだ。
「こ、これ」
「大丈夫だろ。え、何できないの?あのさ、こうやってぶっ刺してもっ」
 勢い任せに藤川は海利の腕に刺した。血も出てきてしまっている。
「海利」
「…………大丈夫。どうせ治る。体の傷は」
「いや、でも」
「おい、お前つまんな。楽しくないわ」
 藤川は呆れたようにダーツの矢をしまった。
 その間もずっと血は流れたままだった。
「か、海利……」
「ま、刺されればこうなるよ」
 そんな海利の表情に戦慄したのを覚えてる。痛みも何とも思わないような、全てを諦めてしまっているような表情に俺はこの時何も言うことができなかった。
 それからも、いじめは続いた。太田はなぜだか怯えてしまっていて藤川の話を聞いていないときもしばしばあった。
 ダーツの矢を刺すときのようなことはなくても、それなりに身体的ないじめはあった。みんなが見て見ぬふりをして誰にも言わず、ただその地獄が終わるのを待っていた。早川が教室にこればすぐに引く。それまでの辛抱だとみんなが見なかったことにしていた。それはある種、俺に対する牽制でもあった。
 だが、そんなある日、藤川は早川の名を出してしまった。
「お前、早川のことどう思ってる?」
 藤川の問いに海利が答えないのは当たり前のことだった。今回も無言だった。
「ああ、イライラするな。楽しくないし」
 すると以前持ってきていたダーツの矢を出して、海利の腹に刺した。教卓近くでやっていた。俺はその状況を見てしまっていて、クラスの数人は軽い悲鳴を上げた。中には教室を出た者もいた。腹を抑えた海利に表情という表情はなかった。
「深山って早川のこと好きなんだろ?なら、早く伝えなきゃー」
 海利は反応しない。
「うえ、お前、まだ伝えてないのかよ。意気地なし。最悪だな」
「そんな深山に罰ゲームしたいと思いまーす!そーっれ!」
 どたんと机がぶつかる音がして、勢いよく引っ張られた海利はやられるだけやられてやがて床に座り込んでしまった。
「そろそろそういう態度もやめたほうがいいぞー。お前は、俺の下なんだからな」
「ちょっと!!」
 そこに来たのは早川だった。早川は、購買で買ったであろうパンを机に置いて鬼気迫る勢いで近づいていく。
「深山君に何してんの!そういうのよくないよ!」
「お!本人登場!おい、深山!さっさと言っちゃえよ!」
 だけど、藤川の態度は変わらない。
「お、おい。藤川」
 太田もそれ以外のやつらも止めたが藤川は聞く耳を持たない。
「ほら、立てよ。クラスのみんなで応援してんだからー」
「藤川!」
 早川は怒鳴った。怒らせたのだ。
 だけど、海利は何もなかったように、机にぶつかった衝撃で落ちた自分の弁当の食材を弁当に戻してから、教室を出て行った。
 早川は俺に何か言ったけどそれすらも聞けないくらい俺は悔いていた。
 その日の午後の授業も部活も集中できなかった。
 もしも、俺があの時、自販機の前でうまくごまかせていたら、そんなことを考えては悔やんだ。夜もろくに眠れなかった。俺のせいだ。そんなことを四六時中考えた。
 それでも、海利は学校に来た。昼休みはすぐにどこかへ行ってしまうけれどそれでいいと思った。教室には藤川も太田もいるし、海利に害をなすものはどこにもいないんだ。それでいいじゃないか。
 そんな生活が続いて夏休みに入り、カラオケにも誘えるわけもなくて。
 そんな中、友達と花火祭りに行こうという話になった。
 花火祭りは毎年一回行われてこの地区なら当たり前のように開催される。
 海利も誘おうか迷ったけどやめた。誘う権利俺にはどこにもなかった。
 気が乗らないまま花火祭りを見に行った。
 きれいだった。本来、藤川のようなやつがいなければ海利も普通に楽しめていたのではないだろうか、なんだかそれが眩しかった。
 あいつにも教室で見せてやろうと花火を写真に収める。できるだけスムーズに。自然に。海利が悲しまないように。
 それを、何度も頭の中でシミュレーションした。何度も何度も。
 二学期の始業式。全校生徒が集まる中、俺たちのクラスは体育館に集まらなかった。俺たちのクラスだけ残された。
 教室にはまだ二人生徒が来ていない。海利と早川だ。
 藤川は変わらずふざけてばっかだ。あの二人、夜ヤッたまま朝もしたんじゃね?などと大きな声で発していた。誰も、反応しなかった。
 それはそうだ。一クラスだけ残され、他は体育館だ。こんな異常な事態にふざけられるわけがない。
 少しして、担任と副担任が入って来た。
「先生ー、なんで俺たちは体育館行かないんですかー?」
 藤川はふざけた口調で先生に質問する。
「ちょっと、黙ってろ」
 先生の今まで聞いたことのないような低い声で制されてクラスが無音になったような気がした。
 それから、学年主任と校長が教室に入って来た。
「お前らに報告だ。それも残念な話だ」
 前置きに言った言葉にしては重すぎる空気を持っていた。嫌な予感がした。今にも吐きそうな気分だった。
「八月三十一日。深山海利が自殺を図った。病院で一命をとりとめたらしいが、意識は戻ってない」
 ……は?頭に入ってこなかった。先生がなんて言ったのか。そんなバカな話が……。
 自殺、一命、意識、戻らない?
 気づけば、俺は教室から飛び出してトイレで吐き出していた。今日、呑気に食っていた朝食を全部吐き出した。
 全部理解したんだ。海利が、自殺した。その衝撃だけでも苦しいというのに、それを止めることができなかった俺も悪人だった。
 全く、面白くない。面白くなさ過ぎて逆に笑えてしまう。
 俺は、人殺しに加担したようなものだった。
 その日、警察が来た。クラスから学年から事情聴取をするためだ。
 だけど、俺は警察からの事情聴取にうまく答えることができなかった。
 楽しくない。何をやっても興奮しない。小学校も中学校もどこにいても誰といても楽しいと思うことはなかった。
 それは、なぜなのか考えては夜は眠れない。昼間に眠くなって授業中に寝ることもあった。
 小学生の時は、昼休みを学級で遊ぶこともあった。体を動かすのは好きだから特に嫌なことはなかった。だけど、楽しくない。
 小学校高学年になりクラスからハブられるようになった。なんでも、俺はみんなと感覚が違うらしく、俺のやってることに不満を持つものもいた。意味が分からない。俺は、楽しもうとしているのだ。お前らも、楽しめるはずだ。人なんてみんな感覚は一緒だ。
 それでハブられたから今度はそいつらを省くように仕向けた。すると、今まで弱者でいたやつらは強者であった人たちへ報復を始める。その滑稽な様を見ているのは楽しかった。これだと思った。立場なんてものはすぐに逆転する。
 だから、俺は、気に食わないやつをつぶすために、弱者の導火線に火をつけて気に食わないやつに攻撃するように仕向けた。その時も、これだと思った。
 これが俺は楽しいと思うのだ。これが俺の楽しみの一つだ。
 それからは、弱者を唆して気に食わないやつに攻撃させる。そして、今度はその弱者を別のやつにつぶさせる。そうやって、遊ぶようになった。
 俺が誰かに声をかければ返事を返す。それが、当たり前のように行われるようになった。それが、本来は当たり前なんだと思った。ハブられることはなくなっていた。
 俺は、クラスを盛り上げようとしている。クラスはそれを良しとしている。だって、クラスは俺のやっていることに何も言わないのだから。なら、見てるだけのやつらはそのまま傍観者であり肯定し続ければいい。
 やりたいことをやる。自分が楽しいと思ったことをやる。
