私に背中を向けている潮くんの表情が見えない。潮くんは藤沢と呼ばれた知り合いの人を無視するように「行こう」と私の手を強く握りしめると、その場から離れようとして少し早足で歩き出す。
そんな背後から、
「裏切り者」
と、すごく怖い声が聞こえたような気がしたけど。私は怖くて振り向くことができなかった。
しばらくそのまま歩き、私の住む家らしい見覚えのあるマンションにたどり着いたところで、ようやく潮くんは足を止めた。
「…ごめん」
気まずそうに、そう謝る潮くんの心の中が分からない。
〝何を〟謝っているんだろうって。
「…今の人、誰ですか?私のことも知ってた…」
「…今のは、藤沢那月って言って、俺らの小学校の時の同級生」
潮くんは私の方に振り返ると、本当に申し訳なさそうに、眉を下げた。
「わたしのこと…虐めてたって…、」
声が、震える。
「…うん」
「あの人と、潮くんが、私を虐めてた…?」
「うん…」
「明日になれば、忘れるって…潮くんいってたんですか」
「…うん」
「否定しないんですか?潮くんは、私を蹴ったり、そんなことしてたんですか…」
あの人が言ってたことは、本当なの?
どうして潮くんが悲しそうな顔をするか分からない。だって、だって、だって。
「…否定はしない」
心をえぐられるような感覚だった。
だって、潮くんは私の彼氏のはずだった。
日記のファイルにも、潮くんのいい所ばかり書かれていた。
だったら、あのファイルはなに?
「さっき…言いましたよね、一目惚れだったって…」
「…言った」
「一目惚れして、私に暴力をふるってたんですか…」
「……」
「そ、そんなの…」
「全部本当。凪を苛めてたのも、一目惚れしたのも…」
「嘘…」
「嘘じゃない」
「あ、あの、あの日記は…」
本当に、私が書いたもの?
記憶がないから分からない。
私じゃなくて、他の誰かが書いたものじゃないの?──もしかしたら、書いたのは潮くんかもしれない。
「あれは凪が書いた、俺は一切中を見てない」
「うそ…」
「俺はもう凪を絶対に傷つけない…」
「…やめて…」
「俺を疑う気持ちは分かる、けど、信じてほしい」
なにを、信じろって?
分からない…。
記憶がない私には、何を信じればいいか分からない…。
あからさまに目が泳ぐ私を見て、潮くんは「信じてくれ…」と泣きそうになりながら言う。
信じる?潮くんを?──…信じたいと思う気持ちの反面、信じられないという思いが交差する。
「…分からないです…」
「凪…」
「今はあなたから離れたい…」
「…凪、俺は本当にお前が好きだ。ずっとずっと出会ってから今も、これからもお前が好きだ」
焦ったように言う彼。
〝潮くんを泣かせないでほしい〟
昨日の私の願いは、叶いそうにない。
「離れたいです…」
「凪」
「…ごめんなさい」
「…凪」
「今も、あなたに〝明日には忘れてる〟って思われているかと思うと、耐えられません…」
「…思ってない、俺は毎日凪に会えるだけで嬉しい」
「ごめんなさい…」
「…凪」
「手を離してください…」
しぶしぶ、という感じだった。
悔しそうに、私の手を離した彼は「部屋の前まで送る」と呟いた。
私は彼の顔が見れなかった。
部屋まで送られても、口が開くことはなくて。
「また明日な」
そう言って笑う潮くんに、何を言えばいいか分からなかった。
12 / 55
その日の夜、私は日記を見返した。
読む限り、やっぱり潮くんは私を大切にしてくれる存在なんだと思った。
本当にそれしか書いていなかった。
学校が楽しいとか、全くそんなことは書かれていなくて。
〝潮くん〟しか書かれていない。
別れる間際の潮くんの顔を思い出す。
あんな顔をさせてしまって、本当に申し訳なくて…。
──…だけど、日記の中で、気になる文を見つけた。
〝令和元年5月28日
潮くんの知り合いとあった
私の事も知ってるみたいだった
私は潮くんを信じようと思う
だからここには書かない〟
これは、なんだろう。
潮くんの知り合いと会ったらしい。
私の事を知ってたらしい。
信じよう、ここには書かない。
この日の私は、いったい何を信じようと思ったのか。
知り合いと書かれていて、思い出すのはさっきの彼だった。藤沢那月という男。
息を飲み、私は今日のページのところを開いた。
──〝令和2年7月15日〟
机の上にあったシャーペンで、今日の日付を書いてみた。昨日の字と見比べる限り、筆跡は似ていて、今までの日記は全て私が書いたものだと認識し。
〝今日あったことを明日になれば全て忘れてしまう記憶の病気らしい。
令和7月16日の私へ
とまどう気持ちは分かりますが、この日記を全て読んでください〟
〝私には潮くんという彼氏がいます。だけど、私は今、潮くんを信じることができません。でも潮くんは優しい。潮くんを傷つけたくない。それでも疑ってしまう。どうすればいいか分からない〟
〝明日の私へ、お願いです。
明日、藤沢那月という男を訪ねてほしい
その人のことはカッターシャツと紺色のズボンの制服という事しか分かりません。潮くんのことを聞いてください。お願いします〟
潮くんは言っていた。
この私の脳の記憶は、治らない方がいいと。
それは私を虐めていたことと関係しているのだろうか…。
──…暑苦しくて、目を覚ました。
暖房とかじゃなくて、夏特有の暑さ、って説明した方がいいのかもしれない。
寝がえりをうち、ゆっくりと体を起こそうとすれば、見慣れない景色に自分の体が飛び起きるのが分かった。
見慣れない部屋。
見渡しても、記憶にないものばかりで。
え?え?と、暑苦しくて目が覚めたのに、一瞬にして戸惑いと冷や汗をかくのが分かった。
布団から出て、私は急いでこの部屋の窓を開けた。ヒッ…、と思わず後ずさる。
高い…ここはマンションらしい。
この高さじゃ、ここから逃げることもできなくて。
もう一度キョロキョロと部屋の中を見渡してみた。
誰の部屋かも分からない机の上を見ると白いファイルが置いてある。
そしてクローゼットを開けてみれば、誰かの服か分からないものが並んであった。
────ここはどこ? 誰の部屋?
全く知らない場所。
もしかして私は誘拐されたの?
焦りながら、そう思っていると、突然部屋の中から音が鳴り響いた。ピピピ…となる、電子音。
ビクッと驚きながら床の方を見れば、ベットの枕もとにスマホが置かれていて。〝アラーム〟と表示されていた。
アラーム?
スマホ?
いったい、誰の?
もしかして私をここに連れてきた誘拐犯…?
この部屋に忘れていったのだろうか…?
とりあえず音を消してみた。
このスマホで、警察に電話した方がいい?
分からない…。
待ち受け画面に戻り、そこに目を向ければ、
〝机の上のファイルを見る〟と、よく分からない文字の待受画面にされていた。
これはなに…?
どういう意味?
なにかの暗号…?
確かに、部屋の中にある机の上には白のファイルが置かれている。
誰のファイル…?
スマホを机の上に置き、恐る恐るそのファイルを開けた。
〝あなたの名前は澤田凪です
これは平成28年7月3日の私が書いたものです
あなたは10歳の頃、脳の病気になってしまい
今日あったことを明日に必ず忘れてしまいます
このファイルは日記のようなものです
読んでください
今日の私へ
今日の出来事、なんでもいいです
明日の私へ何か伝えてください
よろしくお願いします〟
意味が分からない…。
そもそも澤田凪って誰?
この部屋の住民?
〝私〟っていうことは、女性の方?
どうして私はその〝澤田凪〟という女性の部屋にいるんだろう?
そう思っていると、焦る私に追い打ちをかけるように、気づいたことがある。
──…私は自分の名前が分からない…。
私はいったい誰?どこから来たの?
冷や汗が止まらない。
〝6時20分 起床
6時50分までファイルを見る
7時30分までにすること
①制服に着替える
制服はクローゼット
ブラウス下着類もクローゼットの棚の中
②ご飯を食べる
③身支度をする
時間割の確認もする
④7時30分 学校へ行く
ウシオくんと一緒に行く〟
意味の分からない紙まである。
これはいったい何…?!
バクバクと心臓がうるさく、その白いファイルを1枚めくった。これは〝澤田凪〟という人の日記らしい。
日記に出てくるウシオという名前。
ウシオ…?
ウシオって誰なの…。
分からないけど、私が本当に誘拐されたのなら、私はここから出なくちゃいけない。
警察に行こう…。
そう思って、念の為と手に持っているファイルを持った。スマホから警察に電話をしようと思ったけど、もしかしたらこの部屋には盗聴器が仕掛けられてるかもしれないから。
恐る恐る、扉を開ければ、そこの廊下には誰もいなくて。安心の溜息をつきながら玄関らしい方へと足を進めようとしたその時だった、
「凪? 起きたの?」
と、女の人の声が聞こえたのは。
ビクッと肩がありえないぐらいに震え、私は急いで玄関へと向かった。
走り出した私に、その女の人は驚いたらしく「凪?!」と、慌てて私を追いかけようとするから。
「来ないで!!」って叫んでたと思う。
外に出た私は、近くにあった階段を寝巻きのままおりた。裸足のままだった。
「凪!!!」と大声を叫ぶ女性…。
さっきの人が誘拐犯?
私を〝澤田凪〟の代わりに連れて来たのだろうか?
