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思いもよらない暴言に、頭の奥でカチンっと金属音が鳴ったような気がした。――若いからといって、言っていい事と悪い事がある。
僕は肩に置かれている手をぐっと握り、ゆっくり下ろしてやるとあからさまに笑みを浮かべた。ぎょっとした顔をする青年だが、彼も負けじとこちらを睨みつけてくる。
「君。どこの誰だか知らないけれど、初対面の人間に対して随分と失礼なんじゃないのかい?」
「はあ? 本当のこと言っただけだろ。言われる方がわりぃんだっつーの」
「君ねぇ、そういう言い方は!」
「やだぁ~、いい男が三人もいるじゃなぁい」
「——は?」
今度は何なのか。甲高い声が媚びるような音色が鼓膜を叩き、思わず荒らげていた声から力が抜けていく。声のした方を見れば、そこには水商売をしている女性のイメージを固めた様な女性が一人、立っていた。大きく開いた胸元からはたわわな胸が惜しげも無く晒し出され、スタイルの出る真っ赤なドレスはいかにもと言わざるを得ない。短い丈のスカートからは細すぎる足が覗いており、ヒールで上げた足元は砂利が敷き詰められたここでは非常に歩きにくそうだ。
「ちっ。なんだよアンタ。ついてきてたのか」
「ひっどぉい! 情報提供したの、私よぉー? むしろ一緒に来るのが当然じゃなぁい」
「ハイハイ。わかったから、くっつくんじゃねぇよ」
くねくねと腰を揺らし、頬を膨らませながら青年に腕を絡ませる彼女に、彼は存外冷たく「しっしっ」と手を振った。女は不服そうに騒ぎ立てるが、青年の機嫌を損ねたくはないのか、ゆっくりと体を離して今度は神主へと絡み始めた。神主は僅かに距離をとりつつも、彼女を邪険にすることなく話に応じている。
(二人は知り合いみたいだけど、女は神主とは初めて会うみたいだな……)
突然出て来た二人の人物に、僕は観察から得た情報を頭のメモ帳に記録していく。女性はどうやらキャバクラで働く女性のようだ。風体がそう告げているし、何より距離の取り方なんかが持っている情報と当てはまっている。彼女にとって青年は良い客なのかもしれないが、どこか距離を置いているのを見るにあまり機嫌を損なわせたくはないのだろう。

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青年の方は天使にしか興味がないらしく、今も神主に詰め寄っている。見た目通りの人間なのだろうと予測を立てた僕は青年を『プレイボーイ』、水商売の彼女を『妖女』と呼ぶことにした。……会話の途中でなんだか名前らしき言葉も聞こえた気もするが、全く覚えられて居ないのだ。——許してくれ。
「それで、お目当ての彼女とは会えたのぉ?」
「いいや。どうやら休みらしい。使えねぇなぁ」
「えー、ざんねぇんー」
(よくもまぁ、そんな声が出るなぁ……)
どこから出しているのか疑問になるような猫なで声に、僕は苦笑いを浮かべる。あまり好ましく思えないが、人によっては好きな人もいるのだろう。……きっと。
妖女は簡単に青年と会話を終えると、神主の首に腕を回してその豊満な胸を押し付けた。たじたじになっている神主に、ご機嫌な笑みを向けている。どうやら彼女は神主を気に入ったらしい。それでも尚、紳士的に対応をしようとする神主に内心で僕は『朴念仁』というあだ名を付けた。三人の名前が決まったところで、僕はゆっくりと青年──プレイボーイへと視線を向けた。不機嫌そうな顔を隠さない彼に思い出すのは、ちゅう秋との会話。僕は深呼吸をすると、プレイボーイに声を掛けた。
「こ、この辺は物騒ですね」
青年は答えない。それどころか不機嫌そうに眉をしかめただけだ。僕は挫けそうになる心を叱咤して、話しかけ続ける。
「君は、その……彼女と仲がいいのかい?」
「あ? 誰の話だよ」
「ほら、よくここに来ている……」
そこまで告げれば、男は見るからに驚いた顔をする。自分以外にも知っている人間がいた事に驚いたのか、それとも話題を振られるとは思っていなかったのか。しかし、彼は数秒後、思い切りこちらを睨みつけて来た。その心境の変化について行けないまま、彼は僕に吐き捨てた。
「彼女は俺のもんだ。手ぇ出したら容赦しねぇからな」
……美形の迫力とは、思っていたよりも凄まじい。ギッと睨んでくる彼に、ひゅっと息が音を立てた。――しかし、此処でひいては男が廃る。そう思った僕はごくりと生唾を飲み込むと、恐る恐る訪ねた。
「君は……あの子の彼氏なのかい?」
「あ? 例えそうであってもそうでなくても、おっさんには関係ないだろ」
「そ、それはそうだが……」
「はっ。それとも何か? あの子にアンタみたいなおっさんが惚れたとでも? その年齢で? 笑わせる!」
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ハハハッ! と豪快に笑みを浮かべる彼に、僕は顔に熱が込み上げるのを感じる。それは怒りにも羞恥にも似ていた。競り合った感情は僕の腹から頭にまで真っすぐ駆け上って来ると、僕に激情を齎した。
「――そうだったとして何が悪い! 人の感情を笑うんじゃない!」
僕は声を荒げた。まるで自分の感情を馬鹿にされたようで、自分の気持ちはくだらないものだと嘲笑われているようで、心底腹立たしかったのだ。
(どいつもこいつも、僕の事を知ったように言いやがって!)
