54
僕は奈津が言っていることが、よく理解することができなかった。
「私に子供がいたって言ったでしょ? ――あれね、私達の子供なの」
「――リオ」
「そう。リオ。2018年5月13日に生まれたの。27歳になった年にね。前のときは私達、高校生になってから付き合ったんだよ」
「そうだったんだ」
「うん。大学生の時、札幌と東京で遠距離恋愛になって、すれ違いすぎて、一回別れたんだよね。それで大学卒業して、私、札幌で働き始めたんだ。その時、札幌でモガミと復縁して結婚したの。だから、私達、これで二回目の結婚になるね」
「――そうだね」
僕は急に釈然としない気持ちになった。
「私ね、リオが生まれる一年くらい前に、モガミと釧路湿原に旅行したときのことが、今でも忘れられないの。早朝の塘路湖と湿原を見に行ったんだ。朝の6時から。小高い山を登ったところにある展望台から見たんだけど、最初は霧で全然、見えなかったの。展望台から少し様子見てたら、ぶわって、霧が晴れて、一気に朝日が射したんだ。すごい綺麗だった。それでしばらく二人であっけに取られて、見入ってたの。そのあと、モガミ、なんて言ったと思う?」
「――わからない」
「ずっと夢見てよう。って言ったの」
7月なのに弱くて冷たい風が吹いた。線路脇の雑草は気持ちよさそうに風に揺れている。
「それで、その後、キスされてさ。なんか、その言葉がすごい今でも残ってるんだ。不思議だよね。なんでだろうね」
奈津は左の人差し指でベンチの座面を円で描き、何度もなぞっていた。徐々にその円は広がっていった。奈津は上を向いて、大きく息を吐いた。そして、こう話を続けた。
「だけど、ずっと夢を見続けることはできなかった。私達、リオが死んでから関係性が明らかに変わったんだ。そんな意識、お互いしてないはずなんだけど、まるでリオが最初からいなかったかのように話をするようになったんだ。昔の話をするとき、リオがいる場面の話題をあえて避けて話すようなそういう感じだったの。――もちろん、何度もリオのこと思い出してお互い泣いたり、慰め合ったりしたよ。だけど、それじゃあ埋め合わせることができないくらい、決定的に寂しいの。お互い。――それで、これ以上、二人で居ても、前、向いて暮らすことができないねって、結論になったの。それで離婚した」
奈津がそう言ったあと、奈津の円を描いていた人差し指の動きは急に止まった。僕は虚しくなって次の言葉がわからなかった。
「リオが死んだあと、私達、なんで上手くいかなかったんだろうね」
「――上手く気持ちを処理できなかったんだろうね。お互いに」
「そうだね。リオが死んだあと、素直な関係に戻れなくなったのかもね」
「お互い、なんで話すことができなかったんだろうな。そのことについて」
「私ね、きっと怖かったんだよ」
「怖かった?」
「うん。モガミから責められることなんてなかったと思うけど、人から責められることをしたと思ったんだ。私の中で勝手にね。最初に病院行ったときになんでもっと強く、肺炎の検査をするように言わなかったんだろうとか、別な病院で見てもらえばよかったのにとか、そういう後悔してることを責められるのが怖かったんだよね。誰も責めないのにね。それを責められるのが怖かった。自分も向き合いたくなかったし、その辺の話を上手く二人で話せなかった」
「そうなんだ。――そしたら、なんでタイムスリップ先を結婚してからとか、リオくんが死ぬ前にしなかったの?」
「最初にそれは思ったよ。私だって。――タイムスリップするならリオがいる世界がいいと思った。だから何度も試した。だけど何十回試してもダメだった。全く、上手くいかなかった。――だから余計辛かった。今まで2回もタイムスリップ成功させてるのに、なんでこれだけは上手くいかないのって。本当に辛かったし、虚しかった」
「――そうだったんだ」