分からない。
白いファイルを持ったまま私は走った。
無我夢中だった。
いつの間にか、追いかけてきていた女性の声は消えていた。
それほど遠くに走ったらしい。アスファルトの上を走ったから、裸足のままの足の裏は真っ赤になっていた。
暑い…汗が止まらない。
とある古い民家の住宅街に入った時、裸足のままの私をみて、見たことも無いおばあちゃんが焦ったようにサンダルを持ってきてくれた。
「熱いでしょ!履いていきなさい!」と。
真っ赤な足の裏。
私の足は、真夏のアスファルトを裸足で走ったせいで軽くやけどしていたらしい。
男でも女でもはける黒色のサンダルをくれたおばあちゃんは、「何かあったの?」と心配してくれたけど、なにも分からない私は、「…大丈夫です、ありがとうございます。必ずお返しします」とお礼を言うことしかできなかった。
だって、本当に誘拐だったのなら、見ず知らずの人を巻き込む訳にはいかないから。
いろいろ走り回っても、ここがどこか分からない。
寝巻き姿ままあの家を飛び出したけど、普通のTシャツに、短パン姿だったから特に目立つことはなくて。
このまま警察に行こうかと迷った。でも、私自身、自分の名前さえ分からないから、警察に行っても信じてくれるか分からなかったから。
歩き続けていると、どこかの駅についた。
その駅の名前を見ても、ここがどこだか分からない。
駅の掲示板を見る限り、日本のどこかなのは確かで。
でも、分からない……。
駅のトイレに行き、はあ、とため息を出せばようやく落ち着いたような気がして…。
私はそのトイレの中で、〝澤田凪〟の部屋から持ってきたファイルを開いた。
〝あなたの名前は澤田凪です
これは平成28年7月3日の私が書いたものです
あなたは10歳の頃、脳の病気になってしまい
今日あったことを明日に必ず忘れてしまいます
このファイルは日記のようなものです
読んでください
今日の私へ
今日の出来事、なんでもいいです
明日の私へ何か伝えてください
よろしくお願いします〟
〝平成28年7月4日
どうして私は記憶を無くすんだろう?
おかあさんらしい人に聞いても、病気の名前を言うだけ。
勉強が分からない
おかあさんがケーキを作ってくれた〟
同じような事が書かれていた。
〝澤田凪〟という子は、脳の記憶部分に難があるみたいで。
この日記には、書いている〝澤田凪〟以外にももう1人の人間がたくさん出てきた。
〝潮くん〟
この日記帳を見る限り、潮くんはいい人みたいだった。
この日記の持ち主の、彼氏らしくて。
小一時間ほどその日記を見て、この潮という人なら味方になってくれるかもしれないと思った。何かを教えてくれるかもしれないと。
だけど、潮くんがどんな人かも分からなければ、会ったことも無い。見つける方法が分からない。
──…最後のページを見つめる。
〝令和2年7月14日
ウシオくんが泣いていた
私が傷つけた
7月15日の私へ
どうかウシオくんを泣かせないでほしい〟
〝今日あったことを明日になれば全て忘れてしまう記憶の病気らしい。
令和7月16日の私へ
とまどう気持ちは分かりますが、この日記を全て読んでください〟
〝私には潮くんという彼氏がいます。だけど、私は今、潮くんを信じることができません。でも潮くんは優しい。潮くんを傷つけたくない。それでも疑ってしまう。どうすればいいか分からない〟
〝明日の私へ、お願いです。
明日、藤沢那月という男を訪ねてほしい
その人のことはカッターシャツと紺色のズボンの制服という事しか分かりません。潮くんのことを聞いてください。お願いします〟
潮くん、という人が泣いたらしい。
どうやら、〝澤田凪〟という子と何かあったみたいで…。
指先で、〝藤沢那月〟という文字をなぞった。
〝明日、藤沢那月という男を訪ねてほしい〟
この人と会えば…何か分かるだろうか…?
〝私〟のことが、何か、分かるだろうか…。
駅のトイレの鏡を見つめた。
そこには黒い髪の女の子がいた。
胸もとぐらいの髪の長さ。
寝起きのまま飛び出したから、当たり前だけど化粧っ気のない顔。
だけども決して悪くはなかった。
色白で、二重の目で。
美人ではないけど可愛らしい、10半ばぐらいの女の子がそこにいて。
この顔に、全く見覚えがない。
「──…あなたはいったいだれ?」
その問いに、鏡の中の〝私〟は答えてくれなかった。
〝カッターシャツと紺色のズボンの制服〟
たったそれだけで、探さなければならない。
名前と服装だけしか手がかりがなく。
白いファイルを抱きしめながら、とりあえず駅員に聞いてみた。
その駅員の男性は、少し苦笑いをしていた。
「うーん、似たような制服は沢山あるからね」
その人が言うことは最もだと思った。
せめて無地なのか、チェック柄の紺色なのか分かったら良かったのに。
「中学か高校か分かる?」
それさえも分からない。
「けど、この駅をよく通る紺色のズボンっていえば、上木高校かなぁ」
けど、思い浮かぶ学校があったみたいで。
「上木高校ですか?」
「ここから2つ、駅向こうだね」
2つ駅向こう。
けど、私は電車に乗るお金もない。
というよりも、ここが駅だという認識はあるけど、電車の乗り方がイマイチ分からない。
「あの…、歩いて行くので、もしよければ地図を書いてくださいませんか?」
駅員の男性は快く教えてくれた。
「ここが目印ね」と、とても分かりやすく。
何度も私はお礼を言って、駅員の男性が教えてくれた場所へと向かう。
もしかしたら違う学校かもしれない。
このファイルの日記にある〝藤沢那月〟がいる学校じゃないかもしれない。
それでも私はこの情報にかけるしかない。
駅から出る時、時刻は9時頃だった。
歩き出してどれくらいの時間がたったか分からないけど、少し歩き始めただけで汗が滲み出ていた。
熱い……。
朝から一滴も何も飲んでいない。
駅員の男性に書いてもらった地図を見ながら歩いている途中、熱さのせいか、少しふらついたりもして。
途中、木の影に入ったりと休んだりした。
〝2つ駅向こう〟
文字にすれば近そうだけど、歩いてみると結構遠く。
目的地の学校へ着いた頃には、たぶん、10時をすぎていたと思う。
もしかしたらそれ以上かもしれない。
〝上木高等学校〟という学校についたとき、やっとついた…という達成感のあと、すぐに絶望感を感じた。
多分、今は授業中。
普通の学校なら、夕方までは授業のはずで。
生徒じゃない私が学校に入るわけにもいかなくて。
あと5時間ほど、ここで待ってなければならない。
もう太陽を見上げるのも嫌だった。
校門が見え、木のおかげで日陰になっていると花壇に座り、喉乾いたなあと思いながら、この上木高校の誰かを通り過ぎるのを待つことにした。
誰か来れば、〝藤沢那月という人を知りませんか?〟と聞こう。
いなければどうしよう。
また探さなくちゃならない。
次は5つ駅向こうだったらどうしよう。
もうフラフラで歩けないかもしれない。
待っている間、そんな事を思ったして…。
早く誰か校門を通らないかな…。そう願うのも虚しく、1分1分時間が過ぎていく。日陰で座っているのに、自分の肌が焼けるのが分かった。
今、何時だろう…。
そう思った刹那、不幸か幸福なのか、誰かの話し声が聞こえ。少しふらついた頭で校門を見ると、数人の生徒が校舎から校門へと歩いてくるのが見えた。
それも、1人2人じゃない。
鞄を持ち、帰る様子の上木高校の生徒たち。
校舎からぞろぞろと出てくる。
もう帰宅の時間らしい。
学校というのは夕方までじゃないのだろうか?と、疑問を残し、その生徒たちに喋りかけようとしたけど。
その足は、止まった。
学校から出てきたその人たちは普通ではなかった。金色に染められた生徒や、凄く派手な生徒達ばかりで。
怖そうな人たちだった。
声をかけようにも、かけられない。
だけど声をかけなきゃ何も始まらない。来た今がない。
深呼吸をして、私はゆっくりと近づき、紺色の短いスカートをはいた女の子に声をかけた。
どうしても見た目が怖い男の子に話しかけることができなくて。
「あの…」
軽い、熱中症になったのか、少し頭がフラフラして。
いきなり私に話しかけられたことに、「な、なに?」と顔をする校門から出てきた女の子…。
「ひ、人探しをしてまして…」
「え?」
「藤沢那月という方、いませんか?」
いてほしい。
お願い…。
「藤沢?知ってるけど。あいつまたなにかしたの?」
キョトン、とした表情で呟くその人に、目が見開くのが分かった。
「い、いるんですか?この学校に!」
「え?」
「本当に?!」
「藤沢でしょ?金髪の」
いるんだ…
この学校に。
心の中で、駅員の男性に感謝した。
「金髪か分かりませんが、藤沢那月という方です…」
「たぶん合ってると思うけど。あいつに会いきたの?」
「はい」
「まだ課題あるって言ってたから遅れてくんじゃないかな?」
「…課題ですか?」
「うん、今日からテストだから。ってか藤沢に電話しようか?」
「え?」
「ちょっと待ってー、ライン登録してたはずだから」
見た目は怖そうな女の子なのに、探し人に電話を掛けてくれているらしいその人。
怖そうだって思った私が、凄く恥ずかしくて。
「あ、藤沢?」と、電話を繋げてくれた女の子は「校門にかわいい女の子来てるよ〜!」とからかい気味に笑った。
かわいい女の子…。
「多分、中学生?」
中学生に見えるらしい…。
〝この体〟は中学生なのだろうか。
「まだ課題やってんの?──あ、そう?じゃあ来てよ。ダッシュね」
「名前?──ねぇ、藤沢が名前聞いてるんだけどあなた名前なんて言うの?」
電話から、私に聞いてきたけど、その質問になんて答えればいいか分からなかった。
だって私はそういうことが知りたくて、藤沢那月に会いに来たのだから…。
「あの…わたし、」
戸惑っていると、首を傾げたその人は「まあ会えば分かるっしょ、待ってるから」と電話を切った。
「もう来るって!」
「あ、ありがとうございます…」
「全然いいよ!じゃあ私バイトだから頑張ってね〜!」
何を頑張るのか分からないけど、笑顔で手を振り、この場を離れるらしいその人にたくさん頭を下げた。
それからそれほど時間もなく、その人はやって来た。
「あ、昨日の子!」と、校門で待っていた私に話しかけてきたのは、さっきの女の子が言っていた〝金髪〟ではなかった。
派手で、怖そうな茶髪の男の子。
誰……?
