キミは海の中に沈む【完】

────『こっち』


小さな手が、私に向かって手を伸ばしてくる夢を見た。

次に目を覚ました時、私はその夢を見た事さえ覚えていなかった。

────この人は誰だろうか。

起きてからまず初めに思ったのがそれだった。
ぱちぱちと瞬きをしても、全く思いだせなくて。
私は布団の中にいるらしい、どうしてか知らない男性が一緒にその中に入っていて、たった今まで私と眠っていた。この状況が分からず、今度はまじまじと男性の顔を見つめた。


白い肌…。
黒い髪。
何歳ぐらいだろう。
17、8……。
まじまじと見つめても、やっぱり目の前にいる男性に見覚えがなく。
そのまま男性の顔を眺めていると、目から重力にそって何かの線のようなものが描かれてあった。

描くというよりも、何かの痕。

涙?

この男性は、眠りながら泣いていたのだろうか?辛いことでもあったのだろうか?怖い夢を見たのだろうか?なんの涙だろう?


とりあえず状況を整理しようと、男性が起きないように、体を起こそうとした。でも、上手く起き上がれなかった。

私の左手が、男性の右手と繋がっていたから。
どうやら手を繋いで、私たちは寝ていたらしい。寝ているはずなのに、男性が強く握っているせいで離そうにも離せなく。


私はとりあえず自分の服を見た。
きちんとバスローブを着て、乱れはなかった。
でも、手を繋いでいる。
私はこの男性と何か関係があるのだろうか?
本当に覚えがないけど……。


昨日の事を思い出そうとしても……。


……あれ?
なんで覚えてないんだろう?
そもそも、私の名前は──……


なんだったっけ……?


困ったな、本当に思い出せない。


腹筋を使って、無理矢理体を捻るように起きて、周りを見た。
布団、というよりはベットで眠っているらしく、ソファがあったり、机があったり、テレビもある。


誰かの家……?
この男性の家だろうか?


分からないから、男性の顔を見るけど、見ても何も分からなく。


──この人は誰だろうか?


やっぱり、そんな疑問が頭に思い浮かぶ。


だから。


「──……あの、すみません」


眠っている男性に声をかけた。
1度声をかけただけだった。
眠りが浅かったのか、少し眉間にシワを寄せ、瞼が開かれ虚ろな目と、視線が重なる。
そして、1回瞬きをした男性は、すぐに目を見開いた。


私がいたことに驚いたのか分からないけど、勢いよく体を起こした男性は、「っ、……わ、わるい」とどうしてか謝ってきた。


その間も、手は繋がれたままで。


男性が起き上がり、私もやっとベット上で座る事ができて……。
さっきまで寝ていた男性とずっと目が合う。

切れ長の二重の目。
彼が起きても、やっぱり見覚えがない。
ベットの上で見つめ合ったまま、少し寝癖がついた男性が何かを喋ろうとする。
でも、今まで寝ていたせいか、あまり頭が回っていないようで。


「あの…、起こしてしまってごめんなさい…」


男性はずっと私の顔を見たまま。


「…いや、俺も、寝てごめん……。今日は絶対に寝ないって決めてたのに……」


寝てごめん?
寝ないと決めてた?
話がよく分からない。
そう思って、顔を少しだけ傾けた。


「初めて見る男が横にいて驚いたろ?」


少し目を細め、柔らかく笑った男性。
初めて見る男が横にいて驚いたとは?
いったい、どういう意味か。


「あなたは誰ですか?」

「俺は潮。さんずいに、朝って書いて潮」

「……潮?」


知らない名前。


「それから君の彼氏でもある」


私の?彼氏?
それはお付き合いをしているっていう事だろうか?全く、見覚えも、聞き覚えも無いのだけど。


「よく分からないのですが…」

「うん」

「えっと…」

「君は昔、小学生の頃、事故で記憶を失う病気になった」

「え?」

「寝ると忘れてしまう記憶障害なんだ」


記憶障害?
私が?
寝ると、忘れてしまうの?

そう言われると、確かに今起きた以前のことが全く思い出せなく。妙に納得している部分があった。


ああ、それで、何も分からないんだ……って。
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「そうなのですね、本当に、全く分からないので困っていたんです」


潮という人は、私の手を握ったまま。
私は記憶が無くなる病気らしい。彼氏らしい目の前にいる人も忘れているみたいで。


「何でも聞いて、何でも答えるから」


まるで私を安心させるようなその言い方に、落ち着いている心が、もっと穏やかにさせる。


「えっと…、ここはどこですか?」


私は部屋の中を見渡した。


「ここはホテル」

「ホテル?家ではなくて?」

「昨日、君が、君の記憶が無いことに戸惑ってちょっと不安定になったから。落ち着くように家じゃなくてここに泊まったんだよ」

「……不安定?」

「うん、たまにある。住んだ覚えのない家を自分の家とは思えないって」

「わたしがですか?」


昨日?本当に?


「そう、昨日は俺の事も彼氏とは思えないって言ってたかな」


笑いながら、話してくれる潮という人。


「そう、ですか、」


昨日の私は、いったい──


「けど、俺の好きな君だった」


彼の好きな私?


「……昨日は泣かせてごめんな」


笑っている顔から、本当に申し訳なさそうに謝ってくる彼に、私こそ申し訳なかった。
私は覚えていないから。
何をどう返事をすればいいか分からない。


「本当に悪かった」

「…、」

「昨日、君がすげぇ戸惑ってたから、絶対に寝ないって決めてたのに寝て……」


朝、起きてすぐに謝ってきた事を思い出す。
そんなの──……。
この人は何も悪くないのに。


「いえ、悪いのは私です。不安定になった私が悪いんです」

「君は何も悪くない」

「私」

「悪くない、お願いだから絶対悪いと思わないで欲しい」

「……でも」

「……俺が悪い。……君が起こしてくれて良かった……ありがとう」



起こしてくれて良かった?
もしかしたら昨日の私は、起きた時、彼が言う〝不安定の状態〟で何かをしてしまったのかもしれず。
覚えていないから分からないけど。


「あなたが、ずっと、私の手を握っていたので」


今も握ったままだけど。
やっぱり離そうとしなく。


「起きて、外を見ようと思ったのですが出来ませんでした」


そう言うと、潮という人は「…これは、癖で…。マジで癖があって良かった」と、ほっとしたように笑った。


手を繋ぐ事が、彼にとっての癖らしく。
だとすればそれぐらい、私たちは今までも手を繋いでいたということだろうか。


「……私、あなたのこと、何て呼んでましたか?」

「潮くんが多かったと思う。でも、なんでもいい。呼び捨てでも、あなたでも。呼びやすいように呼べばいい」


呼びやすいように?
呼びやすいなら、呼び捨てだけど。
潮くんが多かったのなら、潮くんでいいかと思い。


「私のことは?あ……私の名前って……」

「澤田凪。俺は呼び捨てで呼んでた」


澤田凪。
あまり、ピンと来なかった。


「昨日、君は自分の名前も嫌がってた。嫌がってたってより、知らない名前を自分の名前というのに抵抗があった」

「……抵抗……」

「だから、もし君がいいなら、また呼び捨てで呼んでもいいか?」

「え?」

「嫌なら、絶対に名前は言わない。約束する」


そういえば、この人は私の名前を呼んでいない。ずっとずっと私のことを〝君〟って呼んでる。
昨日の私のことを思って、名前を呼んでいないようで。


「凪でいいです……」

「嫌じゃないか?」

「いえ……、私の名前ですよね。呼んでください。その方が私も嬉しいです」


少し、ほんの少しだけ口角を上げて笑うと、また柔らかく笑った潮くんが「ありがとう」と癖らしい手を握った。


「凪? 他に質問はない?」


さっきはあんまりピンと来なかったのに、こうして呼ばれるとなんだかすんなりと耳に入ってきて。


記憶が無いのに、ああ、私は何度もこの人に名前を呼ばれてるんだな……って思った。
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他に質問と言われても。
たくさん聞きたいことがあるのに、いざ思えば何も思いつかなくて。
家がどこにあるのか聞こうにも、外の世界が分からない私にとって聞いても無意味。


「……怖い夢を見ていたんですか?」

「え?」

「あなたが泣いていたようなので。まだ少し痕があります」


潮くん、って言えなかった。
恥ずかしかったからなのか。

私の質問に、瞬きをした潮くんは「え?」と顔を傾けた。自分が泣いていたことに気づかなかったのだろうか?
ううん、寝ていたから気づかないのは当然で。
だとしたら無意識に泣いていたんだろう。


「夢は見なかったんだけど、もしかしたら凪と一晩一緒にいれて幸せだったのかもしれない」


私と一晩一緒にいれて?


「幸せだったんですか?」

「俺はね。こうして朝を迎えるのは滅多にないから」


優しく笑った潮くん。
その顔は本当に幸せそうで。


「悲しくてじゃないなら、良かったです」


私も微笑むと、手をギュッと握られ見つめう。この雰囲気を他の人に伝えるのなら、心が穏やかになれる暖かい空間かもしれない。


「好きだよ、凪」


突然の告白に戸惑ったりもなく、初めて会ったのに、私のこの人が好きだと思った。
彼の人間性というのだろうか。
きっと、今までの私も、潮くんが好きだったのだろうな……。そんな気がする。


「いつも、言ってくれるんですか?」

「好きって?」

「はい」

「うん、…そうだな。毎日言ってる」

「ごめんなさい、覚えていなくて……」

「謝ることじゃない」

「潮くん」

「ん?」

「聞きたいこと、というわけではないのですが」

「うん」

「トイレに行ってもいいですか?」


私の言葉に、「ああ、悪い…」と手を繋いだまま、私よりも先にベットからおりた。


「足、痛いだろうから」


足?なんの?
そう思って足を見れば、私の足の裏にガーゼが貼られてあった。なんだろう?でも、それほど痛くはなく。

潮くんに手を引かれながらベットからおりたとき、確かに痛みがあったけど。


足の裏に、怪我があるらしく。


「…この怪我は?」

「昨日、靴をはかずに外に飛び出しちゃったから」

「不安定でですか?」

「うん」


どうも、昨日の私は凄かったらしい。
家は嫌だって言って、潮くんも彼氏だと信じたくなく、自分の名前さえ嫌だなんて。

それに、靴もはかずに、外へ飛び出しちゃうなんて。

泣いたのだろうか。
暴れたのだろうか。
分からないけど、自分でも信じられないけどたくさん迷惑をかけたらしい。


トイレの場所が分からず、連れていってくれた潮くんに「迷惑をかけてごめんなさい」と謝った。


「え?」

「昨日……、ごめんなさい……」


潮くんは絶対に私のせいなのに、「怪我をしてるのは俺のせいだから、迷惑だと思わないでくれ」と、笑っていた。


ホテルが洗濯してくれたらしい。
バスローブから半袖と短パンに着替えた。
この服装は昨日私が着ていた服らしくて、とてもラフな服装だなぁと思った。


外の世界は、分からないものが多かった。
見覚えのない道やお店。
まるでタイムスリップしたような感覚だった。
それでも、タイムスリップする前のことは覚えてないのだけど。

歩いている最中もずっと私の足の裏を気になるようだった。何度も「大丈夫です」と言う。それでも潮くんは「凪は我慢する性格だから」と、私の足の心配をしていた。


潮くんに手を繋がれ、どこかのお店に入った。
そのお店はカウンターのようなところで注文してから店の中にある机で食べるようだった。

カウンターの前では人が並んでいた。
カウンターのそばの時計は、7時20分を指していた。


「今から朝食ですか?」

「うん」

「あの、私、お金を持っていません…」

「ああ、大丈夫。俺が出すから」

「でも、ホテルのお金も出してもらったのに…」

「凪は彼女なんだから、そんなことを気にする必要ないよ」


手を繋いでいない方の手で、優しく頭を撫でられる。背の高いらしい潮くんの目が柔らかく。


「ありがとうございます…」


お礼を言えば、潮くんはまた笑った。
本当に、今日初めて会うのに、私はこの人が好きだなぁって思ってしまう。


潮くんが買ってくれたのは、ハンバーガーとアイスカフェラテだった。あとはポテトも付いていた。


窓際に座り、潮くんを見た。
一見、切れ長で二重の目は怖そうに見えるけど、彼は優しい。こんなにも優しい潮くんが彼氏だなんて私はとても幸せだと思った。

だって私は、記憶の病気なのに。
この人は嫌にはならないのだろうか?
自分の彼女が記憶を失ってしまうなんて。


記憶…。
ハンバーガーを見て、違和感をもった私は、疑問を聞いてみた。


「あの、潮くん…」

「ん?」

「これはハンバーガーですよね?」

「うん」

「でも私、ここのお店が分からなくて」

「うん」

「記憶がないのに、どうして覚えていることと、覚えてないことがあるのかなって」


潮くんは、コーヒーを1口飲んだ。


「それは難しいところなんだよ」

「難しい?」

「凪は日常生活に支障はないんだよ。だからハンバーガーが食べ物だっていうことは知ってるし、お金で買うものだっていうのも分かる。これは日常動作っていうか基本動作って言うんだけど…」

「……」

「信号も青なら渡る、赤なら渡らないっていうのも分かる。だけど凪はその信号がどこにあるか分からないんだよ」

「…よくわからないです…」

「迷子とかにはなるけど、迷子になればどうすればいいかは知ってる。警察や人に聞くとか。けど、家の住所とか覚えてない。だからどうすればいいか分からなくなる」

「……」

「どの辺りが分からなかった?」

「分からないというか…」

「うん」

「なんで、覚えてるのと覚えてないのがあるんだろうって」

「さっき、凪が事故にあったって言っただろ?」

「はい…」

「そこからちょっと話そうか」



そう言って、潮くんは優しく笑った。
冷めないうちに、ハンバーガーとポテトを食べた。


「凪は小さい頃、10歳の時に事故にあった。頭をうって、側頭葉への衝撃で記憶喪失になったんだよ」


カフェオレを飲んでいる時、潮くんが語りだし。


「頭をうったのですか?」

「そう。凪の場合は、前向性健忘症って言って。強い衝撃とかストレスで、なってしまう記憶喪失なんだよ」

「…じゃあ、すごく強くうったのですね」

「俺はその時を見たわけじゃないから分からないけど、それぐらいの衝撃だったと思うよ」


その強い衝撃も、私には分からない。記憶になく。


「凪の場合は特殊で、…事故があったその日から、寝ると前日のことを忘れてしまうようになった。事故にあう前の10年間の記憶も無くなったけど」

「今日みたいなことですよね?起きたら全く覚えていなくて…」

「うん」

「治らないのですか?」

「分からない。衝撃を受けて記憶喪失になったけど脳自体は異常はないから。もしかすると記憶が戻るかもしれない…でも」


でも?


「医者からストレスは与えるなって言われてる」

「ストレスですか?」

「脳はデリケートだからな」


デリケート…。
確かに、昨日の私は不安定だったらしいし。


「でも、脳っていうのはすごいから、自然に覚えてしまうものだってある。それが日常動作」


自然に覚えてしまうもの。


「だから危険なものだっていうのは凪自身でも分かる」

「危険なもの…」

「それ以外は覚えることができない。覚える覚えてないって考えるよりも、それが凪の記憶喪失の種類っていう考えの方がいいかもしれない」

「種類…」

「うん、だからそれほど深く考えなくていい。こういうものなんだ、って思ってくれればいい」


こういうもの…。


「潮くんは、」

「うん」

「この説明、何回目ですか?」

「え?」

「なんだか、慣れているような気がして。その、前日のことを忘れるってなると、同じ質問を過去にもしてるのではないかって」


潮くんは「100回は超えてるかな」と笑った。私はどうして笑えるか分からなかった。


「嫌ではないのですか?」

「なんで?」

「同じ質問を何回も…」

「ならないよ、俺は凪とこうして喋れるだけで嬉しいから」


喋れるだけで…。
私と?


「私と潮くんは、付き合って長いんですか?」

「付き合って1年と3ヶ月ぐらい。でも、凪のことは小学生から知ってる」


小学生?
それはいったい何年前なのだろう?
そもそも私は…。


きっと、潮くんはこの質問にも慣れてるんだろう。私が質問する前に、「今、俺らは17歳だから、付き合ったのは高一の春で、出会ったのは11歳の時だからもう6年になる」と詳しく教えてくれた。


私は17歳らしい。


「そうなんですね…、覚えていなくてごめんなさい…」

「凪?」

「……」

「俺は本当に凪を大事に思ってる」

「え?」

「だから謝らなくていい、これは当然のことだから」

「…当然?」

「彼女を大切にするのは当然って意味」


彼女…。


「俺の方こそ、記憶がなくて戸惑うはずなのに、毎日、今日も俺の傍にいてくれてありがとうって思ってる」

「…うしおくん…」

「好きだよ」


微笑んでくれる潮くんのことをもっと知りたいと思った。これからもずっとずっと、知っていきたいと。


今までの私も、きっと潮くんの事が好きだったんだろうなあ。


それでも私は記憶を無くしてしまうから…。


「寝ると、忘れてしまうのですよね」

「…うん」

「じゃあ、今日はいっぱい知りたいです」

「え?」

「潮くんのこと、いっぱい教えてください」

潮くんいわく、私の場合、記憶の事に関して〝理解できる日〟と〝理解できない日〟があるらしい。

素直に記憶喪失の事を受け入れることができる日もあれば、素直に受け入れられない日もあると。

聞けば、昨日は〝少しだけ理解が難しかった〟って言っていて、今日は〝ものすごく理解できる日〟らしい。

〝ものすごく理解できる日〟と言われても、私にとってこうして受け入れるのが当たり前だから、あんまりよく分からなかった。


「全く理解できない日の私は、どんな私なんですか?」


その質問に、潮くんは「俺の好きな凪だったよ」と笑っていた。


潮くんは「知りたい」と言った私に、「学校行ってみる?」と提案してくれた。
私は記憶喪失なのに学校に行っているらしい。

ああ、そういえばさっき、潮くんが「高一の時に付き合った」って言っていた。
じゃあ今は、17歳だから、高校2年生ってことになるはず。

本当に、学校に通っていたことは覚えていないのに、高校っていう単語を知っていることに不思議に思う。



「ここが凪の家」


いったん、学校に行くには制服に着替えなければならないから。
潮くんが連れてきてくれたのは、とある茶色いマンションだった。私はここのマンションの一室に住んでいるらしく。
見覚えのないマンションを見て、本当に住んでるの?と思ったけど、潮くんが言うことだから本当なんだろう。


「中に、凪のお母さんがいると思うよ」


お母さん?
そう言われて少し驚いた。
そうか、私にも、家族がいるんだ。


「お母さんだけですか?」

「うん、凪はお母さんと2人で住んでる」


ということは、お父さんや、キョウダイはいないらしい。特にその事に関しては気にならなかったけど、マンションのとある一室に潮くんが案内してくれた時、少しだけ緊張した。


だって、会ったことがないお母さんという人が中にいるから。来たことも無いここが、私の家らしいから。


潮くんがインターホンを押す。
その仕草がとても慣れていた。

少し緊張しているのか、握られている手が汗ばむのが分かった。

なんて言えばいいんだろう?