 休みの日に遊びに誘う。当然、誘えば呼んだ奴らはみんな来る。来なかったら、次の日からそいつを的にする。たまに、誘ってもないけど弱者を攻撃させることもまあ、あった。ようは、気分だ。
 だが、それも長くは続かない。
 ある日、俺は中学の教師に呼び出された。一年生の三学期だ。俺は、遊ぶことが楽しくなりテストはほぼやってないに等しかった。その時は、まだ塾には通わされてなかったし部活があるからと言い訳をしていた。部活中に遊ぶこともある。弱者でも強者をつぶすことはできる。弱者なんてその気になれば、死ぬことも殺すこともできる。どこかで聞いたことがある。日本人はその気になると死ぬと。俺は、もったいないと思った。自分の命ではなく他者の命を葬ればいいのにと。殺してしまえばいいのにと。
「聞いてますか?藤川さん?」
 クラスの担任は、怒った顔で俺を睨んでた。全く話を聞いてなかった。
「何スカ?」
 俺は、先生に対して何かした覚えはないし、クラスとはうまくやってる。
 なぜなら、クラスは誰かが遊ばれているとそこに集中するんだ。僕はああはなりたくない、私はこうなりたくない、そんな思いが募ってそいつを的にし続ける。誰が何と言わなくても団結力が生まれるのだ。
「あなたがいじめていると生徒から報告がありました。本当なんですか?」
 いじめ?この先生はバカなんだろうか。俺は、何もしていない。いや、してないわけじゃない。遊んでいるのだ。俺になにか危害を加えたものに対して、わざわざ遊んでやってんだ。それをいじめ呼ばわりなどされる筋合いはない。むしろ、そう思われることに苛立ちを隠せない。先に危害を加えたのは相手側だ。ならば、相手側がいじめの発起人ではないのか。
 しかし、相手は先生だ。親にバレて説教されるのは俺のプライドが許さない。好きな親に迷惑をかけるわけにはいかない。
「わかりません」
 俺は、出来るだけ下からすまなそうに言った。
「わかりませんって、藤川さんがいじめていると生徒から話があったんです。あなたがクラスをいじめる方向にもっていっていると」
 俺の行為がいじめ扱い?そんなわけがないだろう。だったらなんで、俺がハブられたのはいじめにならないのだ。これはただの時間つぶしの遊びだ。
「……すみません」
「それを聞いているんじゃなくて」
「すみません!俺、正直、分かってなくて。いじめなんて抽象的な言葉で言われても分からなくて。でも、そんな風に思われてるなら謝りたいです。だから、先生。その人の名前、教えてもらえませんか?」
「……本当に?」
 ちょろい。この女教師はやっぱちょろい。騙すのは楽だ。息を吐くようについた嘘で騙されるんだ。いや、息を吐くような嘘だから騙されたのか。なんて、心の中で嘲笑してしまう。
「はい。だから、その人の名前、教えてもらえませんか?俺は、そんなつもりなかった。だけど、そう思われてるのもそう思わせたのもきっと俺です。ダメですか?」
 中学生らしく泣きそうな顔で先生を見やる。
「わかった」
 先生は、俺にそいつの名を教えてくれた。デブの女子だ。
 バカだなと思う。そんなことしたら俺がどうするかわかるだろうに。
 だから、俺はそいつにしっかりと謝罪した。クラスの前で、みんなが見ている中、丁寧に、すまなそうに。
 それからは、ちょくちょく話しかけるようにした。
 授業で、分からなそうにしていたところは積極的に教えた。クラスの和にも入ることができた。もともと、誰かが始めたことだけど、俺はそれに火をつけただけ。すると、勝手にメラメラと燃えた。だけど、俺は、先生に疑われてしまった。だから、謝った。それだけのことだ。
「なんで、私と仲良くするの?」
 俺を疑っているんだろう。もちろん、俺はそう思われていることに抵抗もないし、むしろ当たり前だとさえ思った。
「やっぱ、おかしいよな。俺もそう思う。だけど、やっぱり俺は償いたくて。俺は、お前のこと傷つけたし、お前の傷が癒えるのかって言われたら俺は何も言えない。だけど、せめて形だけの謝罪じゃなくて、形式的なものじゃなくて、こうやって和解することがベストだと思うんだ。別に、俺と友達になる必要はないから」
「そうなんだ。なんか、意外だね。私、藤川のことあまり良いイメージなかったから」
「おい!心外だなあ!俺だって、間違ってるって思ったらちゃんと謝るからな!」
 そう言って、お互い笑いあったが、そこに楽しさがあるかと言われたら皆無。
 それから、クラスにも馴染んだそいつは笑顔を見せるようになった。ここまで俺は頑張ってこれた。このために、頑張ったんだ。先生から孤立しているように見せないために。生徒も考え方を変え始めるころを待ってたんだ。
 俺は、その次の朝、一番に学校に行って教室に入る。中学校の教室は鍵をかけないからいつでもだれでも入れる。
 油性のペンでほかのやつの筆記を真似て書きなぐる。バカだのブスだのきもいだのありきたりの言葉をありったけ。そして、俺は、部活の朝練に参加した。これで、俺はアリバイがある状態だ。
 朝練から帰って教室に戻るとまだ先生はいない。だが、クラスは騒ぎになっている。
「おい、大丈夫か?誰だよこんなことしたやつ」
 俺は、すぐに雑巾を水で濡らし、机を拭く。だが、油性のためになかなか取れない。
 何とか取れたときに、先生が来て、朝の会が始まった。
 そして、授業中。犯人探しを始めた。
「誰だと思う?俺、あいつが怪しいと思う」「そもそも、今日、誰が一番に学校に来た?」「あいつ、やっぱ誰かに恨みもたれてんじゃね?」「え、じゃあ、誰?」「わからん」「でも、見つけ出したいよな」
 しかし、その犯人は出てこない。それ当然だ。誰でもないのだから。俺がやったのだから。
 その次の次の授業でそれとなく導火線をつないだ。
「ここまでして、誰も犯人として浮かばないってどうなんだ?」
「それって、この中じゃないってこと?」「じゃあ、ほかのクラス?」「いやいや、ほかの教室まできてこんなことするかね?」「しないか」

「え、まさか、自作自演?」

 はまった。誰かがそういったことでそいつはまた信頼が地の底に尽きた。可愛そうに。俺を先生に言うからこうなる。ちょっと調子がいいからってふざけた言葉を俺に浴びせるからいけないんだよ。気に食わん。お前みたいなブスでデブな女になんで俺が仲良くしなきゃいけない?謝る意味もないだろ?ブスはせいぜい豚箱と同じ場所にでも行って出荷されるのを待てばいいものを。
 俺を怒らせるとこうなることはもうわかったろう?だから、こうなってしまうんだよ。女子だから手加減はしたし、体は傷つかないんだし、問題ないだろう。勝手に、精神崩壊して死んでくれたら、面白いのになぁ。
 だけど、何日たってもそいつは学校に通った。クラスのやつは徐々に省くようになったというのに学校に通い続けた。
 俺は、もう一手打つことにした。それは、部活での居場所をなくすことだ。運がいいことに、このクラスにはそいつと同じ部活の男子がいる。演劇部だ。中学で演劇は聞いたことないし、大会もないだろうけど文化祭とかではそれなりに評価のある部活らしい。まあ、どうでもいいが、それとなく男子に伝えておく。気を付けた方がいいぞというくらいのニュアンスで。ほぼ脅しだけど。
 そして、ついに俺の望みが叶った。そいつは、学校に来なくなった。完全に不登校らしい。学校での唯一の居場所だったであろう部活も居場所がない。これで、あいつが死んでくれれば俺は最高に楽しい瞬間に出会えるんじゃないか?そしたら、俺はやっとこの楽しいという感情を心の底から味わうことができるのではないか?
