〝おねがいだからわすれないで〟
わたしはバカ。
すごく、バカ。
だから仕方がないと思う。
ズキズキと電気が走るような膝の痛みに耐えながら、涙をこぼしそうになった。
動けばアルファルトの小石がジャリ…と傷にあたり顔を歪ませてしまう。
アスファルトの上で四つん這いになり、咄嗟に両手を出した手のひらからも、血が滲み出ていた。
ついさっきまで、わたしは普通に歩いていた。小学校から家までの道のりをランドセルを背負いながら歩いていたはずだった。
そんな時、突然背後から、体当たりされるような強い衝撃が訪れ、──ドン、っと、私は倒れ込むように転んだ。
その瞬間、笑い声が聞こえて。
体当たりされたのは、故意によるものだと分かったのは、今日の教室内の出来事があったから。
教室内でも、私は紙くずを投げられた。
「おいおい、やりすぎだろ」
また、笑い声がした。
面白がっているその話し方に、目を向ければ、2人の男子がいた。
「そうか?この前の方が、ひどかったじゃん」
「あー、あれな!」
血が出る膝の痛みを我慢しながら、私は泣きながらその場を離れようと、足を動かした。
「おもんね、今日は言い返してこねぇのな」
最後から、本当につまらなさそうな声が聞こえた。
私は、この2人の名前が分からない…。
でも、2人は私のことをよく知っているみたいで。
「でも、ウシオ、さすがに怪我させるのはやりすぎ」
「大丈夫だろ」
「そうか?」
「そうだろ」
「まあ、あいつバカだしなぁー、大丈夫か」
私は、バカ。
私はバカ……。
「ああ、明日になれば、もう今日のこと覚えてねーもん」
────目を開けた。
ピ、ピ、ピ…という、電子音が聞こえた。
カーテンの光が零れるのを見る限り、夜ではないらしい。
ぱちぱち、という瞼の動きを繰り返し、布団から体を起こす。
オレンジ色のカーテン。
とある個室。
ここはどこだろう?
そう思って、ぼんやりとまだ眠気が冷めない中、部屋を見渡していた。
まだ電子音が鳴っているから、そのアラームを消すために、スマホへと手を伸ばす。
ここがどこだか分からないのに、どうしてスマホのアラームを消したのか自分でも分からなかった。
何故か操作できるスマホは、〝机の上のファイルを見る〟と、よく分からない文字の待受画面にされていた。
布団、──…ベットからおり、足を床につけ、部屋の中にある机の上を見れば、スマホにあった通り白のファイルが置かれていた。
ここは誰の部屋で、誰のスマホで、誰のファイルだろう?と、そのファイルを見た。
〝あなたの名前は澤田凪です
これは平成28年7月3日の私が書いたものです
あなたは10歳の頃、脳の病気になってしまい
今日あったことを明日に必ず忘れてしまいます
このファイルは日記のようなものです
読んでください
今日の私へ
今日の出来事、なんでもいいです
明日の私へ何か伝えてください
よろしくお願いします〟
1ページ目の初めには、そんな言葉が書かれていた。
〝澤田凪〟
この名前は私?
ここに書かれているのは、私のこと?
本来ならば、意味の分からない文章が書かれていると思うけど、心のどこかで〝納得〟しているところがあるのは、実際、このファイルを見なければ、私は私の名前さえ分からなかったから。
つまり、このファイルに書かれている〝脳の病気〟というのは、本当の事らしく。
ペラ、と1ページ目をめくれば、〝おかあさんがケーキを作ってくれた〟と書かれてあった。だけど私はその〝おかあさん〟が分からない。
ファイルの中の紙はルーズリーフになっていて、追加形式になっているらしい。
最後のページは、令和2年7月14日と書かれてあった。自身が半袖を着て、冷房がきいている室内。
どうも、今は夏のようで。
〝令和2年7月14日
ウシオくんが泣いていた
私が傷つけた
7月15日の私へ
どうかウシオくんを泣かせないでほしい〟
私には、ウシオくんが誰かも分からない…。
私がいた部屋はマンションらしかった。それが分かったのは、窓から見える景色が高かったから。多分、5階ぐらい。
その部屋の扉を開けリビングに行けば、「おはよう」と、女性の声が聞こえた。
ショートカットのブラウンの髪。黒縁の眼鏡。ああ、この人が〝おかあさん〟。そう思ったのは、知らないはずなのに、朝食を作っているこの雰囲気に違和感が無かったからか。
でも、分からない私にとっては、赤の他人のような感覚で。思わず、黙り込んでしまう。
「あら、制服に着替えてこなかったの?」
そんな〝おかあさん〟は、まだパジャマの姿を見て首を傾げていた。
制服?
