その日は珍しく屋上へ続く扉の鍵が開いていた。ドアノブを捻って扉を押してみると、それと同時に、ぶわりと生温かい風が一気に校舎内へ入り込んできた。
 う、と小さく声を零して、日差しの眩しさに思わず目を一瞬瞑ってから、ゆっくりと目の前に広がる屋上の光景を、扉から見える範囲ではあるが見渡した。
 フェンスも設置されておらず、手摺が心もとなく刺さっているだけ。落下防止にはとてもじゃないが役に立たなさそうだった。
 それは当然だろう。何故なら、普段はこの屋上は立ち入り禁止なのだ。
 屋上に唯一続くこの扉の前には、埃が厚く積もった大きな荷物が詰まれて、更に言えばチェーンでドアを閉めて、簡単に外されない様に南京錠で頑丈にロックまでされている。青春と言えば屋上、というイメージをガラガラと崩されたのは懐かしい記憶である。
 だから、普段はこの屋上に続く階段でいつも足を止めて、腰を下ろして過ごしていたのだ。
 けれど、今日は埃被った大きな荷物は消え去っていて、チェーンも外されて、南京錠も解除されていた。最初は何かの罠かと思った。

 けれど、扉を開けてみたらどうだ。目の前に広がるのは広く遠くまで続く青空。白い雲が少しだけ青空を隠してはいるが、太陽の日差しは隠しきれなかったようだ。
 屋上の床は反射している太陽で、キラキラと輝いている。
 ゆっくりと足を踏み出して、屋上に立って、深呼吸してみせた。
 遮るものが全然無くて、閉鎖的で狭く感じる教室や廊下とは違う、圧倒的な解放感。そうだ、私はずっと息苦しかったのだ。
 そのまま一歩、一歩と足を踏み出していく。じわじわ、と太陽の熱と地面の反射熱で体温が上がっていく気がするが、そんなのもどうでも良かった。兎に角私は、この広い場所に身を投じたい一心だったのだ。

「やあ、人の子、来たのか」
 突然、上から声が聞こえた。
 この屋上は基本的に立ち入り禁止、この学校の生徒全員が周知していることである。だがら、ここに人はいるはずがない……まあ、進行形で私が居るから説得力はないかもしれないが。
 兎に角、普通では聞こえないはずの声、聴く限り男性、それも人の子、だなんて不思議な呼び方をする輩が居るのだ。
 声の主を探すようにゆっくりと振り向いて、屋上に繋がる扉が設置されている塔屋を見上げるように、首を上に傾けた。
 すると、案の定そこに人はいた。居た、のだが、人、と言っていいのだろうか。
 塔屋に腰かけている男性は、陽の光に当たって少し緑が反射する綺麗な黒色の髪をしており、少しだけ目尻がつり上がって黒瞳を真っ直ぐとここに向けている美青年だった。
 だが、首から下の容貌が私の知っている普通からかけ離れていたのだ。
 まず、服装は着物。よく見たりイメージで浮かぶような着物ではなくて……なんだろう、山伏? というのだっけ。確かそんな人が着ている服装だ。
 そしてこれが、私の知っている普通との大きな違い。目の前の彼は、なんと真っ黒で大きな翼を背中から生やしているのだ。
 異形な存在を目にして、私の身体は思わず固まる。伝承や物語の世界にしか居ないと信じていた存在が、私を見下ろしている。それが恐ろしく感じて、気が付けば腰を抜かしてしまって、その場でぺたんと尻餅をついてしまった。
 そんな私の様子を見て、目の前の存在は驚いたように目を開いた後に、小さく吹きだしてから大笑いをした。
「あはは! びっくりしたか! そりゃそうだよな。今どきの普通の人間は俺達みたいな妖怪なんて目にしない」
「よ、妖怪……?」
「ああ、俺は烏天狗の(かける)だ。君は?」
「え、あ、私は……芽依(めい)
「芽依か。成程、良い名だ」
 名前を褒めてもらったかと思えば、彼は塔屋からふわり、と身軽に飛び降りて、私の前に降り立った。かこん、と下駄の軽く心地よい音が響いた。
 私が未だに座ってしまっていること。それと彼が下駄を履いている事もあって、彼がとても大きな存在のように思えた。
「良かったら俺の暇つぶしに付き合わないか?」
「え?」
