『ごめんヒナ、今日帰るの遅くなる。会うのはまた今度にしよ』
「え……!? もう家の近くなんだけど!?」
付き合い始めて時間が経つにつれ、あれだけわたしを夢中にさせた彼からのメッセージの頻度は減っていった。
更新しても中々既読のつかない画面、仕事帰りに遊びに行くと伝えていた日の必要連絡すら、この有り様だ。
『わかった、仕事頑張ってね』
少しでも可愛い女で居たくて、怒りや悲しみを堪えてお利口さんな返事をするけれど。帰りに買った二人分の夕飯の食材と、わざわざ整えた髪型とメイクが、余計にわたしを惨めにさせた。
学生の頃と環境が違うのは、わかっている。お互い社会人として、仕事優先に生活しているのもわかっている。
それでも、わたしはわたし、アキラはアキラ。
何も変わらないはずなのに。二人の関係は、どうしてこんなにも変わってしまったのだろう。
「アキラの馬鹿……」
精一杯のお洒落を褒めてくれたあの日の彼は、もう居ない。
手を繋いだ時のときめきは、もう二度と味わえない。
届いたメッセージひとつひとつを魔法の言葉のように読み返した日々は、もう訪れない。
あの頃がこれ以上ない程幸せだったのだ。それが忘れられないからこそ、その落差に余計に悲しく感じてしまう。
「何か、疲れちゃったな……」
家に帰り食材を冷蔵庫に詰め込めば、一人で食べきれない量に何だかいっそ笑えてきた。
既読のつかないメッセージ。気を使わなくなった彼の髪型。彼のSNSに載っている知らない女の子。会社の同僚か、後輩か。キラキラのネイルにゆるく巻いた髪。
自分なりの『可愛い』を詰め込んだその子の笑顔を見るだけで、傍に居られるだけで幸せなんて笑っていた、恋の魔法に煌めいていたあの頃のわたしを見ているようで、胸が締め付けられる。
かつての幸せを思い出せば思い出す程、現実との温度差に溢れた涙が止まらなかった。
*****
『わたしたち、友達に戻ろう。今までありがとう』
結局別れを切り出したのは、わたしの方からだった。付き合って三年目の、わたし達の記念日。
初めて繋いだ手の温もりを、忘れないようにと大切にポケットにしまったあの頃のわたしには、こんな終わりは想像も出来なかっただろう。
好きだけで保ち続けた頑張りの糸が、心に積もった色んな重さで、ある日ぷつんと切れてしまったのだ。
必死に繋ぎ止めようとした物を、自ら手離す喪失感。この結末は自分で決めたことなのに、きっと心のどこかでまだ期待している。
そんな答えしか出せなかったわたしの辛さに気付いて、あの頃の彼が帰ってきて、ぼろぼろのわたしを引き留めてくれるのではないか。
気付かなかったとしても、「俺にはヒナが居ないとダメなんだ」なんて、今からでも、当たり前みたいに慣れていた『わたし』を見てくれるんじゃないか。
けれど現実というのは残酷で、恋の魔法を掛け直すには、何もかも遅すぎた。
『わかった、今までありがとう。ヒナ』
引き留めるでもなく、咎めるでもなく、そんな彼から最低限の了承の返事が来たのを見た瞬間、まるで心臓から血の気が引くような、真っ白な感覚に支配される。
真っ白な心の中に、嬉しかったことや楽しかったこと、今は遠い眩い思い出ばかりが浮かんでは、涙となって溢れていく。
別れを決めたのはわたしなのに、彼はわたしの意思を尊重しただけなのに。勝手に期待して、傷付いて、馬鹿みたいだ。
「ごめんね、ありがとう。アキラ……大好きだったよ」
最後の愛の言葉は送らずに、涙と一緒に溶けて消えた。こうしてわたしの恋は、終わりを迎えた。
現実の恋は、結ばれてハッピーエンドの絵本みたいにはいかなくて。寧ろ結ばれてからが本番だった。
繋ぎ止める努力の辛さも、愛が執着に変わることも、思い遣りの大切さも、自分がこんなに我が儘で弱かったことも、バランスの保てない天秤の末路も、全部この恋が教えてくれた。
「ばいばい、わたしの初恋」
あれだけ一喜一憂したメッセージの通知を切って、お揃いのストラップの揺れるスマホをベッドに放り投げる。放物線を描いたそれは、わたし達の関係に似ていた。上りきれば、あとは落ちるだけだったのだ。
友達に戻ろうなんて言ったきり、彼とはもう、会うことはなかった。
*****
「ねえ、ヒナ。アキラくんと別れて結構経つしさ? 良かったらいい人紹介しようか?」
「……んー……そう、だね。なら、お願いしようかな」
「オッケー、任せて! 実はさ、前からヒナのこと可愛いって言ってるのが居て。そいつ、ちょっと気弱いけどめちゃくちゃいい奴だから!」
「わたしのこと、可愛いって言ってくれてるの……? えっ、その時点で好感度高い……」
「いやいや、それチョロ過ぎでしょ!」
「あははっ」
たくさんたくさん、涙は枯れないと知るまで泣いて。一人の夜を何度も越えて。ポケットに詰め込んだ愛しい温もりはもうなくて、少しの寂しさと、身軽になった心だけが残った。
空っぽのポケットに、今はもう、代わりのものを詰め込める。
次は何を入れようか、なんて、そんな前向きな気持ちになれたのだから、時間というのは偉大だ。
もう二度とこんな想いは御免だと思っていたのに、涙を拭いてまた笑えるようになった。失った恋の先に、新しい恋があるのかもしれない。そう思えるようになった。
アキラともう会う気にはなれなかったけれど、少し前から彼からメッセージが届くようになった。付き合う前のような、返事の早い何気ない会話。
懐かしくて、愛しさの欠片を集めたくもなるけれど。きっとまた同じ未来に辿り着いてしまうと思うから、その気持ちに蓋をした。
いつかまた、別の誰かと恋を紡ぐなら。ハッピーエンドのその先を、一緒に作り上げてくれる人がいい。
いつかまた、彼が新しい子と恋をするなら。今度はわたしとの時間よりも、幸せに過ごして欲しい。
恋の苦さを味わった今のわたしなら、あの頃の甘さだけを夢見ていたわたしよりも、きっと一歩、成長出来たはずだから。
「……またね」
あの日涙で別れたきりの、いつかまた生まれるであろう『わたしの恋心』に、今度は笑顔で再会を誓った。