キミは海の中に沈む【完】

酷く、頭が重かった。
重いというよりも、ズキズキというか、動けば脳が揺れる感覚がしてとても気持ち悪くて。
息を出せば、やけに喉が熱く。吐息も熱かった。

簡単言えば、ツラい……。
体を動かせない。
体を動かそうとすれば、関節や皮膚が痛くて、起き上がるのもしんどくて。


それでも、ここはどこだろう?っていう気持ちが強かった。見慣れない天井。頭が上手く働いていないせいか、自分がどこにいるかも分からなかった。

布団にいることは分かる、でも、それだけしか分からない。
頑張って全身が痛む体を起こしても、ここがどこかの部屋っていうだけで、やっぱりここがどこか分からない……。


「あたま、いた……」


ぽつりと呟いた私の声は、やけに枯れていた。
体が熱い。
そのせいか、体の震えが止まらなかった。
だとしたら寒いのか。
でも熱い。
しんどい。
ツラい。
寒い。


そう思って、また枕へ頭を戻せば、少し呼吸がラクになったような気がした。
でも、ラクになった気がしただけで、ツラさは変わらない。


風邪……?
分からない。
とにかくツラい。



しばらく体を震わせながら布団を体に巻き付けていると、──コンコン、と、その部屋の扉のノックの音がした。瞼を開けるのも、ツラい。


「凪? 入るね。起きてる?」


扉の開く音が聞こえた。
私の元に誰かが近づいてくる。


「凪?」


誰かが私を見下ろしている。
目がぼやけて、よく見えない。
誰だろう、この人。
女の人っていうのは分かる。
そもそも、凪って、誰だろう?
そう思っていると、「凪?」と、声のトーンが変わったその人が私の頬にふれた。


「……熱?凪、しんどい?」


誰か分からないけど、優しく、焦ってはいるけど心地いいトーンで聞かれるから、私は小さく頷いた。


「ちょっと待ってね、体温計持ってくるから…」


看護師か、誰かだろうか。
分からない。
いったん、離れた女の人は体温計と──、お茶が入っているらしいグラスのコップを持ってきた。


体を起こし私にお茶を飲ませてくれたその人は、もう1度私を寝かせると、「服めくるわね」とワキに体温計を差し込んだ。
何十秒かして、音がなり、髪の短い女の人がワキから取り出しそれを見ると、顔を顰めていた。


「38度、……薬持ってくるわ、何か食べましょう」

「あ、の……」

「なに?」

「……だれ……です、か」


私の質問に、その人は優しく笑うと、私の頭を撫でた。


「私はあなたのお母さん。あなたは記憶喪失で昔のことを覚えてないの。ここは安全な場所だから怖がることは無いからね」



そう言われ、あんまり理解できなかったけど、悪い人ではなさそうだから。私はもう一度身を任せるように瞼を閉じた。


お母さんと名乗るその人は、誰かと電話をしているようだった。
「もしもし?潮くん?」と、そんな言葉が聞こえたから。


「凪が熱を出して──、昨日の──、」


何話してるんだろう?
分からない。


だけど「もうすぐ潮くんっていう男の子が来るけど、その子も凪の味方だからね」と、お母さんらしい人が私に言ってきた。


うしお……?
うしお、


どこかで、聞いたことがあるような気がして……。

どこだろう?
分かんない。
どこで、名前を聞いたんだろう?
だけど遠い昔に聞いたような気がする。
思い出せない。
でも、分かる。
なんとなく覚えてる。
頭が痛い。
ズキズキする。
もう何も考えたくない。
寒いからもう1枚布団が欲しい。
さっきの女の人、どこに行ったんだろう?
そういえばお母さんって言ってたっけ……。
だれの?
わたしの?
…………わたしって……。


働かない頭でぼんやりと考えていると、慌ただしく、扉の開く音が聞こえた。
さっきの、お母さん……?、かな、と思った。
瞼を閉じていたから誰か分からない。

その人が傍まで歩いてくるのが振動で分かった。


「……凪?」


だけど、その声は男の人だった。
低い声。
不安と、心配と、戸惑いに満ちた声。

冷たい手が私の頬におりてきた。
その手が冷たいと思ったのは私の体が熱いからなのか、それとも彼の手が元々冷たいのか。


「…凪、…大丈夫か? 」


愛おしそうに撫でるその手に、私は瞼を開いた。視界がぼやける……。……誰……。


「震えてる、寒いのか?」


誰でもいい、布団を持ってきてほしい。あっためて欲しい。男の人は立ち上がると、少し離れた。扉……、ガラガラといったから、クローゼットを開く音かもしれない。


毛布、のようなものが、布団の上からかけられた。重いけど、温かい。


「ごめんな……寒くないか?」


謝ってる人が、また頬を撫でてくる。
瞼を開けていた私は、ぼんやりとしていた視界がやっとクリアになってきて。
その人を見ることができた。


黒髪で、切れ長の、二重の瞳。
高い鼻、薄い唇……。
肌の色は、白く。


「凪?」


その人と目が合う。
あれ……
知ってる?
私はこの人を、知っているような……。
どこかで見た事のあるような気がする。
どこだっけ……。
分からない。
でも、覚えてる。

昔、昔に。

昔──……。

もっと、小柄だったような……?


頭の中で、黒色のランドセルが思い浮かんだ。
ランドセル……。
小学生……?
でも、目の前にいる人はどう見ても小学生には見えない。


いつの時……。
昔。
この人が、ランドセルを背負っている時。
こんなにも大人じゃなかった。


────『おもんね、今日は言い返して来ねぇのな』


ランドセルを背負ったこの人は、私を見下していた。
私はその時、しゃがんでて、膝が痛くて。
そうだ、私は、この人に突き飛ばされたことがある──……。それで、転んだ。酷い言葉を言われたような気がする。


「凪?どうした?」


目が泳ぎ、寒さとは違い震え出す私を見て、焦ったような声を出す男は、「凪?」と逃げようとする私を支えようとした。

それが嫌で振り払おうとしても、熱があるせいで上手くいかない。
だから──……


「い、いやっ、いや!」


痛い喉で、叫んだ。


「凪? どうした? びっくりしたのか?」

「やめてっ……」

「悪かった、知らない男がいたらびっくりしたな、大丈夫だから」

「大丈夫……、じゃないっ……」

「落ち着いてくれ、出ていくから。今すぐ出ていく、だから横に──……」

「また私に怪我をさせるつもりなのっ……?」


苦しさのせいか、目の奥が熱くなって、ポロポロと涙が溢れてくるのが分かった。


「─え……?」


目を見開き、驚いた声を出した男の人は、息を飲んだような気がして。


「〝また〟……?」

「こわい、こわいっ……」

「凪、今、〝また〟って言ったのか?」

「……やだぁ……」

「凪、」

「っ、──お母さん!お母さん!助けてお母さん!!」


彼の顔が、一瞬にして強ばるのが分かった。


「凪? 俺が分かるのか?」


彼から逃げようと完全に体を起こしている私の目からは涙が止まらなかった。
ツラいからなのか、目の前にいる人が怖いからなのか分からない。


だけど無我夢中で、さっきの女の人を呼んだ。
最後の方は、とても弱々しかった。


「どうしたの?!」


慌てた様子で、女の人が来た。
さっきとは違い、何かを作っていたのか、エプロンをつけている人……。


「このひと、このひとが……」


お母さんらしい人は、私が泣いていることに、目を見開いた。


「潮くん?潮くんがどうしたの?」

「わたしを、おした……、足にケガした……!」

「え?」


困惑する表情をした女性。


「…怪我してないわ、どうしたの?」


今はしてない、
昔、
昔に。
この人が小学生の時に──……!!


私はもう1度、思い出したことを言う。



「っ、何も、言い返して来ないって……」

「え?」

「明日になれば忘れるって、酷いこと言った…」

「……なぎ?」

「誰かが、バカって言ってたぁ……」



ボロボロと涙が溢れ、それは止まらなくて。
「こわいよ、こわいよ……」と言い続けていれば、私に酷いことを言った男の人がいなくなっていた。


「大丈夫よ、大丈夫……」


お母さんが抱きしめていた。
頭が痛く、泣き止んだ頃には熱が上がっていたしく、吐き気が私をおそった。


トイレの中で胃液を出し続けていた私が落ち着いたのは、しばらく経ってからだった。


潮くん──と呼ばれていた男の人は私の前に現れることはなく。お粥を無理矢理1口食べ、薬が効き始め、もう一度眠りについたのはお昼頃。


目を覚ましたのは夕方。
目を覚ました時、いないはずの人が、私のそばにいた。蒼白になり、また私は泣き出した。


「覚えんのか……?」


そんな私を見て、カレが戸惑ったように口を開く。

なにが、なにが、なにが──…。

ありえないほど、目を見開き、驚く彼はもう一度「……俺が、朝、ここに来たこと覚えてる?」と聞いてきて…。


聞いてきても、答えることが出来なかった。ただ怖かった、私が寝ていた時、この人がそばにいた事が。


お母さんが、中へ、入れたのか……。



「なぎ……」

「やめて……」

「分かる?」

「……やめて……」

「泣かないでくれ…………」


薬が効いたのか、もしくは熱が上がったのは一時的なものだったのかは分からないけど、その日の夜になると7度代前半まで下がっていた。

まだ寒気はするし、頭はだるいけど、朝より脳は働いている。

お母さんがうどんを作ってくれた。食欲がないけど、せっかく作ってくれたうどんだから頑張って食べた。
でも、やっぱり食欲が無くて。半分ほど残してしまった。


「……凪、少し聞いていいかな?」


お母さんが言う。
何を聞かれるか、なんとなく分かっている私は、あまり口を開きたくなかった。


「凪は、自分のことが誰か分かる?」

「……」


私は首を横に振った。
名前も知らなかった。
なんとなく、お母さんも、さっきの男の人も「凪」って呼ぶから、凪なんだなって思ってた。


「私のことは?」

「……ごめんなさい……分からない……」

「じゃあ、分かるのは、さっきの男の子?」


口を開きたくない質問……。


「は、い……」

「どんなこと、覚えてる?」


どんなこと?
どんなのって、言われても。


「私のことを押してきて……、私の足から血が出ているのに笑ってて。それ見て、言い返してこない、明日になれば忘れるって……」

「それは、小学生の時?」

「……はい、ランドセルを背負ってた」

「そっか……。他にはある?」

「いえ……」

「凪、あなたは、自分が記憶喪失だってことは分かる?」


記憶喪失?
私が?


「記憶喪失ですか?」

「うん」

「……ごめんなさい……、よく、分からなくて……」


だって、何も分からない。
顔を下に向けていると、お母さんは、ゆっくりと口を開く。


「戸惑うかもしれないけど、凪……、凪はね?寝ると忘れてしまう記憶障害を持っていたの」


寝ると……?
忘れてしまう?


「全部、忘れちゃうの」


全部?
よく分からなかった。
だって私は、寝てた。
だけど寝る前のことは覚えている。
寒くて──……、彼が毛布をかけてくれたことも。


「だけど、今日は違って」

「……?」

「僅かな記憶だけど、思い出した。寝ても忘れなかった」


僅かな記憶……。
寝ても、忘れていない?


「もしかすると、明日も、今日のことを覚えているかもしれない」

「……」

「……凪、」

「……」

「潮くんが怖い?」


怖い…………。


「凪の思い出した記憶は、とても、凪にとっては嫌かもしれない……」


なんで……。


「でも、潮くんは本当に信用できるしいい子よ。凪も、何度も助けてもらった」


あんなにも、怖くて、泣いていたのに。
この人は、なんでそんな事を言うんだろう?


「潮くんを怖がらないであげて……」


私はそれに、頷く事が出来なかった。


「ちなみに昨日、何があったか覚えてる?」


その質問にも答えることができなくて。

私は〝なぎのへや〟と紙が貼られた部屋の中に戻った。
熱がまだあったこともあり、何だかすごく疲れた気がして。
布団の上に寝転んだ。

ここが私の部屋……。
私は記憶喪失らしい。
かすかに覚えているのは、ランドセルを背負った潮って人だけ。

ああ、でも、私事を〝バカ〟って言ったのは違う人のような気がする。誰だろう、分からない。あの時2人いたのかな……。

どうして私は記憶喪失なんだろう。
なんで覚えてないんだろう。
これからどうすればいいんだろう。

まだ本調子じゃないらしい。
また明日考えようと思ったから、薬が効いてきた体は眠りにつこうとして。


けれども──コンコン、というノックする音が聞こえた。眠ろうとした脳が起きる。

誰だろう、お母さんかな……。
そう思って「はい…」と返事をすれば…。

「俺だけど、」という怖い声が聞こえた。
私の記憶よりも声が低い。たぶん声変わりをしたんだと思う。昔はもっと…。

もっと……。


「体調どうだ?」


怖い声なのに、声が穏やかで優しく、戸惑う。


「入らないし、凪には近づかないから」


そう言われても…。


「凪」


どうすればいいんだろう…。
私はこの人と関わりたくない。


「明日も会いに来ていいか?」


その日は、私が潮という人に、返事をすることは無かった。

随分の体が楽になった。
昨日の熱のツラさがなんだったのか、と思うほど、足や脳が軽い。
それでも少し万全とはいかなくて、起きた瞬間──ケホッ、と咳が出た。
それでも喉は痛くなく。


トイレへ行けば、ちょうどお母さんが、洗面所のところで洗濯機から服を取り出していた。
すぐに私に気づいたお母さんは、私のことを観察しているようで。


「おはようございます……」


静かに言えば、お母さんは優しく笑った。


「おはよう、昨日のこと、覚えてる?」


昨日。
覚えてる。
だって私は昨日、熱で苦しんだ。
お母さんから、寝れば忘れると言われた事を思い出す。だけど私は忘れていない。こうして覚えてる。


「──…はい、覚えてます」


だけど、まだ、会って2日目の人だから。
戸惑いがちに言えば、少し、お母さんは顔を傾けた。


「どうしたの、昨日みたいに敬語じゃなくていいのよ」


昨日?
敬語?

