白いシーツ、緑色のカーテン。
やけに柔らかい色だと思った。
私は白いシーツのベットの上に座り、そのベットの傍では白衣を着た女の人が座っていた。
その白衣を着ている女の人は私を見て、何か観察をしているようで。
「どこか痛むところはあるかな?」
そう聞かれても痛むところは無かった。ただ頭がぼんやりとする。静かに顔を横にふれば、少し左側の頭が傷んだ。
それでも特に気にならず、顔に出ることはなくて。
「うん、じゃあ自分の名前は言える?」
名前…。
…名前、
…名前…?
頭がぼんやりとするせいか、自分の名前が思い浮かばない。
「いいえ…」
「歳は?」
「…分からないです…」
「ここがどこだか分かる?」
その質問に、部屋の中を見渡した。緑色のカーテン、白いシーツのベット。そしてベットの横には、変わった机の上にテレビが置かれてあった。
「どこかの部屋です…」
「いつここに来たか、どうやって来たかは?」
「…分かりません…」
「うん、じゃあ、今から言うことを覚えてね」
「……?」
「車、花、人。1回、言ってみて」
この人は、何を言ってるんだろう。
「くるま…、はな、ひと」
「じゃあ、ここに丸を書いて。このボールペンを青色を使ってね」
差し出された紙と、三色ボールペン。
言われた通りに三色ボールペンの青色をペン先を出して、紙に丸を書いた。
「ありがとう。じゃあ今日は何月何日かな?」
「……」
「分からない?」
「…はい」
「さっきの言葉3つ、言ってみて」
「車の、ですか?」
「そう」
「車と、花と人です」
「ありがとう。これで質問は終わります。──…何か私に聞きたいことはあるかな?」
そう言われても。
何を聞けばいいか分からない。
ここがどこか質問してきたのに、この人は答えを教えてくれないのだろうか?
「…とくにありません……」
どうも、ここは病院らしかった。
ここがどうして病院っていうのが分かったのか、それはカーテンの隙間から『──総合病院』というのが見えたから。
でも、私が病院にいる理由が分からなかった。
どこか怪我でもしたのだろうか?
自分自身、どうして病院にいるのか分からなかった。
部屋の中に1人いた私はトイレへ行きたくなり、
ベットから足をついた。その部屋には小さな洗面台があった。
鏡もあって、その鏡には黒い髪の女の子がいた。この子は誰だろうか?そう思って首を傾げれば同じように動き、ああこの子は私なんだって思うことに時間はかからなかった。
「────本当にすみませんでした…」
ドアに近かったからか、ドアの外で声がした。
聞いたことも無い、若い男の声だった。
「潮くんのせいじゃはないわ」
大人の、女の人のような声も聞こえる。
「でも、俺が目を離したから…。俺の責任です、本当にすみませんでした」
どうやら、若い男の人が、大人の女の人に、謝っているようで。
「昨日、CTをとって問題なかったし。さっきも先生がいつもと変わらないって言ってたもの」
「…今まで、頭をうって無くなることはありません…。寝ていなかったのに…。あん時目を離して…なんで倒れてたのかも分からなくて…」
「潮くんには、本当に感謝してるの。だから、お願いだから頭をあげて」
「すみませんでした…」
「潮くんのせいじゃない、違う。私こそ潮くんに任せ切りだから…」
「すみません…」
「…潮くん…」
「もう、傷つけないって決めたのに……」
「大事にしてくれてる…。いつもそばにいてくれてありがとうね…」
「……」
「潮くん……」
「昨日…、先生が言ってたんです、その日の出来事を、忘れたくて自ら忘れようとしたんじゃないかって」
男の人の声が、凄く悲しそうで。
「昨日、凪が俺に好きって言ってくれたんです。1年3ヶ月ぶりに…」
「……うん」
「凪はそれを、…忘れたかった、って事…、なんですかね……」
途切れ途切れの声。
少し枯れた声。
見えているわけじゃないのに、扉の向こうにいる男の人の声が、泣いているような気がした。
────病院から出て、病院の前のロータリーのベンチに腰かけていた。
空を見上げれば、青い色が広がっていた。
きっと近くにいるのだろう、ミーンミーンと蝉のうるさい音もする。
夏の時期らしい、少しというか結構暑く。
少しでも動けば汗が流れそうだった。
「何見てる?」
一緒に横に座り、そう聞いてきたのは、桜木さんという男性だった。今から2時間ほど前に、この人が病室の中にやってきた。
『俺は桜木潮。初めまして』と、静かに笑いながらその言葉と共に。
その男性、桜木さんが言うには、私は記憶喪失というものらしかった。
なんだか難しい言葉で説明していたし。寝ると記憶が無くなるっていうよく分からないことを言っていたからほとんど聞いていなかった。
よく分からないまま、病院から出ることになったらしい。私の母親だと名乗る人も現れたけど、見たことの無い女性に、「…どうも、」という言葉しか見つからなくて。
だけど、母親は母親らしい。
その女性は「車で家に帰りましよう」って言ってきたけど。
正直、外の世界が気になる私は、車に乗るのが嫌だった。外の世界を歩いてみたい。
そう思ったから。
「歩いて帰るので地図をいただけますか?」
と言ってみた。
女性は顔を顰めていたけど。
「俺が必ず、送り届けます」
と、桜木さんが言ってくれたおかげで、私は外の世界で歩くことが出来た。先に家へ帰って待っていると言っていた女性。
桜木さんが病室の中から今までずっと手を繋いでくる。
もしかすると、何も分からないわたしの地図や杖係になってくれているのかもしれない。
「ひこうき雲があるなぁって、見ていました」
空を見上げながら言うと、「ああ、ほんとだな」と桜木さんも空を見上げた。
黒い髪と、切れ長の二重の目が特徴的な桜木さん。
「あれがずっと残ってるなら、雨だな」
「え?」
「ひこうき雲。すぐ消えれば晴れが続いて、残ってるならもうすぐ雨ってことが多いんだよ」
「そうなのですか?」
「うん、でもこれだけ晴れてるから、家につくまでは晴れてると思う。降ってきても、絶対に凪の事は濡らさないから安心して」
私の方に顔を向け微笑まれる。
私の名前は凪というらしい。
そういえば、さっき母親の名乗る女性に「あなたの名前は澤田凪よ」って言われたっけ…。
「あの…」
「うん」
「あなたは誰ですか?さっきの人が母親なら、あなたはお兄さんとかですか?」
桜木さんは、小さく笑う。
「俺は凪の彼氏だよ」
彼氏?付き合っているということだろうか。
実感がない。
本当に?この人嘘をついてるとか?
でも、嘘をついてる表情はしてない。
ああ、だから、付き合っているから手を繋いでいるのか。
「そうなんですか、覚えてないです。すみません…」
「大丈夫、謝ることはない」
「もうひとつ、いいですか」
「うん」
「どうしてここに座っているか、教えてほしいです」
「バスを待ってる、歩いて帰ると言っても結構距離あるから。ある程度バスに乗ってから、30分くらい歩いて電車に乗って帰ろうと思ってる」
詳しく教えてくれた桜木さんに、そうなんですか、と呟いた。
もうすぐバスが来るらしい。
それに乗るらしい。
バスが来るまでの約5分間、ひこうき雲が消えることは無かった。
バスの中はお年寄りが多く、それほど混んでいるというわけじゃなかった。窓際に私が座り、桜木さんその隣に座った。
桜木さんは窓の外を見ていた私に「外、気になる?」と聞いてきた。
気になっていたのは事実だった。
けど、気になると言っても、あの店なんだろう?っていう疑問で、すごく気になるわけじゃない。
見慣れない景色というよりも、あれはなんだろう?っていう疑問。
読めない漢字や、ローマ字が多い。
「いえ…」
「しんどくない?」
「それは暑くないか、っていう意味ですか?」
「それもあるし。滅多にバスには乗らないから酔わないかとか。昨日凪は頭をうってるから、頭は痛くないかっていう色んな意味」
「大丈夫です」
「うん、でも、もし何かあったらすぐに言って。たった今退院したばっかだから」
「分かりました、でも、大丈夫だと思います。それほど心配しなくても大丈夫ですよ」
にこりと微笑めば、桜木さんはちょっと不安そうな顔をしたけど、すぐに柔らかい表情を作った。
バスは3つ目で降りた。
暑い中、桜木さんは私と手を繋ぎながら歩く。
バスの中とは違い、外は蒸し蒸しし蝉の声が響く。
「ちょっと歩いて、休憩がてら飯にしよう」
まだバスをおりたばかりなのに、なにかと心配性な桜木さんは、そんなことを言った。
私と付き合っているからだろうか?
