私のことをユイって呼んでくれた。
それが嬉しくてなかなか寝付けなかったはずなのに、気がつけば朝。
学校の準備をしながら、ふわふわとした触感と甘さがくせになる、サツマイモたっぷりのパウンドケーキにかぶりつく。
そして誰もいないのに「いってきます」と、元気な声を出して出発だ。
学校までの緩やかな坂道は、甲高い笑い声や、悪ふざけをしてじゃれあう生徒たちの声で弾けていた。
ちょっと気後れするけど、数学研究室の鍵を握りしめてまっすぐ進む。
一刻も早く、賑やかすぎる通学路から抜け出したい。どんどん足が速くなるのに。
「待ってぇー、ユイちゃーん。ちょっと待ってぇー」
急な呼び声に驚いた。
振り返ると、夏の光を一気に引き受けたみたいに、肌を真っ黒に焦がした美咲が手をふっている。
「ごめん、ごめん、急に呼び止めて。はー、疲れた。ユイちゃん、足、速いね。ハンドボール部に入らない?」
「えっ、それはちょっと……」
「ウソ、ウソ、冗談。さすがに二年生から運動部はないよねー」
運動部らしい大きな声と、ニカッと笑う元気いっぱいの顔。
美咲は陽菜と違って悪い人ではない。でも、水樹のことが気になっているみたいで、色々聞いてくる。かなり仲良くなったけど、ちょっと警戒してしまう。
また水樹の話をするのかな? と思っていたら、
「ユイちゃんって、水樹先生と仲良しだよね?」
直球すぎる質問に胸がギクッとした。
おそらく、たぶん、水樹と一緒にお弁当を食べたり、勉強したりする生徒は私だけ。
仲は悪くないけど、さすがに深くは話せない。
「数学を教えてもらうことはあるけど、それだけかな」
「本当に?」
疑うようなまなざしが突き刺さる。
心臓がバクバクしてきた。でも、水樹に迷惑がかかったら大変だ。
「ウソついてどうするの。話はそれだけ?」
不快感をあらわにして、足を速めた。
「いやー、ちょっと先輩から悪い噂を聞いて。ユイちゃんのことが、心配になったから」
「悪い噂って、水樹の?」
「そう、ここだけの話だけど」
美咲がすっと腕にしがみついて、周囲を確認する。
誰にも聞かれたくない、といった態度でそっと教えてくれた。
「水樹先生って、前の赴任先で女子生徒と問題になったらしいよ。だから非常勤なんだって、知ってた?」
そんな話は聞いたことがない。
目を見開いて、小刻みに首を横にふることしかできなかった。
「先輩のいとこが水樹先生のことを知ってて、生徒に手を出したとか、生徒の方が先生に夢中になって、辞めさせられたとか。悪い噂しかないんだって」
「それ本当の話?」
「本当かどうかは……ちょっと怪しいけど、水樹先生ってかっこいいのに、生徒があまり近づかないでしょ? きっとなにかあるよ」
「まさか」
「生徒に手を出したとかヤバいでしょう。ユイちゃんはかわいいから、水樹先生の毒牙にかからないように気をつけた方がいいよ」
「ない、ない。あり得ないよ」
思わず噴き出してしまったけど、実は手遅れ。
目を閉じればいつだって空の青さと、水樹の姿が思い浮かぶ。
形のいい目で朗らかに笑って、空をつかもうとする手が綺麗。
いつも屋上で日なたぼっこをするから、日なたのいい香りが胸に残っている。
思い出すだけで胸がギュンとして、顔が熱い。だけど水樹は、時々寂しそう。
「屋上……」
小さな声がこぼれた。
数学研究室があるのに、水樹は屋上にいることが多い。
どことなく他の先生や、生徒たちと距離を置いているように感じた。
「ユイちゃん、水樹先生とお話ができるなら、ちょーっと確かめてよ」
「なにを?」
「噂が本当なのか」
「えっ、無理だよ。そんなこと聞けない」
「そこをなんとか、お願いします!」
「絶対に無理! そんなこと聞いて勉強を見てくれなくなったら、私、単位落として落第だよ。もう一回、二年生をやり直しなんて、絶対に嫌。ギリッギリの成績だから、水樹がいないと」
「くぅー、残念。でも、水樹先生はかっこいいのに、生徒に手を出したなら最低だよね。まさに女の敵って感じ。ユイちゃん、気をつけるんだよー」
とんでもない爆弾発言だけを残して、美咲はグランドへいってしまった。
私の頭は混乱している。
水樹が女子生徒を襲った?