…昨日?
昨日は、
私、どんな言葉遣いをしてたっけ…?
昨日は熱で苦しんでいたから、あんまり覚えていなくて。というよりも、お母さんと喋ったのはうどんを食べたあとの少しぐらいで。


「はい……、ちょっとトイレに行きます」

「うん、行ってらっしゃい」


だけどあまり深く考えなくて。
トイレを済ませ、洗面所で身なりを軽く整えてから、お母さんの家事を手伝おうと思った。
その洗面台の鏡を見て、何だか違和感がしたけど、あまり気にならなかった。


もうリビングに行ったらしいお母さんのところに向かおうとした時、「おはよう」と男の人の声がして。


はっとして、リビングから出てきた彼の方を見れば、驚きのあまり喉が軽く詰まった。ゴホゴホと、背中を丸め、咳が出て。
手のひらで自分の口元を抑えた時、彼が「大丈夫かっ」と、私に近づいてきて。


昨日の事があったのに、何を思ったのか、〝近づかない〟と言った男が私の背中に手を当て、撫でようとして。


「大丈夫か?」

「ごほっ、」

「ごめんな、驚かせたな」

「ッ──」

「凪、」


なんで、なんで、なんで。
なんで、潮って人が、家にいるの。

昨日あれだけ怖いって言ったのに。
お母さんにも肯定の返事をしなかったのに。
彼にも〝会いに来ていいか?〟っていう返事をしなかったのに。



ようやく咳が落ち着いても、彼が怖くて自然と涙が出てきて。「……──やめてください……」と涙を浮かばせながら彼の方を見れば、彼は一瞬、戸惑ったような顔をした。



「……凪?」

「さわらないで…」

「……」

「来ていい、って、言ってないのに……」



彼の手が、固まる。
口元に手を抑えながら泣き続けていると、今度はお母さんが、戸惑いがちに近づいてきて。


「凪……、あなたやっぱり、」


やっぱり?
やっぱりなんなの……。


「昨日のこと、覚えてないのね」


お母さんの言っている意味が、分からなかった。
昨日のことは、覚えてるのに。
私は昨日、熱を出してた。


「潮くんと一緒に、病院へ行ったこと、覚えてない?」


何を言ってるんだろう?
だって、私は、昨日はずっと熱を出してて。
病院になんて行っていない。
ましてや、潮……って人と、行くはずがない。


「…覚えてないのか?」


彼に顔をのぞき込まれたけど、彼の存在が怖い私は手のひらを抑えるのを、口元から目を変えた。


「昨日のこと……」


彼の声は少し震えてた。


「俺の事、分かるんだよな…?」

「……っ、」

「ごめんな、怖かったな…。ごめん…」

「……っ……、近づかないって……」

「うん」

「言ってたのに……」

「ごめん、」

「あなたが……」

「ごめん……泣かないでくれ……」

「っ……」

「約束、破ってごめん──」





彼が何度も何度も謝ってくる。
悪いのは彼の方なのに、まるで私が悪いみたいにずっとずっと謝ってきた。


「ごめん」
「悪かった」
「ごめん」
「約束破ってごめん」

と、ずっとずっと。


「怖がらないでくれ……」


怖がることをしたのは、彼なのに……。
やっと目元から手を離して彼を見た時、どうしてか彼も泣きそうな顔をしていた。






──お母さんが、アイスミルクティーを入れてくれた。それをリビングのソファに座り、飲んで落ち着いていると、どうしてか横に座っているのは潮って人だった。

まだ、私の瞳は涙で赤かった。

そんな私に、彼は「悪かった…」と、私の目を見つめながら言ってくる。お母さんは、キッチンにいて私たちを見守っているようだった。


「言い訳になるかもしれないけど、……昨日のことを忘れてるとは思わなかったんだ…」


昨日のこと……。
〝昨日〟。


「凪が覚えてるのは、熱を出して寝込んだ日だと思う」


覚えているのは──。


「俺を怖がった日、あれは一昨日の話で」


一昨日……──。
2日前?


「昨日、凪に会いにきた。それで──凪が、部屋から出てきてくれた。今みたいにこうやって話をしたんだ」


そんなの、知らない。
昨日だなんて、そんな──。
私は彼から目を逸らし、自分の足元を見た。
黒い短パンに白いTシャツが視界の中に入ってきて。
ああ、洗面台の鏡を見た時の違和感が、今更ながらに分かった。私はこんな服、着た記憶が無いことを。

だとすれば、本当に、私は昨日のことを忘れて…。


「それで、凪の咳が酷くて。記憶のことに関しても病院に行った方がいいと思ったから、俺と一緒に行ったんだ」


そんなの……。


「帰り道のタクシーの中で、いろいろ喋った。そのとき、明日も会いに来ていいかって聞いて、凪が頷いてくれた」


知らない……。


「今日、これを渡しに来た。昨日凪が見たいって……言ってたから」


そう言って、差し出されたのは、何かのファイルだった。よく分からない色をしていた。よく分からないって思ったのは、多分、元々白いファイルだったのか、そのファイルは所々灰色に汚れていたから。


「……なんですか、これ……」

「凪の日記」


日記?


「……わたしの?」


怪訝な声を出していたと思う。
だって、日記と言われても。
凄く汚れてる。


「うん、一応拭いて……けど、土でドロドロになってて、……ごめん」


申し訳なさそうに謝ってくるけど、私にはいったいこれが何なのかも分からない。


「……意味が分からないです……」

「うん」

「私の日記……なのですか?」

「そう」

「これが?」

「……うん。守れなかった、ごめん…」


守れなかったとは……。
そのファイルを恐る恐る受け取れば、やっぱり汚れていて。中に挟まれている紙も…。
1度、水に濡れたようなパサつき感。
1枚とそれを見るけど、濡れたせいか滲んで読めそうにもなく。


「凪はそのファイルに、毎日、その日の出来事を書いてた」

「……」

「けど、1回、失くしたことがあって…」

「……」

「見つけたは、いいんだけど、あいつが、」


あいつ?


「……いや……、見つけた時には川にあって、1枚1枚、流れされそうになって、できるだけ全部集めようとしたんだけど…。結構量が多かったから……もしかしたら流されたのもあるかもしれない」


川……
流された……。
このファイルの中身が?


「どうして……、誰がそんなことを……」

「……」

「……失くしたって……」

「……見つけたのは、3日前。その日は凪と夜に会う約束をしてた。けど、ずっと川で探して、紙を家で乾かして……、夜、行くのが遅くなった。……ごめん……」



謝られても、私はその約束を覚えてないから。



「日付見て、合わせたんだけど、ところどころ読まねぇし、何枚か流されたと思う。──本当に、ごめん」



なんて言えばいいか分からない。
そもそも、どうしてこのファイルが、川なんかに落ちてしまったのか。
見覚えのないファイルが私のだと言われても、はいそうですか、なんて言えない。
この人が嘘をついているのかもしれない。

でも、キッチンにいるお母さんは何も言わない。


「……読んでもいいですか?」

「うん、これは凪のだから」


わたしの……。



〝あなた────です
これは──────────です
あなたは────────しまい
今日──────必ず忘れてしまいます
──────────
─────────
今日の私へ
今日の出来事、なんでもいいです
────────
────〟


ほぼ文字が滲んでいて、読まなかった。
かろうじて読めるのも、少なく。
どんな内容が全く分からない。
次をめくっても、めくっても。

全部が水で濡れたようだった。
これ全部、彼は乾かしてくれたのだろうか?



日記の中に、〝ウシオくん〟や〝潮くん〟という文字を見つけた。でも、文字だけで、彼が何をしている人なのか書かれていない。
書かれているかもしれないけど、何を書いているか分からない。


途中で読むのをやめて、私は彼を見た。


「あの……」

「うん?」

「これ、これが、私のなら……、ありがとうございます……見つけてくれて……」

「うん」

「でも、正直なところ、まだ……」


なんて言えばいいか分からず、口を閉ざした。


「怖い?」


そう聞いてくる彼に、小さく頷いた。


「……あなたと、……いま、どんな関係か分かりません…」

「うん」

「でも、…私が知ってるのは、あなたが私に酷いことをしたっていうことだけで……」

「…うん」

「……信用できません」

「うん」

「ごめんなさい……」

「ううん、教えてくれてありがとう」


拒絶している私に、ありがとうだなんて。
どういう気持ちで言ってるんだろう。
優しく、笑顔を向けてくる彼の反応に困ってしまう。


この古い記憶から、彼は本当に変わったのだろうか。


「あの……」

「なに?」

「あなたを、知る、っていうわけじゃ、ありませんが、」

「うん」

「これを拾ったという川に行ってみたいです」

「え?」

「……だめですか、」


少し、上目遣い気味に、潮……くん、を見つめた。


彼は一瞬、瞬きをしたけど、「凪がそう望むなら」とまた優しく笑った。

「けど、咳がまだ出てるから、凪が少しでも苦しいと思ったら帰るね」


と、その言葉を付け加えた。
私に怪我をさせて、記憶の中の潮くんは足から血が出ても笑っていたのに、私の体を心配するなんて何だか変な感じがした。

お母さんが一緒に来ると思った。それでもお母さんは笑いながら潮くんなら安心できるからと言い、一緒に来ることはなく。

潮くんと一緒に外へ出たのものの、一緒に並んで向かうのも怖く。かといって私が前を歩いても、また後ろから押されるのでは?と思えば、前を歩くこともできなくて。


「……前を歩いてください」


そう言った私に、潮くんは笑って「分かった」と言った。
3歩ほど潮くんが前を歩く。
咳が出そうになるけど、それほどツラくなかった。それよりも暑いという気持ちの方が勝っていた。


ちらちらと、私が後ろにいることを確認する彼。潮くんは何度も「しんどくないか?」と聞いてきた。優しい彼は、やっぱり変な気がして。複雑な感情が芽生えてくる。


川はそれほど遠くはなかったみたいで、下半身ほどの白いフェンスの向こうに、流れてる川を見つけた。


その川は3mほど下にあった。
土と草がはえている急斜面の下に、流れていた。


「…ここですか?」

「うん、ここから投げられ……、捨てられた」


言葉を言い換えた潮くん。
きっと〝投げられた〟と言いたかったのかもしれない。いったい、誰に投げられたのか。


「あなたはここからおりたのですか?」

「うん」

「ここから?」

「ああ、飛び降りた」


思い出すようにくすくすと笑った潮くんは、「必死だったから…」と、白いフェンスに手を置いた。


「必死?」

「うん」

「…拾うのに?」

「うん」

「……」

「あれは凪のだから。凪の大事なものは俺の大事なものでもあるから」


私の大事なもの……。
あれは、あの日記は、私の大事なものだったのか。それもそうかもしれない。記憶が無い今、手がかりになるのはあの日記だけ。

過去の私の事が分かったかもしれないのに……。


「…拾ってくれてありがとうございます」

「敬語いらないよ」

「…でも」

「今の凪は、戸惑うかもしれないけど」

「……?」

「凪は俺のかけがえのない存在だから」


かけがえのない存在……。


「俺に何でもわがまま言っていいからな」


わがまま……。


「あなたは、私のことを虐めてましたよね…」

「うん」

「それなのに、どうして、こんな関係になったのですか?」

「それは……」


潮くんが私に体を向き直し、口を開こうとした時だった。潮くんが驚いたように目を見開き、「なぎ、」と、私の方に手を伸ばしてきた。

思わず、肩がビク、っと反応すると、潮くんは「ここにいて欲しい、絶対、動かないで」と焦ったように声を荒くした。


なに?と、思っていると、何をしてるのか潮くんはもう一度白いフェンスに手をかけると、軽々と足をフェンスの向こうへ……。

フェンスの向こうに飛んだ潮くんは、そのまま崖を落ちるように、飛び降りた。
え?!と驚いて下に目を向ければ、川の中に膝まで足を入れて、向こう岸に渡ろうとする彼が見え。


何をしてるの?
フェンスに手をやり、そのまま潮くんを見ていると、向こう岸にある雑草の間をかき分けていた。

そのまま、何かの、ゴミらしいものを手に取った彼は、それを手に掴み見ていた。

それを大事そうに見つめた彼は、向こう岸から急斜面を登り、近くにあった橋でこっち側に戻ってきた。走って戻ってくる潮くんは、足元がずぶ濡れで。

もちろん、ズボンも靴も濡れていた。


「これ……切れ端だけど、草に引っかかって濡れてなかった……、探す時見落としてたみたいで……」


そう言って渡されたのは、濡れていない紙だった。ただ半分に破れていて、風で飛んできた土などで汚れているだけだった。



〝令和2年7月14日
ウシオくんが泣いていた
私が傷つけた
7月15日の私へ
どうかウシオくんを─────〟


紙は、『を』からの続きは破れてなかった…。





「途中で、離れてごめん……」


謝ってくる潮くんに、胸が苦しくなった。

あんな飛び降り方。
日記の切れ端を、見つけたからって。
下手をすれば体のどこかが骨折するかもしれないほどの、高さなのに。


私のために……。
どうしてか泣きそうになって、潮くんを見つめれば、右腕が赤くなっているのに気づき。


「っ、けが、」

「え?」

「うで、血が、」


じわじわと、湿潤するように流れていく。沢山流れているわけではないけど、範囲が広い。

血が出ているその腕に手を伸ばした。


「ああ、たぶんおりた時にスったんだと…」

「ご、ごめんなさ」

「え?」

「わ、わたしのせいで、怪我を……」


泣きそうになれば、潮くんは慌てて「凪のせいじゃないから」と腕を隠そうとした。


「見せてください……」

「大丈夫」

「見せてくださいっ…」


私は、紙をポケットの中に入れ、潮くんの手のひらを掴んだ。たった今川に入ったせいか、手が汚れていた。
だけどもそんなのは気にならず、怪我の部分を見た私は、「……痛かったですよね、」と、眉を下げた。


「なぎ……」


広い範囲の怪我。
もし、今以上に酷ければ……。


「私のために、危険なことはしないでください…」


そう言って泣きそうになれば、どうしてか潮くんの方が泣きそうになっていて。
もしかしたら、痛みで、泣きそうになっているのかもしれない。
そう思って、「帰りましょう」と、言おうとした時だった。


まるで、力が抜けたように、潮くんが膝をおりしゃがみ込んだのは。


手を持っていた私も、そのまましゃがみ込む形になり、顔を下に向け顔を見えなくした潮くんは、「なんで、」と、辛そうな声を出した。


足元が濡れてる潮くんの地面が、濡れる。
どうしてしゃがみ込んだのか分からない私は、「………うしおくん?」と名前を呼んだ。

名前を呼んだ時、繋がっていた潮くんの手のひらに、力が入ったような気がして。


「…俺の事、怖いだろう?」

「…え?」

「なんで、凪は、いつも優しいんだ……」

「あ、の」


潮くんの顔が見えない。
でも、声が、すごく悲しそうで。
泣いてるのではないか、と、思うほどで。


「好きだ……」


心のこもった深い言葉に、声が出なかった。
突然の告白に、私も無意識に手を握り返していたらしい。


「好きなんだ……」

「……、あ、の……」

「好きすぎて、気が狂いそうだ……」

「………」

「なんで──……」


なんで、
なにが……。


「……忘れないでくれよ……──」


そう言った潮くんは泣いていた。
私の目を見つめ、とても辛そうに。
言葉が出ない私は、戸惑い、ただ潮くんと目を合わせることしかできない。


「……忘れないでくれ」


噛み締める潮くんは、私の手を引き、顔を傾けた。その動作に、戸惑っている私は拒絶することができなかった。


口元を狙われているその引き寄せ方に、私はキスをされると思った。けど、その寸前で、彼の動きは止まった。


必死に理性が働いているかのような、その止め方。私が何もできないでいると、眉を顰めた潮くんは顔を逸らし、そのまま私の肩に額部分を預けてきた。


この人が怖いのに拒絶できなかった。
拒絶すると、この人が壊れてしまうような気がして。


「わるい、……」

「……」

「今の、聞かなかったことにしてほしい…」


〝忘れてくれ〟とは、言わない男。


「わたしは、ずっとあなたに大事にされていたんですか?」


私が言葉を出すと、彼は顔をあげた。
そのまま私と視線を重ねると、「…俺は、」と、ゆっくり離れていく。


「凪を、大事にできているか分からない」

「…」

「信用されてないってことは、それだけ未熟だってことだから」


私の手を強く握る。


「もっともっと、凪を支えていくから、凪はずっと俺の傍にいてくれ……」


手は繋がれたままだった。
マンションまで私を送ってくれた潮くんは、「これじゃ上がれないから、俺もいったん帰るな」と、名残惜しそうに手を離した。

私のせいで、ずぶ濡れになった足元。

腕のことを心配すると、腕の怪我も流した方がいいから風呂入ってくると、躊躇っている私を説得した。


部屋に戻ればお母さんがいて、「どうだった?潮くんは?」と質問をしてきた。


どうと言われても。
潮くんが川に……と、言うことしかできなく。


「彼は、……1度家に帰ると……」

「そうなの」


優しく笑ったお母さんは、疲れたと思うからゆっくりしなさいと私に休むように言ってきた。

私はリビングに置いたままの汚れたファイルを取り、〝なぎのへや〟に戻った。
読める部分をひたすら読んだ。
読めば読むほど、潮くんの名前が出てきた。
でもどんな内容か分からない。

