――二〇一七年、九月二十三日、土曜日。
長野くんと合流した。
最近は大きな駅を使うことが多かったが、ここは改札が一つしかない。おかげで探すまでもなく見つけられた。
「ハルカちゃん、おはよう」
長野くんはいつもよりラフで動きやすそうな服を着て、ショルダーバッグを肩から下げていた。今日も元気にあいさつしてくれて、知里ちゃんや正文くんが言うように女の子が苦手なようには思えない。もしかしたら私は女の子だと認識されていないのだろうか。楽しく遊べるならそれでもいいと思ったが、どこか寂しい気もする。でも、長野くんに会える喜びの方が圧倒的に強い。
「おはよう。今日も遊んでくれてありがとう」
「お礼を言うのはオレの方だよ」
「え?」
長野くんは残り少ない時間を私と会うために使っている。どう考えてもお礼を言うのは私の方だ。
キョトンとする私とは違い、長野くんはうれしそうだ。
「あれからメッセージも返してくれるし、今日だってこうやって会ってくれる。めちゃくちゃありがたいよ。あんな大事なこと後になって言ったから、もう完全に嫌われたかと思った」
「この前も言ったよ。嫌いだなんて思ったことないって」
長野くんはホッと肩を撫で下ろす。
「本当にありがとうな。今日も空色のワンピース似合ってるぞ」
「う、うん……」
急に服を褒められて、照れくさくなってしまった。長野くんにそんな姿を見られたくなく咄嗟に下を向く。なんだか初めて褒められた時よりもうれしいように感じた。
「よし、行くか。オレに縁のある場所ツアー」
そんなこんなで、駅から歩き始めた。
今日は曇りで天気はあまり良くないが、この街で長野くんに縁のある場所を案内してもらう。そこで私が今後やることの手がかりを探すのだ。もちろん、長野くんにバレてはいけない。
治安が悪いと言われた割には、普通の街並みだった。それでも少しだけ気になることがある。煙草の吸い殻がやたらと落ちているのだ。時々お酒の空き缶も道に捨ててあるが、危なそうな人は歩いていない。
「そう言えばさ。ハルカちゃん、正文に会ったんだって?」
「うん。会った」
「あいつから聞いたよ。ハルカちゃんめっちゃ良い子だったって。ハルカちゃんはあいつどうだった?」
正文くんに会ったことを、長野くんに話していなかった。タクマくんの話をしなかったように、なんとなく気が進まなかったのだ。
「良い人だったよ。筋肉すごかったし」
「筋肉か。確かにあれが一番あいつの良いところだな。中学の時から筋肉モリモリだったからね」
正文くんの良いところはもっと他にもたくさんあったはずなのに、全然うまく説明できなかった。それでも長野くんはなにかツボに入ったようで、大きな声で笑っている。その時、気がついてしまった。
私、長野くんの前で男子の話をしたくないんだ。
正文くんの前で長野くんの話をするのは、嫌じゃなかった。でも、長野くんの前で正文くんの話もタクマくんの話もしたくない。なんでそんな風に思っているのか自分でもよくわからないが、それでもそう思っているので話題をずらしてしまった。
「知里ちゃんともすごく仲良さそうだったよ」
「だろうな。あいつオレに彼女の自慢ばっかりするんだよ」
思いもよらない時にチャンスが訪れた。私が聞きたい話が聞ける。
「そうなんだね。長野くんは彼女作る気はあるの?」
フッと笑ってから長野くんは言った。
「別に作る気がないわけではないぞ」
長野くんに彼女を作る気がなかったらどうしようかと思っていたが、良いことを聞き出せた。目的達成のために一歩近づいたのだ。
長野くんと好きな人を会わせる。
それが長野くんのために今の私がやりたいことだ。残りの僅かな時間を好きな人と幸せに過ごして欲しいので、今日ここに来たのも長野くんの好きな人の手がかりを探すためだった。長野くんとの会話の中でなにかヒントがあるかもしれないし、もしかしたら長野くんの好きな人に偶然会ってしまうことだってありえる。
地元に戻ってきてから長野くんは女の子と話すようになったと正文くんは言っていた。この街に行ってから変わったということは、長野くんの好きな人はこの街で出会った人の可能性が高い。
それにしてもどんな人なのだろうか。きっと、ドリーム・シネマにいたあの美人さんの様な人だろう。長野くんには私みたいな地味な女の子ではなく、芸能人みたいな美人が似合うのだ。
しばらく歩くと、長野くんは足を止めた。
「オレ、ここの道場通ってたよ」
目の前には空手の道場があった。まだ十時にもなっていないので、扉は閉まっている。
「そう言えば夜会った時、空手習ってたって言ってたね」
「そうそう。ここで鍛えたんだよ。おかげで運動苦手だったんだけど出来るようになったね」
なんと、長野くんは勉強だけではなく運動も苦手だったようだ。なんでも出来る今の長野くんからすると想像もつかない。
もしかしたら、鍛えた理由に好きな人が絡んでいるのではないだろうか。例えば道場にいた好きな子にいいところを見せようとしたとか、色々考えられる。
「なんでここで鍛えようと思ったの?」
長野くんはニコッと笑ってから言った。
「そりゃ、いつまでも弱いままじゃいけないと思ったからだよ。弱いままだとハルカちゃんのこと守れないからな」
長野くんの言葉にドキッとした。
「あ、ありがとう……」
大きな手がかりは得られなかったが、なんだか妙に満足している自分がいる。すると長野くんは妙に明るく言った。
「多分空手始めた頃の方が体力あったなぁ。今は体育休むことが増えちまったよ」
長野くんの身体は今も病魔に蝕まれている。さっきまでの満たされていた気持ちは一転し、その事実が再び目の当たりになった。
「あんまり、無理しないでね。今日もキツかったら終わりにして良いから」
「激しい運動とかしなければ大丈夫だよ。ただちょっとお腹の調子が悪いかな」
「え……それならもう帰ろうよ。病気が悪化しちゃうかもだし」
もうすでに無理をしていたのだ。心配する私を見て、長野くんはなぜかちょっと気まずそうな顔をしている。
「いや、実はさ。昨日、クラスの奴らと第二回激辛カレーどこまで食えるか大会やったんだよ。だから病気とは関係なくて……」
「ま、またそんなことやったの?」
カラオケの帰りにカレーの話はしていたが、まさか二回目もやるとは思わなかった。唖然とする私がおかしかったのか、長野くんは笑っている。
「今回は食い切って優勝したんだけどさ。そのせいで朝からちょっと腹が痛くてね」
「もう。あんまり変なことしちゃダメだよ」
「ごめん、ごめん。そろそろ次に行こうぜ」
長野くんはあんまり反省していない様子だ。呆れながらもそれが長野くんらしいと思ってしまった。学校の友達との時間を楽しめてるから良しということにしよう。でも何度聞いても、激辛カレーは絶対に食べたくないので、いつも遊ぶのが長野くんと二人だけで本当に良かった。
二人は空手道場を後にした。
「次はどこに行くの?」
「オレが通ってた小学校でも行こうかなと思って」
「いいね。見てみたい」
小学校までの道のりを歩く。やはりここも道に煙草の吸い殻などのゴミが落ちていた。住宅街に入ったが古い建物が多く、駅前よりも寂れている感じがする。ボロボロの遊具があるちょっと広めの公園の前を通った時だ。
「ハルカちゃん……」
長野くんが突然立ち止まった。一体、どうしたのだろうか。
「大丈夫?」
「無理。なんか公園のトイレが見えたら腹痛くなってきた」
思わずため息が出てしまった。
「早く行った方が良いよ」
「すまない」
そう言うと長野くんは早足で公園に入り、公衆トイレへと向かっていった。私も公園に入って近くにあるベンチに座る。
公園には私だけで、遊んでいる子供さえいない。煙草の吸い殻とお酒の空き缶が道よりも落ちていて、よく見ると公衆トイレの壁や自動販売機には落書きがある。
長野くんを待っていると、誰かが公園に来た。
入って来たのはおじさんだ。髪はハゲ散らかしており清潔感がなく、動きもどことなく挙動不審でちょっと怖い。自動販売機でジュースでも買うのかと思ったが通り過ぎ、どんどん私の方に近づいてくる。私の前で止まると、薄ら笑いを浮かべながら言った。
「お嬢ちゃんいくらよ?」
「え?」
この人はなにを言っているのだろうか。でもこの表情から嫌なことを言っていることはわかる。恐怖でこの場から逃げ出したかったけど、長野くんはまだ戻って来ていない。
「いくら払えばおじさんと遊んでくれる? これでいいかな?」
おじさんはズボンのポケットからグシャグシャになった五千円札を取り出した。身体がゾワッとする。生理的な気持ち悪さが全身を駆け巡った。
「お嬢ちゃん。良いでしょ? これでおじさんと遊ぼうよ」
恐怖でガタガタと身体が震える。まさか自分がこんな目にあうとは思わなかった。
「すみませんね。この子は今、オレと遊んでるで」
頼もしい声がした方向を見ると、長野くんがトイレからこっちに早歩きで向かっていた。すぐに私の前に来ておじさんに妙に軽い口調で言う。
「ここは穏便に済ましませんか? 諦めてくれるなら警察は呼ばないので」
おじさんは長野くんを思い切り睨んでいる。
「なんだこのクソガキ。おまえみたいになんの苦労もしてなさそうな顔した奴が、偉そうなこと言うんじゃねぇよ。俺みたいな底辺にはこのくらいしか楽しみがねぇんだよ。わかってんのかぁ?」
おじさんは長野くんの胸ぐらを思い切り掴んだ。目の前で起きた暴力に、恐怖で身体が固まってしまう。それでも長野くんは笑顔で言った。
「この手、離してくれませんか? 穏便に済ませましょうよ」
さらにイライラしたように、おじさんは身体を震わせて長野くんに怒鳴った。
「うるせぇ! さっきから偉そうに人を見下しやがって。てめぇみたいなガキに上から目線で言われる筋合いねぇんだよ。ぶっ殺すぞ!」
長野くんに危害が加えられるのだけは絶対に嫌だ。その思いは瞬時に叫び声へと変わった。
「もうやめて! 離してよ!」
するとおじさんは長野くんの胸ぐらを掴んだまま、私を睨みつけたのだ。
「なんだ、なんだ? 大体、なんでこんないい男といるんだよ? てめぇみたいなクソブス女は安い金で男に買われる方がお似合いだ!」
酷い。怖い。こんなこと言われたのは初めてだ。確かに私は長野くんと一緒にいてはいけないような、クソブス女かもしれない。でもいくらなんでも酷すぎる。こんなことを平気で言うこの人が怖い。
