菊花繚乱〜半妖あるじに菊の名を〜

 共にいけたらいいのだけど、という彼にその気持ちだけで充分だといって、私は彼に微笑に送られて寺を離れた。玄関に戻り、下駄を履いて外に出た。

 無人の敷地を表に進み、前の通りに出て左に折れ、すぐそこの開いた門扉の中へ進む。気配を感じて見上げれば、鳩が一羽飛んでいた。その鳩はふわりふわりこちらへ飛んできて、私の眼の前に降り立つ瞬間には若い男性の姿になった。

 「おはようございます、寒菊さま」と頭を下げる彼に、「そう畏まらないで」と返す。

 「月さんときつさんはいるかな」

 鳩司君は一つ辞儀をして身軽に飛んでいった。

 彼はすぐに、二人の女性を抱えて戻ってきた。白い頭髪に白い着物、頭に白い耳を生やした彼女が犬の月——月に似た白い毛から——、茶色の頭髪に赤茶の着物、頭に茶色の耳を生やした彼女が狐のきつだ。

 鳩司君の元を離れた月さんに「若旦那さまがなんの御用でして?」といわれ、ぎくりとする。どうしてこちらまで話が通っているのだ。

 「ちょっと手伝ってほしいことがあるのです」

 きつさんは軽やかな音を鳴らして地に下り、「私たちには、もうなんの力もございませんよ」という。

 「みんなの種族が大切なのです」

 月さんが「耳でも触りますか、」と白い耳をひくひく動かす。やわらかくあたたかそうなそれは魅力的だが、私の目的はそんな無邪気なものではない。

 鳩司君は彼女の後ろで辞儀をして中へ戻った。

 「人を探してほしいのです」と私は打ち明けた。

 「人探しを、なぜ私たちに」

 「いえ、正確には人ではありません。半妖の者を探してほしいのです。月さんは犬の、きつさんは狐の気配を感じたら、教えてほしいのです」

 「なるほど」と二人は声を重ねて頷いた。「それくらいならできるかと」ときつさん。

 「それともう一つ。どうか、私のことは内密にして戴けませんか」

 「ええ、」と二人は頷いたが、表情にはどうしてという色が滲んでいる。しかしだからといって口外してしまいそうな様子もない。私は「ありがとうございます」と頭を下げる。

 「どこに向かいますか」ときつさんにいわれ、「当てはないのです」と答える。

 「若旦那さまとお出かけだなんて光栄ですね」と月さんが無邪気な声を上げる。

 「しかし当てがないとなれば、長旅になりそうですね、」ときつさんが冷静にいう。

 「ええ、相手がどこにいるのか、皆目見当がつかないのです」

 「しかし、だからこそ私共が誘われたのですよね」と月さん。「若旦那さまの大切な方なのでしょうし、すぐに見つけますよ」

 「心強いです」と私がいうと、「あまり大きなことをいうんじゃありません」ときつさんが窘めた。
 その日以来、私は菊臣さんや藍一郎さんに誘われない限り、二人に手伝ってもらいながら両親を探した。

 朝餉のすぐあとに二人に会いにいき、夕餉までに戻り、二人と別れてから一助に結果を報告し、藍一郎さんと夕餉の支度をし、毎日の外出について触れられやしないかと冷や冷やする。

 誰とも口を利かず、一人で野菜を漬け、父の顧客の元へ野菜を売りに出ながら父の無事と帰宅を願っていた二年間が、いかに虚しいものであったか思い知るようだった。

手伝ってくれる人がいなかろうと、当てがなかろうと、私も探しにいけばよかったのだ。それ以前に、私も父と共に出ればよかったのだ。十五ともなれば大人の仲間入りを果たす頃、多少の苦労には耐えられるはずなのだ。