あり得ない、犯罪だよ。
そりゃ、水樹は誰にでも優しいと思うけど、考えられない。……だけど気になる。
上靴に履き替えた私の足は、数学研究室に向かっていた。
でも、こういう日に限って水樹はいないだろうな。
校舎の隅っこまできて、半ば諦めた気持ちで数学研究室をのぞき込むと人がいた。
「あれ?」
鍵はかかっていない。
おそるおそる扉を開けると、女の人が水樹の机を眺めていた。
控えめなロングスカートで、羨ましいほどストレートな髪をかきあげている。どこかで見たような人。
眉をひそめて首を傾げていると、女の人が私に気がついた。
「あら、この学校の生徒さん? こんにちは」
白い顔に、浮いたような赤い唇がゆっくりと動く。
思わず「あっ!」と声をあげていた。
ゴミ箱の近くに落ちていた写真の人。
腕を組んでいたから誤解したけど、水樹は「彼女じゃない」と言った。
この人が、前の学校でトラブルになった生徒かもしれない。
そのような人がどうしてここに?
食い入るように、じっと見つめた。
写真よりも実物の方が大人っぽくて綺麗だった。完全に負けたと、心が叫ぶ。同時に、さっき美咲から聞いた、悪い噂が頭をよぎった。
『生徒に手を出したとかヤバいでしょう』
水樹のことを信じているのに、足が一歩、退く。
真実を知る絶好のチャンスでも、悪い噂が本当なら怖い。
このまま逃げる? 逃げない?
すぅっと息を吸い込んで、自分自身に問いかけた。もちろん答えはひとつ。
私は退いた足を前に進めた。
「あなた、誰ですか?」
ここは学校。
部外者がいていい場所ではない。
手をギュッと握りしめて、心を強くした。
不審者を見るような目で、思いっきり睨みつけた。それなのに、チラッと私に視線を向けただけ。あとは赤いマネキュアをした細長い指で、ねっとりと水樹の机をなでている。
その姿に虫唾が走った。
「水樹の机から離れて。ここは関係者以外立ち入り禁止のはずです。ちゃんと許可をとってますか?」
「もちろん。水樹先生に会いにきたのよ。当然でしょう。あなたこそ、誰?」
「久遠寺ユイ。この学校の生徒です」
「見ればわかるわよ。そうじゃなくて、どうしてここに来たの?」
答えられなかった。
「あらら、もしかして水樹先生に会いにきたのかな? かっこいいもんね」
薄笑いを浮かべて、心のうちを見透かしたように言ってくる。
「わたしは今川桃佳。水樹先生の許嫁だったの」
「ウソだッ。そんな話、聞いたことない」
心の中に苦いものが湧きあがってきた。
今川さんはウソをついている。でも心の片隅に、本当だったらどうしよう、と泣きそうな私がいる。
こういうときは不安と動揺を悟られたくないのに、心臓がうるさいほどなって、視線がウロウロ泳いでしまう。
「ふふふふ」
今川さんの赤い唇から笑い声が漏れて、どんどん大きくなっていく。
遠慮のない声でカラカラ笑って、私を見下しているようだった。
頭にきた。
引っ張り出してでも、ここから追い出そうとしたら。
「ユイ、そいつから離れろッ!」
勢いよく扉が開く音と、激しい声が響いた。
それは水樹の怒鳴り声で、凄まじい怒りを感じる。
見たこともない姿に、私はビクッと体を強張らせたのに、今川さんは赤い唇をニィィッと薄く横にのばした。
「あらやだ。水樹先生、やっと会えたのにぃ。冷たいなぁ」
「うるさい、黙れ」
水樹は私を押しのけると、今川さんの腕をつかんで「出ていけ」と言った。
「い、や、よ」
ひらりとつかまれた腕を振りほどいて、今川さんは私の後ろに隠れた。
ひいぃぃ、と心の中で悲鳴があがる。
怖い。朗らかな水樹が怒ったら、こんなにも怖いなんて知らなかった。
そして水樹は今川さんを睨みつけたままで、妙な静けさが続く。ゴクリとつばを飲み込む音が、狭い数学研究室に響くようだった。
でも、沈黙は長く続かない。
「今でも水樹先生が好きです。愛してます」
私の存在を無視して、いきなり愛の告白がはじまった。
告白の瞬間なんて、テレビドラマでしか見たことがない。
チラッと水樹を見た。
まだ眉のあたりに怒りが浮かんでいる。慌てて視線をそらしたけど、もと教え子からの告白に、水樹はなんて答えるの?
