――二〇一七年、十月二十一日、土曜日。

 『明日のお昼、二人が初めて会った場所に来て』

 長野くんに直接言ったのは昨日だ。
 メッセージは変わらず既読にならないので、読んでもらえない可能性が高し通話も厳しいだろう。そうなると直接言いに行くしかなかった。だけど学校にいる長野くんは友達といることが多く、話しかけるタイミングが全くなかったのだ。朝早く学校へ行けばまた二人きりで会えると思ったが、早朝も友達と登校するようになっていた。
 このままではもう、長野くんと二人きりで話せることは永遠にない。思い悩んだ私は昨日の放課後、友達と下校する長野くんを呼び止めて言ってしまったのだ。
 長野くんは私に話しかけられてかなり動揺した様子だった。長野くんの友達はなにが起こったのか理解できず不思議そうに私を見ていた。明らかに場違いな空気に耐えられなくなって、相変わらず弱虫な私は返事も聞かずに走って逃げてしまったのだ。
 長野くんはここに来ないかもしれない。
 急だったし他に予定が入っているかもしれないし、私のことが嫌いになってもう会いたくない可能性だってありえる。だけど私は待ち続けようと思う。きっと来てくれるなんて強く思えないけれど、それでも私は待ち続けたいのだ。
 遠くに人が見えた。
 ゆっくりと私に近づいて来る。もっと緊張して心臓が破裂するかもと思ったが、意外なほど落ち着いている自分がいた。次第にはっきりと誰だかわかる距離になっていく。
 長野くんだ。やっぱりそうだったんだ。
 いつもよりもオシャレな服装で、今日は荷物を持っていない。こうやって改めて見ると、本当によく整った綺麗な顔をしている。だけど俯いており、表情は暗い。
 私の前で、長野くんが止まる。

「来てくれてありがとう。こんなところに突然呼び出してごめんなさい」

 長野くんはゆっくりと首を横に振った。

「謝るのはオレの方だよ。ごめんね。ハルカちゃんとした約束破ったから、もうオレなんかが仲良くしちゃいけないと思ったんだ。だからメッセージすら読めなかった。でも今日はこうやって呼んでくれたし、これ以上約束を破りたくないからここまで来ただけだよ」

「自分のこと責めないで。治安が悪いって長野くんが言っていたのに、それでも私が行きたいって言ったからだよ。長野くんは私を守ってくれたから全然悪くない。むしろ長野くんを危険な目に合わせた私が悪いの」

 私が頭を下げる前に、長野くんは言った。

「そんなことないから、そっちこそ自分を責めないでくれ。オレがもっと賢く立ち回れたら、ハルカちゃんとした『暴力はしない』って約束、破ることはなかったし」

「その約束、この場所でしたよね」

 晴れた空の下、長野くんは大きく頷いた。

「……タクマくん。タクマくんなんだね?」

 丘に優しい風が吹き、一面に広がる草花と頂上に立つ痩せた桜の木がそっと揺れる。

「そうだよ」


 長野くんはうれしそうにニッコリと笑った。七年前に曖昧に交わした再会の約束は、今はっきりと果たされたのだ。
「ごめんね、気付くのが遅くて。でもあの時、なんでタクマって名乗ったの?」

「親が離婚する前でさ、宅間って名字だったんだ。日下部と同じくらいお洒落だろ?」

 唯一引っかかっていた謎も解け、丘に二人の笑い声が響く。そういえば宅間くんだった時もこうして楽しくおしゃべりしていた。もうこれで、昔から変わらないいつもの二人に戻れたのだ。

「でも、丘で会ってるって言ってくれたら良かったのに」

「言おうとしたよ。昇降口で会うよりも前にあいさつしたの覚えてない? あの時はめちゃくちゃ勇気出して話しかけたんだけど、ハルカちゃんめっちゃオロオロするんだもん」

「あ、あの時はごめんね。どうしたらいいかわからなくて」

「気にすんなって。オレだって元々自分に自信がない性格で、それ以上グイグイ行けなかったからね。なんか肝心な時に昔の自分になったというか……」

 確かにあの頃の長野くんはもっと弱々しい男の子で今とは全く違った。

「本当に昔と変わったよね」

「そうだな。自分に自信を付けたくて空手を始めて明るく振る舞おうと頑張ったら、こんな性格になっちまってついでに痩せちまった。おかげ次の学校ではいじめられなかったし、小六でこっち戻っても大丈夫だった。でも、よくオレが宅間だってわかったよね」

 映画を見に行った日、雨の中で考えたことを長野くんに話した。

「長野くんに自分の名前を言っていないことに気がついたの。もしかしたらメッセージアプリのアカウントに自分の名前が書いてあるかもと思って確認してたんだけど、『るーちゃん』としか表示されなかった。他の友達に私の名前を聞いて知ったのかなと思ったけど、誕生日まで知っていたからおかしいと思ってさ。誕生日もアカウントには書いてなかったし。宅間くんにだったら私の誕生日のこと話していたから、まさかと思って」

 全く知らない美人さんに傘をもらわなかったら、自分が名前を名乗っていないなんて考えもしなかった。あの傘は家までの帰り道でだけではなく、この丘に続く道まで導いてくれたのだ。
 長野くんは驚いて言った。