 ある朝、爨で野菜を切りながら、藍一郎さんに「寒菊」と呼ばれた。内心びくつきながら「はい」と答える。

 「この頃ずっと、日中どこにいっているんだ」

 「……散歩です」

 「一人でか」

 なにもいえなくなった。私の噓を暴こうしているのか、なにも知らずにそういっているのか。私にはわからなかった。

 「どうして宿の方へ向かう」

 どくん、と跳ねた胸の奥の振動が体中に広がった。飛び上がるように体が揺れた。

 「どうして、あれらに拘るんだ」

 「拘っているわけでは、」

 「犬と狐と出かけているだろう」

 「ちょっと、親しくなったのですよ」

 藍一郎さんは包丁を置いて私と向かい合った。真っ直ぐに眼を見詰めてくる。その双眸には、責めるような縋るような、複雑な光が揺れている。

 「頼むから、あまりあれらと接触するな。寒菊は後々、ここを継ぐのだろう。刺激がほしいならそれからでいいだろう。きっと嫌というほど危険が迫ってくる。どうして今から、安全に過ごせる今から、あんなものと接するのだ」

 「……やはり、私には彼らが悪いものとは思えないのです。藍さんと同じです」

 「寒菊とあれらにどんな紲がある」と声を上げる藍一郎さんの悲痛に、種族、と答えてしまいたくなる。

 「寒菊も菊臣と同じだ、優しいんだ、隙だらけなんだよ」

 「藍一郎さん」

 彼は濡れた眼を瞼で隠して項垂れた。

 「私は決して、優しくありません」

 「優しい者が自ら優しいというか」と彼は弱く笑う。

 「俺は、お前も失いたくない、」

 「心配には及びませんよ。私は少しも、優しくなどないのですから」

 優しさに付け入るのはむしろ、私の方だ。
 朝餉のあと、その日は出かけずに一助に会いにいった。「お早いね」と彼はいった。

 「今日は出かけないんだ」

 「見つかった、……というわけでもなさそうだけれども」

 「君にはやはり、両親の居所はわからないのだよね」

 「わからないね。もちろん、御両親を探し回る君をおもしろがっているのではなくてね」

 「疑ってはいないけれども、そういうことはあまり繰り返さない方がいい。私にも人の血が混ざっているものだからね、あまりいわれると疑いたくなる」

 「そういうものなのかい。やはり人とは不可思議なものだね」

 鳥の声が空を揺らし、私たちは庭の方を見た。ふと近くで鳥の声がしたかと思えば、目の前を小さな鳥が横切った。「おお、」と二人で声を上げた。

 「なにを運んできてくれるかな。どうせなら、寒菊の御両親、その居所の書かれたものでも持ってきてくれたなら嬉しいのだけれど」

 「家の材料じゃないかな」

 「この辺りに住もうっていうのかい。あまり賑やかにされては、この繚乱たる菊花の美しさが霞んでしまう」

 「新しい名物になる」

 「名物、」

 「確かにそう有名な寺ではないけれども。あまりそういうところに引っかかるんじゃないよ」

 改めて見れば、庭に藍さんがいるのが見えた。あちらも気がついたようで、こちらを振り返ると「寒菊さま、一助さま」と無邪気に手を振る。私もそれに応えた。

 「なにをなさっているのですか」と尋ねると、「藍一郎さまに贈るのです」と返ってきた。

 「藍一郎は菊に拘っているからね」と一助が私に説明するように静かに頷いた。なるほど、その菊を選んでいるらしい。

 彼女はこちらまで駆けてくると、廻廊にそっと腰を下ろした。

 「寒菊さま、一助さま。菊の花というのは、どうして藍色がないのでしょう。あったなら私、迷わず藍一郎さまに贈りますのに」

 「ほう、確かにそうだね」と一助が頷く。「藍色の菊花というのは見たことがない」

 「淋しいです。いっそ、染めてしまいたい。……藍色の菊を、作ってしまいたいです」

 冬の風が庭の花々を揺らす。藍さんは風に乗った長い髪を細い指先で押さえた。