かろうじて分かる部分を、分かりやすくするためにボールペンでなぞってみた。


知らなくちゃいけない、彼のことを。

泣いていた潮くんを思い出す。


『──……忘れないでくれよ……──』


思い出さなくちゃいけない、彼のことを。



私はポケットから、さっき潮くんが拾ってくれた紙を広げた。


〝令和2年7月14日
ウシオくんが泣いていた
私が傷つけた
7月15日の私へ
どうかウシオくんを─────〟


私はどうやら、何度も潮くんを泣かせているらしかった。


お昼すぎ、お母さんに「お昼ご飯食べましょう」と呼ばれた。そのとき、お母さんに今日の日にちを聞いた。今日は7月21日と言っていた。


食べている最中も、気になるのは潮くんの事だった。腕の怪我はどうなったのだろうか。潮くんは手当をしたのかな。

潮くんの家はどこなんだろう。
日記を見れば分かるだろうか?
でも、読める部分には、潮くんの住んでいるところなんて書いていなかった。


「あの……潮くんはどこに住んでいるのですか?」


お母さんは知っているだろうか?
潮くんとは知り合いみたいだから。


「3棟よ」

「さんとう?」

「ここが、マンションの2棟で、潮くんは3棟に住んでるの。ここから5分もないかな」


じゃあ、家は近いってことで…。


「潮くんが気になるの?」


そう言ったお母さんは、嬉しそうだった。


「はい…」

「そう、だったら、電話してみれば?」

「電話?」

「凪の部屋にスマホがあったでしょ?そこに潮くんの名前が登録されているはずだから」




────潮くんの名前は、確かにあった。スマホなんて使ったことがないのに、使い方が自然に分かってしまう。それを不思議に思いながら、アドレス帳にある〝さくらぎうしお〟という名前をずっと眺めていた。


ちなみに、アドレス帳には、
〝おかあさん〟
〝さくらぎうしお〟
〝けいさつ〟
〝きゅうきゅうしゃ〟
の4つしか登録されていなかった。


潮くんに電話をかけてみた。3コールほど音が鳴ってから、電話は繋がった。


『どうした?』


そんな優しい声のトーンとともに。
蘇るのは、小さい頃の酷い記憶。
見下しながら笑っていた小学生の頃の潮くん。


「……腕の、調子はどうですか?」


私は朝、この人に対して、凄く凄く泣いたのに。


『…ああ、大丈夫。もう全く痛くない』


穏やかな声のせいか、私も喋りやすく。


「手当はしましたか…」

『うん』

「私のせいで、ごめんなさい…」

『俺が勝手におりたのに』


クスクスと、笑った潮くんは『凪から電話くれたの、めちゃくちゃ嬉しい』と本当に幸せそうに呟いた。


「潮くん、」

『うん?』

「わたし、思い出します、ぜったい。今日の事も……、絶対に覚えます……」

『……』

「だからもう、泣かないでください」


電話越しだから潮くんがどんな顔をしているか分からない、けど、悲しんでなければいいなと思う。


『……なぎ』

「はい…」

『今から、会いに行っていい?』


一昨日の私は、何も返事をしなかった。
けど、昨日は肯定の返事をした。
今日は──……。


「あの、」

『いやならいい、電話だけで十分だから』

「ずっと一緒にいてくれますか?」

『………ずっと?』

「私が、思い出すまで、ずっと傍にいてくれませんか?」
今何時だろう、と、目が覚めた。
寝返りをうとうとするけど、その人の体があったため上手く寝返りを打つことが出来なかった。
体、と言っても、潮くんが私の手をずっと握っているからなのだけれど。


潮くんは寝ているらしい。
静かな寝息を立てて、気持ちよさそうに眠っていた。そんな潮くんを起こすことも出来なくて、そのまま身を任せた。


私が不安に思うことは、ただ一つ。
今日は何年の、何月何日だということ。
だけど多分、こうして潮くんが私と寝ているということは、少なからず私は潮くんのことを覚えているということ。


それに安心して、繋がれた手を握れば、潮くんのことを起こしてしまったらしい。かすかに握り返してきた。そのまま瞼が開き、「…おはよう」と、優しく笑いながら言ってくる潮くんに、私も「おはようございます」と笑っていた。


「ごめんなさい、起こすつもりは…」

「…ううん、凪に起こされて嬉しい」


愛おしそうに、寝起きの手で私の頬を撫でる。


「…あの、今日は…」

「今日は、7月27日」


えっと、昨日が確か26日だったから。そう考えていると、頬に置かれていた手が移動し、私を抱きしめた。


「…潮くん」

「うん」

「わたし、きのうのこと、全部覚えてる」

「うん──」

「7日間のこと、全部、覚えてます」


潮くんの腕の中で笑えば、潮くんも笑ったような気がして。


「潮くんが、大事にしてくれたこと、全部覚えてます」





──7日前、私は潮くんと色々な事を話した。潮くんが私に一目惚れをした事も、告白してくれたことも、それを私が忘れて虐めてしまったことも。
それでも、好きだから、傍にいようと決めたことも。


それを聞いて、二度と忘れたくないと思った私は、潮くんと1晩を過ごそうと思った。
ずっとずっと一緒にいれば、忘れないんじゃないかって思ったから。


こうして一緒に寝るのは、「ホテルで手を繋いで寝たことがある」と潮くんが教えてくれたから。
だからその時のことを思い出すために、潮くんが再現してくれていて。
だけど、過去のことは思い出せない。
それでもこの7日間のことを覚えている私は、とても気持ち的に楽だった。


私は今17歳で、高校生。
世間では夏休みという長時間のお休みらしい。
潮くんはまたウトウトとし始めたから、トイレに行きたい私は手を離した。
そうすれば潮くんはまた起きて、「どこに行く?」と、私と手を繋ごうとしたから。


「トイレに、すぐに戻るね」

「早く戻ってこいよ」


うん、と返事をしてから、私はリビングに向かった。まだ7日間だから、普通に喋るのにはまだ抵抗があって。敬語と、敬語じゃないのと混じってしまう。


ちょうどお母さんと鉢合わせして、「潮くんは?」と聞かれた。


「もう少し寝るみたいで」

「昨日、ずっと起きてたからかしらね」

「そうなんですか?」

「潮くん、凪の寝顔を見れるなんて幸せすぎるって、毎晩言ってるもの。かわいい寝不足ね」


お母さんの言葉に恥ずかしくて、顔が赤くなるのが分かった。
潮くんは毎晩、そんなことを思ってくれているらしい。

この7日間、私を大切にしてくれて。
私の中でも潮くんの第一印象が変わり始めている今、好感度が勢いよく上がっていく。

この人なら大丈夫と、信頼をしているようだった。



部屋に戻り、起きていたらしい潮くんは「おかえり」と、手を伸ばしてきた。
聞いたところによると、この手を繋ごうとするのは、潮くんの癖らしい。


そのまま手を繋ぐと引き寄せられ。


「潮くん、」

「…ん?」

「やっぱり、少し忘れてるみたい」

「え?」

「だって私、毎晩、潮くんに寝顔を見れて幸せなんて言われてないもの」


クスクスと笑えば、潮くんは寝起きだというのに、顔を真っ赤にした。


「もー……」


と、複雑な様子で。


「……言わなくても、幸せなの分かるだろ?」


そう言って、完璧に私を腕の中に引き寄せる。


「凪?」

「なんですか?」

「今日、どこ行きたい?」

「……」

「凪が行きたいところ行こう」

「わたし、」

「うん」

「潮くんの部屋に行ってみたい」

「俺の部屋?」

「うん、写真とかあれば見たいなあと思って」


「写真?」


潮くんは、顔を傾けた。


「はい、何か思い出せるような物はないかと思って」

「んー…、あんまり凪のこと写真に撮ったことないから。ああ、でも、卒アルはある」

「卒アル?」

「卒業アルバム。小学生と中学の時の。凪の部屋にもあると思うけど」

「私の部屋に?あるんですか?」

「でも、俺の部屋に行きたいなら一緒に行こう。俺も凪が部屋に来てくれたら嬉しい」



甘く言ってきた潮くんに恐怖は無かった。
この7日間、潮くんは「外に行きたい」というわがままにも付き合ってくれた。
時々、記憶が思い出せず不安になっていると「そのままでいい。大丈夫」と私を慰めてくれた。

その途中で、私は潮くんと付き合っていることを知った。
それを思い出したくても思い出せない私は、本当に潮くんに申し訳なくて……。

過去になにがあったか私には分からない。
けど、今の潮くんを信じたいと思った。

潮くんが大事にしているように、私も彼を大事にしようと。


「3棟にあるんですよね?」

「うん、知ってる?」

「はい、お母さんから聞きました」

「いつでも来ていいから」

「いいんですか?」

「うん、本当に、凪ならなんでもいいんだ」


潮くんに笑いかけていると、潮くんも幸せそうに笑っているのが視界に入ってきた。

そのまま私の頭を撫でる潮くんは、軽く私を引き寄せた。


「……怖い?」


潮くんのことを?
怖い、この感情は怖いのだろうか?


「分かりません…、でも、もう、潮くんは優しい人だって、わかる」

「うん」

「あの」

「なに?」


顔の、距離が近い。
これ以上引き寄せられれば、キスができてしまう距離。


「私たち、キスしたこと、あるんですか、」


潮くんは、少し頭を撫でる手を止めたけど。
すぐに優しく笑って、「あるよ」と、また愛おしそうに頭を撫でた。

本当に、触るだけで幸せだと、思っているような顔。


「キスをすれば、思い出すでしょうか」

「…凪」

「潮くんは、私とキスしたい?」

「したい」

「なら──」

「でも、まだ凪は俺の事怖がってる。それに〝好き〟って思ってるわけじゃないだろう?」


好き……?


「焦らなくていいんだ、凪のペースで。凪が俺の事を好きだと思って、俺の事を怖くないと思ったら、──その時はさせてほしい」


その時……。


「でも、すれば、思い出すかもしれません……」

「いや、うん、それだったらすげぇ嬉しいんだけど…」

「けど?」

「凪の体を犠牲する思い出させ方は、したくないんだ」


犠牲にする思い出させ方?


「凪のペースで、ゆっくり思い出していこう」

潮くんの部屋は、綺麗だった。
綺麗と言うよりも、物が少なく感じた。
ワークテーブルのような机には、何かをメモ書きするような紙とペンがあるぐらいで。

カーテンなどの家具は、色は紺と黒が多い気がした。
潮くんは、綺麗好きなのかもしれない。
潮くんはクローゼットを開けると、2冊、分厚い本のようなものを私に差し出してくれた。

卒業アルバムと書かれた2冊の本。


「もしかしたら、見て、怖かった俺の事をもっと思い出すかもしれない」


そう言われて、私は首を横に振った。


「今を大事にしますから、きっと、大丈夫ですよ」と。


小学生の卒業アルバムを先に見ると、6年1組に私たちの名前があった。


〝桜木潮〟
〝澤田凪〟


同じさ行だからか、私たちの個人写真は隣同士だった。幼い頃の潮くんは、私の記憶通りの顔で。
だけど、潮くんの顔を見ても何も思い出す事はなくて。


パラ、パラ…とめくり、修学旅行や、運動会などのイベントの写真を見つめた。
そういう行事は知ってる。
運動会は、スポーツを競うようなイベントだと言うことも。

たくさん写真がある中、私と潮くんを探した。
でも上手く見つけられなかった。というかいなかった。


「私たちは、載ってないのですか?」

「うん、凪は修学旅行は参加してない。運動会も…、凪、その日は戸惑ってた日だから参加してなかった」

「戸惑ってた日?」

「うん、何も覚えてないって、ずっと泣いてた」


戸惑って、ずっと泣いてた…。
私が?


「潮くんも、載ってません」

「ああ、そんときはもう凪を受け入れてたから、ずっと一緒にいた」


当たり前のように言った潮くんに、軽く目を見開いた。


「ずっと?」

「うん、だから俺も、参加してない。凪とずっと家で一緒にいたんだよ」


潮くんの言葉に、胸が締め付けられた。


「参加、したくなかったの…?」

「したくなかった、って言ったら嘘になるけど」

「……私のせいで、」

「参加するしないよりも、やっぱり俺の優先順位は凪なんだよ」

「……」

「だから行かなかったことには後悔してない。凪を置いて行った方が俺は後悔してたはずだから」


後悔……。
だって、こういうのは、修学旅行とか、1度きりのイベントじゃ……。
私を本当に、大事にしてくれていたらしい。


「そのページには凪は載ってないけど、次は載ってる。学校の中で撮った写真だから」


言われた通りに捲ってみると、そこには授業中らしい風景の写真が撮られていて。隣の席に座っている潮くんも一緒に映っていた。



中学の卒業アルバムも似たような感じだった。
個人撮影と、学校風景に私が写っていた。そういうイベントに、私も潮くんも参加していなかった。


私は時間が許す限り、卒業アルバムを眺めていた。小学生の頃、潮くんは野球のクラブチームに入っていたらしい。そこのクラブチームの集合写真の中に潮くんはいた。
ちなみに、私はどこのクラブにも所属していなかった。


「…野球をやってたの?」

「…うん、小学生のころだけ」


そう言った潮くんは、少しだけ悲しそうだった。


「やめたんですか?」

「学校のクラブと、少年野球に入ってたけど、やめた」

「それも、私がいたからですか?」

「俺が凪と一緒にいたかったから」

「……」

「後悔してないよ」


そう言って優しく笑う潮くん。


「野球で、潮くんはどんなことをしてたんですか?」

「ピッチャーしてた」

「ピッチャー?」

「ああ、ボールを投げる役割」

「ボールを投げる役割…」

「うん」

「この人は、なんですか?」

「え?」

「この、藤沢、と書かれてる人、いっぱい服みたいなのを着てます」

「それは、キャッチャーの防具」

「キャッチャー?」

「投げる人間がいれば、それを受け取る役割の人間もいるから」



受け取る役割?


「それはペアって事ですか」

「うん、野球の言葉で言うとバッテリーかな」

「仲が良い友達みたいなものですか?」

「うん、──仲は、良かったな」


良かったな?
過去形?


「今は仲良くないんですか?」

「うん」

「もしかして、潮くんが私のせいで野球をやめてしまったから、仲が悪くなったとか…」

「違うよ、俺が藤沢を怒らせた。凪は関係ない」

「……」

「それに、もう俺も関わる気はないよ」

「ケンカをしたのですか?」

「あいつは俺の大事なものに酷いことしたから。許せねぇだけ」


潮くんはそう言って笑うと、まるで逃げるように「なんか飲みのも持ってくる」と、部屋から出ていった。


私は中学生の卒業アルバムを見た。
どこを見ても、潮くんは私と映っていた。

潮くんが…、私以外の誰かと映っているのは無かった。


潮くんに、友達はいるのだろうか?
もし、いなかったとしたら。
潮くんは、私のせいで…
友達ができなかったのだろうか?


────その日の午後、私はお母さんと一緒にスーパーへ買い物に来ていた。記憶が続き出してからここに来るのは2回目だった。

覚えてる、私は覚えている、そう何度も思った気がする。

スーパーで食材を買い、私はスーパーからマンションの方を見た。ここは住んでいるマンションから近いらしく、スーパーからマンションは見えていた。


私はお母さんに無理を言って、道を覚えるために家まで歩きたいと言った。お母さんは躊躇っていたけど、「潮くんのことを思い出したいんです…」と、言うと、お母さんは了承してくれた。


マンションに向かって歩いていても、潮くんのことを思い出すことは無かった。
自分の時間を私に費やしている潮くん…。
ひとりの時間で思い出そうとしても、やっぱりダメみたいで。どうすれば思い出せるんだろう?


