『ごめんヒナ、今日帰るの遅くなる。会うのはまた今度にしよ』

 付き合い始めて時間が経つにつれ、ヒナが俺のために尽くしてくれるのに慣れて、次第にメッセージの頻度は減っていった。
 仕事帰りに遊びに来ると聞いていたけれど、こちらは仕事が立て込んでいるのだから仕方ない。彼女なら許してくれるだろう。

『わかった、仕事頑張ってね』

 しばらくして確認したメッセージを見て、やっぱりと一息吐く。こういう時、ヒナは文句を言わない。元からの性格なのだろう。
 付き合い始めの頃は、控え目な彼女に自信を持たせようとあれこれ褒めていたけれど。今では褒める必要もないくらい、メイクや髪型、可愛い格好が身に付いていた。

 学生の頃と環境が違うのは、わかっているはずだ。お互い社会人として、仕事優先に生活しているのもわかっている。
 ヒナと付き合い始めて、もうすぐ三年になる。俺達も大人なのだから、そろそろ将来のことを考えなくては。

「ヒナなら、わかってくれるだろ」

 会う時にいつも精一杯のお洒落をしてくれるのも、初デートの時買ったお揃いのストラップを付け続けてくれるのも、たまにご飯を作りに来てくれるのも、全部あの頃から変わらないヒナの愛情だ。

 付き合う前の、どれだけときめかせられるかなんて試みも楽しかったけれど、こうして変わらない関係性の方が安心する。
 自分で言うのもなんだけど、背も高いし顔も良い方で、女の子に困ったことはなかったから、色んなタイプの子と付き合ったことがある。
 ヒナだけだ。お姫様扱いしないと拗ねたり、勝手に癇癪を起こしたり、そんな面倒な女の子達とは違う。

「先輩~、こっちの資料って……」
「嗚呼、それはこのファイルを……」
「なるほど~、さすが先輩!」

 後輩の上目遣いを流しながら、不意にそのキラキラとしたネイルが目に入る。以前ヒナが付けていたのと少し似ていた。
 仕事中だというのについ思い出し微笑んでしまうと、後輩は少し照れたように笑う。変に勘違いさせないようにしなくては。この子のお洒落は自分のための『可愛い』だ。傍に居られるだけで幸せなんて笑ってくれる、健気な彼女を裏切るわけにはいかない。

 彼女との幸せな時間を思い出せば思い出す程、緩んだ口許は思い出し笑いが止まらなかった。


*****


『わたしたち、友達に戻ろう。今までありがとう』

 突然別れを切り出したのは、ヒナの方からだった。付き合って三年目の、俺達の記念日。

 初めて二人の将来を想像して、ジュエリーショップのチラシを大切にポケットにしまったあの頃の俺には、こんな終わりは想像も出来なかっただろう。

 この先の未来を描いていたはずなのに、あっさりと突き放された喪失感。信じていたはずのものが一気に崩れ去る感覚。信じられない気持ちと、裏切られた怒りにも似た感情。それ以上の戸惑い。

 そんな答えを出したヒナは、一体どんな気持ちなのだろう。引き留めて欲しくて、構って欲しくて、こんなことを言うのだろうか。

 当たり前みたいに慣れていた、安定した二人の関係を壊してまで、そんな下らないことをしたいのか。

 現実というのは残酷で、一度綻んだ恋の魔法を掛け直すには、何もかも遅すぎた。

『わかった、今までありがとう。ヒナ』

 あんなに傍に居たのに、ヒナの気持ちがわからない。想像してみるけれど、どれが正解なのかもわからない。
 真っ白な頭の中に、嬉しかったことや楽しかったこと、今は遠い眩い思い出ばかりが浮かんでは、涙となって溢れていく。

 初めはヒナの好意から始まった関係だったのに。いつも優位に立っていたのは俺だったのに。気が付けば、いつの間にか俺の方が、こんなにも好きになっていた。

「……やっぱり、嫌だ。ヒナ……大好きだ」

 けれどその言葉は送らずに、しばらく待つことにした。突然別れ話をするなんて、ヒナも混乱しているに違いない。整理する時間も必要だろう。彼女もきっと、同じ気持ちだと信じて。

 女の子の求める恋は、結ばれてハッピーエンドの絵本みたいなものだろう。出逢いから付き合うまで、そして、付き合えば結婚まで。まだ、ハッピーエンドまで辿り着いていないんだから。

 傍に居てくれる心地好さも、恋が愛に変わることも、想ってもらえる嬉しさも、自分がこんなに誰かを愛せることも、バランスの保たれた天秤の安心感も、全部この恋が教えてくれた。

「ヒナ……早く会いたい」

 あれだけ放置していたメッセージの通知を入れて、お揃いのストラップの揺れるスマホ握り締める。返事の有無に一喜一憂するそれは、付き合い初めの頃に似ていた。少し離れれば、きっと恋しさが増すだろう。

 けれど友達に戻ろうなんて言ったきり、彼女はもう、会ってくれることはなかった。


*****


「ねえ、水江先輩。彼女さんと別れて結構経つんですよね? もし良かったら……私とお試しデートなんて、どうですか?」
「……んー……いや、ごめん。まだそういう気にはなれなくて」
「そうですか……残念です。そんなにも想って貰える元彼女さん、羨ましい」
「あはは……」

 たくさんたくさん、涙は枯れないと知るまで泣いて。一人の夜を何度も越えて。ポケットに詰め込んだチラシはぐちゃぐちゃになって、たくさんの寂しさと、後悔の心だけが残った。

 空っぽのポケットに、また彼女との恋の続きを詰め込みたい。
 次は失敗しない、今度こそヒナに嫌な想いはさせないなんて、そんな殊勝な気持ちになれたのだから、時間というのは偉大だ。

 一方的に振られて、もう二度とこんな想いは御免だと思っていたのに、プライドを捨て色んな人に相談する内に、ヒナに相当我慢をさせていたことに気付いた。
 気付いて成長出来たのだから、失った恋の先に、リベンジする機会があるのかもしれない。そう思えるようになった。

 会えなくてもメッセージだけは拒否されずに送れるから、今度こそ失敗しないようにと気を付ける。
 付き合う前のような、返事の早い何気ない会話。懐かしくて、思い出の欠片を集めたくもなるけれど。今度こそ同じ未来を繰り返さないようにと、その気持ちに蓋をした。

 いつかまた、別の誰かと恋を紡ぐなら。そんな前提で話さないで欲しい。ハッピーエンドを一緒に作り上げるなら、それは今度こそヒナが良い。
 いつかまた、ヒナが新しい奴と恋をするなら。そんな想像はしたくない。幸せな時間なら、今度こそ俺が約束するから。

 恋の苦しさを味わった今の俺なら、あの頃の甘い考えだった俺よりも、きっと一歩、成長出来たはずだから。

「……またな」

 あの日涙で別れたきりの、会えなくても尚『変わらず愛しいきみ』に、今度は笑顔で再会を誓った。