初めまして?
こんにちは?

でも、昨日確か、私は家が嫌だと裸足のまま飛び出してしまったと潮くんが言ってた。
ということはもしかしたら、すごく怒ってるんじゃないか…。


「凪?」


顔を下に向けていると、名前を呼ばれ、潮くんの方を見る。
潮くんは「ただいまでいいからな」と、私の考えを分かっているようだった。

潮くんは私の事をお見通しのようで。
不安が、和らぐ。


玄関の扉が開き、出てきたのは、40歳ぐらいの、茶髪でショートカットの女性だった。
「おかえりなさい」と、笑う女性を見て、ああこの人がお母さんなんだって無意識に思った。

優しそうなお母さんだった。


「た、ただいま…」


潮くんの手を握りながら言うと、お母さんは穏やかに笑っていた。


潮くんと一緒に部屋の中に入った。
廊下には、色々な張り紙がされていた。
とある扉には〝トイレ〟と書かれていた。
そして〝なぎのへや〟と書かれた張り紙もあった。

ここが私の部屋らしい。
中に入っても、女の子らしい部屋だなって思うぐらいで。
本当に私は、記憶が無いんだなぁ…。


「凪、俺もいったん帰って、制服に着替えてくるから、凪も着替えてて」

「帰るんですか?」

「うん、自転車の鍵も取りに行ってくる」

「自転車の鍵?」

「足、痛むだろうから」

「大丈夫ですよ、ほんとに」

「俺が大丈夫じゃない。何かあれば、凪のお母さんに聞きな。凪のお母さんも、凪の事、大事に思ってるから」

「…分かりました…」

「家近いから、10分ぐらいで戻ってくる」

「近いんですか?」

「近いよ。ここのマンションは2棟で、俺は3棟に住んでるから」

〝6時20分 起床
6時50分までファイルを見る

7時30分までにすること
①制服に着替える
制服はクローゼット
ブラウス下着類もクローゼットの棚の中
②ご飯を食べる
③身支度をする
時間割の確認もする
④7時30分 学校へ行く
ウシオくんと一緒に行く〟


私の部屋の中に入れば、机の上に紙が置かれてあった。記憶のない私は、きっとこれを見て朝の時間を過ごすのだろうと思った。
今日はホテルで泊まったから、この通りにはいかなかったけど。


この〝ファイル〟ってなんだろうか?
机の上にも、部屋の中にも〝ファイル〟は無かった。


「凪、制服はクローゼットの中にあるからね」


部屋の中に来たお母さんにそう言われ、私はクローゼットを開けてみた。
確かに制服はあった。
青いチェックのスカートがハンガーにかけられていた。ブラウスはクローゼットの棚の中に入っていた。

1人になった部屋でその制服に着替えてみた。疑っていたわけじゃないけど、制服のサイズはぴったりで、本当に私の制服なんだなぁって思った。


そうしているうちに、潮くんが戻ってきた。潮くんも似たような青いチェックのズボンと、長袖のカッターシャツを着て袖をおっていた。


なんだか、私服の時と雰囲気が違った。
そんな潮くんは、玄関先で、私が家に戻ってきた時に履いていた黒いサンダルを見て、「…誰のか聞くの忘れてた」と、眉を寄せていた。





自転車の2人乗りで、学校へと向かう。前に座りペダルを漕いでくれる潮くんは、「知らない人ばっかで戸惑うと思うけど、怖がらなくていいからな」と、私を安心させてくれた。


「あと、授業の内容も分からないと思うけど、ちゃんと教えるから心配しなくていい」

「内容?」

「凪は基本的なもの以外記憶できないから」

「本当に不思議ですね、学校は授業をうけるものって分かっているのに、授業の内容を覚えていないなんて…」

「そういうもんだよ、俺だって、勉強してねぇから全く分かんねぇしな」


面白そうに笑っている潮くんは、「ちなみに小学校の時から席は隣同士」と、自慢げに言っていた。

自転車で20分ほどで、その学校についた。ついたけどあまり生徒がいなく。敷地内の駐輪場に自転車を停めた潮くんに「誰もいないですね」って言ってみた。


「今は授業中だからな」


もう授業が始まっているらしい。
潮くんに手をひかれ、校舎内に入り、上靴に履き替えた。その上靴には〝さわだ〟と書かれていた。


「一応遅刻になるから、生徒指導室に寄らねぇと。足、大丈夫か?」

「足は大丈夫です。遅刻したら、その場所に行かないといけないのですか?」

「そう。遅刻届けを貰わないといけねぇから」


よく分からないけど、そういう学校のシステムらしく。生徒指導室という部屋に入り、潮くんは慣れたように、先生らしい人が渡してきた紙に〝桜木潮〟と書いた。
そして〝澤田凪〟と続けて書いた。

遅刻理由のところには〝私用〟と書いていた。



生徒指導室の中でも潮くんは私の手を離さなかった。遅刻届けと書かれた紙を持ち、生徒指導室から出てもその手は離れず。

朝、手を繋ぐ事を〝くせ〟って言っていたことを思い出していた。きっといつも潮くんはこんなふうに手を繋いでくれているんだろう。


とある教室の前で、「ちょっと待ってな、先生に渡してくる」と、手をそっと離された。
教室の中に入っていく潮くんの後ろ姿を見たあと、私は自分の掌を見た。

初めて会った彼なのに、手を離される事がとても寂しく感じた。
すぐに私の所へ戻ってきた潮くんは、「後ろから入ろう」と、また私の手を握ると、教室の後ろの方の扉へと向かった。


中には、授業を受けている人がいた。
潮くんがいるからか、あまり緊張したりはしなくて。扉のそば…。廊下側の、後ろの2席が空いていて。そこの1列目の方に私の手をひくと、「ここが凪の席」と潮くんは小さな声で言った。


1番端っこらしい。


その横に座った潮くんは、私が席に座ったことを確認すると「今は現国、机の中にあると思うから探して」と私に言ってきた。


現国…?

私には〝現国〟が分からなかった。
分からなくて顔を傾けると、「この教科書」と、潮くんが紫色メインの教科書を見せてくれた。


言われた通りに探している最中、潮くんは、私ではない隣の席に座る男子生徒に「何ページ?」と聞いていた。


私の席にあった、みんなが使っているのと同じ〝現国〟の教科書を開く。潮くんが「25ページな」と小さく呟き。


25ページ…と、パラパラと教科書を開いてみる。中身を見る限り、物語が多く書かれているこれは〝国語〟じゃないのかな?って思ったけど。〝国語〟じゃないらしい。


もしかしたら私が知らないだけで違う言い方があるのかもしれない。

先生らしい年配の男性が、25ページに書かれている物語を音読する。

その教科書は、難しい漢字…というよりも、読めない漢字が多くあった。
正直、読むことが出来なかった。
記憶がない私は、簡単な漢字しか覚えていないようで。


──それでも、今、授業でやっている物語を目で追うことが出来たのは、その漢字にはふりがなが全て書かれていたから。──手書きで。


ぱらぱらとページをめくる。
どこをめくっても、漢字にはふりがなが書かれている。


それは最後まで、ふりがなが、漢字の横に書かれていた。


チャイムがなり、授業が終わり、潮くんは私の方に体を向けた。


「大丈夫だった?」

「はい、ふりがながあって。読めました。これは誰が書いたんですか?」

「ああ、俺。読めた?俺字汚いから」

「あの、…潮くんが全部ですか?」

「うん、ちゃんと調べたから、合ってると思う」

「私が読めないから、ふりがなを…?」

「ああ」


だって…これ、本当に全部の漢字にふりがながあるんだよ?いったい、どれだけの時間がかかるか。

まさか、と思った。
次の授業で使う、理科じゃなくて〝生物〟の教科書を開いてみた。
そこにも説明文に全て、ふりがながあって…。
さっき見た潮くんの字だった。


きっと、どの教科書にも、ふりがなはあるんだろう。そんな気がする。


「潮、久しぶりじゃん!」


隣で、潮くんが知らない男子生徒に話しかけられていた。たぶん、友達らしい。潮くんは笑って返答していた。


そんな潮くんを見て、私は泣きそうになった。私は本当に愛されて、大事にされているんだなぁって…。


私は本当に、この気持ちも、忘れてしまうの?


〝生物〟の授業の内容があまりよく分からなかった。特定の専門用語を使い、今は血液型の話をしているらしいけど、〝優性〟とか〝劣性〟聞いたことの無い言葉で説明する。

私は困った顔をしていなかった。それなのにガタ…っていう音が隣から聞こえたと思ったら、潮くんが机ごと私に近づいてきて。

ピッタリと机が寄せられる。


「どこが分からない?」


周りに迷惑がかからないよう小声で呟く潮くん…。


「…あの、」

「うん」

「あんまり、わかっていないです…」

「血液型は分かる?」

「はい…」

「血液型には4種類あるのは?」

「…それは、なんとなく分かります」

「なんとなく?」

「血液型の話をしてるなぁって。でも、それだけで、先生が何を言っているのか分からないです…」

「分かった、じゃあそこからな」



潮くんは優しく説明してくれた。
〝優性〟を〝優先的に〟と言ったり、私に分かりやすく教えてくれて。
潮くんいわく、今、先生の授業は、親の血液型から生まれてくる子供の血液型の種類の話をしているらしい。


説明してくれる潮くんを見つめた。
潮くんが私に説明している教室内も、先生も、慣れている様子だった。


私は…この光景も、忘れてしまうのだろうか?
潮くんは教えても無駄だって思わないのだろうか?
だって、この血液型の話も、明日には忘れて…。



「…わからなくてごめんなさい……」


内容を理解したあと、優しい彼に呟けば、潮くんは私の顔を見て、ゆっくり頭を撫でながら微笑んだ。


「あの先生、いつも説明へたなんだよ。みんな分かってないから大丈夫」


こっそりと耳打ちして、私をサポートしてくれる潮くん。チャイムが鳴り授業が終わって、教科書の中に教科書を入れた。


「凪、食堂いこ。腹減ったわ」


今からお昼ご飯の時間らしい。潮くんに手を差し出され、自然とその手に自身の手のひらを置いた。
大切そうに柔らかく握られ、私はこの人が本当に大好きだって思った…。


本当に…忘れちゃうの?


食堂らしいところで、おにぎりとパンを買った。潮くんがこの中で選ぶとか教えてくれて。食堂で働いていた年配の女性に「今日も仲良しねぇ」と言われた。


「食堂、人多いから外で食べよ」


潮くんに頷き、連れてきて貰った場所は、中庭らしい場所にある外の階段だった。
ちょうど日陰になっていて、あまり暑くはなく。


「午後の授業もいけそう?」

「はい」

「なら良かった」

「…ほんとうにごめんなさい、私…」

「なんで謝る?当然の事って言っただろ?」

「迷惑を…、だって、それに、」

「迷惑とか考えなくていい、絶対思わないでほしい。俺がしたくてしてるんだから」

「でも…」

「凪」

「…疲れませんか?」

「疲れるとか考えたことないよ」

「いつも私、潮くんに迷惑を…助けてもらっているんですね」

「凪?」

「いつも……助けてもらっているのに、私…されを忘れているんですね…」

「違う、そういう考えはしなくていい。俺がしたいんだよ、俺が凪を好きだからしてる事なんだ」

「でも、…明日になれば、今日のことを忘れちゃう…。なのに教えてくれる…。無駄なことかもしれないのに…」

「俺がしたくてしてる、俺が凪と関わりたいから。こうして喋ることも、無駄じゃないし俺にとっては嬉しい」

「……潮くん」

「だからそんな泣きそうな顔しなくていい」



潮くんの手が、私の頬にふれた。

そのまま後頭部にまわされ、軽い力で引き寄せられる。私が簡単に拒絶することができそうなその力強さ。

ゆっくりゆっくり近づいていき、最後には私から潮くんに近づいていた。
潮くんの腕が背中にまわり、まるで子供をあやす様に抱きしめてくる。


初めて会ったのに。


「…好きだよ…」


私も……。そう思うのは、おかしいのかな。だって私はもう、この人を忘れてしまうのに。…悲しい…。


じわりと涙が出てきた。
どうにかして、この感情を、残しておきたい。


「…わたしもすきです」


そう言って、潮くんの体に腕を回した。
潮くんの顔は見えないけど、ぴく、と、体が動き。
さっきよりも強く抱きしめられた。
抱きしめられて嬉しいと思う。
嬉しいのに、悲しい気持ちが交差する。
これ以上好きになれば、別れるとき、悲しむ心が増えてしまう。


「潮くんのこと、忘れたくないです…」

「うん…」

「おかしいですか、…今日…初めて会ったのに…好きと思うなんて…」

「おかしくない…すげぇ嬉しい」


そう言った潮くんは、噛み締めるように呟いた。本当に幸せだと思っている声だった。


「……潮くん、」

「…俺のこと好き?」

「はい…」

「もう1回言ってほしい」

「好きです…」

「もう1回」

「潮くんが大好きです」




また強く、抱きしめられる。
それが嬉しくて、悲しいのに、何度も私は潮くんくんに「好き」と言った。


潮くんは、ゆっくり体を離すと、優しい目で私を見つめ、背中にあった手で頬を包んだ。そのまま顔を傾け、少しずつ目を閉じながら近づいてくる。



私と潮くんは、彼氏と彼女。

何をされるか分かった私も、自然と目を閉じていた。



唇がふれあい、また見つめあい、また愛おしそうに私を抱きしめる彼に幸せを感じた。

そのまましばらくの間、潮くんは私を離すことは無かった。


「私…、何回潮くんとキスしたことあるんですか?」

「…今で2回目」


2回?
そのことに驚き、私は少し顔を上にあげた。


「…2回?」

「うん、初めては付き合った時にした」

「一年以上、あいてたってことですか?」

「そうなるかな」


照れたように笑った潮くん。


「その日も、凪が俺に好きって言ってくれた」


好き…。


「1年3ヶ月ぶりに聞いた」


本当に?
私、そんなに…。
こんなにも好きって思っているのに…。


「もっと、過去の私は言ってると思ってました…」

「うん」

「自分が信じられないです…」

「たぶん、思ってはくれてると思う、口には出さないだけで…」


思っては?
口に……。


「じゃあ、今日はいっぱい言います。今までの分、いっぱい」

「え?」

「私はずっと、これからも潮くんが大好きです」

「……」

「ずっとずっと大好きです」

眠る、というよりも、気絶してしまう感覚だった。──「ジュース買ってくるから、ここで待ってな」と、愛おしそうに頭を撫でられ頬にキスをされ、私は潮くんの言われた通りにここで待っていた。


きっと、悲しいけれど幸せで穏やかな気持ちが、その行為を引き寄せたのかもしれない。


これ以上記憶が無理だと、脳に重さが加わり、気絶するような、頭が真っ白になって、落ちる感覚…。ふ…と、前かがみに倒れた。


──ドサ、と音がした。それが階段から落ちた音だとは自分の音だとは気づかなかった。


3段ほど、落ちたと思う。
痛みよりも先に、脳が落ちた。
だから「──…凪!」と、気絶し、誰かに起こされた時、その痛みがどうして起こっているのか全く分からなかった。


「どうした!? 何があった!? 転んだのか!?」


私は誰かの腕の中にいるらしい。
おしりは地面についているから、上半身だけ起こされているのだと思う。

その人、若い男性と目が合い、体を動かそうとすれば──ズキ、っと頭の横辺りが傷んだ。思わず顔を顰めると、「どこ打った?!階段から落ちたのか?!」と焦った声を出す男性をもう一度見た。


「……あ…の」

「どこが痛い!?」

「……だれ…ですか……」



私がそう言った時、その男性の顔が目を見開き、強ばった。かと思ったら眉を寄せ悲しそうな顔をして──…
それでも、その顔は一瞬だけで。瞬きをすると、その顔は無くなってた。



「俺は桜木潮……。…ごめんな、びっくりしたよな。君は階段から落ちたんだと思う。どこか痛いところある?」








──『理科室、こっち』


誰かが手を差し出してる、そんな夢を見た気がした。
白いシーツ、緑色のカーテン。
やけに柔らかい色だと思った。

私は白いシーツのベットの上に座り、そのベットの傍では白衣を着た女の人が座っていた。

その白衣を着ている女の人は私を見て、何か観察をしているようで。


「どこか痛むところはあるかな?」


そう聞かれても痛むところは無かった。ただ頭がぼんやりとする。静かに顔を横にふれば、少し左側の頭が傷んだ。
それでも特に気にならず、顔に出ることはなくて。


「うん、じゃあ自分の名前は言える?」


名前…。
…名前、
…名前…?

頭がぼんやりとするせいか、自分の名前が思い浮かばない。


「いいえ…」

「歳は?」

「…分からないです…」

「ここがどこだか分かる?」


その質問に、部屋の中を見渡した。緑色のカーテン、白いシーツのベット。そしてベットの横には、変わった机の上にテレビが置かれてあった。



「どこかの部屋です…」

「いつここに来たか、どうやって来たかは?」

「…分かりません…」

「うん、じゃあ、今から言うことを覚えてね」

「……?」

「車、花、人。1回、言ってみて」


この人は、何を言ってるんだろう。


「くるま…、はな、ひと」

「じゃあ、ここに丸を書いて。このボールペンを青色を使ってね」


差し出された紙と、三色ボールペン。
言われた通りに三色ボールペンの青色をペン先を出して、紙に丸を書いた。


「ありがとう。じゃあ今日は何月何日かな?」

「……」

「分からない?」

「…はい」

「さっきの言葉3つ、言ってみて」

「車の、ですか?」

「そう」

「車と、花と人です」

「ありがとう。これで質問は終わります。──…何か私に聞きたいことはあるかな?」


そう言われても。
何を聞けばいいか分からない。
ここがどこか質問してきたのに、この人は答えを教えてくれないのだろうか?