「目、閉じて」
一瞬、誰の声かわからなかった。でも間違いなく長野くんの声だった。普段の声とは全く違い、異様に低かったのだ。
「あ? 誰に言ってんだ?」
長野くんは身体を震わせながら言った。
「……おまえじゃないよ」
私に言っているとわかったので、目を閉じた時だ。それはまるで火山が噴火したかのように聞こえた。
「おいコラ! オレのことはどんなに悪く言っても良い。だがな、この子には酷いこと言うんじゃねぇよ。この、薄汚い社会不適合者が!」
長野くんの怒号と共に、なにかが地面に叩きつけられる音がした。
慌てて目を開く。
そこには尻を地面につけたおじさんと、肩を上下にして荒い呼吸をした鬼のような形相の長野くんがいた。
「ごめんなさい。俺が悪かったです。ごめんなさい……ごめんなさい……」
おじさんは完全に腰を抜かしてしまっている。その顔は恐怖に引き攣っており、今にも泣き出しそうだ。地面に落ちているゴミを見るかのような目で、長野くんはおじさんを見ている。
長野くんが一歩、おじさんに近づく。
その足取りはフラついており、明らかに疲れていた。これ以上なにかするのは体力的にも危険だし、長野くんに暴力を振るわせたくない。
「これ以上はダメ!」
気が付いたらベンチから立って、今まで生きて来た中で一番大きな声を出していた。長野くんは私の方に振り向く。その顔はいつもの長野くんになっていたが、明らかに疲れていた。
長野くんの気が私に逸れて隙に、おじさんは悲鳴をあげながら逃げていった。初めからそこにはなにもなかったかのように、長野くんは気にも留めていない様子だ。
「大丈夫? とりあえず座って休もうよ」
なにも言わずに頷いたので、長野くんの身体を支えながらベンチまで誘導した。ベンチに座っても長野くんは肩で息をしている。よく見ると結構な汗をかいていたので、自動販売機でペットボトルの水を買ってきた。
蓋を開けて水を長野くんに差し出す。
「これ、飲めそう?」
「……ありがとう」
消えてしまいそうなほど小さな声で言うと、私から受け取りベンチに置いた。ショルダーバッグから薬を取り出すと、長野くんはペットボトルの水で流し込んだ。
薬の量はカラオケの時よりも増えている。日に日に体調が悪化しているのだ。このままでは長野くんが大変なことになってしまうかもしれない。
「救急車呼ぶから待ってて」
「呼ばなくていいよ」
「で、でも……」
「大丈夫。まだ、死なないから」
死ぬという言葉に胃酸が逆流しそうになった。色々な思いがグチャグチャに混ざり合う。空白の中に心だけが置き去りにされたように、私はなにも考えられなくなったのだ。
ベンチに座る長野くんを呆然と見ていると、ショルダーバッグからスマホを取り出していじり始めた。それから何分か経つと、公園の前にタクシーが停まる。
「タクシー、呼んだ」
「う、うん」
長野くんはベンチから立って歩き始めた。声からも体力がある程度は戻ってきたことはわかるが、それでも足元が頼りなかったので、長野くんの横について一緒にタクシーまで歩いた。タクシー運転手が私たちに気がついてドアを開ける。
「ハルカちゃんも乗って、今日はこれで帰ろう」
「わかった」
言われるがままタクシーに乗る。長野くんが自分の家の住所を言ったので、私は最寄駅を言った。タクシーで帰宅してしまうと親に余計な心配をかけてしまうという判断ができるくらいには、頭の中が正常に戻っていたのだ。
それでも長野くんになんて声をかけていいかわからず、重たい空気と沈黙も乗せたまま最寄駅に着いてしまった。料金のメーターは五〇〇〇円を超えている。半額くらいなら払えるので、長野くんから貰った財布を出した時だ。
「難病カードで割り引かれるから、タクシー代はオレが払うよ」
財布に対して特にリアクションすることもなく、力がない萎れたような声で長野くんは言った。
「で、でも私も乗ったから……」
「それなら一〇〇〇円でいいよ」
なにも言わずに一〇〇〇円札を渡すと、長野くんもなにも言わずに受け受け取った。
タクシーのドアが開き、長野くんの方を背にしながら、最寄駅の前に降りる。駅にはそれなりに人もいて車や電車の音もうるさかったが、確かに後ろから聞こえた。
「ごめん。暴力はどんな時でも絶対にダメだよな」
振り返ったと同時に、タクシーのドアは閉まり発車した。今の私には、タクシーが見えなくなるまで、見送ることしか出来ない。
後悔が押し寄せてきて、津波のように心を飲み込んでいく。私、なんてことしたんだろう。長野くんの幸せのために動いたのに、これでは苦しめただけだ。
私がもっとしっかりしていれば、もっと上手く立ち回ることも出来たはずだ。長野くんと出会った頃は上手く考えられなかったことが結構あった。あれから少しは変われたと思ったけれど、肝心な時にはなにも出来なかった。
いても立ってもいられず、メッセージアプリを開く。
【今日は本当にごめんなさい。治安が悪いって長野くんが言っていたのに私が行きたいなんて言うからこんなことになっちゃった。長野くんはなにも悪くないよ。おじさんに声をかけられた時に私が警察呼べばよかったし、長野くんが具合悪くなった時はせめて7119すればよかった。長野くんがタクシー呼んでくれたみたいに、私もなにかしないといけなかった。全部私が悪かったよ】
メッセージは、三週間経っても既読にならなかった。
――二〇一七年、十月十三日、金曜日。
中間テストが終わり、帰り道を一人で歩く。
あれから長野くんからの連絡はなく、テスト勉強どころではなかった。それでも知里ちゃんから誕生日に貰ったシャーペンを無駄にしたくなかったので、どうにかこうにか勉強してみたのだ。おかげでいつもと同じように、留年は免れたと思う。
長野くんからの連絡がなくなっても元の生活に戻っただけだ。いや、知里ちゃんと仲直り出来ているから、長野くんと出会う前に比べたらむしろプラスになっている。そのはずなのに毎日が辛くて苦しく、知里ちゃんに愚痴を聞いてもらうことさえも億劫になっていた。
一方、学校で見かける長野くんは相変わらず楽しそうだった。たくさんの友達に囲まれてキラキラとしていて、私一人くらいいなくなってもきっと大して変わらないのだろう。
駅までの途中、カップルが目に入る。
おそらく後輩だと思うけれど、幸せそうに手を繋ぎながら歩いていた。もし、長野くんと好きな人を再会させたらこんな風になっていたかもしれない。そんなことを考えると、いつも私を埋め尽くしているものが、グチャグチャに混ざり合って心をかき乱していく。
長野くんの声。
長野くんの顔。
長野くんの言葉。
長野くんとの思い出。
長野くんの未来。
長野くんへの感謝。
長野くんへの後悔。
長野くんへの正体不明の感情。
辛くて苦しいのに、どこかでそれを強く求めている自分もいる。このままだと壊れてしまいそうだ。
カップルを見るのをやめて、その横を早足で通り過ぎた。距離が離れた頃、またダラダラと力なく歩き始める。私にはこうやって一人で歩いている方がお似合いなのだ。
改札を抜けた時、スマホが震えた。
まさかと思い慌てて鞄を開けてスマホを確認すると、新着メッセージが一件入っていた。僅かな可能性に賭けてみて、画面をタップしてみる。
ドリーム・シネマからのお知らせだった。
長野くんからメッセージが私に来るわけがない。それでも期待してしまった自分が嫌になる。失意のままメッセージを読んだが、そこにはあることが書いてあった。
気になっていたミステリー映画、今日公開だ。
席にも余裕があり、今から行ってお昼ご飯を食べても間に合う。そういえば、長野くんと仲良くなれたのも気分転換にあの丘まで行ったからだ。気分転換になにかをすれば、もしかしたらまたなにか変わるかもしれない。テストも終わったから観に行くのも悪くないだろう。映画を観て少し元気になれたら、知里ちゃんに泣きつこう。
帰りとは違う方向の電車に乗り、メッセージアプリを開く。
【お母さんごめん。今日お昼ご飯いらない】
メッセージを送るとすぐに返事が来た。
【友達とご飯でも行くのかな。わかった】
これで大丈夫だ。電車を乗り継いでドリーム・シネマの最寄駅に着いたので、駅ビルにあるお店でお昼ご飯を食べることにした。最初は上の階にあるお店で食べようと思ったけれど高校生が払うにはちょっと値段が高い。お昼ご飯を諦めようと思ったが、地下にメックバーガーがあったので、そこで済ませることにした。ファストフード店なら財布に優しい。
ご飯を食べ終え、ドリーム・シネマの前に着いた。
初めて来た時は見つけられず長野くんに教えてもらったけど、隣にはもう誰もいない。空はなんだか曇り始めて来ているが、このまま考えても私の心まで曇ってしまいそうだ。
階段を降り扉を開け、ロビーの中へと入る。すぐに受付の前に行き、映画の名前と枚数を言って席を決めると、店員さんが言った。
「学生割引で一〇〇〇円です」
制服のまま行ったためか、生徒手帳の提示は求められなかった。大人の料金に比べると確かに安いが、難病カードの割り引きよりは高い。これが本当の値段なのだ。長野くんがいるから優遇されていたことを改めて思い知らされる。空色の財布を鞄から出し、そこから出した一〇〇〇円札と映画のチケットを交換した。
ロビーにはそこそこお客さんがいたが、運よく快適そうなソファーが空いていたので、座りながら開場を待つ。一人で待つ時間は異常なほど長く感じた。それでもちゃんとアナウンスされたので一つしかないスクリーンに行き、席に座る。
上映前の時間もまた長かったが、館内は暗くなり予告が始まった。今回は残念ながら特に心惹かれるものがない。もしかしたら長野くんがいないと、自分は面白そうな映画すら見つけられないのかもしれない。
本編が始まる。
猟奇的なシーンもあったが、見応えのある映画だ。主人公の男性は大きな挫折をして自堕落な生活をしていたが、高校時代の親友が殺害されてから運命が大きく変わってしまった。何者かによって次々に同級生が殺害される事件を、主人公は孤立無縁で追っていくのだ。最後には犯人を特定し、事件を通して自分のために新しい夢も見つけて終わった。最初に殺された親友が生きていて実は犯人だったというオチには驚いたが、若干トリックに無理がある気もしている。