「君も、つまらないからこうしてここに来たんだろ?」
 自己中とも思われる様ないい方に思わず口が尖ってしまうが、彼の言う『つまらないから』というのも否定が出来なかった。というよりも、正解に近かった。
 学校はつまらない。好きか嫌いかで選ぶとしたら、嫌いの分類だ。
 みんなと仲良くしたくないわけじゃない。ただ、その方法がよく分からないだけ。
 気が付いたら、私は教室で孤立していた。お友達作りのタイミングを逃してしまったのだ。今からでも間に合うと言う人いるだろう。だけど、私はそれが出来なかった。怖がりで弱虫だからだ。
 そうしたら、教室の居心地がもっと悪くなった。
 あの人いつも一人だよね。そんな言葉をふと耳にして、声のした方に目を向けた。自分の名を呼ばれたわけじゃないのに、自然と自分の事だと思ったから。
 そうしたら、案の定私の事だったみたいで。喋っていた子達は「目が合っちゃった!」「やばー!」と笑い声をこぼしながら走り去っていくのを眺めた。
 それからだ、クラスに居続けるのが苦しいと感じるようになったのは。
「クラスは、学校はどうせつまんないわよ」
「うん」
 ぽつり、と私が言葉を口にしはじめたら、彼は優しい声色で頷きながら、私と視線が合う様にしゃがみ込んだ。下駄を履いているのに器用な事だ。
「別にいいじゃん……一人で居たって」
「うん」
「誰にも迷惑なんてかけてないじゃん」
「うん」
「私が一人だと、アンタ達に何の問題があるってのよぉ……!」
 ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちてきた。それと比例するように、横隔膜も痙攣してしゃっくりとも止まらなくなってきた。
 突然の支離滅裂な愚痴に加えて泣きじゃくっている私を見ても、目の前の烏天狗らしい翔さんは、私の頭に手を伸ばして来て、優しく、わしゃわしゃと撫でてきた。
「そうかそうか。それは苦しいなあ」
「ぐす、本当は、学校にだって行きたくない。だけど、学校に行かないと、どうせ今の時代、もっと苦しくなっちゃうんだ」
 今の時代、大学に行くことすら当たり前と考えられてしまっている時代。そんな中、高校中退になってしまったら、将来の私にも居場所はなくなってしまう。中退した後の選択肢もあるだろう。通信制や資格を得るという方法だってあるだろう。だけど、私はそれを選ぶことが出来る自信が無い。世間の求める普通から外れるのが怖い。だから、嫌でも普通から外れないように学校に来ているのだ。
 鼻を少しすすりながら、目から止まることを知らない涙を袖で拭い続けて、情けなく鳴き続けている私を、目の前の彼は馬鹿にすることも無かった。
 久しぶりだった。誰かと、こうしてちゃんと向き合ったり、話を聞いてもらうのは。
「それじゃあ、しんどくなったら、いつでもここに来ると良い」
「え?」
 かけられた声に、ゆっくりと顔を上げる。彼はにこりと笑みを浮かべた。
「俺が君にとっての居場所になってあげよう」
「な、んで?」
 この人にとっての利益が見つからない。疑問を持った私を見て、彼は嬉しそうな表情を浮かべた。
「簡単に言えばひとめぼれだな」
 そういうと、彼は優しく指の背で私の涙を掬った。



 人間、いや、生物と括られても良いのかもしれない。我々は、居場所というものを得ると安心する生き物らしい。
 動物も己の巣を得ている存在がある様に、人間もそうした身を守る居場所が必要なんだ。寧ろ、当然なのだろう。生存本能なのかもしれない。
 あの日、翔さんと出会ったあの日から、私は何度も屋上に足を運んだ。
 昼休みの昼食の時間では一緒にお弁当を食べたり。彼の好みが良く分からないので、いつもおにぎりをあげるんだけど「美味い」と笑顔で言われれば、嬉しくて舞い上がってしまうものだ。他にもおかずを分けても、どれも美味しそうに食べてくれる。だが、おにぎりが一番好物なんだそうだ。彼の分のおにぎりも、気が付けば作る様になっていた。