〝昨日の子〟
そう言われても、私には分からなかった。
だって私は彼に会ったことが無いのだから。
どんどん私に近づいてくるその茶髪の彼は、「な、俺の事覚えてる?」と笑って面白そうに首を傾げた。
びく、っと、その顔の距離の近さに肩が動いた。
知らない
誰…。
「…え?」
「昨日、駅で会ったろ?」
駅で…?
知らない
この人は何を言ってるの。
そもそも私は駅なんて行ってない。
駅に行ったのは今日だけで。
昨日は──…
昨日、昨日は、私は──…
…──分からない、私は昨日何をしてた?
「あ、の、わたし…昨日駅には…」
「え?」
「あの…」
覚えてない。
「あなたは、私のお知り合いですか、」
そう言い、戸惑っていると、「マジかぁ」と、笑っている顔は驚きの顔に変わった。
「本当に忘れるんだなぁ」と。
〝忘れるんだな?
この人は、一体何を──…
「おい、那月!来てるぞ昨日の子!」
意味の分からない事を言う男性が後者の方に振り返る。少し戸惑い顔を下に向けていた私は、その声に顔を上にあげた。
そこにいたのは、金色の髪。
紺色の無地のズボンをはいて、カッターシャツではなかった。真っ黒のTシャツを着ているその人は、私と目が会った瞬間、──…目を見開かせた。
そして一瞬のうちに、眉を寄せた。
鋭い目。
切れ長の、目。
〝那月〟
彼はその目を細めると、ゆっくりと私を見渡した。ううん、私じゃない。
まるで私の周りを見渡すように一瞥すると、もう一度私のに視線を戻した。
「1人か?」
私の目を見て、呟いてくる。
その声は少し驚いているようだった。
〝金髪〟で、私を知っているらしい人。
名前は〝那月〟
この人が〝藤沢那月〟という私の探し人だと分かり。
「潮は?」
潮?
その質問の意味が、分からなくて。
〝潮〟は知ってる。日記で見た。
〝潮〟は〝澤田凪〟の恋人のはずで。
彼はゆっくり、2歩ほど私に近づいてくると、どうしてか私の顔に指を伸ばしてきて…。
「お前、なんでそんな顔あけーの?」
やっぱりこの人は、私をよく知っているみたいで。涙が出そうになった。
頬に指先がふれる寸前で、その指先は遠のいていく。
顔が赤い。
それは、ずっと太陽の下にいたから。
「わ、わたし、ずっと、あなたを探してて…」
「…俺を?」
「な、なにも、分からなくて…」
「……」
「あなた、なら…しってると、思って…」
「那月…」という、さっきの茶髪の人が、心配そうに藤沢那月に声をかけた。
藤沢那月に会えたからか分からない。
私を知っている人に会えた安心感からか、凄く涙腺が熱くなった。
そのままポロポロと涙が出てきて、私は片手だけファイルを離し、自分の手のこうで涙をふいた。
「…その格好は?」
「…っ…」
「まさか、何も分からなくて家から飛び出してきたとか?」
「…っ、あの、…」
「ずっとここで待ってたのか?」
泣きながら小さく頷けば、彼は「潮のことも分かんねぇの?」と、私を見つめてくる…。
不安気味にそれに対しても頷けば、「…マジかよ」と茶髪の人が言う。
藤沢那月がこの状況が分かったのか定かではないけど、藤沢那月は「……悪ぃけど、今日パスな。こいつ送っていくわ」と、茶髪の人に呟いていた。
「──お前、マジで尾崎から歩いてきたのな」
所持金もない私に、電車に乗ろうとした藤沢那月が呆れたように呟いた。
私にはその〝尾崎〟が分からなかった。
〝私〟の家に帰るために、切符を買ってくれた彼は、その駅のホーム内でもスポーツドリンクを買ってくれた。
そのスポーツドリンクはとっても美味しくて、落ち着いた涙がまた出そうになった。
「あの…、尾崎って?」
ホームのイスに座った彼は、私を見上げた。
「お前の家があるとこ」
「私の…?」
「俺も地元そこだしな。つか座れば?」
そう言われ、私も藤沢那月から1人分あけて、その横に座った。
「…私は、あなたと知り合いなのですか?」
「同級生」
同級生?
さっき、地元が一緒と言っていた。
だったら、〝この体〟は、高校生という事だろうか?
「つか、なんでお前、俺のとこ来たの」
「…え?」
「潮のことも分かんねぇのに、なんで俺のとこに来た?」
なんで、と言われても。
「このファイルに書いてあったんです」
「…ファイル?」
ぴくりと反応した彼は、私から、私の手に持っている白のファイルに目を向けた。
「ここに、あなたの事が書いてあって…、それを頼りに来ました…」
「なにそれ?」
「日記みたいです」
「ふうん?見せてよ」
本当なら、プライバシーとして、〝澤田凪〟の日記を見せるべきでは無いと思ったけど。
彼は知り合いで、切符やスポーツドリンクも買ってくれたいい人だから。
ファイルを差し出せば、それを受け取った彼が躊躇うことなくファイルを開いた。
初めからじゃなく、途中から読み出し、ぺら、ぺら…と、1枚1枚めくっていく。
それが10枚程になった時、彼はバカにしたように鼻で笑った。
「──…ウケる、潮のことばっかじゃん」
最後の1枚を読んだ彼は、「…なるほどな」とファイルを閉じた。
それを私に返してきて、私はファイルを抱きしめた。
「…わたし、朝起きると、知らない部屋にいて…」
「……」
「この部屋に、このファイルがあったんです。中を見て、〝澤田凪〟という女の子の日記だと分かりました」
「……」
「私、その〝澤田凪〟という女の子の部屋に閉じ込められたんだって思って、誘拐されたって思って…逃げて…」
「……」
「どうすればいいか分からなくて。警察に行こうにも、誘拐犯が怖くて…、警察も、何も分からない私のことを信じてくれるのか迷って…行けなくて」
「……」
「駅で…箱作という駅でこの日記を読み返して、あなたの事を探そうと思って…」
「……」
「女の人…、家を出る時、その誘拐してきた人が私のことを〝凪〟って呼んだんです」
「……」
「私は、〝澤田凪〟じゃないのに……」
「……」
「でも、鏡で見れば、そこには知らない女の子がいて…。〝私〟じゃないんです。だったら〝私〟は誰だろうって…」
「……」
「でも、私…、私の顔、自分の顔も名前も思い出せないんです…」
「ふうん…」
「だから、あなたに聞けば、何か分かるかなって…」
「ウケんね」
「…ウケますか?ウケるって、面白い意味っていう意味ですよね」
「まあな」
「あの…」
「ウケるだろ、記憶喪失って、マジで自分の名前も分からなくなるんだなぁって」
記憶喪失?
自分の名前も分からなくなる?
なにが?
「……どういう意味ですか?」
「どういう意味ってそのまんまだろ」
心のこもっていない、バカにしたような笑みを浮かべるその人。
「そのまま…?」
「澤田凪はお前だよ」
「え?」
「お前」
「あの…」
「お前さ、記憶喪失なんだよ」
「…何を言ってるんですか?」
「1回寝ると、何もかも忘れる病気」
──1回寝ると、何もかも忘れる病気?
「え…、わたしが、?」
「そう」
「寝ると、忘れる?」
「……」
「そんなはずない…、」
「今もう忘れてるだろ?」
「私は〝澤田凪〟じゃありません…」
「いや、本当だし」
「だって、こんな〝体〟知らないっ!」
駅のホームで大声を出せば、私たち以外の電車待ちをしている人が、何人か振り向いた。
だけど、私はそれどころじゃなくて。
「うるせー声出すなよ」
「だ、って…」
「……地元はみんな知ってる」
「……え?」
「お前はなんも覚えらんねぇバカだってな」
──電車が来て、私達はその電車に乗り込んだ。車内は冷房がしっかりときいて涼しく。
あまり混んでいない車内。
藤沢那月と横に並んで座っているけど、私はもう自分の膝元しか見れなかった。
「私…どうすればいいんですか、」
「なにが」
なにが…。
私は、〝澤田凪〟らしい。
この日記を書いていたのは、〝私〟らしい。
ありえない。
だって、こんな日記、書いたことがない。
「…これから」
「家に帰ればいいだけだろ」
「私が、起きた、家ですか?」
「そうだろ」
あの家が、本当に私の家なのなら。
私が記憶喪失で、分からないのなら、今朝いた女の人は、母親…。
「でも、知らない、家なんです…」
「……」
「知らない人が、住んでるんです…」
「……」
「理解しろ、って、言われても無理です…」
「……ああ」
「私は〝澤田凪〟じゃありません…」
泣きそうだった。
この日記は私の事。
だとしたら、ここに書かれている〝潮くん〟という人は、日記通りなら、彼氏ってことになる。
私に、彼氏なんていない。
いないのに。
いないのに。
いないのに。
見ず知らずの人間に、いきなり家族です、彼氏ですって言われても分かるわけがないのに!