 そいつが不登校になった時、俺らは二年生になっていた。
 しかし、楽しい瞬間は訪れなかった。そいつは、一年の不登校期間を経て、二年生の三学期に引っ越した。
 心底、つまらないと思った。理由は、どうでもいい。親が県外だか市外に出張になったとかどうとかと言っていたような気がする。ほんとかどうかは知らん。いつ引っ越したのかも正直知らん。
 一年時のクラスのやつらは、先生に話を聞かれたらしい。俺も聞かれた。俺は、『助けになってやればよかった。あの日、後悔したんだ。だから、せめてもの償いとしてクラスの和に入れるようにしようって思った。なのに、気が付けば……』嗚咽をこぼしながら先生に伝えた。ほかの人たちは『あいつの机に殴り書きでひどいこと書かれてあって、藤川が怒ったように消し始めた。だけど、結局、誰が書いたかもわからないし、本人の自作自演なんじゃないかって』と、先生には言ったらしい。
 つまり、そいつは親の県外出張を理由に引っ越したけど、先生はいじめと踏んでいたわけだ。
 だが、そいつはもういないし、どうしようもない。解決しようもんもない。
 三年生の時は、気分が乗らず何もしなかった。塾にも行かされてたし、受験もあってぶっちゃけそれどころじゃなかった。
 そして、高校に入学。そこで、そいつの面影を感じるやつを見つけた。早川という女子だ。今年は楽しめそうだと興奮した。
 だが、自己紹介で、教卓に上がる段差でつまずいたやつがいた。こいつと話してみたいと思った。自己紹介は、爽やかに決して笑顔ではないが愛嬌みたいなものを感じた。こいつがいい。こいつを的にしよう。
 しかし、話すタイミングもなければ、それよりも面影を感じるやつへと視線が行く。早川、妙に気を引く相手だ。
 中学の時のやつに比べて、顔も良いし、スタイルもよさそうだ。中学のやつの顔を覚えているわけじゃないから何とも言えないが。
 早速早川に声をかけようかと思えば、段差で躓いた深山の方へと向かい、会話を始めてしまった。
 また、今度話しかけようかと思いなおした。
 その日の放課後、俺は自販機でパンを買った。親も入学式ということで来ていたから、親用にも買う。俺は、親孝行をしているのだ。なぜって?それは、生んでくれたからに決まっているだろう。俺は、人生に対してつまらない、退屈だとは思うが、親を憎むわけでも恨むわけでもなかった。楽しみが見つかった今、親には感謝していた。
 みんなしていう。なんで、生きるのか、なんのために生まれたのか。そんなの決まっている。楽しむためだ。無能だとか言われてもいい。俺は、これで楽しいんで生きている。それに対して異論も反論も認めない。
 自分用のパンを二つ、親用のパンを二つ。手に持ちながら歩いていると、男にぶつかった。
「うわっ」
「ごめん!大丈夫?」
 そいつは、同じクラスの太田だった。
「おお、大丈夫。確か、同じクラスよな?」
「そうそう、藤川だよね?呼び捨てでいい?」
「当たり前だろ。俺も、太田って呼ぶ」
「覚えてくれてたんだ。よかった。そうだ、LINEでも交換しない?俺、もっと話してみたいし」
「おっけー。俺も話しかけようって思ってたんだよ。陸上部はいるんだろ?短距離?」
 自己紹介で陸上に入ると言っていた言葉を思い出したので、言ってみた。
「いや、長距離。俺、短距離苦手でさ」
 そういいながら、慣れた手つきでスマホを操作する。
「サンキュー」
「藤川は?何部に入るの?」
「俺?サッカーかな」
「得意なの?」
「まあね」
「そこで謙遜しない人初めてだ」
「そういう、太田は?」
「得意だよ」
「太田もじゃねえか!」
 今日の目的は達成できなかったが、太田と仲良くなったのが十分だった。
 中学三年生の時に、少しでもいいから周りに合わせることを勉強した俺は今のままクラスになじめそうな予感がした。
 だけど、それを壊されたのは月が替わるころだった。
 月が替わるころ、太田が深山に話しかけたのだ。
 俺は、まだ深山にも早川にも話しかけることができず、近くのやつらと話すことばかりだった。なのに、あいつは深山に話しかけた。それは、いい。そんなの人の自由だし、俺がとやかく言うつもりは一切ない。あいつは、暗いのだからそういう人たちといろなんて命令するつもりなどない。
 問題は、話した内容だった。
 その内容を聞いたとき、俺の中の何かが笑ったような気がした。
 深山ってそういうやつなんだと心のどっかで笑っていた。太田がいつどこで知ったのか、なんで気づいたのかなんて知らない。だけど、深山がそういうやつで心底ほっとしたのは事実だ。
 あのキャラのままいられたら、間違いなくクラスでもいいキャラとして出来上がっていただろう。クラスからも信頼されて笑顔が一切ないくせに不自然じゃないように見せる達人だ。気持ち悪いが、その事実のを知った時の方が気持ち悪さがあった。
 俺は、それ以降、深山に対する考え方を改めた。深山はそういうやつで男ともそういうことをする、キスでもなんでもする。同姓なのにそういう目で見ている。気持ち悪いことこの上ない。これは、俺の価値観の話だ。今の時代、どう思おうがどうだっていいが、俺自身がきもいと思えばきもい。誰かに言うわけじゃないし、どう思おうが勝手だ。それをとやかく言われる筋合いはない。
 だけど、受け入れている世間の中でこういう小さな箱の中ではいつだってそれをよく思わないやつもいる。小学生の時は、先生だって同性を好きになることをタブーとして笑いの一つとしてそいつを立てた。大人のやっていることを子供がまねして何がいけないというのか。これを言うと、そういうのは自分で判断できるでしょうと第三者の大人たちは口をそろえる。きもいのは大人も一緒だ。群衆に合わせて言葉を変えて、それが自分の意見ですと主張する。そんな奴らの言い分など聞くに堪えない。
 実際、俺は深山がきもいと思った。それは、俺の意見であり自分が考えた末に出た結論だ。中学生で彼氏を作って学校ではどう思われたのか。きっと、俺の学校にいたのならのけ者だったはずだ。深山の学校はそうじゃないのか?確か、深山の学校から来たやつの一人がとてつもない人気を持っているらしい。どうでもいい。教室が違えば、会話すらしない。そいつが何を言おうが、この教室はこの教室の秩序がそろそろ形成されるはずだ。畑には畑のルールがある。郷に入れば郷に従え、だ。
 だが、未だ形成されず。俺は言語化できないモヤモヤを抱えていた。
 少し経った頃、気づいた。俺のこのモヤモヤは一年抱えていたんじゃないかと。塾や受験勉強で忙しかったから頭になかったんだ。一度思い出すと、忘れられなくなってしまう。思い出してしまった。俺は、誰かと楽しみたい。そうじゃないか。楽しむために生まれてきたんだから。だから、親に感謝しているんだ。この気持ちを忘れてはいけない。忘れてはだめだ。
 同時、俺は深山が少なからずクラスメイトから引かれていたことを知った。早川と仲のいい女子がその一人だ。そういう人とは話さない方がいいと早川が深山と話す機会をつぶすようにしていた。ほかの人もそうだ。裏でこそこそ言っているのを見た。俺の意見だけじゃない。
 これは、いい。突発的に思った。クラスの団結にもつながるのだ。深山はその土台だ。今後、体育祭とかあるのだから、良いように使おう。それが、俺たちのためだ。このまま省く流れが出来上がれば、俺の遊びは楽しいものへと変化するのではないか。中学時代にできなかったものが、今年、出来るのだ。きっと、楽しい。その快感はきっと楽しいものだ。
 そう思うと、俺は動き始めていた。クラスのグループLINEと別で、裏グループを作り、仲のいい奴らを集めた。最初は、他愛のない話を。そして、裏グルにいない生徒の不満をそれとなく引き出す。二、三人言ってしまえばあとはみんな言う。そういうやつらなのだ、人っていうのは。
『深山のことみんなどう思う?』
 そんな話を誰かが始めた。俺はすかさず、返信した。
『噂は聞くよな』
 それに続いたやつらが、『正直、きもい』『ああいうやつに限って変な性癖持ってそう』『わかるわあ』『感じいいやつって大体そう』偏見だったり、暴言だったりをここぞとばかりに送ってくる。このクラスで、深山がゲイ説は知れ渡っていたのだ。
 それから、軽くいじってみることにした。
「お前、男子とキスしてどうだった?」
 俺とほかの友達でふざけながら聞いた。返事はなかった。
「ま、いいや。また、聞くな。今すぐには答えられないよなあ」
 うっざ。内心、苛立ちを募らせていた。なぜこうも表情が見えないのか。なぜこうも俺と楽しもうとは思わないのか。
 それから、徐々に俺はエスカレートさせた。
「お前確か、早川のこと好きなんだろ?」
 それにさえ、返事はなかった。目を合わせることもなかった。
「はぁ、ダル」
 俺は、深山の床に置いてあったカバンを蹴った。
「DO YOU KNOW JAPANESE?」
 英語で自分が知ってる単語で聞いてやる。深山は、カバンを取りに戻り、席に座った。
「YES,BUT YOU NEED NOT TO KNOW」
「あ?」
 こいつ、早すぎてわからん。そういや、こいつそれなりに勉強できるって噂だろ。
「今、なんつった?」
 俺の声をガン無視して教室を出て行った。
「あいつ、無視、決定!いいな、みんな!」
 俺を怒らせるとどうなるか思い知らせてやる。
 友達は皆、賛同していた。この時、気づいていればよかったのだ。裏グルにもこの会話にも太田は全く参加していなかったことに。
 早く気付いていれば、俺は確実に深山にオーバーキルを与えていたはずなのに。
 俺は、あいつの態度にイライラを募らせてばかりだった。今まで見たことがないくらいの飄々とした態度。気持ち悪いくらいに爽やかな雰囲気を持ちながら笑顔はない。俺が、何をしても表情に変化がない。
 ならいっそ、傷を入れてしまおう。中学時代のようなものじゃなく、物理的な痛みになら顔を歪めるくらいはするはずだ。
 そう思って、ダーツの矢を出血の少ない程度に針を短くして、自分で実験して、良い感じの長さにする。これくらいなら、ちょっと刺さったくらいのはずだ。少し長めのものも予備で持っておこう。それも、実験しておく。やっぱ、もってくだけ持ってって脅すだけにしよう。ポケットで入れ替えて刺せば、深山も騙せるはず。そもそも、ただ表情の変化を見たいだけだ。あの顔に汚れをつけさせるだけでいい。その手始めがこれだ。いきなり、大きなもので攻撃したりはしないさ。
 そういえば、前に中野に聞いたことがあった。ゲイが事実なのかどうか。だけど、あいつは濁した。そうだ、あいつに楽しませてやろう。
 昼休み、中野にやらせてみるか。
 だが、中野はやらなかった。代わりに、俺が刺した。ちゃんと短い方で。血は出たけど、跡が残るようなものじゃないはず。
 これで、ほかの表情を拝ませてもらおうか。俺は、それが楽しみでしょうがない。
 だけど……。深山は、痛そうな顔一つ見せなかった。痛くて泣きそうになることも。笑ってごまかすことも。
「……大丈夫。どうせ治る。体の傷は」
 ただ、そういうだけだった。そして……。
「ま、刺されればこうなるよ」
 血が流れているというのにうんともすんともしない表情。何を考えているのかさっぱりだった。頭がいかれてんのか?精神的にも追い詰められないのか?こんな傷、残ったら怒れないか?
