６
死ねた。
キーンと耳鳴りがする。目を見開く。暗闇だ。時計の秒針が響いている。徐々に耳鳴りが落ち着いてきた。目も暗闇に慣れはじめ、暗闇の先に広がっているのは天井だということもわかった。僕は仰向けに寝転がっているようだ。
死んでも手や足はあった。手足以外も、顔、胴体、指などすべての感覚があった。右手を思いっきり天井に向け突き上げ、手を大きく開いてみた。人差し指と中指の間から天井を見る。中指の先にかすかに息があたった。
シーツの質感や布団の感触、枕の硬さを感じることができる。自然に力を入れることができ、腹筋、背筋などあらゆる筋肉が動く感触がする。そして、ゆっくりと起き上がった。部屋を見渡すと、実家の僕の部屋だった。
ベッドから立ち上がり、数歩歩いて、電気をつけた。ふたたびベッドへ戻り、ベッドサイドに置いてある携帯を右手で持った。画面とテンキーをつなぐ金具についてるワンタッチのボタンを押したら、カチッと音を立てながら、画面が開いた。日付は２月２７日木曜日２３時２０分だった。携帯を操作し、カレンダーを起動したら、２００６年だった。
手が震えている。携帯が小刻みに動いている。あのとき、あの瞬間に僕の人生は確実に終わった。２９歳だった僕はこの世から居なくなったのかもしれない。時間がバグったのか、僕がバグったのかわからない。
しばらく、待ち受け画面をそのまま見つづけたあと、メールの受信ボックスを開いた。メールボックスを遡ると「小松奈津」からのメールがあった。
奈津とのやり取りは、本当になんてことない、学校の話とか、バラエティ番組の話しかなかった。
「２年生も終わるね」という奈津からのメールで今が中学２年生であることがわかった。やり取りのすべてが幼稚で、それらは全く発展しない恋、そのものに見えた。
７
目が覚め、ベッドから起き上がった。カーテンを開けて、外を見ると吹雪いていた。机に置いてある携帯を手に取り、背面の小さなモニターに表示されている時間を見た。６時３分だった。
外に出て、父さんの送りを断ったことを後悔した。ジャンバーのフードを被り、ゆっくり歩き始めた。遠くの建物は青白さに包まれ、見えなくなっていた。道道を照らすオレンジの街灯が青白さの先に道が続いていることが、なんとかわかった。
この街には国道がなく、道道と市道しかない。道道は除雪が間に合っていなかった。何台かの車がゆっくりと通り過ぎていく。車が通り過ぎる音とジャンバーのフードに雪がカサカサ当たる音がした。それ以外の音は何もなかった。
８
マジで遭難するんじゃないかと思った。ようやく学校に着き、玄関に入った。玄関の扉を閉めると、一気にあたりは静かになった。ジャンバーのフードを脱ぎ、ジャンバーについた雪を払った。
玄関ホールの壁にかけられている時計を見ると、７時２０分だった。学校はとても静かで中学校独特の酸っぱい匂いが染み付いていた。
２年生クラスの教室にはもう電気が付いていた。教室のドアに付いている窓から、教室を見ると、奈津が一人で座っていた。
思いっきて扉を開けると、奈津がこちらを見てきた。奈津はキョトンとした表情をしている。僕もなにも言えずにその場に立ったままだった。３秒くらい、奈津を見たまま立っていた。
「おはよう。早いね」と奈津がそう言った。
奈津はまだあっけにとられたような表情をしていた。奈津の手元には教科書とノートが置いてあった。
「――おはよう。――勉強してるの？」
「うん」
奈津はそう言ったあとも、そのまま、僕を見つめ続けている。
「へえ。やばいね」
「え、、なにが？」
「――朝から、勉強してて」
「うん」
奈津がそう言ったあと妙な間が流れた。僕は思わず笑ってしまった。
「なんで笑うのさ」と奈津がそう言ったあと、奈津も僕と同じように笑いはじめた。
「偉いなって、思って」
「偉いでしょ」
「偉いよ」
「文句ある？」と奈津はそう言って、右手に持っているシャープペンを持ったまま、両手の平を天井に向け、さぁ。というジェスチャーをした。
「いや、すごいよ」
「すごいでしょ」
「すごい」