ちゅう秋も、目の前の青年も。人の感情を面白がっているのが透けて見えるのだ。——この感情が、僕が持ってはいけない事だなんてことは、自分が一番理解している。それでも、止められないのだ。理性とは裏腹に、天使への興味も好意も膨れ上がっていく一方で、僕にはどうしようもないのだと。どうしたらわかってもらえるのか。
僕は青年を思い切り睨みつける。一瞬青年が狼狽えたが、やめる気はさらさらなかった。
「君に僕の事なんかわかるわけがない」
「……チッ。いい歳したおっさんがマジになんなよな、だっせぇ」
「っ」
ハッと鼻で笑われ、僕は拳を強く握り込む。このまま振り被りたいのを、必死に抑えつけた。青年はそれを見て更に気に入らなかったのか、踵を返すと後頭部をイラついたように掻く。
「はー、興覚めだ。俺はもう帰る。神主、俺が来た事を彼女に伝えておいてくれ。この俺が、君を心配していたと」
「え、ええ、わかりました。伝えておきます」
背中を向けたプレイボーイは、吐き捨てるようにそう告げると、来た道を戻り始めた。その様子を見ていた妖女は「待ってぇ~」と声を上げながらその後ろ姿を追いかけて行く。台風のような二人の退場に、僕と神主はどちらともなく息を吐いた。
しばしの沈黙ののち、「それじゃあ、僕も」と神主に告げ、家路に戻る。天使が無事であったことに安堵したものの、予期しない騒ぎに巻き込まれてもう満身創痍だった。
「まさかプレイボーイと会う事になるとはなぁ……」
あの光景を見て、そう時間は経っていないのにどうしてこんなことになったのか。はあとため息を吐いて、僕は空を見上げた。既に陽が傾き始めた空は、昼よりも少し雲の量が多くなっているような気がした。どんよりした雲は重く、今にも落ちてきそうである。
(明日は雨か……)
僕はぼんやりと意識を宙へと放る。——しかし、まあ。
「現場を直接見られたのはよかったな」
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調査には、丁度よかったのかもしれない。そう思う僕は、もう立派な記者なのだろう。
帰り際、現場の近くで少なくなった人々から短時間だけ聞き込みをした内容を思い出す。徐ろにメモを書き連ねたノートを見下げれば、走り書きで書かれた文字は到底人に見せられるものではなかったが、情報としては十分な役割を果たしていると思う。
(とはいえ、あまり犯人の手がかりになりそうなものはないんだが……)
書いてある事柄を読み上げ、再度肩を落とす。収集した情報を並べるに、『犯人は不明』である事、『見つけた酔っ払いは近所でもかなりの迷惑男だった。第一発見者となって言い気味だった』事、そして『前日、高校生くらいの女の子が土鳩に餌を上げているのを見かけた』事だけ。……前日に餌をやっていた事がバレているという事は、警察も知っているのだろう。もしかしたらもう天使とあの光景を二度と見ることは出来ないのかもしれないと、僕は更に落胆したのを覚えている。
「せめてこの酔っ払いに話を聞くことが出来ればいいが……」
近所の人曰く彼はかなりのアルコール依存症で、昼間から飲んでいるような人間なのだとか。事情聴取もしっかりと出来たのかすら怪しいと思われるくらいには、普段からだらしない人らしい。話を聞こうにも、しっかりと答えてくれるかどうかは難しいだろう。かといって、彼に話を聞く以外に何か有力な手があるとは思えない。
「締め切りも近づいているしなぁ」
日付を思い出し、更に肩を落とす。……有力な情報がない中、どうやって読者を引き込む様な記事を書けばいいのか。確かに新しい事件が起きた事によってネタは出来たようなものだが、それを面白可笑しく書くのは自分のポリシーに反する。——が、それをしなくてはいけないのが、記者である。
「……仕方がない。神主にインタビューをして、それを掲載するとしよう」
僕は諦めたように呟くと、スケジュール帳に予定を書き込んだ。なんなら、ちゅう秋の知名度を借りて彼の見解を書いてもいいかもしれない。彼はデザイン部門ではかなり有名なのだから、その発言力の大きさにもそこそこ期待が出来るはずだ。しかも顔が良いからお茶の間の奥様方には、非常にウケがいい。僕はそう計画を立てると、彼にスケジュールを確認するために公衆電話へと足を運んだ。
