この伽羅村は、古くから村外れの洞窟に住むという『龍神』により守護されていた。

 雨が降らず作物が枯れかけた時、山火事が起きてあっという間に人里まで火の手が回った時、井戸水が枯れ果てた時。漆黒の龍が空を舞い、雲を引き連れたちまち雨を降らせたそうだ。
 それからというもの、この村では毎年秋になると、龍神にその年の作物を供えるのが風習だった。

 けれど百年経つ頃に、龍神の力が弱まったと誰かが噂した。
 龍神の力を保持するには、嫁となる若い娘が必要だと。

 それから風習は形を変え、いつしか作物の他に五年に一度『龍神の花嫁』という名の生け贄を捧げることになったのだ。
 けれど誰も娘や近しい者を『神の嫁』とは名ばかりの生け贄になどにはしたくはなかった。
 そして村人は考えた。『最初から生け贄として育てれば、情も湧かないのではないか』と。
 そして今年も、生け贄を捧げるための、龍神の嫁入りの儀式が始まる。

「……花嫁よ、準備は出来ましたか?」
「はい……只今参ります」

 結われた長い黒髪に、村に不釣り合いな上質な絹の真新しい美しい白無垢。初めて紅を引いた唇は一文字に閉ざされ、今年の『龍神の花嫁』は生まれ育った社を出る。

 花嫁たる少女の嫁入り支度をしてくれた世話役の老婆は、いつかこの日が来ると知りつつも、本物の娘や孫に対するように彼女を大切にしていた。
 少女が恩に報いるように最後に頭を下げると、老婆は涙を堪えきれぬように目元を拭った。
 彼女は幼い頃に両親を亡くし、生け贄として一人社に身を寄せて、早十年。ついにこの日がやって来たのだ。

 嫁入りの儀は村の伝統だ。生け贄を送り出せば、村の責務は果たされる。前祝いと言ったところだろう。少女一人犠牲にするにも関わらず、まるで祝祭のように酒に御馳走にと賑わいを見せる村人達の見送りを背に、少女は震える手をそっと握り締めながら、龍神の住まうとされる洞窟へと向かった。

 白無垢に下駄、慣れない装いで長く険しい山道を抜け、すっかり日も沈んだ夜更けにようやく洞窟まで辿り着いた。龍神を奉る小さな赤い祠の奥にある洞窟は夜の闇より暗く、祠を境にぽっかりと世界に穴が空いているようだ。

「ほら、着いたぞ。龍神様はこの奥だ。俺達は、ここから先には入れん」
「……」

 花嫁が逃げぬようにとついて来た村人の男達は、彼女がその暗穴へと入るのを待った。しかし花嫁は小さく震え、涙を滲ませ立ち竦んでいる。

 それもそのはずだ、龍神の花嫁となれば、もう二度と村には戻れない。
 百年以上昔、実際に龍神の姿を見た者も、もう生きてはいない。
 龍神なんてただの伝承で、この行為にも意味なんてないのかもしれない。
 ずっと社で生きてきた少女一人で山道を戻る事など不可能に近いし、この洞窟の奥に待つのが、もしかすると冬眠を控えた熊かもしれないのだ。
 それでも、村の因習からは逃れられない。男達は憐れな少女へとせめてもの言葉をかける。

「すまんな。これも村のためだ、わかってくれ」
「お前さんが立派に嫁いだと、村長にも、世話役の婆様にも伝えておくからな」
「……はい。ありがとうございます……私、龍神様の元で、幸せになりますね」

 男達の言葉に、花嫁は健気にも恨み言ひとつ吐かずに頷いた。そして暫く打ち震えた後、その明かり一つない洞窟へと、そっと足を踏み入れた。

 振り向くこともなく、あっという間に暗闇に飲み込まれた花嫁。彼女に不釣り合いな紅の引かれた口元は、まるで三日月のように弧を描いていた。


*****


 洞窟の入り口が何やら騒がしい。夜半にも関わらず、幾つもの人の気配と声がした。微睡みから目を覚まし、暗闇の先へと意識を向ける。

「迷子、にしては洞窟の前で随分と元気な……」

 そこまで呟いて、ふと思い当たる。ああ、そうか。今年は生け贄の年か。
 村の人間は信心深い。毎度律儀に若い娘を送ってくるのだ。しかしまあ、人間の娘が欲しいなど、俺は一度たりとも言った覚えはないのだが。

