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僕の言葉に安堵したのか、彼は静かに頷くと日用品を置き、花瓶に花を生けると病室を後にした。自分以外誰もいなくなった病室は、恐ろしいほど静かで——。
(……早く帰りたいな)
僕は僅かに感じる倦怠感に無理矢理身を任せるよう、寝返りを打つと目を閉じた。まるで、現実から少しでも遠くへと逃げるかのように。

それから更に数日が経過した。リハビリの経過も良好、怪我もすっかり山場を越えた。点滴は外れ、明日から松葉杖だと言われた時には思わず「おかえり」と返してしまった。利き手である右腕は未だくっついていないので生活に安定感はないものの、もう自宅での療養でいいと医者からの許可を得た僕は凡そ一か月ぶりの家でくつろいでいた。
「はい、あーん」
「……その掛け声、どうにかならないのか?」
「なりません」
ほらと急かされるまま、僕はぎこちなく口を開ける。強い口調とは別に優しく入れられた匙から食事を口に含んだ僕は、満足そうな顔をする妻を眺めながら咀嚼を繰り返した。そんな彼女に、僕はむず痒い気持ちになり、視線を逸らした。――確かに約束を違えたのは自分の方だが、何もここまでしなくていいのではないだろうか。
(なんて言ったところで、却下されるんだろうけれど……)
事故に合ってからというもの、いつもより過剰にこちらを気にするようになった妻に、罪悪感に似たものが込み上げてくる。とはいえ、やはりこれはやりすぎではないだろうか。そう感じたところで、インターホンが家に響いた。久々に聞く音に反応が遅れる僕を置いて、妻は匙と茶碗を置くと「出てきますね」と一言添えて玄関へと向かった。
僅かに聞こえる話し声に、どうやら知り合いであることがわかる。二人分の足音が聞こえ、戻って来た妻の後ろに居たのは親友でもあるちゅう秋だった。
「おや。珍しいじゃないか。僕の家にちゅう秋が来てくれるなんて」
「たまにはいいだろう? それとも、お邪魔だったかい?」
「いや、そんな事はないさ」
にやりと笑みを浮かべた彼に間を置かず言葉を返せば「つまらんな」と拗ねた声で言い返された。しかし、そんなもの長年の友人に通用するような手ではない。僕は妻に茶の用意を頼むと、ちゅう秋に正面の椅子を指した。座る彼を見て、僕は笑みを浮かべる。