――二〇一七年、十月十三日、金曜日。
 中間テストが終わり、帰り道を一人で歩く。
 あれから長野くんからの連絡はなく、テスト勉強どころではなかった。それでも知里ちゃんから誕生日に貰ったシャーペンを無駄にしたくなかったので、どうにかこうにか勉強してみたのだ。おかげでいつもと同じように、留年は免れたと思う。
 長野くんからの連絡がなくなっても元の生活に戻っただけだ。いや、知里ちゃんと仲直り出来ているから、長野くんと出会う前に比べたらむしろプラスになっている。そのはずなのに毎日が辛くて苦しく、知里ちゃんに愚痴を聞いてもらうことさえも億劫になっていた。
 一方、学校で見かける長野くんは相変わらず楽しそうだった。たくさんの友達に囲まれてキラキラとしていて、私一人くらいいなくなってもきっと大して変わらないのだろう。
 駅までの途中、カップルが目に入る。
 おそらく後輩だと思うけれど、幸せそうに手を繋ぎながら歩いていた。もし、長野くんと好きな人を再会させたらこんな風になっていたかもしれない。そんなことを考えると、いつも私を埋め尽くしているものが、グチャグチャに混ざり合って心をかき乱していく。
 長野くんの声。
 長野くんの顔。
 長野くんの言葉。
 長野くんとの思い出。
 長野くんの未来。
 長野くんへの感謝。
 長野くんへの後悔。
 長野くんへの正体不明の感情。
 辛くて苦しいのに、どこかでそれを強く求めている自分もいる。このままだと壊れてしまいそうだ。
 カップルを見るのをやめて、その横を早足で通り過ぎた。距離が離れた頃、またダラダラと力なく歩き始める。私にはこうやって一人で歩いている方がお似合いなのだ。
 改札を抜けた時、スマホが震えた。
 まさかと思い慌てて鞄を開けてスマホを確認すると、新着メッセージが一件入っていた。僅かな可能性に賭けてみて、画面をタップしてみる。
 ドリーム・シネマからのお知らせだった。
 長野くんからメッセージが私に来るわけがない。それでも期待してしまった自分が嫌になる。失意のままメッセージを読んだが、そこにはあることが書いてあった。
 気になっていたミステリー映画、今日公開だ。
 席にも余裕があり、今から行ってお昼ご飯を食べても間に合う。そういえば、長野くんと仲良くなれたのも気分転換にあの丘まで行ったからだ。気分転換になにかをすれば、もしかしたらまたなにか変わるかもしれない。テストも終わったから観に行くのも悪くないだろう。映画を観て少し元気になれたら、知里ちゃんに泣きつこう。
 帰りとは違う方向の電車に乗り、メッセージアプリを開く。

【お母さんごめん。今日お昼ご飯いらない】

 メッセージを送るとすぐに返事が来た。

【友達とご飯でも行くのかな。わかった】

 これで大丈夫だ。電車を乗り継いでドリーム・シネマの最寄駅に着いたので、駅ビルにあるお店でお昼ご飯を食べることにした。最初は上の階にあるお店で食べようと思ったけれど高校生が払うにはちょっと値段が高い。お昼ご飯を諦めようと思ったが、地下にメックバーガーがあったので、そこで済ませることにした。ファストフード店なら財布に優しい。
 ご飯を食べ終え、ドリーム・シネマの前に着いた。
 初めて来た時は見つけられず長野くんに教えてもらったけど、隣にはもう誰もいない。空はなんだか曇り始めて来ているが、このまま考えても私の心まで曇ってしまいそうだ。
 階段を降り扉を開け、ロビーの中へと入る。すぐに受付の前に行き、映画の名前と枚数を言って席を決めると、店員さんが言った。