 「寒菊、とは、不思議な御縁ですね」と彼女は庭の方を向き直った。「こんなにもたくさんの菊花の咲く屋敷に、寒菊さまは知らずにやってきたのです」

 「……実は、寒菊という名は久菊さまが下さったものなのです」

 藍さんは驚いた顔でこちらを振り返った。「そうなのですか、」

 「ええ。私には名前がありませんでしたから」

 「そう、なのですか……」

 私と同じですね、と彼女は懐っこく微笑んだ。

 「私も、名前がありませんでしたから。刀工は私に名をつけずに人へ渡したのです。

……ですが、それでよかったと、藍一郎さまにお会いしてからは強く思います。名前がなかったために、藍一郎さまから一字、分けて戴けたのですから」

 こんなにも幸せなことはございません、と藍さんは綺麗に笑った。

 「しかし旦那さまは、どうして寒菊さまに寒菊と名づけられたのでしょうか、」

 「冬に出会ったためかと思います」と私は答えた。今日はこれ随分寒いね、といった旦那さまの声が思い出される。

 「旦那さまは、本当に寒菊さまを息子として連れてきたのですね」

 菊臣さまの、お兄さまとして、と彼女は静かに哀しくいった。
 後日、私は藍一郎さんと朝餉の支度をしながら、鍋に入っている糅飯の量が普段の半分ほどしかないのに気がついた。

 「藍一郎さん、」と声をかけると、なんでもないように「なんだ」と返ってくる。

 「飯が少ないのですが、」

 「夕餉は野菜を煮ることにする。その鍋を使うから、洗っておいてくれ。地火炉の出番だ」

 「野菜を、」

 「食ったことないのか」

 「野菜を煮たものといえば、味噌汁くらいしか」

 「まあ、どうせ味噌で煮るのだから大して変わらないが。なかなかうまいぞ」

 「そうですか。藍一郎さんはいろいろな料理を作りますね」

 「なに、」と彼はわかりやすく喜びながら笑った。「ただ手を抜くだけだ」

 その様子がなんとも子供のようで愛らしいのだが、いってはやはり痛い目に遭いそうなので黙っておく。

 「野菜を食うための味噌汁と思えばいい。野菜が多いから、ちと豪勢に見せられる」

 「そんなに使って今後に響きませんか、」

 「問題ないさ。寒菊がこの間、虫に食われた野菜を見つけただろう、そいつを使うんだ」

 「なるほど……」

 「しかし寒菊は知らないものが多いな」と藍一郎さんは笑う。「田舎暮らしってのはそういうものなのか」

 「私はちょっと特殊かもしれませんね」と私は笑った。こうして他人と暮らしてみると、確かに知らないことが多いように思う。

 「寒菊の家には地火炉はなかったのか」

 「ええ、本当に小さな家でしたから。山の中に建っている、茅葺の小屋のようなものでした」

 「そんなところで、冬はどうしていたんだ」

 「耐えていました」

 「え、」と藍一郎さんは本気で驚いているようだった。「根性でどうにかなるものなのか、」と。

 「ええ。狭いからでしょうか、それほど寒くないのですよ。あそこの地形も影響していたかもしれませんが。

ああ、なによりあれですね、時折迷い込んでくる動物、あれがあたたかいのですよ。野生のものなんですが、大人しくて、寄ってきてくれるようなのもいたのですよ。野菜を分けてやれば、その間抱かせてくれましてね、あたたかいんですよ」

 当時のことが鮮明に思い出され、豊かではなかったがそう悪い生活でもなかったと昔の感覚に浸っていると、ふと藍一郎さんが眼の横に、そこが痛むかのように指を当てているのが見えた。

 「寒菊よ、」と兄のような調子でいわれ、思わず「はい」と畏まる。

 「お前、幸せになれな」

 「え、幸せですよ。どうしたのです、」

 「あのな寒菊、屋敷の中に動物が入ってくるなんてことはないんだよ」

 「屋敷なんて立派なものでもなかったからでしょうかね」

 「ああ、やはりこの家は貴様にやるよ。父上も認めているんだろう、それがいいさ。そして寺なんて早々に辞めて、裏の畑でも使って、百姓でもやってな、そうだ、ここで幸せになれ」