ちょっとワクワクした気持ちになっていた。けれどすぐに、頭から冷や水をぶっかけられた気持ちになる。
「僕は生徒を女性として見ていない。生徒は生徒だ」
水樹の声が氷のように冷たい。
全身の血がすっと下がるのを感じた。ジリジリするほど熱くなっていた胸からも、一気に熱が引いていく。
別になにかを期待していたわけじゃないけど、優しさの欠片もない水樹の言葉に衝撃を受けていた。
「水樹先生、酷い……。あんなにも優しくしてくれたのに」
「卒業しても、何年たっても、今川は僕の生徒で、それ以上は考えられない。帰ってくれ」
「本当のことを言って。水樹先生は桃佳を頼りにしてくれた。ずっと、ずっと頼りにしてくれた。それは愛があったからでしょう?」
すがるような今川さんの声に、軽く目まいがする。
水樹も今川さんも背が高い。私の頭の上で、安っぽいドラマのようなことをやっている。
完全に私の存在を無視して、話し続けている。
血の気が引いて冷たくなった体の奥底から、沸々となにかが湧きあがるのを感じた。
「……ムカつく」
「ユイ?」
水樹がハッとして、ようやく私を見てくれた。
「ふたりとも、ムカつく。まず今川さん、だっけ? 水樹はね、誰にでも優しいの。それを愛情だと勘違いして、バカじゃないの?」
誰にでも優しいはずの水樹が冷たい。
勝手に愛情があったと勘違いする今川さんにも、腹が立つ。
「水樹も水樹よ。何様のつもり? こんなに綺麗な人が、勇気を出して告白してるのに、冷たすぎない?」
荒々しいものが胸の中で渦巻いて、止まりそうにない。
「いい大人がふたりして、なにやってるの。ここは学校だよ。水樹は先生でしょう」
水樹を責める口調がどんどんきつくなっていく。
胸が痛い。
――僕は生徒を女性として見ていない。
この言葉が、私を傷つけてくる。
水樹の優しさを愛情だと勘違いしているのは、今川さんだけじゃなかった。
私も勘違いをしているから、今川さんの姿が未来の私に見えてくる。だからやるせなくて、憤りを感じて……。
「水樹は、冷たいよ」
いつの間にか、今川さんの味方になっていた。
大嫌いなのに、なにをやってるんだろ。
そういえば、数学研究室に足を踏み入れてから、今川さんの態度が気に入らなかった。
どこか見下した視線に、バカにした口調。あれは水樹に会いにきた私を昔の自分と重ねて、嫌悪感を抱いたんだ。だから軽蔑のまなざしをやめない。
水樹に恋しても傷つくだけ。私をかわいそうな子と思っている。
でも、今川さんはフラれた。こっぴどくフラれた。
その怒りや悲しみはどこにいく?
背筋がゾクッとするのを感じた。
「意外と優しいのね。それとも気がついたのかしら、そっくりさん」
華奢な腕がヌルッと私に絡まり、いきなり後ろから抱きしめてきた。
「なにすんのよッ」
気持ち悪い。
体をねじって離れようとしたのに、びくともしなかった。
それどころか、抱きしめる力がどんどん強くなって痛い。
「ねえ、水樹先生。この子の気持ち、わかる?」
は? と私は大声をあげていた。同時に手足をばたつかせても、絶対に逃がさないわよと、締めつけてくる。
きっと水樹に言わせる気だ。
私もただの生徒。恋愛感情なんてこれっぽっちもないって。
自分がフラれた腹いせに、私を道連れにする気だ。
「ユイを巻き込むな」
大きな手が私を救い出そうとした。
「水樹先生、今度はこのかわいい子がフラれるのかしら?」
「えっ?」
形のいい目を丸めて、水樹の手が止まった。
「ふざけたこと言わないで、離してよッ! 私は、水樹をいい先生だと思ってる。フラれるもなにもない」
「ウソばっかり。あなたも水樹先生が大好きで、ここにいるんでしょう?」
水樹の前で、なんてことを。
恥ずかしさと怒りが、激しい波になって全身に広がった。
「バカじゃないの。いつ、誰が、水樹のこと――。あー、もう! 離せッ」
「あらら、耳まで真っ赤よ。見て、水樹先生」
見られたくない。
とっさに顔を伏せたけど、もう限界。
「今川、いい加減にしろッ!」
攻撃的な怒鳴り声に、ビクッと首をすくめた。
その瞬間、古い記憶が鮮明に駆け抜けた。
――いい加減にしろッ!
