空を満月が煌々と照らす夜。
 私は神界の掟を破り、小さな温もりを手に入れた。
 目線を落とすと、意識をなくした小柄な少女が私の肩口に顔を埋めていた。
 少女はひどく痩せているが、日焼けを知らぬ肌は透き通るように白く、整った目鼻立ちをしている。今は汗と埃でぼそつく射干玉の黒髪は、洗って櫛を通せば艶やかになるだろう。閉ざされた瞼には髪と同色の長い睫毛が影を落とし、その後ろには黒曜石みたいな美しい瞳が隠れている。
 削げた頬に残る涙の痕が痛々しかった。
 その時、少女が小さく身じろいだ。その顔が苦渋に歪み、かさついた唇から零れたのは、ひどく怯えた様子の謝罪と懇願の言葉。
「……お母さん、ごめんなさい。許して」
 耳にして、胸が窮屈に締め付けられる。
 宥めるように背中を撫でてやると骨ばった感触が手のひらに伝わる。
「もう大丈夫だ。誰も君を傷つけない。君には私がいるよ」
「……ん」
 耳もとで囁くと、少女はそれに応えるように鼻にかかった小さな声をあげる。少しの甘えを含んだその声が私の耳に心地よく、少女を抱く腕に無意識に力がこもる。
 人ひとり抱いているとは思えぬほど軽く小さな体は頼りなく、いっそ憐れなほど。しかし重なる少女の体はたしかに人肌の温もりを伝え、少女自身のまろやかな香りがやわらかく鼻腔を擽る。風に吹かれればそのまま飛んで消えていってしまいそうな儚さは私の庇護欲をひどく煽る。同時に、この上なく愛おしく感じられた。
 私が少女を初めて目にしたのは、彼女が十歳の時。それから五年の月日が経っていた。
 人の世の情勢を眺めて記録するのは、神である私たちの日課だ。醜い諍いに理不尽な暴力、人の世のありとあらゆる光景を見尽くしてきた私の目に、少女が留まったのはほんの偶然。少女の状況は悲惨には違いないが、広くを見ればもっと凄惨な日々を生きる人々は多くいる。
 それなのに、なぜか少女から目が逸らせなくなった。
 神界の政務室から仕事の傍らよく少女を眺めていた。母親に虐げられ涙する少女の姿を見るたび胸が傷んだ。
 満月の夜は、神界と人の世の境が近くなる。腹を空かせた少女を哀れに思い、初めて界を繋いで果実を届けたのはちょうど四年前のことだ。
 それから四年間、満月の夜が訪れるたび少女に神界の果実を届けてきた。今夜もいつも通り果実を届け、そのまま少女の様子を眺めていて異変に気づいた。
 母親の情夫に組み敷かれた少女を目にした瞬間、真っ赤な怒りが全身を焼いた。瞬きの後には界を超えて男を神力で弾き飛ばし、少女を腕にかき抱いていた。
 あまりに容易く禁忌の扉を開いてしまった自分自身に驚きは禁じ得ないが、根底にあるのは五年間見続けてきた不遇な少女への同情心と保護欲でありそれ以上の感情はない。……そう思っていた。
 けれどこうして実際に肌で触れた少女は、不思議なくらい私の心をざわつかせる。苦しいのに、どこか甘くてむずかゆいこの気持ちはなんなのか。
 ふいに少女の眦に新しい涙が珠を結んでいるのに気づき、吸い寄せられるように唇を寄せる。
 啄むようにそっと唇で拾ったその時。トクンと鼓動が跳ねた。
 凪いだ水面にひと雫の水滴が落ちたように、心の内に不可思議な熱を帯びた波紋がゆっくりと広がっていくのを感じた。
 含んだ少女の涙は、まるで甘露のように私の舌にどこまでも甘い。その甘さの余韻がじんわりと私の体を侵し、脳髄までとろかしていく。