 なのに、何食わぬ顔して教室を出て行った。
 だから、今度は、早川が戻ってきそうなタイミングで俺は深山に話しかけた。流石に、こんな有様なら表情の一つ変えるだろうと。
「お前、早川のことどう思ってる?」
 俺の問いに海利が答えないのはもはや当たり前のことだった。今回も話さない。
「ああ、イライラするな。楽しくないし」
 すると以前持ってきていたダーツの矢を出して、教卓の近くまで引っ張り海利の腹に刺した。クラスの数人は軽い悲鳴を上げた。中には教室を出た者も視界の端で見えた。腹を抑えた深山に表情という表情はなかった。
「深山って早川のこと好きなんだろ?なら、早く伝えなきゃー」
 深山は反応しない。何かが違う。まさか俺……。
 友達は俺が発言する前に暴言を垂れた。
「うえ、お前、まだ伝えてないのかよ。意気地なし。最悪だな」
 その勢いに調子づいた俺は胸ぐらを掴んで、机にぶつける。
「そんな深山に罰ゲームしたいと思いまーす!そーっれ!」
 どたんと机がぶつかる音がして、深山はやられるだけやられて床に座り込んだ。
「そろそろそういう態度もやめたほうがいいぞー。お前は、俺の下なんだからな」
 せめて、無表情を止めろ。俺はお前を刺したんだぞ?
「ちょっと!!」
 そこに来たのは早川だった。早川は、購買で買ったであろうパンを机に置いて鬼気迫る勢いで近づいていく。微妙にタイミングが悪い。まあいいや。
「深山君に何してんの!そういうのよくないよ!」
「お!本人登場!おい、深山!さっさと言っちゃえよ!」
「お、おい。藤川」
 太田が、俺に何かを言おうとするが関係なく続ける。
「ほら、立てよ。クラスのみんなで応援してんだからー」
「藤川!」
 早川は怒鳴った。怒らせたのだ。最高にいい顔をしていると思った。
 だけど、深山は俺から離れて、何もなかったように机にぶつかった衝撃で落ちた自分の弁当の食材を弁当に戻してから、教室を出て行った。
 ふざけんなよ。せめて、痛みに歪んだ顔を見せてくれればいいものを。
 その日の夜、制服のポケットにあるダーツの矢を自分の机に置くと、自分に対する怒りで震えた。
 ダーツの矢で刺したのは、短いもの。制服くらいなら貫通しても肌にはほぼ影響のないものを選んでいたはずだった。なのに、そこに置いてあるのは長い矢の方に血がついていた。
 気を失うかと思った。誤算だった。
 なのに、なぜあいつはあれだけ表情を変えることがなかったのか。あんなの痛いに決まってる。
 俺は、その日以降、深山に暴力はやめた。そもそも、俺の性分に合わない。俺は中学時代まで楽しむと言えば言葉だった。力を使って攻撃なんてしていない。引っ越したあいつにだって力は使わなかった。言葉だけだった。
 深山もそれで行ける。そのはずだ。いつの間にか、道を逸れていたんだ。ここで軌道修正で来てよかった。深山とはもっと楽しみたい。まだ、楽しいことは一つもできていないじゃないか。ここでくたばってもらっては困る。
 だけど、その日以降、深山は4限が終わるとすぐに教室を出て行ってしまう。それが、終業式まで続いた。
 最悪だった。楽しいことはない。少しくらい遊べたんじゃないかと思っても表情が変わらないから何も成しえた気がしたない。
 ならば、二学期だ。二学期に入ればもっと楽しめる。一学期とは一風変わった遊びでもしようじゃないか。
 二学期始業式。俺たちのクラスは残された。ふざけたこと言えば、近くにいたやつらは笑った。まだ、俺に笑いのセンスはあるようだ。
 担任、副担任、学年主任、校長。俺は、そのメンツを見て、ただ事じゃないと察した。なぜなら、深山も早川もいないのだ。
「八月三十一日。深山海利が自殺を図った。病院で一命をとりとめたらしいが、意識は戻ってない」
 担任の話に俺は、少し興奮した。俺から盛り上げる前に、深山が先に盛り上げてくれたのだ。エンターテイナーじゃないか。一命をとりとめたのなら、またクラスに来るはずだ。その時は、大歓迎してやろう。
 ……楽しい。これからが楽しみじゃないか!