なんの事かと、黙り込んでいると、
「読んでないのね、机の上に紙があったでしょう?それに書いてあるから読んできて」
にっこり笑ってきた〝おかあさん〟。
紙?
「…ファイルの事ですか?」
初めて出した声は、やけに小さかった。
「ファイルじゃないわよ、ただの紙なかった?」
「…えっと…」
「きっとあると思うから、見てきて」
優しく微笑まれ、私は頷いたあと、もう一度部屋に戻った。〝おかあさん〟の言う通り、確かに紙は机の上にあった。
ファイルの方に目がいっていて、どうも見落としてたらしい。
〝6時20分 起床
6時50分までファイルを見る
7時30分までにすること
①制服に着替える
制服はクローゼット
ブラウス下着類もクローゼットの棚の中
②ご飯を食べる
③身支度をする
時間割の確認もする
④7時30分 学校へ行く
ウシオくんと一緒に行く〟
分からない事が多々あった。
いや、半分以上は分かるのだけれど、知らない単語がある。
また名前が出てる〝ウシオくん〟
この紙が正しければ、私は彼と学校へ一緒に行くらしい。
昨日、傷つけてしまったらしい彼と。
──…やっぱり、私には分からない…。
よく見ると、廊下の壁や、トイレの中にも張り紙があった。トイレの壁には〝トイレペーパーと生理用品は棚の中〟と書かれた紙。
ちらりとその棚の中を見てみると、確かにそのふたつが中に入っていた。
洗面台には〝凪の歯ブラシはピンク色〟ともあった。私がこの家の中を歩く度に、説明されている紙がありスムーズに事を運ぶことができた。
鏡で自分の顔を見た。
私は自分の顔さえも、分かってなかったらしい。
まるで赤の他人の顔が鏡にうつっているようだった。
「そろそろウシオくんが来るわね」
おかあさんが言う。
ウシオくん。
朝ここに来るらしいウシオくん。
初めて着るはずの制服は、新品ではない。
きっと昨日の私が着たのかもしれない…。
どうして私は記憶を失ってしまったのだろうか…。
「あの…」
「どうしたの?」
「その、事故で…記憶がって…。私…病気なのですか?」
顔を下に向けながら言えば、おかあさんらしい人は笑った。
「前向性健忘症って言うの、私達のことは分からなくても、日常動作は覚えているから大丈夫よ」
日常動作?
言われてみれば、私は場所や人のことを忘れているだけで、歯磨きの仕方などは覚えている…。
前向性健忘症…。
「学校ではウシオくんがサポートしてくれるからね」
「…」
分からない…。
全てが分からない…。
昨日の私も、こんな気持ちだったのだろうか…。
部屋のチャイムがなり、「来たみたいね」と玄関に向かうお母さんの背中を見つめた。
玄関の扉の奥から見えたのは、学生服を着た男の人だった。
きっと彼が〝ウシオくん〟。
黒い髪をして、少し肌が白くて。
けれども切れ長の二重の目をしているから、女の人には見えなくて。
背の高いその人は、私の姿を見つけると「おはよう」と微笑んできた。
私は返事が出来なかった。
だって初めて会うのに……。
これは普通なのだろうか?
いつも通りなのだろうか?