このまま思い出さなければ、私は潮くんにもっと迷惑をかけるのではないか。
優先順位は私だと言ってくれたけど、これからも潮くんの優先順位は私なんだろうか?
潮くんの未来を、自由を、壊してしまうのではないか。
潮くんは、このままでいいのだろうか?



そんな疑問を持ちながら、もうすぐマンションへつく道路沿いを歩いている時だった。
1台のバイクが私の横を走り去った。
けど、そのバイクはゆっくりとスピードを落とし、止まった。そうして私の方にゆっくりと振り返ると、遠目だからよく見えなかったけど、驚いていたような顔をしてた気がする。


多分、背格好からして、同い年ぐらいの男の子で。その男の子は、車が通ってなかったからか、Uターンするようにバイクを走らせ私に近づいてきた。


暑いのか、軽くヘルメットをとったその人は、茶色い髪をしていた。


「どうしたの、迷子?」


私に向かって、焦ったようにそう言ってくる男の子に、見覚えはなかった。私に向かって「迷子?」と言ってくる彼。

普通、17歳の女の子に、いきなり「迷子?」って聞いてくるだろうか?
多分、それはないと思う。
もしかすると、この人は私のことを知っていて、私は覚えていないだけなのかもしれない。
それから、私が記憶喪失だということを知っている人なのかもしれない。


「……すみません、私の知り合いですか?」

「あ、いや、知り合いというか、知ってるというか。俺の友達の知ってるやつというか…」


友達の知り合い?
よく分からないけど、やっぱり、私のことを知っている人みたいで。


「あ、怪しいもんじゃない!俺も2回、あんたと会ったことあるから!あんたは忘れてると思うけど会ったことある!」


2回、会ったことがあるらしい。
そして私は忘れているらしい。
ということは、7日前、1週間よりも前に会ったということ。



「そうなんですね、覚えていなくてごめんなさい…」

「…迷子じゃねぇの?」


恐る恐る聞いてくる彼に、私は顔を横にふった。


「家は分かるので、迷子ではないですよ」


そう言って笑えば、彼はほっとしたような顔つきになった。


「…そっか、なら良かった」


彼も笑い、「初めて会った時、迷子っぽかったから、今日もそれだと思った」と、私が知らないことを教えてくれた。

茶髪で、怖そうに見える彼は、いい人みたいだった。


「送ろうか?」


記憶が無い時、迷子になったことがある私を心配してくれているらしい。


「大丈夫です、家はもうすぐなので。あなたはどこかへ行く予定だったのでは?」

「俺は那月の家に行くつもりだったから。方向同じなんだよ」

「那月?」

「あ、藤沢那月!ごめん、いきなり知らない奴の名前出されても分かんねぇよな」


藤沢?
今朝見てた卒業アルバムを思い出す。
藤沢──…だったような名字な気がする。
潮くんと仲が良かったらしい人。


「その人は、私と同じ小学校だった人でしょうか?」

「え!知ってんの?!」

「卒業アルバムで見ましたから」

「──あ、ああ、それで。那月自身を覚えてるわけじゃねぇんだな」


驚いた顔から納得したような顔つきになる。この人はいろいろな顔をするんだなぁ…。


「声をかけてくださってありがとうございます。あなたの名前を聞いてもいいですか?」

「え?」

「また、今度お礼をしたいので、」

「いや、大丈夫。ってか、」

「大丈夫です、私もう記憶を保てるようになったらしいので、覚えることができます」

「え?」

「過去のことは思い出せないのですが…。この一週間の事は覚えているんですよ」



私がそう言うと驚いた顔をしたけど、すぐにふにゃりとした笑顔になった。


「そっか、…俺は広瀬(ひろせ)。よかったなぁ。だから家も分かるんだな」



広瀬くんはバイクのエンジンを切り、私の横を歩いた。記憶が保てると言っても心配らしく。


「本当に大丈夫ですよ」

「俺が心配なの」


柔らかく笑う広瀬くんは「今日はあの男いねぇの?」と、顔を傾けた。

あの男?
あの男と言われて思い浮かべるのは潮くんだった。ずっとずっと、そばにいてくれる潮くん。


「潮くんのことも知っているのですか?」

「うん、すげぇ好きだよね、あんたのこと」


そう言われて、少し照れてしまう自分がいた。


「はい…、いつも大事にしてくれてます」

「あんたが記憶を保つようになって、1番嬉しいのはあいつだろうなぁ」

「はい」

「あいつ、今までめっちゃくちゃ頑張ってきたと思うから、すげぇよなぁ…。マジであんたのためなら何でもする、って感じだし」

「…」

「那月をボコった時も、あんたのためだし」

「え?」

「ん?」

「ボコったって、暴力をしたってことですか?」

「え?知らない?」


知らない?
何を?
潮くんが、那月という人に暴力をしたことを?
考えが正しいのなら、この人の言う男は藤沢那月という、潮くんが昔仲がよかった男なんだと思う。


「小学生…の時の話ですか?」

「いや、最近。1週間…よりも、前か。あ…だから覚えてないのか」

「何を…」

「潮ってやつ、1週間ぐらい前に、那月をボコボコにしたんだよ」


潮くんが…
暴力?
1週間ぐらい前?
それよりも、少し前。


「腕の骨折られてるからバイク乗れねぇし、だから今も迎えに行ってる途中なんだけど」


腕の骨…?


「まあ、あれはあいつが──…」

「潮くん、骨を折るほどの暴力をしたんですか?」

「え?」

「潮くんが、暴力を…」



私の声が、よほど小さかったのか、罰が悪そうな顔をした広瀬くんは、「わるい、」と、顔を下に向けた。


「これはあんたにとっていい話じゃなかったな」


いい話じゃ…。


優しい潮くんが、暴力を…。
藤沢那月という人に暴力をしたなんて。

後ろから押して来た、小学生の頃の潮くんを思い出した。
潮くんは、今でも、暴力をする、人間なのだろうか。

潮くんは私にも、また、暴力をする日が来るのだろうか?


どっちが、本当の潮くんなのだろうか。


「どうして、そんなことになったのですか?」

「それは──…」



広瀬くんが口を開こうとした時、広瀬くんが何かに気づき、喋るのをやめた。
そしてとある方向を見て、「──…那月」とぽつりと呟いた広瀬くん。
私もその方向を見れば、ひとりの、金髪の人がこっちに向かって歩いてくるのが見えた。


その顔は険しく、目も鋭く、私達を睨んでいる顔つきで。


「広瀬」


声も、低かった。


「時間過ぎてるし、つか、なんでこの女と一緒にいる?」


私を、怪訝な目で一瞥した彼は、怒っているようで。その彼の腕にはギプスがつけられていた。よく見ると彼の顔には治りかけている傷や、痣があった。


彼が、藤沢那月──…。
おそらく、潮くんと、仲が良くて、野球をしてた人。
卒業アルバムでは、黒髪で、もっと幼かった。

彼の睨んでいる目が、広瀬くんに向けられた。


「…迷子かと思ったんだよ」

「ほっとけよ」

「そうはいかねぇだろ…」

「また泣きわめいてたのか?」


私を見て、バカにしたように鼻で笑った男。その人を見て、私は〝苦手〟だと感じた。
金髪で怖い見た目で派手、というよりも、何だか体が〝関わりたくない〟って言っているようで。


「いや、この子、もう記憶できるみたいで。──な?」


広瀬くんに聞かれ、頷けば、ピクリと眉を寄せた藤沢那月という男が「いつから」と低く呟いた。


「お前、そんな拷問みたいな聞き方やめろよ。怖がってるだろ」

「知るかよ、いつからだよ」

「1週間前って言ってたけど」

「へぇ、」


嫌な、笑みを浮かべ私を見下ろす彼は、「俺のおかげじゃん」と、意味の分からない事を口にした。


俺のおかげ?


「昔のことは?」

「覚えてないって…」

「ふうん、だったら教えてやろうか?昔のこと」

「おい、那月」

「お前と一緒にいる潮ってやつのこと」

「那月!」

「あいつがお前を殺そうとしたことも」


藤沢那月という人は、怖いことばかり私に教えてくる。広瀬くんが止めようとしても、藤沢那月は私を見下ろし話すのを止めなかった。


──私が思い出せなかった虐めの内容も、喋っていた。


教科書に落書きは当たり前で、破かれて。
紙を丸めたものを投げつけてきたり。
体に体当たりは当たり前で。
階段から突き落とそうとした時もあったとか。

プールに突き落としたり──…。


それを聞いて泣きそうになっていると、「あいつ、実際はすげぇ性格悪いから、お前離れた方がいいよ」と、笑みを浮かべた。


「そんなこと…、潮くんは、優しいです」

「お前にだけな」


私の前だけ…。
恐る恐るその人を見上げれば、まず初めに腕のギプスが目に入った。──潮くんの暴力。


「──…あなたは、昔、潮くんと仲が良かった人…ですよね…。卒業アルバムで、見ました…面影があります」

「……」

「その怪我は、潮くんが…?」

「なんだ、広瀬に聞いたのか?」


顔を顰めていると、「虐めるな、可哀想だろ…」と広瀬くんが止めに入った。


「だったら教えてやるよ、あいつの本性」

「那月…」

「潮に騙されたくなかったら、俺と一緒にいた方がいい」


潮くんに騙されたくなければ?

この人と…?

潮くんは、悪い人なの?

でも潮くんは本当に優しい。
私は今の潮くんを大事にするって決めたのに。
過去よりも…。


藤沢那月は潮くんの連絡先を知らなかったらしく、私のスマホを使って、潮くんを呼び出した。

「今すぐ来いよ」と、面白そうにしている藤沢那月が電話をしているスマホの方で、怒鳴っている潮くんの声が聞こえた。


「こわ、」と、全く怖いと思っていない藤沢那月は、私に隠れてろよと言った。


「私…潮くんのことを知りたいです、でも、こんなふうには知りたくはありません」

「あっそ」

「藤沢さん…」

「俺はお前のために言ってるのにな?」

「…」

「嫌なら帰れ」


どうすればいいか分からなく、顔を下に向けていると、広瀬くんが「とりあえず何かあれば俺が止めるから」と、私に隠れてるように言ってきた。


すぐ近くだったこともあり、潮くんはすぐに来た。よほど急いで来たのか、肩で息をしていて、汗が流れていた。

はあはあと息をしながら、潮くんは周りを見渡し、すぐに藤沢那月を睨みつけた。


「凪は?」


その低い声は、聞いたことも無いぐらい、怒っている声だった。


「帰った」

「っ、もう凪に関わるなって言っただろ!!!」


隠れている私の耳に、潮くんの怒鳴り声が届き、肩がビクッ、と動いた。


「聞いたぞ?あの女から」

「凪をあの女って呼ぶな」

「記憶、出来るようになったんだって?」

「それがなんだ、お前には関係ねぇだろ!」

「良かったじゃねぇか、昔のことは思い出してないんだろ?」

「…」

「お前が虐めてたこと、思い出さなくて良かったなぁ」

「てめぇ、」


潮くんが、藤沢那月に近づく…。
私は声を出さないように、必死に自分の手の平で、口元をおさえた。


──やめて、と、心の中で思いながら。


「つか、俺のおかげだろ、記憶できるようになったの」

「ふざけるな!!」

「まあ、プールよりも、海に落とした方が思い出したかもしんねぇけど…」

「藤沢!!!」


その刹那、潮くんが、藤沢那月の胸ぐらを掴んだ。相当怒ってるらしい潮くんの顔が、怖く。


「なんだよ、まだ怒ってんのか?殴んのか?この間のだけじゃ足りなかったのかよ。すっげぇ痛かったのに」

「お前が凪にあんな事するからだろ…!!!」

「あんな事?」

「ずっと水ん中に…、放置して帰りやがって!!死んでたらどうするつもりだったんだ!!」

「ああ、でも、お前もあいつのこと殺そうとしたじゃん?同じだろ」

「あ?」

「赤信号は渡るもんだって、お前、教えてたじゃん」



私は途中から耳を塞いでいた。
信じようとしていた潮くんが、壊れていくような感覚。
それでも私は優しい潮くんを知っているから。
私のことを大切に思ってくれていることを知っているから。


崩壊を必死に止めようとした。
「凪」って、私の名前を愛おしく呼び、愛おしく頭を撫でる潮くんを必死に思い出していた。


それでも、藤沢那月が何かを言ったのか、腕を振りかざす潮くんが視界の中に入ってきて、──…崩壊が止められなかった。


涙を浮かばせながら思い出したのは、血を流している私を見下ろし笑っている小さい頃の潮くん。



信じたい、信じたい。
潮くんを信じたい。

でも。



「やめて、」と、止めに入った私の体は、藤沢那月を庇っていた。私がいた事に驚いている潮くんは、目を見開き、「なぎ…」と、戸惑いがちに呟いた。


涙を流しながら私は潮くんを見つめてた。
潮くんの目は泳ぎ、困惑気味になっていて。
藤沢那月は、こうなることが分かっていたように笑っていた。


「なぎ、」

「やめてください…」

「……っ、」

「どんな事があっても、…暴力はだめです、」

「凪…、そいつは、」

「暴力は、痛いものだと、分かります…。だからやめてください……」


潮くんが私に腕をのばし、触ろうとする。
きっと、30分前の私なら、潮くんを受け入れていた。30分前の、私なら──。


潮くんを信じていた。




「暴力は、絶対にだめです……」
──『会って話がしたい』

潮くんを拒絶してから3日目の朝、潮くんからメッセージが届いていた。それを見つめ、何の返事もできない私は、凄く心の中が苦しかった。
3日間とも、私は彼の連絡を無視していた。
どうしても、彼に殴りかかろうとした潮くんの顔が忘れられなかった。


「潮か?」


そう言ってベットの上に寝転び、スマホで動画を見ている那月くんが、スマホを眺めている私にどうでも良さそうに呟いた。
何も返事ができないでいると、鼻で笑った那月くんが「那月くんの部屋にいる〜って送ってやれよ」と、楽しそうに笑った。


那月くんの部屋に来るのは、2度目だった。
初日、私を強引にここに連れてきた那月くんは、私がここに来ることに、潮くんに対しての「嫌がらせ」と言っていた。


「…帰っても、いいでしょうか?」

「むり」

「帰りたい…」

「潮のせいで骨折したんだけどなぁ」


そう言われると、帰ることも出来なかった。
この3日間、潮くんに会っていない。
潮くんは家に来るけど、お母さんに「会いたくない」と伝えていれば、潮くんは私の部屋の扉を開けることは無かった。


「今日も、ここに私を呼んだのは、潮くんへの嫌がらせですか?」

「よく分かったな」

「…潮くんが嫌いですか」

「潮もお前も嫌い」

「…私のせいで、2人の仲が悪くなったからですか」

「そーだよ」

「わざと、私に、怖い潮くんを見せたんですか」

「こうも上手くいくとは思わなかったけどな」


くすくすと笑う那月くんは、ほんとに楽しそうだった。


「……私、全部を思い出したいんです…」

「ふうん」

「でも、思い出すのが、怖いです…」

「…」

「これ以上、潮くんのことを怖いって…思うんじゃないかって…」

「…」

「今の潮くんを信じたいです、でも、そう簡単には思えなくて…」

「……」

「もう、思い出さなくても、いいんじゃないかって思ってきました…」

「その方がいいんじゃね」

「はい…」

「……」

「那月くんと、潮くんは、私がいなければずっと仲がいい存在だったんですよね」

「……」

「私がいたから……」

「……」

「…間に合うと思いますか?」

「なにが」

「私が消えれば、あなた達の仲は、元に戻りますか?」


「戻るわけねぇじゃん」


当たり前のように言った彼に、私は視線を下に向けた。


「俺はね、もうお前らを地獄に落とすことしか考えてねぇのよ」

「…地獄?」

「それぐらい嫌いってこと」

「…ごめんなさい…」



私がいたから。
私が記憶喪失なばっかりに。
潮くんと彼の中を壊してしまった。


「謝るなら俺の女になってよ」


何を言うのかと、ベットで寝転んでいる那月くんを見つめれば、彼はスマホじゃなくて私に目を向けていた。

俺の女?
彼女ってこと?
この人は私のことを嫌いなのに?
潮くんの嫌がらせのために?
そもそも、私は潮くんの彼女のはずで。


「…どういうつもりですか?」

「7年間ずっと一緒にいたのに、簡単に他の男のところに来た女と付き合いたいって言ってる」



7年間ずっと…


「…そんな言い方、やめてください」

「お前らの関係って、こんな簡単に崩れるんだな」


崩れる…。


「でも、私は…この10日間のことしか知りません…」

「潮はな、ずっと俺からお前を守ってたんだよ」

「…」

「それなのに、お前は俺を庇った。だからすげぇ楽しいわ、今」


〝地獄〟の言葉をどんどん言ってくる那月くんに、私は何も言えなかった。ずっとずっと黙り込んでいると、「来いよ」と、床に座っている私の腕を掴んできた。


そのまま強引に、苦しい気持ちになっている私をベットの上に連れ込んだ。
そして乱暴に肩を押され、私は那月くんのベットの上に身を沈めた。


何をするのかと、私を見下ろす那月くんを見上げた。


「脱げよ」


脱ぐ?何を?
本当に言っている意味が分からず、目を泳がせながら「え?」と呟いた。


「なに、脱がされてぇの?」


そう言って那月くんが、私の服に手を入れようとするから、慌てた私は「やだっ」と、ベットの枕元の方へと逃げた。


「舐めてんのか? ここに来たってことは、こういうことになるぐらい分かるだろ?」


こういうこと?
分からない…。
服を脱いで、何をするというのか。


「まって…、ほんとに分からない…」

「は?」

「服を脱いで、何するんです」

「何って、お前、潮と──」


潮くん?