 ただ、中野は違った。吐きそうな顔して教室を飛び出したのだ。
「お前らには、このあと警察からの事情聴取に参加してもらう。本来、学校で方針を固めるんだが、自殺未遂だ。それに、色々話は聞いている。警察に協力してもらうことにした。最悪、この中で逮捕者が出るかもな」
 担任はそう脅すと、校長にバトンを渡した。
 校長が話し終わるころ、警察が来て、近くの席の人から、前の席が中野で今はおらず、その後ろが深山なので深山の後ろの人からすぐに事情聴取が始まった。学校のどこかを使うみたいで個室が2部屋あって二人づつの流れになった。だけど、俺たちは教室にいることができず、裏で動かれないようにと教室では警察が二人、担任、副担任、学年主任が見張っていた。
 俺の出番になった。事情聴取の席は、生徒指導室だった。初めて行く場所だ、と呑気に考えていた。
 生徒指導室に入ると、まるで雰囲気が違った。警察二人の目つき。俺はその時、初めて楽しいことが始まると思った。
 俺は、兄貴と仲が良かった。兄貴は、いつも俺に勉強を教えてくれた。小学校の時の夏休みの宿題も姉さんは大学生で一人暮らし、ほとんど家にいないことが多いく、たまに帰ってくるけれどそんなに話さない。父さんはあまり関わりたいと思わない。母さんも正直、面倒なところがあるから話したくない。だから、必然的に兄貴に教えてもらっていた。兄貴は、教えるのが上手だった。俺のわからないところをピンポイントで理解してくれて、教えてくれる。だから、俺は兄貴を尊敬してたし、好きだった。俺と遊ぼうと言えば、遊んでくれるし、ゲームもしてくれる。大親友なんじゃないかってくらいいつも一緒にいた。家族だし当然だと思うけど、うちは姉さんがいないことがほとんどだし、夕方に帰ってきても、わけのわからないノリで兄貴も俺も困らせる。面倒だし、俺はできるだけ避けるような生活をしていた。
 だけど、いつからか兄貴は勉強を教えてくれなくなった。はっきりしているのは、中学生に入ったころ。兄貴は、父さんに逆らうことなく運動部に入った。元々は、文化部に入ると言っていたのに。運動部に入って明らかに俺といることも家にいることも減った。俺に勉強を教えるなんてないに等しかった。部活がなくても、疲れとかもあると思って俺は、話しかけたりするのはやめた。まだ、小学六年生のころだし、部活がどういったものかもわかってない。だけど、疲れている姿は目で見てもわかった。
 そうやって、少し距離を取っていたのに、部活のない休みの日、俺よりも早く起きていたことがあった。驚いた。いつも部活がない日は俺よりも起きるのが遅いし、昼近くに起きることも普通だった。しかし、今は違う。なぜ、こんなにも早く起きているのか。誰も起きないような時間に俺は起きてる。休みの日だし、十時くらいに両親は起きる。なのに、なんで朝の七時に起きて朝食を食べているのか。不思議でしょうがなかった。疲れは?睡眠は?そんな疑問も浮かんだ。
「あ、おはよ。休みなのに朝早いんだね」
「……お、おはよ。え、兄貴って今日、部活?なんでこんな早いの?」
「…………まあ」
 曖昧な反応だった。
「斗真、何を言ってる。本来、斗真も海利もこの時間に起きるものだろう。生活リズムが変わるのは良いことじゃない。なのに、海利ときたらいつまでも部活がないからと言い訳して昼近くまで寝ているだろう。だから、今回は起こしたんだ」
 父さんが、キッチンから出てきた。
 嫌な想像が安易にできた。想像したくなくても想像できてしまう。こんな残酷なことがあるだろうか。
「斗真だっていつもこの時間に起きるのは生活習慣を乱さないためだろ」
「……」
 言い返せなかった。もともと、俺は父さんに怒られたくないという理由。小学生である以上、部活がないから早く起きても体力的な問題はない。だけど、兄貴は違う。部活もあるし、授業もある。テストで結果出さなければ父さんに怒られる。寝ても疲れが取れないことだってあるのに。
 父さんは、海利を起こしたんだ。生活リズムが、とか言って人の気も知らないで。俺が兄貴の気持ちをわかるわけじゃない。だけど、こんなの怒りを覚えないはずがない。
「海利は、起きなかった。休みの日だからと無駄に睡眠をとるなら起こしてあげるのが親の務めだ。斗真もこんな人間になってはいけない。良いね?」
「……」
「良いですね?」
「……はい」
 俺は、しぶしぶ返事をした。答えたおかげかキッチンに戻っていった。
 その間、兄貴が言葉を発することもなく、表情を変化させることもなかった。

 俺は、父さんに怒られないために毎日、平日休日関係なく同じ時間に起きる。休日の今日も朝六時に起きて朝食を食べる。掃除をして、三十分という短いゲーム時間を終えたら、机に向かって勉強をする。昼食を食べて、また机に戻り勉強。夕飯を食べて、また机で勉強する。たまに兄貴にわからない問題を聞く。
 休みの日は、大体こんなものだ。
 友達はいても、わざわざ休みの日まで遊ぶことはないのでこの生活は苦しい。勉強に意味を見出せない俺は、たいていの時間を読書に費やしている。父さんが部屋に来ることがままあるので、耳はいつも澄まして来たら、あたかも勉強しています、という状態を作っておく。
 たまにバレて怒られるけど、兄貴ほど怒られるわけじゃない。だって、兄貴はテストで低い点数を取るだけでも怒られている。一教科良い点数でも他がだめなら説教。点数が取れないなら部活でレギュラーになれと言われていたが、一年生の段階では初心者で二年生のレギュラーの人と同等のレベルになるのは無理な話だ。にもかかわらず、父さんは理不尽に兄貴に怒鳴る。そういう日は、自分の部屋に戻る。怒鳴り声は部屋にも聞こえるから、そういう時は、兄貴には悪いが曲を聴いて誤魔化している。
 俺と兄貴は、仲がいい。小さいころから遊んでるし、一緒にゲームもする。兄貴は、俺にゲームで勝てることはないから兄貴が楽しいのかと聞かれたら答えようがない。
 勉強は、兄貴に教えてもらっているときが一番楽しい。たとえが、分かりやすいし、分からないところは文句も言わず何度でも教えてくれる。たまに、奢れと言ってくる時もあるけど。そんなときは、お決まりで一番やすい水を買ってる。喜んでくれることはない。当たり前だ。
 今日は、兄貴は部活がないらしい。だから、掃除が終われば、部屋で勉強でもするんだろう。だけど、兄貴は、なかなか部屋に戻ってくることはない。不思議に思ってリビングにこっそり向かうと、父さんの苛立ちを隠してますと言わんばかりの声が聞こえた。
「父さんは、勉強しなさいと言いました。部活だけじゃなくて、勉強もしないとテストで点数が取れない。なのに、この結果は何ですか」
 そういえば、兄貴から初めての中間テストで点数とらないといけないとか言って、学校にこもって勉強していると聞いたことがある。
 兄貴は、点数が悪かったのか。
「こんな、英語六点って何ですか?勉強したんですよね?それでこの点数……。範囲も分かっていて勉強もできる環境があるのに、この点数……。お母さんから聞いたけど、部活がないのに帰ってくることが遅いって聞いたけど、どういうこと?遊んでたの?だから、こんな点数?」
 それは、違う!とか言って俺が飛び出すことはない。だって、兄貴の問題だ。兄貴は、兄貴の言葉で言わないと言いたいことも言えないはずだ。母さんのような何も理解せずに反論してしまえば、かえって状況を悪化させるだけだ。
「……海利。はっきり言いなさい。父さんは、こんなことで時間を取りたくない。遊んでたのなら遊んでたと言えばいいんです。英語もできないで部活三昧。そんなバカなことするくらいなら、部活の費用もお父さんは出しません」
 いつもこれだ。俺にもそうだけど、何か父さんに気に食わないことがあれば、学費を出さないだの、お小遣いを渡さないだの言いたい放題だ。親の権利を乱用する。
「何も言わないならいいです。部費は払いません。海利が払いなさい。テスト勉強もせずに遊びに行くような人に渡すお金なんてありません」
「何を言ってるの!!」
 ああ、母さんだ。兄貴は何で言い返さないんだ。英語なんてできなくて当然だろ!くらい言ってやればいいじゃないか。そもそも日本人が英語を覚えて文法に沿って答えを出すなんて、今の大人がやってんのか!って言えばいいだろ!兄貴!言い返せ!