 私は藍一郎さんの憐れむ当時の生活を哀しく思うより先に、彼の寺やあやかしへの情念を苦しく思った。奥さまの魂がここにあれば、彼がこんなにも寺やあやかしに拘ることはないのだろう。
 愚かな醜い秘め事の三年目、日暮の皆は久菊さまの買ってきた酒で私の二十回目のその日を祝ってくれた。

藍さんや紫菊をも交え、盃をぶつけて中の菊花の弁を揺らした。賑わう居間には菊臣さんが菊で彩った陶磁器が飾られ、夕餉には煮豆まで出され、かなり豪勢な宴となった。

 酒の独特な熱と甘みは人を心地よくさせるものらしく、藍一郎さんが酷く愉しそうだった。よく喋るようになり、なんでもないようなことで声を立てて笑った。

 紫菊が菊臣さんと話していると藍一郎さんは「おお、見せつけてくれるじゃないか」と笑って藍さんを呼んだ。「俺たちも負けはせんぞ」と彼女の華奢な肩を抱き、その白い頬を麗しい薄紅に染めさせた。

 そして酔いか慈愛かに濡れた眼で藍さんを見詰め、優しく脣を合わせ、無邪気に笑った。「藍一郎さまってば、」と藍さんに決して弱くはなさそうに肩を叩かれても笑っていたくらいだから、随分なことになっていたのだろう。

 「俺はね、藍を見てな、すぐに思ったんだよ。ああー、こいつぁ俺とおんなじだって」

 藍さんはへらへらと喋る藍一郎さんの胸に身を寄せた。

 「今や菊なんてどうでもいいのさ。俺には藍がいるんだよ、それ以外になにがいるってんだ」

 藍一郎さんは飽くまで愉快そうに、へへっと肩を揺らした。

 「なんだってあれだよ、寒菊が、ああいや、寒菊さまが、な? へへ、うちの詛いを絶ってくれるっていうじゃねえか」

 こっそり窺えば、久菊さまはどこか哀しい顔をしていた。その奥に息子への慈愛があるのを、私は感じた。

 「でもな寒菊よ、なんもお前さんが危険な目に遭うことぁねえんだ。なんかあったらいえよ、もうね、そんなときにゃ染めてやるさ。へへ、いいやできるね、俺たちならできるんだよ。俺と藍にはできちまうんだ」

 ゆらりゆらり揺れながら、藍一郎さんはずっと藍さんの肩を抱いていた。そしていたずらにくちづけをする。

 「なあ寒菊よ、藍色の菊なんざ見たことねえだろ、へへ、でもね、俺たちが作っちまうんだ。それでな、あの愚かな醜い化け物共に見せつけてやるんだよ、俺たちの紲を。

菊だろうがな、あの化け物共だろうがな、染めてやるんだ、俺たちの藍色で。莫迦だと思うかい、え? へへ、それが俺なんだよ。でもな、莫迦ってのぁなんっでも遣って退けんだ、おう、そうだよ、藍色の菊を咲かせちまうんだ。へへっ。

ああ……綺麗だろうよ。ほれ、思ってみろよ、この藍の髪のような、深い藍色の菊を」

 藍一郎さんは彼女の美しい髪を愛撫した。

 「ええ、綺麗だろうよ。そんなに綺麗な花はないさ、国中のどこを探したってよ、ああそうだ、月まで探したってないさ」

 「藍一郎さま、」と彼を呼んだのは藍さんだった。「乱れすぎですよ。これでは、私たちの宴のようでございます。今日は寒菊さまの御誕生を祝うのです」

 へへ、と藍一郎さんはやはり笑う。そしてまじめな顔をして藍さんを見詰める。彼女の頬を撫で、「なあ、藍や」と不安げな、しかし確実な、熱い意志を持ったざらついた声で呼びかける。