「学生割引で一〇〇〇円です」

 制服のまま行ったためか、生徒手帳の提示は求められなかった。大人の料金に比べると確かに安いが、難病カードの割り引きよりは高い。これが本当の値段なのだ。長野くんがいるから優遇されていたことを改めて思い知らされる。空色の財布を鞄から出し、そこから出した一〇〇〇円札と映画のチケットを交換した。
 ロビーにはそこそこお客さんがいたが、運よく快適そうなソファーが空いていたので、座りながら開場を待つ。一人で待つ時間は異常なほど長く感じた。それでもちゃんとアナウンスされたので一つしかないスクリーンに行き、席に座る。
 上映前の時間もまた長かったが、館内は暗くなり予告が始まった。今回は残念ながら特に心惹かれるものがない。もしかしたら長野くんがいないと、自分は面白そうな映画すら見つけられないのかもしれない。
 本編が始まる。
 猟奇的なシーンもあったが、見応えのある映画だ。主人公の男性は大きな挫折をして自堕落な生活をしていたが、高校時代の親友が殺害されてから運命が大きく変わってしまった。何者かによって次々に同級生が殺害される事件を、主人公は孤立無縁で追っていくのだ。最後には犯人を特定し、事件を通して自分のために新しい夢も見つけて終わった。最初に殺された親友が生きていて実は犯人だったというオチには驚いたが、若干トリックに無理がある気もしている。
 場内が明るくなり、席を立った。
 ロビーに着いたが今日は話し相手がいないので、人の流れに沿いながら真っ直ぐ出口へと向かう。よく見ると傘を持っている人がちらほらいてまさかとは思ったが、出口から階段の前に出ると嫌な予感は的中してしまった。
 雨音が聞こえる。
 階段を上ると街は強めの雨に濡れていたのだ。これではビルから出ることができないので、とりあえず映画館から出る人の邪魔にならないところまで歩いた。みんな天気予報をしっかりと観ていたのか、傘を持っていなかったのは私だけだ。映画館から出てきた人達は傘をさして、帰り道へと歩いていく。私だけが取り残されたのだ。
 惨めだ。
 私、なんでこんなにダメなんだろう。さっきの映画の主人公はダメなところから這い上がったけど私には無理だ。なんにもできない。長野くんにだってなにもできなかったどころか、もう残りの時間も少ないのに嫌な思いをさせてしまった。
 長野くんだってあんな経験なかったことにしたいだろう。それなのに考えてしまっている自分が本当に嫌だ。どうすればこの想いは消えるのだろうか。死ねば消えてしまうのだろうか。そうだ。長野くんの代わりに、私が死ねたら良い。夢も希望もない私の寿命を、全て長野くんにあげられたら良いんだ。

「ねぇ。傘ないの?」

 女性の少し高い声が聞こえた。心配していると言うよりはただ聞いているような、どんな感情か全く掴めない声だ。おそらく私に言っていると思い、声がする方を向いた。すると、そこには思いもよらない人物が立っていたのだ。
 前回隣の席だった美人さんだ。
 この前のような地味な服装ではなく、知らない学校の制服を着ていた。通学鞄を肩に下げ、右手でビニール傘を持っている。なんと、二十代前半だと思っていたが、私と同じ高校生だったのだ。驚きのあまり声を失ってしまいそうだったが、必死に絞り出した。

「は、はい」

 すると表情一つ変えずに、彼女はビニール傘を私に差し出した。

「そう。それならこれ使いなよ」

 思わぬ申し出に狼狽えてしまった。

「え。でも、あなたの傘は……」

「折りたたみ傘が、鞄の中に入ってた。だからこれはあなたが使って」

 傘もなく死にたいと絶望していた私に、見知らぬ人がこうやって声をかけてくれた。戸惑いが全くないと言ったら嘘になるが、雨で寒いはずなのになんだか温まった感じがする。小学生の時、私に声をかけられたタクマくんも同じような気持ちだったのだろうか。

「ありがとうございます」

 美人さんは私に傘を渡すと、後ろを向いて鞄から折りたたみ傘を取り出したのだ。きっとこのままだと帰ってしまう。

「あの。ビニール傘、お返ししますので、連絡先を聞いてもいいですか?」

 肩まである綺麗な黒髪が横に数回揺れる。折りたたみ傘を開き、美人さんは駅とは違う方向に歩いていった。追いかけて連絡先を聞くわけにもいかないので、ただ見送ることしかできず、彼女とはその後二度と会えなかったのだ。
 雨の街をビニール傘をさして歩く。
 美人さんのおかげで濡れずにこの街を歩けるが、そんな恩人とはお互いに名前すら知らないままだ。それでもタクマくんに名前を聞いた時のように、連絡先を聞こうとしたのは私の大きな変化だと思う。昔の自分に戻ってマイナスがゼロになっただけかもしれないけれど、長野くんと出会う前の自分よりは大きく進歩している。
 少しだけ自分のことを許せた気がした。美人さんは傘をくれただけではなく、長野くんとの日々が無駄になっていないという実感もくれたのだ。やはり連絡先を交換してもう一度お礼を言いたい。お互いに名乗ることすら出来ていないままなんて本当は嫌だ。
 あれ。ちょっと待って。
 あることが急に引っかかった。どうだったのか思い出そうとして記憶を必死に手繰り寄せるが、全然思い出せずに駅まで着いてしまった。
 もしかしたらと思いスマホを確認してみる。だがそのせいで状況がさらにわからなくなるだけだった。そうなると他の可能性も考えてみるしかない。色々な記憶を手繰り寄せて、頭をフル回転させていく。
 まさか。でもなんでだろう。
 冗談半分で考えてみた突拍子もないことが、この状況を綺麗に説明できてしまったのだ。でも、前提となる条件が、かなりおかしなものになっていた。そうは言っても私の考えていることが正しかったら、やらなければいけないことがある。
 死にたいなんて思っている場合ではない。ここで動かなかったら絶対に後悔する。もしまた失敗したら、その時は知里ちゃんに泣きついてみよう。
 約束は守らないと。