――二〇一七年、九月九日、土曜日。
 電車は待ち合わせの駅に停まった。
 普段は降りることがない大きな駅は、休日の午後であるためかとても混雑している。人の流れに沿いながら、長野くんと会う約束をした改札を目指す。看板を見る限りこの方向であっているはずだが、目に入ったのは看板だけではなかった。
 私と同じ年齢くらいの女の子が結構歩いており、その子たちの姿がどうも気になってしまう。清楚でお上品な感じの子から、派手でちょっと怖そうな子までいる。どの子もみんなオシャレで、ファッションセンスがない私にはとても真似できない。
 そんな私でもさすがに古い私服で遊びに行くのは良くないと思い、今日のために服を買ったのだ。だが、悩んだ末に選んだのは、どこにでもありそうな空色のワンピースだった。しかも、最寄駅の近くにあるファストファッションの店で買った安物であり、オシャレさの欠片もない。それでも個人的には気に入っており、薄らだが昔似たようなものを持っていた記憶もある。気に入ってはいるが、似合っているかどうかはまた別の問題だ。
 しばらく歩くと改札が見え、長野くんを見つけた。
 人の邪魔にならないように柱の前に立ち、長野くんはスマホをいじっている。着ている服も持っている鞄も決して派手ではなく、むしろ本来なら落ち着いた印象のはずだ。それでも長野くんが身につけると、華やかに見えた。
 駅にいる女の子達は通り過ぎる時、必ず長野くんをチラッと見ている。いや、女の子だけではなく老若男女の視線を集めているのだ。もう何回か話しているはずなのに緊張してきた。
 改札をくぐり、長野くんに近づく。

「こ、こんにちは」

 駅にいる人達の視線が私に注がれたような気がしたが、きっと気のせいだ。気のせいだと思わないと心が保たない。私の声を聞いた長野くんはすぐに前を向くと、目を思い切り見開き私をジッと見つめた。明らかにいつもと違う表情で、どうしたのだろうと考えようとした時だ。
 泣いている。長野くんが泣いているのだ。
 声を出すことはなく、大きな両目から一筋の涙が頬を伝っている。それがあまりにも綺麗に見えて、思わず息を呑んでしまった。だが、綺麗だと思っている場合ではない。

「だ、大丈夫ですか?」

 涙を拭いてから、長野くんは笑いながら言った。

「わりぃ。わりぃ。スマホでゲームやりすぎて目が痛くなっちゃった」

「それなら良かったです。病気のせいでどこか具合が悪いかなと思って……」

「ハルカちゃんは本当に優しいね。ギリギリまで生活に大きな支障はないから、そこまで心配しなくていいよ。そんなことよりさ……」

「は、はい」

 病気のせいで泣いているわけではないとわかり、ひとまず安心した。だが、そんな安堵の気持ちをどこかに吹き飛ばしてしまう、まるで爆弾のようなことを長野くんは言い出したのだ。

「この青いワンピース可愛いね」

 私のことではなく服だというのはわかる。それでも、人生で初めて可愛いという言葉を男子から言われた。地味で可愛いとはほど遠い私には無縁の言葉だったので、なんて返したら良いかわからない。それでもせっかく褒めてもらえたのだから、なにか言わないといけないので必死に絞り出した。