「意味、が、分かりません、」

「…」

「潮くんの前で、服を脱いだことなんて、ないです」

「なあ、それは忘れてるだけ?それともそういうのした事ねぇ?」


顔を近づけてきたから、キスをされると思った私は、怖くて「…何を、言っているか分かりません…。やめてください…」と言った。



私の言葉を聞き、私から遠のいたその人は「7年だろ」と、困惑しているようだった。


7年…。


「あの…」

「めんどくさ、」

「…なつき、くん、」

「もういい、帰れよ」

「……」

「潮には、俺の女になったって言っとけ」




──その日の夜、潮くんから電話がかかってきた。この3日間無視していたけど、──もう、これ以上無視するわけにはいかず、私は電話に出た。


『もしもし?凪?』


3日間無視していたのに。
怒っているかもしれないと思っていたのに。
電話越しの潮くんの声は、私の知っている優しい声だった。


『この前は、ごめん。怖いところを見せた…』

「わたし、」

『会えないか…?』


優しい声なのに、電話越しの潮くんの声が、泣いているような気がした。
私はまた、潮くんを泣かせてしまったのだろうか。


「……怖いんです、私の知っている潮くんが、どっちなのか、分からなくて…」

『俺は…このまま終わるなんて絶対いやだ…』


終わる?
私と、潮くんの関係が?

私の知らない、7年間──。


「わたし、…那月くんと、付き合うようなんです」

『…え?』

「だから、少し、時間をくれませんか」

『藤沢と付き合うのか?』

「分かりません…、そのための、考える時間が欲しいんです…」

『……』

「ごめんなさい…、今は潮くんに会うことが出来ません…」

────翌日、罰の悪い顔をした広瀬くんが家に来た。マンションの表札を見て、私が住んでいる号室を知ったとの事だった。


広瀬くんは「この前の、潮ってやつが那月をボコった理由、言ってなかったから」と、わざわざ言いに来てくれたらしく。


玄関の外で、広瀬くんは教えてくれた。



那月くんが、私の記憶を取り戻すために私をプールに落としたこと。

落として、思い出させるために、1時間以上、ずっと水の中に落としたままだったそうで。
私が「寒い…」と凍えても、那月くんは「まだ思い出してないだろ」と、水から上がらせて貰えなかったとか。

私の意識が落ちそうになった時、ようやく水の外に出ることが許され、私はそのまま気を失ったようだった。
そのまま那月くんだけが帰り、助けに来た潮くんが、多分、プールサイドで気を失った私を見て、〝殺してやる〟と言わんばかりに那月くんの所へ暴力を振るいに来たと思う、と。


それを聞いて、何故私が、熱を出して苦しんだのか理解した時、──私は潮くんに何て酷いことを言ってしまったんだと、後悔した…。



私を優先してくれる、潮くん…。




───『それに、もう俺も関わる気はないよ』

──『ケンカをしたのですか?』

──『あいつは俺の大事なものに酷いことしたから。許せねぇだけ』




卒業アルバムを見ていた時言っていた大事なものは、私だったんだ。
那月くんが私に酷いことをしたから。




「那月と付き合うって聞いた…」

「……」

「なんで、そうなったか分からないけど…」

「……」

「あん時のあれは、どう見ても那月が挑発したからで…」

「……」

「あんたは、潮ってやつと、離れるべきじゃないよ」



そう言われても、潮くんに酷いことを言ってしまった今、潮くんのそばに居たいって…私には言うことが出来なかった。




広瀬くんは最後に、そのプールの場所はどこかと聞いた私に、「あんたの元小学校」と教えてくれた。




広瀬くんが帰り、私は〝なぎのへや〟のクローゼットの中を探した。そこには潮くんが言っていたとおり、卒業アルバムがあった。あまり読まれていなかったらしく、埃が被っていた。

ぱんぱん、と、埃をとる。
そして1ページとめくる。
どのページも、潮くんの部屋で見たものと同じだった。
小学校の校舎内。
もしかすると、この小学校に行けば、記憶が戻るかもしれない。
那月くんが私を落としたプールがある、学校へ。


得に何も潮くんに見せてもらった卒業アルバムと変わりがなく、ペラペラと捲っていた時、とあるページを見て私の指の動きは止まった。


最後のページ、きっとみんなが書ける寄せ書きのような、空白のページ。



────『卒業おめでとう 桜木潮』



綺麗、とは言えない字だった。
だけどその文字を見て嬉しくなった私は、潮くんに会いたくてたまらなくなった。


もしかしたら、と思い、中学の卒業アルバムも見た。



──『卒業おめでとう 高校でもよろしく 潮』



空白の、寄せ書きのページにあるのは、どちらも潮くんのメッセージだけだった。




『何してる?』


そう那月くんから電話が来たのは、卒業アルバムを眺めている時だった。横には汚れている日記が挟まれているファイルがあって、読めない文字と睨めっこしていた。


「…聞かなくても、潮くんとは会ってませんよ」


笑いながら言えば、那月くんは『だるい女だな』と、怪訝な声を出した。


「私…、やっぱり思い出すことにします」

『あ?』

「だって、あなたと、潮くんの仲が悪くなったことも、思い出せば分かるでしょう」

『…』

「今の私ではどうすればいいか分からないから…。思い出してから答えをだそうと思うんです」

『一生、思い出さねぇかもしんねぇよ?』

「はい、ですから、小学校に行こうと思います」

『小学校?』

「はい、あなたが私の記憶を取り戻すために、私を落としたプールがある学校に…」

『…誰に聞いた?』

「なので、私はあなたとは付き合えません」

『……』

「私はきっと…、記憶が戻った時も、潮くんを選ぶ気がするから…」



電話を切ったあと、私は小学校へ行く準備を始めた。お母さんに気づかれないようにそっと抜け出した。

マンションのエレベーターに乗り、最近使えるようになったスマホのネット検索で、小学校の位置を検索しようと思っていた矢先、エレベーターを降りたところで、見慣れた金髪が見えた。


私を待っていてくれたのか分からない。けど、それほど怖い顔をしていなかった。


「…道、分かんねぇだろ」


そう言った彼は、まるで着いてこい、とでもいうように、前を歩き出した。

那月くんが何を考えているか分からない。
もしかするとまたプールに落とすのかもしれない。それでも、それで思い出せるならと、私は彼について行った。


夏の暑さが、ジンジンと肌を刺激する。


私が卒業したらしい小学校だけど、校門を見ても、開いていた校門から中に入っても、〝懐かしい〟っていう気持ちは思い浮かんで来なかった。



那月くんが校舎の中に入っていく。
彼の後をおえば、校舎から見える景色に、那月くんは「今日はあそこに落とすのは無理だな」と笑っていた。


那月くんの言葉に窓の外を見れば、夏休みの時期なのに、小学生らしい子がプールに入って遊んでいた。


「校舎の中、勝手に入ってもいいのですか?」

「いいだろ、卒業生だし」


いいのだろうか?分からないけど。
校舎の中を進む那月くんは、「懐かしいな…」と、階段を登っていく。

私にはその〝懐かしい〟が分からない。

目的地は、とある教室の前だったらしい。6年1組と書かれた教室には鍵がかけられていた。だから入ることが出来ず。

那月くんは、近くの廊下の窓を開けた。那月くんが見ているのは運動場らしかった。

運動場を見て、那月くんは「お前が転校してきた日、覚えてる」と呟いた。那月くんは私の方を見ていない。

「その時の担任は、お前が毎日忘れるから、記憶出来ないから、みんなでサポートしていこうって言ってた」

「……」

「そんで、家が近い…俺と潮が、お前を家まで送る事になった。正直、俺は嫌だった。だってめんどくさいだろ。お前をいちいち家まで送るんだぞ?遊びたい日もあるっつーのに」

「……」

「けど、潮は違った。お前をサポートしてた。あいつは昔から優しかったから。置いて帰るかって俺が言った時も、潮はちゃんと送っていってた」

「……」

「それが1ヶ月ぐらい続いた時、潮が…お前に対して怒ってた。理由を聞いても、教えてくんなかったけど…」

「……」

「それから潮がお前を虐めだした、俺は元々お前をよく思ってなかったから、俺もお前を虐めてた。つーか、実際は潮より酷いことをしてたし」

「……」

「今思えば、潮は虐めてたけどちゃんと家までお前を送ってた」

「……」

「そんな日が続いて。ある日、お前の記憶が失うようになった事故の原因が、海で溺れたからって事を知った」

「…海…?」

「ああ、親たちが話してた」

「……」

「それを聞いて、泳げねぇならプールに落としてやろうってなって。俺が突き落とした。──この前、お前に潮が突き落としたって言ったけど、あれは嘘で、俺がプールに突き落としたんだよ」


いつの、話だろうか。
過去の私に話したらしい。


「そしたらお前が泣いて、喚いて、叫んで。頭を抱えて謝りだした。思い出したくない記憶を思い出したみたいに、泣いて──…、それを見た潮がプールに飛び込んでお前を助けてた」

「……」

「そっから潮は、お前を虐める事はなくなった。学校ん中でも、外でも、ずっとお前のそばにいるようになった」

「……」

「俺らは幼稚園から仲良くて、ずっと一緒だった。でも、潮がお前と一緒にいるようになって…、次第にクラスみんなでサポートするのが、潮個人のサポートに変わっていった」

「…潮くんだけ…?」

「みんな、めんどくさいって思ってたからな。毎日毎日、トイレの場所を教える奴もいたんだ、面倒だろ」

「……」

「潮は、転校当初から、お前が好きだったらしい。意味分かんなかったけど」

「……」

「潮が、ずっと一緒にしてた野球を辞めるって言った時は、俺めちゃくちゃ腹が立って。なんでこの女のためにって」

「……」

「お前に友達がいないって理由で、潮がずっとそばにいた。俺の方が付き合い長いのに、なんでって…。俺よりもお前を優先した事にムカついて仕方なかった」

「……」

「やめとけよって言っても、潮はやめなかった。ムカついたけど、それでも、好きなんだっていう、潮の言葉を必死に理解しようとして…。潮が野球をやめたことに、文句は言わなくなった。──けど、言わねぇけど、お前、すぐ忘れるだろ。潮がどれだけお前に尽くしても、お前はすぐに忘れるだろ!」


怒鳴る那月くんは、私の方を見ない。



「…お前は、なんも覚えてない」

「……」

「全く、何も…」

「……」

「仲良く話してんのを見たと思えば、次の日には潮に近づくなって言ってるお前がいる…。お前は潮の気持ちを全く考えてねぇ。潮がどれだけ頑張って努力してるか知らねぇだろ!!」

「……」

「お前からすれば、毎日が他人だもんな」

「……」

「7年間ずっと、サポートしてる潮が怖くて、俺の学校に来るぐらいだもんな?」


那月くんの学校…。


「潮が可哀想で見てられない」

「……」

「だから、お前の記憶が戻るように、もう1回プールに落としてやった」

「……」

「この現状を変えたかった。だからお前の日記も川に捨てた。潮が拾ってたけど、どうせ読めねぇだろ」

「……」

「でも、潮は、お前の記憶が戻らないように今でも必死だ。ずっとお前を守ってる」


……──え?


「俺に潮を貸してくれ。好きでもねぇんなら潮を解放してくれよ」

「……」

「今回も、簡単に俺の方に来やがって…」

「……」

「潮のどこが怖い?! 言ってみろ!!」

「……」

「親友だった俺を…、お前を傷つけたからって理由で…。潮はお前に対してずっと優しかっただろ!! 怖いところなんかねぇだろ!!」

「……」

「なんでお前が泣く」

「……」

「泣きたいのは潮の方だろ!」

「…っ……」

「全部忘れるお前が、潮を傷つけるんだろ!!」




いつの間にか、私の方に振り向いていた彼が、「なあ」と、呼びかけてくる。


「お前もう、記憶できるんだろ?」


両手で顔をおさえる私は、何も言うことが出来ない…。


「だったら、もう、忘れないでくれよ」

「…っ、」

「他のことはいい、潮のことは絶対に忘れないでくれ」


目の奥が熱い。


「頼むから、」

「……、…」

「お前が今、潮を好きじゃなくても…。潮の事は絶対に忘れないでくれ……」


那月くんは、潮くんを嫌ってなんかいなかった。那月くんは今でも潮くんの事が友達として大好きなんだ。だから…──。

とことん、私は最低で最悪だった。
今までどれだけ彼を傷つけてきたんだろう?
那月くんが言うように、今回那月くんを庇った私をどう思っているんだろう?
私は何度、潮くんを拒絶してきたんだろう?
──覚えてない、っていう言い訳は出来ない。


潮くんを好きかと言われれば、分からないと答える。
だけど一緒にはいたいと思う。彼のことを知りたいって。


「お前にこんなこと言うつもりはなかった」


廊下を歩く那月くんが、ぽつりと呟いた。


「本当は、お前を俺のもんにして。二度と潮のところには返さないつもりだった」

「あなたのもの…?」

「ああ、──けど、潮がお前のことマジで大事にしてんだなぁって思ったら、──やめてた」

「大事?」

「さすがに、7年間ずっと体の関係ねぇって、俺なら考えられない」


体の関係?
体って…、子供ができる行為のことだろうか。
確かそれは性行為っていうものじゃ…。
あまりそういうのに詳しくない私は、どう返事をすればいいか分からなかった。


「潮くんを、大切にします」

「頼むよ」

「…はい」

「次忘れてたら、お前のこと本気で殺しに行くから」


笑いながら言った那月くんは、酷い事をしていた過去はあるものの、実際は友達思いのいい人なんだろう。


お願いだから、忘れないで欲しい…。歩きながらそう頭に叩き込んでいた時、視界の中にとある文字が入ってきた。

突然立ち止まる私に、眉を寄せた那月くんは「どうした?」と、立ち止まる。
私はその扉の、上にある文字に夢中だった。
那月くんも私の視線の方に目を向けた。そして呟く。

「理科室?」と。



なんだろう?
見覚えは、ない。
この教室の扉も見たことがないし、文字も…見たことない。今歩いている廊下だって見覚えが──…。



──『理科室、こっち』


違う、場面じゃない。声だ。
景色に見覚えがあるんじゃなくて、声が──…。潮くんの、声…。


──『理科室、こっち』


そうだ、ランドセルを背負っていた潮くんと同じ声。脳が思い出そうとしているのか、何だか白いモヤがうっすらとかかっている。
理科室、理科室、理科室──…。


頭を書抱えている私を見て、「どうした?頭痛いのか?」と、那月くんが近づいてきて、私の方に手を伸ばしてきた。

細い指。

違う。
私の知っている手は、もっとしっかりとしていて。


しっかりとしているけど、脳に浮かぶのは、私が知っている潮くんの手よりも少し小さい手。
まるで走馬灯のように──、とある映像が脳に思い浮かんだ。


小さな手が私の方に差し出される。
──『理科室、こっち』と、言われながら。
そうだ、私はその時、その手に自分の手を重ねた。


目が、泳ぐ。


「おい?」


思い出した、
思い出した、
思い出した
思い出した…!!


