私のことをユイって呼んでくれた。
 それが嬉しくてなかなか寝付けなかったはずなのに、気がつけば朝。

 学校の準備をしながら、ふわふわとした触感と甘さがくせになる、サツマイモたっぷりのパウンドケーキにかぶりつく。
 そして誰もいないのに「いってきます」と、元気な声を出して出発だ。

 学校までの緩やかな坂道は、甲高い笑い声や、悪ふざけをしてじゃれあう生徒たちの声で弾けていた。
 ちょっと気後れするけど、数学研究室の鍵を握りしめてまっすぐ進む。
 一刻も早く、賑やかすぎる通学路から抜け出したい。どんどん足が速くなるのに。

「待ってぇー、ユイちゃーん。ちょっと待ってぇー」

 急な呼び声に驚いた。
 振り返ると、夏の光を一気に引き受けたみたいに、肌を真っ黒に焦がした美咲が手をふっている。

「ごめん、ごめん、急に呼び止めて。はー、疲れた。ユイちゃん、足、速いね。ハンドボール部に入らない?」
「えっ、それはちょっと……」
「ウソ、ウソ、冗談。さすがに二年生から運動部はないよねー」

 運動部らしい大きな声と、ニカッと笑う元気いっぱいの顔。
 美咲は陽菜と違って悪い人ではない。でも、水樹のことが気になっているみたいで、色々聞いてくる。かなり仲良くなったけど、ちょっと警戒してしまう。
 また水樹の話をするのかな? と思っていたら、

「ユイちゃんって、水樹先生と仲良しだよね?」

 直球すぎる質問に胸がギクッとした。
 おそらく、たぶん、水樹と一緒にお弁当を食べたり、勉強したりする生徒は私だけ。
 仲は悪くないけど、さすがに深くは話せない。

「数学を教えてもらうことはあるけど、それだけかな」
「本当に?」

 疑うようなまなざしが突き刺さる。
 心臓がバクバクしてきた。でも、水樹に迷惑がかかったら大変だ。

「ウソついてどうするの。話はそれだけ?」

 不快感をあらわにして、足を速めた。

「いやー、ちょっと先輩から悪い噂を聞いて。ユイちゃんのことが、心配になったから」
「悪い噂って、水樹の?」
「そう、ここだけの話だけど」

 美咲がすっと腕にしがみついて、周囲を確認する。
 誰にも聞かれたくない、といった態度でそっと教えてくれた。

「水樹先生って、前の赴任先で女子生徒と問題になったらしいよ。だから非常勤なんだって、知ってた?」

 そんな話は聞いたことがない。
 目を見開いて、小刻みに首を横にふることしかできなかった。

「先輩のいとこが水樹先生のことを知ってて、生徒に手を出したとか、生徒の方が先生に夢中になって、辞めさせられたとか。悪い噂しかないんだって」
「それ本当の話?」

「本当かどうかは……ちょっと怪しいけど、水樹先生ってかっこいいのに、生徒があまり近づかないでしょ? きっとなにかあるよ」
「まさか」

「生徒に手を出したとかヤバいでしょう。ユイちゃんはかわいいから、水樹先生の毒牙にかからないように気をつけた方がいいよ」
「ない、ない。あり得ないよ」

 思わず噴き出してしまったけど、実は手遅れ。
 目を閉じればいつだって空の青さと、水樹の姿が思い浮かぶ。

 形のいい目で朗らかに笑って、空をつかもうとする手が綺麗。
 いつも屋上で日なたぼっこをするから、日なたのいい香りが胸に残っている。
 思い出すだけで胸がギュンとして、顔が熱い。だけど水樹は、時々寂しそう。

「屋上……」

 小さな声がこぼれた。
 数学研究室があるのに、水樹は屋上にいることが多い。
 どことなく他の先生や、生徒たちと距離を置いているように感じた。

「ユイちゃん、水樹先生とお話ができるなら、ちょーっと確かめてよ」
「なにを?」
「噂が本当なのか」

「えっ、無理だよ。そんなこと聞けない」
「そこをなんとか、お願いします!」

「絶対に無理! そんなこと聞いて勉強を見てくれなくなったら、私、単位落として落第だよ。もう一回、二年生をやり直しなんて、絶対に嫌。ギリッギリの成績だから、水樹がいないと」