「安物なんですけど、空みたいな色でいいなと思って……」

 私の服を見ながら、長野くんはしみじみと言った。

「なるほど。空色ね」

「似合わないかもしれませんが……」

 服から私の目に、長野くんの視線が変わる。

「大丈夫! きっと似合ってる! いや、めちゃくちゃ似合ってる!」

「あ、ありがとうございます」

 力強い笑顔で言われ少し恥ずかしかったが、それ以上に勇気づけられた。長野くんが似合っていると言ってくれたのなら、例えオシャレじゃない安物でも堂々としていよう。

「ここで話していてもあれだから、そろそろ行くか」

「そうですね。行きましょう」

「って言っても、どこに行くか決まってないけどな」

 長野くんは笑いながら言った。二人でなにをして遊ぶかメッセージで話し合ったが決まらず、「とりあえずデカい街に出ればなんとなるだろ」と痺れを切らした長野くんが言って、待ち合わせの時間と場所だけ決めたのだ。
 歩き始めた長野くんの後ろをついていく。
 長野くんは私よりも少しだけ前を歩き、人混みの中で私がはぐれていないか何度も振り返ってくれた。もし私一人だったら駅が広すぎて一日かけても出られなかっただろう。
 長野くんが気をつかって案内してくれたくれたおかげで、迷子になることなく出口までたどり着けた。青い空に届きそうなほどのビルだらけの街もたくさんの人で行き交っている。家からそれほど離れていないのに都会に殆ど来たことなかった私はただ圧倒され、案内してくれたお礼を言うのも忘れて足を止めてしまった。

「すごいですね……人がたくさん」

「そうだよなぁ。オレも最初に来た時はビックリしたよ」

 近くに住んでいるはずなのに田舎者丸出しの私とは違い、長野くんは慣れている様子だ。

「私、ここに来るの初めてなんで、全然なにもわからなくてごめんなさいね」

 長野くんは私を見て声を出して笑った。

「初めて来た場所のこと知ってる人の方が珍しいと思うぞ? ハルカちゃん面白いね」

「あ……えっと……」

 なにか変なことを言ってしまったようだ。恥ずかしくなり目を逸らして俯く。なんて言ったら良いかわからずモジモジしていると、長野くんが明るく言ってくれた。

「とりあえず遊ぶところありそうな出口から出たから散歩でもしようぜ。テキトーに歩いてればなんか見つかるよ」

「は、はい」

 二人で街を歩き始めた。
 人にぶつからないように気をつけて歩きながら街の景色を見る。美味しそうなご飯屋さんと自分には着こなせないような洋服屋さんが入っているビルがとにかく多い。でも他はなんのお店かよくわからないから、もしかしたらわかるものだけ目に入るのかもしれない。いずれにせよ私には場違いなお店ばかりだ。
 時折、長野くんが視界に入る。私のすぐ隣を長野くんは歩いており、ありがたいことに今日も歩幅を私に合わせてくれているのだ。

「なんか面白そうなところ見つけたら遠慮なく言ってな」

「長野くんの方こそ、行きたいところが見つかったら言ってくださいね」

「そんなオレに気を使わなくたっていいのに」

 別に気をつかって言った訳ではない。騙しているようで申し訳ないので、本当のことを言った。

「違うんです。素敵なお店が多すぎてどこに入ったらいいかわからないんです」

「なるほど」

「だから、行きたい場所があったら遠慮なく言って欲しいです」

「そうか。よし、それならあそこに行こうか」

 長野くんは私の一歩前を歩き始める。
 私がはぐれないように、ここでも何度も振り返ってくれた。横断歩道を渡り、少し歩いたところにあるビルの前で、長野くんは歩みを止める。

「カラオケなんてどうよ?」

 そのビルの中にはカラオケ店があった。待っているお客さんは他にいないようなので、すぐにでも入れそうだ。

「え。私、歌なんて歌えませんよ?」

「それならやめとくか」

 長野くんは申し訳なさそうに言ったが、どこか残念そうだ。長野くんは一体どんな歌を歌うのだろうか。聴いてみたいが、一人で歌わせるのもいかがなものだろうか。それでも今日を逃したらカラオケなんて一生行くことがない気もする。一人で悩んでいても意味がないので、聞いてみることにした。

「私は歌えないですが、長野くんが嫌じゃなければ……」

「オレは嫌じゃないよ。じゃ、ここにするか。他のカラオケと違ってフードが美味しいって話だし、歌わなくてもカフェがわりに楽しめるはずだよ」

 カラオケに決まり、店の中へと入った。
 高級感がある南国風の店内で、確かにここなら他の店より美味しい物が食べられそうだ。でもカラオケに行くこと自体が初めてなので、比較しようがなかった。

