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少し間を置いた彼は、こちらの問いの意図に気が付いたのか、くすりと一つ笑みを零す。そしてふるりと首を横に振る。
「いえ。偶然ですよ」
「えっ」
「いつだったか、彼女がこの店にお客様と二人でいらしたんです。その時に気に入ってもらったみたいで」
「それから時々」と言う朴念仁の表情はどこか優し気で。僕はやはり彼は優しい人間なのだと再認識した。彼の一言で聞きたい事のほとんどが解決してしまった僕は、珈琲を啜るとほっと息を吐く。ここの珈琲は渋みが強く、僕の好みに合っていた。酸味が強い珈琲はどうも好きになれないのだ。その事を朴念仁に告げれば、嬉しそうに微笑んだ。
「それは嬉しいですね」
嘘偽りのない笑みに、こちらも心が晴れやかになる気がした。執筆でも始めようかと道具を出すべく鞄を漁っていれば、ふと朴念仁が「あっ」と声を上げた。反射的に顔を上げれば、朴念仁がこちらを伺うように見ている。……何かあったのだろうか。
「あの、すみません。一つだけお伝えしようと思っていたことがあって……」
「伝えること?」
「はい。土鳩事件の事です」
次の瞬間、告げられた言葉に思わず目を見開く。——まさか彼からその話をされるとは。
(何か新しい情報でも手に入れたのだろうか?)
逸る気持ちを抑え、僕はじっと朴念仁を見つめる。彼はこちらが聞く姿勢になった事に気が付いたのか、周囲を見回すと先程よりも少し声のトーンを落として話始めた。
「実は、思い出したことがありまして」
「思い出したこと?」
「ええ。神社によく来る彼女に付きまとっていた男性についてです」
彼の言葉に、肩が跳ねる。予想外の人物の事に少しばかり心臓が震えるが、気づかれないよう慌てて心音を落ち着ける。体が震えているのは、気のせいだろう。きっとそうだ。
「……もしかして、あの男前の?」
「はい。今思い返してみれば、その人が初めて神社に来た頃と土鳩事件が始まったのがほとんど同じタイミングだったんです」
「何だって⁉」
「お、落ち着いてくださいっ」
「あ、嗚呼。す、すまない。つい興奮してしまった」
立ち上がってしまった腰をゆるゆると落ち着ける。しかし、頭の中では事件の事が次から次へと過っていた。事件の発生当初。事件現場。事件の発生頻度、エトセトラ。
(あの男が来てから、土鳩事件が……つまり、あの男が犯人である可能性はこれで高まったわけだ)