「子供の未来のためにお金を払うのは親の義務でしょう!それに、海利だって学校で放課後残って勉強してるのよ!海利の気持ちくらいちゃんと聞いてやりなさい!」
「お母さん、海利は何も言わなかったよ?なのに、それを母さんが言っても証拠がないでしょ」
「証拠なんて言い出したらきりがないじゃない!海利のためになんでお金さえ払えないの!」
「お母さんは、働いてないからわからないでしょうけど、しっかり文句も言わず仕事して残業してもらった給料なんです。なのに、そのお金を無駄にするようなことばかりする海利には払う必要がないと思っただけ。でも、これからはちゃんとやるよね。もし、ここでそういうなら今後もお金は払ってあげます。お小遣いも渡してあげます」
 中学に上がってから、父さんの要求は日に日に増しているように思う。一つクリアしても次の与えられていないミッションがクリアできないならまた怒り始める。
 今回に関しては、テストだけど今までなら掃除、起床時間、勉強時間、ゲーム時間だけでも怒られてきた。俺が悪い時だって、兄貴だからって理由で怒られてた。
 ぼそぼそと謝罪する兄貴の声が聞こえる。
「わかったね。父さんだって怒りたくて怒ったわけじゃない。そんな風に、遊ぶくらいなら必要ないと思っただけなんだ。素直に言ってくれれば父さんは、すぐに許した。だから、今度からはすぐに話すようにね」
 兄貴が戻ってくる。
 急いで、部屋に戻った。勉強するふりをして、部屋に戻ったことを確認して部屋のドアをノックする。返事が聞こえて、中に入る。
「斗真か。どうしたの」
「兄貴さ、友達と勉強してたんじゃないの?」
「……」
「聞こえちゃって。ほら、前、数学苦手だから教えてもらってるとか」
「……聞こえるくらい、大きかったかな。そうだね。だけど、英語は教えてもらってないから。できないのに、勉強しなかった僕が悪いよ」
 いつも聞く言葉だった。『僕が悪いよ』家でよく口にする言葉だ。学校で発してないといいけど、この言葉を聞くたびに辛くなる時がある。
 兄貴は、悪くないのに悪者扱いされて。逃げることもせず、耐え忍んで。こんなの良いとは思えない。
 そして、なぜだか俺はこういう時、俺の方が兄のような気質があるんじゃないかと思うときもある。そんなわけないと、すぐにかぶりを振るけど。
「でも、ほかは?ほら、テストって主要五教科って聞くじゃん?数学、教えてもらったんでしょ?」
「まあね。数学は、三十四点だった」
 五十点満点のテストだ、十分なはず。
「ほら、十分じゃん!英語だけだよ。そんな気追わなくてもいいじゃない?」
「気負ってない」
 そのとき、失敗したと思った。いつもこういうとき、俺は明るく務めてポジティブな発想へと変換する。だけど、この時の兄貴の声は棘があるように思った。
「ごめん。そういうつもりじゃなくて。ほら、算数、教えてもらってたし」
 理系は得意分野だと思ってた。
「ああ、そうだね。レベルの差に驚いてる。また、教えるよ」
「ありがと。これで、教えてもらえなかったら俺、ショックだし」
 兄貴は、優しく笑った。この笑顔が俺は好きだった。
 だから、二年生になって俺が一年生になった年の花火祭りの後。その笑顔が見れなかったことがすごくショックだった。
 中学一年生になり、友達ができて花火祭りが終わり帰った時。
「斗真は、海利に彼氏がいたこと知ってる?」
 姉さんが、父さんに告げたらしい。
 びっくりした。海利が付き合っていたことも、彼氏がいたことも。今や、同性と付き合うことはよくある話だ。俺のクラスでも同性カップルがいるくらいだ。
 だけど、一番驚いたのは、六歳離れた姉さんが海利が付き合っていることを知っていることだ。しかも家にいる。
「知らないよ」
 兄貴に好きな人がいたことは意外だった。俺とただゲームして、勉強を教えてもらうような関係。恋愛について話したことなんてなかった。そりゃあ、中学二年生だし、好きな人の一人や二人はできるだろう。
「ちょっと、座ってなさい。海利が来るまで待ちます」
 何となく察した。兄貴が付き合っていることに対して怒ってるんだ。いや、どちらかというと同性と付き合っていることに怒りを感じているんだ。父さんは、世間体のようなものを気にする。付き合うなら異性。遊ぶなら何時までとか決めてる。大学だって兄貴には国公立の大学に進学しろと言い始めたくらいだ。じゃあ、姉さんはどうなんだといいたくなる。姉さんは、私立の大学に進学したんだ。二人の何がどう違うっていのだろう。
 海利が、帰って来た。食卓に座る異様な光景に兄貴は、無視を決め込んだ。正解だと、内心思った。
「海利、そこに立ちなさい」
 歩みを止めた兄貴は、そのまま父さんの目を見たままだ。その目は、穏やかさのようなものを感じた。以前、真顔で無反応で昼食を食べてた時、父さんが箸を拾ってほしいと言ったがそれに呼応しなかったことが癪に障り怒らせたことがあった。多分、兄貴はそれ以来怒ってないと魅せるためにそんな目をしているんだ。無言だったのは、考え事をしていて、彼女との接し方をどうするかという内容で悩んでいたはずだ。確か、それは一年前だ。
「海利は、男子と付き合っているんだよね?」
 彼女とは一年で終わったらしい。恋愛に無知だったからか、それ以降は図書室とかで恋愛について、女子の気持ちについて勉強したらしいけど、一切共感できないし、学校の授業よりも難しいと嘆いていた。どうせなら、学校の授業で科目として出してくれと言っていた。
「姉さんが教えてくれたよ?なんで、黙ってた?なんで、男なの?海利は、男が好きなの?」
 マシンガンのように質問を重ねている父さん。
「……なんで」
 ボソッと聞こえた気がした。
「正直、気持ち悪いです。海利は、気持ち悪いです。男子と付き合うように育てた覚えはありません。そういった類の漫画も小説もドラマも見せてません。なのに、男子と付き合った海利が気持ち悪いです。父さんなので、海利のことを思って言ってます」
 それから、悲しそうに下を向いてため息をついた父さんがまた兄貴を見据えた。
「海利は、斗真がそんな風になったらどう思いますか?父さんは今、とても悲しいです。ショックが隠せません」
「そんな言い方、子供にするもんじゃないでしょう!」
 母さんが言った。子供のためといつもかばうのは母さんだ。そこにいつも海利の感情は含まれてない。
「父さんは、今、海利に話してます。少し、黙ってください。確かに、今の時代、同性愛についても寛容になっているし、Xジェンダーだの言います。ですが、それを本当に許している場所がありますか?」
「何を言ってるの」
「国は、同性愛を認めてない。だから、結婚もできない。会社でもそんな人を見ることはない。実際に、そんなことしたら周りからの目を考えなきゃいけない。海利は、そのことも分かっているんですか?」
「海利がしたいことをさせてあげればいいでしょ!子供のことを考えているなら!」
 俺は、こういうときただ黙ることに専念する。俺まで話し始めたら終わらないから。
「だから!子供のことを思うなら!同性愛なんていけないんだ!海利!海利はそのまま生き続けたいか?周りからバカにされながら生きたいか?やめなさい!そんな生活では海利はますます悪運を引き起こしてしまう!これは、海利を思って言っているんだ!良いな!しっかり考えてすぐに別れるように!」
 父さんは、怒りを露にしながら自分の部屋へと戻った。
「全く……。海利、海利は、好きなように生きていいからね。好きな人が異性でも同性でもお母さんは許してあげるからね」
 あくまで、母さんは海利の味方でいようとするんだ。
「ごめん、まさかこんな風になると思ってなかった。最近、家に顔出してなかったから」
 ことの発端は、姉さんだ。だけど、姉さんはただの世間話のつもりだったはずだ。その声は聞こえてたし、俺まで巻き込まれるとは予想外だ。多分、祭りに兄貴が男二人ででかけてそういう姿を見てしまったのだろう。
「風呂入ってくる!」
 兄貴は、笑顔でそういった。俺から見た兄貴の笑顔は今まで以上に歪だった。
 部屋に戻った兄貴の部屋に入る。
「どうした?」
「兄貴ってさ、彼氏と付き合ってみてどう思った?」
「どうって?」
「あ、ほら、俺はまだ彼女いたことないし、彼氏もいない。だから、どうなんだろうって」
「……楽しいよ、すごく」
 感情のない声だった。
「風呂行くわ」
 ドアを開けたところで呼び止めた。
「みんな、あんなこと言ってたけど、俺は応援する。俺、兄貴の恋、応援するから」
「ありがと」
 だけど、兄貴は俺に笑顔を向けるどころか、顔さえ見せてくれなかった。どこか、苦しそうにも見えた。
 今更俺は、来てはいけなかったんだと思い知った。

 それからは、兄貴を介して喧嘩することもよくあった。父さんが、兄貴の同性愛いじりを始めたことで母さんが冗談でもやめろと怒る。父さんは、兄貴を立てるためにはこれだけしてあげなければいけない。可愛そうな人にはここまでしてあげないと評価も下がったままだと兄貴にも母さんにも言った。
 評価はどこから来るのか、そもそもいじるものじゃないし、恋心をいじられたら傷つかないのかと思っても、同性愛は悪だとするなんてなんとも昔ながらの古いジェンダー感の持ち主だ。
