❀.*・゚
これ、一日じゃ終わらない。
床の埃や煤の汚れを取るだけでかなりの時間と労力を消費した。
明日以降も掃除しに来ていいか聞いてみよう。
エマは暗がりの中から出て、夕日の照らす地面へ足をつけた。
うわ……さっきまで暗かったから分からなかったけれど、洋服が汚れてる。これは帰って洗濯しなきゃ。
顔を上げると、神社周りの掃き掃除をしているコクトを見つけた。
面倒だと言ってサボるかと思っていたけれど、ちゃんとやるんだ。
そんなことを考えていると、彼と目が合った。
「ん、終わったのか?」
箒を持ったままこちらに近づいてくる。
掃除をするからジャケットを脱いだんだろうけど、その格好に箒は似合ってなくて、なんだか笑えてしまう。
「それが今日中に終わりそうになくて。明日も来ていいかな?」
「もう嫌だって言うかと思ったけど」
「大変ではあるけど、掃除なら私にもできるし。あやかしたちが帰ってこられるようにしたいって思ってるのは本心だから」
そう言った私を意外そうに見つめてきたコクト。
家にいた時は偉そうな態度をとっていたけれど、ここへ来てからはやけに落ち着いている。人の姿になったからなのか、それとも仲間がいなくて寂しいからなのか。
どちらにしても、その差に驚いたことには変わりない。
「お前さっきからこっち見すぎ」
「あたっ」
一瞬何が起きたのか分からなかったけれど、額に残る痛みで理解した。
「なにするの!」
「間抜けな顔してるお前が悪い」
コクトは私の手にあった箒を奪い取り、自分のと合わせて壁に立てかけた。
「作業は終わりだ。帰るだろ?送ってく」
「あ、ありがとう」
さり気なくそう言ってくれる優しさが、容姿と相まって余計に紳士的に見える。
花提灯の影響で今はまだ神社に入ることができないけれど、掃除すれば触れられるようになるのだろうか。
私はコクトの代わりに扉の鍵を閉めた。
「あれ、コクト?」
一瞬の隙に姿を晦ました彼を探していると、
「おい、帰るぞ」
後ろで声がして、振り向くとミニコクトが宙に浮いていた。
「また小さくなったの?」
「山から離れるとあやかしの力は弱まるからな。街に下りる時、人間の姿だと一分もたない」
私は、小さな羽をひらつかせているコクトの分身と山を下りることになった。
佇む木々の隙間から夕焼けの光が差し込み、優しく照らされた山道を踏みしめる足音がひとつだけ響く。
「コクトは普段山で寝てるの?」
「あぁ。あそこ以外に行くとこないからな」
それでちゃんと休めるのかな。
……あの場所で休まなければならない理由を作ったのは私の花提灯なのだけれど。
私に何かできることはないだろうか。
思い出すのは、部屋にある家のこと。
「あのドールハウスなら自由に使ってくれていいよ」
「人間と同じ家に居ろって?それはごめんだね」
「どうして?」
私の問いに顔だけ振り向かせたコクトは真顔で答えた。
「俺は人間が嫌いだからな」
「……!」
そうだよね。私は何を勘違いしていたのだろう。
あやかしを嫌っているのは人間の方なのに。
話を聞かず、厄災と決めつけ追い払っている。それだけで、人間を嫌う理由には十分だ。
それなら、なぜ人間嫌いの彼は今私と一緒にいるのだろう。嫌いならそもそも街にも下りてこないはず。
もしかして、花提灯を作らせないようにするために絡んでるとか?
ん……?花提灯を作らせないように?