父の怒鳴り声を合図に、激しい言い争いがエスカレートしていく。
母は狂ったように泣き叫んで、私はガラスの割れる音に耳をふさぐ。
怖い。
ふとんの中で震えていた記憶。声を殺して泣いていた記憶。「いらない子」と罵る母の姿。これらすべてが頭の中をかき乱してくる。
温かいものが消えていくのを感じた。
「私はなにも望んでない。あんたなんかと、一緒にしないで」
絞り出すような声がようやく出た。
私は傷つきたくない。
やっと陽菜から解放されて、勉強も頑張ってきた。美咲みたいに話しかけてくれる人がいて、ほんの少し学校が楽しくなってきた。だから立ち直れないダメージは、もういらない。
「……なによそれ、つまんない」
パッと手が離れた。
少しふらついたけど、もうここにはいたくない。
下を向いたまま「教室に戻る」とつぶやいたのに。
「水樹先生、どうしてそんな顔をするの?」
不思議そうに尋ねる、今川さんの声。
ふと顔をあげると、見えたのは水樹じゃなかった。
水樹に駆け寄る今川さんの後ろ姿だった。
そして映画のワンシーンみたいに、華奢な腕を水樹の首に回してふたりが重なった。
「んなッ!」
絹のような黒髪がサラリと舞い上がって、ゆっくりと落ちるだけの短い時間、ふたりはキスをしていた。
「いっ、今川ッ!?」
水樹は顔を真っ赤にして、今川さんを突き飛ばした。
「ごちそうさま。本当は過去のことを謝りにきたけど、そこの生徒を見て気が変わったの。意地悪してごめんね」
私の顔をのぞき込んで、手を合わせてくる。
絶対に許すもんか! と言ってやりたかったのに、今にも泣き出しそうな顔をするから声が出せなかった。
泣きたいのは、こっちも同じ。
「水樹先生、わたしのせいで……ごめんなさい。でも、驚いた。水樹先生も、そんな顔をするのね。さようなら」
嵐のようにやってきて、散々人の心をかき乱しておきながら、勝手に泣いて、意味がわからない。
だけど、そんな顔って、どんな顔?
瞬きをしながら視線を水樹に移した。
「う、うわああああああぁぁぁぁッ、口紅がまだ残ってる!」
体が爆発しそうなほど大きな声で叫んだ。
水樹はビクッと肩をあげてから、慌てて唇についた口紅を拭っている。
もう、やってらんない。
「あ、おい。ちょっと待て、ユイッ」
呼び止める声を無視して、数学研究室から飛び出した。
なに、なに、なんなの、あの女。
謝りにきた?