ポタポタとまた涙を流せば、「じゃあ周りの人間はどうなる?」と、藤沢那月が小さく呟いた。
「お前から知らねぇって言われて。そこに書いてるから分かるけど潮がお前のことすげぇ大事にしてんのに、知らないって言われて傷つくんじゃねぇの?」
私から知らないと言われる。
〝潮くん〟
この日記では、何回もその名前を見た。
本当に〝潮くん〟ばかりで。
知らない私の彼氏。
「でも、その人のこと、分からないんです…」
「……」
「どんな人、かも」
「……」
「あなたは、よく、知ってそうな口ぶりですけど、知っているのですか…」
「女を大事にするやつだよ、あいつは」
「…女?彼女をっていう意味ですか?」
「でも、簡単に友達を裏切るイヤなやつ」
ふ、と、鼻で笑った藤沢那月。
「お前を今から潮んとこに戻せばいいんだろうけど、俺は潮が嫌いだし、番号も知らない」
「…嫌いなんですか?」
「昨日、久々に会ったけど、やっぱり殺したいなぁって思ったわ」
本気なのか、冗談なのか。
電車が目的地に到着し、おりた私は、今からどうすればいいか分からなかった。
知らない家に帰ればいいのか。
藤沢那月が殺したいほど嫌ってる〝潮くん〟に会えばいいのか。
どうしようと迷い込んでいると、「つーかさ、」と、未だに理解出来ない私の手元からファイルをあっさりと奪った彼は、その白いファイルを片手で持ち。
「こんなんあるから、悩むんじゃねーの」
藤沢那月は足を進め。
駅から出ると、近くにあったゴミ箱にそれを入れようとし。
「ま、まって…!」
慌てた私は、それを捨てないように、彼の腕を掴んだ。
「それは、大事なものではないんですか…?」
「さあ?」
「捨てては、いけない気がします」
「内容、どうでもいいのに?潮ばっかりなのに?」
「でも…」
「だってこれは、お前が書いたもんじゃないんだろ?」
「…そうです、けど」
「大丈夫だろ、捨てても。こんなもんがあるから、余計に戸惑うんだよ」
「……」
「お前も、こんな気持ち悪い日記があったこと、明日には忘れてる」
忘れてる…明日には。
それが私の記憶喪失という病気だから。
ということはつまり、この私の人格は明日になれば消滅しているってこと?
そんなの、死んでしまったことと同じじゃないの?
寝てしまうと死ぬの?
私は死んじゃうの?
「あそこに警察署、あるの分かるか?」
絶望している私に、とある方向を指さす藤沢那月。恐る恐るその視線の先を見つめれば、大きな建物があって。
そこには大きく警察署と書かれていた。
「あそこで迷子ですって言えば、連絡がいってお前の親か潮が来る」
「……え?」
「俺、用事あるし、もう行くから」
「ま、待ってください、どうしてそれで連絡がいくんですか?」
「だからさっき言っただろ」
「え…?」
「お前がバカなこと、地元は知ってる。警察はすぐ行方不明になるお前の顔分かってるからな」
22 / 55
警察署に入り、数分がたった頃、藤沢那月が言っていたことがすぐに分かった。
私は本当に記憶喪失というものらしい。
寝れば丸々、その日あったことを忘れてしまうようで。
私は過去にも何度か迷子になったらしく、慣れたように対応する警察の人を見て、泣きたくなった。
私はこの警察署に来るのは、初めてなのに…。
しばらくして、私がいる受付のところに男の人が来た。
その人は私の顔を見て「凪!!」と大きな声を出した。肩で息をして、まるで全力疾走してきたような息の荒さ。
黒い髪からは汗がしたたる。
白そうな肌は、たくさん走ったようで頬が赤くなっていた。
警察署の人は誰を呼んだのか。
親か、〝潮くん〟。
「凪……」
受付のイスに座っている私は、近づいて、目線を合わせるようにしゃがむこの人が誰か分からない。たぶん〝潮くん〟なのだと思う。
「どこ行ってたんだよ…」
分からない…。
「良かった…、無事で…」
私の心は、全く無事じゃない…。
「…凪?」
「…っ…」
肩を震わす私を見て、焦ったように顔が変わり。
「どうした?体調悪いのか?」
「……、…」
「凪…、…あ、俺は潮、わからなかったよな、ごめんな…」
「っ……」
「これ、誰のスリッパ? 足、赤くなってる…。ずっと裸足だったのか?痛くないか?」
やめて…。
「凪?」
「…っ、やめて…」
「どうした?」
「やめて…」
「やめる、やめるから」
「お願い…やめて……」
「やめるよ、大丈夫だから。…なにが嫌だった?」
甘く、優しく言われ…
「…っ…、やだ…」
「…凪?」
「っ、…──〝凪〟って呼ばないで!」
叫んだ時、目の前にしゃがみこんでいる〝潮くん〟は、眉を寄せ。
「私は〝凪〟じゃないもん!!」
「うん」
「〝凪〟じゃないっ…」
「うん」
「だからっ、〝凪〟って呼ばれるのはおかしい!」
「そうだな、俺が悪かった」
「っ……」
「…足、痛くないか? 」
優しく微笑んでくれる〝潮くん〟。
そんな〝潮くん〟と警察署から出たのは夕方頃。
私はずっとずっと泣いていた。
23 / 55
ドラッグストアに連れていかれ、近くの外のベンチに座った。彼は私にお茶を買ってくれたらしい。
「暑かっただろ?」
昼間の方が、凄く暑かった。
何も喋らない私に、〝潮くん〟は「頼むから飲んでくれ…」と心配気味に言うから。
「飲んでもいいのですか…?」
返事をしないわけにはいなかった。
「当たり前。飲んだら足、薬塗ろうな」
3口ほどペットボトルのお茶を飲むと、〝潮くん〟が買った何かのクリームを足の裏に塗られた。
痛いけど、マヒしているのかそれほど鋭い痛みはなくて。
そのままガーゼが外れないように、買ったらしい靴下を履かせてきた。
「…痛くないか?」
そう聞かれても、直ぐに涙腺が緩む私は泣くだけしかできない。
「背中乗るか?」
首を横にふった。
「痛いだろ? 家まできついと思うから」
いやだ、
いやだ、
帰りたくない…。
あの家は、私の家じゃない。
知らない家だもん。
「っ、…わ、わたしの、」
「うん」
「あんな家、しらな、…」
「戻るのイヤか?」
泣きながら、顔を縦に動かせば、ポロポロと涙が落ちた。
「分かった、家に帰るのはやめよう。その代わりどこか入って足は休めような」
「っ…」
「もう大丈夫」
〝潮くん〟の手のひらが、私の頬を包んだ。その手の優しさに、涙が溢れて止まらない。
「ごめんなさい……」
「ん?」
「ごめんなさい…」
「謝る事あったか?」
「だって……」
「うん」
「こわい…」
「なにが怖い?」
「……」
「俺が怖い?」
分からない。
全てが分からない。
私は死んでしまうの?
「わ、わたしは、あなたの、恋人じゃ、ありません…っ…」
「……うん」
「あの、ひと、親じゃ…な…」
「…ん」
「ごめんなさい…」
「分かった、言いたいことは。ずっと今日1日、そのこと考えてたんだな」
今日1日…。
「わたしは、どうすればいいんですかっ…」
泣きながら彼を見つめれば、彼はまるで安心させるかのように微笑むと、慣れた手つきで頭を撫でてきた。
「俺はとりあえず、飯を食って、体を休めてくれたら嬉しい」
私を怖がらせないように優しく言ってくる。
「お風呂も入った方がいいから、どこかホテルに行って、そこでご飯を食べよう」
お風呂…?
ご飯…?
ホテル?
「あなたと…?」
「うん、まだ何も食ってないだろ?部屋に2人きりが嫌なら、部屋に入らないで廊下で待ってる。でももしいいなら、俺も部屋に入りたい。動かないようにヒモで縛ってくれていいし、俺が何かしようとしたら警察を呼んでくれていい」
「……」
「全く知らない男とホテルに行くのが怖いのは分かってる」
「……」
「でも、できる限りそばにいたい」
「……」
「絶対に1人にはさせたくない」
「……」
「…──…不安だったよな、」
「……」
「もう大丈夫だから…、」
この人と、初めて会うのに。
頭を撫でられ、ゆっくりと引き寄せられる。
それには全く力が入っていなかった。
私が一瞬力をいれただけでも、離れることが出来る力加減。
されるがままの私は、彼を見つめてた。
ベンチに座ったままの私は、頭を抱えるように彼に抱きしめられた。
その事に嫌だとは、思わなかった。
〝体〟は受け入れている──…。
それでも腕を回すことができなかった。
恋人である〝潮くん〟が好きなのは、昨日までの〝澤田凪〟なのだから。
彼は落ち着いた私に「手を繋いでいいか?」と聞いてきた。私を抱きしめていたのに、3回ぐらい同じことを言ってくる。
だから3回ぐらい頷いて、ようやく私の手を握った〝潮くん〟は、私が拒絶しないことで少しだけ安心したような表情をした。
少し手を繋ぎながら歩く。
「…確認のために聞きたい、これは俺が聞きたいだけで、別に君を責めてるとかそういうのじゃない」
私のことを、もう〝凪〟と呼ばない男。
「俺のことが彼氏だって分かるってことは日記を読んだってことでいい?」
日記。〝澤田凪〟の日記。
それに対して頷いた。
これのどこが責めてるんだろうと思った。
「そのファイル、今どこにある?」
だけど、その質問に、体が強ばるのが分かった。白いファイルはもうない。捨ててしまったから。
捨てた人物の名前を出すべきなんだろうか?だけど藤沢那月は彼を嫌っている。藤沢那月の名前は口にしない方がいいのかもしれない。
「……捨てました…」
「捨てた?」
「気が動転して…」
「……」
「ごめんなさい……」
少し、握っている手が強くなった気がして。ああ、やっぱりあれは捨ててはいけないものだったんだと思った。
「そっか、なら仕方ない」
微笑んでくる彼に申し訳なく。
「駅の、警察署の近くの、駅のゴミ箱に捨てました…」
だから、捨てた場所を言った。
「うん」
「……ごめんなさい……」
「謝ることじゃない、君は悪くないよ」
「でも……、あれは大事なものではないのですか?」
「俺が大事なものは君だよ。これからもずっと」
私は、明日、いなくなるのに?