 前に来た生け贄は、俺に会った途端恐怖からか気を失い、固い岩肌に頭を打ってそのまま死んでしまった。
 その前の生け贄は、俺に会う前に洞窟から逃げて、村に帰ろうとして遭難したか熊に食われたか、ついぞ戻って来なかった。
 その前のは、俺に会う恐怖に耐えかねてか、洞窟からすぐの所で暗闇の中舌を噛んで自害していた。
 今年のは、せめて死んでくれるなと願うばかりだ。

 洞窟の入り口付近の気配が消えて、どれ娘を迎えに行くかと立ち上がったが、ふと違和感を覚える。
 暗い道程だろうに、一度も迷ったり転んだりする気配もなくこちらへと向かってくる足音に、思わず動きを止めた。僅かに警戒しつつ、感覚を研ぎ澄ます。
 向かってくる足音は小さい。武器の音や敵意も感じない。やがてひょこりと顔を覗かせたのは、まだ幼い少女だった。

「!」
「……お前が、今年の生け贄か」

 花嫁の装いをしているが、まだ十かそこらだろう。幼い顔立ちに、細い体躯。上質な絹とめかしこんだ紅は見るからに不釣り合いだった。そんな少女は俺の顔を見るなり、可哀想なほど震えて、大きな瞳に涙を溜める。

 過去の経験から学び、せめて怖がらせぬようにと人の姿を真似て出迎えたものの、時間が足りず肌の所々に黒い鱗は残るし、尖った角も長い尻尾も消せなかった。見る者によっては、人間の紛い物だと逆に怖がられるかもしれない。

 やはり駄目だったかと、また生け贄が死ぬ姿を見ぬよう背を向けるが、少女は何を思ったか向けられた尾を目掛けて思い切りタックルして来て、その衝撃に思わずつんのめる。驚いて振り返ると、少女は俺の長い尾に抱き付いていた。

「な……っ!?」
「龍神様、あなたが龍神様ですね!」
「そ、そうだが……」
「ああっ、ようやくお会い出来ました……私、今日からあなたの花嫁です!」
「……、は?」

 生け贄達が白無垢を着ているとは、気付いていた。しかし村の意向で送られるのだ、何なら死装束の豪華版かと思っていた。
 そう、生け贄が俺の『花嫁』だとは、今この瞬間まで微塵も思っても居なかった。そもそもそれを聞く前に、いつも生け贄は死んでいたのだ。

「……はな、よめ?」
「花嫁です」

 食い気味に即答され戸惑う。というか、五年に一度も花嫁を送るとはどういうことだ? 五年毎に嫁を変えるような飽き性だと思われているのか?

 予想外の出来事に思考が纏まらず、思わず尻尾が揺れる。すると少女は振り回されて、その細い身体はあっという間に地に投げ出された。

「わあ!?」
「……! すまない、死んでないか!?」
「あはは、死んでません死んでません。私、こう見えて頑丈ですから!」

 ややあってむくりと起き上がり、力瘤を見せ付けるようなポーズをした少女に、それは違う気がすると思いながらも一息吐く。
 しかし、少女が先程震えて泣きそうな顔をしていたことを思い出し、空元気なのではないかと様子を伺う。とりあえず、この少女は俺と会っても死ななかった。話が通じるかもしれない。

「……花嫁とか言ったな」
「はい!」
「ならば離縁だ、出て行け」
「えっ!?」
「ああ、だか……今出ても暗くて山で迷うだけか……今夜は泊めてやる、朝日が昇ったら出て行け」
「そんな、何でですか!? 私、あなたに嫁ぐために……」
「何でもだ。嫁など要らん。歴代の生け贄は皆死んだ、お前も死にたくはないだろう」

 追い出されまいと再び尾にしがみついた少女の動きが、ぴたりと止まる。
 そうだ、それでいい。怯えて出て行って、そのままどこかで生きればいい。
 けれど予想に反して少女は顔を上げて、煌めく笑顔を見せたのだ。

「本当ですか!? じゃあ、あなたのお嫁さんは私だけですね!」
「……は? いや、ひとの話を聞いて……」
「ふふっ、神様は一夫多妻とか良くあるから、心配してたんですよね。良かったあ!」
「お、おい……」
「私が、龍神様の初めての花嫁かぁ……えへへ」

 駄目だ、全く話を聞かない。
 嫌々生け贄になったんじゃないのか? 生きて逃げられるのなら、そうするのが普通だろう。けれど俺の機嫌取りの為に嫁という立場を肯定している訳でも無さそうだった。