場内が明るくなり、席を立った。
ロビーに着いたが今日は話し相手がいないので、人の流れに沿いながら真っ直ぐ出口へと向かう。よく見ると傘を持っている人がちらほらいてまさかとは思ったが、出口から階段の前に出ると嫌な予感は的中してしまった。
雨音が聞こえる。
階段を上ると街は強めの雨に濡れていたのだ。これではビルから出ることができないので、とりあえず映画館から出る人の邪魔にならないところまで歩いた。みんな天気予報をしっかりと観ていたのか、傘を持っていなかったのは私だけだ。映画館から出てきた人達は傘をさして、帰り道へと歩いていく。私だけが取り残されたのだ。
惨めだ。
私、なんでこんなにダメなんだろう。さっきの映画の主人公はダメなところから這い上がったけど私には無理だ。なんにもできない。長野くんにだってなにもできなかったどころか、もう残りの時間も少ないのに嫌な思いをさせてしまった。
長野くんだってあんな経験なかったことにしたいだろう。それなのに考えてしまっている自分が本当に嫌だ。どうすればこの想いは消えるのだろうか。死ねば消えてしまうのだろうか。そうだ。長野くんの代わりに、私が死ねたら良い。夢も希望もない私の寿命を、全て長野くんにあげられたら良いんだ。
「ねぇ。傘ないの?」
女性の少し高い声が聞こえた。心配していると言うよりはただ聞いているような、どんな感情か全く掴めない声だ。おそらく私に言っていると思い、声がする方を向いた。すると、そこには思いもよらない人物が立っていたのだ。
前回隣の席だった美人さんだ。
この前のような地味な服装ではなく、知らない学校の制服を着ていた。通学鞄を肩に下げ、右手でビニール傘を持っている。なんと、二十代前半だと思っていたが、私と同じ高校生だったのだ。驚きのあまり声を失ってしまいそうだったが、必死に絞り出した。
「は、はい」
すると表情一つ変えずに、彼女はビニール傘を私に差し出した。
「そう。それならこれ使いなよ」
思わぬ申し出に狼狽えてしまった。
「え。でも、あなたの傘は……」
「折りたたみ傘が、鞄の中に入ってた。だからこれはあなたが使って」
傘もなく死にたいと絶望していた私に、見知らぬ人がこうやって声をかけてくれた。戸惑いが全くないと言ったら嘘になるが、雨で寒いはずなのになんだか温まった感じがする。小学生の時、私に声をかけられたタクマくんも同じような気持ちだったのだろうか。
「ありがとうございます」
美人さんは私に傘を渡すと、後ろを向いて鞄から折りたたみ傘を取り出したのだ。きっとこのままだと帰ってしまう。
「あの。ビニール傘、お返ししますので、連絡先を聞いてもいいですか?」
肩まである綺麗な黒髪が横に数回揺れる。折りたたみ傘を開き、美人さんは駅とは違う方向に歩いていった。追いかけて連絡先を聞くわけにもいかないので、ただ見送ることしかできず、彼女とはその後二度と会えなかったのだ。
雨の街をビニール傘をさして歩く。
美人さんのおかげで濡れずにこの街を歩けるが、そんな恩人とはお互いに名前すら知らないままだ。それでもタクマくんに名前を聞いた時のように、連絡先を聞こうとしたのは私の大きな変化だと思う。昔の自分に戻ってマイナスがゼロになっただけかもしれないけれど、長野くんと出会う前の自分よりは大きく進歩している。
少しだけ自分のことを許せた気がした。美人さんは傘をくれただけではなく、長野くんとの日々が無駄になっていないという実感もくれたのだ。やはり連絡先を交換してもう一度お礼を言いたい。お互いに名乗ることすら出来ていないままなんて本当は嫌だ。
あれ。ちょっと待って。
あることが急に引っかかった。どうだったのか思い出そうとして記憶を必死に手繰り寄せるが、全然思い出せずに駅まで着いてしまった。
もしかしたらと思いスマホを確認してみる。だがそのせいで状況がさらにわからなくなるだけだった。そうなると他の可能性も考えてみるしかない。色々な記憶を手繰り寄せて、頭をフル回転させていく。
まさか。でもなんでだろう。
冗談半分で考えてみた突拍子もないことが、この状況を綺麗に説明できてしまったのだ。でも、前提となる条件が、かなりおかしなものになっていた。そうは言っても私の考えていることが正しかったら、やらなければいけないことがある。
死にたいなんて思っている場合ではない。ここで動かなかったら絶対に後悔する。もしまた失敗したら、その時は知里ちゃんに泣きついてみよう。
約束は守らないと。
――二〇一七年、十月二十一日、土曜日。
『明日のお昼、二人が初めて会った場所に来て』
長野くんに直接言ったのは昨日だ。
メッセージは変わらず既読にならないので、読んでもらえない可能性が高し通話も厳しいだろう。そうなると直接言いに行くしかなかった。だけど学校にいる長野くんは友達といることが多く、話しかけるタイミングが全くなかったのだ。朝早く学校へ行けばまた二人きりで会えると思ったが、早朝も友達と登校するようになっていた。
このままではもう、長野くんと二人きりで話せることは永遠にない。思い悩んだ私は昨日の放課後、友達と下校する長野くんを呼び止めて言ってしまったのだ。
長野くんは私に話しかけられてかなり動揺した様子だった。長野くんの友達はなにが起こったのか理解できず不思議そうに私を見ていた。明らかに場違いな空気に耐えられなくなって、相変わらず弱虫な私は返事も聞かずに走って逃げてしまったのだ。
長野くんはここに来ないかもしれない。
急だったし他に予定が入っているかもしれないし、私のことが嫌いになってもう会いたくない可能性だってありえる。だけど私は待ち続けようと思う。きっと来てくれるなんて強く思えないけれど、それでも私は待ち続けたいのだ。
遠くに人が見えた。
ゆっくりと私に近づいて来る。もっと緊張して心臓が破裂するかもと思ったが、意外なほど落ち着いている自分がいた。次第にはっきりと誰だかわかる距離になっていく。
長野くんだ。やっぱりそうだったんだ。
いつもよりもオシャレな服装で、今日は荷物を持っていない。こうやって改めて見ると、本当によく整った綺麗な顔をしている。だけど俯いており、表情は暗い。
私の前で、長野くんが止まる。
「来てくれてありがとう。こんなところに突然呼び出してごめんなさい」
長野くんはゆっくりと首を横に振った。
「謝るのはオレの方だよ。ごめんね。ハルカちゃんとした約束破ったから、もうオレなんかが仲良くしちゃいけないと思ったんだ。だからメッセージすら読めなかった。でも今日はこうやって呼んでくれたし、これ以上約束を破りたくないからここまで来ただけだよ」
「自分のこと責めないで。治安が悪いって長野くんが言っていたのに、それでも私が行きたいって言ったからだよ。長野くんは私を守ってくれたから全然悪くない。むしろ長野くんを危険な目に合わせた私が悪いの」
私が頭を下げる前に、長野くんは言った。
「そんなことないから、そっちこそ自分を責めないでくれ。オレがもっと賢く立ち回れたら、ハルカちゃんとした『暴力はしない』って約束、破ることはなかったし」
「その約束、この場所でしたよね」
晴れた空の下、長野くんは大きく頷いた。
「……タクマくん。タクマくんなんだね?」
丘に優しい風が吹き、一面に広がる草花と頂上に立つ痩せた桜の木がそっと揺れる。
「そうだよ」
長野くんはうれしそうにニッコリと笑った。七年前に曖昧に交わした再会の約束は、今はっきりと果たされたのだ。
「ごめんね、気付くのが遅くて。でもあの時、なんでタクマって名乗ったの?」
「親が離婚する前でさ、宅間って名字だったんだ。日下部と同じくらいお洒落だろ?」
唯一引っかかっていた謎も解け、丘に二人の笑い声が響く。そういえば宅間くんだった時もこうして楽しくおしゃべりしていた。もうこれで、昔から変わらないいつもの二人に戻れたのだ。
「でも、丘で会ってるって言ってくれたら良かったのに」
「言おうとしたよ。昇降口で会うよりも前にあいさつしたの覚えてない? あの時はめちゃくちゃ勇気出して話しかけたんだけど、ハルカちゃんめっちゃオロオロするんだもん」
「あ、あの時はごめんね。どうしたらいいかわからなくて」
「気にすんなって。オレだって元々自分に自信がない性格で、それ以上グイグイ行けなかったからね。なんか肝心な時に昔の自分になったというか……」
確かにあの頃の長野くんはもっと弱々しい男の子で今とは全く違った。
「本当に昔と変わったよね」
「そうだな。自分に自信を付けたくて空手を始めて明るく振る舞おうと頑張ったら、こんな性格になっちまってついでに痩せちまった。おかげ次の学校ではいじめられなかったし、小六でこっち戻っても大丈夫だった。でも、よくオレが宅間だってわかったよね」
映画を見に行った日、雨の中で考えたことを長野くんに話した。
「長野くんに自分の名前を言っていないことに気がついたの。もしかしたらメッセージアプリのアカウントに自分の名前が書いてあるかもと思って確認してたんだけど、『るーちゃん』としか表示されなかった。他の友達に私の名前を聞いて知ったのかなと思ったけど、誕生日まで知っていたからおかしいと思ってさ。誕生日もアカウントには書いてなかったし。宅間くんにだったら私の誕生日のこと話していたから、まさかと思って」
全く知らない美人さんに傘をもらわなかったら、自分が名前を名乗っていないなんて考えもしなかった。あの傘は家までの帰り道でだけではなく、この丘に続く道まで導いてくれたのだ。
長野くんは驚いて言った。
「あれ? 高校に入ってから名乗ってなかったっけ? また話せるようになったのがうれしくて、全く頭になかった」
ちょっとオーバーなリアクションをする長野くんが面白くて、クスッと笑い声が漏れてしまう。
「それにしても私の誕生日、よく覚えていたね。」
「まぁな。着ていた服の色まで覚えてるよ」
「そんなとこまで?」
「うん。今日着ているような空色のワンピースだったよ」
着ていた服までは覚えていなかった。そこまで覚えてもらっていてうれしいけれど、ちょっと照れくさいような恥ずかしいような気もする。すると長野くんは丘の頂上にある木を懐かしそうに眺めた。
「あれから毎日、丘に行ったんだけど結局会えなくてさ。そのままあの街に引っ越すことになったんだ」
「ま、毎日?」