お母さんに背中を押され、外に出た私は、正直不安だらけだった。
戸惑いが多く、手のひらに汗が滲むほど。
夏のせいで余計に汗をかいてしまう。
鞄をぎゅっと抱きしめた。
──…分からない…。
「俺は桜木潮。海の方の潮で、ウシオって読む。今日のお前とははじめましてだな」
軽く微笑まれたけど、困った顔をする私は、
家に帰りたかった。
けれどもエレベーターに乗ってエントランスを通り過ぎようとした今、私は自分がどの階に住んでいたのかも覚えていなくて。
「凪?」
なぎ…
なぎって、私の名前…?
「無理しなくていい、ストレス溜まるだろうから。適当に頷いてくれればいいからな」
ストレス…
適当?
「毎日毎日、人の顔を覚えるのはすげぇ体力使うからな」
お母さんのように優しく笑ってくる彼。
そんな彼は昨日、泣いていたらしい。
私はやっぱり思い出せなかった。
ここはどこなんだろう?
少し前を歩いている潮っていう人は、誰なんだろう?歩く度に不安が積もっていく。
1歩1歩と歩いてみても、見たことの無い景色が続いていくだけで。
道路も、標識も、信号も、本当に見覚えがない。…分からない…。
歩いていた足をとめた。
どうしてとまってしまったのか。
それは多分、知らない土地だから。
まるで宇宙でひとりきりになってしまった感覚だった。
歩くのが怖い…。
歩けるはずなのに、怖い…。
怖い…。
突然立ち止まった私に気づいたらしい彼は、私の名前を呼びながら後ろに振り向いてきた。
彼は、私の知り合いらしい。
だけど怖いものは怖い。
「どうした?気分悪いのか?」
数歩ほど私の方に戻ってきた潮は、私の顔を覗き込むように、軽く腰を曲げた。近い距離にビク、っと肩が反応する。
「…あ、あの、」
無意識に、目が泳ぐ…。
「ん?」
落ち着いたトーンで、私と目を合わせようとする人。それでも、私の目が泳いでいるせいで合うことは無い。
「ご、ごめん、なさい…」
「うん」
「あの…」
「いいよ、落ち着いて言ってみ」
落ち着いて…
どうやって落ち着けばいいのか分からない。
「こわ、こわくて…」
「うん」
「…わたし、こわい…」
「うん」
そもそも学校はどこにあるのか。
〝私〟は行ったことがないのに…!!
「…そうだな、怖いよな」
怯える私に、優しくほほ笑みかける彼は、ゆっくり手を伸ばしてくる。私の後頭部に手をやり、そこを撫でてきて。
まるで子供をあやすような、その仕草。
初めて触られるのに、何故かその手つきに、私自身、違和感はなくて。
「ごめんな、怖かったな」
恐る恐る潮を見つめれば、やっぱり安心させるような顔つきで笑ってる。
「今日は学校やめとこう。凪の家の近く、散歩でもするか?」
「…、」
「凪?」
「あ、」
「ん?」
「あ、あなたは、だれ」
「…」
「ほ、本当に、分からなくて…。分からないんですっ…、」
「凪、日記は読んだ?」
日記…?
ファイルのこと、だろうか…
「よ、よみ、ました、」
「全部?」
「は、初めと、…さいご…昨日の分だけ…」
「じゃあ、その2日分だけ?一昨日のとかは見てねぇ?」
「あの、…」
「なるほど、わかった」
わかった?
なにが。
よしよしと、頭を撫でて、その手を離すと、今度は汗ばんだ私の手のひらを握った。
「俺は凪の彼氏。高1の春から凪と付き合ってる。だからもう一年以上こうした仲な。」
彼氏…?
一年以上?
「多分、俺は読んだことがないから分からないけど、付き合った日のことも書いてると思う。今から読みに帰ろう」
「…え?」
「いま、怖かったこと。俺に教えてくれてありがとうな」
やっぱり優しい笑みをする彼は、私の手を引き、マンションの方へと引き返していく。
私よりも、背が高い…。
この人が、私の彼氏?
本当に?
私はこの人を知らないのに?