たくさんの思い出がつまったあの日記は、きっとこの人にとっても大事なものなのに。
私を傷をつけないようにしてくれてる。
「…もう一度、あの日記が読みたいです…。探しに行ってもいいですか?」
そう言わずにいられなかった。〝潮くん〟は「無理しなくていいよ」と言ってくれたけど。
〝明日の私〟には必要だと思うから。こんな複雑な感情だけど。
「行きたいです」
もう一度言った私に、〝潮くん〟は頷いた。
「足が痛くなったらすぐに言って。絶対に我慢しないで」
そんな言葉と共に。
25 / 55
──確かに、ここへ捨てたはずだった。
私の記憶はちゃんと覚えてる。
それなのに無くなっていた。
どうして………。
「ここに?」
〝潮くん〟もゴミ箱の中を覗くけど、無くて。
もう処分されたのかもしれない。
後悔しても今更遅く。
「駅員に聞いてみよう」
〝潮くん〟が駅員さんに聞いてくれたけど、ファイルを捨てたゴミ箱は、駅のゴミ箱ではないらしく、「分からない」と言われた。
きっともう、見つからないだろう。
「……ごめんなさい……、捨ててごめんなさい……」
何度も何度も謝れば、彼は私の頭を優しく撫でた。
「大丈夫」
「でも、」
「本当に、君が無事ならそれでいいんだ」
彼とホテルに向かった。
鍵があれば何度も出入りできるホテル。
そのホテルの中でも謝っていると、「謝らなくていい、俺が悪い……。君が悪いところはひとつもない」と、子供のようにあやしてくれた。
しばらくして落ち着き、〝潮くん〟はルームサービスというものを頼むらしく、私に選ばせてくれた。
ルームサービスが届くまでにお風呂に入ることになり、ズキンズキンと足の裏が痛む中、私は汗を流す。
よく見ると、私の足の裏の皮が破けていた。
お風呂から出て、汗をかいた服を着る訳にも行かなく、ホテルに来る前に買ってもらった下着と、ホテルのバスローブを着た。
また、私の足の裏を手当てするのか、部屋のソファに腰かければ、〝潮くん〟はしゃがみこみ、私の足の裏を見た。
そんな私の足を見て、今度は彼が何度も何度も謝ってきた。
処置が終わり、ルームサービスの料理を食べ終わり、ぼんやりしていると彼もシャワーを浴びてきたらしい。と言っても、5分もなかった。
〝潮くん〟は私を後ろから抱きしめると、「痛くないか?」と、また私の足の心配をする。
「あの……」
「うん?」
「本当に……眠ってしまえば、私は記憶を失うのですか?」
「……」
「ほんとに、」
「…うん」
「だとすると、私は今日死んでしまうのですね」
「確かにそういうことになるかもしれない」
否定しない彼は、抱きしめるのを止めると、私へ向き合うように前へ回ってきた。
お風呂に入ったというのに、床へ膝をつく。
「君が今、どういう言葉を言って欲しいか、俺には分からない。…もしかすると傷つけるかもしれない」
そう言って、私の手を握った。
「毎日毎日、君は違う」
違う……。
「笑ってる日もあれば、ずっとずっと泣いている日もある。驚いて寝るまで日記を読んでた日もあるし。その日によって君は違う」
その日によって……。
「今日みたいに行方不明になったことも…?」
「うん、」
「……そうですか」
「公園で見つかったり、自力で家に帰ってきたり」
「……」
「本当に、その日によって違うんだ」
彼が、私の手を強く握った。
「だけど、毎日違う君を見て、俺は毎日好きだって思う」
毎日……
好き……。
優しく私を見つめてくる〝潮くん〟。
「だから君を嫌うことは絶対無い。離れることも絶対に無いよ」
嫌うことは……
離れることも。
「昨日も、今日の君も、明日も、大事で……。自分の命よりも大事だから」
「……」
「こんなにも好きな子を、俺は忘れたりしない」
「……」
「これから先も君の事は絶対に俺が覚えてる」
「……」
「だから、君は死なない」
「……潮さん……」
「俺が死なせないよ」
気づけば私は泣いていたらしく。
バスローブにぽたぽたと頬をつたい流れ落ちていた。
「……嫌にならないのですか」
「ならないよ、どんな君も好きだから」
手を握られている私は涙を拭くことが出来ず。それでもこの手を振り払う事が出来ない。
「本当に忘れませんか……」
「忘れないよ」
「わたし、」
「絶対に覚えておく」
「わたしっ……」
「明日の君にも、君の事を話すから」
「……っ、」
「安心していい」
「……」
「頑張ったな、もう怖くないからな」
その日の夜、私は〝潮くん〟の腕の中で眠った。
よっぽど疲れていたのか、〝潮くん〟の腕の中が安心するのか分からないけど、〝潮くん〟に頭を撫でられているといつの間にか眠っていた。
〝潮くんは〟「君は脳に入る情報量が人よりも多いから、疲れやすいんだよ」と、教えてくれた。
「また明日な」
また明日……。
彼は、毎日、この言葉を言っているのだろうか。
そう思うと彼に申し訳なく……。
どうかと、眠る前に願った。
明日、彼を拒絶しませんように、と。
────『こっち』
小さな手が、私に向かって手を伸ばしてくる夢を見た。
次に目を覚ました時、私はその夢を見た事さえ覚えていなかった。
────この人は誰だろうか。
起きてからまず初めに思ったのがそれだった。
ぱちぱちと瞬きをしても、全く思いだせなくて。
私は布団の中にいるらしい、どうしてか知らない男性が一緒にその中に入っていて、たった今まで私と眠っていた。この状況が分からず、今度はまじまじと男性の顔を見つめた。
白い肌…。
黒い髪。
何歳ぐらいだろう。
17、8……。
まじまじと見つめても、やっぱり目の前にいる男性に見覚えがなく。
そのまま男性の顔を眺めていると、目から重力にそって何かの線のようなものが描かれてあった。
描くというよりも、何かの痕。
涙?
この男性は、眠りながら泣いていたのだろうか?辛いことでもあったのだろうか?怖い夢を見たのだろうか?なんの涙だろう?
とりあえず状況を整理しようと、男性が起きないように、体を起こそうとした。でも、上手く起き上がれなかった。
私の左手が、男性の右手と繋がっていたから。
どうやら手を繋いで、私たちは寝ていたらしい。寝ているはずなのに、男性が強く握っているせいで離そうにも離せなく。
私はとりあえず自分の服を見た。
きちんとバスローブを着て、乱れはなかった。
でも、手を繋いでいる。
私はこの男性と何か関係があるのだろうか?
本当に覚えがないけど……。
昨日の事を思い出そうとしても……。
……あれ?
なんで覚えてないんだろう?
そもそも、私の名前は──……
なんだったっけ……?
困ったな、本当に思い出せない。
腹筋を使って、無理矢理体を捻るように起きて、周りを見た。
布団、というよりはベットで眠っているらしく、ソファがあったり、机があったり、テレビもある。
誰かの家……?
この男性の家だろうか?
分からないから、男性の顔を見るけど、見ても何も分からなく。
──この人は誰だろうか?
やっぱり、そんな疑問が頭に思い浮かぶ。
だから。
「──……あの、すみません」
眠っている男性に声をかけた。
1度声をかけただけだった。
眠りが浅かったのか、少し眉間にシワを寄せ、瞼が開かれ虚ろな目と、視線が重なる。
そして、1回瞬きをした男性は、すぐに目を見開いた。
私がいたことに驚いたのか分からないけど、勢いよく体を起こした男性は、「っ、……わ、わるい」とどうしてか謝ってきた。
その間も、手は繋がれたままで。
男性が起き上がり、私もやっとベット上で座る事ができて……。
さっきまで寝ていた男性とずっと目が合う。
切れ長の二重の目。
彼が起きても、やっぱり見覚えがない。
ベットの上で見つめ合ったまま、少し寝癖がついた男性が何かを喋ろうとする。
でも、今まで寝ていたせいか、あまり頭が回っていないようで。
「あの…、起こしてしまってごめんなさい…」
男性はずっと私の顔を見たまま。
「…いや、俺も、寝てごめん……。今日は絶対に寝ないって決めてたのに……」
寝てごめん?
寝ないと決めてた?
話がよく分からない。
そう思って、顔を少しだけ傾けた。
「初めて見る男が横にいて驚いたろ?」
少し目を細め、柔らかく笑った男性。
初めて見る男が横にいて驚いたとは?
いったい、どういう意味か。
「あなたは誰ですか?」
「俺は潮。さんずいに、朝って書いて潮」
「……潮?」
知らない名前。
「それから君の彼氏でもある」
私の?彼氏?
それはお付き合いをしているっていう事だろうか?全く、見覚えも、聞き覚えも無いのだけど。
「よく分からないのですが…」
「うん」
「えっと…」
「君は昔、小学生の頃、事故で記憶を失う病気になった」
「え?」
「寝ると忘れてしまう記憶障害なんだ」
記憶障害?
私が?
寝ると、忘れてしまうの?
そう言われると、確かに今起きた以前のことが全く思い出せなく。妙に納得している部分があった。
ああ、それで、何も分からないんだ……って。
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「そうなのですね、本当に、全く分からないので困っていたんです」
潮という人は、私の手を握ったまま。
私は記憶が無くなる病気らしい。彼氏らしい目の前にいる人も忘れているみたいで。
「何でも聞いて、何でも答えるから」
まるで私を安心させるようなその言い方に、落ち着いている心が、もっと穏やかにさせる。
「えっと…、ここはどこですか?」
私は部屋の中を見渡した。
「ここはホテル」
「ホテル?家ではなくて?」
「昨日、君が、君の記憶が無いことに戸惑ってちょっと不安定になったから。落ち着くように家じゃなくてここに泊まったんだよ」
「……不安定?」
「うん、たまにある。住んだ覚えのない家を自分の家とは思えないって」
「わたしがですか?」
昨日?本当に?
「そう、昨日は俺の事も彼氏とは思えないって言ってたかな」
笑いながら、話してくれる潮という人。
「そう、ですか、」
昨日の私は、いったい──
「けど、俺の好きな君だった」
彼の好きな私?
「……昨日は泣かせてごめんな」
笑っている顔から、本当に申し訳なさそうに謝ってくる彼に、私こそ申し訳なかった。
私は覚えていないから。
何をどう返事をすればいいか分からない。
「本当に悪かった」
「…、」
「昨日、君がすげぇ戸惑ってたから、絶対に寝ないって決めてたのに寝て……」
朝、起きてすぐに謝ってきた事を思い出す。
そんなの──……。
この人は何も悪くないのに。
「いえ、悪いのは私です。不安定になった私が悪いんです」
「君は何も悪くない」
「私」
「悪くない、お願いだから絶対悪いと思わないで欲しい」
「……でも」
「……俺が悪い。……君が起こしてくれて良かった……ありがとう」
起こしてくれて良かった?