 何一つ笑えなかった。
 日に日に、増してく喧嘩の量、罵声の量、親が子を傷つけるという環境。どれもが、俺にとっては苦しいものでそれよりも苦しいのは兄貴なんだと思うと何も言えない。
 結局、三年生になった段階で母さんは口を聞かなくなった。海利も笑わないし、勉強も教えてくれない。彼氏とも別れたらしい。
 別れたことを知ってからは父さんは海利をいじめることはなかった。やっと正常な判断ができる人に戻ったのだと感じたのだろう。
 だけど、海利の成績は下がっていく一方だった。
 俺が何を聞いても返事はない。答えが返ってこない。
 理由は、一目瞭然だった。両親の喧嘩が絶えなかったからだ。
 ある日、兄貴はバイトのできる高校に入ると言い出した。俺だけに言ったのだ。部活も元々やりたくてやったわけじゃない。お金さえ入れば、まだ十分生活できるだろうと言い出したのだ。自分のやりたいことのためにお金は貯めておかないというのだ。
 何を言っているのかわからなかった。だけど、すぐに知ることになった。両親が離婚するのだ。
 兄貴の受験が終わり、卒業式を迎えた後、あれこれあったらしいけど離婚が成立。色々決まったおかげで俺もそれなりに受験期は乗り越えられると思っていた。三人とも母さんについた。
 しかし、それは浅はかだった。
 元々、母さんは仕事をしている身じゃなかったはず。だから、仕事を探していた。兄貴は、部活の代わりにバイトを選んだため、ほぼほぼバイトに時間を費やすと言っていた。母さんには、仕事を急ぐ必要はないと言っているのが聞こえた。
 兄貴が、なんでここまでするのかわからなかった。高校生活は放課後が一番楽しいはずなのにバイトに全振りするって何考えてんだと思った。
 だけど、俺はそれどころじゃなくなっていた。受験の恐怖が自分を責めた。私立の高校はお金がかかる。母さんだって私立の授業料を払えるわけがない。就職できても初任給なんて安いらしい。そう思えば思うほど、偏差値が高い公立の高校をと考えると吐き気がしたし、勉強の時間も増えていき、その分ストレスも抱えるようになった。
 だから、自分でも人にストレスをぶつけていることに気づけなかった。兄貴が、少しでもとろいことしていたら、怒りを感じてぶつけた。兄貴が、休みの日に出かけるたびにバイトはしないのか、こんな状況でも遊べるお前が羨ましいだの言い続けた。俺は兄貴を傷つけていた。
 兄貴の表情なんか一切気にせず。顔面蒼白になってもやめてくれと懇願する兄貴の顔を見て余計に、怒りを感じて初めて兄貴の腹を殴った。そんな強くやったつもりもないけど、兄貴は少しの間動けなくなって、俺に頭を垂れた。
「も、もう、やめてくれ……。お願い。ほんとに、もう、やめてほしいんだ。僕はもう、これ以上……。だから、お願い。もう、やめてくれ……やめてほしい。斗真の力になれてないのはわかる。斗真のせいじゃない。僕が、こんなことしてるから。斗真の受験も応援するなら夕飯も風呂も洗濯物も全部、僕がやるべきなのに……。次から、ちゃんとやるから。ちゃんとやるからもう、許して。お願い。ちゃんと、迷惑かけずに静かにやるから。斗真はなんも悪くないから。僕が悪いから……。ちゃんとやるし、迷惑かけないから……」
 兄貴は、そのまま動かなかった。今まで好きだった兄貴の姿がもうここにはいない。
 俺が望んだことを兄貴はやろうとした。家に着いたら風呂が沸いていたり、夕飯があったり、そんな当たり前の生活を離婚した今も俺は望んだ。受験のストレスという言い訳もあった。
 俺は、その時も兄貴の気持ちを一切考えずに告げた。
「兄貴なんか嫌いだ。死んでしまえばいいのに」
 だから、気分転換に友達と来た花火祭りの帰り、兄貴が飛び降りたと聞いて罪悪感と、自責の念に苛まれた。
 俺は、人殺しなんだと自分の無責任な言葉の重みを恨んだ、憎んだ、悔やんだ。
 なのに、それでもこの方が兄貴も俺も楽なんじゃないかと悪魔がささやいたような気がして、それにも怒りを覚えた。
 今思えば、父親に彼氏がいるとバレたときが崩壊の始まりだと思う。
 今までも、父親に怒られることは何度もあった。ゲームの決まった時間を過ぎれば怒られるし、掃除しなければ怒られる。勉強ができなければ怒られる。部活ができなければ怒られる。
 なのに、僕は、中学三年生の時の成績は散々だった。僕が何か言うことで両親は喧嘩。少しでも点数が減れば怒られる。父親はもっとできないのかと怒り、母親はそれに対して、海利は頑張ったと言い返す。
 こういう時、僕はいつも口出ししなかった。何も言わなかった。母親は僕を見てない。それは、うすうす気づいていた。何を言っても伝わった気がしないのだ。
「このままじゃ、いけない気がする」
 テストで点数が下がった時、ボロッと出てしまった言葉だ。
「大丈夫。海利は、頭いいから。今回がだめだっただけだよ」
 フォローになっていたが当時、塾に行こうかと真剣に悩んでいた。だから、母親からその話題が出てくれればいいのに、そんなのは甘えだった。受け身だった。
「だからさ、塾に行きたいんだ」
「そんなことしなくていいよ。金かかるでしょう。父さんに言える?言えないでしょ。怒りたくもないし。海利は、根が真面目だから大丈夫よ」
 結局、取り合ってくれることはなかった。母親からも頭を下げてもらいたかった。塾にもいかず、分からないところがドンドンわからなくなって、気がづけば、何ができないのかもわからなくなった。
 そんな姿を父親は怒鳴った。何もできない、愚か者が!と、散々母親のいないところで言うようになった。同姓と付き合ったくらいでここまで言われると思っていなかった僕は、何も言えなくなった。
 笑わずにいたときも、怒っているのかと怒られ、笑うようにしていれば、何がそんなに面白いんだと怒る。
 そのたびに、母親が介入して喧嘩勃発。何か言わなきゃと思ってもパニックになって自分を落ち着かせることに必死だった。
 受験の一か月前になっても勉強に身が入らなかった。喧嘩が怖くて指が振るえて、めまいを覚えて落ち着かせてそれでも必死に机に向かった。そんなときに、母親が言った。
「離婚しようと思うの。海利も今、父さんのこと嫌いでしょう?こんな環境では海利が障がいを持ってもおかしくない。海利は真面目だから障がいになりやすいと思うの。だからね、引っ越ししようと思って」
 受験勉強もろくにできていない僕に、離婚というワード。最初は、何を言っているんだと頭が真っ白になった。
「……り、離婚?」
「そう。姉は、もう大学生だし、海利は受験が終われば、高校生。斗真だって喧嘩ばっかりする環境は嫌でしょう。だから」
「待って。え、離婚?ほ、本気?」
「本気よ。海利のことを考えて言ってるのよ?」
「……」
 何も言い返せなかった。
 僕のことを思ってそんなこと言うのか?それじゃ、まるで僕が家族を壊したみたいじゃないか。僕が、両親の仲を壊したみたいじゃないか……!
 母親がいなくなった後で、よく考えた。納得した。この時、初めて僕が家族にとって害なんだと気づいた。両親が喧嘩するときは、たいてい僕のことだ。僕が何もしなければ喧嘩はしない。母親にちゃんと言葉として伝えることができていたら。父親ともしっかり会話ができていれば。この家庭の癌だ。自分を呪った。
 家族を壊した最低最悪なゴミだ。
 何度か止めた。通じなかった。僕のためならそんなことしなくていいと何度言ってもダメだった。
 結局、高校一年生に上がるころには離婚調停が始まって、父親もその気だったのかすぐに離婚が成立した。
 ただし、親権は母親へ。父親は、子供が望めば会える。僕が聞いたのはそれだけだった。
 姉さんは、何も言わなかった。家を引っ越してもたまに帰ってきては、昼間のバイトが終わり寝てる。家事なんか手伝うことはなかった。そのくせ、夕飯はまだなのかと怒る。一人暮らしの人間はこうもだらけるのか。料理くらいしてほしいものだと言いたかったけど、自分のせいで離婚したのだから言えるはずもなかった。
 斗真は、僕に受験のストレスをぶつけるようになった。部活が終わればすぐに風呂に入って勉強したいらしくそれを知らずにいたころはちんたらと家事をやっていた。知ってからは、何とか間に合わせるつもりだったが、家からの距離が圧倒的に斗真の方が近いためストレスをぶつけられることの方が多かった。だったら、お前がやればいいだろと言いたくなっても、姉同様自分のせいだと抑えた。
 これが、僕のすべきことなんだ。バイトして、家事をやって、仕事をしているのかもわからない母親の負担を少しでも減らそうと考えたけど、体力も精神も疲弊しきっていた。学校も家庭も散々だ。
 これくらいなら、さっさと死ねばいい。死んだ方が楽になる。そう思う日はよくあった。

 そしてあれがこれいーやーさーさー過去回想へいへいへい…………待てよ。
 僕は、マンションから飛び降りた。五階という圧倒的な高さから。なのに、なんで、こんな風に考えることができる。なぜ、この記憶を持っているのだ。
 ……おいおい、まさか。死んでいない!?