「でね、ある日気づいたんだ。その日もタイムスリップ失敗して、病室の窓から滝川の街と奥に見える石狩川をぼんやりと眺めてたの。頭はクラクラだった。だけど、外は夏らしい綺麗な昼間だったんだよね。街の建物の色とか、奥の田んぼの緑色とか、遠くの山の青色とか、6月頃って、そういう色がやけにくっきりしてる日があるでしょ? 本当にそういう日で綺麗だなって思ってたの。そのとき、ふと思ったの。結局、モガミとの溝は埋まらないんだってね」と奈津はそう言った。
僕はその瞬間、ぎゅっと胸をなにかに掴まれたような痛みを感じた。
――溝が埋まらなかったんだ。
「リオが死ぬ前からそれは一緒だったってことに気づいたの。高校生のときに、表面的に惹かれ合って恋愛して、遠距離になったから、別れて、だけどお互い、気にかかるから復縁して結婚しただけだったんだって。考えたら、その間のことって、深くしっかりとモガミのこと理解しているようでしてなかったんだと思う。愛しているようで愛していなかった。それは、リオが仮にあのとき、死んでなくても結果は一緒だったかもしれないって思ったの。リオが生きていてもそのうち、離婚してたんだろうなって思った。だから、最初からモガミとの関係をやり直さないといけないって、その時、思ったの」
奈津がそう言ったあと、風が弱く吹いた。奈津を見ると奈津の髪は右側に弱く流れた。
「ごめんね。プロポーズしてくれたのに、こんな話して。今のモガミと関係ないのにね」
「ううん。俺であることには変わりないよ。――ごめんね」
「違うよ。モガミが謝ることじゃないよ」
奈津を見ると、奈津は辛そうな表情をしていた。きっと、それだけ、奈津を傷つけたんだ。自分が知らない自分が――。
「――ナツの話聞いて、俺の中にナツのこと知る努力とか、ナツへの思いやりとかそういうのが欠けてる面があったんだな。きっと。今はナツのこと、もっと知りたいと思ってる。――もっと、深く愛したい。ただ、そう思ってる」と僕はそう言ったあと、すっと息を吐いた。
「だから、今度は上手くいくようにしよう。どんなことがあっても」
「――そうだね」
奈津がそう言ったあと、またお互いに無言になった。奈津を見ると、奈津は何か言い足りなさそうな表情をしていた。だけど、待っても奈津から言葉が出てこなかった。
「――いや、絶対上手くできる。というか、するよ。今度は絶対上手くいくように。――もっとナツのこと知る努力するよ。心の底から愛してるって言うくらい、全部ひっくるめて」
「私も努力するね。――私ね、きっと、今のモガミとなら、深く愛せるよ」
奈津はベンチから立ち上がり、ホームを降りた。そして、レールの上をゆっくりと歩き始めた。僕は奈津のあとを追って、ホームを降りた。奈津は両手を広げて上手くバランスを取りながら、レールの上を進んでいる。
僕は少しの間、枕木の上で立ち止まった。レールの上でバランスを取っている奈津の制服姿と青空が妙に美しく見えて涙が出そうになった。セミの鳴き声が響いている。入道雲が空高く立っている風景と、制服のスカートの裾が風でなびいている奈津の立ち姿が、短い夏を絵の具で混ぜて表現しているように見えた。
奈津はどんどん離れていく。ゆっくり着実に一歩ずつ離れていく。僕は走り、奈津の背中に抱きついた。セミの鳴き声はそのままで、ぬるい風が僕と奈津を通り過ぎた。奈津の首筋から、夏のナトリウムのような匂いがした。奈津は肩を震わして泣き始めた。
「ありがとう」
奈津は静かにそう言った。
55
「ねえ。初めて出会ったときのこと覚えてる?」と奈津は僕にそう言った。
僕はまだ慣れていないジムニーの運転に集中していて、返事が遅れた。夜の国道12号線はオレンジ色の街灯が等間隔に並んでいて綺麗だった。街灯の下を通り過ぎるたびにオレンジ色の光が車内に射し込んだ。
「覚えてるよ。小学校でナツが転校してきた日でしょ?」
「うん、それもそうだけど、早退した日のこと覚えてる?」
「覚えてるよ」
「楽しかったよね。あの日、公園で話したあと、橋から川見たりさ、みんなの下校時間近づいたから慌てて帰ったりとかさ」
「そんなこともあったね。慌てて帰ったから、ゆっくりできなかった」
「あのまま何も無ければ永遠にゆっくりできたのにね」と奈津はそう言って、僕の左膝に右手を乗せた。