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「なるほど。それで私に、再び土鳩の事件について聞きたいと?」
「ああ」
「よほどネタがないんだな」
「わかっているなら協力してくれよ」
呆れたように笑みを浮かべる彼に、僕はつい頭を抱えてしまう。昨晩、電話越しにアポを取った僕は、いつも通りにちゅう秋の家に来ていた。顔を合わせて早々放たれる言葉に、僕は何も言い返せない。彼は部屋着のまま僕の向かいに座ると、大きく欠伸をする。……インタビューするのは初めてではないけれど、一応仕事であるからと身だしなみを整えてきた僕が馬鹿みたいだ。
「で。今回はどんな議題なんだい? 前は確か、『土鳩が狙われる理由について』だったような気がするけれど?」
「あ、ああ。そういえばそうだったね」
「あの時の記事はかなり人気だったよ。流石、人気デザイナー様だな」と続ければ、ちゅう秋は面白いと言わんばかりに笑みを浮かべる。
「それはよかった。だが、君の書き方あってこそだと私は思っているよ」
「ははっ、そうだろうか」
「そうだとも」
大きく頷く彼に、僕は「ありがとう」と返す。どこかからかいにも聞こえる声をしていたが、気のせいだろう。そう思っていた方が、いい気がする。それよりも重要なのは、取材の内容だ。僕は愛用のノートと、昨晩作ったばかりの計画書を取り出し、彼を見据える。——ここから先は、仕事の時間だ。
「今回は少し踏み込んで、犯人像に焦点を当ててみようと思ってね」
「犯人像?」
「ああ。面白いだろう?」
「ふむ……確かに、斬新な発想ではあると思うが」
どこか気が進まないと言わんばかりに眉を顰める彼に、僕は首を傾げる。彼がそんな反応をするなんて、珍しい。
「何か気になる事でも?」
「……いや、何でもない。それより、その議題はいいと思うよ。私が思うに犯人は――」
ふるりと首を振って否定した彼は、徐ろに犯人像について話始めた。彼の言葉に、僕は慌ててメモ帳にペンを走らせる。——それから、どれくらいの時間が経っただろう。粗方聞き終えた僕は、ふぅと息を吐きちゅう秋を見つめた。彼に向かい合い、笑みを浮かべる。
「どうだい? ネタにはなりそうかい?」
「ああ、十分だよ! これなら締め切りにも間に合う。ありがとう!」
「ははっ、それはよかったよ」
軽快に笑う彼に、僕は再び礼を告げる。報酬は後ほど払うと約束をし、僕は次の取材をすべく神社へと向かった。
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曇天の空からは、雨がしとしとと降り続けている。傘はあまり好きではないものの、流石に濡れたままインタビューをするのは失礼だろう。
(神主さん、いらっしゃるだろうか……)
神社の事を思い出した途端、脳裏を過った艶やかな黒髪を頭を振る事で追い出す。今は仕事中だ。現を抜かしている場合ではない。——なんて言う事は、わかっているのだけれど。
「会えればいい、なんて……何考えているんだ、僕は」
どうしても離れない彼女の顔に、僕は口元を手で覆う。恥ずかしいとか、気まずいとか、いろいろな感情が綯い交ぜになってどうしたらいいのかわからなくなってくる。
(小説なら……簡単なのにな)
まさかこんなところで自分の未熟さを思い知る事になるとは、思わなかった。
どんよりとした気持ちを抱えたまま神社に辿り着いた僕は、入り口前で足を止める。赤い鳥居の前は、いつかの公園のように『KEEP OUT』の文字と黄色のテープが張り巡らされており、物々しい雰囲気を醸し出している。血溜まりは既に掃除されていたのか、雨で流されたのかはわからないが、比較的綺麗になっていた。とはいえ、やはりこびりついたものは取れないのか、黒い斑点が僅かに見て取れる。僕は数秒、事件現場を見つめると本殿へと足を進めた。赤い鳥居は、潜る気にはなれなかった。

「昨日の今日ですみません」
「いえいえ。今日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