「…とくにありません……」

どうも、ここは病院らしかった。

ここがどうして病院っていうのが分かったのか、それはカーテンの隙間から『──総合病院』というのが見えたから。


でも、私が病院にいる理由が分からなかった。
どこか怪我でもしたのだろうか?
自分自身、どうして病院にいるのか分からなかった。


部屋の中に1人いた私はトイレへ行きたくなり、
ベットから足をついた。その部屋には小さな洗面台があった。


鏡もあって、その鏡には黒い髪の女の子がいた。この子は誰だろうか?そう思って首を傾げれば同じように動き、ああこの子は私なんだって思うことに時間はかからなかった。


「────本当にすみませんでした…」


ドアに近かったからか、ドアの外で声がした。
聞いたことも無い、若い男の声だった。


「潮くんのせいじゃはないわ」


大人の、女の人のような声も聞こえる。


「でも、俺が目を離したから…。俺の責任です、本当にすみませんでした」


どうやら、若い男の人が、大人の女の人に、謝っているようで。


「昨日、CTをとって問題なかったし。さっきも先生がいつもと変わらないって言ってたもの」

「…今まで、頭をうって無くなることはありません…。寝ていなかったのに…。あん時目を離して…なんで倒れてたのかも分からなくて…」

「潮くんには、本当に感謝してるの。だから、お願いだから頭をあげて」

「すみませんでした…」

「潮くんのせいじゃない、違う。私こそ潮くんに任せ切りだから…」

「すみません…」

「…潮くん…」

「もう、傷つけないって決めたのに……」

「大事にしてくれてる…。いつもそばにいてくれてありがとうね…」

「……」

「潮くん……」

「昨日…、先生が言ってたんです、その日の出来事を、忘れたくて自ら忘れようとしたんじゃないかって」


男の人の声が、凄く悲しそうで。


「昨日、凪が俺に好きって言ってくれたんです。1年3ヶ月ぶりに…」

「……うん」

「凪はそれを、…忘れたかった、って事…、なんですかね……」



途切れ途切れの声。
少し枯れた声。


見えているわけじゃないのに、扉の向こうにいる男の人の声が、泣いているような気がした。



────病院から出て、病院の前のロータリーのベンチに腰かけていた。
空を見上げれば、青い色が広がっていた。
きっと近くにいるのだろう、ミーンミーンと蝉のうるさい音もする。
夏の時期らしい、少しというか結構暑く。
少しでも動けば汗が流れそうだった。


「何見てる?」


一緒に横に座り、そう聞いてきたのは、桜木さんという男性だった。今から2時間ほど前に、この人が病室の中にやってきた。
『俺は桜木潮。初めまして』と、静かに笑いながらその言葉と共に。
その男性、桜木さんが言うには、私は記憶喪失というものらしかった。
なんだか難しい言葉で説明していたし。寝ると記憶が無くなるっていうよく分からないことを言っていたからほとんど聞いていなかった。

よく分からないまま、病院から出ることになったらしい。私の母親だと名乗る人も現れたけど、見たことの無い女性に、「…どうも、」という言葉しか見つからなくて。


だけど、母親は母親らしい。


その女性は「車で家に帰りましよう」って言ってきたけど。
正直、外の世界が気になる私は、車に乗るのが嫌だった。外の世界を歩いてみたい。
そう思ったから。


「歩いて帰るので地図をいただけますか?」


と言ってみた。


女性は顔を顰めていたけど。


「俺が必ず、送り届けます」


と、桜木さんが言ってくれたおかげで、私は外の世界で歩くことが出来た。先に家へ帰って待っていると言っていた女性。

桜木さんが病室の中から今までずっと手を繋いでくる。
もしかすると、何も分からないわたしの地図や杖係になってくれているのかもしれない。


「ひこうき雲があるなぁって、見ていました」


空を見上げながら言うと、「ああ、ほんとだな」と桜木さんも空を見上げた。
黒い髪と、切れ長の二重の目が特徴的な桜木さん。


「あれがずっと残ってるなら、雨だな」

「え?」

「ひこうき雲。すぐ消えれば晴れが続いて、残ってるならもうすぐ雨ってことが多いんだよ」

「そうなのですか?」

「うん、でもこれだけ晴れてるから、家につくまでは晴れてると思う。降ってきても、絶対に凪の事は濡らさないから安心して」


私の方に顔を向け微笑まれる。
私の名前は凪というらしい。
そういえば、さっき母親の名乗る女性に「あなたの名前は澤田凪よ」って言われたっけ…。


「あの…」

「うん」

「あなたは誰ですか?さっきの人が母親なら、あなたはお兄さんとかですか?」


桜木さんは、小さく笑う。


「俺は凪の彼氏だよ」


彼氏?付き合っているということだろうか。
実感がない。
本当に?この人嘘をついてるとか?
でも、嘘をついてる表情はしてない。


ああ、だから、付き合っているから手を繋いでいるのか。


「そうなんですか、覚えてないです。すみません…」

「大丈夫、謝ることはない」

「もうひとつ、いいですか」

「うん」

「どうしてここに座っているか、教えてほしいです」

「バスを待ってる、歩いて帰ると言っても結構距離あるから。ある程度バスに乗ってから、30分くらい歩いて電車に乗って帰ろうと思ってる」


詳しく教えてくれた桜木さんに、そうなんですか、と呟いた。
もうすぐバスが来るらしい。
それに乗るらしい。
バスが来るまでの約5分間、ひこうき雲が消えることは無かった。

バスの中はお年寄りが多く、それほど混んでいるというわけじゃなかった。窓際に私が座り、桜木さんその隣に座った。
桜木さんは窓の外を見ていた私に「外、気になる?」と聞いてきた。

気になっていたのは事実だった。
けど、気になると言っても、あの店なんだろう?っていう疑問で、すごく気になるわけじゃない。
見慣れない景色というよりも、あれはなんだろう?っていう疑問。
読めない漢字や、ローマ字が多い。



「いえ…」

「しんどくない?」

「それは暑くないか、っていう意味ですか?」

「それもあるし。滅多にバスには乗らないから酔わないかとか。昨日凪は頭をうってるから、頭は痛くないかっていう色んな意味」

「大丈夫です」

「うん、でも、もし何かあったらすぐに言って。たった今退院したばっかだから」

「分かりました、でも、大丈夫だと思います。それほど心配しなくても大丈夫ですよ」


にこりと微笑めば、桜木さんはちょっと不安そうな顔をしたけど、すぐに柔らかい表情を作った。


バスは3つ目で降りた。
暑い中、桜木さんは私と手を繋ぎながら歩く。
バスの中とは違い、外は蒸し蒸しし蝉の声が響く。


「ちょっと歩いて、休憩がてら飯にしよう」


まだバスをおりたばかりなのに、なにかと心配性な桜木さんは、そんなことを言った。
私と付き合っているからだろうか?
それとも元々優しい人なんだろうか?
分からない。
それでも私は、今日知り合った男性で名前は桜木潮ということしか知らないし、それ以上思うことが無くて。


手を繋がれているけど、正直、暑い。
温かい手の桜木さん。
それでも心地良さはある。
だから「暑い」とは言えなくて。


「…桜木さん」

「ん?」

「私、自分のこと、よく分からないんですけど」

「うん」

「私と桜木さんは、仲が良かったのですか?」

「仲?」

「はい、手を繋ぐほどの仲なんですよね?」

「ケンカとかはしたことないかな」

「じゃあ仲が良かったんですか?」

「そう言われると難しい」

「難しいんですか?」

「さっき言ったように凪は寝ると忘れてしまう記憶喪失だから、凪からしてみれば毎日が俺と初対面なんだよ」



寝ると忘れてしまう。
そういえば、そんなことを説明されたような?
でも難しい話だなぁと思って、私はあんまり聞いていなかったから。

ああ、記憶喪失なんだなぁと思っただけで。

言われるのが私からしてみれば、毎日が初対面…。
確かにそう。私はこの人とは初対面だ。


「だから凪が俺を疑う時もあったし、完全に拒絶する時もあった。こうして喋らなかった時もある。けど拒絶と喧嘩の意味は違うだろ?」

「どんな拒絶を?」

「うん、知らない人を彼氏だなんで呼べないとか。この人は嘘をついてるとか、さわらないでとか」

「私、そんなことを言ってたんですか?」


確かに、嘘をついているかもしれないとは思ってはいたけど、口に出したりはしなかった。


「いや、でも、それは仕方ない事だと思う。俺も理解してる。だから凪がそう言っても俺はムカつかないし、怒ったりしない。どんな凪でも受け入れる。だから言い争ったりした事はないよ」

「…優しいんですね、桜木さん…」

「優しい?」

「だって、そういうの、イヤになりませんか」

「ならない、どんな凪も好きだから。優しいっていうより、当たり前って思って欲しい」


どんな私でも?


「それに、拒絶するのは、今までの中の2割ぐらいで…。ほとんどはこうして関わることが多いと思う」

「わたし、まだ、分からなくて。桜木さんの事はいい人だなって思うんですけど、好きとか、やっぱり、彼氏って、思えないというか…」

「うん、分かってる」

「すみません…」

「謝らなくていい。俺だって初対面の相手に彼女だって言われても、なんだこの女としか思えないと思う」

「……」

「だから、こうして喋ることが幸せだと思ってる」



桜木さんは笑みを浮かべた。
本当に幸せそうに。
けれどもどこか、少し寂しそうで。


「手を繋ぐのは、小学生の時からしてるから、俺のくせみたいなもんって思ってくれたらいい」



小学生?


「私たち、小学生からの知り合いなんですか?というか、私って今何歳…」

「今は17歳。11歳の時、凪と会った。凪が引っ越してきて、会ったのが初め」


私は今、17歳らしい。
ということは、いち、に…さん、約6年間、私はこの人と関わっているということになる。


「その頃から仲が良かったんですか?」

「いや、こうして手を繋ぐようになったのは、もうちょいあと」

「あと?」

「うん──…、それまでは、」


それまでは?
少し、言い辛そうにした桜木さんは、私の方を優しく見つめた。


「俺が一方的に、凪のことを嫌ってた」

「え?」

「いい訳になるけど、そんときはまだ子供で、凪のことを理解できてなかった」


理解……。


「ずるい男でごめんな」


そう言われても、あまり理解ができなく。
なにも覚えていない私は、「大丈夫ですよ」としか言えなかった。


「今は凄く大切にしてくれてるんだなぁって、伝わってきますから」

大丈夫、と思ってはいたけど、私はあまり体力というものがないらしかった。
それとも夏の暑さやられたのか。
昨日、頭をうったといっていたし、そのせいなのか。


もしかすると桜木さんはその事を分かっていて、昼食という休憩をとったのかもしれない。


ハンバーグ専門店に来て、私がトッピングをチーズにするか大根おろしにするか迷っていると、面白そうに「凪はいつもそのどっちかで選ぶなぁ」とくすくすと笑っていた。


「いつも?」

「色んな店は行くけど、ここではその2つを選んでる」

「好みは覚えているという事ですか?」

「そうなるのかもな」


桜木さんは、店員を呼び出すボタンを押すと、私がどちらにするか言った訳でもないのに、オーダーを取りに来た店員に注文していた。


私が選んでいた、チーズのトッピングと、大根おろしのトッピングのふたつを。


「それで、いつも半分こしてる」


思い出すかのように笑う桜木さん。


「でも、それって、桜木さんの好きなものを食べられないって事じゃ…」

「俺はいい。凪の喜ぶ顔が見れるなら」

「…」

「それに、凪と食べるご飯は、なんでも美味しい」


この人は本当に優しいんだな。
私のことを、凄く好きなんだな…。
彼女である私のことを1番に考えてくれる人。



「桜木さんは、」

「うん?」

「私のどこを好きなんですか?」

「え?」

「だって…、さっき、鏡で顔を見ましたけど美人でもなくて…。それなのに記憶喪失になる私を好きだなんて…。桜木さん言ってましたね、毎日記憶が無くなるって。それって…、そこまで深い関わりはなかったのじゃないかって…。愛し合っていたあとの、いきなりの記憶喪失じゃなくて、初対面同士で、好きになるものですか?」

「凪はかわいい。俺のタイプだよ。凪以外の女をかわいいとか美人とか思ったことない」


急に、かわいいと言われた私は、思わず照れて戸惑い、顔が赤くなるのが分かった。


「小学生のころ、転校生だった凪に一目惚れした。家が近いこともって、先生にいろいろ手伝ってあげてくれって言われた時も、正直ラッキーだと思った」


一目惚れ…。
小学生のころ、私に?


「でも、さっき…嫌いだったって」

「うん」

「…」

「その頃、記憶が無くなるってことを理解出来てなかった。理解出来てなかった時に、俺が…帰り道に好きだって言ったんだ」


桜木さんは、優しく笑う。


「でも、次の日には凪は忘れてるから。…俺の告白を忘れてる凪が、許せなくて。結構頑張った告白だったから…」

「…、」

「そっから、凪を虐めるようになった」


虐め…?


「でも、好きで…。許せなくて…、好きで…。忘れる凪にムカついてた。そんなことがずっと頭の中にあった」

「…桜木さん…」

「申し訳ない気持ちが多くなって、虐めるのをやめて、凪と向き合って大事にしようと思った」

「……」

「それで、6年たって、今って感じで」

「……」

「凪のどこを好きって言われたら、優しいし、かわいいし、…なんていうか、」

「……」

「凪の全部が好き、それぐらい凪に惚れてる」

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全部──…。



「すみません、私…大事なことを忘れるのですね…。桜木さんを傷つけてごめんなさい…。大事な事を忘れて虐められるのは当然だと思います」

「いや、俺が子供だったんだ」

「悲しくは、ならないのですか…」

「それは、凪が忘れるからっていう意味?」

「はい」

「俺が一緒にいたいんだよ。虐めた償いとして一緒にいる訳でもない。凪が好きだから」

「…」

「俺は凪を虐めてた。だから俺の方こそ、一緒にいていいのかって思う時がある。本当に酷い事をしたから」

「…それでも、今は私を想ってくれているんでしょう?」

「…うん」

「どんな虐めをしていたか、私は聞きません。今の、私の目の前にいるあなたを信じます」

「……うん」


だから、


「もし、明日の私が失礼なことを言ったら、すみません…」

「……」

「桜木さんは…」

「…うん?」

「記憶の病気が無くなればって思いますか?」


私は桜木さんを見つめたまま。桜木さんは笑いながら首を横にふった。


「俺は凪の全部が好き。だから記憶の病気でも病気じゃなくても関係ない」


優しく言ってくれる桜木さん。
でも、本当は、病気が治って欲しいんだろうな。だって、絶対に大変なはずだから。毎日が初対面だなんて…。


「私は、病気が無くなればいいと思います」

「凪」

「無くなってほしい」

「……本当はいうと、俺は凪に思い出して欲しくない」


え?
思い出して欲しくない?
どうして…。
この、桜木さんと関わった6年間のことを?


「桜木さんが私を虐めたからですか?その記憶を思い出して欲しくないからですか?」

「うん」

「……」

「凪に嫌われたくないから、思い出さないでほしい」

「…」

「それほど俺はずるい男だよ」


──この時、私は桜木さんが〝嘘〟をついていた事に気づくことが出来なかった。


第一に私のことを考えてくれる桜木さん。


私のために桜木さんがついた〝嘘〟に気づいたのは、もう少しあとの話──…

桜木さんと半分こしたハンバーグのランチを食べて、桜木さんが「そろそろ行こうか」と呟いた。
それに対して頷き、桜木さんが手を差し出してきて、その差し出された手を拒絶することなく私は手を置いた。

そのまま握られ、伝票を手にした桜木さんが、レジのある方へと向かう。私よりも背の高い桜木さん。
私を虐めた過去があるけど、今では大切にしてくれている桜木さんはレジで並んでいる最中、「外、結構暑そうだし、タクシー呼ぶ?」と私の心配をする。


「大丈夫です」


そう返事した私は、桜木さんに少し笑いかけた。そうすれば桜木さんも笑った。


「やっぱり凪は1番かわいい」


と、そんな言葉とともに。


休憩したからか、それほど夏空の下、歩くことに苦はならなかった。とある駅につき、切符を購入した桜木さんにお礼を告げた。

電車の中は冷房がきいていて、涼しかった。
3駅ほど乗り、手を繋いだまま桜木さんと電車をおりた。


「凪?」

「はい」

「ここから15分ぐらい歩くけど大丈夫そう?」

「はい、大丈夫です。疲れたらすぐに言いますね」


穏やかに笑った桜木さんは、そのまま足を進めた。駅の改札をくぐり、駅の中を歩く。
ここから15分の距離に、私が住む家があるらしい。
ということは、あと15分ほどしか桜木さんと一緒にいれないってことだろうか?
もっともっと話したいことがあるのに。
そばにいたい…。

そう思って、「時間があるなら、少しでいいので遠回りしたいです、」と桜木さんを見上げを口を開こうとした時だった。


「あっ、この前の、なぁ、あいつらこの前の2人だよな!」


と、その声が聞こえたのは。
駅から外に出て、太陽が私たちを再び迎えた時、視界の中に駅のロータリーでバイクに跨っている男性が2人いて、そのうちの1人が私たちの方に指をさしていた。

指をさしているのは、明るい髪色をした男だった。風貌もとても騒がしそうで、黒髪でシンプルなスタイルの桜木さんとは大違いで。


「那月の知り合いと、すぐ忘れる女だろ!」


指をさされ、そんな言葉を大声で言われ、すぐに私の事だと気づき、──私の心に不快感が芽生えた。

なんだろう、あの人は。
そう思っていると私は自分の下唇を噛んでいた。

思わず、桜木さんの手を強く握った。桜木さんの方を見れば、自分の体が固まったのが分かった。
いつも優しい笑みを浮かべていた桜木さんが、その男の人、2人の方をすごく怖い顔で見ていたから。
──睨む、ううん、それ以上の──…。


「…お知り合いですか?」


静かに告げれば、桜木さんは私の方へと向き直し、「全く。無視していい」と笑った。そのまま歩き出そうとする桜木さんについていこうとすれば、


「なんで無視すんの〜、おーい」


と、面白そうな声が聞こえた。



「おいっ、やめろよ。あの子はそんなからかっていい子じゃないから」

「はあ?」

「この前、めちゃくちゃ泣いてたって言っただろ!」


そうもう一人の男、茶髪の人がそういった時、ピタリと桜木さんの足が止まった。


「知るかよ、な〜!見たぞ〜!その子の日記!お前もいろいろ大変だな〜」


止まった足は、完全に男達2人に向けられていた。怖い顔のまま、私の手を引き、どうしてかその2人の…知り合いか分からない方へと足を進める桜木さん…。


いったい、何があったのか。


「やめろってマジで!からかうな!」


茶髪の人が、明るい髪の男に注意するけど、明るい髪の男の方は、ずっとずっと楽しそうな顔のまま。


「──…どういう事だ、なんで凪の日記の事をお前たちが知ってる」


そう聞いた、桜木さんの声は低い。


「は?んなもん、那月の部屋にあったからだろ?」

「おいっ!」

「──…那月?」


低く、〝那月〟と言った桜木さんの目は、本当に怖く。声のトーンも今までとは全く違い。


「教えろ。今すぐ」

「はあ?」

「てめぇには聞いてねぇ、凪の日記、あいつが持ってんのか」



注意をしていた茶髪の人が、眉を下げ、申し訳なさそうに「……家に…あった、…でも、今は分からない」と、首を横にふった。


いったい、なんの話しをしているのか。


「…さっき、凪が泣いてたって言ってたな。あれはどういう意味だ」


茶髪の派手な人が私を一瞥したあと、「その子が、」と言いながら再び、桜木さんの方を見た。



「一昨日、その子が俺らの高校に来たんだよ。那月に会いに」

「…あいつに?」


少し桜木さんは、顔を傾けた。


「ああ…、その、日記に那月のことを書いてあったみたいで。それを頼りに…って感じだった。パニクってたっつーか、那月の事しか頼れないって感じでボロボロ泣いて…」

「…もう少し詳しく教えてほしい、その後のことも」

「いや、マジで俺そこから知らねぇ。那月がその子を送るからって別れたし」

「別れた?」

「ああ、昨日、那月の家に行った時その子が持ってたファイルがあって…。なぁ?」


茶髪の人が、明るい髪をした人に聞けば、「そうだな」とぶっきらぼうに答えた。


「…分かった、あいつ今どこにいる?」

「さあ、んでも朝まで先輩たちと遊んでたみたいだし、家で寝てると思う」

「そうか、」

「電話しようか?」

「いや、家に行くわ。ありがとうな教えてくれて」


もう話は終わりなのか、桜木さんは私の手を握りしめると、ゆっくりと歩き出した。
最後に彼らを見ると、茶髪の人は眉を下げずっと申し訳ない顔をしていた。


しばらく歩いていると、もう2人の姿は見えなくなった。何かを考えているらしい桜木さんは、あまり口を開かなくて。


「…やっぱり…、知っている人ですか?」


私がそう聞くと、桜木さんは私の方を向いた。桜木さんは少し言い辛そうにすると、「いや、初めて喋った…」と、ぽつりと呟いた。


「でも、私のことを知っているような…感じでした…」

「うん、一昨日の凪があいつらに会ったらしい」


一昨日?
あの人たちと?
覚えていない。


「……あそこまで歩いたのか…。だから足、あんなにもケガしてたのか…」


独り言のように呟いた桜木さん…。


「会っていたんですか…?」

「うん、いろいろあったみたいだ」


私に微笑む桜木さんは、「……藤沢のやつ…」と、なんだが怒っている様子だった。


──…ふじさわ?