それとも元々優しい人なんだろうか?
分からない。
それでも私は、今日知り合った男性で名前は桜木潮ということしか知らないし、それ以上思うことが無くて。
手を繋がれているけど、正直、暑い。
温かい手の桜木さん。
それでも心地良さはある。
だから「暑い」とは言えなくて。
「…桜木さん」
「ん?」
「私、自分のこと、よく分からないんですけど」
「うん」
「私と桜木さんは、仲が良かったのですか?」
「仲?」
「はい、手を繋ぐほどの仲なんですよね?」
「ケンカとかはしたことないかな」
「じゃあ仲が良かったんですか?」
「そう言われると難しい」
「難しいんですか?」
「さっき言ったように凪は寝ると忘れてしまう記憶喪失だから、凪からしてみれば毎日が俺と初対面なんだよ」
寝ると忘れてしまう。
そういえば、そんなことを説明されたような?
でも難しい話だなぁと思って、私はあんまり聞いていなかったから。
ああ、記憶喪失なんだなぁと思っただけで。
言われるのが私からしてみれば、毎日が初対面…。
確かにそう。私はこの人とは初対面だ。
「だから凪が俺を疑う時もあったし、完全に拒絶する時もあった。こうして喋らなかった時もある。けど拒絶と喧嘩の意味は違うだろ?」
「どんな拒絶を?」
「うん、知らない人を彼氏だなんで呼べないとか。この人は嘘をついてるとか、さわらないでとか」
「私、そんなことを言ってたんですか?」
確かに、嘘をついているかもしれないとは思ってはいたけど、口に出したりはしなかった。
「いや、でも、それは仕方ない事だと思う。俺も理解してる。だから凪がそう言っても俺はムカつかないし、怒ったりしない。どんな凪でも受け入れる。だから言い争ったりした事はないよ」
「…優しいんですね、桜木さん…」
「優しい?」
「だって、そういうの、イヤになりませんか」
「ならない、どんな凪も好きだから。優しいっていうより、当たり前って思って欲しい」
どんな私でも?
「それに、拒絶するのは、今までの中の2割ぐらいで…。ほとんどはこうして関わることが多いと思う」
「わたし、まだ、分からなくて。桜木さんの事はいい人だなって思うんですけど、好きとか、やっぱり、彼氏って、思えないというか…」
「うん、分かってる」
「すみません…」
「謝らなくていい。俺だって初対面の相手に彼女だって言われても、なんだこの女としか思えないと思う」
「……」
「だから、こうして喋ることが幸せだと思ってる」
桜木さんは笑みを浮かべた。
本当に幸せそうに。
けれどもどこか、少し寂しそうで。
「手を繋ぐのは、小学生の時からしてるから、俺のくせみたいなもんって思ってくれたらいい」
小学生?
「私たち、小学生からの知り合いなんですか?というか、私って今何歳…」
「今は17歳。11歳の時、凪と会った。凪が引っ越してきて、会ったのが初め」
私は今、17歳らしい。
ということは、いち、に…さん、約6年間、私はこの人と関わっているということになる。
「その頃から仲が良かったんですか?」
「いや、こうして手を繋ぐようになったのは、もうちょいあと」
「あと?」
「うん──…、それまでは、」
それまでは?
少し、言い辛そうにした桜木さんは、私の方を優しく見つめた。
「俺が一方的に、凪のことを嫌ってた」
「え?」
「いい訳になるけど、そんときはまだ子供で、凪のことを理解できてなかった」
理解……。
「ずるい男でごめんな」
そう言われても、あまり理解ができなく。
なにも覚えていない私は、「大丈夫ですよ」としか言えなかった。
「今は凄く大切にしてくれてるんだなぁって、伝わってきますから」
大丈夫、と思ってはいたけど、私はあまり体力というものがないらしかった。
それとも夏の暑さやられたのか。
昨日、頭をうったといっていたし、そのせいなのか。
もしかすると桜木さんはその事を分かっていて、昼食という休憩をとったのかもしれない。
ハンバーグ専門店に来て、私がトッピングをチーズにするか大根おろしにするか迷っていると、面白そうに「凪はいつもそのどっちかで選ぶなぁ」とくすくすと笑っていた。
「いつも?」
「色んな店は行くけど、ここではその2つを選んでる」
「好みは覚えているという事ですか?」
「そうなるのかもな」
桜木さんは、店員を呼び出すボタンを押すと、私がどちらにするか言った訳でもないのに、オーダーを取りに来た店員に注文していた。
私が選んでいた、チーズのトッピングと、大根おろしのトッピングのふたつを。
「それで、いつも半分こしてる」
思い出すかのように笑う桜木さん。
「でも、それって、桜木さんの好きなものを食べられないって事じゃ…」
「俺はいい。凪の喜ぶ顔が見れるなら」
「…」
「それに、凪と食べるご飯は、なんでも美味しい」
この人は本当に優しいんだな。
私のことを、凄く好きなんだな…。
彼女である私のことを1番に考えてくれる人。
「桜木さんは、」
「うん?」
「私のどこを好きなんですか?」
「え?」
「だって…、さっき、鏡で顔を見ましたけど美人でもなくて…。それなのに記憶喪失になる私を好きだなんて…。桜木さん言ってましたね、毎日記憶が無くなるって。それって…、そこまで深い関わりはなかったのじゃないかって…。愛し合っていたあとの、いきなりの記憶喪失じゃなくて、初対面同士で、好きになるものですか?」
「凪はかわいい。俺のタイプだよ。凪以外の女をかわいいとか美人とか思ったことない」
急に、かわいいと言われた私は、思わず照れて戸惑い、顔が赤くなるのが分かった。
「小学生のころ、転校生だった凪に一目惚れした。家が近いこともって、先生にいろいろ手伝ってあげてくれって言われた時も、正直ラッキーだと思った」
一目惚れ…。
小学生のころ、私に?
「でも、さっき…嫌いだったって」
「うん」
「…」
「その頃、記憶が無くなるってことを理解出来てなかった。理解出来てなかった時に、俺が…帰り道に好きだって言ったんだ」
桜木さんは、優しく笑う。
「でも、次の日には凪は忘れてるから。…俺の告白を忘れてる凪が、許せなくて。結構頑張った告白だったから…」
「…、」
「そっから、凪を虐めるようになった」
虐め…?
「でも、好きで…。許せなくて…、好きで…。忘れる凪にムカついてた。そんなことがずっと頭の中にあった」
「…桜木さん…」
「申し訳ない気持ちが多くなって、虐めるのをやめて、凪と向き合って大事にしようと思った」
「……」
「それで、6年たって、今って感じで」
「……」
「凪のどこを好きって言われたら、優しいし、かわいいし、…なんていうか、」
「……」
「凪の全部が好き、それぐらい凪に惚れてる」
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全部──…。
「すみません、私…大事なことを忘れるのですね…。桜木さんを傷つけてごめんなさい…。大事な事を忘れて虐められるのは当然だと思います」
「いや、俺が子供だったんだ」
「悲しくは、ならないのですか…」
「それは、凪が忘れるからっていう意味?」
「はい」
「俺が一緒にいたいんだよ。虐めた償いとして一緒にいる訳でもない。凪が好きだから」
「…」
「俺は凪を虐めてた。だから俺の方こそ、一緒にいていいのかって思う時がある。本当に酷い事をしたから」
「…それでも、今は私を想ってくれているんでしょう?」
「…うん」
「どんな虐めをしていたか、私は聞きません。今の、私の目の前にいるあなたを信じます」
「……うん」
だから、
「もし、明日の私が失礼なことを言ったら、すみません…」
「……」
「桜木さんは…」
「…うん?」
「記憶の病気が無くなればって思いますか?」
私は桜木さんを見つめたまま。桜木さんは笑いながら首を横にふった。
「俺は凪の全部が好き。だから記憶の病気でも病気じゃなくても関係ない」
優しく言ってくれる桜木さん。
でも、本当は、病気が治って欲しいんだろうな。だって、絶対に大変なはずだから。毎日が初対面だなんて…。
「私は、病気が無くなればいいと思います」
「凪」
「無くなってほしい」
「……本当はいうと、俺は凪に思い出して欲しくない」
え?