だって、初対面のはず…。
そんな彼に、恋愛感情なんてないから。
いまいちピンと来なくて。
家に戻り、潮はお母さんと何かを喋っていた。ファイルの中を見てないことを伝えた潮。
「凪、おいで」
今朝、私が目を覚ました、自分の部屋らしいファイルが置かれた部屋に向かう。
部屋の中は、私と潮の2人きりだった。
潮は私に、白いファイルを渡してきた。
「読んだ後、凪の質問に答えるから」
そのファイルの中では、どうやら約4年の月日が流れているようだった。このファイルを書き始めたのは中学一年生の時らしく。今は高校2年生の夏らしい。
読むのに1時間、それ以上はかかったと思う。たった3行書いている日があれば、10行書いている日もある。
確かに私は潮と出会っているようだった。
それも、随分前から。
必ず1ページには潮の名前が出てきた。
〝令和元年5月25日
潮くんから告白される
潮くんはとても優しくていい人
「ずっと一緒にいる」と
言ってくれた潮くんを信じようと思う
だけど私は信じることも覚えてないんだろうな〟
〝令和元年5月26日
私が記憶を失う病気なんて信じられない。
でも確かに覚えていない。
この日記は本当に私が書いたものなのだろうか?
潮っていう人が「好きだよ」と言ってきた。
記憶できない私を好きってどうなんだろう〟
〝令和元年5月27日
全部見るのも初めてばかり
こんな世界は知らない
学校の授業が分からない
だけど潮くんが教えてくれた。
一昨日の私の言う通り
潮くんは優しい人なのかもしれない〟
〝令和元年5月28日
潮くんの知り合いとあった
私の事も知ってるみたいだった
私は潮くんを信じようと思う
だからここには書かない〟
かすかに、1行だけ、文を消している部分があった。
どの日付にも、
ほぼファイルの中は潮の名前がある。
本当に私は潮と一緒にいるんだな…。
ずっと私は潮のことを、〝潮くん〟って呼んでるみたいで…。
潮くん…。
私の彼氏…。
毎日毎日、記憶を失ってしまう私のそばに、ずっといてくれて…。
ファイルを見る限り、潮くんは本当にいい人みたいだった。
〝令和2年7月14日
ウシオくんが泣いていた
私が傷つけた
7月15日の私へ
どうかウシオくんを泣かせないでほしい〟
それなのに、昨日の私は潮くんを傷つけてしまったらしい。泣かせてしまったらしい。
その理由はどこにも書いていない…。
「読めた?」
そう訪ねてくる潮くんに目を向けた。もう私の目は戸惑っていなかった。
うん、と、頷いた私のそばに近づいてきた彼は、「落ち着いてよかった」と笑顔を向ける。
この笑顔は、どういう気持ちで向けられているのだろうか…。だってこんなにも記憶を失ってしまう私を大事にしてくれる彼を、さっきまで〝怖い〟だなんて…。
「…ごめんなさい…」
「なにが?」
「朝、ちゃんと読めば良かった…。あなたのこと、怖いって思ってごめんなさい…」
「いいよ。気づかなかった俺が悪かったから」
「あの…」
「ん?」
「昨日、何があったのでしょうか」
「…」
「わたし、あなたに酷いことを言ったのですか?」
不安がちに言えば、またさっきの外のように彼の手が伸びてくる。
さっきは柔らかく頭を撫でるだけだった。
だけど今度は腕で頭を包み込むように抱きしめてきた。
私はそれを嫌だと思わなかった。
「違う、酷いことをしたのは俺だよ」
「…え…?」
「俺が昨日の凪に書かせたんだな、ごめんな」
「…」
「好きだよ凪、これからもずっと」
彼はいったい、何回、私に好きと言ってくれのだろうか?
