水樹からもらった鍵は長細くて、冷たい銀色だ。
家に帰ってから鍵に合うストラップを探したけど、おばあちゃんがつくったビーズの虎や、餃子の形をしたキーホルダーなどヘンテコなものしかない。
「あ、これにしよう」
ベテランの木工職人がつくった、イルカのキーホルダー。
つるつるした手触りと、海を閉じ込めたような青い鈴が綺麗。鼻を近づけると、かすかに森の香りがする。
水樹に見せよう。そう思っても、昨日は数学研究室を飛び出した。思いっきり睨みつけたし、朗らかな水樹でも怒ったかもしれない。
どうしよう。どうする?
一晩中考え込んでいたから、今朝はとても眠い。
水樹を信じたい気持ちと疑う心がグラグラ揺れたままでもう疲れた。
「今日は休もうかな」
学校は楽しい場所じゃない。
それならいかなきゃいいのに、サボると二度と学校へいけなくなるような気がして、制服に着替えてしまう。
サクサクのメロンパンをお腹に詰めてから家を出た。
「陽菜に会いませんように!」
カバンの中には上靴が入っている。水樹の絵を靴箱に入れてきたから、仕返しされそうで怖い。
絵を見つけた陽菜は、火の玉のように怒り出すだろうな。
緩やかな坂道を歩きながら憂うつな気分と戦っていた。
学校が近づくと、体育館からかけ声とボールの音がする。
校門をくぐると逃げ出したくなった。昇降口に陽菜がいる。
まだ私に気がついていないから、思わず回れ右をして校舎の隅に駆け出した。
心臓が壊れそうなほどバクバクして、手が震えている。後ろから陽菜が追いかけてきそうで、怖い。
「逃げなきゃ」
慌てて数学研究室に飛び込んだけど、水樹はいない。
静まり返った室内にはコーヒーのほろ苦い香りと、私が連れてきた朝の匂いがする。
「私がいないときは、コーヒーを飲むんだ」
水樹の椅子にどかっと腰をおろして、頬杖をついた。
ここではまろやかな甘さのお茶しか知らない。コーヒーをすすめられたことは一度もない。
子ども扱いされたようでイライラする。同時に、私はなにをやってるんだろうとむなしくなった。
カチコチと規則正しい音を立てる壁時計は、八時十五分。ノートを破って「昨日はごめんなさい」と書いたけど、クシャッと丸めた。
「ゴミ箱は……」
机の近くにゴミ箱がない。
目についたのは、ペンキが入っていそうなブリキの缶。半透明のゴミ袋が見えるから、これがゴミ箱?
中をのぞき込むと、手紙が捨ててあった。
ピンクの便せんに、ハートが描かれた手紙。思わず拾い上げて読みそうになったけど、パッと手が離れた。
ゴミ箱の傍に写真が落ちていた。
それは水樹と知らない人が腕を組んでいる写真。
ロングスカートのしとやかな女性が、いかにも嬉しそうな顔をして笑っている。
「水樹の彼女……かな?」
目を見張る美人でもないし、控えめで地味な感じ。でも、浮いたような赤い口紅が、水樹のために一生懸命メイクしたと物語っている。
私はゴミ箱から離れて、机の引き出しを開けていた。
カラフルな寄せ書きのほかにも、平塚や保健の先生と一緒の写真もある。どこかの旅館で他の先生もいる。
どの写真の水樹も心の底から楽しそうで、私に見せる顔とはまったく違う。
ハンマーで頭を殴られた気分だった。
「なんだ、そういうことか」
どこかの正義の味方みたいに水樹は『みんな大好き』なんだ。
だから私に手を差し伸べた。
やっぱりただそれだけのことだった。
「……いらないよ」
誰にでも向ける優しさはいらない。
曇ったガラス窓に大きく『水樹のバカ』と書いてみた。するとすぐに水滴がしたたり落ちて、文字は崩れていく。
バカは私だった。
写真なんか見なきゃよかったと後悔している。
今日の空は青くない。水樹もいない。
色鮮やかだった思い出が、すべてねずみ色に塗り替えられていく。
昨日からなんとなくわかっていたことでも、ハッキリした証拠が胸に突き刺さって痛すぎる。
水樹には彼女がいて、旅行するような友だちもたくさんいて、私とは違う世界に住んでいた。