だったら、さっさと謝って出ていけッ。
意地悪してごめんね、だって? ふざけんなッ。
絶対に許さない。
「あれ? ユイちゃん。今、ものすごい雄叫びが聞こえたけど、どこにいくの? もうすぐ授業がはじまるよ」
「美咲……。そうだ! ロングスカートの女、見なかった?」
「ん? 見てないよ。それより、そこ。数学研究室にいってくれたの? あの噂は」
「ウソだった。水樹は襲ってない。もと生徒がド派手に大暴走して、水樹を困らせただけ」
「おぉ、水樹先生に噂の真相を聞いてくれたんだ。ありがとうー、詳しく教えて」
詳しく……話せない。
すべてが驚きの連続で、ムカついて、恥ずかしい思いをして、目撃してしまった。
水樹の唇についた、燃えるような赤い口紅の色。
新しいトラウマができた気分で、最悪だ。
それが嬉しくてなかなか寝付けなかったはずなのに、気がつけば朝。
学校の準備をしながら、ふわふわとした触感と甘さがくせになる、サツマイモたっぷりのパウンドケーキにかぶりつく。
そして誰もいないのに「いってきます」と、元気な声を出して出発だ。
学校までの緩やかな坂道は、甲高い笑い声や、悪ふざけをしてじゃれあう生徒たちの声で弾けていた。
ちょっと気後れするけど、数学研究室の鍵を握りしめてまっすぐ進む。
一刻も早く、賑やかすぎる通学路から抜け出したい。どんどん足が速くなるのに。
「待ってぇー、ユイちゃーん。ちょっと待ってぇー」
急な呼び声に驚いた。
振り返ると、夏の光を一気に引き受けたみたいに、肌を真っ黒に焦がした美咲が手をふっている。
「ごめん、ごめん、急に呼び止めて。はー、疲れた。ユイちゃん、足、速いね。ハンドボール部に入らない?」
「えっ、それはちょっと……」
「ウソ、ウソ、冗談。さすがに二年生から運動部はないよねー」
運動部らしい大きな声と、ニカッと笑う元気いっぱいの顔。
美咲は陽菜と違って悪い人ではない。でも、水樹のことが気になっているみたいで、色々聞いてくる。かなり仲良くなったけど、ちょっと警戒してしまう。
また水樹の話をするのかな? と思っていたら、
「ユイちゃんって、水樹先生と仲良しだよね?」
直球すぎる質問に胸がギクッとした。
おそらく、たぶん、水樹と一緒にお弁当を食べたり、勉強したりする生徒は私だけ。
仲は悪くないけど、さすがに深くは話せない。
「数学を教えてもらうことはあるけど、それだけかな」
「本当に?」
疑うようなまなざしが突き刺さる。
心臓がバクバクしてきた。でも、水樹に迷惑がかかったら大変だ。
「ウソついてどうするの。話はそれだけ?」
不快感をあらわにして、足を速めた。
「いやー、ちょっと先輩から悪い噂を聞いて。ユイちゃんのことが、心配になったから」
「悪い噂って、水樹の?」
「そう、ここだけの話だけど」
美咲がすっと腕にしがみついて、周囲を確認する。
誰にも聞かれたくない、といった態度でそっと教えてくれた。
「水樹先生って、前の赴任先で女子生徒と問題になったらしいよ。だから非常勤なんだって、知ってた?」
そんな話は聞いたことがない。
目を見開いて、小刻みに首を横にふることしかできなかった。
「先輩のいとこが水樹先生のことを知ってて、生徒に手を出したとか、生徒の方が先生に夢中になって、辞めさせられたとか。悪い噂しかないんだって」
「それ本当の話?」
「本当かどうかは……ちょっと怪しいけど、水樹先生ってかっこいいのに、生徒があまり近づかないでしょ? きっとなにかあるよ」
「まさか」
「生徒に手を出したとかヤバいでしょう。ユイちゃんはかわいいから、水樹先生の毒牙にかからないように気をつけた方がいいよ」
「ない、ない。あり得ないよ」
思わず噴き出してしまったけど、実は手遅れ。
目を閉じればいつだって空の青さと、水樹の姿が思い浮かぶ。
形のいい目で朗らかに笑って、空をつかもうとする手が綺麗。
いつも屋上で日なたぼっこをするから、日なたのいい香りが胸に残っている。
思い出すだけで胸がギュンとして、顔が熱い。だけど水樹は、時々寂しそう。
「屋上……」
小さな声がこぼれた。
数学研究室があるのに、水樹は屋上にいることが多い。
どことなく他の先生や、生徒たちと距離を置いているように感じた。
「ユイちゃん、水樹先生とお話ができるなら、ちょーっと確かめてよ」
「なにを?」
「噂が本当なのか」
「えっ、無理だよ。そんなこと聞けない」
「そこをなんとか、お願いします!」
「絶対に無理! そんなこと聞いて勉強を見てくれなくなったら、私、単位落として落第だよ。もう一回、二年生をやり直しなんて、絶対に嫌。ギリッギリの成績だから、水樹がいないと」
「くぅー、残念。でも、水樹先生はかっこいいのに、生徒に手を出したなら最低だよね。まさに女の敵って感じ。ユイちゃん、気をつけるんだよー」
とんでもない爆弾発言だけを残して、美咲はグランドへいってしまった。
私の頭は混乱している。
水樹が女子生徒を襲った?
