――二〇一七年、九月三日、日曜日。
この丘は変わらない。
少し薄くなってしまったタクマくんとの記憶を、昔からある景色が色付けてくれた。
青い空の下には小さな草花が一面に広がり、痩せた桜の木が丘の頂上に立っている。春になると白い花が一応咲くが、満開の季節でもまばらで不恰好だ。近くに有名な桜の名所があるため、私しかいないこの丘はいつもひっそりとしていた。小学校卒業以来初めて来たけれど、あの頃のままだ。
だけど時間は経ちすぎており、私はあの頃のままではいられなかった。もう七年も前のことであり、タクマくんの顔だって思い出せない。
「本当にこの丘は変わらないね」
丘の麓で漏れた独り言は、まるで昔の友達に話しかけるようだった。小学四年生から六年生まで勉強だけしていたので、この場所は私にとって数少ない友達と呼べるのかもしれない。
「ここで時々息抜きが出来たから、第一志望の学校に受かったよ。ありがとう」
もし誰かが今の私を見たら、一人で喋っている危ない人だと思うだろう。だけど、もはやどうでもよくなっていた。昔の友達へのお礼を言うと同時に、虚しさと罪悪感が込み上げてきたからだ。耐えきれず言葉にする。
「今は全然ダメ。もう高二なのに夢も希望もない。なにしたら良いかわからないの。こんな私でごめんなさい」
無気力な毎日を過ごしていた私は、気分転換をしにここまで来た。それなのに中学受験を頑張っていた頃の自分と比べてしまい、さらに気持ちが沈んでいく。
もう帰った方が良いのかもしれないけれど、電車で二時間もかけてここまで来たのだ。このまま帰ってしまうとさすがに電車賃がもったいない。もう少しだけここにいよう。
一歩一歩、丘を登って行く。
歩いてみると思ったよりもなだらかに感じた。小学生の時からそれほど背が伸びたわけでもないのに、時間は私の身体を成長させていたのだ。でも成長したのは身体だけで、心は小学生の時よりも確実に弱くなっている。
ただ衰退するだけなら、私はなんのために生きているのだろうか。きっと今の自分なら、タクマくんみたいに泣いてる子がいても声なんてかけられないだろう。そんなことを考えながら歩いていると木の根元が見えてきた。
なにこれ。なにか落ちている。
定期券やクレジットカードのような物が、桜の木の下に落ちていることに気がついたのだ。自然しかないこの場所にあるはずがない、明らかな人工物が気になり、早足で近づくとすぐに拾った。そこに書いてある信じられない文字に驚き、抑えきれずに小さな声が漏れる。
「難病カード……長野桐人。うちの学校の長野くん……だよね?」
カードに書かれた住所は私が通う学校に近いし、桐人なんて名前もそう多くはない。これは間違いなく同じ学校に通う長野くんのものだろう。
学校で目があった時、一度だけ馴れ馴れしくあいさつされたことがあるけれど、私と長野くんは完全な他人だ。そもそも住んでいる世界が違うのだ。基本的にうちの学校の生徒は別世界の住民だが、その中でもさらに特別だ。
各学年一つしかない特別選抜クラスに、長野くんは高校から入ってきた。勉強も運動もなんでも出来て、さらに顔が綺麗で身体も細い。うちの学校の女子だけではなく、他の学校の生徒からも人気があるという噂だ。
あいさつされた時、どうしたら良いかわからずオロオロしてしまった。あの時はあいさつをされた理由がよくわからなかったけれど、性格も明るく人当たりが良いと評判なので、きっと知らない人にでも目が合えばあいさつをしてしまうのだろう。
そんな長野くんの名前が難病カードに書かれていて、しかも丘にある桜の木の下に落ちている。
長野くんが悪い病気なんて聞いたことがない。学校一の有名人なので、もし病気を公言しているなら友達がいない私の耳にも入ってくるはずだ。そもそも、なぜ難病カードがこんなところに落ちているのだろうか。あまりの出来事に理解が追いつかなかったけれど、一つだけわかることがあった。
きっと長野くんは困っている。
このカードについて詳しいことは知らないけれど、お店などで見せると色々割り引きになることは知っていた。カードの制度を作った政治家の孫が、かなり前に言っていたのだ。だが割り引きよりなにより、難病カードには個人情報が書いてあるため悪用される危険がある。
明日、学校へ持っていって長野くんに返そう。
長野くんの名前が書かれた難病カードをしまうために鞄を開ける。すると、スマホが目に入った。ネットで検索すれば難病カードの情報はすぐに出て来るだろう。それでも、スマホには触れないまま、定期入れに難病カードを入れて鞄を閉じた。
難病カードについて全く気にならないと言えば嘘になってしまう。そうは言っても調べるということが、なんとなく長野くんのプライバシーを勝手に覗き見るみたいで嫌だったのだ。
桜の木を背にして、丘を降り始めた。
病気の噂がないということは公言していない、つまり長野くんの病気だと知っているのは、学校で日下部ハルカただ一人だ。なんだかカードが一枚増えた分より、帰り道の鞄が重たくなったように感じる。