「くぅー、残念。でも、水樹先生はかっこいいのに、生徒に手を出したなら最低だよね。まさに女の敵って感じ。ユイちゃん、気をつけるんだよー」

 とんでもない爆弾発言だけを残して、美咲はグランドへいってしまった。
 私の頭は混乱している。
 水樹が女子生徒を襲った? 
 あり得ない、犯罪だよ。

 そりゃ、水樹は誰にでも優しいと思うけど、考えられない。……だけど気になる。
 上靴に履き替えた私の足は、数学研究室に向かっていた。

 でも、こういう日に限って水樹はいないだろうな。
 校舎の隅っこまできて、半ば諦めた気持ちで数学研究室をのぞき込むと人がいた。

「あれ?」

 鍵はかかっていない。
 おそるおそる扉を開けると、女の人が水樹の机を眺めていた。
 控えめなロングスカートで、羨ましいほどストレートな髪をかきあげている。どこかで見たような人。
 眉をひそめて首を傾げていると、女の人が私に気がついた。

「あら、この学校の生徒さん? こんにちは」

 白い顔に、浮いたような赤い唇がゆっくりと動く。
 思わず「あっ!」と声をあげていた。

 ゴミ箱の近くに落ちていた写真の人。
 腕を組んでいたから誤解したけど、水樹は「彼女じゃない」と言った。

 この人が、前の学校でトラブルになった生徒かもしれない。
 そのような人がどうしてここに? 
 食い入るように、じっと見つめた。

 写真よりも実物の方が大人っぽくて綺麗だった。完全に負けたと、心が叫ぶ。同時に、さっき美咲から聞いた、悪い噂が頭をよぎった。

『生徒に手を出したとかヤバいでしょう』

 水樹のことを信じているのに、足が一歩、退く。
 真実を知る絶好のチャンスでも、悪い噂が本当なら怖い。

 このまま逃げる? 逃げない?

 すぅっと息を吸い込んで、自分自身に問いかけた。もちろん答えはひとつ。
 私は退いた足を前に進めた。

「あなた、誰ですか?」

 ここは学校。
 部外者がいていい場所ではない。 
 手をギュッと握りしめて、心を強くした。

 不審者を見るような目で、思いっきり睨みつけた。それなのに、チラッと私に視線を向けただけ。あとは赤いマネキュアをした細長い指で、ねっとりと水樹の机をなでている。
 その姿に虫唾が走った。

「水樹の机から離れて。ここは関係者以外立ち入り禁止のはずです。ちゃんと許可をとってますか?」
「もちろん。水樹先生に会いにきたのよ。当然でしょう。あなたこそ、誰?」

「久遠寺ユイ。この学校の生徒です」
「見ればわかるわよ。そうじゃなくて、どうしてここに来たの?」

 答えられなかった。

「あらら、もしかして水樹先生に会いにきたのかな? かっこいいもんね」

 薄笑いを浮かべて、心のうちを見透かしたように言ってくる。

「わたしは今川桃佳。水樹先生の許嫁だったの」
「ウソだッ。そんな話、聞いたことない」

 心の中に苦いものが湧きあがってきた。
 今川さんはウソをついている。でも心の片隅に、本当だったらどうしよう、と泣きそうな私がいる。
 こういうときは不安と動揺を悟られたくないのに、心臓がうるさいほどなって、視線がウロウロ泳いでしまう。

「ふふふふ」

 今川さんの赤い唇から笑い声が漏れて、どんどん大きくなっていく。
 遠慮のない声でカラカラ笑って、私を見下しているようだった。
 頭にきた。
 引っ張り出してでも、ここから追い出そうとしたら。

「ユイ、そいつから離れろッ!」

 勢いよく扉が開く音と、激しい声が響いた。
 それは水樹の怒鳴り声で、凄まじい怒りを感じる。
 見たこともない姿に、私はビクッと体を強張らせたのに、今川さんは赤い唇をニィィッと薄く横にのばした。

「あらやだ。水樹先生、やっと会えたのにぃ。冷たいなぁ」
「うるさい、黙れ」

 水樹は私を押しのけると、今川さんの腕をつかんで「出ていけ」と言った。

「い、や、よ」

 ひらりとつかまれた腕を振りほどいて、今川さんは私の後ろに隠れた。
 ひいぃぃ、と心の中で悲鳴があがる。

 怖い。朗らかな水樹が怒ったら、こんなにも怖いなんて知らなかった。
 そして水樹は今川さんを睨みつけたままで、妙な静けさが続く。ゴクリとつばを飲み込む音が、狭い数学研究室に響くようだった。