神社の本殿前。雨の中、出迎えてくれた神主——朴念仁に頭を下げ、僕は名刺を取り出す。仰々しく挨拶を交わした僕達は、雨の中話すわけにはいかないと神社の奥へと足を進めて行った。神主の案内で中へと通された僕は、差し出される座布団を有難く受け取り、腰を掛ける。神主が腰を下ろしたのを見て、ちゅう秋にも見せた企画書と同じものを朴念仁に差し出した。
「こちら、企画書です。急遽作った物ですが、お目通しいただければと」
「はい。わかりました」
朴念仁は企画書を受け取ると、早速中を見始めた。沈黙と共に僅かな時間が経ち、朴念仁は書類を見終わったのか顔を上げると「概要は把握いたしました」と笑みを浮かべる。礼を告げ、僕は取材の流れを説明する。その説明に相槌を打つ朴念仁をちらりと見つつ、僕は空いている窓から外を見つめた。無意識に彼女を探していた事に気が付き、ふるりと頭を振る。
(駄目だ駄目だ!)
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今は仕事中なのだ。それに、わざわざ時間を取ってくれた神主に失礼だろう。息を吐き、僕は朴念仁を見つめる。だが、彼の話を聞きながらも、気は外に向いてしまい――しかも、思い出さないようにしようと思えば思うほど、彼女の事が頭の中を占めていく。……それに気が付いたのは、僕だけではなかったらしい。
「……彼女が気になりますか?」
「えっ」
「先程から上の空でしたから」
朗らかな笑みを浮かべる朴念仁に、僕は一瞬理解が追い付かず、止まってしまう。が、数秒して理解した僕は、顔を赤らめた。
「し、失礼いたしました! 取材中に考え事など……!」
「いえいえ。謝らないでください」
いやいやと手を振る彼に、僕は咄嗟に下げた頭をゆっくりと持ち上げる。恥ずかしさと不甲斐なさに押し潰されそうな僕を見て、朴念仁は笑みを浮かべたまま、話し続ける。
「あの子……神主の私が言うのも何ですが、かなり美しい容姿をしているでしょう?」
「え、ええ。そうですね」
「そのせいで結構苦労されているそうです」
「秘密ですよ?」と笑う神主に、僕は瞬きを繰り返す。彼が言うには、先月はストーカー、先々月は理不尽な言いがかりに巻き込まれ、その前は知らない人間からの求婚を受けたという。
「はぁ……まるで傾国の姫のようですね」
「ええ。ですから、できるだけ彼女は一人でいようとするのです。私とも距離をとって……」
少し寂しそうな顔でそう告げる彼は、まるで我が子を心配する父のような顔をしている。
(天使の事、気にしているんだな……)
彼に来ないようにと告げられた彼女は、一体どんな気持ちだったのか。大切な土鳩たちと引き裂かれるなんて、悲しくて僕なら誰にも見つからずに会いに来てしまうかもしれない。
「ですから、土鳩の事を相談された時はとても嬉しかったのを覚えております。長年見てきましたが、あの子が意志を伝えに来てくれたのは、後にも先にもあの時だけですから」
素直になれない我が子に悩む父親……それは正しく、慈愛に充ちた眼差しであった。
僕は複雑な心境で彼を見つめる。彼の思う気持ちと自分が気にかける気持ちが違う事を、何となく察してしまったからだ。
「そう、なんですね」
「ええ。ですから、あなたのような甘えられる大人がいるのは、あの子にとって素晴らしい存在になると、私は思っています」
(甘えられる、大人……)
手元にあるメモがくしゃりと音を立てる。嗚呼、自分はなんて愚かだったのか。
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(そうだ、彼女は未だ守られるべき存在……未成年なのだ)
そんな彼女に邪な気持ちを抱くことの、何と馬鹿馬鹿しい事か。僕は自己嫌悪に溺れそうになる意識を、必死に引き上げる。
「これからも、どうかあの子をよろしくお願いいたします」
そんな僕の心情も知らずゆったりと、綺麗な所作で頭を下げる彼に、僕はもう……どう返事をしたらいいかも分からなくなっていた。心がギュッと掴まれる感覚に、俯く。
(……僕は、何をしていたんだろう)
現実を突きつけられ、僕は自分がどれだけ浅はかだったのかを噛み締めることになった。
(そもそも、僕には素敵な伴侶がいて、守るべき人がいるんだ……)