僕は奈津が言っていることが、よく理解することができなかった。
「私に子供がいたって言ったでしょ? ――あれね、私達の子供なの」
「――リオ」
「そう。リオ。2018年5月13日に生まれたの。27歳になった年にね。前のときは私達、高校生になってから付き合ったんだよ」
「そうだったんだ」
「うん。大学生の時、札幌と東京で遠距離恋愛になって、すれ違いすぎて、一回別れたんだよね。それで大学卒業して、私、札幌で働き始めたんだ。その時、札幌でモガミと復縁して結婚したの。だから、私達、これで二回目の結婚になるね」
「――そうだね」
僕は急に釈然としない気持ちになった。
「私ね、リオが生まれる一年くらい前に、モガミと釧路湿原に旅行したときのことが、今でも忘れられないの。早朝の塘路湖と湿原を見に行ったんだ。朝の6時から。小高い山を登ったところにある展望台から見たんだけど、最初は霧で全然、見えなかったの。展望台から少し様子見てたら、ぶわって、霧が晴れて、一気に朝日が射したんだ。すごい綺麗だった。それでしばらく二人であっけに取られて、見入ってたの。そのあと、モガミ、なんて言ったと思う?」
「――わからない」
「ずっと夢見てよう。って言ったの」
7月なのに弱くて冷たい風が吹いた。線路脇の雑草は気持ちよさそうに風に揺れている。
「それで、その後、キスされてさ。なんか、その言葉がすごい今でも残ってるんだ。不思議だよね。なんでだろうね」
奈津は左の人差し指でベンチの座面を円で描き、何度もなぞっていた。徐々にその円は広がっていった。奈津は上を向いて、大きく息を吐いた。そして、こう話を続けた。
「だけど、ずっと夢を見続けることはできなかった。私達、リオが死んでから関係性が明らかに変わったんだ。そんな意識、お互いしてないはずなんだけど、まるでリオが最初からいなかったかのように話をするようになったんだ。昔の話をするとき、リオがいる場面の話題をあえて避けて話すようなそういう感じだったの。――もちろん、何度もリオのこと思い出してお互い泣いたり、慰め合ったりしたよ。だけど、それじゃあ埋め合わせることができないくらい、決定的に寂しいの。お互い。――それで、これ以上、二人で居ても、前、向いて暮らすことができないねって、結論になったの。それで離婚した」
奈津がそう言ったあと、奈津の円を描いていた人差し指の動きは急に止まった。僕は虚しくなって次の言葉がわからなかった。
「リオが死んだあと、私達、なんで上手くいかなかったんだろうね」
「――上手く気持ちを処理できなかったんだろうね。お互いに」
「そうだね。リオが死んだあと、素直な関係に戻れなくなったのかもね」
「お互い、なんで話すことができなかったんだろうな。そのことについて」
「私ね、きっと怖かったんだよ」
「怖かった?」
「うん。モガミから責められることなんてなかったと思うけど、人から責められることをしたと思ったんだ。私の中で勝手にね。最初に病院行ったときになんでもっと強く、肺炎の検査をするように言わなかったんだろうとか、別な病院で見てもらえばよかったのにとか、そういう後悔してることを責められるのが怖かったんだよね。誰も責めないのにね。それを責められるのが怖かった。自分も向き合いたくなかったし、その辺の話を上手く二人で話せなかった」
「そうなんだ。――そしたら、なんでタイムスリップ先を結婚してからとか、リオくんが死ぬ前にしなかったの?」
「最初にそれは思ったよ。私だって。――タイムスリップするならリオがいる世界がいいと思った。だから何度も試した。だけど何十回試してもダメだった。全く、上手くいかなかった。――だから余計辛かった。今まで2回もタイムスリップ成功させてるのに、なんでこれだけは上手くいかないのって。本当に辛かったし、虚しかった」
「――そうだったんだ」