もしかしたら昨日の私は、起きた時、彼が言う〝不安定の状態〟で何かをしてしまったのかもしれず。
覚えていないから分からないけど。
「あなたが、ずっと、私の手を握っていたので」
今も握ったままだけど。
やっぱり離そうとしなく。
「起きて、外を見ようと思ったのですが出来ませんでした」
そう言うと、潮という人は「…これは、癖で…。マジで癖があって良かった」と、ほっとしたように笑った。
手を繋ぐ事が、彼にとっての癖らしく。
だとすればそれぐらい、私たちは今までも手を繋いでいたということだろうか。
「……私、あなたのこと、何て呼んでましたか?」
「潮くんが多かったと思う。でも、なんでもいい。呼び捨てでも、あなたでも。呼びやすいように呼べばいい」
呼びやすいように?
呼びやすいなら、呼び捨てだけど。
潮くんが多かったのなら、潮くんでいいかと思い。
「私のことは?あ……私の名前って……」
「澤田凪。俺は呼び捨てで呼んでた」
澤田凪。
あまり、ピンと来なかった。
「昨日、君は自分の名前も嫌がってた。嫌がってたってより、知らない名前を自分の名前というのに抵抗があった」
「……抵抗……」
「だから、もし君がいいなら、また呼び捨てで呼んでもいいか?」
「え?」
「嫌なら、絶対に名前は言わない。約束する」
そういえば、この人は私の名前を呼んでいない。ずっとずっと私のことを〝君〟って呼んでる。
昨日の私のことを思って、名前を呼んでいないようで。
「凪でいいです……」
「嫌じゃないか?」
「いえ……、私の名前ですよね。呼んでください。その方が私も嬉しいです」
少し、ほんの少しだけ口角を上げて笑うと、また柔らかく笑った潮くんが「ありがとう」と癖らしい手を握った。
「凪? 他に質問はない?」
さっきはあんまりピンと来なかったのに、こうして呼ばれるとなんだかすんなりと耳に入ってきて。
記憶が無いのに、ああ、私は何度もこの人に名前を呼ばれてるんだな……って思った。
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他に質問と言われても。
たくさん聞きたいことがあるのに、いざ思えば何も思いつかなくて。
家がどこにあるのか聞こうにも、外の世界が分からない私にとって聞いても無意味。
「……怖い夢を見ていたんですか?」
「え?」
「あなたが泣いていたようなので。まだ少し痕があります」
潮くん、って言えなかった。
恥ずかしかったからなのか。
私の質問に、瞬きをした潮くんは「え?」と顔を傾けた。自分が泣いていたことに気づかなかったのだろうか?
ううん、寝ていたから気づかないのは当然で。
だとしたら無意識に泣いていたんだろう。
「夢は見なかったんだけど、もしかしたら凪と一晩一緒にいれて幸せだったのかもしれない」
私と一晩一緒にいれて?
「幸せだったんですか?」
「俺はね。こうして朝を迎えるのは滅多にないから」
優しく笑った潮くん。
その顔は本当に幸せそうで。
「悲しくてじゃないなら、良かったです」
私も微笑むと、手をギュッと握られ見つめう。この雰囲気を他の人に伝えるのなら、心が穏やかになれる暖かい空間かもしれない。
「好きだよ、凪」
突然の告白に戸惑ったりもなく、初めて会ったのに、私のこの人が好きだと思った。
彼の人間性というのだろうか。
きっと、今までの私も、潮くんが好きだったのだろうな……。そんな気がする。
「いつも、言ってくれるんですか?」
「好きって?」
「はい」
「うん、…そうだな。毎日言ってる」
「ごめんなさい、覚えていなくて……」
「謝ることじゃない」
「潮くん」
「ん?」
「聞きたいこと、というわけではないのですが」
「うん」
「トイレに行ってもいいですか?」
私の言葉に、「ああ、悪い…」と手を繋いだまま、私よりも先にベットからおりた。
「足、痛いだろうから」
足?なんの?
そう思って足を見れば、私の足の裏にガーゼが貼られてあった。なんだろう?でも、それほど痛くはなく。
潮くんに手を引かれながらベットからおりたとき、確かに痛みがあったけど。
足の裏に、怪我があるらしく。
「…この怪我は?」
「昨日、靴をはかずに外に飛び出しちゃったから」
「不安定でですか?」
「うん」
どうも、昨日の私は凄かったらしい。
家は嫌だって言って、潮くんも彼氏だと信じたくなく、自分の名前さえ嫌だなんて。
それに、靴もはかずに、外へ飛び出しちゃうなんて。
泣いたのだろうか。
暴れたのだろうか。
分からないけど、自分でも信じられないけどたくさん迷惑をかけたらしい。
トイレの場所が分からず、連れていってくれた潮くんに「迷惑をかけてごめんなさい」と謝った。
「え?」
「昨日……、ごめんなさい……」
潮くんは絶対に私のせいなのに、「怪我をしてるのは俺のせいだから、迷惑だと思わないでくれ」と、笑っていた。
ホテルが洗濯してくれたらしい。
バスローブから半袖と短パンに着替えた。
この服装は昨日私が着ていた服らしくて、とてもラフな服装だなぁと思った。
外の世界は、分からないものが多かった。
見覚えのない道やお店。
まるでタイムスリップしたような感覚だった。
それでも、タイムスリップする前のことは覚えてないのだけど。
歩いている最中もずっと私の足の裏を気になるようだった。何度も「大丈夫です」と言う。それでも潮くんは「凪は我慢する性格だから」と、私の足の心配をしていた。
潮くんに手を繋がれ、どこかのお店に入った。
そのお店はカウンターのようなところで注文してから店の中にある机で食べるようだった。
カウンターの前では人が並んでいた。
カウンターのそばの時計は、7時20分を指していた。
「今から朝食ですか?」
「うん」
「あの、私、お金を持っていません…」
「ああ、大丈夫。俺が出すから」
「でも、ホテルのお金も出してもらったのに…」
「凪は彼女なんだから、そんなことを気にする必要ないよ」
手を繋いでいない方の手で、優しく頭を撫でられる。背の高いらしい潮くんの目が柔らかく。
「ありがとうございます…」
お礼を言えば、潮くんはまた笑った。
本当に、今日初めて会うのに、私はこの人が好きだなぁって思ってしまう。
潮くんが買ってくれたのは、ハンバーガーとアイスカフェラテだった。あとはポテトも付いていた。
窓際に座り、潮くんを見た。
一見、切れ長で二重の目は怖そうに見えるけど、彼は優しい。こんなにも優しい潮くんが彼氏だなんて私はとても幸せだと思った。
だって私は、記憶の病気なのに。
この人は嫌にはならないのだろうか?
自分の彼女が記憶を失ってしまうなんて。
記憶…。
ハンバーガーを見て、違和感をもった私は、疑問を聞いてみた。
「あの、潮くん…」
「ん?」
「これはハンバーガーですよね?」
「うん」
「でも私、ここのお店が分からなくて」
「うん」
「記憶がないのに、どうして覚えていることと、覚えてないことがあるのかなって」
潮くんは、コーヒーを1口飲んだ。
「それは難しいところなんだよ」
「難しい?」
「凪は日常生活に支障はないんだよ。だからハンバーガーが食べ物だっていうことは知ってるし、お金で買うものだっていうのも分かる。これは日常動作っていうか基本動作って言うんだけど…」
「……」
「信号も青なら渡る、赤なら渡らないっていうのも分かる。だけど凪はその信号がどこにあるか分からないんだよ」
「…よくわからないです…」
「迷子とかにはなるけど、迷子になればどうすればいいかは知ってる。警察や人に聞くとか。けど、家の住所とか覚えてない。だからどうすればいいか分からなくなる」
「……」
「どの辺りが分からなかった?」
「分からないというか…」
「うん」
「なんで、覚えてるのと覚えてないのがあるんだろうって」
「さっき、凪が事故にあったって言っただろ?」
「はい…」
「そこからちょっと話そうか」
そう言って、潮くんは優しく笑った。
冷めないうちに、ハンバーガーとポテトを食べた。
「凪は小さい頃、10歳の時に事故にあった。頭をうって、側頭葉への衝撃で記憶喪失になったんだよ」
カフェオレを飲んでいる時、潮くんが語りだし。
「頭をうったのですか?」
「そう。凪の場合は、前向性健忘症って言って。強い衝撃とかストレスで、なってしまう記憶喪失なんだよ」
「…じゃあ、すごく強くうったのですね」
「俺はその時を見たわけじゃないから分からないけど、それぐらいの衝撃だったと思うよ」
その強い衝撃も、私には分からない。記憶になく。
「凪の場合は特殊で、…事故があったその日から、寝ると前日のことを忘れてしまうようになった。事故にあう前の10年間の記憶も無くなったけど」
「今日みたいなことですよね?起きたら全く覚えていなくて…」
「うん」
「治らないのですか?」
「分からない。衝撃を受けて記憶喪失になったけど脳自体は異常はないから。もしかすると記憶が戻るかもしれない…でも」
でも?
「医者からストレスは与えるなって言われてる」
「ストレスですか?」
「脳はデリケートだからな」
デリケート…。
確かに、昨日の私は不安定だったらしいし。
「でも、脳っていうのはすごいから、自然に覚えてしまうものだってある。それが日常動作」
自然に覚えてしまうもの。
「だから危険なものだっていうのは凪自身でも分かる」
「危険なもの…」
「それ以外は覚えることができない。覚える覚えてないって考えるよりも、それが凪の記憶喪失の種類っていう考えの方がいいかもしれない」
「種類…」
「うん、だからそれほど深く考えなくていい。こういうものなんだ、って思ってくれればいい」
こういうもの…。
「潮くんは、」
「うん」
「この説明、何回目ですか?」
「え?」
「なんだか、慣れているような気がして。その、前日のことを忘れるってなると、同じ質問を過去にもしてるのではないかって」
潮くんは「100回は超えてるかな」と笑った。私はどうして笑えるか分からなかった。
「嫌ではないのですか?」
「なんで?」
「同じ質問を何回も…」
「ならないよ、俺は凪とこうして喋れるだけで嬉しいから」
喋れるだけで…。
私と?