「あー!」
「なんだよ、うるさいな」
「花提灯!神社の掃除してたら忘れてた!」
このまま明日も明後日も掃除を続けていては花提灯が祭りまでに仕上がらない。かと言って掃除を途中で投げ出すわけにもいかない。
どうしよう。あれ作るの一人だと一ヶ月はかかるんだよね。
仕事があるお祖父ちゃんに手伝ってもらうのも申し訳ないし、帰って作業の続き……をする体力はもう残っていない。
頭を抱えるエマを見たコクトは軽くため息を吐いた。
「手伝ってやるよ」
「え、なにを?」
「お前の仕事をだよ」
舌打ち混じりに言われても、私は混乱したままだった。
「コクトはお祭りを中止させたいんじゃなかったの?」
「俺が言ったのは、祈ることを止めろという意味だ。それをしないのなら祭りをやったって問題ない」
思い返してみると、確かにお祈りごっこを中止しろと言われていた気がする。あれ、でもその後はやっぱり祭りを中止しろって……。
「手伝ってほしいのかほしくないのか、どっちだ!」
「手伝ってほしいです!」
勢いのまま返事をしてしまった。
手伝ってもらえるのはありがたいけれど、本当にいいのかな。
ここにきて益々彼のことが分からなくなった。
人間嫌いなのに私といるし、祭りを中止させたいのに花提灯作りを手伝ってくれると言うし。
「ほら、着いたぞ。さっさと帰れ」
結局詳しい話は聞けないまま、明日から花提灯を作ってもらうことになった。
次の日、花提灯の材料を持って山に来た。
道は昨日覚えたし、わざわざ迎えに来てもらうのも申し訳ないと思ったからコクトには神社で待ってもらっていた。
「これが一応お手本なんだけど、作り方を」
「いい。もう知ってる」
「え?」
エマの手から材料の入った袋を取り、紙を折り始める。
「前に作ってただろ?それ見て覚えた」
前に……あ、コクトがドールハウスで休んでいた時に近くで作業してたっけ。あの時、起きて見てたんだ。
でも本当にあれだけで?私でも覚えるのに丸一日かかったけど。
迷いなく進めるコクトの手元を見ていると。
「ほら、こんな感じだろ?」
「うん、合ってる」
スズラン型を作ってくれたけれど、私が作るより数倍早い。それでいて丁寧だし、手際が良い。
「私が作るより全部コクトに任せた方がいいのかも」
「お前どんくさそうだもんな」
「そんなことないよ!?」
「分かったから早く掃除しろ」
コクトは私に背を向けたまま手で追い払う仕草をしてみせる。
私が自慢できる唯一の特技だったのに、こうも簡単にこなされると、なんだかショックだ。
その悔しさを晴らすべく、私はひたすら壁の煤を落とした。
❀.*・゚
それからは毎日、私が神社の掃除をしている間、コクトは花提灯を作ってくれた。
「へー、だいぶ綺麗になったじゃん」
「中はね。所々抜けそうな床とか雨漏りしてる屋根以外は一通り磨いたよ」
入口から見ても以前より綺麗になったのが一目で分かる。
キラキラ光って見えているのは間違いなく、太陽の日差しだ。
そして今日からは外の壁を磨いていく。
ずっと暗くて汚れの溜まった重たい空気の中にいたせいか、久しぶりの外での作業で開放的になれる。
それに、同じく外で花提灯を作ってくれているコクトとも距離が近くなるし、自然と心が軽くなった。
「それにしても、どうしてコクトは一人で残ってたの?」
壁に布を押し当てて拭き掃除をしながら、日陰で作業をしていたコクトに声をかけた。
すると動かしていた手が止まり、コクトは小さい声で何かを言っていた。
「え、ごめん聞こえなかった」
「たから!じゃんけんで負けたんだよ」
「じゃんけん?」
「そうだよ、悪いか」
最後に誰が残るかをじゃんけんで決めるたんだ。
それにしてもトマト以外にも弱点があったなんて。
「弱いの?じゃんけん」
「あの時はたまたまだ」
ここまで言われて試さないわけにもいかないと思ったエマは、コクトの前に回り込んだ。
「じゃーんけーん」
ぽい。
私はパーで、コクトはグー。
「……たまたまだ」
その後三回やって、三回とも私が勝った。
「もう一回やっとく?」
「いいよもう!」
コクトはエマに背を向けて再び花提灯を作り始めた。
じゃんけんに関して、私も特別強いわけではないけれど、コクトがここまで弱いとわざと負けているようにも思える。でも、反応を見る限り本当に弱いんだろうな。
「あ……」
エマは後ろから見えたコクトの耳が赤くなっていたことに気づいた。