藤沢って、さっき会話で出てきてた〝那月〟っていう人だろうか?


とあるマンションにつくと、桜木さんはエレベーターに乗り込み、とある階のボタンを押した。
なんだかさっきとは違い、少しだけ怖い雰囲気になった桜木さんに「もう少し一緒にいたい」って言えなくて。


「もうすぐ、家なのですよね」

「うん」

「私…、これからもあなたに会えますか?」


もっと喋りたい…。


「会えるよ、明日も明後日もずっと。俺が毎日凪に会いに来るから、会わない日は絶対ない」


そう言った桜木さんが、私を部屋の前まで送った。病院であった女の人…お母さんと名乗る人がその部屋から出てきて、桜木さんは私をその人に渡した。


「また夜に来る」


その言葉を残して。


────けど、その日の夜、家に来たのは桜木さんじゃなかった。〝藤沢那月〟という、桜木さんと同い年ぐらいの男性が現れた。派手な見た目は、昼間に見た2人に似ていた。



「──お前がなんで記憶喪失になったか、本当の理由、教えてやる」





聞いたことのある名前に、私はこの人を〝怖い人〟だとは思わなかった。あんなにも優しい桜木さんの知っている人ならば危険な人ではないと思ったから。

それに、その人が言う『本当の理由』というのが知りたくてたまらなかった。
本当の理由ということは、桜木さんが嘘をついているって言うことなのだうか?

お母さんはちょうどお風呂に入っていて、伝えることができないから。

私は自分の部屋にあった新しいルーズリーフの紙に〝ふじさわなつきという人と、会ってきます。すぐにもどります〟と置き手紙をして、外へ出た。


マンションから離れるのか、エレベーターの『↓』のボタンを押した、派手な見た目の彼。


「どこに行くのですか?」


そう聞いても「適当」と答える。
エレベーターからおりて、私よりも前を歩く彼は、桜木さんと違って私と手を繋ぐことはなかった。

昼間よりも、夜道は涼しかった。


「私のこと、あなたは知っているのですか…」

「知ってる」

「あなたは、桜木さんお知り合いですか…」

「ああ…、今日の昼間、家に来て散々だったわ」



昼間……。
桜木さんは、私と別れたあと、この人に会いに行ったらしい。



「…話って、…」

「もうちょいしたら教える」


もう少ししたら。
そう言った彼がしばらく歩く。私はその後について行く。私はどれぐらい歩くのだろうと、考えていた。
置き手紙はしたものの、すぐにもどると書いた私は、お母さんに心配されるのではないかと思った。



ついたのは、とある、学校だった。
校門のそばにある名前を見る限り、ここは小学校らしく。夜の時間、もう誰もいなく、肩くらいの門はもう閉まっていて。


何をしているのか、ここで何をするつもりなのか、軽々とその門を跨ぎ敷地内に入った彼に唖然としていると、


「来い」


と、私の方に手を伸ばしてきた。


「…はいっても、いいのですか」

「卒業生だし問題ねぇ」


卒業生?

というか、そういう問題じゃないと思うけど。
戸惑っていると、「早く」と少し怒った顔つきに変わり、焦った私は、躊躇いがちに門の、足をところに足を引っ掛けた。

それでも彼みたいに上手く登れず、アタフタしていると、面倒くさそうにため息をついた彼が腕を伸ばした。


「どんくせぇな」


そう言われても…。

「あの、やっぱりいけない気が…。泥棒と同じです」


門を乗り越えたものの、不法侵入とは変わりなく。スタスタとだるそうに早足で歩く彼に訴えるも、無視される。

本当にこの人について行っても良かったのだろうか?桜木さんを待つべきだったんじゃないだろうか?

立ち止まり、やっぱり、戻ります…そう言おうとした時、今度は緑色の網目のフェンスに足をかけた…藤沢さんは、足を大雑把に引っ掛けると、またガシャガシャと音を立ててそこを登る。

高さは2mはある。もしかすると3メートルはあるかもしれない。


「さっきよりも登りやすいだろ」


簡単にそう言ってくるけど…。
フェンスの向こうにあるのは、どう見ても…。


「ここになんの用事があるのですか?他の場所ではだめなんですか?」

「記憶取り戻したくねぇのか?」


登っている最中、彼が後ろを振り返る。


「え?」

「お前は1回、ここで記憶を思い出したことがある」


え…?
でも、私…毎日忘れるんじゃなかったの?


「思い出したかったら、来いよ」


──思いだしたければ…。


「そ、れは、」

「あ?」

「それは、桜木さんのことも、思い出せますか…?」

「たぶんな」


また、フェンスを登っていく。
もしかしたら、思い出すかもしれないってこと?この中に入れば…。
昨日のことも、その前のことも。
桜木さんが言ってた、過去の出来事も…。
思い出すのならば。
私も緑色の網目のフェンスに足を引っ掛けた。
だけど、私はあまり体力というか筋肉が無いようで登るのが難しく。

1番上に登った藤沢さんが「早くしろよ」と私に手を伸ばしてくる。恐る恐るその手を握ろうとした時、なんだかその手に違和感がして──…。


〝いつもの手じゃない〟と無意識に思っていた。どうしてそう思ったか分からない。どちらかというと細く角張っている藤沢さんの手。

私の知っている手は、もっと、しっかりとして…。

藤沢さんの手と重ねれば、その違和感は確信に変わった。なんだろう、フィットしない…。私の手と形が合わないと説明したらいいのだろうか?

そう思えば、桜木さんの手は繋ぎやすかった。違和感がなかった。夜に会いに来ると言っていた桜木さんは、今どこにいるのか…。


ようやくフェンスを乗り越え、下に降りた時、涼しい顔をした藤沢さんと違って私は息切れしていた。少し汗も滲んでいた。


フェンスを乗り越え、視界に入ってくるのは1面の水だった。夏の時期だからか、いっぱいに入っているそこは、間違いなくプールで…。


「あの、ここで、思い出したんですか、私…」

「ああ」

「ど、どうやって、」

「…」

「わたし、どうすれば…」

「落ちろよ」

「え?」

「こん中、落ちろ」


そう言った藤沢さんが、私の腕を掴んだ。
そうして力任せに引き寄せ、言葉通りに私の体をプールに落とそうとするから…。


「ま、まって、待って下さいっ、」


咄嗟に、足に力を入れた。
プールに私を落とそうとする藤沢さんは、「ちっ、」と、イラついたように舌打ちをした。


「り、、理由を、教えてください…」

「あ?」

「落ちろだなんて、──そんな、」


ふ、と、バカにしたような笑い方をした藤沢さんは、「小学生の時、」と、グイっと自らの方へと引き寄せた。

その力はさっきよりも強く、私は簡単に、藤沢さんの元へ誘い込まれた。


「潮がここから突き落とした、そんで記憶が戻った。それが理由」


笑いながらそう言われ、私の体が固まるのが分かった。今、なんて言ったこの人は。
潮?それって、桜木さんのことだよね。
桜木さんが、私を、プールに突き落とした…?
過去に、私を虐めたことがある桜木さん…。


「…で、でも、」

「お前が、現れたから──…」

「え?」


さっきとは打って変わり、眉を寄せ、鋭い目を私に向け、怖い顔をする男。

今更、この男は危険だと、脳が危険信号を送り出す。


「潮を返せよ」

「は、離し、」

「返してくれよ」

「痛いっ…」

「お前のせいで…!!」


力任せに掴まれた腕。痕が残りそうなほど強く掴まれ、私は痛みで顔を歪めた。



「お前も死ねば良かったのに」



そう言われた瞬間、私の体が浮いた。
地面に、足がついていなかった。
空へ飛ぶ感覚がして、内臓が体の中で落ちた。

その瞬間には体が水面に叩きつけられ、背中に痛みが走った──。
咄嗟のことで、口を開き、喉の奥から空気がゴホゴホと出てきたと思えば、鼻の中に水が入りツンとした痛みが鼻の奥を貫く。

水から顔を出そうにも、焦っているせいで、上手く上がれず。
──水中で、目を開けた。
ぼやける、見えない、夜のせいか暗くて何も──…。月明かりが──…。月明かりだけが──…。

その方向に手を伸ばした。
その手が、さっきよりも小さく感じて…。



「──ッ、ゴホ、ゴホゴホ!」


やっと水中から顔をだし、必死に息をした。
水を飲んでしまったのか咳が止まらず、嘔吐くような気持ち悪さが止まらない。
鼻も痛く、背中も痛い。
よっぽど強く、水面に落とされたらしく。



涙を浮かべながら、震えながら彼の方を見た。
藤沢さんは、怖い目で私を見下ろしていた。



「こうやって落としても、明日には忘れるもんな。──お前、バカだから」



バカ、バカ、バカ──。
怖くて声が、出なかった。
髪から水が落ちていく。


その瞬間、似たような言葉を、どこかで聞いたような気して。


────『ああ、明日になれば、もう今日のこと覚えてねーもん』


あれは、あれは、あれは。
ランドセルを背負った──……。


────『知ってるか?あいつ──……』



「思い出した?」



僅かな記憶の中に、桜木さんはいた。
桜木さんは、転んでいる私を見て笑っていた。
これは私を、虐めていた時の記憶だ。



「お前が自分の父親と、キヨウダイを殺したこと」
酷く、頭が重かった。
重いというよりも、ズキズキというか、動けば脳が揺れる感覚がしてとても気持ち悪くて。
息を出せば、やけに喉が熱く。吐息も熱かった。

簡単言えば、ツラい……。
体を動かせない。
体を動かそうとすれば、関節や皮膚が痛くて、起き上がるのもしんどくて。


それでも、ここはどこだろう?っていう気持ちが強かった。見慣れない天井。頭が上手く働いていないせいか、自分がどこにいるかも分からなかった。

布団にいることは分かる、でも、それだけしか分からない。
頑張って全身が痛む体を起こしても、ここがどこかの部屋っていうだけで、やっぱりここがどこか分からない……。


「あたま、いた……」


ぽつりと呟いた私の声は、やけに枯れていた。
体が熱い。
そのせいか、体の震えが止まらなかった。
だとしたら寒いのか。
でも熱い。
しんどい。
ツラい。
寒い。


そう思って、また枕へ頭を戻せば、少し呼吸がラクになったような気がした。
でも、ラクになった気がしただけで、ツラさは変わらない。


風邪……?
分からない。
とにかくツラい。



しばらく体を震わせながら布団を体に巻き付けていると、──コンコン、と、その部屋の扉のノックの音がした。瞼を開けるのも、ツラい。


「凪? 入るね。起きてる?」


扉の開く音が聞こえた。
私の元に誰かが近づいてくる。


「凪?」


誰かが私を見下ろしている。
目がぼやけて、よく見えない。
誰だろう、この人。
女の人っていうのは分かる。
そもそも、凪って、誰だろう?
そう思っていると、「凪?」と、声のトーンが変わったその人が私の頬にふれた。


「……熱?凪、しんどい?」


誰か分からないけど、優しく、焦ってはいるけど心地いいトーンで聞かれるから、私は小さく頷いた。


「ちょっと待ってね、体温計持ってくるから…」


看護師か、誰かだろうか。
分からない。
いったん、離れた女の人は体温計と──、お茶が入っているらしいグラスのコップを持ってきた。


体を起こし私にお茶を飲ませてくれたその人は、もう1度私を寝かせると、「服めくるわね」とワキに体温計を差し込んだ。
何十秒かして、音がなり、髪の短い女の人がワキから取り出しそれを見ると、顔を顰めていた。


「38度、……薬持ってくるわ、何か食べましょう」

「あ、の……」

「なに?」

「……だれ……です、か」


私の質問に、その人は優しく笑うと、私の頭を撫でた。


「私はあなたのお母さん。あなたは記憶喪失で昔のことを覚えてないの。ここは安全な場所だから怖がることは無いからね」



そう言われ、あんまり理解できなかったけど、悪い人ではなさそうだから。私はもう一度身を任せるように瞼を閉じた。


お母さんと名乗るその人は、誰かと電話をしているようだった。
「もしもし?潮くん?」と、そんな言葉が聞こえたから。


「凪が熱を出して──、昨日の──、」


何話してるんだろう?
分からない。


だけど「もうすぐ潮くんっていう男の子が来るけど、その子も凪の味方だからね」と、お母さんらしい人が私に言ってきた。


うしお……?
うしお、


どこかで、聞いたことがあるような気がして……。

どこだろう?
分かんない。
どこで、名前を聞いたんだろう?
だけど遠い昔に聞いたような気がする。
思い出せない。
でも、分かる。
なんとなく覚えてる。
頭が痛い。
ズキズキする。
もう何も考えたくない。
寒いからもう1枚布団が欲しい。
さっきの女の人、どこに行ったんだろう?
そういえばお母さんって言ってたっけ……。
だれの?
わたしの?
…………わたしって……。


働かない頭でぼんやりと考えていると、慌ただしく、扉の開く音が聞こえた。
さっきの、お母さん……?、かな、と思った。
瞼を閉じていたから誰か分からない。

その人が傍まで歩いてくるのが振動で分かった。


「……凪?」


だけど、その声は男の人だった。
低い声。
不安と、心配と、戸惑いに満ちた声。

冷たい手が私の頬におりてきた。
その手が冷たいと思ったのは私の体が熱いからなのか、それとも彼の手が元々冷たいのか。


「…凪、…大丈夫か? 」


愛おしそうに撫でるその手に、私は瞼を開いた。視界がぼやける……。……誰……。


「震えてる、寒いのか?」


誰でもいい、布団を持ってきてほしい。あっためて欲しい。男の人は立ち上がると、少し離れた。扉……、ガラガラといったから、クローゼットを開く音かもしれない。


毛布、のようなものが、布団の上からかけられた。重いけど、温かい。


「ごめんな……寒くないか?」


謝ってる人が、また頬を撫でてくる。
瞼を開けていた私は、ぼんやりとしていた視界がやっとクリアになってきて。
その人を見ることができた。


黒髪で、切れ長の、二重の瞳。
高い鼻、薄い唇……。
肌の色は、白く。


「凪?」


その人と目が合う。
あれ……
知ってる?
私はこの人を、知っているような……。
どこかで見た事のあるような気がする。
どこだっけ……。
分からない。
でも、覚えてる。

昔、昔に。

昔──……。

もっと、小柄だったような……?


頭の中で、黒色のランドセルが思い浮かんだ。
ランドセル……。
小学生……?
でも、目の前にいる人はどう見ても小学生には見えない。


いつの時……。
昔。
この人が、ランドセルを背負っている時。
こんなにも大人じゃなかった。


────『おもんね、今日は言い返して来ねぇのな』


ランドセルを背負ったこの人は、私を見下していた。
私はその時、しゃがんでて、膝が痛くて。
そうだ、私は、この人に突き飛ばされたことがある──……。それで、転んだ。酷い言葉を言われたような気がする。


「凪?どうした?」


目が泳ぎ、寒さとは違い震え出す私を見て、焦ったような声を出す男は、「凪?」と逃げようとする私を支えようとした。

それが嫌で振り払おうとしても、熱があるせいで上手くいかない。
だから──……


「い、いやっ、いや!」


痛い喉で、叫んだ。


「凪? どうした? びっくりしたのか?」

「やめてっ……」

「悪かった、知らない男がいたらびっくりしたな、大丈夫だから」

「大丈夫……、じゃないっ……」

「落ち着いてくれ、出ていくから。今すぐ出ていく、だから横に──……」

「また私に怪我をさせるつもりなのっ……?」


苦しさのせいか、目の奥が熱くなって、ポロポロと涙が溢れてくるのが分かった。


「─え……?」


目を見開き、驚いた声を出した男の人は、息を飲んだような気がして。


「〝また〟……?」

「こわい、こわいっ……」

「凪、今、〝また〟って言ったのか?」

「……やだぁ……」

「凪、」

「っ、──お母さん!お母さん!助けてお母さん!!」


彼の顔が、一瞬にして強ばるのが分かった。


「凪? 俺が分かるのか?」


彼から逃げようと完全に体を起こしている私の目からは涙が止まらなかった。
ツラいからなのか、目の前にいる人が怖いからなのか分からない。


だけど無我夢中で、さっきの女の人を呼んだ。
最後の方は、とても弱々しかった。


「どうしたの?!」


慌てた様子で、女の人が来た。
さっきとは違い、何かを作っていたのか、エプロンをつけている人……。


「このひと、このひとが……」


お母さんらしい人は、私が泣いていることに、目を見開いた。


「潮くん?潮くんがどうしたの?」

「わたしを、おした……、足にケガした……!」

「え?」


困惑する表情をした女性。


「…怪我してないわ、どうしたの?」


今はしてない、
昔、
昔に。
この人が小学生の時に──……!!