 「俺たちが守ってやるんだよ。菊臣も、寒菊も。ああ、できるさ。全部藍に染めてやってな、その暗がりにあいつらを隠してやるんだ。化け物に見えないところにな、隠してやるんだよ。

なあ、藍や。藍色の菊だよ。上の菊も下の菊も、一番そばにいる俺がな、真ん中の俺が守ってやるんだ。なあ藍や、そのときには力を貸しておくれ……」

 藍さんは彼の腕に抱かれながら、無邪気に艶めかしく微笑んだ。

 「はい、仰せのままに」——。
 翌朝、部屋を出ると隣の部屋から藍一郎さんも出てくるところだった。「おはよう」という彼はすっかり普段の調子を取り戻している。

 爨へ向かいながら「体は大丈夫ですか」と尋ねると「宵越しの酒は持たないんだ」と返ってきた。よくわからないのでなんともいえない。

 爨へ入ると、彼は野菜を切りながら「昨夜の言葉に偽りはないぞ」といった。まさかあの様子で記憶があろうとは、と私は驚いた。

 「俺は、藍とならばなんだってできるんだ。寒菊を守り、菊臣を守りながら、ここの長にだってなれる。お前たちを危険に晒すような化け物に決して容赦はしない。地獄の果てまでも追いかけるさ。それの悪意も、僅かに残った良心も、一つ残らず斬り、亡骸には火をつけてやる」

 私はなにもいえなくなった。僅かに残った良心が、内側に巣くう悪意を飲み込む。痛くてたまらない。この青年はもしいつか、私が忌むべき化け物の一つであると知ったなら、どれだけ哀しむだろう。どれだけの苦痛を抱くだろう。

 「なあ寒菊、俺は莫迦だがそう弱くはない。もしもお前が、遠い将来、父上からここを継いだとして、寺を潰さなかったとしよう。そのときに、なにかつらいことがあれば、すぐにいってほしい。きっと守ってみせる、力になる。

自分のような生意気な者を喰うような奴はいないとお前はいったが、あれらにそういう分別するような力はないんだ。どんな悪党だろうと善人だろうと、喰いたけりゃ喰うんだ。人の隙に付け入って、体の内も外も蝕むんだ。そして最後には、その人間は死んじまう」

 「……私は、どう、応えられましょうね」

 「あ?」と藍一郎さんは笑った。「なに、生きてりゃいいんだよ」と軽やかに。
 後日、私は藍一郎さんと寺の前で庭を眺めていた。

 ふと、藍一郎さんは「寒菊は寒菊でよかったのか」といった。

 「久菊がつけた名前なんだろう。藍に聞いたよ」

 「私はこの名前を気に入っていますよ。それまでは名もなき放浪者ですから」

 「御両親に会ったらなにがしたい」

 「そうですね、無事でよかったとだけ伝えたいです」

 「それが全部だな」と藍一郎さんは穏やかに笑って頷いた。「それで全部伝わる」と。

 ただな、と藍一郎さんは小さく笑う。「俺はちょっと、一つ殴ってやりたい」

 ぎくりとしたのを隠し、私は「なんてこというんですか」と笑い返す。

 「母君はなぜ出ていった、父君はなぜ息子を連れていかなかった。二人はなぜ、息子に名前さえ与えなかった! 俺には理解できない」理解できない、と彼はもう一度、足元に静かな声を落とした。