今までなにかと言い負かされていたから、初めて勝てた気がして優越感に浸っていたけれど、このギャップには少しだけ胸をくすぐられた。
「なぁエマ」
水汲みから帰ってくると、完成した花提灯を手に持ったコクトに呼び止められた。
「試しに一つ飛ばしてみてもいいか?」
「いいけど。どうしたの?」
「ちゃんと飛ぶか確かめるついでに、あいつらに連絡する」
そう言いながら、花提灯に何か粉のようなものを振りかけていた。
「これ見たら誰か連絡くれるだろ」
コクトが指を鳴らすとロウソクに火が灯り、空に舞い上がった。
エマは石段の上にバケツを置いて、その隣に座った。
「今何かけてたの?」
「あやかしが連絡を取り合う時に使うものだ。人間で言うところの手紙みたいなもので」
エマの正面に来たコクトが、ふと立ち止まった。
「ん?」
雲の隙間から顔を出したオレンジの陽がエマの座る場所を照らし、コクトはそれをじっと見つめていた。
思わず合った視線を逸らせなくなったエマの体は固まったまま動かない。
「え、なに」
ゆっくりと距離を詰められ、コクトが石段に足をかけたところで口を開いた。
「お前……あやかしの子か?」
「……へ?」
あやかしの子?初めて聞く言葉に戸惑っていると、強い力で押し倒された。
「ちょっ!?」
抵抗するエマの腕が隣に置いてあったバケツに当たり、入っていた水が勢いよく零れた。
それに構うことなくコクトの手が首元に触れ、探るように指を這わせる。
「首にはない……どこだ」
そのままコクトの視線がエマの着ていたワンピースに移り、スカートの裾を掴んだ。
「悪い、ちょっと足見せて」
「あし……?」
涙目になったエマが押さえていたスカートの隙間から見える素足にコクトの手が触れた。
「っ……!」
細い指に厚みのある手のひら、優しく扱うように冷たい体温が伝わってくる。
コクトが迷わずエマの左の内太ももに手を当て、そっと擦ると今まで何もなかったはずの肌に模様が現れた。
「あった。ヤツデの刺青」
「なに、これ」
自分の足に現れた模様を初めて見たエマは目を疑った。
「ヤツデの刺青。本来はあやかしの中でも天狗の首元にある模様だ」
コクトと初めて会った時、首元で見つけた模様があった。あれはヤツデの刺青だったんだ。
それが私にもあるということは……。
「ただ、エマの瞳は緑だし、あやかしが使える力も使えない。見た目も普通の人間と変わらないし……やっぱりお前、人間とあやかしの間にできた子どもだろ」
人間とあやかしの子ども……?私が?
「そんなこと言われても、私の両親はもうこの世にいないから分からない」
戸惑いながら口にした言葉は、ぽろりと下に落ちた。
コクトは掴んでいた手を離し、エマから距離をとると零れた水を片付け始めた。
「だったらあの祖父さんにでも聞けよ。あの人、何か知ってるように見えたぜ」
お祖父ちゃんが?
確かに私の両親のことを知っているのはお祖父ちゃんしかいない。
「本当にエマがあやかしの子なら、これまでの行動の効果にも納得がいく」
「どういうこと?」
倒れたバケツを起こし、神社に目を向けたコクトはそのまま言葉を続ける。
「普通に綺麗にしただけじゃ神社にかけられた祈りの呪いは解けない。だから当然俺は中に入ることはできないと思っていたが……掃除をしたエマに何かしらの力があるのか、呪われているはずの神社に入ることができた」
そう言って近くにあった壁に手を伸ばしても、コクトの身には何も起きなかった。
掃除をしている時は何も感じなかったけれど、私は無意識のうちに力を使っていたのだろうか。
「それに、あの花提灯。エマが作ったものは強い力を持っている。街人の"あやかしを追い出したい"という願いを実現させるほどの力だ。現状、街の復興を願う声よりも多かったそっちが優先されていると言ったところか」
やっぱり私のせいだったんだ。花提灯じゃなくて、全部、私の……。
自分にそんな力があったなんて知らなかったけれど、私が原因で街を、人を、あやかしを苦しめていたんだ。
もしも本当に私があやかしなら、この街にはいられなくなるかもしれない。
誰もが嫌っているあやかしが花提灯を作っているなんて知ったら、みんなはどう思うんだろう。
……コクトは、どう思っているんだろう。
そう考えると、自然と視線が彼を追っていた。
「コクトは、私があやかしの子どもだったらどうする?」
ひとりごとのように呟いたつもりだったけれど、相手にはちゃんと聞こえていたようで。
「俺は別にどうでもいい」