あり得ない、犯罪だよ。
そりゃ、水樹は誰にでも優しいと思うけど、考えられない。……だけど気になる。
上靴に履き替えた私の足は、数学研究室に向かっていた。
でも、こういう日に限って水樹はいないだろうな。
校舎の隅っこまできて、半ば諦めた気持ちで数学研究室をのぞき込むと人がいた。
「あれ?」
鍵はかかっていない。
おそるおそる扉を開けると、女の人が水樹の机を眺めていた。
控えめなロングスカートで、羨ましいほどストレートな髪をかきあげている。どこかで見たような人。
眉をひそめて首を傾げていると、女の人が私に気がついた。
「あら、この学校の生徒さん? こんにちは」
白い顔に、浮いたような赤い唇がゆっくりと動く。
思わず「あっ!」と声をあげていた。
ゴミ箱の近くに落ちていた写真の人。
腕を組んでいたから誤解したけど、水樹は「彼女じゃない」と言った。
この人が、前の学校でトラブルになった生徒かもしれない。
そのような人がどうしてここに?
食い入るように、じっと見つめた。
写真よりも実物の方が大人っぽくて綺麗だった。完全に負けたと、心が叫ぶ。同時に、さっき美咲から聞いた、悪い噂が頭をよぎった。
『生徒に手を出したとかヤバいでしょう』
水樹のことを信じているのに、足が一歩、退く。
真実を知る絶好のチャンスでも、悪い噂が本当なら怖い。
このまま逃げる? 逃げない?
すぅっと息を吸い込んで、自分自身に問いかけた。もちろん答えはひとつ。
私は退いた足を前に進めた。
「あなた、誰ですか?」
ここは学校。
部外者がいていい場所ではない。
手をギュッと握りしめて、心を強くした。
不審者を見るような目で、思いっきり睨みつけた。それなのに、チラッと私に視線を向けただけ。あとは赤いマネキュアをした細長い指で、ねっとりと水樹の机をなでている。
その姿に虫唾が走った。
「水樹の机から離れて。ここは関係者以外立ち入り禁止のはずです。ちゃんと許可をとってますか?」
「もちろん。水樹先生に会いにきたのよ。当然でしょう。あなたこそ、誰?」
「久遠寺ユイ。この学校の生徒です」
「見ればわかるわよ。そうじゃなくて、どうしてここに来たの?」
答えられなかった。
「あらら、もしかして水樹先生に会いにきたのかな? かっこいいもんね」
薄笑いを浮かべて、心のうちを見透かしたように言ってくる。
「わたしは今川桃佳。水樹先生の許嫁だったの」
「ウソだッ。そんな話、聞いたことない」
心の中に苦いものが湧きあがってきた。
今川さんはウソをついている。でも心の片隅に、本当だったらどうしよう、と泣きそうな私がいる。
こういうときは不安と動揺を悟られたくないのに、心臓がうるさいほどなって、視線がウロウロ泳いでしまう。
「ふふふふ」
今川さんの赤い唇から笑い声が漏れて、どんどん大きくなっていく。
遠慮のない声でカラカラ笑って、私を見下しているようだった。
頭にきた。
引っ張り出してでも、ここから追い出そうとしたら。
「ユイ、そいつから離れろッ!」
勢いよく扉が開く音と、激しい声が響いた。
それは水樹の怒鳴り声で、凄まじい怒りを感じる。
見たこともない姿に、私はビクッと体を強張らせたのに、今川さんは赤い唇をニィィッと薄く横にのばした。
「あらやだ。水樹先生、やっと会えたのにぃ。冷たいなぁ」
「うるさい、黙れ」
水樹は私を押しのけると、今川さんの腕をつかんで「出ていけ」と言った。
「い、や、よ」
ひらりとつかまれた腕を振りほどいて、今川さんは私の後ろに隠れた。
ひいぃぃ、と心の中で悲鳴があがる。
怖い。朗らかな水樹が怒ったら、こんなにも怖いなんて知らなかった。
そして水樹は今川さんを睨みつけたままで、妙な静けさが続く。ゴクリとつばを飲み込む音が、狭い数学研究室に響くようだった。
でも、沈黙は長く続かない。
「今でも水樹先生が好きです。愛してます」
私の存在を無視して、いきなり愛の告白がはじまった。
告白の瞬間なんて、テレビドラマでしか見たことがない。
チラッと水樹を見た。
まだ眉のあたりに怒りが浮かんでいる。慌てて視線をそらしたけど、もと教え子からの告白に、水樹はなんて答えるの?