 「父は、家を空箱にしてしまいたくなかったのでしょう。野菜売りとして顧客もいましたし。尤も、私も一度は、共にいけばよかったと思ったのですが」

 私は苦笑してから、「しかし、」と続ける。

 「ここにこられたことは、私の生涯で一等幸福なことと思っています」

 藍一郎さんは驚いた顔をしてから、嘲るように笑って見せた。「そりゃあ、動物が勝手に入ってくるようなおんぼろ家屋じゃあそうだろうよ」と。

 「散歩でもしよう」といって、藍一郎さんは裏へ向かい歩き始めた。私はそのあとに続く。

 「さっさと御両親を見つけ出して一発殴ってやらねば気が済まぬ」という藍一郎さんに「全く物騒ですな」と苦笑する。なにせ、藍一郎さんに知られては、両親は一つ殴られるくらいでは済まないはずだ。

 ふと、そばの木からこちらへ向かって鳥が飛び出してきた。「おお、」と声をこぼし、一歩廻廊の外へずれた藍一郎さんの体が、足を踏み外したか庭の方へ放り出された。

 理性というのはなんとも脆弱なものだ。

 衝動というのはなんとも激しいものだ。

 体が、私とは別に意識を持ったようだ。

 私が後先を考えるより先に動きだした。

 「藍一郎さん」と叫んだのは紛れもなく私の声だった。

 空を切る彼の腕を攫んだのは紛れもなく私の手だった。

 理性というのは、なんとも脆弱なものだ。

 衝動というのは、なんとも激しいものだ。

 秘め事を易々と散らし、花弁を舞わせる。

 衝動による理性の崩壊を理解するより先に、藍一郎さんの怯えた顔を見た。

 幸福の死んだのを知った。
 「触るな」と喚声が静寂を切り裂いた。秘め事が花火のように散るのが見えるようだった。

 藍一郎さんが全てを知ったのと同時に、私も現状を知った。

 「化け物め」という喚声を認めながら、私は彼の前に座る。廊下に両手を置き、そこに額をつけるようにした。

 「申し訳ございません——」

 「喋るな」と激しい声が落ちてきた。

 「化け物が、紛い物が兄の声を発すな!」

 胸の中が爛れるようだった。兄という言葉がこんなにも苦しいとは知らなかった。菊臣さんの無邪気な声よりもずっと、私の愚かな醜い秘め事を痛めた。

 「藍!」と叫ぶ声がして、私は醜くも救いを感じた。罰が受けられる。自らの悪事を、痛みを以て鳥瞰することができる。

 「存分に」と私は伝えた。

 冷たく光る殺意が視界の端に映り込む。

 「兄はどこだ」と低い声がした。

 私は胸奥から込み上げる熱に脣を嚙んだ。

 「吐け」と空をも割るような声が弾けた。「兄上をどこにやった」と。

 いない。貴方に兄はいない。人間の暮らす日暮邸の長男は紛れもなく日暮藍一郎で、日暮寒菊などという人間はどこにも存在しない。私に名前はない。私に弟はいない。母は私を産んですぐに姿を消し、父は十五年間私を育ててから妻を探しに出た。私は、名もなき放浪者だ。

 「寒菊はどこだ」と純粋な歎きが響く。

 右肩に激しい熱を感じた。焼けるような、火にかけた土瓶を押し当てられたような、熱だった。それが刀身の食い込んでいる痛みであることに気づくのに、半妖の私には随分な時間がかかった。

 引き抜かれた熱は、右肩のまた別のところを焼いた。

 「返せ、寒菊を返せ。兄上を、寒菊を!」

 酷いにおいがした。生と死を同時に思わせる、絶望的なにおい。

 「寒菊!……寒菊!」

 苦しくてならない。日暮寒菊は愛されていた。認められていた。日暮寒菊は、長男の座を奪い、長弟という立場を押しつけた嫡男に、こんなにも愛されていた。そして今尚、彼に求められている。