「ありがとう。やる気出た」と奈津はそう言って、目線を下げた。そして、机に広げている参考書を見始めた。
僕はドアを閉めると、扉がなめらかにレールの上を走る音が響いた。教室全体を見渡すと、右側には黒板、左奥には掃除箱があり、その横からコート掛けが伸びていた。コート掛けには奈津の紺色のダッフルコートがぽつんと一着かかっていた。前方は窓だ。窓の外は吹雪いていて夢の断片みたいに白く荒かった。
「俺の席、どこだっけ？」
「え、何言ってるの？」
「わからないんだけど。俺の席」
「冗談なら相手にしないよ。本当に忘れてるなら別だけど」
「マジなヤツ」
「ウソでしょ」と奈津はそう言って、奈津から見て斜め前の席を指差した。
「ありがとう」
僕は自分の席まで移動し、バッグを机に置いた。
「ナツとこんなに席、近かったっけ？」と僕は自分の席の前に立ったままそう言った。
「近いでしょ。先週も先月も」と奈津が言ったあと、また教室は静かになった。
ジャンバーのジッパーを下ろした。ジッパーが開く音が教室に響いた。ジャンバーを脱ぎながら、コート掛けに近づいた。フックの上に番号が手書きされているシールが貼ってあった。その番号が出席番号だということはすぐにわかった。
「なあ、ナツ。俺の出席番号、何番？」
「知らないよ。そんなの」と奈津は少し呆れたような声色でそう言った。
「名簿みたいなのある？」
「――教壇の下にあるよ」
「わかった」
僕はそう言って、ジャンバーを持ったまま教壇へ向かった。
「なあ、ナツ。毎朝、勉強してるの？」
「うん、ほとんど毎日だよ」
「へえ。すげぇな」
「ねえ。うるさい。勉強してるのこっちは」と奈津はそう言って、僕を睨んでいた。怪訝そうな表情も幼くて、可愛く見えた。
「――ナツ、今日の夕方空いてる？」
「――うん」
「一緒に図書館いこう」と僕が言ったあと、奈津は小さく頷いた。奈津の頬は少し赤くなっていた。
その直後、ドアが開いた音がした。
誰かが「おはよう」と言って教室に入ってきた。僕と奈津はバラバラに「おはよう」と言い、お互い、何もなかったふりをした。
９
１５時ちょうどに授業が終わった。あっという間に感じた。５０分授業して１０分の休憩が息抜きになる。休み時間に煙草が吸えたり、コーヒーが飲めたらマシなのにと思った。
僕と仲が良い友達はみんなバトミントン部に入っていて、じゃあねと言って、アシックスのバトミントンバッグを背負い、すぐに教室を出ていった。
奈津を見ると教室の窓側の隅で、女友達となにかを話していた。僕はジャンバーを着て、さっさと玄関に向かった。
玄関から外に出ると凛とした冷たい空気が顔にあたるのを感じた。外で奈津を待つことにした。少し冷えてるけど、朝よりは寒くなかった。そして、青空が広がっていて、空気は澄み切っていた。
５分も経たないうちに奈津が玄関から出てきた。僕は右手を上げて、小さく手を振った。
奈津と歩き始めたけど、しばらく無言のままだった。降り積もった雪の上を走る車は、雪に音が吸収されて、どの車もとても静かに通り過ぎていった。歩道は何人かが歩いた足跡がくっきりと残っていた。除雪でできた雪山の所為で、歩道は一人分の道幅しかなかった。
この街で、中学生が二人きりで居ても不自然じゃないところは図書館しかなかった。イオンもマックもなにもない。コンビニはセイコーマートだけで、しかもイートインもない。
２０分くらい歩いて、図書館に着いた。建物に入った瞬間、暖かい空気に触れたのがわかった。図書館は大型ホールやいくつかの会議室がある公民館の中にある。エントランスは静かだった。
「着いた」
奈津の声がエントランス中に響き渡った。上を見上げると、３階くらい高さがある吹き抜けが開放的だった。誰も居ないエントランスはパパイヤを育てている温室のように不自然に静かだった。ガラスから差し込む西日がキラキラしていた。
１０
「え、ブラック飲めるの？」
奈津は不思議そうな声色でそう会話を切り出してきた。
「うん。最近飲めるようになったんだ」
僕は咄嗟にウソをついた。
