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僕は妻の手をしっかりと握り締めると、他愛のない話を始める。道端で土鳩と目が合ったとか、供えられていた花が綺麗だったとか。そんな、他愛もない事をつらつらと。次第に落ち着いてきたのか、妻は「ふふっ」と笑みを浮かべると続けて言葉を返してくれるようになった。そんな小さな事が嬉しくて。
(僕にはやっぱり……守るべき人がいる)
それはきっと、天使じゃないのだろう。わかっている。……わかっている。
天使の顔を思い出す度、心に重いものが圧し掛かるような気がして。僕はそれを押し込めるように胸元を摩った。コンコンと聞こえるノックオンに、妻が立ち上がる。扉を開ければ、そこには黒いスーツに身を包んだ人たちが立っていた。病院に黒いスーツなんて縁起が悪いなぁなんて思いつつ、僕はぎこちない笑みを浮かべた。視線の先は――心配そうな顔をした、妻。
「僕は大丈夫だから、売店にでも行っておいで」
「でも……」
「後で甘いものが食べたいんだ。帰りに買って来てくれないか」
妻の言葉を遮り、僕は言葉を続ける。迷った妻は少し考えこむと「わかりました」と言って病院を後にした。彼女の小さな背中を見送り、僕は警察の人と顔を合わせる。
「すみません。こんな姿で」
「いえ。こちらこそこんな大変な時に押しかけてしまって、すみません」
「いえいえ。それで……犯人の事ですよね?」
「ええ。それと、差し支えなければどうして暴行にまでなってしまったのか、その経緯を」
「わかっています」
どうぞと来客用の椅子を指し示し、座るように促す。迷ったようだが引かない僕の対応に、彼等はゆっくりと腰を下ろした。若い刑事は緊張しているのか、少し顔が強張っている。それを微笑ましく思いつつ、僕は記憶を掘り起こしながら彼等に正直に話した。自分から手を上げてしまったこと。相手は名前はわからないものの、知り合いである事も。
「なるほど。そういうことでしたか」
「すみません。大人げなかったと反省しています」
「確かに、怒りに任せて暴力を振るったのは褒められるべきことではありませんが、相手のしたことも許せるものではありません」
「ええ、そう思います」
「過剰な自己防衛は、凶器になります。つまり、今回の事件に至っては過剰防衛が成立するでしょう」
真剣な目で告げる警察に、僕は頷く。
(やっぱりか)
想定していた通りの展開になった事に安堵を覚えながら、僕はその時の彼を思い出す。