「う、うしおくんが、」

「潮?」

「理科室、こっちって!」

「は?」

「私の手を──!!」


握って…──。


「理科室に連れて行ってくれた…」


そう言いながら、手を繋ぐことを、癖だと言っていた潮くんを思い出した。

癖…?

手を繋ぐ事の癖?

ということは、潮くんの癖は、小学校の頃からってことで──。



涙が出るほど、嬉しかった。
少しでも潮くんを思い出せたことが。
それなのに。

「思い出したのか?」と、不安気味に呟いた那月に、どう反応すればいいか分からなかった。


「はい、少しですけど…」

「どんな?」

「潮くんが、私を理科室に連れて行ってくれたことです」


また、眉を寄せた那月くんに、どうして?という思いが募る。


「もう出よう」

「え?」

「お前はあんまり、思い出さない方がいい」


思い出さない方がいい?
どうして?
私はそのために小学校へ来たのに?
そう言えば、さっき那月くんは言っていた。
──『でも、潮は、お前の記憶が戻らないように今でも必死だ。ずっとお前を守ってる』と。


「どうしてですか。潮くんの虐めていた頃の事を思い出すから?」

「違う」

「じゃあ、どうして──…」

「──」


口を閉ざした那月くんは、本当に小学校から出るらしく、来た道を戻っていく。
小学校から出て、マンションの方に向かう那月くんの背中を追いかけた。


そうして、しばらくすると、那月くんが私の方に振り向いた。



「さっき、言ったよな。お前が海で溺れた時、──記憶喪失になったって」

「え?」

「事故は事故だけど、海の事故っていうのは、お前には教えてないはずだ。──お前には絶対、思い出させないようにしてきたはずだから」

「……海の、事故…」

「絶対に思い出すな。──思い出すと、お前はまた潮の事を忘れる。そんな気がする」


そんな気?
潮くんを忘れる?


「潮を大切に思うなら、絶対、事故のことは思い出さないでくれ」

鏡の向こうの私の目の下にはクマができていた。昨晩、あんまり眠る事が出来なかった。
だけど、カレンダーを見る限り私は昨日のことを覚えていたし、記憶は消えていなかった。


『いつでもいいから会って話がしたいです』


朝に送ったのに、潮くんからはすぐに『分かった』と返事が来た。


『8時ぐらいに行く』


今の時刻は7時30分。
昨日、いっぱい考えた。
私の出した答えは間違っているのかもしれない。だけど潮くんを大切にしたいっていう思いは、変わりはない。

出かける準備をしていると、お母さんが「どこかに行くの?」と聞いてきた。
私は「潮くんと会ってきます」と返事をした。
お母さんは何も言わなかった。

8時5分前、私は1階のエントランスで潮くんを待った。しばらくしてすぐに潮くんはエントランスに入ってきた。

私の姿を見て、少し驚いた顔をしていた。


「待ってたのか?暑かっただろ?」


と、私の心配をしてきて。
4日ぶりなのに、とても久しぶりに会うような気がした。──会いたかったと、つい、口から零れそうになった。


「話が、あって」

「うん」

「わたし…」

「ここは暑いから、向こうの影で話そう」


潮くんに言われ、頷いた私は、潮くんの後を追った。その時、手に違和感がした。今日、潮くんの癖がない。私の手を握ってこない。


マンションの外に出た。
暑かったものの、木の影ができているベンチに座れば、風が吹きとても涼しかった。


青い空──…。


「わたし、」


昨晩考えていたことを言おうとした時、「凪は、」と、潮くんが言葉を被せてきた。

潮くんが私を見る目は、悲しそうだった。


「俺と別れたい?」


別れたい…──
そんなの、返事は決まっている。


「別れません、そういう気持ちは、考えてません…」


私の言葉に、安心の表情をする潮くんとは、まだ手が繋がっていない。


「私まだ、潮くんのことを好きとか、そういう気持ちがまだ分からないんです…」

「うん」

「でも、潮くんと一緒にいたい」

「うん」

「一緒にいたいけど、また潮くんを悲しませるんじゃないかって、思ってしまう」

「…うん」

「悲しむ顔を見たくないのなら、このまま、離れた方がいいのではって、思ってしまって…」

「……」

「でも、」

「…凪」

「潮くんとずっと、手を繋いでいたいです…」

「…手?」

「私のわがままだって、分かっているけど…」

「……」

「潮くんとずっと、手を──…」


恐る恐る潮くんを見つめれば、少し照れたような潮くんがいた。


「…藤沢は? あいつと付き合うって…」

「那月くんは私と付き合いません、これからもそういう関係には絶対ならないです」

「……」

「那月くんはとても友達思いのいい人でしたよ」


潮くんは何かを言いたげにしたけど、私が笑っているからか、那月くんのことに関しては何も聞いてこなくて。


「じゃあ、これからも、俺は凪のそばにいていいのか?」


これからもそばに。
いてほしい。
たけど、


「私は、これ以上悲しませたくない。私が忘れていることの絶望感を、潮くんに合わせたくない」

「…離れたいって?」

「私…、いっぱい考えて」

「うん」

「記憶が無くなった根本的な理由を解決すれば、この私の、記憶喪失は無くなるんじゃないかって」


潮くんは何も言わない。
きっと、私の言いたいことが分かったらしい。
潮くんの顔色が変わった気がした。


「那月くんが言っていました、思い出さないように、潮くんは必死に守ってるって」

「──」

「事故の日、何があったのか」


私は本当に、頭部が当たり、記憶喪失になったのか。


「海に、溺れた理由──…」

「藤沢に聞いたのか?」

「潮くん…」

「ダメだ」


いつも優しかった潮くんが、私の提案に拒絶した。


「また、記憶を失うかもしれないから?」

「違う」

「那月くんにも言われました、でも、解決するには、私がその事を思い出さないと…。ずっと記憶が無くなるかもっていう怖さが…」

「違う、凪に、凪に思い出してほしくない」

「…潮くん、」

「藤沢にどこまで聞いたか分からない、でも、思い出して欲しくない…」

「どうしてですか? 記憶喪失が治るかもしれないのに。那月くんからは私が溺れて記憶喪失になったと聞きました。それって頭部に当たったわけじゃないってことでしょう?」

「……俺の口からは言えない、これは凪のお母さんにも関わることだから」


私のお母さん…?


「凪の気持ちは分かった、でも、事故の日何があったか、今の俺は言えない…」

「……」

「正直、俺は思い出して欲しくない」

「泣きわめいたから…?那月くんが言ってました、プールに落とした時、泣いてずっと謝っていたって…」

「……」

「潮くん、私はもしかして、」

「…凪」

「頭の衝撃で記憶喪失になったからじゃなくて、忘れたいっていう気持ちが強くあったから記憶喪失になったんじゃないですか?」


潮くんはずっと難しい顔をしていた。潮くんの顔が、言うか言わないか迷っているようだった。けど、言わないと思った。潮くんは私をとても大切に思ってくれているから。
もう、昔と違って傷つけることはしない…。


「那月くんに、なんで言った?って怒らないでください。那月くんは…、潮くんのことを大切に思ってるいい人だから…」


私の言葉に、また難しい顔をした。


「…凪は知りたいのか?」


潮くんの真剣な声に、私は頷いた。
潮くんが私を見る。


「…この、10日間の記憶がなくなってもいいのか?」


10日間の記憶…。
昨日の那月くんの会話も、忘れるかもしれない。
潮くんと手を繋いで寝たことも、忘れるかもしれない。


「正直言うと、俺は嬉しかった。凪が過去のことを思い出さないで、これから先の事を覚えていくなら…、もうずっと幸せな時間を凪にあげられると思った」


幸せな時間…──


「過去を思い出して欲しくないのは、潮くんが虐めていたことじゃなくて、記憶喪失になった事故の事ですよね」

「うん──」

「幸せな時間は、これから先だけなの…?」

「……え?」

「潮くんといた過去の私は、幸せだと思っていなかった?」


潮くんが言葉を詰まらせた。
唇を、噛み締め。
──それでも、私の提案を拒絶するように顔を横にふった。


「幸せって、思ってくれた日はあると思う。──それでも、俺は凪が泣き叫んでたのを見た事があるから、事故の時のことは思い出して欲しくない」

「潮くんの言っていることは分かる、私の事を思ってくれてるんだって。だけど、」

「言えない」

「潮くん、」

「凪はもう苦しまなくていいんだ、これからはずっと俺が幸せにするから」


苦しまなくていい。
このままずっと。
何も思い出さないまま、潮くんと幸せに?


「でも、また、私は潮くんを忘れてしまうかもしれない。過去を解決しなくちゃ、私は…潮くんを忘れちゃう…。私は忘れたくないの…」

「ずっと俺がそばにいる」

「忘れないでって、私に言ったのは潮くんだよ」

「…だめだ、」

「どうして…」

「……」

「じゃあ、今から海に飛び込む、そうすれば思い出すかもしれない」

「凪っ」

「だって!私も潮くんの悲しい顔を見たくない!」



大声を出せば、目の奥が熱くなった。
涙腺がジワジワと、潤ってくる。
泣きそうな顔をしているからか、潮くんの手が私に伸びてきて、私はその手を重ねるように繋げた。


「私の記憶が無くなるほどの、酷い事故があったんだって、なんとなく分かる…」


私は潮の手を強く握りしめた。


「潮くんはさっき、幸せって思ってくれてた日はある思うって言ってたけど。それは酷い事故には勝たない?」

「凪…」

「『理科室、こっち』って、潮くん、私に手を伸ばしてくれたよね」

「…え──…」

「勝たない?」

「思い、出したのか…?」

「潮くんが、私を大切にしてくれた過去は、私が記憶喪失になるほどの嫌な記憶に勝たないのかな…」

「…っ、…」

「私は全部思い出して、心から潮くんに好きって言いたい──…」

「……なぎ…」

「この気持ちを忘れたくない」


潮くんの、繋げる力も強くなった。


「だから、教えてください、何があったのか」



潮くんは結局、私がどれだけ言っても教えてはくれなかった。「──凪のお母さんに許可なく言えない」と。
絶対に、その場では私に教えてくれなかった。

だから潮くんは今日の夜、私のお母さんと話をすると約束してくれた。
私の気持ちを受け入れてくれた潮くんは、ずっとずっと私の手を握ったままだった。


私が思い出した『理科室、こっち』というのを潮くんに詳しく聞かれた。他にも思い出したのはあるのかと。それだけしか思い出してないと言えば、潮くんは少しだけ嬉しそうな顔をした。


「それな?俺が、初めて凪を受け入れて大切にしようって思った日なんだ」


初めて…?


「だから、その時初めて手を繋いだ」


初めて手を繋いだ…。
あの場面が。
潮くんと初めて手を繋いだ日。
今ではこうして癖になるほどなのに。


「それを思い出してくれたのは、結構嬉しい…」


幸せそうに笑う潮くんに、私も心が暖かくなった。


「きっと、私にとっても嬉しい事だったんだろうなぁ…」







──その日の夜、潮くんとお母さんがリビングで1時間ぐらい話をしていた。
私は〝なぎのへや〟にいた。

お母さんが「ダメ」と言えば、潮くんは私に言ってくれないだろう。

お母さんに許可なく言えないと潮くんは言っていた。私自身、勘がいいのか悪いのか分からない。でも、お母さんの許可なく言えないっていうのは、きっと〝家族〟に関係のあるものだと思った。


どうして私は、気づかなかったんだろうか?

私には〝お父さん〟がいない。

もしかしたら、事故の時──…。


そう思えば思うほど、疑問が募った。だってこれまで潮くんとお母さんも〝お父さん〟とか〝父親〟とか、そういう単語は一切言わなかった。


潮くんとお母さんは何の話をしているんだろう?