「でね、ある日気づいたんだ。その日もタイムスリップ失敗して、病室の窓から滝川の街と奥に見える石狩川をぼんやりと眺めてたの。頭はクラクラだった。だけど、外は夏らしい綺麗な昼間だったんだよね。街の建物の色とか、奥の田んぼの緑色とか、遠くの山の青色とか、6月頃って、そういう色がやけにくっきりしてる日があるでしょ? 本当にそういう日で綺麗だなって思ってたの。そのとき、ふと思ったの。結局、モガミとの溝は埋まらないんだってね」と奈津はそう言った。
僕はその瞬間、ぎゅっと胸をなにかに掴まれたような痛みを感じた。
――溝が埋まらなかったんだ。
「リオが死ぬ前からそれは一緒だったってことに気づいたの。高校生のときに、表面的に惹かれ合って恋愛して、遠距離になったから、別れて、だけどお互い、気にかかるから復縁して結婚しただけだったんだって。考えたら、その間のことって、深くしっかりとモガミのこと理解しているようでしてなかったんだと思う。愛しているようで愛していなかった。それは、リオが仮にあのとき、死んでなくても結果は一緒だったかもしれないって思ったの。リオが生きていてもそのうち、離婚してたんだろうなって思った。だから、最初からモガミとの関係をやり直さないといけないって、その時、思ったの」
奈津がそう言ったあと、風が弱く吹いた。奈津を見ると奈津の髪は右側に弱く流れた。
「ごめんね。プロポーズしてくれたのに、こんな話して。今のモガミと関係ないのにね」
「ううん。俺であることには変わりないよ。――ごめんね」
「違うよ。モガミが謝ることじゃないよ」
奈津を見ると、奈津は辛そうな表情をしていた。きっと、それだけ、奈津を傷つけたんだ。自分が知らない自分が――。
「――ナツの話聞いて、俺の中にナツのこと知る努力とか、ナツへの思いやりとかそういうのが欠けてる面があったんだな。きっと。今はナツのこと、もっと知りたいと思ってる。――もっと、深く愛したい。ただ、そう思ってる」と僕はそう言ったあと、すっと息を吐いた。
「だから、今度は上手くいくようにしよう。どんなことがあっても」
「――そうだね」
奈津がそう言ったあと、またお互いに無言になった。奈津を見ると、奈津は何か言い足りなさそうな表情をしていた。だけど、待っても奈津から言葉が出てこなかった。
「――いや、絶対上手くできる。というか、するよ。今度は絶対上手くいくように。――もっとナツのこと知る努力するよ。心の底から愛してるって言うくらい、全部ひっくるめて」
「私も努力するね。――私ね、きっと、今のモガミとなら、深く愛せるよ」
奈津はベンチから立ち上がり、ホームを降りた。そして、レールの上をゆっくりと歩き始めた。僕は奈津のあとを追って、ホームを降りた。奈津は両手を広げて上手くバランスを取りながら、レールの上を進んでいる。
僕は少しの間、枕木の上で立ち止まった。レールの上でバランスを取っている奈津の制服姿と青空が妙に美しく見えて涙が出そうになった。セミの鳴き声が響いている。入道雲が空高く立っている風景と、制服のスカートの裾が風でなびいている奈津の立ち姿が、短い夏を絵の具で混ぜて表現しているように見えた。
奈津はどんどん離れていく。ゆっくり着実に一歩ずつ離れていく。僕は走り、奈津の背中に抱きついた。セミの鳴き声はそのままで、ぬるい風が僕と奈津を通り過ぎた。奈津の首筋から、夏のナトリウムのような匂いがした。奈津は肩を震わして泣き始めた。
「ありがとう」
奈津は静かにそう言った。
55
「ねえ。初めて出会ったときのこと覚えてる?」と奈津は僕にそう言った。
僕はまだ慣れていないジムニーの運転に集中していて、返事が遅れた。夜の国道12号線はオレンジ色の街灯が等間隔に並んでいて綺麗だった。街灯の下を通り過ぎるたびにオレンジ色の光が車内に射し込んだ。
「覚えてるよ。小学校でナツが転校してきた日でしょ?」
「うん、それもそうだけど、早退した日のこと覚えてる?」
「覚えてるよ」
「楽しかったよね。あの日、公園で話したあと、橋から川見たりさ、みんなの下校時間近づいたから慌てて帰ったりとかさ」
「そんなこともあったね。慌てて帰ったから、ゆっくりできなかった」
「あのまま何も無ければ永遠にゆっくりできたのにね」と奈津はそう言って、僕の左膝に右手を乗せた。