桜の花びらが風に舞う。艶やかに咲き誇る桃色からはらはらと落ちるそれは、無機質な道を華やかに染めている。

 その日の夜、煮物屋さんは絶賛営業中。常連さんが多く無い席を埋めていた。本当にありがたいことだ。

 21時を過ぎたころ、店備え付けの電話が控えめに鳴る。ファクスと一体になった電話機だ。

 受信音を小さくしているのは、お客さまの迷惑にならない様に。姉弟にだけ聞こえたら良いのだ。近くにいた千隼(ちはや)が受話器を上げた。

「はい、煮物屋さんでございます。はい、……ああ、うん、うん、解った」

 千隼は簡潔にそれだけを言うと、受話器を置いて「ふぅ〜」と小さく溜め息を吐いた。

「千隼、お母さん?」

 千隼の口調で、相手はお客さまなどで無いことは判る。佳鳴(かなる)はそう見当を付けて声を掛けた。

「おう。()えて動けへんてさ。俺、さっと行ってぱぱっと作ってくる」

「私が行こうか?」

「いや、俺行く。煮物頼むな」

「解った。お母さんによろしくね」

「オッケー」

 千隼は手早くエプロンを外しながら奥に入った。

「じゃあ行って来る。お客さま方すいません、少し抜けますね。ごゆっくりなさっててください」

 するとお客さま方は「はーい」と返事をし、千隼を送り出してくれた。

「店長さんたちのお母さんって、確かデザイナーされてるんでしたよね」

 常連客の結城(ゆうき)さんが聞いて来る。今日は日本酒「東洋美人(とうようびじん)」を冷酒で楽しまれていた。

 東洋美人は山口県の澄川(すみかわ)酒造場で醸されているお酒である。芳醇旨口を代表するとも言われており、フルーティな香りとやわらかな口当たりで、口の中に旨味が残るが清々しい風味の一品である。

「はい。お陰さまで、どうにかやっている様ですよ」

 佳鳴が言うと、こちらも常連の田淵(たぶち)さんご夫妻が「へぇ」と感心した様な声を上げる。

「何のデザイナーなんか、お伺いしても?」

 田淵さんの奥さん、沙苗(さなえ)さんが控えめに()いて来るので、佳鳴は何気無い調子で「子ども服ですよ」と応える。

「そうなんや。何やろ、こんな美味しいご飯を作りはる店長さんたちのお母さんやったら、凄い可愛い子ども服を作りはりそうな気がします」

 田淵さんがそう言うので、佳鳴は「そうですねぇ」と曖昧(あいまい)に応える。

 しかし佳鳴、そして千隼にとっても不思議ではある。なぜあの母親が子ども服のデザイナーになったのか。

 要はこの姉弟にとって、母親は「そういう」存在なのである。



 車で出た千隼は途中のスーパーで買い物をし、住居の入っているマンションに着くと、キィケースを取り出しオートロックを開けた。家の鍵はスペアを預かっているのだ。

 母が暮らしているのは、北大阪急行の緑地公園駅が最寄りの街だ。住所は吹田市になる。

 この街には駅名の通り、服部緑地という広大な公園がある。バーベキュー広場や各種スポーツ施設、野外音楽堂もあり、地元民で賑わっている。

 公園の中央に整備されている円形花壇は、昭和中期に皇太子殿下のご成婚を記念したものである。季節季節で色とりどりの可憐な花が開く。

 北大阪急行は大阪メトロ御堂筋線と相互乗り入れしており、煮物屋さんがある曽根駅から電車で行こうとすると、一度大阪梅田駅に出てから乗り換えて行かなければならない。遠回りになるのだ。

 曽根の駅前から阪急バスも出ているが、そう本数が多いわけでは無い。なので車で行くのが一番手っ取り早いのである。

 エレベータを使って目的階へ。エコバッグをがさがささせながら廊下を歩き、部屋のドアを開ける。

「母さん、来たで」

 玄関でスニーカーを脱ぎながら千隼が言うと、奥から女性がのそりと出て来た。

「あぁ千隼、来てくれたんか」

「そりゃあ「腹が減って死にそう」なんて言われてもたらな。ぱっと作るから。洗い物は自分でやってや。俺作ったら店に戻るから」

「助かるわ。いや、もう冷蔵庫もすっからかんでなぁ」

 女性、佳鳴と千隼の母である寿美香(すみか)は言うと、おかしそうに笑う。千隼が念のために冷蔵庫を開けると、確かに食材はろくになく、缶ビールとおつまみになりそうなプロセスチーズが少し入っているだけだった。

 部屋は3LDKと、ひとり暮らしをするには充分な広さだ。キッチンやリビングはその機能のまま生かし、一部屋は寝室、一部屋は仕事部屋、残り一部屋は物置状態になっている。