長野くんの視線は丘の頂上にある木から私に向けられた。その顔はちょっと恥ずかしそうにはにかんでいる。
「ま、まぁね」
「ごめんね。私、勉強が忙しくて時々しかこの丘に行けなかったんだ」
「いやいや。謝らなくていいぞ。そういえばさ、なんでオレが引っ越した街に行きたいなんて思ったの? ハルカちゃんから誘ってくれたことがうれしくて特に深くは聞かなかったけど、実は不思議に思ってたんだよね」
やはり長野くんは納得していなかったようだ。この話をしてしまうと、正文くんとの約束を破ってしまう。でも、私の行動のせいで長野くんを危険な目に合わせてしまったのも事実なので、全てを洗いざらい話すしかなかった。
「正文くんのこと、怒らないで欲しいんだけどさ。長野くんに昔から好きな人がいるってこと聞いちゃったの」
「え? あいつ、話しちゃったの? まぁいいか。口が滑る時もあるだろうし。で、それがどう関係しているんだ?」
少しだけ驚いたような素振りを見せただけで、長野くんは正文くんに対して微塵も怒らなかった。それよりも長野くんが住んでいた街に、私が行きたがった理由の方が気になるようだ。
「色々考えてね。長野くんは引っ越し先で好きな人に出会ったと思ったの。だからその街に行けば、その人の手がかりがあると思って……」
「なるほど。人探しってわけか。で、その人を見つけてどうするつもりだったの?」
「……その人と長野くんを再会させようと思ったの。長野くんが少しでも幸せに過ごせるようにさ。できれば、その人と結ばれて欲しかった」
長野くんを前にして話すと、自分がしてしまったことの無能さに罪悪感が込み上げてくる。でもそれとは別に心が苦しみ始めていた。その苦しみをどこか愛しいと感じている自分がいる。
「オレのためにありがとうな。その気持ちがうれしいから、そんな顔するなよ」
「で、でも私……なにも出来なかったよ。長野くんのこと危険な目に合わせただけだったよ。私なんか……」
「ねぇ、ハルカちゃん」
少し大きな優しい声で、長野くんは私の言葉を遮った。病気のことを話した時とは違うが、真剣な眼差しを私に向けている。
「な、なに?」
「まだ、オレが好きな女の子と再会させたいか?」
胸が痛い。息が苦しい。心臓の音が丘にまで響きそうだ。長野くんを直視できずに俯いた。長野くんには幸せな人と過ごして欲しい。
色々な感情を堰き止める。だけど私の心のダムにはもう既に穴が空いていたようだ。少しだけ溢れた想いは大きなうねりとなって溢れ出して、制御できなくなった。
私は首を横に振る。
「ごめんね、長野くん。もう再会させたいって思えない」
「お? どうしてだ?」
長野くんの方を向くと、興味津々に私を見ていた。もう覚悟を決めるしかない。自分の気持ちに嘘を吐くことは、長野くんさえも騙すことになってしまう。
「長野くんのこと、私が好きになったから」
私は長野くんと一緒に過ごしたい。残りの命が少なくても、最期の瞬間まで一緒にいたいのだ。だけど、もうこれで本当に嫌われただろう。
他に好きな人がいるとわかっているのに、告白するなんてもはや嫌がらせのようなものだ。走ってこの丘から逃げ出したい。でも、それはここへ呼び出す時にやってしまった。だから勇気を出してわかりきった答えを聞くしかない。
長野くんは私に微笑んだ。
誰よりも優しく、誰よりも温かく、誰よりも甘い。それでいて爆発してしまいそうな大きな思いを、内に秘めている。そんな表情のように感じた。
「なんだよ。今も再会させる気、満々じゃないかよ」
「え? 話、聞いてた?」
表情と言っていることが噛み合っていない。一体、なにを言っているのだろうか。こんな時にまでからかわれてしまい、さすがにちょっとムッとした。それでも長野くんは私に微笑みかけている。
「オレがずっと好きだった女の子の名前、教えてあげようか?」
「う、うん」
それはまるで、当たり前のことを言うようにあっさりしていた。
「日下部ハルカ」
今、なんと言っただろうか。長野くんが私のことをずっと好きだった。聞き間違いか解釈の間違いではないだろうか。
長野くんは続けた。
「信じられないって顔してるけどマジだよ。この丘で会った時からずっと好きだった。うちの学校に入ったのも、ハルカちゃんが附属にいるって知ったからなんだ。ハルカちゃんめちゃくちゃ勉強できるって聞いたからさ。とりあえず特別選抜クラス入っとくか思って気合い入れたら、気合い入れすぎてすれ違ったけどな」
長野くんは自嘲するように笑った。一方、私は信じられない事実にただ驚くばかりだ。
「梶永医科大学が近いからうちの学校を選んだと思ってた……」
「まぁそれも理由の一つではあるけどね」
さっきまでは笑っていたが、長野くんの表情が再び真面目なものへと変わった。和やかになっていた丘の空気が、一瞬にして張り詰めていく。
「……そう。オレは病人なんだよ。それももうすぐ死ぬ。オレと関わりすぎたせいでハルカちゃんを悲しませることもわかってた。それだってずっと悪いと思っていたんだけどね。だからオレが宅間だって今更言えなかったし、ずっと好きだったのに自分の思いを告げることも出来なかったんだ。自分には恋愛する資格なんてないと思ってさ」
涙が溢れそうだ。
だけど一番辛いはずの長野くんが泣いていないので、泣くわけにはいかなかった。もうすぐ死んでしまうという辛い境遇なのに、ずっと私のことを思ってくれていたのだ。
「長野くん、ありがとう。例え長野くんに恋愛する資格がなくても私は大好きだよ。無資格でも良いから、ずっとそばにいたいよ」
長野くんは吹き出して笑った。
「無資格ってなんだよ。変なの」
どうやらまた変なことを言ってしまったようだ。あたふたしている私に、真面目な表情に戻った長野くんは言い聞かせるように言った。
「……ハルカちゃん、マジでオレで良いのか? オレは死ぬんだぞ?」
長野くんを失ってしまうという事実に頭が壊されてしまいそうだ。だけど、長野くんと一緒にいたいと思う気持ちが私を守ってくれている。
丘の澄んだ空気を大きく吸う。
少しだけ冷静になると、長野くんの事情とは重みが全く違うが私も同じような気持ちだと気がついた。好きだという気持ちはあっても、自分に自信なんてない。
「長野くんこそ、私なんかで良いの? もっと可愛い子はたくさんいると……」
「いや、いない」
全てを言い終わる前に、長野くんは話を遮りはっきりと否定したのだ。
「オレにとってはハルカちゃんが一番だよ」
「え……そんな……」
うれしいけど面と向かって言われるとやはり恥ずかしい。だけど頑張って長野くんから目を逸らさなかった。
長野くんの口角がにっこり上がる。
「ハルカちゃんがあの時、『明日も生きるだけで良いと思う』って言ってくれたから今こうして生きてるんだよ。ハルカちゃんがいなかったら、多分丘の上で死んでたね。もし嫌じゃなかったら、オレの残りの人生は一緒に過ごしてくれよ」
小学生の時、長野くんはこの丘まで自殺しに来ていた。確かに、私と会っていなければ気が変わって死んでいたかもしれなかった。それでも長野くんが若くして死ぬという運命を私には変えることができない。絶対的な運命に対してあまりにも無力だ。だけどこんな私でも必要としてくれるなら、その想いに応えたい。
「これからよろしくね……桐人」
「な、名前で呼んでくれた」
桐人くんの顔が面白いくらい真っ赤になった。
「名前で呼べばこれから先どんな名字になっても大丈夫だと思ってね」
真っ赤な顔のまま桐人くんは笑った。
「そうだな。それならオレが日下部になっても大丈夫だな。やっぱり長野より日下部の方がオシャレだ」
桐人くんは十七歳で死んでしまう。だから私と結婚して私の名字を名乗ることは絶対にあり得ないだろう。それでも長野くんが日下部という名字を共有してくれた感じがする。
「そう言ってもらえると、私も自分の名字を好きになれるよ」
丘には二人の笑い声が丘に響く。すると長野くんは丘の頂上にある木を見つめ始めた。
「ちょっとあそこまで行かない?」
「いいよ」
なだらかな丘を二人で登っていく。
もう一人ではない。私の横を長野くんが歩いてくれているのだ。歩く速さはゆっくりで、思ったよりも時間がかかってしまった。丘の頂上に着くと、長野くんは木に一度触れてから空を見上げて言った。
「ねぇ、長野県に行かない?」
「え? 今から?」
長野くんは私を見て笑いながら言った。
「いやいや、さすがにそれは無理でしょ。次の検査の時、医者に行っていいか聞いてみるからさ。大丈夫そうなら長野に星を見に行こうよ」
二人で一緒に観た映画のワンシーンが頭に浮かぶ。そうなるともう答えは決まりだ。
「いいね。絶対見に行こうよ」
「やった! 今から楽しみだ」
長野県に行くなら確実に泊まりがけになる。親になんて言うかは全く考えていなかったが、それでもこの約束は固く交わしたのだ。
もう、曖昧ではない。
――二〇一七年、十月二十三日、月曜日。
朝はいつものように登校した。
桐人と一緒に行くことも考えたが、友達との朝勉強があると言っていたし、なにより変に目立ちそうなので一人で来たのだ。
他の生徒たちは友達や恋人とおしゃべりしながら学校までの道を歩いている。一人で歩いている私は、誰の視界にも入っていないだろう。
スマホが震えた。
メッセージを確認するために立ち止まったが、やはり誰も気にしていない。私に連絡をしてくる人は限られているので大体予想はついていた。
『ハルカっち! おめでとう! やっぱり長野くん、ハルカっちのこと好きだったんだね! 今度は四人で遊ぼ!」
知里ちゃんからだった。昨日の夜に長野くんと付き合ったことを報告して、返事が来たのだ。私はすぐにお礼を返した。
桐人と付き合って私の学校生活は変わったのだろうか。正直に言うと、まだ実感はない。そう、この時までは大きく変わっていなかったのだ。
一時間目が終わった時、なんだか変な感じがした。
クラスの目立っている女子達から、やたらと視線を感じるのだ。少しだけそちらを見ると、なにやら小さい声でヒソヒソと話している。最初は気のせいかと思ったが、授業が終わるにつれ私に視線を向ける人が増えていき、お昼休みが始まる頃にはとうとうクラス全体から見られているような感じがしてきた。
なにが起こっているのかさっぱりわからない中、お弁当を食べ終える。起きてニュースサイトを見ていても視線を感じて集中できないので、とりあえず寝よう。