 体の奥底に宿る仄暗い高揚を自覚しながら、少女の耳もとで密めく。
「これからは私が君を守る。君は私のものだ」
 意識のないはずの少女が、ほんの僅かに口もとを綻ばせたように見えたのは、きっと浅ましい私の欲が見せた幻だ。
 神とは……いや、私という存在は存外愚かしい俗物であったらしい。
 そんな新しい発見に自嘲しつつ、新たな箱庭へと少女を誘った。


***


 満月の夜は心が躍る。
 私は目を丸くして瑞々しい果肉を食み、滴る果汁を啜る。
 その果実は満月の夜、狭く汚いうちの卓の上に現れる。ただしそれが現れるのは決まって母のいない時。私がひとりきりの時にだけ、瞬きのほんの一瞬の隙をつくように、気づけば甘い香りを放ちながらそこにある。
 夜の仕事を持つ母の帰宅は、日も高くなってからが常だ。それとて親しい男の人ができると、何日も帰ってこないことも多い。
 前回の満月の夜は珍しく母が家にいて、私は彼女の機嫌を損ねないよう部屋の隅で息を殺していた。膝を抱え、勝手にあふれてくる涙をそっとズボンに吸わせていた。
 ……よかった。今日はお母さんがいなくって。
 手の中の果実は、プラムと林檎を足して二で割ったような形。齧り付くと完熟した桃よりももっと芳醇な甘さが口いっぱいに広がる。満月の夜にだけ食べられるこのご馳走は、私に束の間の夢を見せてくれる。
 最後のひと口を嚥下して、手についた甘い果汁を舐め取る。
 果実を食べきると、乱雑に物が散らばった色褪せた畳の上にそのままごろんと寝ころんだ。もう何年もヒビが入ったまま放置された窓。その向こう側に広がる空にぽっかり浮かんだまあるいお月様に微笑んで、満たされたお腹と心で目を閉じる。
 そうすれば、幾らもせずに幸せな眠りがやって来る。眠りの中には、日ごと膨らんでいく月を見上げながら会える日を心待ちにしてきた彼がいる。
 彼は言葉を発しない。ただ静かに私を見つめている。
 彼は全身にほのかな光を纏い、その輪郭は蜃気楼のように揺蕩う。
 掠れ掠れにも、冴えた美貌は瞭然だった。月の明かりを集めたみたいに淡く光る銀の髪。秀でた額にスッと通った鼻筋。澄んだ湖面のような青い目は凍てつくように厳しいけれど、厳しさの後ろにはそこはかとない甘さを孕んでいるように感じる。
 ……あぁ、会いたかった。
 私にとって甘く幸せな夢は、空腹を満たしてくれる果実そのものではない。果実を食んだその後で、眠りの中に現れる彼こそが私の希望。満月の夜にだけ許された彼との邂逅が、私を生かしている。
 その時。ガタンと玄関から乱暴に扉を開く音がして、ビクンと体が跳ねた。
 幸せな眠りの世界から意識が浮上し、反射的に目を開く。
 彼との邂逅が断たれ、苦く唇を噛みしめたのはほんの一瞬。
 ……え、お母さんじゃない?
 てっきり母が帰ってきたのだと思っていたが、私に向かって大股でやって来るのは酒臭い息を吐く、厭らしい目をした男だ。
「へぇ。あいつ、こんな大きい娘がいたのか」
「いやっ!」
 咄嗟に逃げようと身を捩る。しかし男に乱暴に腕を掴まれて、引き倒される。畳の床にしたたかに頭を打ち付け、目の前が白黒した。
 男は私の腹に容赦なく体重をかけてのしかかり、体をまさぐりだす。割れるような頭痛と腹を圧迫される苦しさ、肌を這う圧倒的な不快感に息が詰まった。
 男の手が下着の中に入り込み、今まさに下肢に触れようとした瞬間、視界が真っ白な光に包まれた。
 ……なに?