思い出して欲しくない?
どうして…。
この、桜木さんと関わった6年間のことを?
「桜木さんが私を虐めたからですか?その記憶を思い出して欲しくないからですか?」
「うん」
「……」
「凪に嫌われたくないから、思い出さないでほしい」
「…」
「それほど俺はずるい男だよ」
──この時、私は桜木さんが〝嘘〟をついていた事に気づくことが出来なかった。
第一に私のことを考えてくれる桜木さん。
私のために桜木さんがついた〝嘘〟に気づいたのは、もう少しあとの話──…
桜木さんと半分こしたハンバーグのランチを食べて、桜木さんが「そろそろ行こうか」と呟いた。
それに対して頷き、桜木さんが手を差し出してきて、その差し出された手を拒絶することなく私は手を置いた。
そのまま握られ、伝票を手にした桜木さんが、レジのある方へと向かう。私よりも背の高い桜木さん。
私を虐めた過去があるけど、今では大切にしてくれている桜木さんはレジで並んでいる最中、「外、結構暑そうだし、タクシー呼ぶ?」と私の心配をする。
「大丈夫です」
そう返事した私は、桜木さんに少し笑いかけた。そうすれば桜木さんも笑った。
「やっぱり凪は1番かわいい」
と、そんな言葉とともに。
休憩したからか、それほど夏空の下、歩くことに苦はならなかった。とある駅につき、切符を購入した桜木さんにお礼を告げた。
電車の中は冷房がきいていて、涼しかった。
3駅ほど乗り、手を繋いだまま桜木さんと電車をおりた。
「凪?」
「はい」
「ここから15分ぐらい歩くけど大丈夫そう?」
「はい、大丈夫です。疲れたらすぐに言いますね」
穏やかに笑った桜木さんは、そのまま足を進めた。駅の改札をくぐり、駅の中を歩く。
ここから15分の距離に、私が住む家があるらしい。
ということは、あと15分ほどしか桜木さんと一緒にいれないってことだろうか?
もっともっと話したいことがあるのに。
そばにいたい…。
そう思って、「時間があるなら、少しでいいので遠回りしたいです、」と桜木さんを見上げを口を開こうとした時だった。
「あっ、この前の、なぁ、あいつらこの前の2人だよな!」
と、その声が聞こえたのは。
駅から外に出て、太陽が私たちを再び迎えた時、視界の中に駅のロータリーでバイクに跨っている男性が2人いて、そのうちの1人が私たちの方に指をさしていた。
指をさしているのは、明るい髪色をした男だった。風貌もとても騒がしそうで、黒髪でシンプルなスタイルの桜木さんとは大違いで。
「那月の知り合いと、すぐ忘れる女だろ!」
指をさされ、そんな言葉を大声で言われ、すぐに私の事だと気づき、──私の心に不快感が芽生えた。
なんだろう、あの人は。
そう思っていると私は自分の下唇を噛んでいた。
思わず、桜木さんの手を強く握った。桜木さんの方を見れば、自分の体が固まったのが分かった。
いつも優しい笑みを浮かべていた桜木さんが、その男の人、2人の方をすごく怖い顔で見ていたから。
──睨む、ううん、それ以上の──…。
「…お知り合いですか?」
静かに告げれば、桜木さんは私の方へと向き直し、「全く。無視していい」と笑った。そのまま歩き出そうとする桜木さんについていこうとすれば、
「なんで無視すんの〜、おーい」
と、面白そうな声が聞こえた。
「おいっ、やめろよ。あの子はそんなからかっていい子じゃないから」
「はあ?」
「この前、めちゃくちゃ泣いてたって言っただろ!」
そうもう一人の男、茶髪の人がそういった時、ピタリと桜木さんの足が止まった。
「知るかよ、な〜!見たぞ〜!その子の日記!お前もいろいろ大変だな〜」
止まった足は、完全に男達2人に向けられていた。怖い顔のまま、私の手を引き、どうしてかその2人の…知り合いか分からない方へと足を進める桜木さん…。
いったい、何があったのか。
「やめろってマジで!からかうな!」
茶髪の人が、明るい髪の男に注意するけど、明るい髪の男の方は、ずっとずっと楽しそうな顔のまま。
「──…どういう事だ、なんで凪の日記の事をお前たちが知ってる」
そう聞いた、桜木さんの声は低い。
「は?んなもん、那月の部屋にあったからだろ?」
「おいっ!」
「──…那月?」
低く、〝那月〟と言った桜木さんの目は、本当に怖く。声のトーンも今までとは全く違い。
「教えろ。今すぐ」
「はあ?」
「てめぇには聞いてねぇ、凪の日記、あいつが持ってんのか」
注意をしていた茶髪の人が、眉を下げ、申し訳なさそうに「……家に…あった、…でも、今は分からない」と、首を横にふった。
いったい、なんの話しをしているのか。
「…さっき、凪が泣いてたって言ってたな。あれはどういう意味だ」
茶髪の派手な人が私を一瞥したあと、「その子が、」と言いながら再び、桜木さんの方を見た。
「一昨日、その子が俺らの高校に来たんだよ。那月に会いに」
「…あいつに?」
少し桜木さんは、顔を傾けた。
「ああ…、その、日記に那月のことを書いてあったみたいで。それを頼りに…って感じだった。パニクってたっつーか、那月の事しか頼れないって感じでボロボロ泣いて…」
「…もう少し詳しく教えてほしい、その後のことも」
「いや、マジで俺そこから知らねぇ。那月がその子を送るからって別れたし」
「別れた?」
「ああ、昨日、那月の家に行った時その子が持ってたファイルがあって…。なぁ?」
茶髪の人が、明るい髪をした人に聞けば、「そうだな」とぶっきらぼうに答えた。
「…分かった、あいつ今どこにいる?」
「さあ、んでも朝まで先輩たちと遊んでたみたいだし、家で寝てると思う」
「そうか、」
「電話しようか?」
「いや、家に行くわ。ありがとうな教えてくれて」
もう話は終わりなのか、桜木さんは私の手を握りしめると、ゆっくりと歩き出した。
最後に彼らを見ると、茶髪の人は眉を下げずっと申し訳ない顔をしていた。
しばらく歩いていると、もう2人の姿は見えなくなった。何かを考えているらしい桜木さんは、あまり口を開かなくて。
「…やっぱり…、知っている人ですか?」
私がそう聞くと、桜木さんは私の方を向いた。桜木さんは少し言い辛そうにすると、「いや、初めて喋った…」と、ぽつりと呟いた。
「でも、私のことを知っているような…感じでした…」
「うん、一昨日の凪があいつらに会ったらしい」
一昨日?
あの人たちと?
覚えていない。
「……あそこまで歩いたのか…。だから足、あんなにもケガしてたのか…」
独り言のように呟いた桜木さん…。
「会っていたんですか…?」
「うん、いろいろあったみたいだ」
私に微笑む桜木さんは、「……藤沢のやつ…」と、なんだが怒っている様子だった。
──…ふじさわ?
藤沢って、さっき会話で出てきてた〝那月〟っていう人だろうか?
とあるマンションにつくと、桜木さんはエレベーターに乗り込み、とある階のボタンを押した。
なんだかさっきとは違い、少しだけ怖い雰囲気になった桜木さんに「もう少し一緒にいたい」って言えなくて。
「もうすぐ、家なのですよね」
「うん」
「私…、これからもあなたに会えますか?」
もっと喋りたい…。
「会えるよ、明日も明後日もずっと。俺が毎日凪に会いに来るから、会わない日は絶対ない」
そう言った桜木さんが、私を部屋の前まで送った。病院であった女の人…お母さんと名乗る人がその部屋から出てきて、桜木さんは私をその人に渡した。
「また夜に来る」
その言葉を残して。
────けど、その日の夜、家に来たのは桜木さんじゃなかった。〝藤沢那月〟という、桜木さんと同い年ぐらいの男性が現れた。派手な見た目は、昼間に見た2人に似ていた。
「──お前がなんで記憶喪失になったか、本当の理由、教えてやる」
聞いたことのある名前に、私はこの人を〝怖い人〟だとは思わなかった。あんなにも優しい桜木さんの知っている人ならば危険な人ではないと思ったから。
それに、その人が言う『本当の理由』というのが知りたくてたまらなかった。
本当の理由ということは、桜木さんが嘘をついているって言うことなのだうか?