「あれ? 高校に入ってから名乗ってなかったっけ? また話せるようになったのがうれしくて、全く頭になかった」

 ちょっとオーバーなリアクションをする長野くんが面白くて、クスッと笑い声が漏れてしまう。

「それにしても私の誕生日、よく覚えていたね。」

「まぁな。着ていた服の色まで覚えてるよ」

「そんなとこまで?」

「うん。今日着ているような空色のワンピースだったよ」

 着ていた服までは覚えていなかった。そこまで覚えてもらっていてうれしいけれど、ちょっと照れくさいような恥ずかしいような気もする。すると長野くんは丘の頂上にある木を懐かしそうに眺めた。

「あれから毎日、丘に行ったんだけど結局会えなくてさ。そのままあの街に引っ越すことになったんだ」

「ま、毎日?」

 長野くんの視線は丘の頂上にある木から私に向けられた。その顔はちょっと恥ずかしそうにはにかんでいる。

「ま、まぁね」

「ごめんね。私、勉強が忙しくて時々しかこの丘に行けなかったんだ」

「いやいや。謝らなくていいぞ。そういえばさ、なんでオレが引っ越した街に行きたいなんて思ったの? ハルカちゃんから誘ってくれたことがうれしくて特に深くは聞かなかったけど、実は不思議に思ってたんだよね」

 やはり長野くんは納得していなかったようだ。この話をしてしまうと、正文くんとの約束を破ってしまう。でも、私の行動のせいで長野くんを危険な目に合わせてしまったのも事実なので、全てを洗いざらい話すしかなかった。

「正文くんのこと、怒らないで欲しいんだけどさ。長野くんに昔から好きな人がいるってこと聞いちゃったの」

「え? あいつ、話しちゃったの? まぁいいか。口が滑る時もあるだろうし。で、それがどう関係しているんだ?」

 少しだけ驚いたような素振りを見せただけで、長野くんは正文くんに対して微塵も怒らなかった。それよりも長野くんが住んでいた街に、私が行きたがった理由の方が気になるようだ。

「色々考えてね。長野くんは引っ越し先で好きな人に出会ったと思ったの。だからその街に行けば、その人の手がかりがあると思って……」

「なるほど。人探しってわけか。で、その人を見つけてどうするつもりだったの?」

「……その人と長野くんを再会させようと思ったの。長野くんが少しでも幸せに過ごせるようにさ。できれば、その人と結ばれて欲しかった」

 長野くんを前にして話すと、自分がしてしまったことの無能さに罪悪感が込み上げてくる。でもそれとは別に心が苦しみ始めていた。その苦しみをどこか愛しいと感じている自分がいる。

「オレのためにありがとうな。その気持ちがうれしいから、そんな顔するなよ」

「で、でも私……なにも出来なかったよ。長野くんのこと危険な目に合わせただけだったよ。私なんか……」

「ねぇ、ハルカちゃん」

 少し大きな優しい声で、長野くんは私の言葉を遮った。病気のことを話した時とは違うが、真剣な眼差しを私に向けている。

「な、なに?」

「まだ、オレが好きな女の子と再会させたいか?」

 胸が痛い。息が苦しい。心臓の音が丘にまで響きそうだ。長野くんを直視できずに俯いた。長野くんには幸せな人と過ごして欲しい。
 色々な感情を堰き止める。だけど私の心のダムにはもう既に穴が空いていたようだ。少しだけ溢れた想いは大きなうねりとなって溢れ出して、制御できなくなった。
 私は首を横に振る。

「ごめんね、長野くん。もう再会させたいって思えない」

「お? どうしてだ?」

 長野くんの方を向くと、興味津々に私を見ていた。もう覚悟を決めるしかない。自分の気持ちに嘘を吐くことは、長野くんさえも騙すことになってしまう。

「長野くんのこと、私が好きになったから」

 私は長野くんと一緒に過ごしたい。残りの命が少なくても、最期の瞬間まで一緒にいたいのだ。だけど、もうこれで本当に嫌われただろう。
 他に好きな人がいるとわかっているのに、告白するなんてもはや嫌がらせのようなものだ。走ってこの丘から逃げ出したい。でも、それはここへ呼び出す時にやってしまった。だから勇気を出してわかりきった答えを聞くしかない。
 長野くんは私に微笑んだ。
 誰よりも優しく、誰よりも温かく、誰よりも甘い。それでいて爆発してしまいそうな大きな思いを、内に秘めている。そんな表情のように感じた。

「なんだよ。今も再会させる気、満々じゃないかよ」

「え? 話、聞いてた?」

 表情と言っていることが噛み合っていない。一体、なにを言っているのだろうか。こんな時にまでからかわれてしまい、さすがにちょっとムッとした。それでも長野くんは私に微笑みかけている。