相変わらず私には興味を示さない様子で答えた。
私のせいで自分たちが出て行かなくてはならない状況に追い詰められたのに、どうでもいいなんてことはないと思う。
これからどんな顔をしてコクトと会えばいいのだろう。私ができる範囲の掃除は終わったし、もうここへ来ない方がいいのかもしれない。
俯いたまま立ち上がったエマを見たコクトは、彼女を呼び止めた。
「言っとくが、自分のやったことをそんなに深刻なものとして捉えない方がいいと思うぞ」
「え?どうして」
不安が消えないエマの顔を見たコクトはため息を零した。
「今ここにいないあやかしたちは、他の街に行って羽伸ばしてるからだ」
「……え?」
この街を追い出されたあと、彼らは色んな街を巡って好きなことをしていると教えられた。
温泉に行ったり、海を見に行ったり、他の街のあやかしに会いに行ったりと、自由に過ごしていると連絡が来たらしい。
「だから言ったろ?深刻に考えるなって」
まるで旅行に行ってるみたい。通りで神社に残る一人をじゃんけんで決められるわけだ。
曇っていたエマの表情が少しだけ軽くなった。
「でも、私が追い出したことには変わりないよね?」
「追い出されてもあやかしたちは困ってねぇよ。街を出てあやかし自身に不利益なことはないからな」
それはつまり、あやかしが街にいなくなって困るのは人間だけということ。
「エマがあやかしたちをこの街へ戻したいって言うなら止めやしない。でも、今のままじゃ誰も帰って来ねぇよ」
『この街は私にとって大切な居場所だから、守りたい』
涙ぐんで自分がそう言ったことを思い出す。
あやかしたちにとって、ここに留まるか否かは重要なことではなくて。けれど人間は、この街は、あやかしの力がないと存続は不可能。
コクトに言われて私が掃除をしたから、あやかしたちが帰って来られる準備はできているんだ。
あとは街の人をどうにか説得できれば……。
目の色を変えたように考え込んでいるエマを見たコクトは鼻で笑った。
「なんだ。落ち込んでんのかと思ったけど、ちゃんと前向いてんじゃん」
その声でエマは瞳に街を映した。
「あやかしたちが伸び伸びできているみたいで安心したから」
それに、私がやるべきことが何となく分かった気がする。
家に帰り、コクトから聞いた話をお祖父ちゃんにした。
「私のお父さんとお母さんって、どんな人だったの?」
今までは、優しい人だとか素敵な人たちだったとしか聞かされていたかったけれど、今日は違う言葉が返ってきた。
「あの天狗に聞いたのか?」
「えっ、コクトのこと知ってるの!?」
驚く私に対してお祖父ちゃんは微笑んでいた。
「あの小人天狗はコクトと言うのか」
前にミニコクトを連れて帰った時、私は小人としか言わなかったのに、お祖父ちゃんはそれを天狗だと見抜いてた。
時計の針の音が静かに響く部屋で、仕舞われた過去の記憶が紡がれる。
「エマの母親は人間だったが、父親はあやかしの天狗だった」
私の父は、街で会った母に一目惚れしたらしい。
過去に人間とあやかしが結ばれた前例はなく、それ故に二人は周囲に事実を告げることはなかった。
祖父には子を授かって初めて打ち明けたという。
街の人々は、あやかしを嫌い、恐れ、恨んでいたが祖父だけは違っていた。
「この世に存在しない者などいない。出会ったのなら、もてなせ」昔からこれが口癖だった祖父は、あやかしだった彼をもてなし、二人のことを快く受け入れた。
「エマが生まれてからは三人で仲良く暮らしていくのかと思っていたが、二人の考えは違っていた」
人間とあやかしの子だというだけで、普通の幸せを与えてやれないと思った二人はエマに真実を伝えることなく、この世を去った。
何も知らず、人間として生きていくことがエマにとっての幸せだろうと、祖父に預けたのだ。
「二人が出会ったのは、まだ人間があやかしと共存していた頃だ。そして、エマが生まれたのは山火事の一件があり、あやかしに対する固定概念が生まれた頃。
本来なら普通の家族として受け入れられるはずが、街の者たちが抱くあやかしの虚像が広がる一方で、生きづらさを感じていたのだろうな。お前たちは、普通の家族以上の、素敵な家族になれたはずなのに」
その口調から祖父はあやかしの正体を知っていることが分かる。
最後に「この世を去らずとも、他に方法はあったはずなんだがな……」と、ぽつりと呟いていた。
一人部屋に戻ったエマは考えた。
やはり今のままではだめだ。