──しばらくして、潮くんが部屋のノックと共に、顔を覗かせた。
潮くんの顔は、優しく笑っていた。
その顔は『YES』なのか『NO』なのか全く分からなくて。


どっちなんだろう。
分からない。
お母さんは、『YES』と言ってくれたのか。
それとも私を思って『NO』と言ったのか。


潮くんが口を開く。
不安になりながら答えを待っていると、部屋の中に入ってきた潮くんが、癖のように私の手を握った。


「なぎ」

「だめ、だった、…?」

「なんで泣きそうな顔してんの」


柔らかく笑う潮くんは、そのまま愛おしそうに私の頭を撫でた。


「だって…」

「凪?」

「……」

「夏休みだし、旅行でも行こうか」

「…え?」

「泊まりはだめだから、日帰りで」



優しく笑ってくれた潮くんは、お母さんがどんな返事をしたのか教えてくれなかった。




那月くんからメッセージが届いた。そのメッセージの中に文字はなかった。数枚の写真だった。合計で5枚。ぶれていて読めない文字があるけれど、見覚えのあるその写真にはどう見ても〝潮くん〟の文字が書かれていた。

その写真を眺めていると、今度はちゃんとしたメッセージが届いた。
『それだけしか撮ってなかった。川に落として悪かった』と。
この5枚の写真を撮ってから、私の日記を川に落としたらしい。
その写真は、水で汚れて読めなかった日記の1部の写真だった。




〝令和元年5月25日
潮くんから告白される
潮くんはとても優しくていい人
「ずっと一緒にいる」と
言ってくれた潮くんを信じようと思う
だけど私は信じることも覚えてないんだろうな〟


〝令和元年5月26日
私が記憶を失う病気なんて信じられない。
でも確かに覚えていない。
この日記は本当に私が書いたものなのだろうか?
潮っていう人が「好きだよ」と言ってきた。
記憶できない私を好きってどうなんだろう〟



1枚、2枚と見る。
どれも潮くんの名前があった。
その画像を見て、過去の私は凄く潮くんに大切にされていたんだなぁと実感した。



「どうした?」


スマホを見て笑っていた私に、ベットの中にいた潮くんが話しかけてきた。
なんでもない、と首をふる。
スマホを机の上に置き、潮くんに近寄れば、潮くんは手を差し出してくれた。
それが嬉しくて、私は笑っていた。


一緒の布団に入り、私は手を繋いだまま潮くんに「旅行、どこに行くの?」と、尋ねる。


「うん、まだ決まってない」

「日帰り?」

「かな」

「たのしみだな…」

「うん」


久しぶりに、2人で入る布団の中は暖かい。夏なのに熱くはなく、暖かい。
失礼かもしれないけど、那月くんじゃなくて、潮くんとこうしていると落ち着く。安心できる。


「…うしおくん」

「ん?」

「事故って…、家にいない〝お父さん〟に関係ある…?」


潮くんは、静かに、安心させるかのように笑うと私の頭を撫でた。




「それも、旅行の日にな」





〝令和2年8月5日


潮くんと一緒に買い物に行った

潮くんは私にかみどめを買ってくれた

明日は潮くんと日帰りの旅行にいく

かみどめをつけて行こう。楽しみだなぁ〟

平成26年9月1日
クラスに転校生がきた
さわだなぎっていうらしい
明日になれば今日のこと忘れるんだって
タイヘンだから転校生が
学校に来た日は家までおくることになった
クラスの女子とちがって
さわだは大人しくてかわいかった

────────────

平成26年9月10日
なつきがおくるのを
めんどくさいって言いだした
あそぶ時間がへるかららしい
さわだはもう友達だろと言っても
なつきは納得しなかった
おれひとりでおくった
さわだは「ありがとう」って泣きそうだった
やっぱりめんどくさくは思わなかった
さわだはかわいいのに

────────────

平成26年9月16日
さいあく親に日記を読まれた
さわだのことばっか書いてるけど
好きなのかって聞かれた
かってに見るなよクソばばぁ

────────────

平成26年9月19日
さわだはかわいい
ほかの女子とちがって調子にのらない
もんく言ってこない
明日学校来るといいな
さわだのこと好きだな…
なつきがまた怒ってた
なつきじゃなくて
さわだを優先してることに
怒ってるみたいだった

────────────

平成26年9月24日
やばい好きかもしれない
ひとめぼれってやつなのかも
日記見返したら〝かわいい〟って書いてた
たぶん初めから好きだったから
なつきみたいにイヤにならないんだろうな

────────────

平成26年9月25日
ガマンできなくて告白した

────────────

平成26年9月26日
さわだの家に行った
さわだはおれが言ったこと
覚えてなかった
なんでだよ
忘れないって約束したじゃん
怒ったらさわだが泣いた
おれの方が泣きたい
うそつき





記憶を保てるようになってから、私はずっと髪をおろしていた。昔からそうなのか分からないけど、暑くても髪を結ぶっていう概念がなかった。
いつも洗面台の鏡の前で、櫛でとくだけだった。元々くせ毛ではなく、多分、まっすぐな方なのだと思う。
お母さんが言うには、潮くんがプレゼントしてくれたのはバレッタという種類の髪留めらしい。

黄色とオレンジと白をモチーフとした花のデザインで、とても可愛く、朝からそれをつけようとするけど、普段からあまり髪をまとめ慣れていないのか上手くいかず。

左側がまとめられたと思えば、さらさらと右側の髪が落ちてくる。どちらかと言うと慣れてないと言うよりも、不器用なんだな…と思った。


結局、お母さんに髪をまとめて貰った。


「潮くんから貰ったの?」

「うん、昨日、買ってくれて」

「すごく可愛い」

「潮くんが、絶対私に似合うって…」

「潮くんは本当に凪のことが好きね」

「うん、」

「今日は、気をつけてね」


あまり目立たないように、軽い編み込みを入れてくれたお母さんは、笑いながら呟いた。

髪が全てアップされると、首がスースーして違和感があったけど、慣れたらそうでも無くて。

時間になり、潮くんが迎えに来てくれた。潮くんは私の姿を見るなり、「おはよう」という前に、頬を赤く染めていた。

どうして赤くなっているのか分からなくて、首を傾げると、凄く嬉しそうに潮くんは微笑んだ。


「髪、あげてるの初めて見た。めちゃくちゃかわいい」


私は初めて、潮くんに髪をまとめているのを見せたらしい。何度も「かわいい、もっと見せて」と、顔を覗き込んでくるから、恥ずかしくてたまらなかった。



手を繋いで、お母さんに「行ってきます」と言った。お母さんは不安な顔をせず、「行ってらっしゃい」と笑顔で見送ってくれた。


優しいお母さん──…。

もしかすると、私はお母さんの事を忘れてしまうかもしれない。怖い記憶を思い出し、また私自信が封印しようとすれば──。


エレベーターの中、忘れたくないと泣きそうになっていると、私の顔色を見て何かを悟ったのか、潮くんは「凪?」と私を呼んだ。

下から、上へと潮くんを見上げれば、「大丈夫」と優しく微笑んでくれて。
私は静かに潮くんへ寄り添った。


「好きだよ凪」

「潮くん…」

「大丈夫、何があってもこの関係は変わらない」

「うん…」

「好きだよ」


安心させるように何度も〝好き〟を伝えてくれる潮くん。エレベーターを出て、しばらく立ちどまった。当日になって情緒不安定になってしまったらしく、やっと落ち着いた頃には数十分は経過していて。


出発するまで、潮くんはずっと〝好き〟を言ってくれた。


日帰りの旅行は8月前半でとても暑いと思っていたけど、今日は湿気もなく風もありとても涼しく感じた。あまりまだ汗をかいていない。

私を連れて駅まで歩く潮くんは、落ち着きを取り戻した私の顔を何度も見てくる。


「…もう落ち着いてるよ?心配しないで」


優しくて心配性な潮くんに微笑めば、「や、それもそうなんだけど」と、また照れたように笑った。


「俺の彼女なんだなって思ったら嬉しくて。マジでかわいい、見慣れない」


さっきまで情緒不安定だったから、励まして言ってくれているのだと思った。


「髪、いつもと違うから?」

「髪もそうだし、いつもかわいいけど、俺今日ずっとニヤけてると思う…」

「ニヤけてるの?」

「凪と遠出は初めてだから」


遠出は初めて…。
そうか、私たち、学校の行事も参加してないから。


「だから、すげぇ嬉しい。凪のかわいい姿も見れて朝から幸せだわ」

「褒めすぎだよ」

「本当のこと言ってるだけ」

「もっとかわいい子沢山いると思うよ?」


本当に、実際そうだと思う。
私は化粧をしてない。
やろうにもやり方が分からない。
大人っぽくなく、反対に童顔で子どもっぽくて。太っている訳では無いけど、特別細くて美人って言う訳でもない。


「俺はずっと凪が1番」

「…ほんと?」

「凪が転校してきた時からかわいいって思ってた」


転校してきた時から…。


「7年前から…?」

「うん、」

「……」

「中身も、外見も、ずっと俺のタイプ」

「タイプ?」

「うん、マジでかわいい…」


潮くんは自分自身でも困ったように、笑っていた。


「私はこんなにも潮くんに愛されて、幸せですね」

「俺の方が幸せだよ」

「私も、」

「ん?」

「私も、潮くんの優しくてかっこいいところ、すごくタイプです」

「───」

「これからはいっぱい、いろんな所に行こうね」

「うん」



今日は、涼しい方なのに。
少し汗をかいて、照れたように「あっつ…」と、首元のTシャツを指先で掴みパタパタとさせる潮くんを見て、私は微笑んでいた。


やっぱり潮くんといると心が安らぐ。
さっきまで、情緒不安定だったのに。

このままずっと一緒にいたい。
この気持ちが〝好き〟という気持ちなら、私は潮くんがもっともっと〝大好き〟になるだろうな…。


1度乗り換え、電車には合計で1時間半ぐらい乗っていたと思う。潮くん曰く、とても速く走る電車に乗ったらしくて、1つ県を跨いだそうだった。


電車を降りれば、私が住んでいる所よりも暑く感じた。気温が上がったのか、ここの地域が暑いのか分からないけど、汗をかいてしまうほどで。


電車からバスに乗る。


そこは元々観光地として有名みたいで、外国の人もたくさんいた。大人数で来てる人もいれば、私たちみたいに男女で来てる人たちもいた。

お寺が有名らしい。
潮くんが言うには、大きいお寺があって、その中にある地主神社は恋愛成就で有名みたいだった。


潮くんは、「ここに凪と来たかった」とずっと嬉しそうにしていた。


そこでお祈りをして、人混みの中、潮くんは「暑いからアイスか何か食べようか」と私を連れていく。
ここの地域は〝抹茶〟が有名らしい。
抹茶、と言っても、私は抹茶がよく分からなかった。多分、抹茶はお茶の種類なんだろうと思った。

だけど私の頭にはお茶のイメージは〝麦茶〟や〝烏龍茶〟しかなくて。抹茶と言われてもよく分からなかった。つまり、私の中で〝抹茶〟は未知の味だった。


「抹茶のソフトクリームにする?」


と潮くんが言ってくれたけど…。


「抹茶ってどんな味か分からなくて…」


疑問を口にすれば、すぐに納得の表情をした潮くんは「いつもアイスはバニラかチョコだもんな」と頷いた。
私はいつも、アイスはその2種類しか食べてないらしい。


「バニラかチョコどっちがいい?それか他に食べたいのある?」

「…ううん、バニラがいいです」

「分かった。俺が抹茶にするから、1回食べてみな。美味しいと思うから」


それって、潮くんが好きなもの、選べないってことじゃ…。


「潮くんの食べたいのは?」

「俺は凪といればなんでも美味いから」



私がバニラのソフトクリーム。
潮くんが抹茶のソフトクリームを注文した。
潮くんが抹茶のソフトクリームを1口くれた。その苦味のある中の甘さがとても美味しくて、思わず「美味しい…」と口にする。
正直、もっと食べたいと思うほど。
クリームが濃厚なのか分からない。
未知の〝抹茶〟は、私が知っているバニラよりも美味しく感じた。

そう思っていると、潮くんはそのままゆっくりと歩き出した。私の手に抹茶のソフトクリームがあるまま。


「美味しい?」

「うん、想像してたのと違う…美味しい」

「好きなだけ食べな」

「え?」

「凪、すげぇ美味そうな顔してる」

「でも、潮くんのは…」

「言ってるだろ?」


言ってる?
なにを?
思わず、顔を傾ける。


「俺が1番先に考えるのは凪だって」


潮くんは、優しい。
というよりも、とことん私を甘やかしてくる。もしかしたら〝チョコのソフトクリームが食べたい〟と言えば、きっと潮くんは買ってくれるんだろうなって思った。


「…甘い、」

「甘い?」

「甘すぎます、私に対して…」

「そうか?」

「うん…」

「そういうのあんまり考えたことない」

「…」

「普通だと思うし。というよりも、」


というよりも?


「凪はあんまり我儘言ってこねぇから、もっと言ってきていい」


我儘?


「俺はもっと凪の我儘を聞きたいし、頼ってくれると嬉しい」


頼ってくれると?


「…私、いっぱい潮くんに頼ってるよ?」

「それは俺がしてることで凪自身からって言う訳じゃないから」


私自身から?
そう言われてもあまりピンと来なかった。
だって私は潮くんに頼りっぱなしで。
いつも我儘や、迷惑をかけている気がする。


「私も、潮くんの我儘聞きたい…」

「俺の?」

「アイスは半分こにしましょう」

「半分?」

「私も、抹茶のソフトクリームを食べて〝美味しい〟って顔をしてる潮くんが見たいから」


私は〝抹茶〟の味にハマってしまったらしく、潮くんとこじんまりとした喫茶店に入り、抹茶のパフェも食べたりして。



────午後は潮くんに水族館へ連れて行って貰った。


入口の方では綺麗な水槽の中で小さな魚が泳いでいて、凄く魅力的だった。
初めて見る水族館に、私はすごく興奮していた。


「潮くん、あれ、あれはなに?」


潮くんの手を軽く引っ張る。


「あれはオオサンショウウオ」

「オーサンショーオ?魚なの?」

「いや、たしか両生類だったと思う」

「両生類?」

「カエルとか、イモリとか。その仲間」

「そうなんだ、魚じゃなくてもいるんだね」

「ここは海の生き物がいるところだからね」


クスクスと笑っている潮くんは、「楽しい?」と、優しく私に聞いてきた。
楽しい。こんなにも綺麗な水槽だとは思っても見なかった。──たくさん、私が見た事ない海の生き物がいる。


「うん、」

「良かった」


潮くんは「時間はあるからゆっくりでいい」と言ってくれて。
──その言葉に聞き覚えがあった私は、水槽を見つめながら考え込んだ。
いつ言われたんだっけ?
それほど遠い昔じゃない日がする。


「うしおくん?」

「ん?」

「あたま、撫でてほしい」


潮くんは、瞬きをすると、私の我儘に「どうした急に」と頭を撫でてくれた。
その瞬間、ふわりと何かの映像と重なった気がして。その映像を思い出した私は、自然と笑っていたような気がする。


「前に1度、こうして私の彼氏だって言ってくれたね」

「え?」

「泣きそうな私に、日記は読んだ?って…」

──言ってくれたよね。そう、言おうとした。それでも言うことが出来なかった。


──それはまさしく、あ、と、洗脳がとけるような感覚だった。全く思い出せなかった記憶が突然思い浮かぶかのような…。
鍵が開く。
ピースが合わさる。
私の知らない真っ白なファイル──…が、頭の中に現れた。


「凪、え? まって、思いだしたのか?」


慌てる潮くんは、もう一度私の名前を呼んだ。
もしかすると、ここが海の生き物がいる場所だからもしれない。
海に関係しているからかもしれない。


「潮くん、あっち行ってもいい?」

「いいけど、凪…記憶」

「アザラシがいるみたい!」



その水槽の広さに、目を奪われていたような気がする。進めば進むほど神秘的な光景に、目を奪われ続けた。


トンネルのようで、天井を泳いだりもしている。


とくに目を奪われたのは、クラゲのエリアだった。青と水色のライトがてらされた、とても綺麗なエリア。360度、全てがクラゲの水槽で埋め尽くされていた。



まるで、海の底のような──…。

海の底──…。


海の底に、私自身が沈んでいるような──…。


「さっき、日記を読んでいる自分を思い出しました」


私はクラゲを見ながら呟いた。
白く、透明で、ふわふわと気持ちよさそうに泳ぐクラゲ。
潮くんもクラゲの方を見ていたけど、私が言葉を発すると私の方に視線を向けた。


「高校の制服を着てて…半袖で夏だったから…多分そう古くはない記憶だと思う」


最近か、──今が高校2年生だから、ちょうど1年前か。


「もう日記は読めないって思ってましたけど、それって違うんですよね」


私はきっと、あの日記を毎日見て、毎日書いていたはずだから。


「私が忘れているだけで、思い出せばきっと内容も分かるはずだから。もう読めないっていうのは違うなって…」

「うん、」


確かにそうかもしれない、そう呟いた潮くんは「どんなこと思い出した?」と、言ってきて。
私は潮くんを見つめた。

背の高い潮くんの目が合っているけど、潮くんからは見下ろされている…っていう感じが全くしない。


「思い出したのは、日記の中でも1部で」

「うん」

「日記の中で潮くんの名前ばかりだったのは分かるんです、でも内容があんまり思い出せなくて」

「うん」

「潮くんがそばにいるからかな」

「え?」

「朝と違って、思い出すことが怖いと思わないです」



そう言って潮くんに向かって笑えば、潮くんも柔らかく微笑んだ。本当に嬉しそうに、笑った潮くんは軽く私を引き寄せた。


「凪?」


名前を呼ばれ、そのまま潮くんを見つめていると、手を繋いでいない方の潮くんの手が伸びてきて。
そのまま頭を撫でられると思った私は身を任せようと思った。だけど、頭を撫でる行為じゃなくて、そのまま後頭部に手をやり引き寄せた潮くんは私を抱きしめた。