 目を開けば、天井は白く、カーテンの仕切りがあるように思う。何か管のようなものが僕の体につながっている。
 そして、顔を覗く女の人が一人。病院?
 死ねなかったのか。
 ならば、見なかったこと気づかなかったことにしてもう少し寝させてもらおうじゃないか。
「深山君……?」
 この声、どっかで聞いたことある。
 まあ、いいや。寝る。
「深山君!?え、お、起きたよね?あれ、えっと、あ!」
 慌てたその女の人は、僕の頭の近くで何かをはじめた。すぐに誰かが来て状況を説明している。
「深山海利君?目、覚めましたか?」
 目を開けるとそこには女医と看護師が二人。端の方で女子が立っている。早川さんだ。さっきのは早川さんだったのか。
「……ここは」
 ありがちなセリフを吐いてみる。
「病院です。何があったのか覚えていますか?」
「……」
 ああ、そうか。そういうことか。何となくわかった気がする。
「マンションから飛び降りて死ぬはずが、何とか助かったってことですか?」
「そうです。検査しますので、そのままでいてください」
 ありとあらゆる検査が終わった僕は、奇跡的に何もなかったらしい。痛みはまだ引いていないし、足も折ったらしくてギプスをまかれている。まさか、両足折るとは。左腕も折れて使えるのは右腕だけ。腕も両方折れれば笑い話になったかもしれないのに。
「検査に異常はないですが、その体なので入院は続きますからね」
 女医は僕いる病室を出て行った。
「あの」
 看護師を呼び止めた。
「面会謝絶ってできます?」
「……ええ、できますけど」
「していいですか」
「……わかりました。ちょっと待ってくださいね」
 看護師の一人が、僕に状況を説明してくれた。
 どうやら、僕が飛び降りた後近くに来ていた早川さんが声をかけてくれて、その声に気づいた近所の人がすぐに救急車を呼んだらしい。総合病院まで運ばれて一命は取り留めた。だけど、意識は回復せず一か月ほど昏睡状態だったらしい。
 学校のことはわからないから、あとで誰かに聞いてほしいと言っていた。
 あの花火祭りの日から一か月も寝ていたことに驚いた。それ以上に、なぜもっと寝させてくれないのかと苛立ちを覚えた。
 面会謝絶の理由とかを色々話して許可はすぐに出ると思うと伝えられた。
 家族には会いたくない。母親にも父親にも。誰にも会いたくない。できれば、中野にも早川さんにも。あの環境にまた身を置けるほどの精神を僕は持ち合わせていない。
 なのに、なぜ僕の病室に早川さんはいたのか。なぜ、顔を覗かせていたのか。
 まあいい。どうせ、面会謝絶で会うことはない。
 このまま、あとで屋上にでも行こうか。問題はないはずだ。
 しかし、帰ったはずの早川さんは病室に来た。検査があるし、流石に帰ったと思ったけど違ったみたいだ。
 寝ているふりでもして、帰らせるか。
 明日には、面会謝絶のはずだ。
「寝たふりやめてよ」
「……」
 無視だ。目が合ったかもしれないが、寝るときに半目になる人だっている。バレない。
「やめてってば……」
 その悲しそうな声音に僕は、目を開けるしかなかった。
「なんで、そんなことするの」
「……」
 泣きそうな顔で僕を見ている。やっぱ、無かったことにして寝ようか。お休み。
「そういうのホントにやめてってば!ねえ!ひどいよ!!」
 そういうや否や僕の腹を力任せに叩きまくってくる。体の痛みも相まって衝撃が何百倍も増している。
 声が出ない痛みとはまさにこのことなのかと身をもって知った。
 目、覚めたから。覚めましたから。
「一緒に、花火祭り行くって言ったじゃん!浴衣も借りたのに!深山君だって着るって言ってたのに!」
 バンバンと何度も叩いてくるせいで言葉は聞けても、言葉を返すことはできなかった。
「ひどすぎるよ!」
 早川さんは、あふれた涙を両手の甲でぬぐい始めた。
「……帰ってくれ」
 僕は、冷たく言った。もう、いい。うるさい。
 もう、誰にも会いたくない。
「なんで……」
「疲れんだよ。人と話すの。面倒だし。うるさいし。いい加減、消えてほしい」
「……深山、君?」
「黙って消えてくれ。うるさい。一人でいい。邪魔だ」
「……ほ、本気で言ってるの?」
「じゃなきゃなんだよ。消えてくれよ。どいつもこいつも、煩わしい」
「深山君……」
「消えろって!邪魔臭いんだよ!どいつもこいつも消えてくれよ!!」
 早川さんは、目からあふれている涙を拭わず、下唇を噛みながら荷物を持って出て行った。
 一度出た言葉からボロボロと言葉があふれた。今まで感じていた不満も怒りも。なぜ関係のない早川さんにこんなことを言ったのかわからない。
 ちょっとした声さえうるさく感じて、誰かにこの姿を見られてくなくて、だけど、このありさまを見て同情してほしいなんて思った自分もいて。僕のことを理解して可哀そうな被害者だとかばってほしい。守ってほしい。僕を理解してかばってほしい。そんなバカな気持ちが今までどこかにあった。惨憺たる人生をみんなに知ってほしいなんて思ったこともあった。だけど、今わかった。そんなの求めてない。どいつもこいつも邪魔なんだ。僕の前で泣くな、僕の前で笑うな、僕の前で同情するな。
 どいつもこいつも嫌いだ。嫌いなんだ人が。生き物が。感情を持つ生命が。
 一人にしてほしい。安らかに眠りたい。あの時、走馬灯が見えなかった。それは、僕が生きる暗示だったんだとしたら、神様がいるんなら僕は、信じたくない。神様なんか大嫌いだ。こんな地獄を僕に用意して何が楽しい?こんな地獄を生きる僕を見て面白いか?ゴミみたいな感性を持った小学生のようなガキと一緒のクラスにいることの何が楽しい?
 何が、神だ。ただ残酷なものが好きな異常者が、神とか言って頂点に君臨すんなよ。そんなんだったら、殺戮者の方がだいぶマシだ。神なんかいない。こんな道を作り出したやつが神なら認めない。ただの異常者でクズだ。神なんか存在しなくていい。一生、地獄にでもいてほしい。お前が、地獄に行け。僕が地獄にいる必要なんかないだろ。
 家族を壊して、怒られて、何しても文句言われて。学校でもいじめられて、好きでも何でもない人を雰囲気に合わせて好きだとか言って。幼稚すぎる。人のことを何とも思わない小学生の知能にも満たない発言ばっか、行動ばっか。
 ああ、まじでどいつもこいつも死ねばいい。
 人のことを理解できる奴はこの世にいないんだろうな。だからこうやって僕みたいな自殺者が毎年のように出るんだ。僕を生かしてどうするつもりなんだよ。生きたって意味がない。環境は変わらない。どうせ、家族は『家族だから』とかいう理由で会いたくなくても会わなきゃいけなくなって、会えなかったら会いに来て。気持ち悪い関係だ。血がつながってるだけの他人なのに。
 いっそ、海外にでも行こうか。そうしたら、もっと分かり合える人に出会えるかもしれない。
 そんな時間を享受できたらいいのに。
 無理か。なら、また死ぬか。
 どうせ、誰かが止めに来るさ。
 ああ、こんな風に考える自分もすごく死ねばいいのに。