私がこの世に残された意味を考えろ。
今の私があるのは、両親が選んだ最善の結果。それが間違いだったとは思わない。でも、私の幸せは自分で見つけられる。
私にとっての幸せは、人間とあやかしが共存できる街を取り戻すこと。
それこそ、祭りを中止にしてでも。
ここで私が逃げれば、何も変わらない。
両親が見つけられなかった未来を、私が見つけ出す。
朝の香りが広がる、透明な日差しに照らされた神社は神秘的で美しいものだった。穏やかな風に吹かれる木々に耳を澄ませば自然と心が落ち着いてくる。
静かな時間が流れる中、息を切らした一人の少女が山を駆け上がって来た。
「コクト。私、街の人たちを説得してくる」
「ふーん」
石段の上に座り、慣れた手つきで花提灯を作っていたコクトは顔を上げずに話を聞いていた。
「あやかしたちは、この街に必要な存在だということを話して、街を活気ある場所に戻したい」
「そう簡単にいくと思ってるのか?今まで散々あやかしを嫌ってきたやつらを相手にするんだぞ」
その声は冷静で、焦るエマとは真逆の温度を纏っていた。
「分かってるよ。でも、私の気持ちは変わらないから。ちゃんと全部話そうと思う」
全部。それは、私自身のことも含まれている。
正直これが上手くいくとは限らないし、最悪な未来へ転ぶ可能性だってある。けれど、何もしないより動いた方が何かが変わる気がしていた。
半端な覚悟ではないということをどう伝えようか迷っていると、そこでようやくコクトの顔がエマの方を向いた。
「まぁ、やってみれば?」
「え……」
返って来たのは予想外の反応だった。
「止めないの?」
「どうして」
「だってコクトは、人間のことが嫌いなんでしょ?」
様子を窺うように聞いた。
一瞬だけエマと視線を合わせたコクトは手に持っていた花提灯を石段に置き、足を組んだ。
「それは俺の個人的な意見で、他のやつらはなんとも思ってない。
俺たちあやかしは、人間の住む街で不利益なことは何もないが、得するようなこともあるわけじゃない。そこにいて欲しいと望まれているなら、そうするだけなんだよ」
「じゃあ、どうしてお祭りを中止しろって……」
「ただの忠告だ。今のまま祈りを捧げたところで未来は変わらないことを言いたかっただけ」
彼は人間のことが嫌いなのに、人間のことを思って私に忠告してくれた。
そもそも、この街の人が嫌いなら、さっさと捨てて出ていけばよかったのに。
街がなくなったところであやかしたちは何も困らない。
それでも彼はここに残ることを選んでいる。
そこに理由がないとは思えなかった。
「得するようなことはないって言ったけど、それも感じ方次第だ。中には人間が好きなやつもいる。そいつらからしたら街での暮らしは楽しいものだろうな……。それと似たようなもので、俺はこの街が好きなんだ」
「コクトも?」
「勘違いするな。お前はこの街にいる人間含めての好きだろ?俺が好きなのは"街"だ」
「そんなに強調しなくても分かってるよ」
優しい風が吹いて、髪もスカートも葉もふわりと揺れる。
黒髪の隙間から見える赤い瞳には、この街がどんな風に映っているのだろう。
答えを求めるように、視線の先にいる一人を見つめた。
「俺は、ここから見える街が好きで、ずっと見続けていたいと思うほどには気に入っている。……そんな景色を作っているのは人間たちだ。だから人間にいなくなられても困る」
コクトが私を止めないのは、この街を終わらせたくないから。
雲が動かなければ雨が降らない。そうなればこの街を彩っている緑や花々が枯れ果て、作物は育たなくなり、ここからの景色は失われる。
子宝に恵まれなければ、街の時間を繋ぐ者がいなくなる。
それをコクトは望んではいなかった。
人々があやかしを追い出すことを願う中、コクトはただ一人残って街を守っていたんだ。
この景色が終わらないように。
「そんな時に、エマを見つけた。
街のやつらは切羽詰まって暗くなっていくのに、エマだけは前を向いて笑ってた。この街が好きだと言わんばかりに走ってるお前を見て、あぁ、この子なら変えてくれるかもしれないと思った。
運がいいことに祈りを捧げる花提灯を作ってたし、おまけにあやかしの子だった」
コクトは、私が彼を見つける前から、私のことを知っていた。
その事実から告げられた彼の思いを受け止めた胸がチクリと痛む。
「人間がいなければこの景色は作れない。街が残るなら、どんな手を使ってでも残すつもりでいた。