だが、異変はうちのクラスだけではなかった。廊下がなにやらガヤガヤと騒がしいのだ。すると、全く知らない男子の大きな声が聞こえてきた。
「長野の彼女ってどれだ?」
誰かが自信なさそうに言った。
「噂だとあの子だけど……」
教室の外がさらにガヤガヤし始める。どうやら、私が桐人と付き合ったことが噂になって広まっているようだ。もしかしたらそのせいでクラスみんなから見られたり、教室の外が騒がしかったりしているのかもしれない。
学校の人とは話し慣れていなく、名乗り出るのは正直怖い。でも、私は桐人の彼女なんだからここは堂々としていなければならない。
席を立ち、廊下へと歩く。
廊下にいる人達は喋るのをやめて、急に静かになる。全員私を見ており、教室からもたくさんの視線を感じる。震えそうな身体を堪えながら言った。
「私です。私が彼女です」
その瞬間、廊下も教室もどよめき、思わず一歩下がってしまった。この学校に存在していないと言ってもいい私が、今一番の注目を集めてしまっている。学校一の人気者と付き合うとはこういうことだと身をもって知った。オロオロしている私に、別の知らない男子が言う。
「本当に君なの? 悪いけどそうは見えないけど」
その通りだ。反論の余地もない。こんな恋愛とは無縁のところにいそうな女が、学校一の人気者の彼女だなんて信じる方が無理だ。この男子の言葉をきっかけに、廊下と教室にいるすべての人から疑惑の目が向けられた。みんながヒソヒソと話し始めて、空気が一気に悪くなる。
「え、えっと……」
しっかりと話さなければいけないのに、もう声が出てこない。どうしたらいいかわからなくなった時だ。
「ハルカちゃんはオレの彼女だよ」
廊下の奥から大きくて優しい、頼もしい声が聞こえてきた。廊下にいる人達は喋るのをやめて声がする方向に向く。それに伴い、教室も静かになった。
人だかりを割って、桐人が私の前に来る。
「ごめんな。この子、オレと違ってシャイな性格なんだよ。だから、そっとしておいてくれないか?」
「ありがとう、桐人くん」
桐人にお礼を言うと歓声が上がった。驚いてしまったけれど、これで納得してくれたような気がする。桐人は苦笑いしながら廊下にいる人達へ言った。
「そういうところだぞ、おまえら。オレの彼女がびっくりするからやめろって」
すると、廊下にいる人達が私達に謝り始めた。これはこれでびっくりしてしまう光景だ。それでもみんな謝ってくれたので、「怒ってないので大丈夫ですよ」と必死に伝える。そんな私を桐人がうれしそうだ。
「ハルカちゃんって本当に優しいね。そろそろ行こうか」
「う、うん」
どこへ行くのか全くわからないけど、桐人が歩き始めたので私もついて行った。廊下にいる人だかりが割れて、まるで私達を見送っているようにも思えた。
私と桐人は校舎の外へと出る。そこまでの間、他の学年の生徒やさらには先生の視線まで感じてしまった。きっと噂はさらに広まってしまうのだろう。
しばらく歩き、体育館裏に着いた。
「ハルカちゃん、ごめん。オレのせいだ」
着くなり桐人は頭を下げてきた。
「一体、なにがあったの?」
頭を上げると、桐人は気まずそうに口を開いた。
「ハルカちゃんと付き合えたことがうれしくてさ。朝、一緒に勉強しているメンバーに話しちゃったんだよね。そしたらこうなった」
「そうだったんだ」
「すまないな。一応、あんまり言わないようにとは言ったけど、誰か言っちゃったんだろうなぁ」
後にわかることだが、桐人の友達は私たちのことを誰にも言っていなかった。桐人が話しているのをたまたま聞いてしまった別の生徒が広めたのだ。だが、この時はそんなことを知るよしもなく、桐人ががっかりと肩を落とす。だから、私は素直な気持ちを言った。
「抑えきれずに話しちゃうほど、付き合ったこと喜んでくれてありがとう。私と違って話す友達がいるのだって、彼女としてすごく誇らしいよ」
「優しくて自慢の彼女だな」
桐人くんがニッコリと私を見てきたので、ちょっと恥ずかしくなって目を逸らした。
「あ、ありがとう……」
その時、お昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴った。
「そろそろ、授業始まるから行こうぜ。また放課後な」
「うん、そうだね」
その後、教室に戻っても嫌な視線は感じず、良くも悪くも静かな日常が戻ったのだ。それでもちょっとした騒ぎがあったばかりなので、放課後は学校から二駅離れた場所にある、メックバーガーで会うことにした。ここなら各駅停車しか停まらないし、うちの学校の生徒と鉢合わせることもないだろう。
メックバーガーの前には、もうすでに桐人がいる。多分同じ電車で来たと思うが、ここに来るまで全く気が付かなかったのだ。
「お疲れ、ハルカちゃん! 混んできちゃうといけないからさっさと行こうぜ」
「そうしよっか」
メックバーガーに入ると、難病カードを使って期間限定蟹肉バーガーとコーラを二人分注文した。二階にある席はそれなりに混んでいたが、運よく四人がけのテーブルに座れた。蟹肉バーガーの包みを開ける前に、桐人が言った。
「ねぇ、十一月の三連休空いてる?」
「空いてるけど?」
「おぉ。明日の検査結果次第になるんだけどさ、長野旅行に行かない? 難病カードを使えば旅行代も割り引けるし!」
「私も行きたいんだけどちょっと困ったことが……」
「なんだ?」
「親になんて言えばいいかな……」
「あぁ……確かに」
桐人も頭を悩ませているようだ。すぐに答えは出なかったので、とりあえず蟹肉バーガーを食べることにした。包みを開けると蟹のいい匂いがしてくる。食べてみると、思ったよりもしっかりと蟹の味がして美味しい。
全部食べ終わる頃、問題を解決する方法が浮かんだ。かなり卑怯なやり方だが、もうこれしかない。
「私、親には知里ちゃんの家に泊まるって言うよ。それなら大丈夫そうだし」
「本当なら自分の恋人に親を騙すようなことして欲しくないが……今回ばかりはお願いします」
次の日、桐人も医者から旅行へ行く許可が降りたので、正式に長野旅行が決定したのだ。
知里ちゃんに万が一の時の口裏合わせをお願いすると、快く承諾してくれた。それでも知里ちゃんの家に泊まると親に嘘を付いた時は、全く目を合わせられず変な汗もかいたので、どこかでバレてしまわないか心配だ。
水、木、金と放課後はメックバーガーで旅行の計画を立てた。計画を立ているだけども本当に楽しいので、旅行に行けばきっと今の私には想像できないくらい楽しいのだろう。
今まで貯めておいたお年玉と難病カードのおかげで、結構良いホテルに泊まれることとなった。二泊三日と日も長いので、星空以外にたくさんのところに行ける。でも、桐人の体力がもつかわからないので、星空が最優先事項となった。
旅行の詳細も決まり今週の土日も会いたかったが、来週に備えてやめておくことにした。今週の休日無理に出かけて、桐人の体力が旅行に耐えられなかったら元も子もないからだ。
だが、結論から言えばこの判断は間違いだったのだ。
せめて土曜日だけでも、会っておけばよかった。
――二〇一七年、十月二十九日、日曜日。
梶永医科大学附属病院まで着いた。
学校よりも巨大な白い建物の中に、急足で入る。受付の前まで行き事情を説明すると、必要事項を記入する紙を渡された。すぐにそれを書き桐人のところへと向かう。
昨日の夜、桐人としていたメッセージのやりとりが既読にもならず突然途切れた。寝てしまったのではと思いあんまり気にしないでいたが、次の日の昼になってもなんの連絡もなかったのだ。どんどん心配になってきた私に、一通のメッセージが届く。その内容に背筋が凍りついた。
『すまん。足がダメになった。梶永医科大学に入院してる』
桐人からだった。
背筋が凍りついても固まっている場合ではない。とにかくすぐに病院に行かなくてはと思い、空色のワンピースに着替えて慌てて病院まで駆けつけたのだ。
桐人の病室のドアを開ける。
「ハルカちゃんごめんな。こんなことになって」
個室にいる桐人は思ったよりも元気そうな笑顔で私を出迎えてくれた。薄緑の入院着を着て、ベッドで上半身だけを起こしており、下半身には布団がかかっている。隣の椅子に座っているの桐人そっくりな女性はおそらく母親だろう。恋人の親にあいさつするのが礼儀だが、それどころではなかった。
「桐人、足……大丈夫なの?」
大丈夫という僅かな可能性に賭けて言ったが、桐人は諦めたように笑った。
「大丈夫じゃねぇよ」
「そんな……だってこの前の検査で大丈夫って言われたんでしょ?」
「オレも医者もびっくりだ。こんなに早くダメになるとはね。母さん、ちょっとこの布団外してもらっていいかな」
桐人のお母さんは戸惑いながらも、下半身にかけられていた布団をゆっくりと剥がしていった。私はただ呆然とそれを見ている。
布団の下にあったのは、灰壊病だった。
入院着から出ているはずの両足がなかったのだ。現実からあまりのもかけ離れている、身体が灰になって無くなってしまう病気が目の前に現れた。目を逸らしてしまいそうになったが、この事実から目を逸らすわけにはいかない。
「こういうわけだから、長野旅行はキャンセルしたよ。本当にごめんな」
無くなった桐人の足を見て、なんて答えた良いかわからなかった。すると桐人はなにか思い出したかのように、突然大きな声をあげる。個室でなかったら他の患者さんの迷惑になってしまうくらいだ。
「わりぃ。まだ母さんに紹介してなかったな。この子、ハルカっていうんだ。オレの彼女。めちゃくちゃ可愛いだろ?」
慌てて桐人のお母さんの方を向いた。お母さんは優しそうな顔で私を見ている。
「く、日下部ハルカです。桐人くんとお付き合いさせてもらってます……」
「桐人の母です。話は桐人から聞いております。本当に可愛い子ね」
「だろ? だろ? オレの彼女、可愛いだろ?」
うれしそうに言う桐人を見て、桐人のお母さんはふふと笑う。こんな時なのになんだか照れくさくなってきた。同時にこんな時なのにいつもの桐人でいてくれることがうれしい。
私の気持ちを察してか、桐人は桐人のお母さんに言う。
「ちょっとオレの可愛い彼女と二人きりにさせてくれない?」
「わかった」