私はもう1度、思い出したことを言う。



「っ、何も、言い返して来ないって……」

「え?」

「明日になれば忘れるって、酷いこと言った…」

「……なぎ?」

「誰かが、バカって言ってたぁ……」



ボロボロと涙が溢れ、それは止まらなくて。
「こわいよ、こわいよ……」と言い続けていれば、私に酷いことを言った男の人がいなくなっていた。


「大丈夫よ、大丈夫……」


お母さんが抱きしめていた。
頭が痛く、泣き止んだ頃には熱が上がっていたしく、吐き気が私をおそった。


トイレの中で胃液を出し続けていた私が落ち着いたのは、しばらく経ってからだった。


潮くん──と呼ばれていた男の人は私の前に現れることはなく。お粥を無理矢理1口食べ、薬が効き始め、もう一度眠りについたのはお昼頃。


目を覚ましたのは夕方。
目を覚ました時、いないはずの人が、私のそばにいた。蒼白になり、また私は泣き出した。


「覚えんのか……?」


そんな私を見て、カレが戸惑ったように口を開く。

なにが、なにが、なにが──…。

ありえないほど、目を見開き、驚く彼はもう一度「……俺が、朝、ここに来たこと覚えてる?」と聞いてきて…。


聞いてきても、答えることが出来なかった。ただ怖かった、私が寝ていた時、この人がそばにいた事が。


お母さんが、中へ、入れたのか……。



「なぎ……」

「やめて……」

「分かる?」

「……やめて……」

「泣かないでくれ…………」


薬が効いたのか、もしくは熱が上がったのは一時的なものだったのかは分からないけど、その日の夜になると7度代前半まで下がっていた。

まだ寒気はするし、頭はだるいけど、朝より脳は働いている。

お母さんがうどんを作ってくれた。食欲がないけど、せっかく作ってくれたうどんだから頑張って食べた。
でも、やっぱり食欲が無くて。半分ほど残してしまった。


「……凪、少し聞いていいかな?」


お母さんが言う。
何を聞かれるか、なんとなく分かっている私は、あまり口を開きたくなかった。


「凪は、自分のことが誰か分かる?」

「……」


私は首を横に振った。
名前も知らなかった。
なんとなく、お母さんも、さっきの男の人も「凪」って呼ぶから、凪なんだなって思ってた。


「私のことは?」

「……ごめんなさい……分からない……」

「じゃあ、分かるのは、さっきの男の子?」


口を開きたくない質問……。


「は、い……」

「どんなこと、覚えてる?」


どんなこと?
どんなのって、言われても。


「私のことを押してきて……、私の足から血が出ているのに笑ってて。それ見て、言い返してこない、明日になれば忘れるって……」

「それは、小学生の時?」

「……はい、ランドセルを背負ってた」

「そっか……。他にはある?」

「いえ……」

「凪、あなたは、自分が記憶喪失だってことは分かる?」


記憶喪失?
私が?


「記憶喪失ですか?」

「うん」

「……ごめんなさい……、よく、分からなくて……」


だって、何も分からない。
顔を下に向けていると、お母さんは、ゆっくりと口を開く。


「戸惑うかもしれないけど、凪……、凪はね?寝ると忘れてしまう記憶障害を持っていたの」


寝ると……?
忘れてしまう?


「全部、忘れちゃうの」


全部?
よく分からなかった。
だって私は、寝てた。
だけど寝る前のことは覚えている。
寒くて──……、彼が毛布をかけてくれたことも。


「だけど、今日は違って」

「……?」

「僅かな記憶だけど、思い出した。寝ても忘れなかった」


僅かな記憶……。
寝ても、忘れていない?


「もしかすると、明日も、今日のことを覚えているかもしれない」

「……」

「……凪、」

「……」

「潮くんが怖い?」


怖い…………。


「凪の思い出した記憶は、とても、凪にとっては嫌かもしれない……」


なんで……。


「でも、潮くんは本当に信用できるしいい子よ。凪も、何度も助けてもらった」


あんなにも、怖くて、泣いていたのに。
この人は、なんでそんな事を言うんだろう?


「潮くんを怖がらないであげて……」


私はそれに、頷く事が出来なかった。


「ちなみに昨日、何があったか覚えてる?」


その質問にも答えることができなくて。

私は〝なぎのへや〟と紙が貼られた部屋の中に戻った。
熱がまだあったこともあり、何だかすごく疲れた気がして。
布団の上に寝転んだ。

ここが私の部屋……。
私は記憶喪失らしい。
かすかに覚えているのは、ランドセルを背負った潮って人だけ。

ああ、でも、私事を〝バカ〟って言ったのは違う人のような気がする。誰だろう、分からない。あの時2人いたのかな……。

どうして私は記憶喪失なんだろう。
なんで覚えてないんだろう。
これからどうすればいいんだろう。

まだ本調子じゃないらしい。
また明日考えようと思ったから、薬が効いてきた体は眠りにつこうとして。


けれども──コンコン、というノックする音が聞こえた。眠ろうとした脳が起きる。

誰だろう、お母さんかな……。
そう思って「はい…」と返事をすれば…。

「俺だけど、」という怖い声が聞こえた。
私の記憶よりも声が低い。たぶん声変わりをしたんだと思う。昔はもっと…。

もっと……。


「体調どうだ?」


怖い声なのに、声が穏やかで優しく、戸惑う。


「入らないし、凪には近づかないから」


そう言われても…。


「凪」


どうすればいいんだろう…。
私はこの人と関わりたくない。


「明日も会いに来ていいか?」


その日は、私が潮という人に、返事をすることは無かった。

随分の体が楽になった。
昨日の熱のツラさがなんだったのか、と思うほど、足や脳が軽い。
それでも少し万全とはいかなくて、起きた瞬間──ケホッ、と咳が出た。
それでも喉は痛くなく。


トイレへ行けば、ちょうどお母さんが、洗面所のところで洗濯機から服を取り出していた。
すぐに私に気づいたお母さんは、私のことを観察しているようで。


「おはようございます……」


静かに言えば、お母さんは優しく笑った。


「おはよう、昨日のこと、覚えてる?」


昨日。
覚えてる。
だって私は昨日、熱で苦しんだ。
お母さんから、寝れば忘れると言われた事を思い出す。だけど私は忘れていない。こうして覚えてる。


「──…はい、覚えてます」


だけど、まだ、会って2日目の人だから。
戸惑いがちに言えば、少し、お母さんは顔を傾けた。


「どうしたの、昨日みたいに敬語じゃなくていいのよ」


昨日?
敬語?

…昨日?
昨日は、
私、どんな言葉遣いをしてたっけ…?
昨日は熱で苦しんでいたから、あんまり覚えていなくて。というよりも、お母さんと喋ったのはうどんを食べたあとの少しぐらいで。


「はい……、ちょっとトイレに行きます」

「うん、行ってらっしゃい」


だけどあまり深く考えなくて。
トイレを済ませ、洗面所で身なりを軽く整えてから、お母さんの家事を手伝おうと思った。
その洗面台の鏡を見て、何だか違和感がしたけど、あまり気にならなかった。


もうリビングに行ったらしいお母さんのところに向かおうとした時、「おはよう」と男の人の声がして。


はっとして、リビングから出てきた彼の方を見れば、驚きのあまり喉が軽く詰まった。ゴホゴホと、背中を丸め、咳が出て。
手のひらで自分の口元を抑えた時、彼が「大丈夫かっ」と、私に近づいてきて。


昨日の事があったのに、何を思ったのか、〝近づかない〟と言った男が私の背中に手を当て、撫でようとして。


「大丈夫か?」

「ごほっ、」

「ごめんな、驚かせたな」

「ッ──」

「凪、」


なんで、なんで、なんで。
なんで、潮って人が、家にいるの。

昨日あれだけ怖いって言ったのに。
お母さんにも肯定の返事をしなかったのに。
彼にも〝会いに来ていいか?〟っていう返事をしなかったのに。



ようやく咳が落ち着いても、彼が怖くて自然と涙が出てきて。「……──やめてください……」と涙を浮かばせながら彼の方を見れば、彼は一瞬、戸惑ったような顔をした。



「……凪?」

「さわらないで…」

「……」

「来ていい、って、言ってないのに……」



彼の手が、固まる。
口元に手を抑えながら泣き続けていると、今度はお母さんが、戸惑いがちに近づいてきて。


「凪……、あなたやっぱり、」


やっぱり?
やっぱりなんなの……。


「昨日のこと、覚えてないのね」


お母さんの言っている意味が、分からなかった。
昨日のことは、覚えてるのに。
私は昨日、熱を出してた。


「潮くんと一緒に、病院へ行ったこと、覚えてない?」


何を言ってるんだろう?
だって、私は、昨日はずっと熱を出してて。
病院になんて行っていない。
ましてや、潮……って人と、行くはずがない。


「…覚えてないのか?」


彼に顔をのぞき込まれたけど、彼の存在が怖い私は手のひらを抑えるのを、口元から目を変えた。


「昨日のこと……」


彼の声は少し震えてた。


「俺の事、分かるんだよな…?」

「……っ、」

「ごめんな、怖かったな…。ごめん…」

「……っ……、近づかないって……」

「うん」

「言ってたのに……」

「ごめん、」

「あなたが……」

「ごめん……泣かないでくれ……」

「っ……」

「約束、破ってごめん──」





彼が何度も何度も謝ってくる。
悪いのは彼の方なのに、まるで私が悪いみたいにずっとずっと謝ってきた。


「ごめん」
「悪かった」
「ごめん」
「約束破ってごめん」

と、ずっとずっと。


「怖がらないでくれ……」


怖がることをしたのは、彼なのに……。
やっと目元から手を離して彼を見た時、どうしてか彼も泣きそうな顔をしていた。






──お母さんが、アイスミルクティーを入れてくれた。それをリビングのソファに座り、飲んで落ち着いていると、どうしてか横に座っているのは潮って人だった。

まだ、私の瞳は涙で赤かった。

そんな私に、彼は「悪かった…」と、私の目を見つめながら言ってくる。お母さんは、キッチンにいて私たちを見守っているようだった。


「言い訳になるかもしれないけど、……昨日のことを忘れてるとは思わなかったんだ…」


昨日のこと……。
〝昨日〟。


「凪が覚えてるのは、熱を出して寝込んだ日だと思う」


覚えているのは──。


「俺を怖がった日、あれは一昨日の話で」


一昨日……──。
2日前?


「昨日、凪に会いにきた。それで──凪が、部屋から出てきてくれた。今みたいにこうやって話をしたんだ」


そんなの、知らない。
昨日だなんて、そんな──。
私は彼から目を逸らし、自分の足元を見た。
黒い短パンに白いTシャツが視界の中に入ってきて。
ああ、洗面台の鏡を見た時の違和感が、今更ながらに分かった。私はこんな服、着た記憶が無いことを。

だとすれば、本当に、私は昨日のことを忘れて…。


「それで、凪の咳が酷くて。記憶のことに関しても病院に行った方がいいと思ったから、俺と一緒に行ったんだ」


そんなの……。


「帰り道のタクシーの中で、いろいろ喋った。そのとき、明日も会いに来ていいかって聞いて、凪が頷いてくれた」


知らない……。


「今日、これを渡しに来た。昨日凪が見たいって……言ってたから」


そう言って、差し出されたのは、何かのファイルだった。よく分からない色をしていた。よく分からないって思ったのは、多分、元々白いファイルだったのか、そのファイルは所々灰色に汚れていたから。


「……なんですか、これ……」

「凪の日記」


日記?


「……わたしの?」


怪訝な声を出していたと思う。
だって、日記と言われても。
凄く汚れてる。


「うん、一応拭いて……けど、土でドロドロになってて、……ごめん」


申し訳なさそうに謝ってくるけど、私にはいったいこれが何なのかも分からない。


「……意味が分からないです……」

「うん」

「私の日記……なのですか?」

「そう」

「これが?」

「……うん。守れなかった、ごめん…」


守れなかったとは……。
そのファイルを恐る恐る受け取れば、やっぱり汚れていて。中に挟まれている紙も…。
1度、水に濡れたようなパサつき感。
1枚とそれを見るけど、濡れたせいか滲んで読めそうにもなく。


「凪はそのファイルに、毎日、その日の出来事を書いてた」

「……」

「けど、1回、失くしたことがあって…」

「……」

「見つけたは、いいんだけど、あいつが、」


あいつ?


「……いや……、見つけた時には川にあって、1枚1枚、流れされそうになって、できるだけ全部集めようとしたんだけど…。結構量が多かったから……もしかしたら流されたのもあるかもしれない」


川……
流された……。
このファイルの中身が?


「どうして……、誰がそんなことを……」

「……」

「……失くしたって……」

「……見つけたのは、3日前。その日は凪と夜に会う約束をしてた。けど、ずっと川で探して、紙を家で乾かして……、夜、行くのが遅くなった。……ごめん……」



謝られても、私はその約束を覚えてないから。



「日付見て、合わせたんだけど、ところどころ読まねぇし、何枚か流されたと思う。──本当に、ごめん」



なんて言えばいいか分からない。
そもそも、どうしてこのファイルが、川なんかに落ちてしまったのか。
見覚えのないファイルが私のだと言われても、はいそうですか、なんて言えない。
この人が嘘をついているのかもしれない。

でも、キッチンにいるお母さんは何も言わない。


「……読んでもいいですか?」

「うん、これは凪のだから」


わたしの……。



〝あなた────です
これは──────────です
あなたは────────しまい
今日──────必ず忘れてしまいます
──────────
─────────
今日の私へ
今日の出来事、なんでもいいです
────────
────〟


ほぼ文字が滲んでいて、読まなかった。
かろうじて読めるのも、少なく。
どんな内容が全く分からない。
次をめくっても、めくっても。

全部が水で濡れたようだった。
これ全部、彼は乾かしてくれたのだろうか?



日記の中に、〝ウシオくん〟や〝潮くん〟という文字を見つけた。でも、文字だけで、彼が何をしている人なのか書かれていない。
書かれているかもしれないけど、何を書いているか分からない。


途中で読むのをやめて、私は彼を見た。


「あの……」

「うん?」

「これ、これが、私のなら……、ありがとうございます……見つけてくれて……」

「うん」

「でも、正直なところ、まだ……」


なんて言えばいいか分からず、口を閉ざした。


「怖い?」


そう聞いてくる彼に、小さく頷いた。


「……あなたと、……いま、どんな関係か分かりません…」

「うん」

「でも、…私が知ってるのは、あなたが私に酷いことをしたっていうことだけで……」

「…うん」

「……信用できません」

「うん」

「ごめんなさい……」

「ううん、教えてくれてありがとう」


拒絶している私に、ありがとうだなんて。
どういう気持ちで言ってるんだろう。
優しく、笑顔を向けてくる彼の反応に困ってしまう。


この古い記憶から、彼は本当に変わったのだろうか。


「あの……」

「なに?」

「あなたを、知る、っていうわけじゃ、ありませんが、」

「うん」

「これを拾ったという川に行ってみたいです」

「え?」

「……だめですか、」


少し、上目遣い気味に、潮……くん、を見つめた。


彼は一瞬、瞬きをしたけど、「凪がそう望むなら」とまた優しく笑った。

「けど、咳がまだ出てるから、凪が少しでも苦しいと思ったら帰るね」


と、その言葉を付け加えた。
私に怪我をさせて、記憶の中の潮くんは足から血が出ても笑っていたのに、私の体を心配するなんて何だか変な感じがした。

お母さんが一緒に来ると思った。それでもお母さんは笑いながら潮くんなら安心できるからと言い、一緒に来ることはなく。

潮くんと一緒に外へ出たのものの、一緒に並んで向かうのも怖く。かといって私が前を歩いても、また後ろから押されるのでは?と思えば、前を歩くこともできなくて。


「……前を歩いてください」


そう言った私に、潮くんは笑って「分かった」と言った。
3歩ほど潮くんが前を歩く。
咳が出そうになるけど、それほどツラくなかった。それよりも暑いという気持ちの方が勝っていた。


ちらちらと、私が後ろにいることを確認する彼。潮くんは何度も「しんどくないか?」と聞いてきた。優しい彼は、やっぱり変な気がして。複雑な感情が芽生えてくる。


川はそれほど遠くはなかったみたいで、下半身ほどの白いフェンスの向こうに、流れてる川を見つけた。


その川は3mほど下にあった。
土と草がはえている急斜面の下に、流れていた。


「…ここですか?」

「うん、ここから投げられ……、捨てられた」


言葉を言い換えた潮くん。
きっと〝投げられた〟と言いたかったのかもしれない。いったい、誰に投げられたのか。


「あなたはここからおりたのですか?」

「うん」

「ここから?」

「ああ、飛び降りた」


思い出すようにくすくすと笑った潮くんは、「必死だったから…」と、白いフェンスに手を置いた。


「必死?」

「うん」

「…拾うのに?」

「うん」

「……」

「あれは凪のだから。凪の大事なものは俺の大事なものでもあるから」


私の大事なもの……。
あれは、あの日記は、私の大事なものだったのか。それもそうかもしれない。記憶が無い今、手がかりになるのはあの日記だけ。

過去の私の事が分かったかもしれないのに……。


「…拾ってくれてありがとうございます」

「敬語いらないよ」

「…でも」

「今の凪は、戸惑うかもしれないけど」

「……?」

「凪は俺のかけがえのない存在だから」


かけがえのない存在……。


「俺に何でもわがまま言っていいからな」


わがまま……。


「あなたは、私のことを虐めてましたよね…」

「うん」

「それなのに、どうして、こんな関係になったのですか?」

「それは……」


潮くんが私に体を向き直し、口を開こうとした時だった。潮くんが驚いたように目を見開き、「なぎ、」と、私の方に手を伸ばしてきた。

思わず、肩がビク、っと反応すると、潮くんは「ここにいて欲しい、絶対、動かないで」と焦ったように声を荒くした。


なに?と、思っていると、何をしてるのか潮くんはもう一度白いフェンスに手をかけると、軽々と足をフェンスの向こうへ……。

フェンスの向こうに飛んだ潮くんは、そのまま崖を落ちるように、飛び降りた。
え?!と驚いて下に目を向ければ、川の中に膝まで足を入れて、向こう岸に渡ろうとする彼が見え。