……でも、人間の心を動かすのは人間にしかできないことだ」
人間の心を動かすのは、人間にしかできない。
そう言い切ったコクトはエマに優しく微笑んだ。
「だから、ありがとな」
「えっ」
「この街を変えたいと思ってくれたこと。嬉しかった」
再び視線を逸らされ表情は分からなかったけれど、見えた耳は赤くなっていた。
「お礼なら、全部上手くいってからにしてほしいな」
それに、お礼を言わなけきゃならないのは私の方。
人間の心を動かすのは、人間にしかできない。
そうかもしれないけれど、私はあやかしであるあなたに心を動かされた。
一人では、勇気なんて出なかった。どうすればいいか分からず悩んでいた。私なんかにできるわけがないと。
でも、コクトの思いを知れたから。あなたが笑ってくれたから。
私は――
「皆さんに、聞いていただきたい話があります」
人が行き交う街の広場に立って声をあげた。
「エマちゃん?」
「あら、どうしたの?」
その一声で、街の人々は足を止めてくれた。
家や店にいた人も顔を出してくれている。
集まる視線に目を逸らしたくなるけれど、グッと踏ん張って前を向いた。
「来週行われる花提灯祭りで、あやかしのことを願うのはやめていただきたいんです」
どんなに街の復興を願っても、あやかしを追い払いたいという願いが多ければ現状は変わらない。
私に願いを叶える力があるなら、その内容を変えなければならないと思い、端的に伝えた。
エマの言葉に動揺する人々。
そう簡単に頷いてくれるとも思っていなかった。
「あやかしは、この街をずっと守ってくれていたんです。確かに雨が降らないのは、あやかしが原因です。ですがそれは、あやかしがいないからで」
それから私はあやかしの役目を話し、この街にとって必要な存在だと言うことを伝えた。
信じ難いであろう話を聞いた街の人々はどよめき、それぞれの思いを口にする。
「エマちゃんの頼みでもそれは……」
「言いたいことは分かるけど、またいつ俺たちを裏切るか分からないじゃないか」
「二十年前に起こった山火事は、街を焼きつくそうと企んだあやかしの仕業なんでしょ?」
いつの間にそんな話になって……。
噂が噂を呼び、あることないこと広まっていた。
「違います!あの山火事は」
「エマちゃん。もしかして何か吹き込まれたの?」
「え……」
隣にいた野菜屋のおばさんに言われた。
「だって最近よく山に行くのを見かけるし、本当に出会ってたり」
だめだ。どう説明しても分かってもらえない。このまま話し続けても……。
俯いた頭で次に話すことを必死に考える。
すると一人がエマの後ろを指さした。
「おい!あれを見ろ!」
街人の視線の先には人影があった。
建物の影から妖しく光る瞳を向け、艶のある髪がそっと揺れる。
腕を組み、壁にもたれかかった姿勢のままこちらを眺めていたその人は、影の中から姿を現した。
一歩、また一歩踏み出す足音が、街人たちの意識をそちらへ向かわせる。
品のあるその立ち振る舞いに圧倒され、息を呑む音が聞こえた。
「赤い瞳……人間の瞳は青か緑のはず」
「もしかしてあれは本当に」
「あやかしだ!」
その声に呑まれるように人々はざわつき始める。
不安や怒りの感情が飛び交う中、ただ一人だけ、緑の瞳に焼き付いた彼から目を離さなかった。
コクト……どうして。
彼は人の姿をしていた。
エマの力で人の姿を維持できるようになったとはいえ、人目につく街には近づかないと言っていたのに。
「あいつらのせいで俺たちは」
「厄災の原因だ」
「懲らしめろ」
心ない言葉や小石が投げつけられる。
向けられる視線に胸が締め付けられるけれど、それに構うことなくコクトは真っ直ぐエマを見つめていた。
お願い、やめて。そう言いたくても声が出ない。
音にならない空気が喉に詰まる。指先が震えるだけで体も動かない。
止まることのない言葉に息が苦しくなる。
彼の足も止まらない。
あなたを傷つけるためにこんなことをしたかったんじゃないのに……。
そして、手を伸ばせば触れられる距離まで来たコクトは、エマの頭を優しく抱き寄せた。
もう、大丈夫だ――
その言葉に、ふっと体の力が抜け、意識が遠のく。
エマの目が閉じられ、コクトに体を預けるようにして倒れ込むと、人々の言葉は更に勢いを増した。
「見たか今の」
「あの子に何をしたの」
「〇△□✕%※……」
「███」
もう誰も傷つけないで。
私が望む未来は……。
……!