お母さんはちょうどお風呂に入っていて、伝えることができないから。
私は自分の部屋にあった新しいルーズリーフの紙に〝ふじさわなつきという人と、会ってきます。すぐにもどります〟と置き手紙をして、外へ出た。
マンションから離れるのか、エレベーターの『↓』のボタンを押した、派手な見た目の彼。
「どこに行くのですか?」
そう聞いても「適当」と答える。
エレベーターからおりて、私よりも前を歩く彼は、桜木さんと違って私と手を繋ぐことはなかった。
昼間よりも、夜道は涼しかった。
「私のこと、あなたは知っているのですか…」
「知ってる」
「あなたは、桜木さんお知り合いですか…」
「ああ…、今日の昼間、家に来て散々だったわ」
昼間……。
桜木さんは、私と別れたあと、この人に会いに行ったらしい。
「…話って、…」
「もうちょいしたら教える」
もう少ししたら。
そう言った彼がしばらく歩く。私はその後について行く。私はどれぐらい歩くのだろうと、考えていた。
置き手紙はしたものの、すぐにもどると書いた私は、お母さんに心配されるのではないかと思った。
ついたのは、とある、学校だった。
校門のそばにある名前を見る限り、ここは小学校らしく。夜の時間、もう誰もいなく、肩くらいの門はもう閉まっていて。
何をしているのか、ここで何をするつもりなのか、軽々とその門を跨ぎ敷地内に入った彼に唖然としていると、
「来い」
と、私の方に手を伸ばしてきた。
「…はいっても、いいのですか」
「卒業生だし問題ねぇ」
卒業生?
というか、そういう問題じゃないと思うけど。
戸惑っていると、「早く」と少し怒った顔つきに変わり、焦った私は、躊躇いがちに門の、足をところに足を引っ掛けた。
それでも彼みたいに上手く登れず、アタフタしていると、面倒くさそうにため息をついた彼が腕を伸ばした。
「どんくせぇな」
そう言われても…。
「あの、やっぱりいけない気が…。泥棒と同じです」
門を乗り越えたものの、不法侵入とは変わりなく。スタスタとだるそうに早足で歩く彼に訴えるも、無視される。
本当にこの人について行っても良かったのだろうか?桜木さんを待つべきだったんじゃないだろうか?
立ち止まり、やっぱり、戻ります…そう言おうとした時、今度は緑色の網目のフェンスに足をかけた…藤沢さんは、足を大雑把に引っ掛けると、またガシャガシャと音を立ててそこを登る。
高さは2mはある。もしかすると3メートルはあるかもしれない。
「さっきよりも登りやすいだろ」
簡単にそう言ってくるけど…。
フェンスの向こうにあるのは、どう見ても…。
「ここになんの用事があるのですか?他の場所ではだめなんですか?」
「記憶取り戻したくねぇのか?」
登っている最中、彼が後ろを振り返る。
「え?」
「お前は1回、ここで記憶を思い出したことがある」
え…?
でも、私…毎日忘れるんじゃなかったの?
「思い出したかったら、来いよ」
──思いだしたければ…。
「そ、れは、」
「あ?」
「それは、桜木さんのことも、思い出せますか…?」
「たぶんな」
また、フェンスを登っていく。
もしかしたら、思い出すかもしれないってこと?この中に入れば…。
昨日のことも、その前のことも。
桜木さんが言ってた、過去の出来事も…。
思い出すのならば。
私も緑色の網目のフェンスに足を引っ掛けた。
だけど、私はあまり体力というか筋肉が無いようで登るのが難しく。
1番上に登った藤沢さんが「早くしろよ」と私に手を伸ばしてくる。恐る恐るその手を握ろうとした時、なんだかその手に違和感がして──…。
〝いつもの手じゃない〟と無意識に思っていた。どうしてそう思ったか分からない。どちらかというと細く角張っている藤沢さんの手。
私の知っている手は、もっと、しっかりとして…。
藤沢さんの手と重ねれば、その違和感は確信に変わった。なんだろう、フィットしない…。私の手と形が合わないと説明したらいいのだろうか?
そう思えば、桜木さんの手は繋ぎやすかった。違和感がなかった。夜に会いに来ると言っていた桜木さんは、今どこにいるのか…。
ようやくフェンスを乗り越え、下に降りた時、涼しい顔をした藤沢さんと違って私は息切れしていた。少し汗も滲んでいた。
フェンスを乗り越え、視界に入ってくるのは1面の水だった。夏の時期だからか、いっぱいに入っているそこは、間違いなくプールで…。
「あの、ここで、思い出したんですか、私…」
「ああ」
「ど、どうやって、」
「…」
「わたし、どうすれば…」
「落ちろよ」
「え?」
「こん中、落ちろ」
そう言った藤沢さんが、私の腕を掴んだ。
そうして力任せに引き寄せ、言葉通りに私の体をプールに落とそうとするから…。
「ま、まって、待って下さいっ、」
咄嗟に、足に力を入れた。
プールに私を落とそうとする藤沢さんは、「ちっ、」と、イラついたように舌打ちをした。
「り、、理由を、教えてください…」
「あ?」
「落ちろだなんて、──そんな、」
ふ、と、バカにしたような笑い方をした藤沢さんは、「小学生の時、」と、グイっと自らの方へと引き寄せた。
その力はさっきよりも強く、私は簡単に、藤沢さんの元へ誘い込まれた。
「潮がここから突き落とした、そんで記憶が戻った。それが理由」
笑いながらそう言われ、私の体が固まるのが分かった。今、なんて言ったこの人は。
潮?それって、桜木さんのことだよね。
桜木さんが、私を、プールに突き落とした…?
過去に、私を虐めたことがある桜木さん…。
「…で、でも、」
「お前が、現れたから──…」
「え?」
さっきとは打って変わり、眉を寄せ、鋭い目を私に向け、怖い顔をする男。
今更、この男は危険だと、脳が危険信号を送り出す。
「潮を返せよ」
「は、離し、」
「返してくれよ」
「痛いっ…」
「お前のせいで…!!」
力任せに掴まれた腕。痕が残りそうなほど強く掴まれ、私は痛みで顔を歪めた。
「お前も死ねば良かったのに」
そう言われた瞬間、私の体が浮いた。
地面に、足がついていなかった。
空へ飛ぶ感覚がして、内臓が体の中で落ちた。
その瞬間には体が水面に叩きつけられ、背中に痛みが走った──。
咄嗟のことで、口を開き、喉の奥から空気がゴホゴホと出てきたと思えば、鼻の中に水が入りツンとした痛みが鼻の奥を貫く。
水から顔を出そうにも、焦っているせいで、上手く上がれず。
──水中で、目を開けた。
ぼやける、見えない、夜のせいか暗くて何も──…。月明かりが──…。月明かりだけが──…。
その方向に手を伸ばした。
その手が、さっきよりも小さく感じて…。
「──ッ、ゴホ、ゴホゴホ!」
やっと水中から顔をだし、必死に息をした。
水を飲んでしまったのか咳が止まらず、嘔吐くような気持ち悪さが止まらない。
鼻も痛く、背中も痛い。
よっぽど強く、水面に落とされたらしく。
涙を浮かべながら、震えながら彼の方を見た。
藤沢さんは、怖い目で私を見下ろしていた。
「こうやって落としても、明日には忘れるもんな。──お前、バカだから」
バカ、バカ、バカ──。
怖くて声が、出なかった。
髪から水が落ちていく。
その瞬間、似たような言葉を、どこかで聞いたような気して。
────『ああ、明日になれば、もう今日のこと覚えてねーもん』
あれは、あれは、あれは。
ランドセルを背負った──……。
────『知ってるか?あいつ──……』
「思い出した?」
僅かな記憶の中に、桜木さんはいた。
桜木さんは、転んでいる私を見て笑っていた。
これは私を、虐めていた時の記憶だ。
「お前が自分の父親と、キヨウダイを殺したこと」
やけに柔らかい色だと思った。
私は白いシーツのベットの上に座り、そのベットの傍では白衣を着た女の人が座っていた。
その白衣を着ている女の人は私を見て、何か観察をしているようで。
「どこか痛むところはあるかな?」
そう聞かれても痛むところは無かった。ただ頭がぼんやりとする。静かに顔を横にふれば、少し左側の頭が傷んだ。
それでも特に気にならず、顔に出ることはなくて。
「うん、じゃあ自分の名前は言える?」
名前…。
…名前、
…名前…?