何をしてるの?
フェンスに手をやり、そのまま潮くんを見ていると、向こう岸にある雑草の間をかき分けていた。

そのまま、何かの、ゴミらしいものを手に取った彼は、それを手に掴み見ていた。

それを大事そうに見つめた彼は、向こう岸から急斜面を登り、近くにあった橋でこっち側に戻ってきた。走って戻ってくる潮くんは、足元がずぶ濡れで。

もちろん、ズボンも靴も濡れていた。


「これ……切れ端だけど、草に引っかかって濡れてなかった……、探す時見落としてたみたいで……」


そう言って渡されたのは、濡れていない紙だった。ただ半分に破れていて、風で飛んできた土などで汚れているだけだった。



〝令和2年7月14日
ウシオくんが泣いていた
私が傷つけた
7月15日の私へ
どうかウシオくんを─────〟


紙は、『を』からの続きは破れてなかった…。





「途中で、離れてごめん……」


謝ってくる潮くんに、胸が苦しくなった。

あんな飛び降り方。
日記の切れ端を、見つけたからって。
下手をすれば体のどこかが骨折するかもしれないほどの、高さなのに。


私のために……。
どうしてか泣きそうになって、潮くんを見つめれば、右腕が赤くなっているのに気づき。


「っ、けが、」

「え?」

「うで、血が、」


じわじわと、湿潤するように流れていく。沢山流れているわけではないけど、範囲が広い。

血が出ているその腕に手を伸ばした。


「ああ、たぶんおりた時にスったんだと…」

「ご、ごめんなさ」

「え?」

「わ、わたしのせいで、怪我を……」


泣きそうになれば、潮くんは慌てて「凪のせいじゃないから」と腕を隠そうとした。


「見せてください……」

「大丈夫」

「見せてくださいっ…」


私は、紙をポケットの中に入れ、潮くんの手のひらを掴んだ。たった今川に入ったせいか、手が汚れていた。
だけどもそんなのは気にならず、怪我の部分を見た私は、「……痛かったですよね、」と、眉を下げた。


「なぎ……」


広い範囲の怪我。
もし、今以上に酷ければ……。


「私のために、危険なことはしないでください…」


そう言って泣きそうになれば、どうしてか潮くんの方が泣きそうになっていて。
もしかしたら、痛みで、泣きそうになっているのかもしれない。
そう思って、「帰りましょう」と、言おうとした時だった。


まるで、力が抜けたように、潮くんが膝をおりしゃがみ込んだのは。


手を持っていた私も、そのまましゃがみ込む形になり、顔を下に向け顔を見えなくした潮くんは、「なんで、」と、辛そうな声を出した。


足元が濡れてる潮くんの地面が、濡れる。
どうしてしゃがみ込んだのか分からない私は、「………うしおくん?」と名前を呼んだ。

名前を呼んだ時、繋がっていた潮くんの手のひらに、力が入ったような気がして。


「…俺の事、怖いだろう?」

「…え?」

「なんで、凪は、いつも優しいんだ……」

「あ、の」


潮くんの顔が見えない。
でも、声が、すごく悲しそうで。
泣いてるのではないか、と、思うほどで。


「好きだ……」


心のこもった深い言葉に、声が出なかった。
突然の告白に、私も無意識に手を握り返していたらしい。


「好きなんだ……」

「……、あ、の……」

「好きすぎて、気が狂いそうだ……」

「………」

「なんで──……」


なんで、
なにが……。


「……忘れないでくれよ……──」


そう言った潮くんは泣いていた。
私の目を見つめ、とても辛そうに。
言葉が出ない私は、戸惑い、ただ潮くんと目を合わせることしかできない。


「……忘れないでくれ」


噛み締める潮くんは、私の手を引き、顔を傾けた。その動作に、戸惑っている私は拒絶することができなかった。


口元を狙われているその引き寄せ方に、私はキスをされると思った。けど、その寸前で、彼の動きは止まった。


必死に理性が働いているかのような、その止め方。私が何もできないでいると、眉を顰めた潮くんは顔を逸らし、そのまま私の肩に額部分を預けてきた。


この人が怖いのに拒絶できなかった。
拒絶すると、この人が壊れてしまうような気がして。


「わるい、……」

「……」

「今の、聞かなかったことにしてほしい…」


〝忘れてくれ〟とは、言わない男。


「わたしは、ずっとあなたに大事にされていたんですか?」


私が言葉を出すと、彼は顔をあげた。
そのまま私と視線を重ねると、「…俺は、」と、ゆっくり離れていく。


「凪を、大事にできているか分からない」

「…」

「信用されてないってことは、それだけ未熟だってことだから」


私の手を強く握る。


「もっともっと、凪を支えていくから、凪はずっと俺の傍にいてくれ……」


手は繋がれたままだった。
マンションまで私を送ってくれた潮くんは、「これじゃ上がれないから、俺もいったん帰るな」と、名残惜しそうに手を離した。

私のせいで、ずぶ濡れになった足元。

腕のことを心配すると、腕の怪我も流した方がいいから風呂入ってくると、躊躇っている私を説得した。


部屋に戻ればお母さんがいて、「どうだった?潮くんは?」と質問をしてきた。


どうと言われても。
潮くんが川に……と、言うことしかできなく。


「彼は、……1度家に帰ると……」

「そうなの」


優しく笑ったお母さんは、疲れたと思うからゆっくりしなさいと私に休むように言ってきた。

私はリビングに置いたままの汚れたファイルを取り、〝なぎのへや〟に戻った。
読める部分をひたすら読んだ。
読めば読むほど、潮くんの名前が出てきた。
でもどんな内容か分からない。

かろうじて分かる部分を、分かりやすくするためにボールペンでなぞってみた。


知らなくちゃいけない、彼のことを。

泣いていた潮くんを思い出す。


『──……忘れないでくれよ……──』


思い出さなくちゃいけない、彼のことを。



私はポケットから、さっき潮くんが拾ってくれた紙を広げた。


〝令和2年7月14日
ウシオくんが泣いていた
私が傷つけた
7月15日の私へ
どうかウシオくんを─────〟


私はどうやら、何度も潮くんを泣かせているらしかった。


お昼すぎ、お母さんに「お昼ご飯食べましょう」と呼ばれた。そのとき、お母さんに今日の日にちを聞いた。今日は7月21日と言っていた。


食べている最中も、気になるのは潮くんの事だった。腕の怪我はどうなったのだろうか。潮くんは手当をしたのかな。

潮くんの家はどこなんだろう。
日記を見れば分かるだろうか?
でも、読める部分には、潮くんの住んでいるところなんて書いていなかった。


「あの……潮くんはどこに住んでいるのですか?」


お母さんは知っているだろうか?
潮くんとは知り合いみたいだから。


「3棟よ」

「さんとう?」

「ここが、マンションの2棟で、潮くんは3棟に住んでるの。ここから5分もないかな」


じゃあ、家は近いってことで…。


「潮くんが気になるの?」


そう言ったお母さんは、嬉しそうだった。


「はい…」

「そう、だったら、電話してみれば?」

「電話?」

「凪の部屋にスマホがあったでしょ?そこに潮くんの名前が登録されているはずだから」




────潮くんの名前は、確かにあった。スマホなんて使ったことがないのに、使い方が自然に分かってしまう。それを不思議に思いながら、アドレス帳にある〝さくらぎうしお〟という名前をずっと眺めていた。


ちなみに、アドレス帳には、
〝おかあさん〟
〝さくらぎうしお〟
〝けいさつ〟
〝きゅうきゅうしゃ〟
の4つしか登録されていなかった。


潮くんに電話をかけてみた。3コールほど音が鳴ってから、電話は繋がった。


『どうした?』


そんな優しい声のトーンとともに。
蘇るのは、小さい頃の酷い記憶。
見下しながら笑っていた小学生の頃の潮くん。


「……腕の、調子はどうですか?」


私は朝、この人に対して、凄く凄く泣いたのに。


『…ああ、大丈夫。もう全く痛くない』


穏やかな声のせいか、私も喋りやすく。


「手当はしましたか…」

『うん』

「私のせいで、ごめんなさい…」

『俺が勝手におりたのに』


クスクスと、笑った潮くんは『凪から電話くれたの、めちゃくちゃ嬉しい』と本当に幸せそうに呟いた。


「潮くん、」

『うん?』

「わたし、思い出します、ぜったい。今日の事も……、絶対に覚えます……」

『……』

「だからもう、泣かないでください」


電話越しだから潮くんがどんな顔をしているか分からない、けど、悲しんでなければいいなと思う。


『……なぎ』

「はい…」

『今から、会いに行っていい?』


一昨日の私は、何も返事をしなかった。
けど、昨日は肯定の返事をした。
今日は──……。


「あの、」

『いやならいい、電話だけで十分だから』

「ずっと一緒にいてくれますか?」

『………ずっと?』

「私が、思い出すまで、ずっと傍にいてくれませんか?」
今何時だろう、と、目が覚めた。
寝返りをうとうとするけど、その人の体があったため上手く寝返りを打つことが出来なかった。
体、と言っても、潮くんが私の手をずっと握っているからなのだけれど。


潮くんは寝ているらしい。
静かな寝息を立てて、気持ちよさそうに眠っていた。そんな潮くんを起こすことも出来なくて、そのまま身を任せた。


私が不安に思うことは、ただ一つ。
今日は何年の、何月何日だということ。
だけど多分、こうして潮くんが私と寝ているということは、少なからず私は潮くんのことを覚えているということ。


それに安心して、繋がれた手を握れば、潮くんのことを起こしてしまったらしい。かすかに握り返してきた。そのまま瞼が開き、「…おはよう」と、優しく笑いながら言ってくる潮くんに、私も「おはようございます」と笑っていた。


「ごめんなさい、起こすつもりは…」

「…ううん、凪に起こされて嬉しい」


愛おしそうに、寝起きの手で私の頬を撫でる。


「…あの、今日は…」

「今日は、7月27日」


えっと、昨日が確か26日だったから。そう考えていると、頬に置かれていた手が移動し、私を抱きしめた。


「…潮くん」

「うん」

「わたし、きのうのこと、全部覚えてる」

「うん──」

「7日間のこと、全部、覚えてます」


潮くんの腕の中で笑えば、潮くんも笑ったような気がして。


「潮くんが、大事にしてくれたこと、全部覚えてます」





──7日前、私は潮くんと色々な事を話した。潮くんが私に一目惚れをした事も、告白してくれたことも、それを私が忘れて虐めてしまったことも。
それでも、好きだから、傍にいようと決めたことも。


それを聞いて、二度と忘れたくないと思った私は、潮くんと1晩を過ごそうと思った。
ずっとずっと一緒にいれば、忘れないんじゃないかって思ったから。


こうして一緒に寝るのは、「ホテルで手を繋いで寝たことがある」と潮くんが教えてくれたから。
だからその時のことを思い出すために、潮くんが再現してくれていて。
だけど、過去のことは思い出せない。
それでもこの7日間のことを覚えている私は、とても気持ち的に楽だった。


私は今17歳で、高校生。
世間では夏休みという長時間のお休みらしい。
潮くんはまたウトウトとし始めたから、トイレに行きたい私は手を離した。
そうすれば潮くんはまた起きて、「どこに行く?」と、私と手を繋ごうとしたから。


「トイレに、すぐに戻るね」

「早く戻ってこいよ」


うん、と返事をしてから、私はリビングに向かった。まだ7日間だから、普通に喋るのにはまだ抵抗があって。敬語と、敬語じゃないのと混じってしまう。


ちょうどお母さんと鉢合わせして、「潮くんは?」と聞かれた。


「もう少し寝るみたいで」

「昨日、ずっと起きてたからかしらね」

「そうなんですか?」

「潮くん、凪の寝顔を見れるなんて幸せすぎるって、毎晩言ってるもの。かわいい寝不足ね」


お母さんの言葉に恥ずかしくて、顔が赤くなるのが分かった。
潮くんは毎晩、そんなことを思ってくれているらしい。

この7日間、私を大切にしてくれて。
私の中でも潮くんの第一印象が変わり始めている今、好感度が勢いよく上がっていく。

この人なら大丈夫と、信頼をしているようだった。



部屋に戻り、起きていたらしい潮くんは「おかえり」と、手を伸ばしてきた。
聞いたところによると、この手を繋ごうとするのは、潮くんの癖らしい。


そのまま手を繋ぐと引き寄せられ。


「潮くん、」

「…ん?」

「やっぱり、少し忘れてるみたい」

「え?」

「だって私、毎晩、潮くんに寝顔を見れて幸せなんて言われてないもの」


クスクスと笑えば、潮くんは寝起きだというのに、顔を真っ赤にした。


「もー……」


と、複雑な様子で。


「……言わなくても、幸せなの分かるだろ?」


そう言って、完璧に私を腕の中に引き寄せる。


「凪?」

「なんですか?」

「今日、どこ行きたい?」

「……」

「凪が行きたいところ行こう」

「わたし、」

「うん」

「潮くんの部屋に行ってみたい」

「俺の部屋?」

「うん、写真とかあれば見たいなあと思って」


「写真?」


潮くんは、顔を傾けた。


「はい、何か思い出せるような物はないかと思って」

「んー…、あんまり凪のこと写真に撮ったことないから。ああ、でも、卒アルはある」

「卒アル?」

「卒業アルバム。小学生と中学の時の。凪の部屋にもあると思うけど」

「私の部屋に?あるんですか?」

「でも、俺の部屋に行きたいなら一緒に行こう。俺も凪が部屋に来てくれたら嬉しい」



甘く言ってきた潮くんに恐怖は無かった。
この7日間、潮くんは「外に行きたい」というわがままにも付き合ってくれた。
時々、記憶が思い出せず不安になっていると「そのままでいい。大丈夫」と私を慰めてくれた。

その途中で、私は潮くんと付き合っていることを知った。
それを思い出したくても思い出せない私は、本当に潮くんに申し訳なくて……。

過去になにがあったか私には分からない。
けど、今の潮くんを信じたいと思った。

潮くんが大事にしているように、私も彼を大事にしようと。


「3棟にあるんですよね?」

「うん、知ってる?」

「はい、お母さんから聞きました」

「いつでも来ていいから」

「いいんですか?」

「うん、本当に、凪ならなんでもいいんだ」


潮くんに笑いかけていると、潮くんも幸せそうに笑っているのが視界に入ってきた。

そのまま私の頭を撫でる潮くんは、軽く私を引き寄せた。


「……怖い?」


潮くんのことを?
怖い、この感情は怖いのだろうか?


「分かりません…、でも、もう、潮くんは優しい人だって、わかる」

「うん」

「あの」

「なに?」


顔の、距離が近い。
これ以上引き寄せられれば、キスができてしまう距離。


「私たち、キスしたこと、あるんですか、」


潮くんは、少し頭を撫でる手を止めたけど。
すぐに優しく笑って、「あるよ」と、また愛おしそうに頭を撫でた。

本当に、触るだけで幸せだと、思っているような顔。


「キスをすれば、思い出すでしょうか」

「…凪」

「潮くんは、私とキスしたい?」

「したい」

「なら──」

「でも、まだ凪は俺の事怖がってる。それに〝好き〟って思ってるわけじゃないだろう?」


好き……?


「焦らなくていいんだ、凪のペースで。凪が俺の事を好きだと思って、俺の事を怖くないと思ったら、──その時はさせてほしい」


その時……。


「でも、すれば、思い出すかもしれません……」

「いや、うん、それだったらすげぇ嬉しいんだけど…」

「けど?」

「凪の体を犠牲する思い出させ方は、したくないんだ」


犠牲にする思い出させ方?


「凪のペースで、ゆっくり思い出していこう」

潮くんの部屋は、綺麗だった。
綺麗と言うよりも、物が少なく感じた。
ワークテーブルのような机には、何かをメモ書きするような紙とペンがあるぐらいで。

カーテンなどの家具は、色は紺と黒が多い気がした。
潮くんは、綺麗好きなのかもしれない。
潮くんはクローゼットを開けると、2冊、分厚い本のようなものを私に差し出してくれた。

卒業アルバムと書かれた2冊の本。


「もしかしたら、見て、怖かった俺の事をもっと思い出すかもしれない」


そう言われて、私は首を横に振った。


「今を大事にしますから、きっと、大丈夫ですよ」と。


小学生の卒業アルバムを先に見ると、6年1組に私たちの名前があった。


〝桜木潮〟
〝澤田凪〟


同じさ行だからか、私たちの個人写真は隣同士だった。幼い頃の潮くんは、私の記憶通りの顔で。
だけど、潮くんの顔を見ても何も思い出す事はなくて。


パラ、パラ…とめくり、修学旅行や、運動会などのイベントの写真を見つめた。
そういう行事は知ってる。
運動会は、スポーツを競うようなイベントだと言うことも。

たくさん写真がある中、私と潮くんを探した。
でも上手く見つけられなかった。というかいなかった。


「私たちは、載ってないのですか?」

「うん、凪は修学旅行は参加してない。運動会も…、凪、その日は戸惑ってた日だから参加してなかった」

「戸惑ってた日?」

「うん、何も覚えてないって、ずっと泣いてた」


戸惑って、ずっと泣いてた…。
私が?


「潮くんも、載ってません」

「ああ、そんときはもう凪を受け入れてたから、ずっと一緒にいた」


当たり前のように言った潮くんに、軽く目を見開いた。


「ずっと?」

「うん、だから俺も、参加してない。凪とずっと家で一緒にいたんだよ」


潮くんの言葉に、胸が締め付けられた。


「参加、したくなかったの…?」

「したくなかった、って言ったら嘘になるけど」

「……私のせいで、」

「参加するしないよりも、やっぱり俺の優先順位は凪なんだよ」

「……」

「だから行かなかったことには後悔してない。凪を置いて行った方が俺は後悔してたはずだから」


後悔……。
だって、こういうのは、修学旅行とか、1度きりのイベントじゃ……。
私を本当に、大事にしてくれていたらしい。


「そのページには凪は載ってないけど、次は載ってる。学校の中で撮った写真だから」


言われた通りに捲ってみると、そこには授業中らしい風景の写真が撮られていて。隣の席に座っている潮くんも一緒に映っていた。



中学の卒業アルバムも似たような感じだった。
個人撮影と、学校風景に私が写っていた。そういうイベントに、私も潮くんも参加していなかった。


私は時間が許す限り、卒業アルバムを眺めていた。小学生の頃、潮くんは野球のクラブチームに入っていたらしい。そこのクラブチームの集合写真の中に潮くんはいた。
ちなみに、私はどこのクラブにも所属していなかった。


「…野球をやってたの?」

「…うん、小学生のころだけ」


そう言った潮くんは、少しだけ悲しそうだった。


「やめたんですか?」

「学校のクラブと、少年野球に入ってたけど、やめた」

「それも、私がいたからですか?」

「俺が凪と一緒にいたかったから」

「……」

「後悔してないよ」


そう言って優しく笑う潮くん。


「野球で、潮くんはどんなことをしてたんですか?」

「ピッチャーしてた」

「ピッチャー?」

「ああ、ボールを投げる役割」

「ボールを投げる役割…」

「うん」

「この人は、なんですか?」

「え?」

「この、藤沢、と書かれてる人、いっぱい服みたいなのを着てます」

「それは、キャッチャーの防具」

「キャッチャー?」

「投げる人間がいれば、それを受け取る役割の人間もいるから」



受け取る役割?