 しかし私は今や、日暮寒菊ではない。藍一郎さんがこの家を渡したのは、日暮寒菊という人間なのだ。

 「藍一郎さん、」と呼んだ声は掠れていた。「藍色の菊を、咲かせて下さい」

 「手前にその声はふさわしくない!」

 「今冬の菊花は、」

 「黙れ!」

 「藍色です」

 激しい熱の引き抜かれたのを最後に、「放せ」と彼の声がした。

 「此奴は寒菊だよ」と別の男の声がした。一助だった。

 「違う」と藍一郎さんが叫ぶ。「これは寒菊じゃない、これは俺の兄じゃない!」

 「お前の認めた兄だ。久菊の旦那が寒菊と名づけ、お前らと三年過ごした男だよ」

 「違う、寒菊は化け物じゃない、手前のような鬼でもない、寒菊は、寒菊は優しい人間だ、」

 「此奴はお前のいう化け物じゃない。人の血も通っている。此奴はお前と出会ってからずっと寒菊だ。お前の優しい兄だ」

 「紛い物、……紛い物! 認めない……これは寒菊じゃない、兄上じゃない」

 哀しいかな。私はこれまでもこれからも、寒菊じゃないし、彼の兄でもない。
 「兄上、」と震えた声がした。

 「菊臣」と藍一郎さんがそれに答えた。

 「こっちへくるな」

 「兄上、寒菊兄さんは、」

 「これは寒菊じゃない!」と歎く声は泣いていた。

 「寒菊はもういない、……いないんだ」

 「兄上、聞いて下さい、」

 静かな足音が、私のそばを離れていく。その先から「菊臣、」と涙声が聞こえてくる。

 「お前だけは……」

 どうも頼りない頭で、自分の呼吸の荒いことに気づいた。ふと頭を触られ、「寒菊さま、」とか細い声がした。顔を上げると、藍さんの泣き顔と眼が合った。

 「ごめんなさい、……誰か、一助さま、なにか手当てのできるような、」

 「構わないで下さい」と私は答えた。藍一郎さんから、藍さんだけは奪ってはならない。彼女には、彼の味方であってもらわねばならない。

 「藍一郎さんが怒るのは当然です。話は、彼から聞いて下さい」

 「藍」と地を這うような声が響いた。「それに寄るな」

 「しかし藍一郎さま、なぜ寒菊さまを、」

 「戻れ」

 「なぜ寒菊さまを刺したのですか」

 「いいからこい」

 「寒菊さまがなにをなさったというのです」

 「藍さん、」と私が促すのと同時に藍一郎さんが「藍」と怒鳴った。

 彼女はすっと立ち上がると、「一助さま、どうか寒菊さまを、」といい置いて寺の中へ入っていった。

 「平気かい?」と眼の前にしゃがむ声はあまりに楽観的だった。むしろこの状況を愉しんでいるようでさえある。

 「そう見えるかい」といいながら私も笑えてしまうのだからおかしかった。

 「やはり君も人間じゃあないね。ぴんぴんしていやがる」

 「ぴんぴんは……してないけれども、」

 「まあじっとしていてよ」というと、一助は私の肩に触れた。張りついた痛みが強まり、不恰好な声が出る。

 「なるほどね、旦那は我のこれに甘んじて、君をこんな危険なところに放り込んだのかもしれないね」

 へらりと喋りかけられても、傷口を強く刺激されているような痛みでなにも答えられない。

 「しかし容赦のない男だね、藍一郎も。酷い傷だよ」

 どれほど経ったか、「もう少しだよ」といわれて、ようやく痛みが落ち着いてきた。じくじくと残るそれに知らぬふりを決め込んで礼をいうと、そう急ぎなさんなと苦笑が返ってきた。

 「ほら、治ったよ」

 確かに痛みがなくなった。私は座ったまま体勢を整えた。見れば、なにをしたのか着物も廊下も綺麗になっている。

 「鬼もこんなことができるのかい」

 「宿の方にいった、医者が使っていた冊子がいるだろう、帖と名づけられていたかな。それと、洗い物屋だか洗濯屋だか、そういうのをやっていた奴がいたろう、名前は憶えていないけれどもね。とにかく彼らの力を記憶しておいたんだよ。いかんせん外出ができないからね、退屈なのだよ」

 命拾いしたね、と一助は得意げにいたずらに笑った。