「バイバイ、水樹」
私は数学研究室の鍵を机に置いて、その場から去った。
またひとりぼっち。
これから授業がはじまるというのに、泣きそうで嫌になる。
ぐっと奥歯をかみしめて、二年生の教室が並ぶ廊下で立ち止まった。
このまま屋上にいくことだってできる。
足が教室とは違う方向に動きはじめたけど「待ちなさいよ」と、呼び止められた。
「陽菜……」
「上靴の絵、上手だったよ」
その声はどこまでも明るいのに、目が笑っていない。
激しい怒りの炎をうちにため込んで、いつぶつけてやろうかとほくそ笑む陽菜がいる。
「ユイのくせに、生意気なことするのね」
「…………」
やはりいつも上靴を捨てているのは陽菜。水樹の絵を見て激怒している。
「梅雨時は湿気が多くて大変だね。クセ毛が爆発してみっともない」
フッと鼻で笑って、ぐっと近づいてきた。
「言い訳を聞いてあげてもいいよ。最近、いじめの相談をしてるんだって?」
陽菜は同級生。
格闘家でもないし、噛みつきもしない。いまここで殴ってこないことも知っている。それなのに、さげすむ声と怒りに満ちた大きな目で睨まれると怖い。
陽菜が近くにいるだけで心臓を強く握りつぶされるような感覚がする。
胸が苦しくなって、呼吸が乱れる。
身を縮めて廊下を見ることしかできない。
「気持ち悪い子ね。いい加減にこっちを見なさいよッ!」
肩を強く押された。
梅雨時の廊下はよく滑り、震えた足と硬直した体ではうまくバランスがとれなかった。
押されたら押されたまま、私は弱々しい棒きれのように倒れていく。
「危ないッ!」
声がした。
その瞬間、ジメジメとした嫌な匂いを日なたの香りが打ち消した。
「え?」
陽菜がポカンと口を開けて、驚いた顔をしている。
私もびっくりして、魚のように口をパクパクさせた。
堅くて冷たい廊下に後頭部から倒れそうだったのに、骨格のしっかりとした、厚みのある胸にすっぽり収まっていた。
水樹の大きな手が私の肩を抱いて、後ろから支えてくれた。
「いまのは危ないぞ。頭から落ちそうだった」
「どうしてここに?」
ゆっくりと体を起こしてくれたけど、水樹は私の質問に答えなかった。形のいい目を鋭くとがらせて陽菜を見ている。
「水樹?」
あまりにも険しい表情を見せるから、私はシャツの裾を引っ張った。
水樹はハッとして朗らかな笑みを浮かべたけど、またすぐにもとの表情に戻って私の前に立った。
「きみは、久遠寺さんの後ろから僕が来るのを見ていたはずだ。それなのに久遠寺さんを突き飛ばした。教師の前でいい度胸だな。名前は?」
「教師? あなた非常勤じゃない。私の名前を聞いたって、なあーんにもできないくせに笑わせないで」
陽菜は水樹のネームプレートを指さして、勝ち誇った顔をしていた。
非常勤講師は決められた時間に授業をするだけ。学級担任にはなれないし、生徒指導も行えない。
弱い立場の人には、いつだって強気な陽菜だった。
「ユイもバカよね。非常勤にいじめの相談をしたって無駄なのに」
「へぇ、詳しいな。僕のこともリサーチ済みだったとは。そんなに久遠寺さんのことが好きなのか」
「はあぁ? バカじゃないの。この状況で好いてるように見えるの?」
「だって、久遠寺さんのことが嫌いなら、無視すればいいじゃないか。それをわざわざ追い回して、僕のことまで調べて。そんなに気になるのか?」
からかうような水樹の声に、陽菜の頬がピクピク動いていた。そしてみるみるうちに怒りで顔を赤くしていく。
「追い回してないし、気にしてるわけないでしょう。ユイが気持ち悪くて目障りなだけよッ!」
「おや? 真っ赤な顔をして、図星だったか。これは、これは、邪魔しちゃったかなぁー?」
火に油を注ぎまくっている水樹を止めなきゃ。頭ではわかっていても、私は恐ろしくて一歩退いていた。
怒りが頂点に達した陽菜は肩を震わせて、今にも平手打ちが飛んできそう。
「陽菜ちゃん、もうやめよ。教室に戻ろう。一時間目は体育だよ」