「いらっしゃいませ。こちらに名前などをご記入ください」

 カウンターの中にいる店員さんが、バインダーに挟まれた紙を差し出す。高級そうな店だけど、意外とアナログなところもあった。

「ハルカちゃん、書いておいてもらえない? とりあえずフリータイムで」

 そう言うと長野くんはカバンを開けた。

「わかりました」

 バインダーについているボールペンで必要事項を記入していく。名前、年齢、人数、性別、利用時間を書かなくてはならない。
 名前と年齢まで書き終えた時だ。

「なんでこれでくさかべって読むんだろうな?」

 私のすぐ近くで長野くんの声がする。声が聞こえた方向を向いてみると、長野くんの綺麗な顔が私のすぐ近くにあった。直視できずすぐに視線を紙に戻してから言う。

「な、なんででしょうね? 変な読み方ですよね」

 自分の名字が変だとは常々思っていた。日下部と書いたら「くさかべ」とは読まないのが普通だ。ストレートに読むとしたら「ひかべ」だろう。

「変かな? オシャレで良いと思うよ」

「オシャレですか?」

 まさか名字をそんな風に褒めらるとは思わず、ビックリして長野くんの方に視線を向けてしまった。そんな私を気にしたのか、長野くんは自虐気味に笑う。

「オレなんて都道府県だからな。しかも長野に行ったことないんだぞ? 行きたいけどなぁ」

 長野という名字は私とは違って読みやすいし決して悪いものではない。どうにかフォローしたくて咄嗟に言った。

「確か長野県は日本一他の県と繋がっていますよね。人気者の長野くんにピッタリだと思いますよ……」

 長野くんはクスッと笑った。

「ハルカちゃんは本当に面白いね」

 また、変なことを言ってしまったようだ。恥ずかしさのあまりなにも言えず、視線を紙に戻して残りの記載事項を記入した。

「すみません。全部書けました」

「ありがとうございます」

 店員にバインダーを渡すと、丁寧に受け取ってくれた。さらに長野くんが難病カードを渡す。

「あと、これもお願いします」

「かしこまりました」

 店員は難病カードを受け取り、紙になにかを記入するとすぐに返してくれた。改めて難病カードを見ても、長野くんが治らない病気であるという実感が湧かない。明るく元気で、普通の人よりも健康的に見えるくらいだ。
 難病カードの割り引きが効くので、ジュースの飲み放題とアイスの食べ放題も一緒に付けて受付を完全に済ませた。二人合わせても一人分の値段と殆ど変わらず、これなら使いたくもなるし使わないと損だ。

「お部屋は奥にございます」

 ドリンクバーで飲み物とアイスを準備してから部屋へと向かう。私がコーラで長野くんは水だ。アイスはとりあえず二人ともバニラにしておいた。
 部屋に着き、長野くんがドアを開ける。
 二人用に設計されたような部屋で、三人では狭すぎてカラオケどころではない。でも南国をイメージした高級感はしっかりとあり、まるで小さなテーマパークにいるような気分だ。靴を脱いで上がるタイプの部屋で、快適そうなソファーや高そうなテーブルもあるり、テレビの画面も大きい。
 手をちょっと伸ばせばテーブルに物を置けるので、長野くんはミとアイスを置いてから靴を脱いでソファーに座った。
 私も同じようにコーラとアイスを置いてから靴を脱いで、ドアを閉めてソファーへと座った。見た目通りで座り心地は良かったが、落ち着かない原因が一つあった。
 近い。座っている二人の距離が近い。
 長野くんを見ると、テレビの方を向いていた。その横顔は女の子と間違えてしまうそうなほど綺麗で、なんだか心臓がバクバクしてきた。
 そう言えば部屋で男子と二人きりになるのは初めてだ。女子ですら二人きりは知里ちゃんくらいしかいない。一緒に遊んでいた昔の記憶が蘇り、懐かしさと後悔で息苦しくなっていく。あの時、私がもっと大人だったら知里ちゃんのことを失わなかったはずだ。

「なんか部屋が狭くてすまんな」

 長野くんの言葉で今へと引き戻される。

「わ、私は大丈夫ですよ」

「とりあえず店員に聞いてみる」

 ソファーから立ち上がり、長野くんは壁に掛かっている受話器を手に取った。カラオケに来たのが初めてでよくわからないが、おそらくこれがフロントに繋がっているのだろう。長野くんが受話器に喋り始める。