図書館に入る前に自販機で缶コーヒーを買い、エントランスの淵にあるベンチに座っている。ベンチは二人がけにしては狭く、左肩が弱く奈津の右肩に触れていた。エントランスは僕と奈津、二人っきりで誰もいなかった。
プルリングを引き、缶を開けた。そのあと、左手で持っている缶を奈津の手元に寄せると、奈津は僕の缶にそっと缶に当て、お互い無言のまま乾杯をした。
缶コーヒーを一口飲むと、安い風味が口の中に広がった。左側の奈津を見ると、奈津はコートで萌え袖して、両手で包むようにカフェオレが入った缶を持っていた。
「ナツもコーヒー大丈夫なんだ」
僕は奈津に聞き返した。
「うん、私も最近飲めるようになったの」と奈津は拍子抜けしたような声でそう言った。
「熱い？ 大丈夫？」
「うん、大丈夫。ギリ飲めるから」
奈津はそう言ったあと、もう一口カフェオレを飲んだ。
「モガミ、今日どうしたの？ 本当に先週と別人みたい」と奈津は真剣そうな口調でそう言った。
「――別人かもね」
「本当に自分の席と出席番号、忘れてたの？」
「――ど忘れした」
「うそでしょ。あのリアクションはどう考えても、ど忘れって感じじゃなかったよ？」
「いや、ど忘れ」と僕はそう言って、笑った。
「まだ、馴染んでないんだよ。身体が」
「――そうなんだ」
奈津は何かを理解したかのようにそう言った。
「ねえ」
「なに？」
「こうやって、二人で話すの久しぶりだね」
「そうだね。何年ぶりだろうね」
「３年ぶりだね。あのとき、すごい楽しかったよ。今でも鮮明に思い出せるくらい」
「そっか。――懐かしいな」
「うん。すごくね。――だから、さっき誘われたとき、ドキドキした」
奈津にそう言われて、ドキドキした。確かにあの時、奈津と一緒に過ごした夏の始まりの日はすごく、奈津と親密感を感じた。
なのに、僕は奈津との関係を続けることが出来なかった――。
「ねえ。なんで今日、私のこと誘ったの？」
「陰キャだけど、勇気出したんだよ」
「え、陰キャ？」と奈津はそう言ったあときょとんとした表情をしていた。
「あ、えーっと。地味ってこと」と僕は慌てて、言い直した。
「――そうなんだ」と奈津は平らな声でそう言った。
「――デートしたくなったんだよ。奈津と」
「――図書館で？」と奈津がそう言ったあと、僕は奈津の方を見た。奈津はニヤニヤした表情をしていた。
「ここしか、行く場所ないだろ」と僕はそう言ったあと、コーヒーをまた一口飲んだ。
この街には映画館も、イオンモールも、マクドナルドも、何もかもなかった。学生が過ごせそうな場所はこの図書館が入っている公民館か、公園しかない。
だけど、公園は真冬の今は雪に埋もれて過ごすことができない。
入口側のガラス面から、西日になりかけた黄色い光が差し込んでいる。もうあと３０分もしないうちに日が沈みそうな色をしていた。
「普段、メールだけなのにさ、いきなり声かけられてびっくりした」と奈津はそう言った。
「――なんかさ。このままだと後悔するって、朝、思ったんだ」
「後悔？」
「あぁ。このまま、奈津と一緒に居れるわけじゃないじゃん。小学校、中学校は自動的に一緒だったけどさ。高校はどこにいくかわからない」
「――そうだね」
「一生中学生でいるわけじゃないし、大人になっても働き口もほとんどないこの街にずっと住めるわけないからさ、今日、誘わなかったら永遠に奈津と話せなくなるって思っただけだよ」
「――そっか」と奈津は静かにそう言って、微笑んだ。
「高校、滝川中央に行くんでしょ？」と僕はそう言ったあと、口元で缶を一気に天井へ傾けて、コーヒーを飲み干した。
「――なんで？」
「誰が見たって、ナツは進学校に行く成績でしょ」
「そうだね。私、成績いいからね」
「あ、それ。嫌味だわ」
「嫌味じゃないよ。それなりに努力してるし」と奈津は笑いながらそう言った。
「俺もこの一年、勉強して、奈津と一緒の高校行くよ」
「うそ。勉強するの？」
「当たり前でしょ」
「マジ？」と奈津は少し驚いた表情をしてそう言った。
「うん。マジ。だから、毎日、図書館で一緒に勉強しよう」
「――いいよ」
奈津はそう言って、ニコッと笑みを浮かべた。