 全くもって意味がわからない。どうにか少女を諦めさせようと、今度は別の方向から断ってみることにする。
 なんだって、神の方からこんなに必死になって生け贄を断らないといけないんだ。

「お、俺には、既に心に決めた奴が……」
「え、誰ですか? どんな人ですか? もしかしてかつての生け贄ですか?」

 圧が強い。とてもじゃないが、人間の少女の圧じゃない。思わず怯みそうになりつつも、僅かに顔を背けて言葉を続けた。

「……百年くらい前に会った、他所の神だ」
「それって、山の反対側の祠の、白い狐の……?」
「ああ、そうだ……、って、ちょっと待て、なんでお前がそいつを知っている?」

 これだけは、ただの言い訳ではなかった。百年も前に、山でたまたま一度会ったきりの、美しい白狐の神。恋までとはいかずとも、百年間その姿を忘れたことはなかった。

 俺が村人から神としての信仰を集めすぎたせいで、相対的に狐の神は力を失ったと聞いてから、俺の村への加護も弱まってしまったが……まさかその原因が村人にも知れ渡っていたのだろうか。それならば、少女が知っていたことにも納得がいく。

「ああ、それは……私がその白狐だからです」
「……は……?」
「やだもう、両想いですね! ふふ、あなたに嫁ぐために、わざわざ人間に転生した甲斐がありました!」
「……、え、いや……はあ!?」

 予想外の言葉の連続に、頭が追い付かない。思わずまじまじと少女を見詰めると、照れたように頬を染めた。

「龍神様に若い娘が必要だと噂を流してから早百数年……いやあ、ようやく嫁げたんですもん、感無量で泣きそうになっちゃいました!」
「いや、ちょっと待て!? お前が、あの白狐……?」

 かつて焦がれた白く美しい狐と、目の前の少女。見た目も雰囲気も、似ても似つかない。けれどその意思の強い真っ直ぐな瞳には、覚えがあった。

「はい! ……恋患いでうっかり神様業も疎かになって、力を完全に失う前に人間に慌てて転生する手筈を整えたんです」
「こい、わずらい……? 俺のせいじゃ、なかったのか?」
「いやまあ、恋患いの相手はあなたなので、原因はあなたではありますけど……自業自得というか?」

 自分のせいで彼女の存在が消えてしまったと、何度自分を責めただろう。村への加護を弱めても、信仰が白狐に戻ることはなかった。生け贄が来始めたのも、確かにちょうどその頃だ。
 しかし、彼女の失踪の原因は、信仰云々ではなく、恋患い……?

「大変だったんですよ、転生って中々上手くいかなくて。男の子に生まれた時は女装すればいけるかなって頑張ってみたり、人間になれない時もあったし……でも、やっと念願叶ったんです!」
「……。そこまで苦労して、人の身に下って……神としての存在に、未練はないのか?」
「そりゃあ勿論。あなたと永く同じ時間を生きられる神様も捨てがたかったんですけど……神様は例外的なことがないと、自身の社を出られない。自由に中々会えないじゃないですか!」

 少女の瞳には、迷いはなかった。ただ一度出会ったあの日と同じ、心を揺らす美しい瞳。

「確かに、同じ山に居て、会えたのはあの時ただ一度きりだったしな」
「ええ、だから私、決めたんです。……あの日からずっと、あなたをお慕いしておりました……あなたに嫁ぐために、人間に生まれ変わったんです」

 少女の言葉を聞いて、初めて心に燻っていた熱に、名前がついた。百年忘れられなかったこの気持ちの正体。気付けばこんなにも、簡単なものだったのか。思わず笑みが溢れると、久しぶりに活動する頬の筋肉が僅かに痛い。けれど、笑いが止まらなかった。

「……、ははっ。こんな女だとは、思わなかった」
「えっ、も、もしかして……嫌いになりましたか!?」
「いや、その逆だ」

 戸惑う少女の小さな身体を抱き上げて、額同士を重ねる。至近距離に見た瞳に映った俺の顔は、今まで見たことのない笑みを浮かべていた。

「今日からよろしく頼む、俺の花嫁」
「……っ、はい!」


*****


 こうして洞窟に住む漆黒の龍神と元白狐の花嫁の百年越しの恋は、嫁いだその日に成就した。

 また五年後に新たに嫁いで来る新しい生け贄の娘を狐の花嫁が全力で威嚇したり、村に訪れた危機のために龍神が頑張ったり、百年前に出会った日のことをふたりで思い返したり。
 神様と元神様の初恋同士の新婚生活は、これからも続く。