「すみません。ちょっと部屋が狭いんで変えてもらえませんか?」

 長野くんは頷きながら何度か「はい」と言った。

「わかりました。すみませんでした」

 会話をしている相手がいるわけでもないのに、長野くんは頭を下げた。受話器を元に戻してから、ソファーに座る。

「ごめん。他の部屋は予約とか入っちゃって満室だってさ」

「謝ることないですよ。私はここも良いと思いますよ。ソファーも座り心地いいですし」

「そう言ってもらえると気が楽になるよ。とりあえずアイス溶けちまうから食うか」

 仕切り直すように言うと長野くんはアイスを食べたので、私も食べてみた。

「美味しい」

 家族で時々外食に行く時、アイスの食べ放題を頼むことがある。それと同じような味を想像していたが全然違ったのだ。

「だよね。ここのアイス美味い」

 私も長野くんもすぐに食べ終えてしまった。
 喉も乾いてきたのでコーラを一口飲む。アイスがあんなに美味しかったからコーラはどんな味がするのかと期待していたが、コーラはコーラの味しかしなかった。それでもいつもより美味しい気がする。
 長野くんは立ち、テレビの傍にある端末に触れる。
 思わずそっちに目が行ってしまった。端末をそのまま持って座ると、付属しているペンのような棒で画面を突き始めた。

「これで曲を入れるんですか?」

 画面を突くのをやめて、長野くんは目を丸くして私も見る。

「え? もしかしてカラオケ来るの初めて?」

 あまりの驚きように、目を逸らして小声で言った。

「実は……」

「マジか。初カラオケかぁ。うれしいな」

 一体になにがうれしいのかよくわからないが、長野くん方を向くと笑っていた。だが、それはうれしくて笑っていると言うよりなにか企んでニヤニヤしているようだ。
 長野くんはマイクを手に取り、私に差し出す。

「とりあえず初カラオケの記念に一曲どうよ」

 なぜか自然と笑みが込み上げてくる。

「もう、歌えないって言ったじゃないですかぁ。忘れちゃいました?」

 からかってきた長野くんに、言葉を返していたのだ。私自身、とても驚いた。最近、行動を共にすることが多いので慣れてしまったからだろうか。
 私の言葉を聞いた長野くんは、どことなく満足しているようにも見える。

「わりぃ、わりぃ。今思い出したよ。じゃオレから歌うかな。あ、でもその前に……」

 鞄を開けると、長野くんはプラスチックのケースを取り出した。蓋を開けて、入っている小さなラムネのような物を掌に移す。それがなんなのか、考えるまでもなくわかった。
 薬だ。それも一錠ではない。
 すぐに飲んだのではっきりと数は確認できなかったが五錠はあった。長野くんが病気であるという事実が、急に目の前に出てきたのだ。
 長野くんのことが心配になった。
 直ちに命に関わるものではないとはいえ、こうして遊んでいる時でさえ難病と戦っている。もしかしたら、今日は体調が悪い可能性だってあるのだ。いてもたってもいられず聞いてみた。

「もしかして、今日体調悪かったりします? 大丈夫ですか?」

「いつも飲んでる薬だから気にすることないよ。一日忘れたぐらいじゃ死なないし。そんなことより歌うぞ」

 元気そうに言ったが、長野くんは難病カードを貰うくらい重たい病気になっているのだ。目の前にいる人が病に蝕まれていること思うと、心配が膨れ上がっていき段々暗い不安定なものへと変わっていく。
 そんな私の気持ちはお構いなしに、ペンのような棒で何度か突いてから、長野くんは端末をテレビに向ける。画面が切り替わり、曲とアーティスト名が映し出されるとすぐにカラオケが始まった。
 私でも知っている流行りの曲を、元々声が良い長野くんはまるでプロの歌手のカバーのように歌い上げる。歌唱力にも聞き惚れてしまったが、なにより楽しそうに歌っているのが心に響いた。さっきまであった不安な気持ちが吹き飛び、なんだか私まで気持ちが弾んでいる。私もこんな風に歌えたら良いと思った。
 長野くんの歌はあっという間に終わった。曲は五分程度あり、決して短いわけではないが、長野くんの歌に引き込まれてしまったのだ。