「私と潮くんは、付き合って長いんですか?」
「付き合って1年と3ヶ月ぐらい。でも、凪のことは小学生から知ってる」
小学生?
それはいったい何年前なのだろう?
そもそも私は…。
きっと、潮くんはこの質問にも慣れてるんだろう。私が質問する前に、「今、俺らは17歳だから、付き合ったのは高一の春で、出会ったのは11歳の時だからもう6年になる」と詳しく教えてくれた。
私は17歳らしい。
「そうなんですね…、覚えていなくてごめんなさい…」
「凪?」
「……」
「俺は本当に凪を大事に思ってる」
「え?」
「だから謝らなくていい、これは当然のことだから」
「…当然?」
「彼女を大切にするのは当然って意味」
彼女…。
「俺の方こそ、記憶がなくて戸惑うはずなのに、毎日、今日も俺の傍にいてくれてありがとうって思ってる」
「…うしおくん…」
「好きだよ」
微笑んでくれる潮くんのことをもっと知りたいと思った。これからもずっとずっと、知っていきたいと。
今までの私も、きっと潮くんの事が好きだったんだろうなあ。
それでも私は記憶を無くしてしまうから…。
「寝ると、忘れてしまうのですよね」
「…うん」
「じゃあ、今日はいっぱい知りたいです」
「え?」
「潮くんのこと、いっぱい教えてください」
潮くんいわく、私の場合、記憶の事に関して〝理解できる日〟と〝理解できない日〟があるらしい。
素直に記憶喪失の事を受け入れることができる日もあれば、素直に受け入れられない日もあると。
聞けば、昨日は〝少しだけ理解が難しかった〟って言っていて、今日は〝ものすごく理解できる日〟らしい。
〝ものすごく理解できる日〟と言われても、私にとってこうして受け入れるのが当たり前だから、あんまりよく分からなかった。
「全く理解できない日の私は、どんな私なんですか?」
その質問に、潮くんは「俺の好きな凪だったよ」と笑っていた。
潮くんは「知りたい」と言った私に、「学校行ってみる?」と提案してくれた。
私は記憶喪失なのに学校に行っているらしい。
ああ、そういえばさっき、潮くんが「高一の時に付き合った」って言っていた。
じゃあ今は、17歳だから、高校2年生ってことになるはず。
本当に、学校に通っていたことは覚えていないのに、高校っていう単語を知っていることに不思議に思う。
「ここが凪の家」
いったん、学校に行くには制服に着替えなければならないから。
潮くんが連れてきてくれたのは、とある茶色いマンションだった。私はここのマンションの一室に住んでいるらしく。
見覚えのないマンションを見て、本当に住んでるの?と思ったけど、潮くんが言うことだから本当なんだろう。
「中に、凪のお母さんがいると思うよ」
お母さん?
そう言われて少し驚いた。
そうか、私にも、家族がいるんだ。
「お母さんだけですか?」
「うん、凪はお母さんと2人で住んでる」
ということは、お父さんや、キョウダイはいないらしい。特にその事に関しては気にならなかったけど、マンションのとある一室に潮くんが案内してくれた時、少しだけ緊張した。
だって、会ったことがないお母さんという人が中にいるから。来たことも無いここが、私の家らしいから。
潮くんがインターホンを押す。
その仕草がとても慣れていた。
少し緊張しているのか、握られている手が汗ばむのが分かった。
なんて言えばいいんだろう?
初めまして?
こんにちは?
でも、昨日確か、私は家が嫌だと裸足のまま飛び出してしまったと潮くんが言ってた。
ということはもしかしたら、すごく怒ってるんじゃないか…。
「凪?」
顔を下に向けていると、名前を呼ばれ、潮くんの方を見る。
潮くんは「ただいまでいいからな」と、私の考えを分かっているようだった。
潮くんは私の事をお見通しのようで。
不安が、和らぐ。
玄関の扉が開き、出てきたのは、40歳ぐらいの、茶髪でショートカットの女性だった。
「おかえりなさい」と、笑う女性を見て、ああこの人がお母さんなんだって無意識に思った。
優しそうなお母さんだった。
「た、ただいま…」
潮くんの手を握りながら言うと、お母さんは穏やかに笑っていた。
潮くんと一緒に部屋の中に入った。
廊下には、色々な張り紙がされていた。
とある扉には〝トイレ〟と書かれていた。
そして〝なぎのへや〟と書かれた張り紙もあった。
ここが私の部屋らしい。
中に入っても、女の子らしい部屋だなって思うぐらいで。
本当に私は、記憶が無いんだなぁ…。
「凪、俺もいったん帰って、制服に着替えてくるから、凪も着替えてて」
「帰るんですか?」
「うん、自転車の鍵も取りに行ってくる」
「自転車の鍵?」
「足、痛むだろうから」
「大丈夫ですよ、ほんとに」
「俺が大丈夫じゃない。何かあれば、凪のお母さんに聞きな。凪のお母さんも、凪の事、大事に思ってるから」
「…分かりました…」
「家近いから、10分ぐらいで戻ってくる」
「近いんですか?」
「近いよ。ここのマンションは2棟で、俺は3棟に住んでるから」
〝6時20分 起床
6時50分までファイルを見る
7時30分までにすること
①制服に着替える
制服はクローゼット
ブラウス下着類もクローゼットの棚の中
②ご飯を食べる
③身支度をする
時間割の確認もする
④7時30分 学校へ行く
ウシオくんと一緒に行く〟
私の部屋の中に入れば、机の上に紙が置かれてあった。記憶のない私は、きっとこれを見て朝の時間を過ごすのだろうと思った。
今日はホテルで泊まったから、この通りにはいかなかったけど。
この〝ファイル〟ってなんだろうか?
机の上にも、部屋の中にも〝ファイル〟は無かった。
「凪、制服はクローゼットの中にあるからね」
部屋の中に来たお母さんにそう言われ、私はクローゼットを開けてみた。
確かに制服はあった。
青いチェックのスカートがハンガーにかけられていた。ブラウスはクローゼットの棚の中に入っていた。
1人になった部屋でその制服に着替えてみた。疑っていたわけじゃないけど、制服のサイズはぴったりで、本当に私の制服なんだなぁって思った。
そうしているうちに、潮くんが戻ってきた。潮くんも似たような青いチェックのズボンと、長袖のカッターシャツを着て袖をおっていた。
なんだか、私服の時と雰囲気が違った。
そんな潮くんは、玄関先で、私が家に戻ってきた時に履いていた黒いサンダルを見て、「…誰のか聞くの忘れてた」と、眉を寄せていた。
自転車の2人乗りで、学校へと向かう。前に座りペダルを漕いでくれる潮くんは、「知らない人ばっかで戸惑うと思うけど、怖がらなくていいからな」と、私を安心させてくれた。
「あと、授業の内容も分からないと思うけど、ちゃんと教えるから心配しなくていい」
「内容?」
「凪は基本的なもの以外記憶できないから」
「本当に不思議ですね、学校は授業をうけるものって分かっているのに、授業の内容を覚えていないなんて…」
「そういうもんだよ、俺だって、勉強してねぇから全く分かんねぇしな」
面白そうに笑っている潮くんは、「ちなみに小学校の時から席は隣同士」と、自慢げに言っていた。
自転車で20分ほどで、その学校についた。ついたけどあまり生徒がいなく。敷地内の駐輪場に自転車を停めた潮くんに「誰もいないですね」って言ってみた。
「今は授業中だからな」
もう授業が始まっているらしい。
潮くんに手をひかれ、校舎内に入り、上靴に履き替えた。その上靴には〝さわだ〟と書かれていた。
「一応遅刻になるから、生徒指導室に寄らねぇと。足、大丈夫か?」
「足は大丈夫です。遅刻したら、その場所に行かないといけないのですか?」
「そう。遅刻届けを貰わないといけねぇから」
よく分からないけど、そういう学校のシステムらしく。生徒指導室という部屋に入り、潮くんは慣れたように、先生らしい人が渡してきた紙に〝桜木潮〟と書いた。
そして〝澤田凪〟と続けて書いた。
遅刻理由のところには〝私用〟と書いていた。
生徒指導室の中でも潮くんは私の手を離さなかった。遅刻届けと書かれた紙を持ち、生徒指導室から出てもその手は離れず。
朝、手を繋ぐ事を〝くせ〟って言っていたことを思い出していた。きっといつも潮くんはこんなふうに手を繋いでくれているんだろう。
とある教室の前で、「ちょっと待ってな、先生に渡してくる」と、手をそっと離された。
教室の中に入っていく潮くんの後ろ姿を見たあと、私は自分の掌を見た。
初めて会った彼なのに、手を離される事がとても寂しく感じた。
すぐに私の所へ戻ってきた潮くんは、「後ろから入ろう」と、また私の手を握ると、教室の後ろの方の扉へと向かった。
中には、授業を受けている人がいた。
潮くんがいるからか、あまり緊張したりはしなくて。扉のそば…。廊下側の、後ろの2席が空いていて。そこの1列目の方に私の手をひくと、「ここが凪の席」と潮くんは小さな声で言った。
1番端っこらしい。
その横に座った潮くんは、私が席に座ったことを確認すると「今は現国、机の中にあると思うから探して」と私に言ってきた。
現国…?