「それはペアって事ですか」

「うん、野球の言葉で言うとバッテリーかな」

「仲が良い友達みたいなものですか?」

「うん、──仲は、良かったな」


良かったな?
過去形?


「今は仲良くないんですか?」

「うん」

「もしかして、潮くんが私のせいで野球をやめてしまったから、仲が悪くなったとか…」

「違うよ、俺が藤沢を怒らせた。凪は関係ない」

「……」

「それに、もう俺も関わる気はないよ」

「ケンカをしたのですか?」

「あいつは俺の大事なものに酷いことしたから。許せねぇだけ」


潮くんはそう言って笑うと、まるで逃げるように「なんか飲みのも持ってくる」と、部屋から出ていった。


私は中学生の卒業アルバムを見た。
どこを見ても、潮くんは私と映っていた。

潮くんが…、私以外の誰かと映っているのは無かった。


潮くんに、友達はいるのだろうか?
もし、いなかったとしたら。
潮くんは、私のせいで…
友達ができなかったのだろうか?


────その日の午後、私はお母さんと一緒にスーパーへ買い物に来ていた。記憶が続き出してからここに来るのは2回目だった。

覚えてる、私は覚えている、そう何度も思った気がする。

スーパーで食材を買い、私はスーパーからマンションの方を見た。ここは住んでいるマンションから近いらしく、スーパーからマンションは見えていた。


私はお母さんに無理を言って、道を覚えるために家まで歩きたいと言った。お母さんは躊躇っていたけど、「潮くんのことを思い出したいんです…」と、言うと、お母さんは了承してくれた。


マンションに向かって歩いていても、潮くんのことを思い出すことは無かった。
自分の時間を私に費やしている潮くん…。
ひとりの時間で思い出そうとしても、やっぱりダメみたいで。どうすれば思い出せるんだろう?


このまま思い出さなければ、私は潮くんにもっと迷惑をかけるのではないか。
優先順位は私だと言ってくれたけど、これからも潮くんの優先順位は私なんだろうか?
潮くんの未来を、自由を、壊してしまうのではないか。
潮くんは、このままでいいのだろうか?



そんな疑問を持ちながら、もうすぐマンションへつく道路沿いを歩いている時だった。
1台のバイクが私の横を走り去った。
けど、そのバイクはゆっくりとスピードを落とし、止まった。そうして私の方にゆっくりと振り返ると、遠目だからよく見えなかったけど、驚いていたような顔をしてた気がする。


多分、背格好からして、同い年ぐらいの男の子で。その男の子は、車が通ってなかったからか、Uターンするようにバイクを走らせ私に近づいてきた。


暑いのか、軽くヘルメットをとったその人は、茶色い髪をしていた。


「どうしたの、迷子?」


私に向かって、焦ったようにそう言ってくる男の子に、見覚えはなかった。私に向かって「迷子?」と言ってくる彼。

普通、17歳の女の子に、いきなり「迷子?」って聞いてくるだろうか?
多分、それはないと思う。
もしかすると、この人は私のことを知っていて、私は覚えていないだけなのかもしれない。
それから、私が記憶喪失だということを知っている人なのかもしれない。


「……すみません、私の知り合いですか?」

「あ、いや、知り合いというか、知ってるというか。俺の友達の知ってるやつというか…」


友達の知り合い?
よく分からないけど、やっぱり、私のことを知っている人みたいで。


「あ、怪しいもんじゃない!俺も2回、あんたと会ったことあるから!あんたは忘れてると思うけど会ったことある!」


2回、会ったことがあるらしい。
そして私は忘れているらしい。
ということは、7日前、1週間よりも前に会ったということ。



「そうなんですね、覚えていなくてごめんなさい…」

「…迷子じゃねぇの?」


恐る恐る聞いてくる彼に、私は顔を横にふった。


「家は分かるので、迷子ではないですよ」


そう言って笑えば、彼はほっとしたような顔つきになった。


「…そっか、なら良かった」


彼も笑い、「初めて会った時、迷子っぽかったから、今日もそれだと思った」と、私が知らないことを教えてくれた。

茶髪で、怖そうに見える彼は、いい人みたいだった。


「送ろうか?」


記憶が無い時、迷子になったことがある私を心配してくれているらしい。


「大丈夫です、家はもうすぐなので。あなたはどこかへ行く予定だったのでは?」

「俺は那月の家に行くつもりだったから。方向同じなんだよ」

「那月?」

「あ、藤沢那月!ごめん、いきなり知らない奴の名前出されても分かんねぇよな」


藤沢?
今朝見てた卒業アルバムを思い出す。
藤沢──…だったような名字な気がする。
潮くんと仲が良かったらしい人。


「その人は、私と同じ小学校だった人でしょうか?」

「え!知ってんの?!」

「卒業アルバムで見ましたから」

「──あ、ああ、それで。那月自身を覚えてるわけじゃねぇんだな」


驚いた顔から納得したような顔つきになる。この人はいろいろな顔をするんだなぁ…。


「声をかけてくださってありがとうございます。あなたの名前を聞いてもいいですか?」

「え?」

「また、今度お礼をしたいので、」

「いや、大丈夫。ってか、」

「大丈夫です、私もう記憶を保てるようになったらしいので、覚えることができます」

「え?」

「過去のことは思い出せないのですが…。この一週間の事は覚えているんですよ」



私がそう言うと驚いた顔をしたけど、すぐにふにゃりとした笑顔になった。


「そっか、…俺は広瀬(ひろせ)。よかったなぁ。だから家も分かるんだな」



広瀬くんはバイクのエンジンを切り、私の横を歩いた。記憶が保てると言っても心配らしく。


「本当に大丈夫ですよ」

「俺が心配なの」


柔らかく笑う広瀬くんは「今日はあの男いねぇの?」と、顔を傾けた。

あの男?
あの男と言われて思い浮かべるのは潮くんだった。ずっとずっと、そばにいてくれる潮くん。


「潮くんのことも知っているのですか?」

「うん、すげぇ好きだよね、あんたのこと」


そう言われて、少し照れてしまう自分がいた。


「はい…、いつも大事にしてくれてます」

「あんたが記憶を保つようになって、1番嬉しいのはあいつだろうなぁ」

「はい」

「あいつ、今までめっちゃくちゃ頑張ってきたと思うから、すげぇよなぁ…。マジであんたのためなら何でもする、って感じだし」

「…」

「那月をボコった時も、あんたのためだし」

「え?」

「ん?」

「ボコったって、暴力をしたってことですか?」

「え?知らない?」


知らない?
何を?
潮くんが、那月という人に暴力をしたことを?
考えが正しいのなら、この人の言う男は藤沢那月という、潮くんが昔仲がよかった男なんだと思う。


「小学生…の時の話ですか?」

「いや、最近。1週間…よりも、前か。あ…だから覚えてないのか」

「何を…」

「潮ってやつ、1週間ぐらい前に、那月をボコボコにしたんだよ」


潮くんが…
暴力?
1週間ぐらい前?
それよりも、少し前。


「腕の骨折られてるからバイク乗れねぇし、だから今も迎えに行ってる途中なんだけど」


腕の骨…?


「まあ、あれはあいつが──…」

「潮くん、骨を折るほどの暴力をしたんですか?」

「え?」

「潮くんが、暴力を…」



私の声が、よほど小さかったのか、罰が悪そうな顔をした広瀬くんは、「わるい、」と、顔を下に向けた。


「これはあんたにとっていい話じゃなかったな」


いい話じゃ…。


優しい潮くんが、暴力を…。
藤沢那月という人に暴力をしたなんて。

後ろから押して来た、小学生の頃の潮くんを思い出した。
潮くんは、今でも、暴力をする、人間なのだろうか。

潮くんは私にも、また、暴力をする日が来るのだろうか?


どっちが、本当の潮くんなのだろうか。


「どうして、そんなことになったのですか?」

「それは──…」



広瀬くんが口を開こうとした時、広瀬くんが何かに気づき、喋るのをやめた。
そしてとある方向を見て、「──…那月」とぽつりと呟いた広瀬くん。
私もその方向を見れば、ひとりの、金髪の人がこっちに向かって歩いてくるのが見えた。


その顔は険しく、目も鋭く、私達を睨んでいる顔つきで。


「広瀬」


声も、低かった。


「時間過ぎてるし、つか、なんでこの女と一緒にいる?」


私を、怪訝な目で一瞥した彼は、怒っているようで。その彼の腕にはギプスがつけられていた。よく見ると彼の顔には治りかけている傷や、痣があった。


彼が、藤沢那月──…。
おそらく、潮くんと、仲が良くて、野球をしてた人。
卒業アルバムでは、黒髪で、もっと幼かった。

彼の睨んでいる目が、広瀬くんに向けられた。


「…迷子かと思ったんだよ」

「ほっとけよ」

「そうはいかねぇだろ…」

「また泣きわめいてたのか?」


私を見て、バカにしたように鼻で笑った男。その人を見て、私は〝苦手〟だと感じた。
金髪で怖い見た目で派手、というよりも、何だか体が〝関わりたくない〟って言っているようで。


「いや、この子、もう記憶できるみたいで。──な?」


広瀬くんに聞かれ、頷けば、ピクリと眉を寄せた藤沢那月という男が「いつから」と低く呟いた。


「お前、そんな拷問みたいな聞き方やめろよ。怖がってるだろ」

「知るかよ、いつからだよ」

「1週間前って言ってたけど」

「へぇ、」


嫌な、笑みを浮かべ私を見下ろす彼は、「俺のおかげじゃん」と、意味の分からない事を口にした。


俺のおかげ?


「昔のことは?」

「覚えてないって…」

「ふうん、だったら教えてやろうか?昔のこと」

「おい、那月」

「お前と一緒にいる潮ってやつのこと」

「那月!」

「あいつがお前を殺そうとしたことも」


藤沢那月という人は、怖いことばかり私に教えてくる。広瀬くんが止めようとしても、藤沢那月は私を見下ろし話すのを止めなかった。


──私が思い出せなかった虐めの内容も、喋っていた。


教科書に落書きは当たり前で、破かれて。
紙を丸めたものを投げつけてきたり。
体に体当たりは当たり前で。
階段から突き落とそうとした時もあったとか。

プールに突き落としたり──…。


それを聞いて泣きそうになっていると、「あいつ、実際はすげぇ性格悪いから、お前離れた方がいいよ」と、笑みを浮かべた。


「そんなこと…、潮くんは、優しいです」

「お前にだけな」


私の前だけ…。
恐る恐るその人を見上げれば、まず初めに腕のギプスが目に入った。──潮くんの暴力。


「──…あなたは、昔、潮くんと仲が良かった人…ですよね…。卒業アルバムで、見ました…面影があります」

「……」

「その怪我は、潮くんが…?」

「なんだ、広瀬に聞いたのか?」


顔を顰めていると、「虐めるな、可哀想だろ…」と広瀬くんが止めに入った。


「だったら教えてやるよ、あいつの本性」

「那月…」

「潮に騙されたくなかったら、俺と一緒にいた方がいい」


潮くんに騙されたくなければ?

この人と…?

潮くんは、悪い人なの?

でも潮くんは本当に優しい。
私は今の潮くんを大事にするって決めたのに。
過去よりも…。


藤沢那月は潮くんの連絡先を知らなかったらしく、私のスマホを使って、潮くんを呼び出した。

「今すぐ来いよ」と、面白そうにしている藤沢那月が電話をしているスマホの方で、怒鳴っている潮くんの声が聞こえた。


「こわ、」と、全く怖いと思っていない藤沢那月は、私に隠れてろよと言った。


「私…潮くんのことを知りたいです、でも、こんなふうには知りたくはありません」

「あっそ」

「藤沢さん…」

「俺はお前のために言ってるのにな?」

「…」

「嫌なら帰れ」


どうすればいいか分からなく、顔を下に向けていると、広瀬くんが「とりあえず何かあれば俺が止めるから」と、私に隠れてるように言ってきた。


すぐ近くだったこともあり、潮くんはすぐに来た。よほど急いで来たのか、肩で息をしていて、汗が流れていた。

はあはあと息をしながら、潮くんは周りを見渡し、すぐに藤沢那月を睨みつけた。


「凪は?」


その低い声は、聞いたことも無いぐらい、怒っている声だった。


「帰った」

「っ、もう凪に関わるなって言っただろ!!!」


隠れている私の耳に、潮くんの怒鳴り声が届き、肩がビクッ、と動いた。


「聞いたぞ?あの女から」

「凪をあの女って呼ぶな」

「記憶、出来るようになったんだって?」

「それがなんだ、お前には関係ねぇだろ!」

「良かったじゃねぇか、昔のことは思い出してないんだろ?」

「…」

「お前が虐めてたこと、思い出さなくて良かったなぁ」

「てめぇ、」


潮くんが、藤沢那月に近づく…。
私は声を出さないように、必死に自分の手の平で、口元をおさえた。


──やめて、と、心の中で思いながら。


「つか、俺のおかげだろ、記憶できるようになったの」

「ふざけるな!!」

「まあ、プールよりも、海に落とした方が思い出したかもしんねぇけど…」

「藤沢!!!」


その刹那、潮くんが、藤沢那月の胸ぐらを掴んだ。相当怒ってるらしい潮くんの顔が、怖く。


「なんだよ、まだ怒ってんのか?殴んのか?この間のだけじゃ足りなかったのかよ。すっげぇ痛かったのに」

「お前が凪にあんな事するからだろ…!!!」

「あんな事?」

「ずっと水ん中に…、放置して帰りやがって!!死んでたらどうするつもりだったんだ!!」

「ああ、でも、お前もあいつのこと殺そうとしたじゃん?同じだろ」

「あ?」

「赤信号は渡るもんだって、お前、教えてたじゃん」



私は途中から耳を塞いでいた。
信じようとしていた潮くんが、壊れていくような感覚。
それでも私は優しい潮くんを知っているから。
私のことを大切に思ってくれていることを知っているから。


崩壊を必死に止めようとした。
「凪」って、私の名前を愛おしく呼び、愛おしく頭を撫でる潮くんを必死に思い出していた。


それでも、藤沢那月が何かを言ったのか、腕を振りかざす潮くんが視界の中に入ってきて、──…崩壊が止められなかった。


涙を浮かばせながら思い出したのは、血を流している私を見下ろし笑っている小さい頃の潮くん。



信じたい、信じたい。
潮くんを信じたい。

でも。



「やめて、」と、止めに入った私の体は、藤沢那月を庇っていた。私がいた事に驚いている潮くんは、目を見開き、「なぎ…」と、戸惑いがちに呟いた。


涙を流しながら私は潮くんを見つめてた。
潮くんの目は泳ぎ、困惑気味になっていて。
藤沢那月は、こうなることが分かっていたように笑っていた。


「なぎ、」

「やめてください…」

「……っ、」

「どんな事があっても、…暴力はだめです、」

「凪…、そいつは、」

「暴力は、痛いものだと、分かります…。だからやめてください……」


潮くんが私に腕をのばし、触ろうとする。
きっと、30分前の私なら、潮くんを受け入れていた。30分前の、私なら──。


潮くんを信じていた。




「暴力は、絶対にだめです……」
──『会って話がしたい』

潮くんを拒絶してから3日目の朝、潮くんからメッセージが届いていた。それを見つめ、何の返事もできない私は、凄く心の中が苦しかった。
3日間とも、私は彼の連絡を無視していた。
どうしても、彼に殴りかかろうとした潮くんの顔が忘れられなかった。


「潮か?」


そう言ってベットの上に寝転び、スマホで動画を見ている那月くんが、スマホを眺めている私にどうでも良さそうに呟いた。
何も返事ができないでいると、鼻で笑った那月くんが「那月くんの部屋にいる〜って送ってやれよ」と、楽しそうに笑った。


那月くんの部屋に来るのは、2度目だった。
初日、私を強引にここに連れてきた那月くんは、私がここに来ることに、潮くんに対しての「嫌がらせ」と言っていた。


「…帰っても、いいでしょうか?」

「むり」

「帰りたい…」

「潮のせいで骨折したんだけどなぁ」


そう言われると、帰ることも出来なかった。
この3日間、潮くんに会っていない。
潮くんは家に来るけど、お母さんに「会いたくない」と伝えていれば、潮くんは私の部屋の扉を開けることは無かった。


「今日も、ここに私を呼んだのは、潮くんへの嫌がらせですか?」

「よく分かったな」

「…潮くんが嫌いですか」

「潮もお前も嫌い」

「…私のせいで、2人の仲が悪くなったからですか」

「そーだよ」

「わざと、私に、怖い潮くんを見せたんですか」

「こうも上手くいくとは思わなかったけどな」


くすくすと笑う那月くんは、ほんとに楽しそうだった。


「……私、全部を思い出したいんです…」

「ふうん」

「でも、思い出すのが、怖いです…」

「…」

「これ以上、潮くんのことを怖いって…思うんじゃないかって…」

「…」

「今の潮くんを信じたいです、でも、そう簡単には思えなくて…」

「……」

「もう、思い出さなくても、いいんじゃないかって思ってきました…」

「その方がいいんじゃね」

「はい…」

「……」

「那月くんと、潮くんは、私がいなければずっと仲がいい存在だったんですよね」

「……」

「私がいたから……」

「……」

「…間に合うと思いますか?」

「なにが」

「私が消えれば、あなた達の仲は、元に戻りますか?」


「戻るわけねぇじゃん」


当たり前のように言った彼に、私は視線を下に向けた。


「俺はね、もうお前らを地獄に落とすことしか考えてねぇのよ」

「…地獄?」

「それぐらい嫌いってこと」

「…ごめんなさい…」



私がいたから。
私が記憶喪失なばっかりに。
潮くんと彼の中を壊してしまった。


「謝るなら俺の女になってよ」


何を言うのかと、ベットで寝転んでいる那月くんを見つめれば、彼はスマホじゃなくて私に目を向けていた。

俺の女?
彼女ってこと?
この人は私のことを嫌いなのに?
潮くんの嫌がらせのために?
そもそも、私は潮くんの彼女のはずで。


「…どういうつもりですか?」

「7年間ずっと一緒にいたのに、簡単に他の男のところに来た女と付き合いたいって言ってる」



7年間ずっと…


「…そんな言い方、やめてください」

「お前らの関係って、こんな簡単に崩れるんだな」


崩れる…。


「でも、私は…この10日間のことしか知りません…」

「潮はな、ずっと俺からお前を守ってたんだよ」

「…」

「それなのに、お前は俺を庇った。だからすげぇ楽しいわ、今」


〝地獄〟の言葉をどんどん言ってくる那月くんに、私は何も言えなかった。ずっとずっと黙り込んでいると、「来いよ」と、床に座っている私の腕を掴んできた。


そのまま強引に、苦しい気持ちになっている私をベットの上に連れ込んだ。
そして乱暴に肩を押され、私は那月くんのベットの上に身を沈めた。


何をするのかと、私を見下ろす那月くんを見上げた。


「脱げよ」


脱ぐ?何を?
本当に言っている意味が分からず、目を泳がせながら「え?」と呟いた。


「なに、脱がされてぇの?」


そう言って那月くんが、私の服に手を入れようとするから、慌てた私は「やだっ」と、ベットの枕元の方へと逃げた。


「舐めてんのか? ここに来たってことは、こういうことになるぐらい分かるだろ?」


こういうこと?
分からない…。
服を脱いで、何をするというのか。


「まって…、ほんとに分からない…」

「は?」

「服を脱いで、何するんです」

「何って、お前、潮と──」


潮くん?