頭がぼんやりとするせいか、自分の名前が思い浮かばない。
「いいえ…」
「歳は?」
「…分からないです…」
「ここがどこだか分かる?」
その質問に、部屋の中を見渡した。緑色のカーテン、白いシーツのベット。そしてベットの横には、変わった机の上にテレビが置かれてあった。
「どこかの部屋です…」
「いつここに来たか、どうやって来たかは?」
「…分かりません…」
「うん、じゃあ、今から言うことを覚えてね」
「……?」
「車、花、人。1回、言ってみて」
この人は、何を言ってるんだろう。
「くるま…、はな、ひと」
「じゃあ、ここに丸を書いて。このボールペンを青色を使ってね」
差し出された紙と、三色ボールペン。
言われた通りに三色ボールペンの青色をペン先を出して、紙に丸を書いた。
「ありがとう。じゃあ今日は何月何日かな?」
「……」
「分からない?」
「…はい」
「さっきの言葉3つ、言ってみて」
「車の、ですか?」
「そう」
「車と、花と人です」
「ありがとう。これで質問は終わります。──…何か私に聞きたいことはあるかな?」
そう言われても。
何を聞けばいいか分からない。
ここがどこか質問してきたのに、この人は答えを教えてくれないのだろうか?
「…とくにありません……」
どうも、ここは病院らしかった。
ここがどうして病院っていうのが分かったのか、それはカーテンの隙間から『──総合病院』というのが見えたから。
でも、私が病院にいる理由が分からなかった。
どこか怪我でもしたのだろうか?
自分自身、どうして病院にいるのか分からなかった。
部屋の中に1人いた私はトイレへ行きたくなり、
ベットから足をついた。その部屋には小さな洗面台があった。
鏡もあって、その鏡には黒い髪の女の子がいた。この子は誰だろうか?そう思って首を傾げれば同じように動き、ああこの子は私なんだって思うことに時間はかからなかった。
「────本当にすみませんでした…」
ドアに近かったからか、ドアの外で声がした。
聞いたことも無い、若い男の声だった。
「潮くんのせいじゃはないわ」
大人の、女の人のような声も聞こえる。
「でも、俺が目を離したから…。俺の責任です、本当にすみませんでした」
どうやら、若い男の人が、大人の女の人に、謝っているようで。
「昨日、CTをとって問題なかったし。さっきも先生がいつもと変わらないって言ってたもの」
「…今まで、頭をうって無くなることはありません…。寝ていなかったのに…。あん時目を離して…なんで倒れてたのかも分からなくて…」
「潮くんには、本当に感謝してるの。だから、お願いだから頭をあげて」
「すみませんでした…」
「潮くんのせいじゃない、違う。私こそ潮くんに任せ切りだから…」
「すみません…」
「…潮くん…」
「もう、傷つけないって決めたのに……」
「大事にしてくれてる…。いつもそばにいてくれてありがとうね…」
「……」
「潮くん……」
「昨日…、先生が言ってたんです、その日の出来事を、忘れたくて自ら忘れようとしたんじゃないかって」
男の人の声が、凄く悲しそうで。
「昨日、凪が俺に好きって言ってくれたんです。1年3ヶ月ぶりに…」
「……うん」
「凪はそれを、…忘れたかった、って事…、なんですかね……」
途切れ途切れの声。
少し枯れた声。
見えているわけじゃないのに、扉の向こうにいる男の人の声が、泣いているような気がした。
────病院から出て、病院の前のロータリーのベンチに腰かけていた。
空を見上げれば、青い色が広がっていた。
きっと近くにいるのだろう、ミーンミーンと蝉のうるさい音もする。
夏の時期らしい、少しというか結構暑く。
少しでも動けば汗が流れそうだった。
「何見てる?」
一緒に横に座り、そう聞いてきたのは、桜木さんという男性だった。今から2時間ほど前に、この人が病室の中にやってきた。
『俺は桜木潮。初めまして』と、静かに笑いながらその言葉と共に。
その男性、桜木さんが言うには、私は記憶喪失というものらしかった。
なんだか難しい言葉で説明していたし。寝ると記憶が無くなるっていうよく分からないことを言っていたからほとんど聞いていなかった。
よく分からないまま、病院から出ることになったらしい。私の母親だと名乗る人も現れたけど、見たことの無い女性に、「…どうも、」という言葉しか見つからなくて。
だけど、母親は母親らしい。
その女性は「車で家に帰りましよう」って言ってきたけど。
正直、外の世界が気になる私は、車に乗るのが嫌だった。外の世界を歩いてみたい。
そう思ったから。
「歩いて帰るので地図をいただけますか?」
と言ってみた。
女性は顔を顰めていたけど。
「俺が必ず、送り届けます」
と、桜木さんが言ってくれたおかげで、私は外の世界で歩くことが出来た。先に家へ帰って待っていると言っていた女性。
桜木さんが病室の中から今までずっと手を繋いでくる。
もしかすると、何も分からないわたしの地図や杖係になってくれているのかもしれない。
「ひこうき雲があるなぁって、見ていました」
空を見上げながら言うと、「ああ、ほんとだな」と桜木さんも空を見上げた。
黒い髪と、切れ長の二重の目が特徴的な桜木さん。
「あれがずっと残ってるなら、雨だな」
「え?」
「ひこうき雲。すぐ消えれば晴れが続いて、残ってるならもうすぐ雨ってことが多いんだよ」
「そうなのですか?」
「うん、でもこれだけ晴れてるから、家につくまでは晴れてると思う。降ってきても、絶対に凪の事は濡らさないから安心して」
私の方に顔を向け微笑まれる。
私の名前は凪というらしい。
そういえば、さっき母親の名乗る女性に「あなたの名前は澤田凪よ」って言われたっけ…。
「あの…」
「うん」
「あなたは誰ですか?さっきの人が母親なら、あなたはお兄さんとかですか?」
桜木さんは、小さく笑う。
「俺は凪の彼氏だよ」
彼氏?付き合っているということだろうか。
実感がない。
本当に?この人嘘をついてるとか?
でも、嘘をついてる表情はしてない。
ああ、だから、付き合っているから手を繋いでいるのか。
「そうなんですか、覚えてないです。すみません…」
「大丈夫、謝ることはない」
「もうひとつ、いいですか」
「うん」
「どうしてここに座っているか、教えてほしいです」
「バスを待ってる、歩いて帰ると言っても結構距離あるから。ある程度バスに乗ってから、30分くらい歩いて電車に乗って帰ろうと思ってる」
詳しく教えてくれた桜木さんに、そうなんですか、と呟いた。
もうすぐバスが来るらしい。
それに乗るらしい。
バスが来るまでの約5分間、ひこうき雲が消えることは無かった。
バスの中はお年寄りが多く、それほど混んでいるというわけじゃなかった。窓際に私が座り、桜木さんその隣に座った。
桜木さんは窓の外を見ていた私に「外、気になる?」と聞いてきた。
気になっていたのは事実だった。
けど、気になると言っても、あの店なんだろう?っていう疑問で、すごく気になるわけじゃない。
見慣れない景色というよりも、あれはなんだろう?っていう疑問。
読めない漢字や、ローマ字が多い。
「いえ…」
「しんどくない?」
「それは暑くないか、っていう意味ですか?」
「それもあるし。滅多にバスには乗らないから酔わないかとか。昨日凪は頭をうってるから、頭は痛くないかっていう色んな意味」
「大丈夫です」
「うん、でも、もし何かあったらすぐに言って。たった今退院したばっかだから」
「分かりました、でも、大丈夫だと思います。それほど心配しなくても大丈夫ですよ」
にこりと微笑めば、桜木さんはちょっと不安そうな顔をしたけど、すぐに柔らかい表情を作った。
バスは3つ目で降りた。
暑い中、桜木さんは私と手を繋ぎながら歩く。
バスの中とは違い、外は蒸し蒸しし蝉の声が響く。
「ちょっと歩いて、休憩がてら飯にしよう」
まだバスをおりたばかりなのに、なにかと心配性な桜木さんは、そんなことを言った。
私と付き合っているからだろうか?