「長野くん、歌うまいですね。もっと聞きたいです」

「おぉ。ありがとう。ねぇねぇ、やっぱりハルカちゃんも歌ってみない?」

「いやぁ。歌下手ですし……」

 私に歌うように長野くんはもう一度言ってきたのだ。ちょっとしつこいと思ったが、なぜかハッキリと断れていない自分がいる。すると、長野くんは力強い目で私を見た。

「大丈夫だよ。上手いとか下手とか関係ないから。勇気を一歩踏み出してみようよ。そしたら、絶対に今日がもっと楽しくなるよ?」

 確かに長野くんみたいに歌えたら、もっと楽しめるかもしれない。でも私にそんなことできるのだろうか。そもそもなにを歌えば良いのだろうか。私に歌える曲なんて、学校で習った歌くらいしかない。いや、そうでもない。
 あの曲なら歌える。長野くんもきっとわかるはず。
 忘れかけていた曲名を瞬時に思い出した。もう何年も聴いていないが、どんな曲か大体覚えている。でも、上手に歌える自信はない。それでも長野くんの言葉に勇気をもらったのか、楽しそうに歌っていた長野くんに憧れたのか、それともあの日々の思い出がパワーをくれたのか、いずれにせよ前向きに考えている。ここまで来ると答えは決まったようなものだ。

「南條あゆみの『REALIZED MY LOVE』って曲わかります?」

「わかるよ。小学生ぐらいの時に流行ったよな」

「あれ、歌います」

「さすがハルカちゃん。そう来なくっちゃ」

 長野くんはすぐに端末を手に取り、ペンのような棒で曲を入力してテレビに向ける。画面が切り替わったので、意を決してテーブルに置いてあるマイクを手に取った。

 南條あゆみ/REALIZED MY LOVE
 作詞 南條あゆみ
 作曲 澤進平

 刻まれた傷跡はまだ癒えないけど
 それでもこの手を伸ばした先には

 夢の続きが眠っているよ
 だってまた君に会えたから

 夜明けを信じ祈り続けた
 君の声がたった一つで
 朝陽が照らす明日の歌を
 奏で続けるんだね

 羽がない二人だけれど超えて行こう

 夢は現実に変わっていくよ
 だからずっとそばにいる

 涙が頬を伝わる時も
 君と二人で笑っていたい
 例えどんな夜が来ても
 もう怖くはないから

 夜明けを信じ祈り続けた
 君の声がたった一つで

 いつかこの世界が終わっても
 君となら果てで会えるよね
 朝陽が照らす明日の歌を
 また奏でてくれるなら

 『REALIZED MY LOVE』をどうにか歌い終えた。
 一番高いキーには全然届いていない。メロディも所々間違えた気がする。腹式呼吸だって上手くできなかったから、喉も少し痛い。それでもまるで自分の感情を全て吐き出してしまったかのようだった。たかがカラオケで大袈裟かもしれないが、私の中でなにか殻が破けたような気さえする。
 エネルギーを使ってしまったためか喉が渇いたので、コップに入ったコーラを飲んだ。少し炭酸が抜けているが、歌い疲れた喉に染み渡っていく。コップが空になると、長野くんが喋り始めた。

「ハルカちゃん上手いね」

「そんなことないですよ。でも、すごく楽しかったです」

「それが一番大事だよ。よし、オレも歌うぞ」

 長野くんも曲を入れた。
 それから私たちは適度に休憩を挟みながら歌い続けた。長野くんは色々な曲を歌ったが、私は『REALIZED MY LOVE』しか歌えないので、それだけを歌い続けたのだ。学校で習った曲なら歌えるので他の曲も入れようとしたが、歌いたい曲を歌えば良いと言われたのでそうさせてもらった。同じ曲しか作らないアーティストもいるので同じ曲だけを歌い続けても問題ないとも長野くんは言ったが、本当にそんなことはあるのだろうか。
 休憩中は注文したハニートーストを食べながらお喋りした。なんとなくカラオケの食べ物は美味しくないイメージがあったが、長野くんの言う通りこれならカフェとしても十分にやっていける。楽しい時間が過ぎ去るのは速い。無駄に長いと感じていた、日々の暮らしとは大違いだ。
 十七時を過ぎ、カラオケを終えた。
 長野くんが奢ると言ったが、そんなことをさせるわけにはいかない。難病カードのおかげで割り引きになったので私が全額出すと言った。でも長野くんは納得してくれなかったので、話し合いの末に割り勘になったのだ。
 カラオケの外に出る。
 私が着ているワンピースのような色だった空はすっかり夕焼け色になっているが、街は変わらずに人が多い。これからカラオケに入る人や通行人の邪魔にならないように、道の端にずれた。