 でも、沈黙は長く続かない。

「今でも水樹先生が好きです。愛してます」

 私の存在を無視して、いきなり愛の告白がはじまった。
 告白の瞬間なんて、テレビドラマでしか見たことがない。

 チラッと水樹を見た。

 まだ眉のあたりに怒りが浮かんでいる。慌てて視線をそらしたけど、もと教え子からの告白に、水樹はなんて答えるの?
 ちょっとワクワクした気持ちになっていた。けれどすぐに、頭から冷や水をぶっかけられた気持ちになる。 

「僕は生徒を女性として見ていない。生徒は生徒だ」

 水樹の声が氷のように冷たい。
 全身の血がすっと下がるのを感じた。ジリジリするほど熱くなっていた胸からも、一気に熱が引いていく。
 別になにかを期待していたわけじゃないけど、優しさの欠片もない水樹の言葉に衝撃を受けていた。

「水樹先生、酷い……。あんなにも優しくしてくれたのに」
「卒業しても、何年たっても、今川は僕の生徒で、それ以上は考えられない。帰ってくれ」

「本当のことを言って。水樹先生は桃佳を頼りにしてくれた。ずっと、ずっと頼りにしてくれた。それは愛があったからでしょう?」

 すがるような今川さんの声に、軽く目まいがする。
 水樹も今川さんも背が高い。私の頭の上で、安っぽいドラマのようなことをやっている。
 完全に私の存在を無視して、話し続けている。
 血の気が引いて冷たくなった体の奥底から、沸々となにかが湧きあがるのを感じた。

「……ムカつく」
「ユイ?」

 水樹がハッとして、ようやく私を見てくれた。

「ふたりとも、ムカつく。まず今川さん、だっけ? 水樹はね、誰にでも優しいの。それを愛情だと勘違いして、バカじゃないの?」

 誰にでも優しいはずの水樹が冷たい。
 勝手に愛情があったと勘違いする今川さんにも、腹が立つ。

「水樹も水樹よ。何様のつもり? こんなに綺麗な人が、勇気を出して告白してるのに、冷たすぎない?」

 荒々しいものが胸の中で渦巻いて、止まりそうにない。

「いい大人がふたりして、なにやってるの。ここは学校だよ。水樹は先生でしょう」

 水樹を責める口調がどんどんきつくなっていく。
 胸が痛い。

 ――僕は生徒を女性として見ていない。

 この言葉が、私を傷つけてくる。
 水樹の優しさを愛情だと勘違いしているのは、今川さんだけじゃなかった。
 私も勘違いをしているから、今川さんの姿が未来の私に見えてくる。だからやるせなくて、憤りを感じて……。

「水樹は、冷たいよ」

 いつの間にか、今川さんの味方になっていた。
 大嫌いなのに、なにをやってるんだろ。

 そういえば、数学研究室に足を踏み入れてから、今川さんの態度が気に入らなかった。
 どこか見下した視線に、バカにした口調。あれは水樹に会いにきた私を昔の自分と重ねて、嫌悪感を抱いたんだ。だから軽蔑のまなざしをやめない。

 水樹に恋しても傷つくだけ。私をかわいそうな子と思っている。

 でも、今川さんはフラれた。こっぴどくフラれた。
 その怒りや悲しみはどこにいく?
 背筋がゾクッとするのを感じた。

「意外と優しいのね。それとも気がついたのかしら、そっくりさん」

 華奢な腕がヌルッと私に絡まり、いきなり後ろから抱きしめてきた。

「なにすんのよッ」

 気持ち悪い。
 体をねじって離れようとしたのに、びくともしなかった。
 それどころか、抱きしめる力がどんどん強くなって痛い。

「ねえ、水樹先生。この子の気持ち、わかる?」

 は? と私は大声をあげていた。同時に手足をばたつかせても、絶対に逃がさないわよと、締めつけてくる。
 きっと水樹に言わせる気だ。
 私もただの生徒。恋愛感情なんてこれっぽっちもないって。
 自分がフラれた腹いせに、私を道連れにする気だ。

「ユイを巻き込むな」

 大きな手が私を救い出そうとした。 

「水樹先生、今度はこのかわいい子がフラれるのかしら?」
「えっ?」

 形のいい目を丸めて、水樹の手が止まった。  

「ふざけたこと言わないで、離してよッ! 私は、水樹をいい先生だと思ってる。フラれるもなにもない」
「ウソばっかり。あなたも水樹先生が大好きで、ここにいるんでしょう?」