「…抱きしめていい?」


潮くんの胸元に顔を埋めている私の耳元に、潮くんが呟いてくる。
私は潮くんの腕の中で、ふふ、と声を出して笑った。


「もう抱きしめてるのに…」

「凪」

「なに?」

「──…俺でよかった?」



その意味は。
俺でよかったの意味は。
この7年間、ずっと私の傍にいたのが潮くんでよかった、という意味だろうか。


少しも潮くんを怖いとは思わなく、潮くんに体を預ける私は、どうして潮くんをあんなにも怖いと思っていたんだろうと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


「潮くんがいい…」

「うん…」

「これからもずっと潮くんと一緒にいたい…」

「…うん」

「潮くんこそ、私で良かった…?」


潮くんはゆっくり私の頭を撫でると、「凪しか考えられない」と甘い言葉をくれた。



────時間が許す限り、私はずっと水槽の中を眺めていた。青いライトが反射する水槽は高さがあり、見上げるような形になっている私はさっきも思ったように、海の底にいるみたいだった。


ずっと見つめていた。
立ちすぎてきっと潮くんの足は疲れているはずなのに、潮くんは何も言わなかった。
ただ水槽の魚たちを見る私のことを見ていた。


「お母さんに、お土産を買わないと…」

「そうだな」


思い出したように言えば、潮くんは頷いた。


「朝、気をつけてねって。お母さんは昔から心配性なところがあって…」

「うん」

「この前も…──。そうだ…私、お母さんを親だと思えなくて家から飛び出したことある…」

「うん」

「帰ったら謝らなくちゃ…。怒ってないかな」

「凪のお母さんはいつも優しいから大丈夫」

「うん、──」



次々と、頭の中に映像が流れていく。
でも私にはその映像が、いつの映像か分からなかった。


例えていうなら、とある映像はパズルのピース。ピースはあるものの、どこにはめればいいか分からないのが、いわゆる期間で。

その期間という、パズルのピースのはめる位置が分からないせいで、ピースが上手く埋められなかった。

けど、お母さんの背格好とかを思い出す限り、最近のことを思い出したのだと理解はできる。
だからこの辺りの期間かな?って、パズルを埋めることが出来て──…。


「…私が迷子になって…。潮くんが警察まで迎えに来てくれて…」


たくさんたくさん、思い出してくる。
よっぽどリラックスしているのか。
それとも、もし忘れても、潮くんならそばに居てくれるという安心感からなのか。


そこからはもう口には出さなかった。
次々に蘇ってくる記憶は、思い出す日記の中に当てはめていくと、ああ…この日のことだってピースが埋まっていく。

今、どれだけのピースが埋まったんだろう。

この記憶たちか1000ピースだとしたら、きっと半分は埋まっていってると思う。




──『好きだ』

埋まっていくピースは、

──『好きだよ凪』

どれもどれも、

── 『凪の全部が好き、それぐらい凪に惚れてる』

潮くんのことばかり。



ポロポロと涙を流していると、不安そうにした潮くんが、「…どうした?」と、私の涙を拭く仕草をする。


不安じゃない。
私の心は悲しい気持ちとか、そんなんじゃなくて。


「いま、いっぱい思い出してて…」

「…うん」

「潮くん、ばかりで、」

「うん」

「潮くんばっかりで──…」

「なぎ、」



──…ああ、思い出した。



──『…好きだよ…』

──『…わたしもすきです』

──『潮くんが大好きです』


────私は潮くんが大好きだった。


だけど。


──『昨日…、先生が言ってたんです、その日の出来事を、忘れたくて自ら忘れようとしたんじゃないかって』

──『昨日、凪が俺に好きって言ってくれたんです。1年3ヶ月ぶりに…』

──『凪はそれを、…忘れたかった、って事…、なんですかね……』



────私は、7回、潮くんを泣かせてる。


もしかすると、もっともっと泣かせているのかもしれない。今思い出すだけの〝7回〟だから、きっともっと泣いている。


──『忘れないって約束したのに…』


潮くんが泣いている1番古い記憶は、きっとこの潮くんがランドセル背負っている記憶なのだと思う。


──『大人になったら結婚しよう、って、さわだ、なんで俺が言ったこと忘れんの……』


潮くんが泣いている。
──潮くんくんの言っている言葉で、何があったか分かった私は、これ以上思い出さないように、水槽の中を見ないように瞳を閉じた。

これはきっと、潮くんが小学生の頃、私に『好き』と言ってくれた、翌日の記憶だ。


でも、思い出してしまった。
自分の言葉を。
潮くんに向かって言ってしまった自分の言葉を。
私はその時、泣いている潮くんに向かって『──誰ですか?』って言ってしまった。


酷い言葉を言ってしまった。
潮くんが、凄く傷つく言葉を言ってしまった…。
告白してくれた潮くんに向かって、〝誰ですか?〟だなんて。
那月くんの言った通りなら、きっとこの後に私に対する虐めが始まったんだろう…。
──自業自得。
潮くんは何も悪くない。


瞳を閉じた私に、潮くんが「…大丈夫か?」と肩を支えてきた。


幸せで、嬉しい記憶が蘇ってくる反面、次々に潮くんに対しての、私が傷つけた記憶も蘇ってくる。


いったい、私は何回、潮くんに対して〝誰?〟って思ったんだろう。毎日が初対面の私は…。
そんなの決まっている。〝7年間〟だ。
〝7年間〟もの間…潮くんは…。


私の〝誰ですか?〟に苦しめられたんだろう。


「…うしおくんは、」

「…ん?」

「わたしといて、ほんとうに幸せだった…?」


何を思い出したのか聞かない潮くんは、支えていた肩を少し引き寄せた。


「…頭の中で、うしおくんがずっと泣いてるの…」


また目の奥が熱くなった。
周りの人からしてみれば、魚を見て泣いている変な女って思われるかもしれない。


「…泣いてる?俺」

「うん…」

「嬉し泣きとか、そんなんじゃなくて?」

「うん、」

「幸せだった、ずっと」

「うそ……」

「嘘じゃない。凪の思い出す記憶は俺が泣いてるところだけ?」


泣いてるところだけ…?
ううん、違う、潮くんが笑っている時もある。
本当に嬉しそうに私に向かって『好きだよ』って。

思い出した記憶の9割以上は、ずっとずっと、潮くんが優しく笑っている光景だ。私を大切にしてくれてる人…。


必死に首を横にふれば、「ほらな、幸せだった」と嬉しいに笑い。我慢できずどこまでも優しい潮くんを抱きしめた私を、潮くんは受け止めてくれた。



「……すき…、うしおくんがだいすき…」


潮くんからの返事はなかった。
それでも腕の力強さに〝俺も〟だと言われているような気がした。



「…〝誰ですか?〟って、言ってごめんね、」


鼻声で言えば、潮くんが「…思い出したのか?」って呟いた。
その声は泣きそうだった。
その声は悲しい泣き声とか、そういうのじゃなくて。


ゆっくりと、頷き。
「──…私も、潮くんと結婚したいです」


そういった刹那、潮くんが私の顔をあげ、潮くんの指先が私の涙を拭いた。
潮くんの告白からの、7年後の返事。


「やっとだわ、」


少しからかい気味に言った潮くんに、私は眉を下げた。


「遅くなってごめんなさい…」

「おそすぎる」


「おこ、ってますか?」

「俺が凪に怒ると思う?」


潮くんは笑っている。ずっとずっと私に優しい潮くん。彼の言うとおり、きっと潮くんは私には怒らないだろうなと思っていると、


「次に藤沢と付き合うとか言ったら怒るけど」


突然、そんなことを言われ、言葉に詰まった。
思わず涙が引っ込む。


「え、……那月くん?」

「それも、いつのまに〝那月〟?」

「潮くんに嫌がらせするために下の名前にしろって言われて…」

「あの野郎…」


笑っている顔から、少し不機嫌そうになった潮くんは、「あいつに何もされなかったか?」と聞いてきた。

あまり不機嫌な潮くんを知らない私は、「部屋に行ったぐらいで…」と不安気味に言うと、潮くんがもっと不機嫌な様子になったから少し困惑した。


「部屋の中で何してた?」

「えっと、あの、本当に何も。いつも那月くんがスマホで動画を見てて…。たまに話をするくらいで…。──…あ、でも、最後の日、那月くんが服の中に手を入れてきて…」

「…」

「あ、あの時は、何をされるか分からなかったので、戸惑ったけど、──…他は、何も」


焦りながら、潮くんがこれ以上不機嫌にならないように正直に言うと、潮くんの不機嫌な顔が怖いつきになり、焦る。


「服に手?」

「え、あ、あの、でも、よく分からなくて、彼もすぐにやめてくれて…」

「──」

「…お、怒ってますか、」

「マジであん時、どれだけ嫉妬したと思ってんの。頭おかしくなりそうだった」

「う、うしおく、」

「もう藤沢と喋んのやめて」

「で、でも、那月くんは潮くんのことを大事に思って…」

「凪」

「は、はい」


さっきまで怒っていたのに、また笑い。
何が何だか分からない私は、戸惑ったまま潮くんを見つめたままで。

軽く私はの頬を撫でた潮くんは、そのまま顔を傾け近づいてきた。
潮くんの切れ長の二重の目が、私を見つめてる。


「結婚すんのは俺だからな」


イタズラ気味に笑った潮くん…。
さっきの私の返事かと思った時には、そのまま唇を塞がれていた。

えっと、あの、那月くんの話はどこに…?

軽くふれあい、頬にキスした潮くんが、愛おしそうに私を抱きしめる…。



「ずっと言いたかった」


言いたかった?
何を?
そう思って潮くんを見上げれば、また塞がれるようなキスをされた。


「──愛してる、」



その言葉を、私はこの先、一生忘れることは無かった。




────水族館を離れ、私がずっと水槽の中を見ていたせいで時間も頃合になり、帰らなければならず。
帰りの電車も、とても速く走る電車らしく、予約席らしくて2人とも座れた。
駅まで向かう最中も、隙あらば私にキスをしてこようとする潮くんを止めるのに必死だった。
「いっぱい人がいる」と頬を赤く染めながら言っても、潮くんは「凪と結婚するから」と、答えになってない答えを返してくる。

それほど、7年前の告白のことを、思い出したのが嬉しかったのかもしれない。
だけど、恥ずかしいものは恥ずかしい…。


「家に帰ったらするから…」


電車の中は指定席だから、あまり人から見られることはないけど。隣に座る潮くんに小声で言えば、「…がまんできないんだけど」と、少し駄々を捏ねた。


「…でも、電車だから」

「家でいっぱいする?」

「…うん、家なら、いっぱい」


部屋の中なら、誰もいないから。

聞いてきたのは潮くんなのに、潮くんは顔を赤くさせた。



手を繋ぎながら、電車は走る。
乗り換え、また速く走る電車に乗った。
その頃にはもう外は日が沈み、外は夜に変わっていた。



「──…凪はどこまで思い出した?」


窓の景色を見つめていると、潮くんが優しく聞いてきて。その声のトーンに、ああ、ついに、始まるんだと思った私は、窓の外を見るのをやめた。


「分からない。たぶん、半分は思い出してると思う。事故の事は思い出してない。でも、なんとなく分かってるから覚悟はできてる」


それに、那月くんが、プールに落とした時の記憶も、今はあるから。その時の言葉ももう、思い出しているから。


──『お前が自分の父親と、キヨウダイを殺したこと』


だから。
なんとなく、そんな気はしてる。


「俺、凪に嘘をついていたことが沢山ある」


私の手を握りながら言った潮くんは、さっきとは違い、冷静に話をしだした。


「気分悪くなったらすぐに言って」

「潮くん…」

「ほんとに、凪にとっては悲しい記憶だから」

「大丈夫…。覚悟はできてるから」

「俺は、ずっとずっと、凪は頭をうって毎日忘れる記憶喪失になったって説明してた。でもあれは本当のことじゃない」


本当の事じゃない。


「頭をうったのは事実だけど──…」


頭をうったのは──


「夏休みの家族旅行で、凪たちは船に乗っていたらしい。凪の家族は4人家族。母親と、父親。それから凪の…姉。凪のお母さんが言うには、凪と、凪の姉は海が好きだったらしい。だからその時の旅行も、凪たちが決めたって言ってた」


姉──…


「船に乗るのも初めてじゃなかったから、凪は1人で海を見てたみたいで…。けど、船酔いか貧血か。それが原因でふらついて、凪が船から落ちた」


おちた…。


「凪が船の手すりに頭をうったらしい。それで落ちたんだと思う。──手すりに凪の血があったし、船に戻った凪の頭からは血が流れてたって言ってたから」


きっと、いつも潮くんが私に説明する時に言っている頭をうって記憶喪失になった、というのは、この事だろうと思った。


「凪は気を失ってて、姉が見つけた時にはもう凪は海の中だったらしい。凪を助けるために、姉も海へ飛び込んだ。姉の叫び声に気づいた父親も、凪を助けるために海に飛び込んだ」


姉と父が海に、私を助けるために。


「幸い、凪はライフジャケットを着ていたからすぐに船に乗せることができたみたいだけど──…、凪が頭から血を流していたから。両親はその手当に必死で。その途中で気づいたらしい。凪の姉が船に乗ってないことを」


もう、言われなくても、分かった。


「まだ船は停まっていたままだったから、急いで父親がもう1回潜ったけど…」


そのまま姉は、見つからなかったんだと。


「──…俺のせいだって、自分を責めた父親はずっと探した、ずっと…。凪が病院に行った間もずっと…。もしかしたら今も探してるのかもしれない」


今も…。
そんなの。
もう──…



「意識を取り戻した凪がそれを知った次の日にはもう、記憶ができなくなってた」


記憶…。


「その夏の終わりに俺と凪が出会った。そこからは多分、凪の思い出している通りだと思う」



潮くんと出会った──…。


「つまり、私は自分の家族を殺したってこと…?」

「違う」

「私が落ちなかったら…」

「凪、そんな考え方は絶対にするな」


厳しく、鋭く、私に向かってそう言ってきた潮くんは、「絶対、そういう考えはするな」ともう一度深く呟いた。


そういう考え…。
私が、2人を殺したと?
──…お母さんはいったい、どういう気持ちで、毎日を過ごしていたんだう。
娘に、娘と夫を殺された、なんて…。


「2人は凪の事が大事だったから、大切だったから守った。今はそれだけを考えればいい」

「…そ、れだけ…」

「凪はもう、充分苦しんだ。毎日毎日不安な日々で、ずっと苦しんでた」


毎日毎日、記憶が無くなる不安な日々。
ずっと苦しんだ日々…?


「もういいんだ、凪は自由になっても」


…自由?


「自分を許していい」


許す…。


「もう、解放してもいい」


解放…。


「凪は幸せになってもいい」


幸せ……。


「1回、凪が俺に好きだって言ってくれた時、凪は一瞬気を失って寝てないのに記憶を失ったことがある。──それも、凪自身が幸せになることを許してないからだと思う」


その時の記憶が分かる私は、潮くんの手を強く握りしめた。


「凪は事故のことを忘れたいと思ってるわけじゃない、自分自身の罪があるから忘れてしまう」

「罪…」

「愛してる、凪…」

「……──っ…」

「7年間、頑張ったな」



──頑張った
──7年間、


「ここにいていい。どこにも行かなくていいんだ。凪のお母さんもそう願ってる」