それとも元々優しい人なんだろうか?
分からない。
それでも私は、今日知り合った男性で名前は桜木潮ということしか知らないし、それ以上思うことが無くて。
手を繋がれているけど、正直、暑い。
温かい手の桜木さん。
それでも心地良さはある。
だから「暑い」とは言えなくて。
「…桜木さん」
「ん?」
「私、自分のこと、よく分からないんですけど」
「うん」
「私と桜木さんは、仲が良かったのですか?」
「仲?」
「はい、手を繋ぐほどの仲なんですよね?」
「ケンカとかはしたことないかな」
「じゃあ仲が良かったんですか?」
「そう言われると難しい」
「難しいんですか?」
「さっき言ったように凪は寝ると忘れてしまう記憶喪失だから、凪からしてみれば毎日が俺と初対面なんだよ」
寝ると忘れてしまう。
そういえば、そんなことを説明されたような?
でも難しい話だなぁと思って、私はあんまり聞いていなかったから。
ああ、記憶喪失なんだなぁと思っただけで。
言われるのが私からしてみれば、毎日が初対面…。
確かにそう。私はこの人とは初対面だ。
「だから凪が俺を疑う時もあったし、完全に拒絶する時もあった。こうして喋らなかった時もある。けど拒絶と喧嘩の意味は違うだろ?」
「どんな拒絶を?」
「うん、知らない人を彼氏だなんで呼べないとか。この人は嘘をついてるとか、さわらないでとか」
「私、そんなことを言ってたんですか?」
確かに、嘘をついているかもしれないとは思ってはいたけど、口に出したりはしなかった。
「いや、でも、それは仕方ない事だと思う。俺も理解してる。だから凪がそう言っても俺はムカつかないし、怒ったりしない。どんな凪でも受け入れる。だから言い争ったりした事はないよ」
「…優しいんですね、桜木さん…」
「優しい?」
「だって、そういうの、イヤになりませんか」
「ならない、どんな凪も好きだから。優しいっていうより、当たり前って思って欲しい」
どんな私でも?
「それに、拒絶するのは、今までの中の2割ぐらいで…。ほとんどはこうして関わることが多いと思う」
「わたし、まだ、分からなくて。桜木さんの事はいい人だなって思うんですけど、好きとか、やっぱり、彼氏って、思えないというか…」
「うん、分かってる」
「すみません…」
「謝らなくていい。俺だって初対面の相手に彼女だって言われても、なんだこの女としか思えないと思う」
「……」
「だから、こうして喋ることが幸せだと思ってる」
桜木さんは笑みを浮かべた。
本当に幸せそうに。
けれどもどこか、少し寂しそうで。
「手を繋ぐのは、小学生の時からしてるから、俺のくせみたいなもんって思ってくれたらいい」
小学生?
「私たち、小学生からの知り合いなんですか?というか、私って今何歳…」
「今は17歳。11歳の時、凪と会った。凪が引っ越してきて、会ったのが初め」
私は今、17歳らしい。
ということは、いち、に…さん、約6年間、私はこの人と関わっているということになる。
「その頃から仲が良かったんですか?」
「いや、こうして手を繋ぐようになったのは、もうちょいあと」
「あと?」
「うん──…、それまでは、」
それまでは?
少し、言い辛そうにした桜木さんは、私の方を優しく見つめた。
「俺が一方的に、凪のことを嫌ってた」
「え?」
「いい訳になるけど、そんときはまだ子供で、凪のことを理解できてなかった」
理解……。
「ずるい男でごめんな」
そう言われても、あまり理解ができなく。
なにも覚えていない私は、「大丈夫ですよ」としか言えなかった。
「今は凄く大切にしてくれてるんだなぁって、伝わってきますから」
大丈夫、と思ってはいたけど、私はあまり体力というものがないらしかった。
それとも夏の暑さやられたのか。
昨日、頭をうったといっていたし、そのせいなのか。
もしかすると桜木さんはその事を分かっていて、昼食という休憩をとったのかもしれない。
ハンバーグ専門店に来て、私がトッピングをチーズにするか大根おろしにするか迷っていると、面白そうに「凪はいつもそのどっちかで選ぶなぁ」とくすくすと笑っていた。
「いつも?」
「色んな店は行くけど、ここではその2つを選んでる」
「好みは覚えているという事ですか?」
「そうなるのかもな」
桜木さんは、店員を呼び出すボタンを押すと、私がどちらにするか言った訳でもないのに、オーダーを取りに来た店員に注文していた。
私が選んでいた、チーズのトッピングと、大根おろしのトッピングのふたつを。
「それで、いつも半分こしてる」
思い出すかのように笑う桜木さん。
「でも、それって、桜木さんの好きなものを食べられないって事じゃ…」
「俺はいい。凪の喜ぶ顔が見れるなら」
「…」
「それに、凪と食べるご飯は、なんでも美味しい」
この人は本当に優しいんだな。
私のことを、凄く好きなんだな…。
彼女である私のことを1番に考えてくれる人。
「桜木さんは、」
「うん?」
「私のどこを好きなんですか?」
「え?」
「だって…、さっき、鏡で顔を見ましたけど美人でもなくて…。それなのに記憶喪失になる私を好きだなんて…。桜木さん言ってましたね、毎日記憶が無くなるって。それって…、そこまで深い関わりはなかったのじゃないかって…。愛し合っていたあとの、いきなりの記憶喪失じゃなくて、初対面同士で、好きになるものですか?」
「凪はかわいい。俺のタイプだよ。凪以外の女をかわいいとか美人とか思ったことない」
急に、かわいいと言われた私は、思わず照れて戸惑い、顔が赤くなるのが分かった。
「小学生のころ、転校生だった凪に一目惚れした。家が近いこともって、先生にいろいろ手伝ってあげてくれって言われた時も、正直ラッキーだと思った」
一目惚れ…。
小学生のころ、私に?
「でも、さっき…嫌いだったって」
「うん」
「…」
「その頃、記憶が無くなるってことを理解出来てなかった。理解出来てなかった時に、俺が…帰り道に好きだって言ったんだ」
桜木さんは、優しく笑う。
「でも、次の日には凪は忘れてるから。…俺の告白を忘れてる凪が、許せなくて。結構頑張った告白だったから…」
「…、」
「そっから、凪を虐めるようになった」
虐め…?
「でも、好きで…。許せなくて…、好きで…。忘れる凪にムカついてた。そんなことがずっと頭の中にあった」
「…桜木さん…」
「申し訳ない気持ちが多くなって、虐めるのをやめて、凪と向き合って大事にしようと思った」
「……」
「それで、6年たって、今って感じで」
「……」
「凪のどこを好きって言われたら、優しいし、かわいいし、…なんていうか、」
「……」
「凪の全部が好き、それぐらい凪に惚れてる」
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全部──…。
「すみません、私…大事なことを忘れるのですね…。桜木さんを傷つけてごめんなさい…。大事な事を忘れて虐められるのは当然だと思います」
「いや、俺が子供だったんだ」
「悲しくは、ならないのですか…」
「それは、凪が忘れるからっていう意味?」
「はい」
「俺が一緒にいたいんだよ。虐めた償いとして一緒にいる訳でもない。凪が好きだから」
「…」
「俺は凪を虐めてた。だから俺の方こそ、一緒にいていいのかって思う時がある。本当に酷い事をしたから」
「…それでも、今は私を想ってくれているんでしょう?」
「…うん」
「どんな虐めをしていたか、私は聞きません。今の、私の目の前にいるあなたを信じます」
「……うん」
だから、
「もし、明日の私が失礼なことを言ったら、すみません…」
「……」
「桜木さんは…」
「…うん?」
「記憶の病気が無くなればって思いますか?」
私は桜木さんを見つめたまま。桜木さんは笑いながら首を横にふった。
「俺は凪の全部が好き。だから記憶の病気でも病気じゃなくても関係ない」
優しく言ってくれる桜木さん。
でも、本当は、病気が治って欲しいんだろうな。だって、絶対に大変なはずだから。毎日が初対面だなんて…。
「私は、病気が無くなればいいと思います」
「凪」
「無くなってほしい」
「……本当はいうと、俺は凪に思い出して欲しくない」
え?