 朦朧とする意識の中、目の前でなにが起こっているのかまったく理解が追いつかなかった。
「もう大丈夫だ」
 細く繋いでいた意識が途切れる直前、夢でしか会えないはずの彼の声を聞き、その姿を見たような気がした。


 幼い頃からの出来事が走馬灯のように流れていた。強制的に映し出される悲しいばかりの記憶に喘ぎながら身じろぐと、宥めるようにそっと背中をさすられる。
 背中に感じる温もりの心地よさを意識したら、過去の悲しい記憶は徐々におぼろになっていった。
 迫る目覚めを前に、閉じていた瞼が小刻みに震える。
 ……私、いったいどうしたんだっけ。
 鈍い頭でぼんやりと考えながら、幾度か小さく瞬いてゆっくりと瞼を開いた。
「目覚めたかい?」
 ゆらゆらと視線をさ迷わせていたら、すぐ横から落ち着いた低い声がした。
 耳にした瞬間、熱く胸が震えた。軋むような動きで声のした方を向く。
 初めて悲しみや痛みとは別の理由から、眦に涙が滲んだ。何度も何度も夢に見て、しかし触れることも声を交わすことも敵わなかった奇跡のように綺麗な人がすぐそこに……手を伸ばせば届く近さにいた。
「っ、……会いたかった。ずっとずっとあなたに会える日を夢見てました」
 この瞬間の歓喜は到底言葉で言い表せるものじゃなかった。だけど気づいた時には、胸にあふれる思いの一端が声になって唇からこぼれていた。
 その人は僅かに目を瞠り、次いでとろけるように微笑んだ。時間が止まったような錯覚がした。
「あぁ、私もだ。君に会いたかった」
 彼が誰だとか、ここがどこだとか、そんなことはどうでもよかった。
 今はただ、すべての感覚が目の前のその人ただひとりに向かっていた。
「満月のたび、私に果物を届けてくれたのはあなたですよね」
「もっと助けになってやれればよかったのだが、あんなことしかしてやれずすまなかった」
 柳眉をひそめ後悔を滲ませる彼に、私は必死に首を横に振る。
「いいえ、嬉しかった。果物はもちろん、ずっと私を気にかけてくれていたあなたの存在が心の拠り所だったんです」
 彼は眩しいものでも見るように目を細め、そっと私の頬を包み込む。
 私を見下ろす彼の瞳も、やんわりと頬を撫でる骨ばった大きな手も、どこまでも優しい。触れ合った部分から、深い安心感と充足がじんわりと染みていく。
 一方で、狂おしいほどの焦燥も胸に湧いた。
 彼にとってはただの親切心からの行動かもしれない。
 ほんの気まぐれかもしれない。
 いっとき保護し、手放すつもりかもしれない。
 だけど、私にとってこの出会いは果てしなく重い意味を持つ。目の前で夢とは違う現実の温もりと感触を伴った彼が、切ないくらい私の心を揺さぶる。
 もう、迸る思いを抑えることは困難で、これ以上心に柵は立てられなかった。
「ずっとあなたと一緒にいたい。私、あなたと離れたくありません……っ」
 縋るように見上げ、一生分の勇気で口にした。
「もちろんだ。私だって君を手放すつもりはない」
 即座に返された彼の答えに、私は恥も外聞もなく広い胸に飛び込んだ。
 幼い子供のように声をあげて泣く私を、彼はすっぽりと懐に包み込んで優しくさすってくれる。
 彼の鼓動を聞く。
 清涼感ある彼の香りを感じる。
 逞しい腕に包まれる。
 どれもこれもが苦しいくらい幸せで、あふれるほどの喜びに胸が詰まる。幸せの涙はまだしばらく止まりそうになかった。
 ずっとずっと願っていた。満月に見る束の間の夢じゃなく、彼とずっと一緒にいられたらどんなにか幸せだろう。
 祈りは天に届き、私の夢が現実となって実を結ぶ。
 私と彼、ふたりの過去と今、そして未来が折り重なる。ここから私たちの新しい未来が始まる。
 ひと際明るい満月が空からのふたりの抱擁を見下ろしていた――。