次の瞬間、不思議と体に力が戻り、全身が熱を帯びたように芯から湧き上がってくる何かを感じた。
それを吐き出すために息を強く吸う。
「やめてください!」
目を見開き、自分の足で立ったエマは、前を向いて叫んだ。
その声に街が静まり返る。
「エマちゃん……その目」
涙を滲ませたエマの瞳は人間の証である緑色と、あやかしの象徴である赤色をしていた。
「私は、人間とあやかしの子どもです」
はっきりと聞こえる言葉に街の人は静かに耳を傾けるだけで、誰一人口を開く者はいなかった。
エマの隣にいたコクトは、そっと彼女の後ろに隠れた。
「私の両親は、私が生まれてすぐにこの世を去りました。
そんな私をここまで育ててくれたのは、お祖父ちゃんと、この街の皆さんです。
私は街にも、皆さんにも、とても感謝しています。
毎日どんなに辛くても、笑顔で言葉を返してくれる。街を彩る花のお世話をしてくれる。生活が苦しくても、誰かのために生き続けてくれている。そんな街が大好きなんです。
だから今度は、私が恩返しをしたい。大好きな街を築き上げてくれた皆さんが、私と関わってくれた皆さんが、幸せに溢れた日々を送れるように。
そのためには、あやかしの力が必要なんです」
エマの瞳が色を変えた瞬間から、少しずつ街が動いていた。
土に埋められた花の芽が蕾をつけ、畑で育つ野菜の苗が雫に濡れ、教会に絡まっていた花の蔓が解け、隠されていたステンドガラスが光り出す。
「見ての通り、私にもあやかしの血が流れています。
そして、この力は誰かを傷つけるためにあるのではなく、笑顔を生むためにあるのだと、私は思います。
皆さんの力になりたいという気持ちは生半可なものではありません。だからどうか、私の作る花提灯に、この街の未来を願って頂けませんか」
身体の前で手を重ね、そっと頭を下げた。
彼女に圧倒されたのか、見惚れてしまうほどの綺麗な所作に言葉を失ったのか、街の人々は愕然としていた。
そんな中、彼女に声をかけたのは群衆の後方で話を聞いていた長老だった。
「素敵なことを言ってくださる若者がいてくれて、この街の未来は安心ですな。彼女の願う未来はとても素晴らしいものになるだろう。私はあなたを信じましょう」
そう話す長老の姿を見て思い出した。
昔私にあやかしのことを教えてくれたのは、この人だ。おとぎ話を繊細に語る、当時は物語の出来事だと思っていたけれど、眠る祈りを訴えるように告げられた話を私は忘れられないでいた。
彼もずっと願っていたのかもしれない。あやかしと人間が作るこの街の未来を。
長老の言葉に続くように人々はエマの考えに賛同し、拍手を送った。
そこから見えた街の表情は穏やかで、止まっていた時間が動き出したように思える。
あやかしに対して抱かれている虚像を完全に取り除くにはまだ時間がかかるだろうけれど、これから少しずつ進められたらいいな。
瞳に映る景色を脳裏に焼き付けながら胸を撫で下ろすと、そっと背中を合わされた。
少し振り向くと、風になびく黒髪が視界に入る。
ありがとう――
感じた温もりを忘れないように、エマはそっと目を閉じた。
❀.*・゚
花提灯祭り当日。
賑わう街の通りでは、色鮮やかなランタンが飾られ、出店には目を奪われる食べ物が並ぶ。
見慣れた野菜や果物の他にゼリーやドリンク、飴細工など祭りならではの品に胸が踊る。どこかの島で取れた可愛らしい砂や、不可思議なものが見える鏡、音の鳴る箱、興味をそそる小物も多数取り扱う年に一度の長い夜。