もし、記憶が失わなければ、私も潮くんのことを大好きと、言うんだろうな…。
潮くんと手を繋ぎ、来た場所はマンションから近い川だった。川の近くだからか、夏の時期なのに涼しく感じた。
見覚えがない…。
それなのに慣れたように歩く潮くんを見れば、きっとここにも何度も連れてきてくれているのだろう。
きっと、何回も何十回も。
「昨日、凪に別れようって言われた、いや、別れたい、だな。知らない人と付き合えないって」
歩いている最中、潮くんに言われたのはきっとさっきの答え。
笑いながら、だけども少し悲しそうに喋る潮くんに私まで悲しくなった。
ファイルを見て、別れた方がいいのではと思わなかったわけじゃない。
過去の私も同じように思っていたのだ。
だって毎日毎日恋人を忘れるような相手なんて、イヤに決まっている。
「俺の事を、傷つけるから、別れたいって」
「…」
「でも俺は、凪のそばにいれるだけで嬉しいから。俺の事を思って別れたいって言うなら絶対別れないって言った」
「…そばにいるだけで?」
「ああ、…凪を初めて見た時、好きだって思った」
「…」
「一目惚れってやつ。小学生の時に…」
「…」
「けっこう、凪を口説いたから。絶対別れてたまるかっていうのが本音で」
「…」
「俺はどんな凪も好き、根本的な性格は変わらない…。俺のために別れたいって思ってくれる優しい凪が好きだよ」
目の奥が熱くなるのは。
涙腺が緩むのは、どうしてなんだろうか。
頭は覚えていないだけで。
体はこの人が大好きだと言っているのだろうか?
「けど、俺は本当にずるい男だから。実際は凪のそばにいていい人間じゃない」
「…」
「ごめんな」
過去に、どんなことがあったのか。
謝ってくる潮くんを見ながら、私は涙を流した。
「凪はいつも泣くな…」
そう言って指先で涙をふく彼の手は優しく。
この人を忘れたくない。
お願いだから、忘れないで欲しい。
それでもきっと私の頭は忘れてしまうのだろう。
制服姿のまま、私たちは昼食を食べにレストランにきた。
対面に座り、メニュー表を見る。
「凪はこれ美味しそうに食べてた」
そう言って潮くんが指を向けたのは、オーロラソースの海鮮パスタだった。
私は食べたことを覚えてないけど、確かに私好みの料理だった。
そして不思議に思う。
どうして私は好みの料理だと分かるんだろうかと。
和食や、洋食。そういうのは分かるのに、自分が何を食べたか覚えていないなんて。
これが日常動作の問題はない、ということなのだろうか?
「じゃあ、今日もこれを頼もうかな」
「ピザ食べる?」
「うん、いいの?」
「いいよ」
店員に注文する潮くんを眺めていた。潮くんはオムライスを注文していた。
私が注文したオーロラソースの海鮮パスタは本当に美味しかった。それでも私は食べたことを思い出せなくて…。
「…私、ずっと忘れていくのかな…」
「それは分からない」
分からない?
「凪の場合は、前向性健忘症って言って。強い衝撃とかストレスとかで、なってしまうらしい。凪は小さい頃事故にあって、頭をうって、側頭葉への衝撃で記憶喪失になったらしい」
「…そうなんだ…」
「以前の記憶もなくなって、…寝ると前日のことを忘れてしまう…結構特殊っつーのかな」
特殊?
「衝撃を受けて記憶喪失になったけど、脳自体は異常がないみたいで。だからもしかすると記憶が戻るかもしれない。医者にはそう言われてる」
戻る…?
「でも、永遠に戻らないかもしれない」
永遠…。
「治る、かもしれないの?」
「うん」
「ほんとうに?」
「凪」
「…だったら、治るような、治療をすれば…!!」
「凪?」
「治るのならっ…」
「脳っていうのは、デリケートだから、無理しねぇ方がい」
「でもっ」
「…」
「潮くんは、私に治ってほしくないの…?」
潮くんは、困った顔をしていた。
「……俺は治ってほしくない…」
そういった潮くんは、「思い出さなくていい記憶もあるから」と、ゆっくりと微笑んだ。
思い出さなくていい記憶…。
「凪はそのままでいい、これからもずっと俺が守っていくから」
そのままでいいと言われても…。
10 / 55
「医者も無理に思い出さない方がいいって言ってたから」
デリケートな脳…。
「潮くんはそれでいいのですか…」
今朝、私に向かって〝はじめまして〟と言った男。毎日毎日、私に〝はじめまして〟を言わないといけないのに…。
「いいよ、俺は凪と一緒にいればいいから」