 水樹の前で、なんてことを。
 恥ずかしさと怒りが、激しい波になって全身に広がった。

「バカじゃないの。いつ、誰が、水樹のこと――。あー、もう! 離せッ」
「あらら、耳まで真っ赤よ。見て、水樹先生」

 見られたくない。
 とっさに顔を伏せたけど、もう限界。
 
「今川、いい加減にしろッ!」

 攻撃的な怒鳴り声に、ビクッと首をすくめた。
 その瞬間、古い記憶が鮮明に駆け抜けた。

 ――いい加減にしろッ!

 父の怒鳴り声を合図に、激しい言い争いがエスカレートしていく。
 母は狂ったように泣き叫んで、私はガラスの割れる音に耳をふさぐ。
 怖い。

 ふとんの中で震えていた記憶。声を殺して泣いていた記憶。「いらない子」と罵る母の姿。これらすべてが頭の中をかき乱してくる。
 温かいものが消えていくのを感じた。
 
「私はなにも望んでない。あんたなんかと、一緒にしないで」

 絞り出すような声がようやく出た。
 私は傷つきたくない。

 やっと陽菜から解放されて、勉強も頑張ってきた。美咲みたいに話しかけてくれる人がいて、ほんの少し学校が楽しくなってきた。だから立ち直れないダメージは、もういらない。

「……なによそれ、つまんない」

 パッと手が離れた。
 少しふらついたけど、もうここにはいたくない。
 下を向いたまま「教室に戻る」とつぶやいたのに。

「水樹先生、どうしてそんな顔をするの?」

 不思議そうに尋ねる、今川さんの声。
 ふと顔をあげると、見えたのは水樹じゃなかった。
 水樹に駆け寄る今川さんの後ろ姿だった。
 そして映画のワンシーンみたいに、華奢な腕を水樹の首に回してふたりが重なった。

「んなッ!」

 絹のような黒髪がサラリと舞い上がって、ゆっくりと落ちるだけの短い時間、ふたりはキスをしていた。

「いっ、今川ッ!?」

 水樹は顔を真っ赤にして、今川さんを突き飛ばした。

「ごちそうさま。本当は過去のことを謝りにきたけど、そこの生徒を見て気が変わったの。意地悪してごめんね」

 私の顔をのぞき込んで、手を合わせてくる。
 絶対に許すもんか! と言ってやりたかったのに、今にも泣き出しそうな顔をするから声が出せなかった。
 泣きたいのは、こっちも同じ。

「水樹先生、わたしのせいで……ごめんなさい。でも、驚いた。水樹先生も、そんな顔をするのね。さようなら」
 
 嵐のようにやってきて、散々人の心をかき乱しておきながら、勝手に泣いて、意味がわからない。
 だけど、そんな顔って、どんな顔?
 瞬きをしながら視線を水樹に移した。

「う、うわああああああぁぁぁぁッ、口紅がまだ残ってる!」

 体が爆発しそうなほど大きな声で叫んだ。
 水樹はビクッと肩をあげてから、慌てて唇についた口紅を拭っている。
 もう、やってらんない。

「あ、おい。ちょっと待て、ユイッ」

 呼び止める声を無視して、数学研究室から飛び出した。
 なに、なに、なんなの、あの女。

 謝りにきた? 
 だったら、さっさと謝って出ていけッ。

 意地悪してごめんね、だって? ふざけんなッ。
 絶対に許さない。
 
「あれ? ユイちゃん。今、ものすごい雄叫びが聞こえたけど、どこにいくの? もうすぐ授業がはじまるよ」
「美咲……。そうだ! ロングスカートの女、見なかった?」
「ん? 見てないよ。それより、そこ。数学研究室にいってくれたの? あの噂は」

「ウソだった。水樹は襲ってない。もと生徒がド派手に大暴走して、水樹を困らせただけ」
「おぉ、水樹先生に噂の真相を聞いてくれたんだ。ありがとうー、詳しく教えて」
 
 詳しく……話せない。
 すべてが驚きの連続で、ムカついて、恥ずかしい思いをして、目撃してしまった。
 水樹の唇についた、燃えるような赤い口紅の色。
 新しいトラウマができた気分で、最悪だ。