死ねた。
キーンと耳鳴りがする。目を見開く。暗闇だ。時計の秒針が響いている。徐々に耳鳴りが落ち着いてきた。目も暗闇に慣れはじめ、暗闇の先に広がっているのは天井だということもわかった。僕は仰向けに寝転がっているようだ。
死んでも手や足はあった。手足以外も、顔、胴体、指などすべての感覚があった。右手を思いっきり天井に向け突き上げ、手を大きく開いてみた。人差し指と中指の間から天井を見る。中指の先にかすかに息があたった。
シーツの質感や布団の感触、枕の硬さを感じることができる。自然に力を入れることができ、腹筋、背筋などあらゆる筋肉が動く感触がする。そして、ゆっくりと起き上がった。部屋を見渡すと、実家の僕の部屋だった。
ベッドから立ち上がり、数歩歩いて、電気をつけた。ふたたびベッドへ戻り、ベッドサイドに置いてある携帯を右手で持った。画面とテンキーをつなぐ金具についてるワンタッチのボタンを押したら、カチッと音を立てながら、画面が開いた。日付は２月２７日木曜日２３時２０分だった。携帯を操作し、カレンダーを起動したら、２００６年だった。
手が震えている。携帯が小刻みに動いている。あのとき、あの瞬間に僕の人生は確実に終わった。２９歳だった僕はこの世から居なくなったのかもしれない。時間がバグったのか、僕がバグったのかわからない。
しばらく、待ち受け画面をそのまま見つづけたあと、メールの受信ボックスを開いた。メールボックスを遡ると「小松奈津」からのメールがあった。
奈津とのやり取りは、本当になんてことない、学校の話とか、バラエティ番組の話しかなかった。
「２年生も終わるね」という奈津からのメールで今が中学２年生であることがわかった。やり取りのすべてが幼稚で、それらは全く発展しない恋、そのものに見えた。
７
目が覚め、ベッドから起き上がった。カーテンを開けて、外を見ると吹雪いていた。机に置いてある携帯を手に取り、背面の小さなモニターに表示されている時間を見た。６時３分だった。
外に出て、父さんの送りを断ったことを後悔した。ジャンバーのフードを被り、ゆっくり歩き始めた。遠くの建物は青白さに包まれ、見えなくなっていた。道道を照らすオレンジの街灯が青白さの先に道が続いていることが、なんとかわかった。
この街には国道がなく、道道と市道しかない。道道は除雪が間に合っていなかった。何台かの車がゆっくりと通り過ぎていく。車が通り過ぎる音とジャンバーのフードに雪がカサカサ当たる音がした。それ以外の音は何もなかった。
８
マジで遭難するんじゃないかと思った。ようやく学校に着き、玄関に入った。玄関の扉を閉めると、一気にあたりは静かになった。ジャンバーのフードを脱ぎ、ジャンバーについた雪を払った。
玄関ホールの壁にかけられている時計を見ると、７時２０分だった。学校はとても静かで中学校独特の酸っぱい匂いが染み付いていた。
２年生クラスの教室にはもう電気が付いていた。教室のドアに付いている窓から、教室を見ると、奈津が一人で座っていた。
思いっきて扉を開けると、奈津がこちらを見てきた。奈津はキョトンとした表情をしている。僕もなにも言えずにその場に立ったままだった。３秒くらい、奈津を見たまま立っていた。
「おはよう。早いね」と奈津がそう言った。
奈津はまだあっけにとられたような表情をしていた。奈津の手元には教科書とノートが置いてあった。
「――おはよう。――勉強してるの？」
「うん」
奈津はそう言ったあとも、そのまま、僕を見つめ続けている。
「へえ。やばいね」
「え、、なにが？」
「――朝から、勉強してて」
「うん」
奈津がそう言ったあと妙な間が流れた。僕は思わず笑ってしまった。
「なんで笑うのさ」と奈津がそう言ったあと、奈津も僕と同じように笑いはじめた。
「偉いなって、思って」
「偉いでしょ」
「偉いよ」
「文句ある？」と奈津はそう言って、右手に持っているシャープペンを持ったまま、両手の平を天井に向け、さぁ。というジェスチャーをした。
「いや、すごいよ」
「すごいでしょ」
「すごい」