「材料費は払うから」

「色も付けてくれよ。姉ちゃんひとりに店任せて来てるんやから」

「もちろん解ってるって」

 寿美香は言うと苦笑する。千隼が渡したスーパーのレシートをひらひらと振った。

 千隼はエコバッグを手にキッチンに入る。

 キッチンは普段ろくに使われていないだろうに、綺麗に掃除されていた。千隼はわずかに驚く。

「へぇ、綺麗にしてるんや」

「家政婦さんに来てもらっとるからな」

「それやったら飯も家政婦さんが作ってくれるんやろ?」

「作り置き食べ切ってもた。だって土日は休みやからさぁ」

 確かに今日は日曜日だ。金曜日に作ってもらったおかずや常備菜を、昨日1日で食い尽くしてしまったと言うことか。

 千隼は「ふぅ」とわずかに面倒そうな溜め息を吐くと、エコバッグから食材を取り出す。

「簡単なもんやで。ええだろ?」

「もちろん。食べられるなら何でもええよ」

 それならコンビニにでも行ってくれよと千隼は思ってしまう。それでも千隼たちにSOSを投げるのだから、それなりに母親としての自覚はあると言うことなのか。

 いや、本当に母親の自覚があるなら、子どもに面倒を掛けさせない様にするものか? 千隼には判らない。

 千隼はまず米の支度をする。残った米は置いて行くので、寿美香ひとりでも簡単に炊ける様に無洗米にした。急ぐので吸水無しに急速炊飯のスイッチを入れる。

 続けてまな板と包丁を出し、まずはしめじを取り出して石づきを落として解す。

 次に白菜。洗って芯を落とし、ざくざくと切って行く。

 人参は皮を剥かずに半月切りに。

 厚揚げもざくざくと厚めのスライスに。

 豚肉はこま切れを買って来たので、そのまま使う。

 鍋を熱してごま油を引き、まずは豚肉を炒めて行く。色が白く変わったら人参を加えてさっと混ぜる。そこに被せる様に厚揚げと白菜の白い部分を入れたら、材料が少し顔を出す程度に水を入れ。沸いたら顆粒(かりゅう)の出汁を入れて煮て行く。

 白菜がしんなりして来たら白菜の葉としめじを加え、全体を混ぜてさっと煮たら甘みを加える。砂糖と日本酒だ。

 普段手ずから料理をしない寿美香だが、調味料などは一応揃えていることは知っていたし、今は家政婦さんにも来てもらっているのだから、過不足は無かった。

 5分ほど煮たら、次に醤油を加える。そのままことことと煮て行く。その間に千隼は洗い物を済ませた。

 そのころにはもう火が通っているので、千隼はコンロの火を止める。

 豚肉と野菜の旨煮の完成である。

 煮物屋さんのおこんだては季節感を大事にするが、今回は気にしない。わざとでは無く家庭の食事なのだからこんなものだ。その日の特売品をうまく組み合わせるのは主夫の知恵である。

「母さん、できたから。米が炊き上がったら適当に食ってな。俺帰るわ」

 千隼は素っ気無く言うと帰り支度をする。

「慌ただしいなぁ。お茶ぐらい飲んで行ったら」

 寿美香が言うが、千隼は「いや」と返す。

「姉ちゃんひとりに店任せてしもてるから」

「信用してへんの?」

 そう意外そうに言われ、千隼は少し気分を害してしまう。

「ちゃうわ。姉ちゃんは凄い頼りになるわ。忙しいのにひとりで任せて悪いってことや」

 千隼が少しつっけんどんな口調で言うと、寿美香は「そうやんね、解ってるって」とまた苦笑した。

「ありがとうね。また頼むわ」

 寿美香が言うと、千隼はふぅと呆れた様に息を吐いた。

「ひとり暮らしするって家出てったんやから、自分でどうにかしろよな」

「ごめん、ほんまにごめん」

 寿美香は悪びれずに言う。千隼は呆れるしか無かった。

「ほな」

 そう言い残し、千隼は寿美香のマンションを出た。



 また車を運転し、姉と自分の店にたどり着く。煌々と明かりを放つ店を前に、千隼は少し憂鬱(ゆううつ)な気持ちを抑えようと努める。

 佳鳴はともかく、お客さまに悟られてはならない。千隼は軽く両頬をぱんぱんと叩くと、裏に回って車を停めて家に入り、そのままエプロンを着け店の厨房に出た。

「ただいま戻りましたー」

 そう明るい声を上げる。すると客席から「おかえりー」と陽気な声が上がり、千隼はそれに癒される。

「お客さま方、本当にすいませんでしたね。姉ちゃん、何か変わったこととかあった?」

「ううん、大丈夫やで。ありがとう」

 佳鳴が笑顔でそう言うのなら大丈夫なのだろう。佳鳴は基本隠しごとのできないタイプだ。

「それよりお母さんは? 大丈夫やった?」

「いつも通りやったで」

「ああ、じゃあ大丈夫やね」

 佳鳴は千隼のあっさりした応えに苦笑した。

 この姉弟の母親は、どうにも人間としては破綻(はたん)がちの様で、父親含めて家族は少しばかり苦労をさせられたのである。