「意味、が、分かりません、」

「…」

「潮くんの前で、服を脱いだことなんて、ないです」

「なあ、それは忘れてるだけ?それともそういうのした事ねぇ?」


顔を近づけてきたから、キスをされると思った私は、怖くて「…何を、言っているか分かりません…。やめてください…」と言った。



私の言葉を聞き、私から遠のいたその人は「7年だろ」と、困惑しているようだった。


7年…。


「あの…」

「めんどくさ、」

「…なつき、くん、」

「もういい、帰れよ」

「……」

「潮には、俺の女になったって言っとけ」




──その日の夜、潮くんから電話がかかってきた。この3日間無視していたけど、──もう、これ以上無視するわけにはいかず、私は電話に出た。


『もしもし?凪?』


3日間無視していたのに。
怒っているかもしれないと思っていたのに。
電話越しの潮くんの声は、私の知っている優しい声だった。


『この前は、ごめん。怖いところを見せた…』

「わたし、」

『会えないか…?』


優しい声なのに、電話越しの潮くんの声が、泣いているような気がした。
私はまた、潮くんを泣かせてしまったのだろうか。


「……怖いんです、私の知っている潮くんが、どっちなのか、分からなくて…」

『俺は…このまま終わるなんて絶対いやだ…』


終わる?
私と、潮くんの関係が?

私の知らない、7年間──。


「わたし、…那月くんと、付き合うようなんです」

『…え?』

「だから、少し、時間をくれませんか」

『藤沢と付き合うのか?』

「分かりません…、そのための、考える時間が欲しいんです…」

『……』

「ごめんなさい…、今は潮くんに会うことが出来ません…」

────翌日、罰の悪い顔をした広瀬くんが家に来た。マンションの表札を見て、私が住んでいる号室を知ったとの事だった。


広瀬くんは「この前の、潮ってやつが那月をボコった理由、言ってなかったから」と、わざわざ言いに来てくれたらしく。


玄関の外で、広瀬くんは教えてくれた。



那月くんが、私の記憶を取り戻すために私をプールに落としたこと。

落として、思い出させるために、1時間以上、ずっと水の中に落としたままだったそうで。
私が「寒い…」と凍えても、那月くんは「まだ思い出してないだろ」と、水から上がらせて貰えなかったとか。

私の意識が落ちそうになった時、ようやく水の外に出ることが許され、私はそのまま気を失ったようだった。
そのまま那月くんだけが帰り、助けに来た潮くんが、多分、プールサイドで気を失った私を見て、〝殺してやる〟と言わんばかりに那月くんの所へ暴力を振るいに来たと思う、と。


それを聞いて、何故私が、熱を出して苦しんだのか理解した時、──私は潮くんに何て酷いことを言ってしまったんだと、後悔した…。



私を優先してくれる、潮くん…。




───『それに、もう俺も関わる気はないよ』

──『ケンカをしたのですか?』

──『あいつは俺の大事なものに酷いことしたから。許せねぇだけ』




卒業アルバムを見ていた時言っていた大事なものは、私だったんだ。
那月くんが私に酷いことをしたから。




「那月と付き合うって聞いた…」

「……」

「なんで、そうなったか分からないけど…」

「……」

「あん時のあれは、どう見ても那月が挑発したからで…」

「……」

「あんたは、潮ってやつと、離れるべきじゃないよ」



そう言われても、潮くんに酷いことを言ってしまった今、潮くんのそばに居たいって…私には言うことが出来なかった。




広瀬くんは最後に、そのプールの場所はどこかと聞いた私に、「あんたの元小学校」と教えてくれた。




広瀬くんが帰り、私は〝なぎのへや〟のクローゼットの中を探した。そこには潮くんが言っていたとおり、卒業アルバムがあった。あまり読まれていなかったらしく、埃が被っていた。

ぱんぱん、と、埃をとる。
そして1ページとめくる。
どのページも、潮くんの部屋で見たものと同じだった。
小学校の校舎内。
もしかすると、この小学校に行けば、記憶が戻るかもしれない。
那月くんが私を落としたプールがある、学校へ。


得に何も潮くんに見せてもらった卒業アルバムと変わりがなく、ペラペラと捲っていた時、とあるページを見て私の指の動きは止まった。


最後のページ、きっとみんなが書ける寄せ書きのような、空白のページ。



────『卒業おめでとう 桜木潮』



綺麗、とは言えない字だった。
だけどその文字を見て嬉しくなった私は、潮くんに会いたくてたまらなくなった。


もしかしたら、と思い、中学の卒業アルバムも見た。



──『卒業おめでとう 高校でもよろしく 潮』



空白の、寄せ書きのページにあるのは、どちらも潮くんのメッセージだけだった。




『何してる?』


そう那月くんから電話が来たのは、卒業アルバムを眺めている時だった。横には汚れている日記が挟まれているファイルがあって、読めない文字と睨めっこしていた。


「…聞かなくても、潮くんとは会ってませんよ」


笑いながら言えば、那月くんは『だるい女だな』と、怪訝な声を出した。


「私…、やっぱり思い出すことにします」

『あ?』

「だって、あなたと、潮くんの仲が悪くなったことも、思い出せば分かるでしょう」

『…』

「今の私ではどうすればいいか分からないから…。思い出してから答えをだそうと思うんです」

『一生、思い出さねぇかもしんねぇよ?』

「はい、ですから、小学校に行こうと思います」

『小学校?』

「はい、あなたが私の記憶を取り戻すために、私を落としたプールがある学校に…」

『…誰に聞いた?』

「なので、私はあなたとは付き合えません」

『……』

「私はきっと…、記憶が戻った時も、潮くんを選ぶ気がするから…」



電話を切ったあと、私は小学校へ行く準備を始めた。お母さんに気づかれないようにそっと抜け出した。

マンションのエレベーターに乗り、最近使えるようになったスマホのネット検索で、小学校の位置を検索しようと思っていた矢先、エレベーターを降りたところで、見慣れた金髪が見えた。


私を待っていてくれたのか分からない。けど、それほど怖い顔をしていなかった。


「…道、分かんねぇだろ」


そう言った彼は、まるで着いてこい、とでもいうように、前を歩き出した。

那月くんが何を考えているか分からない。
もしかするとまたプールに落とすのかもしれない。それでも、それで思い出せるならと、私は彼について行った。


夏の暑さが、ジンジンと肌を刺激する。


私が卒業したらしい小学校だけど、校門を見ても、開いていた校門から中に入っても、〝懐かしい〟っていう気持ちは思い浮かんで来なかった。



那月くんが校舎の中に入っていく。
彼の後をおえば、校舎から見える景色に、那月くんは「今日はあそこに落とすのは無理だな」と笑っていた。


那月くんの言葉に窓の外を見れば、夏休みの時期なのに、小学生らしい子がプールに入って遊んでいた。


「校舎の中、勝手に入ってもいいのですか?」

「いいだろ、卒業生だし」


いいのだろうか?分からないけど。
校舎の中を進む那月くんは、「懐かしいな…」と、階段を登っていく。

私にはその〝懐かしい〟が分からない。

目的地は、とある教室の前だったらしい。6年1組と書かれた教室には鍵がかけられていた。だから入ることが出来ず。

那月くんは、近くの廊下の窓を開けた。那月くんが見ているのは運動場らしかった。

運動場を見て、那月くんは「お前が転校してきた日、覚えてる」と呟いた。那月くんは私の方を見ていない。

「その時の担任は、お前が毎日忘れるから、記憶出来ないから、みんなでサポートしていこうって言ってた」

「……」

「そんで、家が近い…俺と潮が、お前を家まで送る事になった。正直、俺は嫌だった。だってめんどくさいだろ。お前をいちいち家まで送るんだぞ?遊びたい日もあるっつーのに」

「……」

「けど、潮は違った。お前をサポートしてた。あいつは昔から優しかったから。置いて帰るかって俺が言った時も、潮はちゃんと送っていってた」

「……」

「それが1ヶ月ぐらい続いた時、潮が…お前に対して怒ってた。理由を聞いても、教えてくんなかったけど…」

「……」

「それから潮がお前を虐めだした、俺は元々お前をよく思ってなかったから、俺もお前を虐めてた。つーか、実際は潮より酷いことをしてたし」

「……」

「今思えば、潮は虐めてたけどちゃんと家までお前を送ってた」

「……」

「そんな日が続いて。ある日、お前の記憶が失うようになった事故の原因が、海で溺れたからって事を知った」

「…海…?」

「ああ、親たちが話してた」

「……」

「それを聞いて、泳げねぇならプールに落としてやろうってなって。俺が突き落とした。──この前、お前に潮が突き落としたって言ったけど、あれは嘘で、俺がプールに突き落としたんだよ」


いつの、話だろうか。
過去の私に話したらしい。


「そしたらお前が泣いて、喚いて、叫んで。頭を抱えて謝りだした。思い出したくない記憶を思い出したみたいに、泣いて──…、それを見た潮がプールに飛び込んでお前を助けてた」

「……」

「そっから潮は、お前を虐める事はなくなった。学校ん中でも、外でも、ずっとお前のそばにいるようになった」

「……」

「俺らは幼稚園から仲良くて、ずっと一緒だった。でも、潮がお前と一緒にいるようになって…、次第にクラスみんなでサポートするのが、潮個人のサポートに変わっていった」

「…潮くんだけ…?」

「みんな、めんどくさいって思ってたからな。毎日毎日、トイレの場所を教える奴もいたんだ、面倒だろ」

「……」

「潮は、転校当初から、お前が好きだったらしい。意味分かんなかったけど」

「……」

「潮が、ずっと一緒にしてた野球を辞めるって言った時は、俺めちゃくちゃ腹が立って。なんでこの女のためにって」

「……」

「お前に友達がいないって理由で、潮がずっとそばにいた。俺の方が付き合い長いのに、なんでって…。俺よりもお前を優先した事にムカついて仕方なかった」

「……」

「やめとけよって言っても、潮はやめなかった。ムカついたけど、それでも、好きなんだっていう、潮の言葉を必死に理解しようとして…。潮が野球をやめたことに、文句は言わなくなった。──けど、言わねぇけど、お前、すぐ忘れるだろ。潮がどれだけお前に尽くしても、お前はすぐに忘れるだろ!」


怒鳴る那月くんは、私の方を見ない。



「…お前は、なんも覚えてない」

「……」

「全く、何も…」

「……」

「仲良く話してんのを見たと思えば、次の日には潮に近づくなって言ってるお前がいる…。お前は潮の気持ちを全く考えてねぇ。潮がどれだけ頑張って努力してるか知らねぇだろ!!」

「……」

「お前からすれば、毎日が他人だもんな」

「……」

「7年間ずっと、サポートしてる潮が怖くて、俺の学校に来るぐらいだもんな?」


那月くんの学校…。


「潮が可哀想で見てられない」

「……」

「だから、お前の記憶が戻るように、もう1回プールに落としてやった」

「……」

「この現状を変えたかった。だからお前の日記も川に捨てた。潮が拾ってたけど、どうせ読めねぇだろ」

「……」

「でも、潮は、お前の記憶が戻らないように今でも必死だ。ずっとお前を守ってる」


……──え?


「俺に潮を貸してくれ。好きでもねぇんなら潮を解放してくれよ」

「……」

「今回も、簡単に俺の方に来やがって…」

「……」

「潮のどこが怖い?! 言ってみろ!!」

「……」

「親友だった俺を…、お前を傷つけたからって理由で…。潮はお前に対してずっと優しかっただろ!! 怖いところなんかねぇだろ!!」

「……」

「なんでお前が泣く」

「……」

「泣きたいのは潮の方だろ!」

「…っ……」

「全部忘れるお前が、潮を傷つけるんだろ!!」




いつの間にか、私の方に振り向いていた彼が、「なあ」と、呼びかけてくる。


「お前もう、記憶できるんだろ?」


両手で顔をおさえる私は、何も言うことが出来ない…。


「だったら、もう、忘れないでくれよ」

「…っ、」

「他のことはいい、潮のことは絶対に忘れないでくれ」


目の奥が熱い。


「頼むから、」

「……、…」

「お前が今、潮を好きじゃなくても…。潮の事は絶対に忘れないでくれ……」


那月くんは、潮くんを嫌ってなんかいなかった。那月くんは今でも潮くんの事が友達として大好きなんだ。だから…──。

とことん、私は最低で最悪だった。
今までどれだけ彼を傷つけてきたんだろう?
那月くんが言うように、今回那月くんを庇った私をどう思っているんだろう?
私は何度、潮くんを拒絶してきたんだろう?
──覚えてない、っていう言い訳は出来ない。


潮くんを好きかと言われれば、分からないと答える。
だけど一緒にはいたいと思う。彼のことを知りたいって。


「お前にこんなこと言うつもりはなかった」


廊下を歩く那月くんが、ぽつりと呟いた。


「本当は、お前を俺のもんにして。二度と潮のところには返さないつもりだった」

「あなたのもの…?」

「ああ、──けど、潮がお前のことマジで大事にしてんだなぁって思ったら、──やめてた」

「大事?」

「さすがに、7年間ずっと体の関係ねぇって、俺なら考えられない」


体の関係?
体って…、子供ができる行為のことだろうか。
確かそれは性行為っていうものじゃ…。
あまりそういうのに詳しくない私は、どう返事をすればいいか分からなかった。


「潮くんを、大切にします」

「頼むよ」

「…はい」

「次忘れてたら、お前のこと本気で殺しに行くから」


笑いながら言った那月くんは、酷い事をしていた過去はあるものの、実際は友達思いのいい人なんだろう。


お願いだから、忘れないで欲しい…。歩きながらそう頭に叩き込んでいた時、視界の中にとある文字が入ってきた。

突然立ち止まる私に、眉を寄せた那月くんは「どうした?」と、立ち止まる。
私はその扉の、上にある文字に夢中だった。
那月くんも私の視線の方に目を向けた。そして呟く。

「理科室?」と。



なんだろう?
見覚えは、ない。
この教室の扉も見たことがないし、文字も…見たことない。今歩いている廊下だって見覚えが──…。



──『理科室、こっち』


違う、場面じゃない。声だ。
景色に見覚えがあるんじゃなくて、声が──…。潮くんの、声…。


──『理科室、こっち』


そうだ、ランドセルを背負っていた潮くんと同じ声。脳が思い出そうとしているのか、何だか白いモヤがうっすらとかかっている。
理科室、理科室、理科室──…。


頭を書抱えている私を見て、「どうした?頭痛いのか?」と、那月くんが近づいてきて、私の方に手を伸ばしてきた。

細い指。

違う。
私の知っている手は、もっとしっかりとしていて。


しっかりとしているけど、脳に浮かぶのは、私が知っている潮くんの手よりも少し小さい手。
まるで走馬灯のように──、とある映像が脳に思い浮かんだ。


小さな手が私の方に差し出される。
──『理科室、こっち』と、言われながら。
そうだ、私はその時、その手に自分の手を重ねた。


目が、泳ぐ。


「おい?」


思い出した、
思い出した、
思い出した
思い出した…!!


「う、うしおくんが、」

「潮?」

「理科室、こっちって!」

「は?」

「私の手を──!!」


握って…──。


「理科室に連れて行ってくれた…」


そう言いながら、手を繋ぐことを、癖だと言っていた潮くんを思い出した。

癖…?

手を繋ぐ事の癖?

ということは、潮くんの癖は、小学校の頃からってことで──。



涙が出るほど、嬉しかった。
少しでも潮くんを思い出せたことが。
それなのに。

「思い出したのか?」と、不安気味に呟いた那月に、どう反応すればいいか分からなかった。


「はい、少しですけど…」

「どんな?」

「潮くんが、私を理科室に連れて行ってくれたことです」


また、眉を寄せた那月くんに、どうして?という思いが募る。


「もう出よう」

「え?」

「お前はあんまり、思い出さない方がいい」


思い出さない方がいい?
どうして?
私はそのために小学校へ来たのに?
そう言えば、さっき那月くんは言っていた。
──『でも、潮は、お前の記憶が戻らないように今でも必死だ。ずっとお前を守ってる』と。


「どうしてですか。潮くんの虐めていた頃の事を思い出すから?」

「違う」

「じゃあ、どうして──…」

「──」


口を閉ざした那月くんは、本当に小学校から出るらしく、来た道を戻っていく。
小学校から出て、マンションの方に向かう那月くんの背中を追いかけた。


そうして、しばらくすると、那月くんが私の方に振り向いた。



「さっき、言ったよな。お前が海で溺れた時、──記憶喪失になったって」

「え?」

「事故は事故だけど、海の事故っていうのは、お前には教えてないはずだ。──お前には絶対、思い出させないようにしてきたはずだから」

「……海の、事故…」

「絶対に思い出すな。──思い出すと、お前はまた潮の事を忘れる。そんな気がする」


そんな気?
潮くんを忘れる?


「潮を大切に思うなら、絶対、事故のことは思い出さないでくれ」

キミは海の中に沈む【完】

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