「オレがずっと好きだった女の子の名前、教えてあげようか?」

「う、うん」

 それはまるで、当たり前のことを言うようにあっさりしていた。

「日下部ハルカ」

 今、なんと言っただろうか。長野くんが私のことをずっと好きだった。聞き間違いか解釈の間違いではないだろうか。
 長野くんは続けた。

「信じられないって顔してるけどマジだよ。この丘で会った時からずっと好きだった。うちの学校に入ったのも、ハルカちゃんが附属にいるって知ったからなんだ。ハルカちゃんめちゃくちゃ勉強できるって聞いたからさ。とりあえず特別選抜クラス入っとくか思って気合い入れたら、気合い入れすぎてすれ違ったけどな」

 長野くんは自嘲するように笑った。一方、私は信じられない事実にただ驚くばかりだ。

「梶永医科大学が近いからうちの学校を選んだと思ってた……」

「まぁそれも理由の一つではあるけどね」

 さっきまでは笑っていたが、長野くんの表情が再び真面目なものへと変わった。和やかになっていた丘の空気が、一瞬にして張り詰めていく。

「……そう。オレは病人なんだよ。それももうすぐ死ぬ。オレと関わりすぎたせいでハルカちゃんを悲しませることもわかってた。それだってずっと悪いと思っていたんだけどね。だからオレが宅間だって今更言えなかったし、ずっと好きだったのに自分の思いを告げることも出来なかったんだ。自分には恋愛する資格なんてないと思ってさ」

 涙が溢れそうだ。
 だけど一番辛いはずの長野くんが泣いていないので、泣くわけにはいかなかった。もうすぐ死んでしまうという辛い境遇なのに、ずっと私のことを思ってくれていたのだ。

「長野くん、ありがとう。例え長野くんに恋愛する資格がなくても私は大好きだよ。無資格でも良いから、ずっとそばにいたいよ」

 長野くんは吹き出して笑った。

「無資格ってなんだよ。変なの」

 どうやらまた変なことを言ってしまったようだ。あたふたしている私に、真面目な表情に戻った長野くんは言い聞かせるように言った。

「……ハルカちゃん、マジでオレで良いのか? オレは死ぬんだぞ?」

 長野くんを失ってしまうという事実に頭が壊されてしまいそうだ。だけど、長野くんと一緒にいたいと思う気持ちが私を守ってくれている。
 丘の澄んだ空気を大きく吸う。
 少しだけ冷静になると、長野くんの事情とは重みが全く違うが私も同じような気持ちだと気がついた。好きだという気持ちはあっても、自分に自信なんてない。

「長野くんこそ、私なんかで良いの? もっと可愛い子はたくさんいると……」

「いや、いない」

 全てを言い終わる前に、長野くんは話を遮りはっきりと否定したのだ。

「オレにとってはハルカちゃんが一番だよ」

「え……そんな……」

 うれしいけど面と向かって言われるとやはり恥ずかしい。だけど頑張って長野くんから目を逸らさなかった。
 長野くんの口角がにっこり上がる。

「ハルカちゃんがあの時、『明日も生きるだけで良いと思う』って言ってくれたから今こうして生きてるんだよ。ハルカちゃんがいなかったら、多分丘の上で死んでたね。もし嫌じゃなかったら、オレの残りの人生は一緒に過ごしてくれよ」

 小学生の時、長野くんはこの丘まで自殺しに来ていた。確かに、私と会っていなければ気が変わって死んでいたかもしれなかった。それでも長野くんが若くして死ぬという運命を私には変えることができない。絶対的な運命に対してあまりにも無力だ。だけどこんな私でも必要としてくれるなら、その想いに応えたい。

「これからよろしくね……桐人」

「な、名前で呼んでくれた」

 桐人くんの顔が面白いくらい真っ赤になった。

「名前で呼べばこれから先どんな名字になっても大丈夫だと思ってね」

 真っ赤な顔のまま桐人くんは笑った。

「そうだな。それならオレが日下部になっても大丈夫だな。やっぱり長野より日下部の方がオシャレだ」

 桐人くんは十七歳で死んでしまう。だから私と結婚して私の名字を名乗ることは絶対にあり得ないだろう。それでも長野くんが日下部という名字を共有してくれた感じがする。

「そう言ってもらえると、私も自分の名字を好きになれるよ」

 丘には二人の笑い声が丘に響く。すると長野くんは丘の頂上にある木を見つめ始めた。

「ちょっとあそこまで行かない?」

「いいよ」

 なだらかな丘を二人で登っていく。
 もう一人ではない。私の横を長野くんが歩いてくれているのだ。歩く速さはゆっくりで、思ったよりも時間がかかってしまった。丘の頂上に着くと、長野くんは木に一度触れてから空を見上げて言った。

「ねぇ、長野県に行かない?」

「え? 今から?」

 長野くんは私を見て笑いながら言った。

「いやいや、さすがにそれは無理でしょ。次の検査の時、医者に行っていいか聞いてみるからさ。大丈夫そうなら長野に星を見に行こうよ」

 二人で一緒に観た映画のワンシーンが頭に浮かぶ。そうなるともう答えは決まりだ。

「いいね。絶対見に行こうよ」

「やった! 今から楽しみだ」

 長野県に行くなら確実に泊まりがけになる。親になんて言うかは全く考えていなかったが、それでもこの約束は固く交わしたのだ。
 もう、曖昧ではない。