私には〝現国〟が分からなかった。
分からなくて顔を傾けると、「この教科書」と、潮くんが紫色メインの教科書を見せてくれた。
言われた通りに探している最中、潮くんは、私ではない隣の席に座る男子生徒に「何ページ?」と聞いていた。
私の席にあった、みんなが使っているのと同じ〝現国〟の教科書を開く。潮くんが「25ページな」と小さく呟き。
25ページ…と、パラパラと教科書を開いてみる。中身を見る限り、物語が多く書かれているこれは〝国語〟じゃないのかな?って思ったけど。〝国語〟じゃないらしい。
もしかしたら私が知らないだけで違う言い方があるのかもしれない。
先生らしい年配の男性が、25ページに書かれている物語を音読する。
その教科書は、難しい漢字…というよりも、読めない漢字が多くあった。
正直、読むことが出来なかった。
記憶がない私は、簡単な漢字しか覚えていないようで。
──それでも、今、授業でやっている物語を目で追うことが出来たのは、その漢字にはふりがなが全て書かれていたから。──手書きで。
ぱらぱらとページをめくる。
どこをめくっても、漢字にはふりがなが書かれている。
それは最後まで、ふりがなが、漢字の横に書かれていた。
チャイムがなり、授業が終わり、潮くんは私の方に体を向けた。
「大丈夫だった?」
「はい、ふりがながあって。読めました。これは誰が書いたんですか?」
「ああ、俺。読めた?俺字汚いから」
「あの、…潮くんが全部ですか?」
「うん、ちゃんと調べたから、合ってると思う」
「私が読めないから、ふりがなを…?」
「ああ」
だって…これ、本当に全部の漢字にふりがながあるんだよ?いったい、どれだけの時間がかかるか。
まさか、と思った。
次の授業で使う、理科じゃなくて〝生物〟の教科書を開いてみた。
そこにも説明文に全て、ふりがながあって…。
さっき見た潮くんの字だった。
きっと、どの教科書にも、ふりがなはあるんだろう。そんな気がする。
「潮、久しぶりじゃん!」
隣で、潮くんが知らない男子生徒に話しかけられていた。たぶん、友達らしい。潮くんは笑って返答していた。
そんな潮くんを見て、私は泣きそうになった。私は本当に愛されて、大事にされているんだなぁって…。
私は本当に、この気持ちも、忘れてしまうの?
〝生物〟の授業の内容があまりよく分からなかった。特定の専門用語を使い、今は血液型の話をしているらしいけど、〝優性〟とか〝劣性〟聞いたことの無い言葉で説明する。
私は困った顔をしていなかった。それなのにガタ…っていう音が隣から聞こえたと思ったら、潮くんが机ごと私に近づいてきて。
ピッタリと机が寄せられる。
「どこが分からない?」
周りに迷惑がかからないよう小声で呟く潮くん…。
「…あの、」
「うん」
「あんまり、わかっていないです…」
「血液型は分かる?」
「はい…」
「血液型には4種類あるのは?」
「…それは、なんとなく分かります」
「なんとなく?」
「血液型の話をしてるなぁって。でも、それだけで、先生が何を言っているのか分からないです…」
「分かった、じゃあそこからな」
潮くんは優しく説明してくれた。
〝優性〟を〝優先的に〟と言ったり、私に分かりやすく教えてくれて。
潮くんいわく、今、先生の授業は、親の血液型から生まれてくる子供の血液型の種類の話をしているらしい。
説明してくれる潮くんを見つめた。
潮くんが私に説明している教室内も、先生も、慣れている様子だった。
私は…この光景も、忘れてしまうのだろうか?
潮くんは教えても無駄だって思わないのだろうか?
だって、この血液型の話も、明日には忘れて…。
「…わからなくてごめんなさい……」
内容を理解したあと、優しい彼に呟けば、潮くんは私の顔を見て、ゆっくり頭を撫でながら微笑んだ。
「あの先生、いつも説明へたなんだよ。みんな分かってないから大丈夫」
こっそりと耳打ちして、私をサポートしてくれる潮くん。チャイムが鳴り授業が終わって、教科書の中に教科書を入れた。
「凪、食堂いこ。腹減ったわ」
今からお昼ご飯の時間らしい。潮くんに手を差し出され、自然とその手に自身の手のひらを置いた。
大切そうに柔らかく握られ、私はこの人が本当に大好きだって思った…。
本当に…忘れちゃうの?
食堂らしいところで、おにぎりとパンを買った。潮くんがこの中で選ぶとか教えてくれて。食堂で働いていた年配の女性に「今日も仲良しねぇ」と言われた。
「食堂、人多いから外で食べよ」
潮くんに頷き、連れてきて貰った場所は、中庭らしい場所にある外の階段だった。
ちょうど日陰になっていて、あまり暑くはなく。
「午後の授業もいけそう?」
「はい」
「なら良かった」
「…ほんとうにごめんなさい、私…」
「なんで謝る?当然の事って言っただろ?」
「迷惑を…、だって、それに、」
「迷惑とか考えなくていい、絶対思わないでほしい。俺がしたくてしてるんだから」
「でも…」
「凪」
「…疲れませんか?」
「疲れるとか考えたことないよ」
「いつも私、潮くんに迷惑を…助けてもらっているんですね」
「凪?」
「いつも……助けてもらっているのに、私…されを忘れているんですね…」
「違う、そういう考えはしなくていい。俺がしたいんだよ、俺が凪を好きだからしてる事なんだ」
「でも、…明日になれば、今日のことを忘れちゃう…。なのに教えてくれる…。無駄なことかもしれないのに…」
「俺がしたくてしてる、俺が凪と関わりたいから。こうして喋ることも、無駄じゃないし俺にとっては嬉しい」
「……潮くん」
「だからそんな泣きそうな顔しなくていい」
潮くんの手が、私の頬にふれた。
そのまま後頭部にまわされ、軽い力で引き寄せられる。私が簡単に拒絶することができそうなその力強さ。
ゆっくりゆっくり近づいていき、最後には私から潮くんに近づいていた。
潮くんの腕が背中にまわり、まるで子供をあやす様に抱きしめてくる。
初めて会ったのに。
「…好きだよ…」
私も……。そう思うのは、おかしいのかな。だって私はもう、この人を忘れてしまうのに。…悲しい…。
じわりと涙が出てきた。
どうにかして、この感情を、残しておきたい。
「…わたしもすきです」
そう言って、潮くんの体に腕を回した。
潮くんの顔は見えないけど、ぴく、と、体が動き。
さっきよりも強く抱きしめられた。
抱きしめられて嬉しいと思う。
嬉しいのに、悲しい気持ちが交差する。
これ以上好きになれば、別れるとき、悲しむ心が増えてしまう。
「潮くんのこと、忘れたくないです…」
「うん…」
「おかしいですか、…今日…初めて会ったのに…好きと思うなんて…」
「おかしくない…すげぇ嬉しい」
そう言った潮くんは、噛み締めるように呟いた。本当に幸せだと思っている声だった。
「……潮くん、」
「…俺のこと好き?」
「はい…」
「もう1回言ってほしい」
「好きです…」
「もう1回」
「潮くんが大好きです」
また強く、抱きしめられる。
それが嬉しくて、悲しいのに、何度も私は潮くんくんに「好き」と言った。
潮くんは、ゆっくり体を離すと、優しい目で私を見つめ、背中にあった手で頬を包んだ。そのまま顔を傾け、少しずつ目を閉じながら近づいてくる。
私と潮くんは、彼氏と彼女。
何をされるか分かった私も、自然と目を閉じていた。
唇がふれあい、また見つめあい、また愛おしそうに私を抱きしめる彼に幸せを感じた。
そのまましばらくの間、潮くんは私を離すことは無かった。
「私…、何回潮くんとキスしたことあるんですか?」
「…今で2回目」
2回?
そのことに驚き、私は少し顔を上にあげた。
「…2回?」
「うん、初めては付き合った時にした」
「一年以上、あいてたってことですか?」
「そうなるかな」
照れたように笑った潮くん。
「その日も、凪が俺に好きって言ってくれた」
好き…。
「1年3ヶ月ぶりに聞いた」
本当に?
私、そんなに…。
こんなにも好きって思っているのに…。
「もっと、過去の私は言ってると思ってました…」
「うん」
「自分が信じられないです…」
「たぶん、思ってはくれてると思う、口には出さないだけで…」
思っては?
口に……。
「じゃあ、今日はいっぱい言います。今までの分、いっぱい」
「え?」
「私はずっと、これからも潮くんが大好きです」
「……」
「ずっとずっと大好きです」
眠る、というよりも、気絶してしまう感覚だった。──「ジュース買ってくるから、ここで待ってな」と、愛おしそうに頭を撫でられ頬にキスをされ、私は潮くんの言われた通りにここで待っていた。
きっと、悲しいけれど幸せで穏やかな気持ちが、その行為を引き寄せたのかもしれない。
これ以上記憶が無理だと、脳に重さが加わり、気絶するような、頭が真っ白になって、落ちる感覚…。ふ…と、前かがみに倒れた。
──ドサ、と音がした。それが階段から落ちた音だとは自分の音だとは気づかなかった。
3段ほど、落ちたと思う。
痛みよりも先に、脳が落ちた。
だから「──…凪!」と、気絶し、誰かに起こされた時、その痛みがどうして起こっているのか全く分からなかった。
「どうした!? 何があった!? 転んだのか!?」
私は誰かの腕の中にいるらしい。
おしりは地面についているから、上半身だけ起こされているのだと思う。
その人、若い男性と目が合い、体を動かそうとすれば──ズキ、っと頭の横辺りが傷んだ。思わず顔を顰めると、「どこ打った?!階段から落ちたのか?!」と焦った声を出す男性をもう一度見た。
「……あ…の」
「どこが痛い!?」
「……だれ…ですか……」
私がそう言った時、その男性の顔が目を見開き、強ばった。かと思ったら眉を寄せ悲しそうな顔をして──…
それでも、その顔は一瞬だけで。瞬きをすると、その顔は無くなってた。
「俺は桜木潮……。…ごめんな、びっくりしたよな。君は階段から落ちたんだと思う。どこか痛いところある?」
──『理科室、こっち』
誰かが手を差し出してる、そんな夢を見た気がした。