「楽しかったぁ。ハルカちゃんは初カラオケどうだったよ?」

「お陰様で楽しかったですよ。ありがとうございます」

「だろ? 勇気を出して歌ったからだよ。歌えば絶対にもっと楽しめると思ったんだ」

 長野くんはドヤ顔で私を見る。別に嫌だとか不快だということではないが、ちょっと私の中で引っかかることがあった。

「感謝はしてますが、歌いたくないって言ったのになんで二回も勧めたんですか?」

 私の言葉を聞いて長野くんは、フフフと笑い始めた。その顔はまるで無邪気なイタズラをした後のようだ。

「ハルカちゃん、本当は歌いたいんじゃないかなって思ったんだよね」

「へ?」

「オレが歌ってるの聴いて、めっちゃ楽しそうにリズム取ってたからさ。あれは押せば歌う流れだったな」

 なんと、私は無意識のうちにリズムを取っていたようだ。言われてみれば取ってしまったような気もする。そんな姿を見られたことが急に恥ずかしくなり、照れ隠しに言ってしまった。

「お、押せば歌うって……その考え方、チャラすぎませんか?」

「いや、チャラくないよ。オレ、超硬派だし。女の子と二人で遊ぶのだって初めてだぞ」

 思わぬ私の反撃に長野くんは焦っているようだ。こんな顔は初めてで、おかしくてクスッと笑ってしまった。それにしても、長野くんの言っていることが信じられない。確かに彼女がいるという噂は聞いたことはないが、これだけの美形が女の子と二人きりで遊ぶことが初めてなんてないだろう。

「えー嘘だぁ。それにどちらかって言うと軟派じゃない?」

「いやいやいや、嘘じゃないよ。マジだよ。それにナンパなんてオレにできるわけないじゃん!」

「はいはい」

 ますます焦る長野くんを軽く流す。「なんぱ」の意味が若干食い違っているが、難病カードを拾う前で面識のない時の私にあいさつが出来るくらいだから、十分ナンパの方も出来そうだ。そんなことを考えていると、あることに気がついた。
 私、さっき長野くんにタメ口で話した。
 今まで話していた敬語が自然と終わったのだ。よく考えると長野くんに対してなぜ敬語だったのだろうか。いくらクラスのレベルが違うとはいえ、同じ学校の同じ学年だ。
 そう、長野くんは友達。
 知里ちゃんと喧嘩して以来、初めて友達ができた瞬間だった。私がそんなことを考えている間に、久々に出来た友達は落ち着きを取り戻したようだ。それでも夕焼けのせいか、なんだか顔が薄ら赤い気がする。

「オレ、これから寄るところあるんだよね」

「寄るところ?」

 私のタメ口を長野くんは特別に指摘することはなかった。どうやらこれで良いみたいだ。

「うん。ちょっと買い物にね。だから駅まで送っていくからそこで解散しよう」

「わかった。ありがとうね」

 一人で戻れる自信がないので、お言葉に甘えて駅まで送ってもらうことにした。だけどちょっとだけ、買い物も一緒に行きたかった気もする。
 二人は駅に戻る道を歩き始めた。
 帰り道も色々なお店が目に入る。どの店も長野くんと行けばきっと楽しいはずだ。美味しそうなご飯屋さんだけではない。私では着られないような服ばかり売っているお店も、なんのお店かわからない場所もいつか一緒に行ってみたいと思った。それでも、面と向かって本人に言うのは恥ずかしい。
 長野くんの話に笑いながら、帰り道を歩く。数日前に同じクラスの男子達と激辛カレーの早食い対決をして負けたみたいで、その様子を面白おかしく話してくれた。私も彼らと同じ長野くんの友達の一員と思って良いのだろう。でも、激辛カレーを食べるのは勘弁して欲しい。
 改札の前に着いた。
 やはり一度来ただけでは覚えきれず、私一人で帰っていたら迷子になっていたと思う。長野くんのおかげで無事に家へと帰れそうだ。