桐人のお母さんは椅子から立って荷物を持ち、病室から出ていった。
病室には私と桐人しかいない。目は再び桐人の無くなった足を向いてしまった。もう歩けなくなってしまった桐人のことを考えると胸が張り裂けそうだ。なにも言えない私に桐人は優しい声で言った。
「無くなったオレの足見るの、辛いだろ? わかるよ。でもハルカちゃんには乗り越えて欲しいんだ。ないものよりも、あるものを大切にして欲しくてさ」
桐人は私よりも強い人間だ。自分の方が辛いのに私を勇気づけようとしてくれているのだ。私は桐人がいない世界で生きなければならない。その力をくれようとしているのだろう。だったら、今目を向けるべきは今ある大切なものだ。
「……それならさ、握ってもいい?」
「ん?」
キョトンとする桐人に、私はもっとはっきりと言った。
「桐人の手、握っても良いかな?」
ちょっと恥ずかしそうに桐人は頷いた。
私はもっと恥ずかしかったけれど桐人の両手を握る。
冷たい。
驚くほど桐人くんの手は冷たかった。それでも桐人の顔は真っ赤だ。きっと私の顔も同じくらい赤いのだろう。桐人の手は驚くほど滑らかだ。灰壊病のせいで体毛が無くなってしまった手首が、入院着から見えた。
どれだけの時間こうしていたのだろうか。段々と桐人の手は暖かくなってきた。私の手から桐人の手が離れると、桐人はそのまま私を抱きしめた。その身体はさっきまでの手と同じくらい冷えている。
「やっぱりハルカちゃんは温かいな」
そう言うと、桐人は私の背中を優しく掴んだ。指一本、一本の感覚が伝わる。
「桐人だって温かいから」
私も桐人の身体を思い切り抱きしめた。もうすぐ桐人の手も無くなってしまうから、その感覚を私の身体に、深く、深く、刻み込んだ。桐人もきっと私を忘れないはずだ。
気が付いた頃には、面会の時間は終わっていた。名残惜しかったが、桐人から離れる。
「今日はありがとうな。お見舞い来てくれて本当にうれしかったよ」
「そう言ってもらえると私もうれしいよ。ありがとう」
帰らなければいけないのはわかっていても、ずっとここにいたい。だけどここでわがままを言っても桐人を困らせてしまうだけなので、大人しく病室から出た。
「よかったら、家まで送ろうか?」
突然、後ろから声が聞こえた。振り向くと、病室のドアから少し離れたところに桐人のお母さんが立っていたのだ。
「え、でもまだそんなに時間は遅くないですし……」
「電車賃かかるでしょ? 車だから遠慮しないで」
「それなら……お願いします」
わざわざ申し訳ないとは思ったが、お言葉に甘えることにした。断っても桐人と同じように押されて、結局乗せてもらいことになると思ったのだ。恋人の親の前という極度の緊張で車に乗るまで殆ど話せず、住所などの必要最低のことを伝えるので精一杯だった。
私を助手席に乗せて車が走る。
車内はなんとなく気まずかった。なにか話さなければいけないと必死に言葉を探す。すると、桐人のお母さんの方から話しかけてきた。
「今日はお見舞いに来てくれてありがとう」
「い、いえ。私は大したことしてませんよ」
「そんなことないよ。桐人があんなに明るくなったのはあなたのおかげだもん」
「え? どういうことでしょうか」
「桐人ね、学校では明るく振る舞おうって頑張ってたみたいなんだけど、色彩灰化が起きてからずっと塞ぎ込んでたの。夜一人で泣いているの見て私も辛かった」
「え……そうだったんですか……」
車は赤信号で停まる。
あの底抜けに明るい桐人が塞ぎ込んでいたなんて、考えたこともなかった。でも少し考えればわかることだ。自分がもう少しで死ぬとわかっていて、正気でいられる人間などいない。
桐人のお母さんは少し沈んだ声で、独り言のように話し始めた。
「私のお父さん……桐人のおじいちゃんも同じ病気だったの。色彩灰化が起こった時、桐人と同じように塞ぎ込んでてね。だから桐人も全身が灰になる前に自殺してしまうのではと思ってすごく怖かった」
桐人のおじいちゃんは自殺している。そんな話は聞いたことがなかった。なんて言っていいかわからず黙り込んでいると、信号は青になり車が走り出す。
桐人のお母さんは先ほどとは打って変わって明るい声で、私に向かって言った。
「でもね、九月の初めくらいかな。昔みたいに桐人が明るくなったの。そう、あなたと出会ってからね。だから、本当にありがとう。あなたのおかげで桐人は笑顔を取り戻したわ」
私と仲良くなったくらいで単純だなと思ったけど、そうした素直なところが桐人のいいところで、私が大好きな部分の一つだ。少しでも役に立ててうれしかった。
「ありがとうございます。私も桐人くんからは大切なことをたくさん教わってます。彼のおかげで毎日が楽しくなりました」
「それはよかったわ。でもね、一つお願いがあるの」
「なんでしょうか」
フロントガラスから見える景色が夜へと変わってく中、桐人のお母さんは言いにくそうに言った。
「その空色のワンピース、可愛いんだけどできれば着てこないで欲しいの。桐人、色彩灰化のせいで青系の色が全部見えなくなってるから」
初めて学校の外で会った時、桐人は泣き出した。あの時の私が着ていたのはこの空色のワンピースだった。桐人はスマホゲームのやりすぎで目が疲れただけだと言ったが、真実は違うものだったのだ。
きっと、見えなくなった色の服を私が着てきたせいで死ぬことを強く意識してしまったに違いない。それでも空色が私に似合うと思って、自分なりに空色の財布まで選んでくれた。でも私は空色ではないと言ってしまったのだ。一体、桐人はどれだけ傷ついただろうか。
「……ごめんなさい」
「桐人のことだからハルカちゃんにはその話してなかったんでしょ? あんまり自分を責めないでね」
「ありがとうございます」
「本当にハルカちゃんは良い子ね。桐人が大好きになっちゃうのもわかるわ」
「そ、そんな。面と向かって言われると恥ずかしいですよ」
桐人のお母さんは優しく笑った。その笑顔に救われた気がする。
明日、桐人に謝ろう。
それから桐人のお母さんは私に色々なお話をしてくれた。最初は桐人のことだったが話題は色々と展開していく。中でも若い頃好きバンドの話がすごかった。サッドクロムというバンドで今なら確実に逮捕されるような、暴力的なライブをやっていたらしい。一度だけで生で観に行ったが、親にバレてこっ酷く叱られたようだ。その話を聞いて思わず笑ってしまった。
桐人のようにお母さんも話し上手で、退屈せずに車は家の前まで着いた。
「今日はありがとうございます」
「いいの、いいの。それより連絡先交換しない?」
「あ、いいですよ」
いきなり連絡先の交換を申し出てくるところも桐人そっくりだ。早速、鞄からスマホを取り出す。新着のメッセージが入っていたが、連絡先の交換が最優先だ。前にやり方を知里ちゃんから教わっていたので、今回はやってもらわなくても交換できた。私のスマホには『長野愛』と言う名前がちゃんと入っている。桐人のお母さんは愛という名前だったのだ。
「なにかあったら連絡するね」
なにかあったらという言葉が妙に重もしい響きを持っている。なにかあって欲しくはなかったが、「わかりました」と言うしかなかった。
「また明日もお見舞い行くのでよろしくお願いします」
「ありがとう。また明日ね」
「はい、さようなら」
助手席のドアと開けると同時だった。家のドアが開く。
お母さんだ。
家の前に知らない車がずっと停まっていて気になったのだろう。助手席から降りてきた私を見て、目を丸くして驚いている。
「るーちゃん、一体どういうこと?」
「えっと……」
口籠る私の代わりに運転席から降りてきた愛さんが言った。
「驚かせて申し訳ございません。私が事情を説明します」
「は、はい」
私と桐人が付き合ったこと、桐人の余命が残りわずかであること、愛さんは事情の全てを説明した。あまりの情報に受け入れてくれるか不安だったが、お母さんはすんなりと理解してくれた。
「九月の初めくらいから娘の様子が変わったと思っていたら、そういうことだったんですね」
お母さんは優しい目で私を見て言った。
「るーちゃん、私にできることがあったら言って。桐人くんのそばにいてあげなきゃね」
「ありがとう、お母さん」
「私からもお礼を言います。ありがとうございました。それではそろそろ失礼しますね」
私とお母さんは車で帰る愛さんを見送った。
お母さんが先に家の中に戻ったので、続けて私も家に入る。玄関で靴を脱いでいる時、スマホにメッセージが届いていたことを思い出した。靴を脱ぎ終えてから確認する。
知里ちゃんからだ。
他愛もない内容だったが、返信できたのは夜遅くなってからだった。
――二〇一七年、十月三十日、月曜日。
授業が終わるとすぐに病院に向かう。
僅かな時間でも惜しく急いだため、桐人の病室に着く頃には息が上がっていた。それでも休むことはせず、扉を開く。
「ハルカちゃん!」
桐人は笑顔で出迎えてくれた。ベッドで上半身だけを起こしており、両手は布団の中に入っている。
「今日も来てくれてありがとうね」
ベッドの隣にある椅子に座っている愛さんも、笑顔で出迎えてくれた。私はあいさつもせずに口走った。
「桐人、ごめんね」
「ど、どうした?」
なんのことか桐人は全くわかっていないようだ。
「私、色彩灰化で青系の色が見えなくなっているなんて知らなかった。それなのに空色のワンピース着たり、せっかくもらった財布も空色じゃないって言ったり……いっぱい傷つけてごめん」
「ちょっと待て。なんでその話、知ってるんだよ? まさか母さん……」
桐人の不機嫌そうな顔は愛さんに向けらる。
「あらら……言う方が逆に不味かったかなぁ……」
愛さんは気まずそうに笑っている。すると桐人が大きなため息を吐いた。
「あぁ、まぁしょうがねぇか。今回だけは許してやるよ」
「ごめんねぇ」
桐人は愛さんを許すと、私の方を向いた。
「マジで傷ついてないから気にすんなって」
「で、でも……空色のワンピース初めて着た時、桐人泣いてたじゃん」
「あぁ……」
ちらっと愛さんの方を見ると、観念したように話し始めた。
「あれはな、うれしかったんだ」
「うれしかった?」
「小学生の時に初めて会った時と同じ、青系のワンピース着ているってわかったからさ。色が見えていないとはいえ、その姿をまた見られてうれしかった。だからもし色彩灰化で青が見えないことがバレたら、もう着てくれなくなったり、変な気を使わせたりすると思ったんだ」