何を浮き足立っていた。何を期待していた。高校生という、未だ“子供”である彼女に――僕は何を。
気を取り直し、進んでいく取材。しかし、その傍らで僕は自分を責め続けることしか出来なかった。取材を終えた時には、既に外は土砂降りになっていた。朴念仁に見送られた僕は、来る時とは違い天に向かって傘をさすことも無く、雨に濡れる街を一人で歩く。取材の時の記憶は、ほとんどと言っていいほど、残っていなかった。

あれから一週間。僕は随分とスッキリとした体を抱え、取材したものを文へとまとめ上げていた。
……あの日。雨に打たれながら帰ってきた僕は、頭の先からつま先、更には下着までがびしょびしょに濡れてしまっていた。まるで濡れ鼠を体現したかのような状態に、妻が悲鳴をあげたのも無理はないだろう。
急いで温かい湯に浸かり、温かい飲み物を飲んだが手遅れだったらしい僕は、翌日見事に風邪をひいてしまった。考える事も出来ないまま、高熱に魘されること二日。体調と相談しながらインタビューを纏めるのに三日。大事をとって休むことにした一日。そして本日、やっと訪れた快調に、僕は立て込んでいた締め切りを消化してしまうべく動き出していた。
……その間、彼女のことは意図的に忘れるようにしていたし、妻にいつもは恥ずかしくて言えない感謝の言葉を幾つもかけた。恥ずかしがりながらも、好意を受け取った彼女は嬉しそうで。
(やっぱり、僕には妻が必要だ)
そう再認識するのに、時間はかからなかった。
「あっ、大変っ」
「おや。どうしたんだ?」
キッチンから聞こえた声に、僕は訪ね返しながら腰を上げる。冷蔵庫を覗き見ていた妻の元へと向かえば、妻は申し訳なさそうに眉を下げた。
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「すみません。食材が思ったより無くなっていたみたいで……買い物に行かないと」
そう告げる彼女の後ろから、冷蔵庫の中身を盗み見る。……確かに、空っぽだ。僕が急に休んでしまったこともあって、食品の消費タイミングがズレてしまったのだろう。そういえば、夜食としてチーズを拝借したこともあったな。
「……よし。それなら、僕が行こう」
「えっ、で、でもあなた病み上がりですし……」
「大丈夫だよ。僕も男だ。こう見えても意外と丈夫なことは、君が一番知っているだろう?」
焦る彼女に茶化すような口振りで声をかければ、彼女は少し考えた後小さく笑って頷いた。
「ふふっ、では、お願いします」
「もちろんさ」
妻に書いてもらったメモを受け取り、僕は久しぶりに外へと繰り出した。久々に出た外は明るく、風が吹いていて心地がいい。
「やっぱり、人間光合成は必要だな……」
やはりいくら休んですっきりしたと言っても、外に出た時の爽快感とはまた違う。スーパーへの道のりを歩きながら、僕は何度も深呼吸を繰り返す。何だか自分が新しい人間になったかのようで、少しだけ気分がいい。
「あっ」
ふと、見えた公園のブランコに僕は足を止める。……そういえば、此処はスーパーへの道なりにあったものだったか。あれから一か月も経っていないのに貼ってあったKEEP OUTのテープはなくなり、一緒にブランコも消滅している。恐らく近隣住民の希望で撤去されたのだろう。子供でない自分ですら、あのブランコに乗りたいとは思えない。
「……」
(……ここで、彼女と出会ったんだった)
艶のある黒髪、白い肌。真っすぐな瞳は純粋な色で、見る者すべてを引き寄せていく。そんな魔法みたいな存在である彼女は、土鳩を愛し、土鳩に愛されている。否……土鳩だけではない。神社へと向かえば、いろいろな人に愛されているのを目の当たりにさせられてしまったのを思い出し、頭を振った。僕はゆっくりと踵を返す。
(……やっぱり、僕には高嶺の花のような存在だったんだ)
彼女と友人として付き合うことが出来るまで、僕は彼女に会う事はやめにしよう。そう決意した僕は、買い出しのメモを再度握り直すと神社への道とは逆へと進み始めた。

――そう。だから、“彼女”と出会ったのは不可抗力だったのだ。
「あっ」
「どうも、こんにちは」
突き当りでばったり。なんて、どこぞの漫画のような展開に僕は内心、頭を抱えた。