花壇に咲く花々に照明を当て、優しい温もりの色が道を示す。水の溢れる噴水広場にランタン明かりの水波が広がる。
店主も客も、皆笑顔を浮かべて楽しんでいる祭りは、ここ数十年で一番の盛り上がりを見せた。
フィナーレを飾る花提灯が街人の手に渡ると、ロウソクに火が灯される。
「では皆様いきますよー!せーのっ!」
アナウンスと同時に、手元にあったオレンジ光りの花提灯が一斉に夜空に舞い上げられた。
一人一人の願いを乗せて、終わりのない空へ放たれた輝きは、幻想的で美しく、皆の記憶に刻まれた。
♢
♢
♢
「綺麗だね」
「そうだな」
私はコクトに連れられて山にある一番大きな木の上で夜空を舞う花提灯を見ていた。
空を見上げる瞳から赤色は消え、いつもの緑色をしている。
丈夫な枝に並んで座る二つの影。ここからの景色は誰も知らない。
「みんな、ちゃんとお願いしてくれたかな」
「ちゃんとエマの思いは届いてるから安心しろ」
私が街で思いを叫んだ日から、街人たちはあやかしを崇め奉るようになり、しばらくコクトが頭を抱えていた。
「明日からは他のあやかしたちも帰って来るだろ」
「楽しみだね」
「騒がしくなるのはごめんだ」
他愛のない話をして花提灯と一緒に今日が過ぎていくけれど、初めて会った日から変わらないこの場所で、二人の時間は続いていた。
「はい、これ」
コクトが差し出してくれたのはバラの花提灯だった。
「余り?」
「お前、毎年自分の分作ってなかったのか?」
「あー……」
いつもは制作と当日の景色で満足していたから、自分の分のことなんて考えていなかった。
「どんくさいやつ。これは、俺たちの分だ」
そう言ってコクトが指を鳴らし、ロウソクに火を灯す。
「あれ、赤色だ」
灯されたのは赤い炎。
私たちの花提灯は赤色に光る。
それは本物のバラのように繊細に作られていて、雨上がりの花びらに乗る雫を表現した白い輝きが散りばめられていた。
確か、赤いバラの花言葉は。
「好きだ」
赤いバラを手にしたコクトは、真っ直ぐエマを見つめていた。
手元で灯る赤色の炎から視線を上げたエマの頬も赤く色づいている。
「明るくて、前向いて突っ走る真っ直ぐなお前が、好きだ」
凛々しい表情とは裏腹に、どこかぎこちないけれど、赤く染る耳と台詞回しはいつも通りで思わず笑みが零れてしまう。
その気持ちに答えるようにエマはそっと手を伸ばし、バラを持つ手に重ねた。
「私も、好きだよ」
愛おしいとは、この感情のことを言うのだろう。
少し震えていたコクトの手を優しく握る。
「ありがとう」
二人の思いが重なるバラを空へと舞い上げた。
❀.*・゚
空に舞う花はゆっくりと遠のいていくけれど、街の灯りはまだ続いている。
熱の残る身体に風を感じながら、好きな景色を瞳に映し、隣に座る彼女に声をかけた。
「今までずっと言ってなかったんだけど、本当はあの神社にあやかしがいるわけじゃないんだ」
「え!?」
想像通りの反応に思わず笑いが込み上げる。
実は奥に扉があって、そこを抜けるとあやかしたちが暮らす街に続いてることを話すと彼女は食いついてきた。
「エマさえよければ、今度連れて行ってやるよ」
「いいの?」
心地の良い明るく弾んだ声が返ってくる。
俺はそれに答えるように頷いた。
「あぁ」
叶うなら、これから先も一緒にいたい。
隣で微笑む愛おしい存在を思いながら空を見上げた。
終わらない空に咲く花に、終わらない未来を願おう。