思い出して欲しくない?
どうして…。
この、桜木さんと関わった6年間のことを?
「桜木さんが私を虐めたからですか?その記憶を思い出して欲しくないからですか?」
「うん」
「……」
「凪に嫌われたくないから、思い出さないでほしい」
「…」
「それほど俺はずるい男だよ」
──この時、私は桜木さんが〝嘘〟をついていた事に気づくことが出来なかった。
第一に私のことを考えてくれる桜木さん。
私のために桜木さんがついた〝嘘〟に気づいたのは、もう少しあとの話──…
桜木さんと半分こしたハンバーグのランチを食べて、桜木さんが「そろそろ行こうか」と呟いた。
それに対して頷き、桜木さんが手を差し出してきて、その差し出された手を拒絶することなく私は手を置いた。
そのまま握られ、伝票を手にした桜木さんが、レジのある方へと向かう。私よりも背の高い桜木さん。
私を虐めた過去があるけど、今では大切にしてくれている桜木さんはレジで並んでいる最中、「外、結構暑そうだし、タクシー呼ぶ?」と私の心配をする。
「大丈夫です」
そう返事した私は、桜木さんに少し笑いかけた。そうすれば桜木さんも笑った。
「やっぱり凪は1番かわいい」
と、そんな言葉とともに。
休憩したからか、それほど夏空の下、歩くことに苦はならなかった。とある駅につき、切符を購入した桜木さんにお礼を告げた。
電車の中は冷房がきいていて、涼しかった。
3駅ほど乗り、手を繋いだまま桜木さんと電車をおりた。
「凪?」
「はい」
「ここから15分ぐらい歩くけど大丈夫そう?」
「はい、大丈夫です。疲れたらすぐに言いますね」
穏やかに笑った桜木さんは、そのまま足を進めた。駅の改札をくぐり、駅の中を歩く。
ここから15分の距離に、私が住む家があるらしい。
ということは、あと15分ほどしか桜木さんと一緒にいれないってことだろうか?
もっともっと話したいことがあるのに。
そばにいたい…。
そう思って、「時間があるなら、少しでいいので遠回りしたいです、」と桜木さんを見上げを口を開こうとした時だった。
「あっ、この前の、なぁ、あいつらこの前の2人だよな!」
と、その声が聞こえたのは。
駅から外に出て、太陽が私たちを再び迎えた時、視界の中に駅のロータリーでバイクに跨っている男性が2人いて、そのうちの1人が私たちの方に指をさしていた。
指をさしているのは、明るい髪色をした男だった。風貌もとても騒がしそうで、黒髪でシンプルなスタイルの桜木さんとは大違いで。
「那月の知り合いと、すぐ忘れる女だろ!」
指をさされ、そんな言葉を大声で言われ、すぐに私の事だと気づき、──私の心に不快感が芽生えた。
なんだろう、あの人は。
そう思っていると私は自分の下唇を噛んでいた。
思わず、桜木さんの手を強く握った。桜木さんの方を見れば、自分の体が固まったのが分かった。
いつも優しい笑みを浮かべていた桜木さんが、その男の人、2人の方をすごく怖い顔で見ていたから。
──睨む、ううん、それ以上の──…。
「…お知り合いですか?」
静かに告げれば、桜木さんは私の方へと向き直し、「全く。無視していい」と笑った。そのまま歩き出そうとする桜木さんについていこうとすれば、
「なんで無視すんの〜、おーい」
と、面白そうな声が聞こえた。
「おいっ、やめろよ。あの子はそんなからかっていい子じゃないから」
「はあ?」
「この前、めちゃくちゃ泣いてたって言っただろ!」
そうもう一人の男、茶髪の人がそういった時、ピタリと桜木さんの足が止まった。
「知るかよ、な〜!見たぞ〜!その子の日記!お前もいろいろ大変だな〜」
止まった足は、完全に男達2人に向けられていた。怖い顔のまま、私の手を引き、どうしてかその2人の…知り合いか分からない方へと足を進める桜木さん…。
いったい、何があったのか。
「やめろってマジで!からかうな!」
茶髪の人が、明るい髪の男に注意するけど、明るい髪の男の方は、ずっとずっと楽しそうな顔のまま。
「──…どういう事だ、なんで凪の日記の事をお前たちが知ってる」
そう聞いた、桜木さんの声は低い。
「は?んなもん、那月の部屋にあったからだろ?」
「おいっ!」
「──…那月?」
低く、〝那月〟と言った桜木さんの目は、本当に怖く。声のトーンも今までとは全く違い。
「教えろ。今すぐ」
「はあ?」
「てめぇには聞いてねぇ、凪の日記、あいつが持ってんのか」
注意をしていた茶髪の人が、眉を下げ、申し訳なさそうに「……家に…あった、…でも、今は分からない」と、首を横にふった。
いったい、なんの話しをしているのか。
「…さっき、凪が泣いてたって言ってたな。あれはどういう意味だ」
茶髪の派手な人が私を一瞥したあと、「その子が、」と言いながら再び、桜木さんの方を見た。
「一昨日、その子が俺らの高校に来たんだよ。那月に会いに」
「…あいつに?」
少し桜木さんは、顔を傾けた。
「ああ…、その、日記に那月のことを書いてあったみたいで。それを頼りに…って感じだった。パニクってたっつーか、那月の事しか頼れないって感じでボロボロ泣いて…」
「…もう少し詳しく教えてほしい、その後のことも」
「いや、マジで俺そこから知らねぇ。那月がその子を送るからって別れたし」
「別れた?」
「ああ、昨日、那月の家に行った時その子が持ってたファイルがあって…。なぁ?」
茶髪の人が、明るい髪をした人に聞けば、「そうだな」とぶっきらぼうに答えた。
「…分かった、あいつ今どこにいる?」
「さあ、んでも朝まで先輩たちと遊んでたみたいだし、家で寝てると思う」
「そうか、」
「電話しようか?」
「いや、家に行くわ。ありがとうな教えてくれて」
もう話は終わりなのか、桜木さんは私の手を握りしめると、ゆっくりと歩き出した。
最後に彼らを見ると、茶髪の人は眉を下げずっと申し訳ない顔をしていた。
しばらく歩いていると、もう2人の姿は見えなくなった。何かを考えているらしい桜木さんは、あまり口を開かなくて。
「…やっぱり…、知っている人ですか?」
私がそう聞くと、桜木さんは私の方を向いた。桜木さんは少し言い辛そうにすると、「いや、初めて喋った…」と、ぽつりと呟いた。
「でも、私のことを知っているような…感じでした…」
「うん、一昨日の凪があいつらに会ったらしい」
一昨日?
あの人たちと?
覚えていない。
「……あそこまで歩いたのか…。だから足、あんなにもケガしてたのか…」
独り言のように呟いた桜木さん…。
「会っていたんですか…?」
「うん、いろいろあったみたいだ」
私に微笑む桜木さんは、「……藤沢のやつ…」と、なんだが怒っている様子だった。
──…ふじさわ?
藤沢って、さっき会話で出てきてた〝那月〟っていう人だろうか?
とあるマンションにつくと、桜木さんはエレベーターに乗り込み、とある階のボタンを押した。
なんだかさっきとは違い、少しだけ怖い雰囲気になった桜木さんに「もう少し一緒にいたい」って言えなくて。
「もうすぐ、家なのですよね」
「うん」
「私…、これからもあなたに会えますか?」
もっと喋りたい…。
「会えるよ、明日も明後日もずっと。俺が毎日凪に会いに来るから、会わない日は絶対ない」
そう言った桜木さんが、私を部屋の前まで送った。病院であった女の人…お母さんと名乗る人がその部屋から出てきて、桜木さんは私をその人に渡した。
「また夜に来る」
その言葉を残して。
────けど、その日の夜、家に来たのは桜木さんじゃなかった。〝藤沢那月〟という、桜木さんと同い年ぐらいの男性が現れた。派手な見た目は、昼間に見た2人に似ていた。
「──お前がなんで記憶喪失になったか、本当の理由、教えてやる」
聞いたことのある名前に、私はこの人を〝怖い人〟だとは思わなかった。あんなにも優しい桜木さんの知っている人ならば危険な人ではないと思ったから。
それに、その人が言う『本当の理由』というのが知りたくてたまらなかった。
本当の理由ということは、桜木さんが嘘をついているって言うことなのだうか?