ちょっとワクワクした気持ちになっていた。けれどすぐに、頭から冷や水をぶっかけられた気持ちになる。
「僕は生徒を女性として見ていない。生徒は生徒だ」
水樹の声が氷のように冷たい。
全身の血がすっと下がるのを感じた。ジリジリするほど熱くなっていた胸からも、一気に熱が引いていく。
別になにかを期待していたわけじゃないけど、優しさの欠片もない水樹の言葉に衝撃を受けていた。
「水樹先生、酷い……。あんなにも優しくしてくれたのに」
「卒業しても、何年たっても、今川は僕の生徒で、それ以上は考えられない。帰ってくれ」
「本当のことを言って。水樹先生は桃佳を頼りにしてくれた。ずっと、ずっと頼りにしてくれた。それは愛があったからでしょう?」
すがるような今川さんの声に、軽く目まいがする。
水樹も今川さんも背が高い。私の頭の上で、安っぽいドラマのようなことをやっている。
完全に私の存在を無視して、話し続けている。
血の気が引いて冷たくなった体の奥底から、沸々となにかが湧きあがるのを感じた。
「……ムカつく」
「ユイ?」
水樹がハッとして、ようやく私を見てくれた。
「ふたりとも、ムカつく。まず今川さん、だっけ? 水樹はね、誰にでも優しいの。それを愛情だと勘違いして、バカじゃないの?」
誰にでも優しいはずの水樹が冷たい。
勝手に愛情があったと勘違いする今川さんにも、腹が立つ。
「水樹も水樹よ。何様のつもり? こんなに綺麗な人が、勇気を出して告白してるのに、冷たすぎない?」
荒々しいものが胸の中で渦巻いて、止まりそうにない。
「いい大人がふたりして、なにやってるの。ここは学校だよ。水樹は先生でしょう」
水樹を責める口調がどんどんきつくなっていく。
胸が痛い。
――僕は生徒を女性として見ていない。
この言葉が、私を傷つけてくる。
水樹の優しさを愛情だと勘違いしているのは、今川さんだけじゃなかった。
私も勘違いをしているから、今川さんの姿が未来の私に見えてくる。だからやるせなくて、憤りを感じて……。
「水樹は、冷たいよ」
いつの間にか、今川さんの味方になっていた。
大嫌いなのに、なにをやってるんだろ。
そういえば、数学研究室に足を踏み入れてから、今川さんの態度が気に入らなかった。
どこか見下した視線に、バカにした口調。あれは水樹に会いにきた私を昔の自分と重ねて、嫌悪感を抱いたんだ。だから軽蔑のまなざしをやめない。
水樹に恋しても傷つくだけ。私をかわいそうな子と思っている。
でも、今川さんはフラれた。こっぴどくフラれた。
その怒りや悲しみはどこにいく?
背筋がゾクッとするのを感じた。
「意外と優しいのね。それとも気がついたのかしら、そっくりさん」
華奢な腕がヌルッと私に絡まり、いきなり後ろから抱きしめてきた。
「なにすんのよッ」
気持ち悪い。
体をねじって離れようとしたのに、びくともしなかった。
それどころか、抱きしめる力がどんどん強くなって痛い。
「ねえ、水樹先生。この子の気持ち、わかる?」
は? と私は大声をあげていた。同時に手足をばたつかせても、絶対に逃がさないわよと、締めつけてくる。
きっと水樹に言わせる気だ。
私もただの生徒。恋愛感情なんてこれっぽっちもないって。
自分がフラれた腹いせに、私を道連れにする気だ。
「ユイを巻き込むな」
大きな手が私を救い出そうとした。
「水樹先生、今度はこのかわいい子がフラれるのかしら?」
「えっ?」
形のいい目を丸めて、水樹の手が止まった。
「ふざけたこと言わないで、離してよッ! 私は、水樹をいい先生だと思ってる。フラれるもなにもない」
「ウソばっかり。あなたも水樹先生が大好きで、ここにいるんでしょう?」
水樹の前で、なんてことを。
恥ずかしさと怒りが、激しい波になって全身に広がった。
「バカじゃないの。いつ、誰が、水樹のこと――。あー、もう! 離せッ」
「あらら、耳まで真っ赤よ。見て、水樹先生」
見られたくない。
とっさに顔を伏せたけど、もう限界。
「今川、いい加減にしろッ!」
攻撃的な怒鳴り声に、ビクッと首をすくめた。
その瞬間、古い記憶が鮮明に駆け抜けた。
――いい加減にしろッ!