この丘は変わらない。
少し薄くなってしまったタクマくんとの記憶を、昔からある景色が色付けてくれた。
青い空の下には小さな草花が一面に広がり、痩せた桜の木が丘の頂上に立っている。春になると白い花が一応咲くが、満開の季節でもまばらで不恰好だ。近くに有名な桜の名所があるため、私しかいないこの丘はいつもひっそりとしていた。小学校卒業以来初めて来たけれど、あの頃のままだ。
だけど時間は経ちすぎており、私はあの頃のままではいられなかった。もう七年も前のことであり、タクマくんの顔だって思い出せない。
「本当にこの丘は変わらないね」
丘の麓で漏れた独り言は、まるで昔の友達に話しかけるようだった。小学四年生から六年生まで勉強だけしていたので、この場所は私にとって数少ない友達と呼べるのかもしれない。
「ここで時々息抜きが出来たから、第一志望の学校に受かったよ。ありがとう」
もし誰かが今の私を見たら、一人で喋っている危ない人だと思うだろう。だけど、もはやどうでもよくなっていた。昔の友達へのお礼を言うと同時に、虚しさと罪悪感が込み上げてきたからだ。耐えきれず言葉にする。
「今は全然ダメ。もう高二なのに夢も希望もない。なにしたら良いかわからないの。こんな私でごめんなさい」
無気力な毎日を過ごしていた私は、気分転換をしにここまで来た。それなのに中学受験を頑張っていた頃の自分と比べてしまい、さらに気持ちが沈んでいく。
もう帰った方が良いのかもしれないけれど、電車で二時間もかけてここまで来たのだ。このまま帰ってしまうとさすがに電車賃がもったいない。もう少しだけここにいよう。
一歩一歩、丘を登って行く。
歩いてみると思ったよりもなだらかに感じた。小学生の時からそれほど背が伸びたわけでもないのに、時間は私の身体を成長させていたのだ。でも成長したのは身体だけで、心は小学生の時よりも確実に弱くなっている。
ただ衰退するだけなら、私はなんのために生きているのだろうか。きっと今の自分なら、タクマくんみたいに泣いてる子がいても声なんてかけられないだろう。そんなことを考えながら歩いていると木の根元が見えてきた。
なにこれ。なにか落ちている。
定期券やクレジットカードのような物が、桜の木の下に落ちていることに気がついたのだ。自然しかないこの場所にあるはずがない、明らかな人工物が気になり、早足で近づくとすぐに拾った。そこに書いてある信じられない文字に驚き、抑えきれずに小さな声が漏れる。
「難病カード……長野桐人。うちの学校の長野くん……だよね?」
カードに書かれた住所は私が通う学校に近いし、桐人なんて名前もそう多くはない。これは間違いなく同じ学校に通う長野くんのものだろう。
学校で目があった時、一度だけ馴れ馴れしくあいさつされたことがあるけれど、私と長野くんは完全な他人だ。そもそも住んでいる世界が違うのだ。基本的にうちの学校の生徒は別世界の住民だが、その中でもさらに特別だ。
各学年一つしかない特別選抜クラスに、長野くんは高校から入ってきた。勉強も運動もなんでも出来て、さらに顔が綺麗で身体も細い。うちの学校の女子だけではなく、他の学校の生徒からも人気があるという噂だ。
あいさつされた時、どうしたら良いかわからずオロオロしてしまった。あの時はあいさつをされた理由がよくわからなかったけれど、性格も明るく人当たりが良いと評判なので、きっと知らない人にでも目が合えばあいさつをしてしまうのだろう。
そんな長野くんの名前が難病カードに書かれていて、しかも丘にある桜の木の下に落ちている。
長野くんが悪い病気なんて聞いたことがない。学校一の有名人なので、もし病気を公言しているなら友達がいない私の耳にも入ってくるはずだ。そもそも、なぜ難病カードがこんなところに落ちているのだろうか。あまりの出来事に理解が追いつかなかったけれど、一つだけわかることがあった。
きっと長野くんは困っている。
このカードについて詳しいことは知らないけれど、お店などで見せると色々割り引きになることは知っていた。カードの制度を作った政治家の孫が、かなり前に言っていたのだ。だが割り引きよりなにより、難病カードには個人情報が書いてあるため悪用される危険がある。
明日、学校へ持っていって長野くんに返そう。
長野くんの名前が書かれた難病カードをしまうために鞄を開ける。すると、スマホが目に入った。ネットで検索すれば難病カードの情報はすぐに出て来るだろう。それでも、スマホには触れないまま、定期入れに難病カードを入れて鞄を閉じた。
難病カードについて全く気にならないと言えば嘘になってしまう。そうは言っても調べるということが、なんとなく長野くんのプライバシーを勝手に覗き見るみたいで嫌だったのだ。
桜の木を背にして、丘を降り始めた。
病気の噂がないということは公言していない、つまり長野くんの病気だと知っているのは、学校で日下部ハルカただ一人だ。なんだかカードが一枚増えた分より、帰り道の鞄が重たくなったように感じる。