「ありがとう。やる気出た」と奈津はそう言って、目線を下げた。そして、机に広げている参考書を見始めた。
僕はドアを閉めると、扉がなめらかにレールの上を走る音が響いた。教室全体を見渡すと、右側には黒板、左奥には掃除箱があり、その横からコート掛けが伸びていた。コート掛けには奈津の紺色のダッフルコートがぽつんと一着かかっていた。前方は窓だ。窓の外は吹雪いていて夢の断片みたいに白く荒かった。
「俺の席、どこだっけ？」
「え、何言ってるの？」
「わからないんだけど。俺の席」
「冗談なら相手にしないよ。本当に忘れてるなら別だけど」
「マジなヤツ」
「ウソでしょ」と奈津はそう言って、奈津から見て斜め前の席を指差した。
「ありがとう」
僕は自分の席まで移動し、バッグを机に置いた。
「ナツとこんなに席、近かったっけ？」と僕は自分の席の前に立ったままそう言った。
「近いでしょ。先週も先月も」と奈津が言ったあと、また教室は静かになった。
ジャンバーのジッパーを下ろした。ジッパーが開く音が教室に響いた。ジャンバーを脱ぎながら、コート掛けに近づいた。フックの上に番号が手書きされているシールが貼ってあった。その番号が出席番号だということはすぐにわかった。
「なあ、ナツ。俺の出席番号、何番？」
「知らないよ。そんなの」と奈津は少し呆れたような声色でそう言った。
「名簿みたいなのある？」
「――教壇の下にあるよ」
「わかった」
僕はそう言って、ジャンバーを持ったまま教壇へ向かった。
「なあ、ナツ。毎朝、勉強してるの？」
「うん、ほとんど毎日だよ」
「へえ。すげぇな」
「ねえ。うるさい。勉強してるのこっちは」と奈津はそう言って、僕を睨んでいた。怪訝そうな表情も幼くて、可愛く見えた。
「――ナツ、今日の夕方空いてる？」
「――うん」
「一緒に図書館いこう」と僕が言ったあと、奈津は小さく頷いた。奈津の頬は少し赤くなっていた。
その直後、ドアが開いた音がした。
誰かが「おはよう」と言って教室に入ってきた。僕と奈津はバラバラに「おはよう」と言い、お互い、何もなかったふりをした。
９
１５時ちょうどに授業が終わった。あっという間に感じた。５０分授業して１０分の休憩が息抜きになる。休み時間に煙草が吸えたり、コーヒーが飲めたらマシなのにと思った。
僕と仲が良い友達はみんなバトミントン部に入っていて、じゃあねと言って、アシックスのバトミントンバッグを背負い、すぐに教室を出ていった。
奈津を見ると教室の窓側の隅で、女友達となにかを話していた。僕はジャンバーを着て、さっさと玄関に向かった。
玄関から外に出ると凛とした冷たい空気が顔にあたるのを感じた。外で奈津を待つことにした。少し冷えてるけど、朝よりは寒くなかった。そして、青空が広がっていて、空気は澄み切っていた。
５分も経たないうちに奈津が玄関から出てきた。僕は右手を上げて、小さく手を振った。
奈津と歩き始めたけど、しばらく無言のままだった。降り積もった雪の上を走る車は、雪に音が吸収されて、どの車もとても静かに通り過ぎていった。歩道は何人かが歩いた足跡がくっきりと残っていた。除雪でできた雪山の所為で、歩道は一人分の道幅しかなかった。
この街で、中学生が二人きりで居ても不自然じゃないところは図書館しかなかった。イオンもマックもなにもない。コンビニはセイコーマートだけで、しかもイートインもない。
２０分くらい歩いて、図書館に着いた。建物に入った瞬間、暖かい空気に触れたのがわかった。図書館は大型ホールやいくつかの会議室がある公民館の中にある。エントランスは静かだった。
「着いた」
奈津の声がエントランス中に響き渡った。上を見上げると、３階くらい高さがある吹き抜けが開放的だった。誰も居ないエントランスはパパイヤを育てている温室のように不自然に静かだった。ガラスから差し込む西日がキラキラしていた。
１０
「え、ブラック飲めるの？」
奈津は不思議そうな声色でそう会話を切り出してきた。
「うん。最近飲めるようになったんだ」
僕は咄嗟にウソをついた。