 放課後も、屋上に上がって、私は課題や本を読んだりしている。翔さんはそんな私を興味津々に眺めていた。彼自身も一緒に文字を読んでいるようで、どういう意味なのかと問われれば、私はそれを簡潔に応える。そうすれば、彼は満足そうにうなずいて納得する。
 そんな時間が、何だか酷くうれしかった。自分が誰かに必要とされているような気分がした。

「あの人、昼休みいつもどこ行ってんだろ」
 昼前の最期の授業を終わる告げるチャイムが鳴ると、生徒其々が勉強道具を片付けはじめ、そのまま昼食の準備を始める。ある人は友人の傍まで弁当を持って移動し、別の人は購買まで走っていく。別の人は友人数人でどこかで弁当を食べるのか、楽しそうに会話をしながら教室を出ていく。
 私もクラスの流れに沿う様に、弁当用の小さな鞄を取り出した。自分で作った弁当と、翔さん用のおにぎり。
 そんな中で聞こえた声に、思わず動きが固まってしまう。
 大丈夫、私の事とは限らない。だって、名前呼ばれていないもの。自意識過剰なのだ、きっとそうだ。
 止まっていた動きを再開して、弁当を両腕で抱えながら、教室から出ようと扉を跨ぐ。
「ねえ」
 ぴたり、と足を止めた。
 名前を呼ばれていないのに、確実に私を呼び止めたのだと、声色で確信した。
 自分より下に見ている相手に向ける、圧を滲ませるが、どこか楽しさを隠しきれない、水に溶けきれない重たい絵の具の様な、恐ろしい声色だ。
 声のした方へ顔を向ければ、クラスメイトの女子二人が、笑みを浮かべながら私を見ていた。
 にこにこ、とした笑みだったら良かった。きっと今にも爆発してしまいそうな心臓も、安堵して喜んでいたはずだった。だが、二人の笑い方は、ニヤニヤと表現すべきものだった。心臓はさらに大きくバクバクと激しく動き出し、心臓が痛く感じる。ずきずきと、心臓と胃が痛い。喜ぶどころか、痛みで泣きだしそうだった。
「いつもさあ、一人でどこ行ってんの?」
「……えっと」
「ていうか、一人で食べてて楽しいの?」
 くすくす、と笑い声を零す。ぎゅう、と弁当を抱える腕に力がこもる。そのまま心臓も抱きしめられたらいいのに。
「良かったら誘ってあげよ―か?」
「え~? それは止めよ―よ、ご飯マズくなるって。湿気強いもん」
 二人揃って、キャハハと品の無いような笑い声をあげた。
 私は何も言い返すことが出来ず、今にも泣き出しそうな心臓を慰めるように、再度腕に力を込めてから、教室を後にした。
 廊下に出て、私の足は自然と早足になる。誰もいなくなったのを察すると、自然と早歩きから小走り、本気走りとなっていく。
 屋上へと続く階段を一段飛ばしで必死に走って、踊り場や階数の変わり目では手摺を支えに足を軸にして、スピードを落とさないで階段を走り抜けた。
 今日も、屋上への扉は空いていた。
 まるで溺れそうになりそうだから必死に助けを求めるように、屋上の扉を勢いよく、大きな音を立てて開き屋上へ飛び込んだ。
「お、どうしたどうした。今日は一段と必死だな」
 扉を開いた先には、屋上から景色を見下ろしていたのか、翔さんが手摺の付近で立っていて、私が来たのが分かると振り向いていつもの笑顔で迎えてくれた。
 ふらり、と足がゆっくりと一歩踏み出した。ここまで必死に走ってきたから息が上がっている。
 はあ、はあ、と息を上げながら疲れと別の理由から来た震える脚で、必死に一歩一歩を踏み出す。翔さんの方へ向かって足を進める。
 けれど、翔さんまであと一歩のところで、膝が崩れ落ちて、ぐしゃりとその場に座り込んでしまった。屋上の固い地面が膝とぶつかってとても痛い。
 だけど、その痛みと比例できないくらい、心臓がじくじくと、ずきずきと痛みを訴えてきていた。
「芽依?」
 彼は私の名前を呼んで、足を踏み出した。そのまま私の頭を撫でようとしたのが、気配で分かる。
「……芽依?」
 今一度名前を呼ばれ、頭に手を乗せながら、目の前で屈んだのが分かった。
「……なんでもないよ」
 震えた声が私の口から零れた。人間ってここまで唇が震えるんだって、生まれて初めて知った。