「ありがとう、桐人。そこまで私のこと考えてくれたんだね」
「そうだよ。まぁでも、空色のワンピース着たハルカちゃん見るより、親の前でこんなぶっちゃけた話する方がよっぽどダメージだけどな」
「あぁ。ごめん、ごめん」
桐人が笑った。続けて愛さんも笑った。最終的には私も笑ってしまい、病室は笑顔で溢れたのだ。タイミングを見て、愛さんが言った。
「じゃ、私は先に出てるね。ハルカちゃん、今日も送ってあげるからよろしく」
「ありがとうございます」
気を利かせて愛さんは病室から出て行った。二人だけになった病室はさっきまでとは違いなぜか異様に静かだ。すると、桐人は妙に明るく言った。
「両手がダメになっちまった。昨日はたくさん手を握って良かったよ」
「……私も桐人の手、握れて良かった」
モヤモヤとした感情が霧のように心の中に漂っていた。だけど、桐人の手を握れて良かったと本心から思っている。桐人は私に優しく言った。
「母さんのこと悪く思わないでくれ。元はと言えばオレがちゃんと母さんに言っておけばいいだけの話だった」
「大丈夫だよ。桐人のお母さんのことも悪く思ってないし、桐人が悪いとも思ってないよ」
「ありがとうな。それにしてもさ……」
少し間を置いて、桐人は寂しそうに言った。
「オレの青、どこに行ったんだろうな?」
その言葉に胸が締め付けられた。桐人は灰になった身体のことよりも青に思いを馳せているようだった。桐人にとっては青は特別な色で、私にとっても特別な色だ。よりにもよってそれを奪うなんて、神様は残酷すぎる。
なんて言葉をかけたらいいかわからなかった。それでも言葉で伝えられないことの伝え方を今の私は知っている。
桐人に近づき、その身体を抱きしめた。
今日も冷たいけれど、それなら私が温めるまでだ。桐人も私を抱きしめる。強い腕の力が私に伝わるけれど、もう手の力は伝わらない。それでも桐人は今あるもので、私を精一杯抱きしめてくれた。
どちらからかわからないが、二人の身体が離れた。
なにも言わずにただ見つめ合う。
桐人が笑った。
私も笑った。
桐人の顔が、私の顔が、どんどん距離を距離を失っていく。
心臓の鼓動がうるさいので、桐人よりも先に私が目を閉じた。
私の唇と桐人の唇は完全に距離を無くす。
このまま時間が止まってしまえばどんなに良かったことだろうか。だけど時間は流れていくし、砂時計のようにひっくり返すこともできない。ゆっくりと唇を離し、目を開ける。
桐人は腕で目を擦っていたが、見なかったことにした。代わりにスマホで時間を見る。
「そろそろ、面会終わるね」
「そうだな。今日もありがとう」
桐人は真っ赤な目で微笑んだ。
――二〇一七年、十月三十一日、火曜日。
今日は学校を休んで午前中からお見舞いに来た。
私は親からの許可も得られることが出来たし、この時間に来ることを愛さんを通りして桐人も承諾してくれたのだ。でもただ一つ、桐人には黙っていることがある。もしかしたら余計なことをしてしまったのかもしれないが、やらずに後悔したくなかった。
病室のドアを開ける。
「おはよう。桐人。お見舞いに来たよ」
布団から顔だけを出して、桐人はベッドに寝転んでいた。愛さんもいつものように椅子に座っている。
桐人は私達の方を見ると、大きな声を出して驚く。
「え! なんでおまえがいるんだよ! 隣にいる女子は……なんか見たことある気が……」
「どうもー! ハルカっちに誘われて来ちゃいました! 知里でーす」
今日は知里ちゃんと正文くんを呼んだのだ。もし桐人に呼ぶかどうか聞いたら、心配をかけないために絶対に断っていただろう。だから私が勝手に呼んだのだ。
「田中さんかぁ。いやぁ、見た目変わりすぎでしょ」
知里ちゃんはたとえ病院でもいつもの派手なファッションだった。金髪にフリルやリボンが目立つ服装は病院ではあまりにも浮いているのだ。それでも自分を貫くのが知里ちゃんっぽい。
「よう、桐人! 久しぶり! 暇してると思って来てやったぞ。元気か?」
正文くんは体育会系らしいラフな服装で、手提げのついた白い箱を持っていた。そんな正文くんに桐人は笑いながら言う。
「元気なら病院になんかいねぇよ」
口では文句を言っているが、顔はうれしそうで良かった。
「十分、元気じゃねぇかよ。お見舞いにプリン買って来たけど食えそうか?」
「マジ? 食べたい!」
ここに二人を連れて来たことを色々聞かれると思ったが、桐人の興味はプリンに行ってしまったようだ。すると知里ちゃんが得意げに言った。
「一個一〇〇〇円する超高級プリンだよ。私のお金で買ったんだからね!」
「超高級品だ! すげぇ!」
「おい、知里。自分で言うのダサいぞ」
正文くんのツッコミに、私も桐人も愛さんも思わず笑ってしまった。知里ちゃんはテヘッと舌を出して、反省しているようで全く反省していない。
プリンは愛さんの分までちゃんと用意してあった。知里ちゃんが各々に渡してく。桐人の手がもう灰になっていることは話していたため、私が二人分受け取った。プリンを持って桐人が寝ているベッドに近づく。
「ハルカちゃん、食べさせてくれるの?」
「私で嫌じゃないければ……」
「みんなに見られるのちょっと恥ずかしいけど、お願いしたいな」
「うん」
プリンの蓋を開けて、裏についている折り畳まれたプラスチックを外す。広げてスプーンの形にしてプリンをすくった。桐人が口を開けて待っていたのでそっと、口の中に入れてみる。
「うまい! 田中さん、ありがとう!」
「本当!? 五〇〇〇円払って良かったよ!」
正文くんの方を見ると、やれやれとうなだれて首を横に振っていた。もちろん、知里ちゃんは気にしていない。その光景が面白く思わず吹き出してしまった。
桐人が食べ終わってから私も食べたが、プリンの概念が崩れるほどの美味しさだった。
プリンを食べ終わると愛さんが気を遣って病室を出て行き、四人だけになる。いつも気を遣わせて申し訳ないが、四人で遊ぶという約束を知里ちゃんとしたため今日も甘えることにした。それでも親子の時間を割いていることには変わりないので、お昼には帰ろう。
愛さんがいなくなり一瞬静かになったが、知里ちゃんが思い出したかのように明るく話し始めた。
「それにしても二人の出会い方、ロマンチックでいいよねぇ。まさか長野くんが宅間って名字だったなんて思わなかったよ」
桐人は苦笑いしてから言った。
「あぁ。オレが宅間だった時の話はさ。なんかタブーみたいなになってたからな。違う小学校だった田中さんが知らなくても無理ないよ」
桐人が小学生の時にいじめられていたことは、結果として知里ちゃんも知っていた。さすがの知里ちゃんも察してしまったようで、ちょっと気まずそうな顔をしている。すると正文くんが俯きながら重々しい声で言った。
「昔はおまえに酷いことしたよな。あの時は本当に悪かった」
「え? そうだっけ? マジで忘れた」
あっけらかんと桐人は言ったが、それでも正文くんの声は重みを失わない。
「おまえが忘れても俺は覚えてるよ。俺さ、高校卒業したら警察官になって人の役に立ちたいと思ってるんだ。酷いことした分、今度は人の役に立ちたくてさ」
桐人はうれしそうだが、どこかニヤニヤとしていた。
「マジか。それならオレも殴られた甲斐があったな」
「なんだよ。覚えてるじゃねぇかよ」
正文くんの声からすっかり重みが消えていた。気がついたら二人とも笑い合っていて、過去になにがあっても、今はいい友達だってことがよくわかる。本当に連れてきて良かった。
それから四人での会話は盛り上がり、あっという間に帰る時間だ。
「もうお昼だし、そろそろ帰るよ。勝手に二人を呼んでごめんね」
私に続き知里ちゃんも言った。
「勝手に押しかけてごめんなさーい」
「騒がしくてすまなかった」
正文くんも謝ると、桐人は首を横に振った。
「驚いたけど、二人の顔見られてよかったよ。病気のこと隠していてごめんな」
「全く。こんなになるまで隠しやがって。どうせみんなに心配かけないためだろ? こんな時にカッコつけやがって。治ったら許してやるから、さっさと治せよ」
桐人はもう助からない。そんなことは正文くんも知っている。一体、どう言う気持ちでこんな言葉をかけたのか私にはわからないが、桐人はすごく満足そうだ。
「治ったら土下座でもなんでもしてやるよ。あとさ、ちょっとハルカちゃんと二人で話したいことあるんだよね」
「土下座、楽しみにしてるからな。わかった。知里、先に行こう」
「うん。じゃ、お先に」
「おぅ。二人とも、またな」
正文くんと知里ちゃんは病室から出て行き、二人きりになった。なんだか息が出来ないくらい空気が重苦しい。一体、桐人が話したいこととはなんだろうか。私の方から聞いてみた。
「どうしたの」
いつになく真剣な顔で桐人は言う。
「正文との約束が果たせなかった時だ。お願いしたいことがる」
約束が果たせなかった時、つまり桐人が死ぬ時の話をしている。きっとこれが桐人の最期のお願いになってしまうのだろう。もっと取り乱すと思ったが、不思議と落ち着いていた。
「なに?」
「オレの一部で構わない。ハルカちゃんと出会ったあの丘にある木の下に、撒いて欲しいんだ」
私が力強く頷くと、桐人は安心したように微笑んだ。
「ありがとう。オレがいなくなって前を向いて生きて欲しい」
「そんな……いなくなるなんて言わないでよ」
目が急に潤む。このままだと感情が溢れてしまいそうだ。桐人がいない未来なんて、考えたくない。すると桐人は温かい声で言った。
「すまなかったな。オレはいなくならないよ。形を変えるだけだ。辛くなったらいつでも会いにきてよ」
「え? どこにいけばいいの?」
突拍子もない言葉で、溢れそうな感情が堰き止められる。
「もちろんあの丘だよ。ハルカちゃんに似合う景色を作って待ってるからさ。来るのは辛い時だけな。景色を作るのには時間がかかるからさ」
「ありがとう……」
いつでも来て欲しいと言ってしまうと、私はどこへも行けなくなってしまう。そう思って桐人は辛い時だけ来るように言ったのだろう。
これ以上いると桐人の優しさのせいで泣いてしまいそうだ。一番辛い思いをしている桐人の前で泣き顔を見せたくなかったので、病室を後にした。