図書館に入る前に自販機で缶コーヒーを買い、エントランスの淵にあるベンチに座っている。ベンチは二人がけにしては狭く、左肩が弱く奈津の右肩に触れていた。エントランスは僕と奈津、二人っきりで誰もいなかった。
プルリングを引き、缶を開けた。そのあと、左手で持っている缶を奈津の手元に寄せると、奈津は僕の缶にそっと缶に当て、お互い無言のまま乾杯をした。
缶コーヒーを一口飲むと、安い風味が口の中に広がった。左側の奈津を見ると、奈津はコートで萌え袖して、両手で包むようにカフェオレが入った缶を持っていた。
「ナツもコーヒー大丈夫なんだ」
僕は奈津に聞き返した。
「うん、私も最近飲めるようになったの」と奈津は拍子抜けしたような声でそう言った。
「熱い？ 大丈夫？」
「うん、大丈夫。ギリ飲めるから」
奈津はそう言ったあと、もう一口カフェオレを飲んだ。
「モガミ、今日どうしたの？ 本当に先週と別人みたい」と奈津は真剣そうな口調でそう言った。
「――別人かもね」
「本当に自分の席と出席番号、忘れてたの？」
「――ど忘れした」
「うそでしょ。あのリアクションはどう考えても、ど忘れって感じじゃなかったよ？」
「いや、ど忘れ」と僕はそう言って、笑った。
「まだ、馴染んでないんだよ。身体が」
「――そうなんだ」
奈津は何かを理解したかのようにそう言った。
「ねえ」
「なに？」
「こうやって、二人で話すの久しぶりだね」
「そうだね。何年ぶりだろうね」
「３年ぶりだね。あのとき、すごい楽しかったよ。今でも鮮明に思い出せるくらい」
「そっか。――懐かしいな」
「うん。すごくね。――だから、さっき誘われたとき、ドキドキした」
奈津にそう言われて、ドキドキした。確かにあの時、奈津と一緒に過ごした夏の始まりの日はすごく、奈津と親密感を感じた。
なのに、僕は奈津との関係を続けることが出来なかった――。
「ねえ。なんで今日、私のこと誘ったの？」
「陰キャだけど、勇気出したんだよ」
「え、陰キャ？」と奈津はそう言ったあときょとんとした表情をしていた。
「あ、えーっと。地味ってこと」と僕は慌てて、言い直した。
「――そうなんだ」と奈津は平らな声でそう言った。
「――デートしたくなったんだよ。奈津と」
「――図書館で？」と奈津がそう言ったあと、僕は奈津の方を見た。奈津はニヤニヤした表情をしていた。
「ここしか、行く場所ないだろ」と僕はそう言ったあと、コーヒーをまた一口飲んだ。
この街には映画館も、イオンモールも、マクドナルドも、何もかもなかった。学生が過ごせそうな場所はこの図書館が入っている公民館か、公園しかない。
だけど、公園は真冬の今は雪に埋もれて過ごすことができない。
入口側のガラス面から、西日になりかけた黄色い光が差し込んでいる。もうあと３０分もしないうちに日が沈みそうな色をしていた。
「普段、メールだけなのにさ、いきなり声かけられてびっくりした」と奈津はそう言った。
「――なんかさ。このままだと後悔するって、朝、思ったんだ」
「後悔？」
「あぁ。このまま、奈津と一緒に居れるわけじゃないじゃん。小学校、中学校は自動的に一緒だったけどさ。高校はどこにいくかわからない」
「――そうだね」
「一生中学生でいるわけじゃないし、大人になっても働き口もほとんどないこの街にずっと住めるわけないからさ、今日、誘わなかったら永遠に奈津と話せなくなるって思っただけだよ」
「――そっか」と奈津は静かにそう言って、微笑んだ。
「高校、滝川中央に行くんでしょ？」と僕はそう言ったあと、口元で缶を一気に天井へ傾けて、コーヒーを飲み干した。
「――なんで？」
「誰が見たって、ナツは進学校に行く成績でしょ」
「そうだね。私、成績いいからね」
「あ、それ。嫌味だわ」
「嫌味じゃないよ。それなりに努力してるし」と奈津は笑いながらそう言った。
「俺もこの一年、勉強して、奈津と一緒の高校行くよ」
「うそ。勉強するの？」
「当たり前でしょ」
「マジ？」と奈津は少し驚いた表情をしてそう言った。
「うん。マジ。だから、毎日、図書館で一緒に勉強しよう」
「――いいよ」
奈津はそう言って、ニコッと笑みを浮かべた。