父の怒鳴り声を合図に、激しい言い争いがエスカレートしていく。
母は狂ったように泣き叫んで、私はガラスの割れる音に耳をふさぐ。
怖い。
ふとんの中で震えていた記憶。声を殺して泣いていた記憶。「いらない子」と罵る母の姿。これらすべてが頭の中をかき乱してくる。
温かいものが消えていくのを感じた。
「私はなにも望んでない。あんたなんかと、一緒にしないで」
絞り出すような声がようやく出た。
私は傷つきたくない。
やっと陽菜から解放されて、勉強も頑張ってきた。美咲みたいに話しかけてくれる人がいて、ほんの少し学校が楽しくなってきた。だから立ち直れないダメージは、もういらない。
「……なによそれ、つまんない」
パッと手が離れた。
少しふらついたけど、もうここにはいたくない。
下を向いたまま「教室に戻る」とつぶやいたのに。
「水樹先生、どうしてそんな顔をするの?」
不思議そうに尋ねる、今川さんの声。
ふと顔をあげると、見えたのは水樹じゃなかった。
水樹に駆け寄る今川さんの後ろ姿だった。
そして映画のワンシーンみたいに、華奢な腕を水樹の首に回してふたりが重なった。
「んなッ!」
絹のような黒髪がサラリと舞い上がって、ゆっくりと落ちるだけの短い時間、ふたりはキスをしていた。
「いっ、今川ッ!?」
水樹は顔を真っ赤にして、今川さんを突き飛ばした。
「ごちそうさま。本当は過去のことを謝りにきたけど、そこの生徒を見て気が変わったの。意地悪してごめんね」
私の顔をのぞき込んで、手を合わせてくる。
絶対に許すもんか! と言ってやりたかったのに、今にも泣き出しそうな顔をするから声が出せなかった。
泣きたいのは、こっちも同じ。
「水樹先生、わたしのせいで……ごめんなさい。でも、驚いた。水樹先生も、そんな顔をするのね。さようなら」
嵐のようにやってきて、散々人の心をかき乱しておきながら、勝手に泣いて、意味がわからない。
だけど、そんな顔って、どんな顔?
瞬きをしながら視線を水樹に移した。
「う、うわああああああぁぁぁぁッ、口紅がまだ残ってる!」
体が爆発しそうなほど大きな声で叫んだ。
水樹はビクッと肩をあげてから、慌てて唇についた口紅を拭っている。
もう、やってらんない。
「あ、おい。ちょっと待て、ユイッ」
呼び止める声を無視して、数学研究室から飛び出した。
なに、なに、なんなの、あの女。
謝りにきた?
だったら、さっさと謝って出ていけッ。
意地悪してごめんね、だって? ふざけんなッ。
絶対に許さない。
「あれ? ユイちゃん。今、ものすごい雄叫びが聞こえたけど、どこにいくの? もうすぐ授業がはじまるよ」
「美咲……。そうだ! ロングスカートの女、見なかった?」
「ん? 見てないよ。それより、そこ。数学研究室にいってくれたの? あの噂は」
「ウソだった。水樹は襲ってない。もと生徒がド派手に大暴走して、水樹を困らせただけ」
「おぉ、水樹先生に噂の真相を聞いてくれたんだ。ありがとうー、詳しく教えて」
詳しく……話せない。
すべてが驚きの連続で、ムカついて、恥ずかしい思いをして、目撃してしまった。
水樹の唇についた、燃えるような赤い口紅の色。
新しいトラウマができた気分で、最悪だ。