お母さんはちょうどお風呂に入っていて、伝えることができないから。
私は自分の部屋にあった新しいルーズリーフの紙に〝ふじさわなつきという人と、会ってきます。すぐにもどります〟と置き手紙をして、外へ出た。
マンションから離れるのか、エレベーターの『↓』のボタンを押した、派手な見た目の彼。
「どこに行くのですか?」
そう聞いても「適当」と答える。
エレベーターからおりて、私よりも前を歩く彼は、桜木さんと違って私と手を繋ぐことはなかった。
昼間よりも、夜道は涼しかった。
「私のこと、あなたは知っているのですか…」
「知ってる」
「あなたは、桜木さんお知り合いですか…」
「ああ…、今日の昼間、家に来て散々だったわ」
昼間……。
桜木さんは、私と別れたあと、この人に会いに行ったらしい。
「…話って、…」
「もうちょいしたら教える」
もう少ししたら。
そう言った彼がしばらく歩く。私はその後について行く。私はどれぐらい歩くのだろうと、考えていた。
置き手紙はしたものの、すぐにもどると書いた私は、お母さんに心配されるのではないかと思った。
ついたのは、とある、学校だった。
校門のそばにある名前を見る限り、ここは小学校らしく。夜の時間、もう誰もいなく、肩くらいの門はもう閉まっていて。
何をしているのか、ここで何をするつもりなのか、軽々とその門を跨ぎ敷地内に入った彼に唖然としていると、
「来い」
と、私の方に手を伸ばしてきた。
「…はいっても、いいのですか」
「卒業生だし問題ねぇ」
卒業生?
というか、そういう問題じゃないと思うけど。
戸惑っていると、「早く」と少し怒った顔つきに変わり、焦った私は、躊躇いがちに門の、足をところに足を引っ掛けた。
それでも彼みたいに上手く登れず、アタフタしていると、面倒くさそうにため息をついた彼が腕を伸ばした。
「どんくせぇな」
そう言われても…。
「あの、やっぱりいけない気が…。泥棒と同じです」
門を乗り越えたものの、不法侵入とは変わりなく。スタスタとだるそうに早足で歩く彼に訴えるも、無視される。
本当にこの人について行っても良かったのだろうか?桜木さんを待つべきだったんじゃないだろうか?
立ち止まり、やっぱり、戻ります…そう言おうとした時、今度は緑色の網目のフェンスに足をかけた…藤沢さんは、足を大雑把に引っ掛けると、またガシャガシャと音を立ててそこを登る。
高さは2mはある。もしかすると3メートルはあるかもしれない。
「さっきよりも登りやすいだろ」
簡単にそう言ってくるけど…。
フェンスの向こうにあるのは、どう見ても…。
「ここになんの用事があるのですか?他の場所ではだめなんですか?」
「記憶取り戻したくねぇのか?」
登っている最中、彼が後ろを振り返る。
「え?」
「お前は1回、ここで記憶を思い出したことがある」
え…?
でも、私…毎日忘れるんじゃなかったの?
「思い出したかったら、来いよ」
──思いだしたければ…。
「そ、れは、」
「あ?」
「それは、桜木さんのことも、思い出せますか…?」
「たぶんな」
また、フェンスを登っていく。
もしかしたら、思い出すかもしれないってこと?この中に入れば…。
昨日のことも、その前のことも。
桜木さんが言ってた、過去の出来事も…。
思い出すのならば。
私も緑色の網目のフェンスに足を引っ掛けた。
だけど、私はあまり体力というか筋肉が無いようで登るのが難しく。
1番上に登った藤沢さんが「早くしろよ」と私に手を伸ばしてくる。恐る恐るその手を握ろうとした時、なんだかその手に違和感がして──…。
〝いつもの手じゃない〟と無意識に思っていた。どうしてそう思ったか分からない。どちらかというと細く角張っている藤沢さんの手。
私の知っている手は、もっと、しっかりとして…。
藤沢さんの手と重ねれば、その違和感は確信に変わった。なんだろう、フィットしない…。私の手と形が合わないと説明したらいいのだろうか?
そう思えば、桜木さんの手は繋ぎやすかった。違和感がなかった。夜に会いに来ると言っていた桜木さんは、今どこにいるのか…。
ようやくフェンスを乗り越え、下に降りた時、涼しい顔をした藤沢さんと違って私は息切れしていた。少し汗も滲んでいた。
フェンスを乗り越え、視界に入ってくるのは1面の水だった。夏の時期だからか、いっぱいに入っているそこは、間違いなくプールで…。
「あの、ここで、思い出したんですか、私…」
「ああ」
「ど、どうやって、」
「…」
「わたし、どうすれば…」
「落ちろよ」
「え?」
「こん中、落ちろ」
そう言った藤沢さんが、私の腕を掴んだ。
そうして力任せに引き寄せ、言葉通りに私の体をプールに落とそうとするから…。
「ま、まって、待って下さいっ、」
咄嗟に、足に力を入れた。
プールに私を落とそうとする藤沢さんは、「ちっ、」と、イラついたように舌打ちをした。
「り、、理由を、教えてください…」
「あ?」
「落ちろだなんて、──そんな、」
ふ、と、バカにしたような笑い方をした藤沢さんは、「小学生の時、」と、グイっと自らの方へと引き寄せた。
その力はさっきよりも強く、私は簡単に、藤沢さんの元へ誘い込まれた。
「潮がここから突き落とした、そんで記憶が戻った。それが理由」
笑いながらそう言われ、私の体が固まるのが分かった。今、なんて言ったこの人は。
潮?それって、桜木さんのことだよね。
桜木さんが、私を、プールに突き落とした…?
過去に、私を虐めたことがある桜木さん…。
「…で、でも、」
「お前が、現れたから──…」
「え?」
さっきとは打って変わり、眉を寄せ、鋭い目を私に向け、怖い顔をする男。
今更、この男は危険だと、脳が危険信号を送り出す。
「潮を返せよ」
「は、離し、」
「返してくれよ」
「痛いっ…」
「お前のせいで…!!」
力任せに掴まれた腕。痕が残りそうなほど強く掴まれ、私は痛みで顔を歪めた。
「お前も死ねば良かったのに」
そう言われた瞬間、私の体が浮いた。
地面に、足がついていなかった。
空へ飛ぶ感覚がして、内臓が体の中で落ちた。
その瞬間には体が水面に叩きつけられ、背中に痛みが走った──。
咄嗟のことで、口を開き、喉の奥から空気がゴホゴホと出てきたと思えば、鼻の中に水が入りツンとした痛みが鼻の奥を貫く。
水から顔を出そうにも、焦っているせいで、上手く上がれず。
──水中で、目を開けた。
ぼやける、見えない、夜のせいか暗くて何も──…。月明かりが──…。月明かりだけが──…。
その方向に手を伸ばした。
その手が、さっきよりも小さく感じて…。
「──ッ、ゴホ、ゴホゴホ!」
やっと水中から顔をだし、必死に息をした。
水を飲んでしまったのか咳が止まらず、嘔吐くような気持ち悪さが止まらない。
鼻も痛く、背中も痛い。
よっぽど強く、水面に落とされたらしく。
涙を浮かべながら、震えながら彼の方を見た。
藤沢さんは、怖い目で私を見下ろしていた。
「こうやって落としても、明日には忘れるもんな。──お前、バカだから」
バカ、バカ、バカ──。
怖くて声が、出なかった。
髪から水が落ちていく。
その瞬間、似たような言葉を、どこかで聞いたような気して。
────『ああ、明日になれば、もう今日のこと覚えてねーもん』
あれは、あれは、あれは。
ランドセルを背負った──……。
────『知ってるか?あいつ──……』
「思い出した?」
僅かな記憶の中に、桜木さんはいた。
桜木さんは、転んでいる私を見て笑っていた。
これは私を、虐めていた時の記憶だ。
「お前が自分の父親と、キヨウダイを殺したこと」