「ここまで送れば大丈夫だよな?」

「大丈夫だよ。今日は誘ってくれてありがとう」

「おぅ。また誘うからよろしくな。バイバイ」

「またね」

 長野くんが手を振ったので、私も手を振ってからホームを目指して歩く。改札からホームまでは案内の看板を見ながら一人で行くことができた。
 ホームに着くとすぐに電車が来たので乗る。
 電車は急行でそこそこ混んでおり、座れそうにもない。席の前まで歩き、吊り革を掴んだところで発車した。目の前には私と同じ年齢くらいの女の子二人が、仲が良さそうにお喋りしている。言うまでもなくこの二人は友達同士だろう。こんな私にも彼女達と同じように、友達が出来たのだ。
 そういえばタクマくんのことを、あの夜は長野くんに聞けなかった。もう友達だから気軽に聞いても大丈夫だと思い、スマホのメッセージアプリを開く。だがなぜだろうか、長野くんのアイコンを見た途端、急に聞く気がなくなりスマホをしまった。まだ友達になって日が浅いから躊躇ってしまったのだろうか。
 電車に揺られながら、さらに考え事をしてしまった。
 今日まで長野くんのことを知り合い程度にしか思えなかった。でも、お母さんに「彼氏に会うの?」と聞かれて、彼氏どころか友達ですらないと強く思った時、なぜか心がすごく痛んだ。こんな風に誰かを友達じゃないと思って心が痛んだことが、前にもあった気がする。いや、前にもあった。
 知里ちゃんの笑顔が、フラッシュバックする。
 そうだ。知里ちゃんと喧嘩した時だ。あの時の感覚にそっくりだった。思い返すと些細なくだらないことで、二人の友情を壊してしまった。幼かった私は全部知里ちゃんのせいにしていたけれど、今考えると私だって悪い。本当ならあの程度のことで、知里ちゃんと絶縁なんてしたくなかった。
 今、目の前の席に座っている二人も、喧嘩をすることがあるのだろうか。どんな人達か全く知らないけれど、きっと私とは違ってしっかり謝って仲直りできると思う。
 電車は各停しか止まらない駅を通過した。私と知里ちゃんの関係はまるで通過駅のようだ。なにせ喧嘩別れしたのは小学生の時で、もうとっくの昔に話が終わっている。知里ちゃんにとっては私のことなんて過ぎ去った過去の一つでしかなく、もう忘れているかもしれない。ネガティブなことを考えていると、それと真逆の言葉が頭に浮かんできた。

『勇気を一歩踏み出してみようよ』

 一歩踏み出すと言っても今更どうしろというのだろうか。知里ちゃんの連絡先だって知らないのだ。今の私になにができるのだろうか。
 なにもわからず混乱している私でも、はっきりとわかることがたった一つだけある。今日、私が歌えたのは長野くんのおかげだけではなく、知里ちゃんのおかげでもあった。南條あゆみの『REALIZED MY LOVE』は知里ちゃんが大好きな曲で、何度も聞かせてくれて私も好きになったのだ。曲名を忘れかけていたけれど、大切な思い出と一緒にずっと心の中で眠っていてくれた。大事な時に目覚めて、私のことを支えてくれたのだ。
 知里ちゃん、会いたいよ。
 私なんかに会う資格があるのか、会うとしてもどうやって会ったらいいかわからない。家に帰るまでずっと悩み続け、家に帰ったからも悩み続けた。悩んでも悩んでも、なにが正解かわからない。なにをやっても間違いな気さえする。それでもなにもしないで間違えるのはどうなのだろうか。この悶々とした思いを断ち切るために、自分の過ちに決着をつけるために、一つ決断をした。
 早速、明日実行しよう。