知里ちゃんと正文くんは廊下で待ってくれていた。
「おかえり、ハルカっち」
「うん。行こうか」
三人とも言葉を発することが出来ず、無言で病院の建物から出る。ゆっくりと歩き、そろそろ敷地から出そうになった時だ。
知里ちゃんが歩みを止める。私と正文くんは何事かと思い見ると、知里ちゃんは大声で泣き始めたのだ。
「ごめんねハルカっち。ごめんねぇ!」
「ど、どうしたの知里ちゃん?」
「私、ハルカっちにも長野くんにも……なにもしてあげられない。親友と親友の彼氏が一番辛い時になにも出来ないなんて嫌だよぉ」
すると、正文くんが落ち着いた声で言った。
「知里、頑張ったな。本当はおまえも辛いのに一生懸命明るく振る舞ってるの、俺にはわかったよ。桐人の奴、きっとおまえの明るさに救われていたと思うし、俺もおまえから力貰えたから、桐人といつものように接することができた。おまえのおかげだよ」
「正文ぃ!」
知里ちゃんは正文くんに思い切り抱きついた。正文くんはしっかりと知里ちゃんを受け止める。その目はまるで桐人が私を見ている時のようだ。
「私も知里ちゃんにはたくさん救われたよ。だからもう泣かないで」
「ハルカっちぃ!」
今度は私に抱きついてきた。勢いがすごくてちょっとよろけてしまったが、なんとか持ち堪える。私は本当に素敵な人達に恵まれた。できることなら、もっと四人で会いたい。
だが、知里ちゃんと正文くんが桐人と会うのは、今日が最期になってしまった。
――その連絡は英語の授業中に愛さんから来た。
『桐人の目が灰になった』
それはもうすぐ桐人の命が終わることを意味している。
『すぐに向かいます』
返事を送ると一心不乱に机の上を片付けた。斜め前の席に座っている男子が不思議そうに私をチラチラ見ているが、そんなことはどうでもいい。
「先生、トイレに行ってきます」
この学校に入って以来、授業中に初めて声を出した。それも自分のものとは思えないくらい大きな声だ。クラスの視線が私に集まる。
「あ、ちょっと日下部……」
英語の先生はなにか言いたそうだったが、鞄を持ち走って教室を出た。トイレではなく帰ろうとしているのは誰が見ても明らかだ。もし、先生に追いかけられたらすぐ捕まってしまうが、それでも自分にできる最大限のことをするしかなかった。
廊下を走るとこんなに早く下駄箱まで着くと思わなかった。まだ先生が追ってこないので急いで靴を履き替え、駅に向かって走る。
元々体力に自信がなかったので、学校の敷地を出て少しするとバテてしまった。だが、止まるわけにはいかない。自分に出来る最大限の速さで動き続ける。
すると、運が良いことに空車のタクシーが来たのだ。手を挙げると私の前で停まったので、タクシーに乗り込むとすぐに言った。
「梶永医科大学までお願いします! できる限り早く!」
「わ、わかりました」
タクシーの運転手さんは私の勢いに引きつつも、緊急事態だと理解してくれたようだ。大通りをほとんど使わず、裏道で梶永医科大学附属病院の前まで着いた。
すぐにお金を払い、受付まで走り込む。危篤の時に家族ではない私が入れてもらえるのか、この時になってやっと疑問に思ったが、いつものようにすんなりと入れてもらえた。桐人の病室まで駆け上がり、ドアを開ける。
「桐人!」
私の大きな声に、病室にいる人たちが一斉に振り向いた。今日は桐人と愛さんだけではない。男性の医者と女性の看護師もいる。いつもの違うのはそれだけではなかった。昨日までは部屋になかった心電図を表示する機械がベッドの隣に置かれていて、ピッピと規則的に鳴っている。まるで桐人の命を表す波音のようだ。
最初に声を発したのは医者だった。
「君が長野くんの彼女さんだね。ちょっと話したいことがあるから一旦、部屋の外に出よう」
「は、はい」
私は医者と一緒に廊下へ出ると、ゆっくりとした口調で言った。
「もう時間がないから、手短に言うね。長野くんは助からない。しかも灰になってしまう。君はまだ若いし、トラウマになってしまう恐れがあるから見て欲しくないんだ」
そんなことを言われても、言うことは一つしかない。
「私は最期まで彼のそばにいたいです」
医者は力強く頷いた。
「わかった。長野くんのところに戻ろう。もし君の心になにかあったら僕が全責任を取るよ」
「ありがとうございます」
すると医者はもう一つだけ言った。
「長野旅行の件については悪かったね。僕もこんなに早く灰化が起きると思わなかったんだ」
「先生はなにも悪くないですよ。桐人のために今までありがとうございました」
そう、先生はなにも悪くないのだ。医学の知識と技術があってなにかをできる分、素人の私よりも無力感に苛まれているかもしれない。
「やっぱり、桐人くんが言っていた通り優しい子だ。さぁ、行くよ」
「はい」
医者が病室のドアを開けてくれたので、すぐに桐人が寝ているベッドに近づいた。桐人は目を閉じており、天井を向いている。もう首が動かないのだろう。
「桐人、私だよ。ハルカだよ」
「知ってる。さっきオレの名前呼んでたからな」
その声はあまりにも弱々しかった。だけど間違いなく桐人の声だ。
桐人に言いたいことはたくさんあるはずなのに、なにも言葉になってくれない。こんな時なのに私はなにをしているのだろうか。すると、また桐人が話し始めた。
「そうだ。なんであの丘で難病カード落としたか、ちゃんと話てなかったな」
確かに言われてみると、懐かしいからあの丘に行ってそこで落としたとしか聞かされていなかった。でも一体、なぜこんな時にこの話をするのだろうか。
「色彩灰化が起きてさ、じいちゃんみたいにオレも自殺しようと思ったんだよ。どうせ死ぬなら、大好きなハルカちゃんと出会ったあの丘の頂上が良いと思って、あの丘に行ったんだ」
桐人が自殺しようとしていたなんて、全く思わなかった。病気について妙に明るく言っていたのは、もしかしたら少しでも辛い現実を感じないようにしていたからかも知れない。今更になってやっと気がついた。
苦しそうに呼吸を整えて、桐人はさらに話す。
「だけどな、ハルカちゃんの顔が浮かんで死なねくてさ。そしたら段々病気になったことが悔しくなって、腹いせに難病カードを捨てて帰ってきちまった。でも、今は病気になって良かったとすら思ってるよ」
「え……なんで……」
「病気になったおかげで、またハルカちゃんと仲良くできたからね。短い間だったけど本当に楽しかったぞ。今までありが……」
桐人は口元がニコリと微笑む。
最初は頭からだった。髪の毛がみるみるうちに白い灰へと変わってく。髪の毛の全てが灰に変わると、砂のマネキンが崩れるように桐人は原型を失った。ピーという機械音と愛さんの悲鳴が病室に響く。
愛さんはそのまま泣き崩れた。
「ごめんね、ごめんね、桐人。私のせいで……私のせいで……」
愛さんのことを見ていられず、すぐに寄り添った。
「そんなことないですよ!」
必死で愛さんに言葉をかける。高校生の言葉では息子を失った親の悲しみになんの効果もないかも知れない。でも、大好きな桐人を産んでくれた愛さんを放ってはおけなかった。自分の悲しみを放っておいてまで、愛さんのそばにいたかったのだ。
『私も楽しかったよ。ありがとう』
その言葉を桐人に伝えられないまま、全ては終わった。
でも、桐人にある言葉を言わずに済んだのは不幸中の幸だったのかもしれない。
二〇一七年 十一月一日 水曜日
長野桐人 永眠(享年十七歳)
――二〇一七年、十一月四日、土曜日。
桐人のお通夜が行われた。
本当だったら桐人と長野旅行をしていたはずの日だけれど、昨日も今日も全国的に雨が降り止まない。いずれにせよ、星は見られなかったのだ。
私は親族の席に座っている。告別式親族のみで行うため、せめてお通夜は桐人の傍にいて欲しいと愛さんからお願いされたのだ。
線香の香りが充満したセレモニーホールに、お坊さんのお経が響き渡る。だけど、柩の中に桐人はいない。灰になってしまった桐人は、病気の研究のため国に引き取られてしまったのだ。これでは桐人とした約束を果たせない。
本人不在のお通夜で段々誰のためにやっているかわからなくなってきたが、それでも様々な人が桐人のために焼香をしていく。
教師達が入ってきて、その中に担任の先生がいた。先生は私をしっかり見て頭を下げたので、私も同じように下げる。
授業を途中で飛び出した私は当然、担任から職員室に呼び出された。停学処分くらいは覚悟していたが、桐人の病気のことも私と桐人の関係も教師の間で共有されており、今回だけは特別に厳重注意だけで済まされたのだ。先生には感謝しかない。
教師達に続いて、桐人と同じクラスだった特別選抜の生徒達がお焼香に来た。思ったよりも泣いている生徒は少なかったが、決して薄情だというわけではないだろう。あまりにも一緒に過ごしすぎて、きっと実感が持てないだけだと思う。現に、今の私がそうだからだ。
特別選抜クラスの生徒が終わると、今度はバラバラの制服を着た高校生達が来た。桐人と同じ中学出身の人達だ。その中には私と同じ小学校だった人もたくさんいて、親族の席にいる私に不思議そうな顔をする人や驚く人もいる。すると、見知った二人がやってきた。
知里ちゃんと正文くんだ。二人とも学校の制服を着ており、知里ちゃんは髪を黒くして化粧も控えめにしている。こうやって見ると小学生の時とあまり顔が変わっていない。
二人がお焼香を終えた時だ。知里ちゃんはすぐに歩こうとしたが、正文くんは一歩も動こうとしなかった。知里ちゃんは正文くんの隣に戻り、お経で消えてしまいそうなくらい小さな声で言う。
「大丈夫?」
正文くんは俯き、肩が震えた。
「桐人ぉ!」
正文くんは大声で泣き、言葉にならない言葉を叫び出したのだ。それは時折「ありがとう」とも「ごめんな」とも聞こえた。正文くんの泣き声にこだまするように、会場から啜り泣く声が聞こえてくる。知里ちゃんは涙を流さず正文くんの頭を撫でると、手を繋いでセレモニーホールを後にした。
桐人の遺影を見る。
その美しい笑顔はまるで絵のようだった。ここに桐人の顔があるのに、桐人はここにいない。それでも、正文くんの叫び声なら世界中のどこにいても届く気がする。
私の思いは桐人に届くのだろうか。いや、きっとまだだ。私にはやることが残っている。
桐人との最期の約束を果たさないと。お葬式が本当の意味で終わるのはそれができてからだ。