「……何でもないことはないだろう? どうしたんだ? お昼を食べながら話そうじゃないか」
 頭を優しく撫でられた。その声は、壊れ物を優しく包んでそのまま修復するように優しい声で、ぼろぼろと涙が意識せずとも零れた。
 小さく頷いて、彼にご飯を差し出す。彼は嬉しそうに笑顔を浮かべて、私の横に並んでおにぎりを一口頬張った。
「美味しいな。芽依は美味しいご飯を作る名人だ」
「普通、だよ」
 君も食べろ、と私用のおにぎりを差し出されて、何も言わずに受け取って、ラップを取ってからゆっくりと口に運んだ。
 何度も咀嚼していると、ぼろぼろと涙はどんどんと溢れてくる。
「美味いか?」
「わ、かんなくなっちゃった」
 何が美味しいのか、分かんなくなっちゃった。涙の所為なのかな、味が良く分からないよ。
 翔さんが食べてるおにぎりも、本当においしいのかな。美味しいと言ってくれた時と同じ味付けのはずだから、酷い味にはなっていないと信じたいけど。
「そうか、分からないのか。美味しいご飯の味が分からないのは、悲しいな」
 彼は一つのおにぎりを完食すると、私の方へ優しい笑みを見せてくれた。
「ご飯、美味しく食べたいか?」
 彼の問いかけには、色々な意味が込められているんだろうな、というのがなんとなくだけど分かった。
 私が泣いて苦しんでいる原因から、助けてあげようかと問われているようにも思えた。
 ご飯の味が分からない時は、いつだって一人で寂しく苦しい心地の中で食べる時だったから。
「わ、か、んない……けど、翔さんと一緒に、美味しく食べたいなあ」
 再びボロボロと涙を零せば、彼は嬉しそうに、また優しい笑顔を見せてくれた。
「そうか、分かった」
 そういうと、彼は立ち上がり、背中の黒い大きな翼を広げた。
 ばさり、と広がった瞬間に、烏の羽根のような、それよりも大きな羽根がはらりと舞いながら落ちた。
「じゃあ、俺がずっと一緒に居てあげるな」
 そう言いながら、彼は私の手を取った。息苦しい靄から解放された気がした。
「ずっと、どうして、私を?」
 出会った時から彼は私に優しかった。理由を彼は言っていたけれど、自信は無かった。己に関して自己肯定感が低すぎるから。
 けれど彼は私の疑問をおかしな質問だと言わんばかりに笑って、私の手の甲に少しだけ唇を当てた。
「言っただろう。俺が君に惚れているからさ」
 身体の中に、新鮮な空気が入って来て、新たな自分と出会えたような、そんな気分がして。私は握られた彼の手を、自然と握り返した。
「俺の住む山はいいぞ。紅葉は綺麗だし、空気はうまいし、山の実りもある」
「とても素敵」
「ああ。だから安心して俺と一緒に居てくれよ」
 そういって彼は私を抱きかかえて、そのままその大きな翼をはばたかせ、屋上から飛びだした。屋上から飛びだした先に広がる景色は、私の思っている以上に広い世界が存在していて、私はずっと狭い世界の普通に縛られていたのだと知った。
 広がる景色に心を奪われたその時、私はずっと外れることから怖かった『普通』という道から、自ら道を踏み外したのだ。


―――……


『〇月×日。○○高校の女子生徒が行方不明となった事件について。少女が昼休みに教室を出た後、屋上へ続く階段を駆け上がっていたのを目撃した生徒が居り、これが最期の目撃証言となっている。その証言のもとに警察が屋上を確認したが、少女の姿は無かった。そもそも、普段から屋上へ続く扉の前には大きな荷物も積まれており、鍵もかかっている為に、生徒は入ることは許されていなかったどころか、入ることも不可能な状況であったという。当然、その日も許可は下りていなかった。
 なお、少女は昼食時には教室を離れたが、学校外には出た痕跡が無いことから、学校の中で行方を眩ませ、昼休みの短時間の間で姿を消したと思われる。少女の荷物は学校に置きっぱなしになっていたことから、校内で何者かにさらわれた可能性も視野に入れ、警察は捜査を続けている――……』