騒ぎを聞きつけて、教室から飛び出してきたのは穂乃花だった。いつも陽菜の顔色をうかがって、威圧的な態度と視線に逆らえない人。
「うるさいッ、命令しないで」
「そ、そんなつもりは……」
穂乃花が泣きそうな顔でおろおろする中、廊下が騒がしくなってきた。
「穂乃花がかわいそう」
「怒鳴らなくてもいいのに」
「あの先生、誰?」
騒ぎを遠巻きに見ている生徒。教室から廊下をのぞき込む生徒。それぞれが口々に勝手なことを言い出して、収拾がつかない。
なかでも「紺野さんってそういう趣味だったの?」と、キャッキャッ笑い騒ぐ声が多くて、陽菜はますます怒りの色をにじませていた。
陽菜は怒ると顔が赤くなるタイプ。でもそれが裏目に出て、真っ赤な顔をした陽菜と、水樹の後ろで怯える私。
えー、私は陽菜に告白されて「それはちょっと」とドン引きしている姿に見えるのか。水樹の言葉のせいで、もうメチャクチャだった。
「大好きな子をいじめたくなる気持ちはわかるが、高校生だからな。もう少し大人になれないか?」
大きくうなずきながら悪意のある笑みを浮かべる水樹は、もう陽菜を見ていない。わざと通る声を出して、集まってきた生徒に聞かせている。
「あー、もう、バカバカしいッ! エロ漫画の読み過ぎよ! くそ教師めッ」
捨て台詞を吐いて、陽菜は教室へ戻ってくれた。
「ひっどい言葉だな……あ、大丈夫?」
私は首を左右にふった。
水樹が来てくれるとは思いもよらなかった。しかも、気に入らないなら無視すればいい。わざわざ嫌がらせをするために追い回さないでほしい。
陽菜に向かって言いたかった言葉をすべて言ってくれた。
驚きと嬉しさがごちゃ混ぜになって、混乱している。たくさんの言葉があふれているのに、声が出ない。
ただ目に涙がたまって泣き出しそうだった。
「まだ泣くな。ここで泣くな。もうすぐ一時間目がはじまるから」
「わかってる……でも」
「ほら、晴れ間が出てきたぞ」
水樹が窓を開けて空を眺めるから、一緒に並んで同じ空を見た。
灰色によどんだ雲が去っても、空はまだ薄墨色だった。
どこにも澄んだ青はない。でも、小さな白い点が鈍く光っているのが見えた。
それが雲に隠れた太陽の光だと気がつくと、涙は寸前のところで止まって落ちなくなった。
「水樹のことがよくわからない。どうしてここに?」
「数学研究室の鍵、机の上に忘れてたから」
イルカのキーホルダーがついた鍵をポケットから取り出した。
それは忘れたんじゃなくて、もういらないって意味だったけど、水樹の顔が嬉しそう。
投げたボールを満面の笑みを浮かべて持ってくる、愛犬のコロンにそっくりだ。
私は黙って鍵を受け取った。
「さっきの生徒が紺野陽菜か? 複雑な悩みがありそうな生徒だな」
「陽菜に悩みなんかあるわけないよ。意地悪なくせに友だちに囲まれて、賢いし。学年トップの常連だよ。おまけに背が高くてスタイル抜群だから、モデルみたいにかわいいし」
ムッとして答えると水樹は口元に笑みを浮かべた。
「ユイの方がかわいいと思うよ」
「は?」
心臓がまたドクンっと大きな音を立てた。
すると急に耳が熱くなって、水樹の顔が見られない。
「そ、そういうことは、彼女にだけ言えばいいのに。私、見たんだから。おとなしくて控えめな人と水樹が……写真で……腕を……」
「机の中を見たのか?」
「違う、ゴミ箱の近くに写真が落ちてたから」
「ああ、あれか。あの人は彼女じゃない。前の学校でトラブルになった生徒だ。おっとチャイムが鳴った。教室に入れ」
水樹の手が私の背中をポンッと押した。
いままでに感じたことがない温かさが、水紋のように広がっていく。
心の中にあった雨雲が、一気に真っ白な雲へと生まれ変わっていくような、とても不思議な感覚がした。
でも、トラブルになった生徒ってどういうこと?
聞きたくても今の私はきっとリンゴ顔だ。「かわいい」と言われた衝撃が大きすぎた。
席についても胸がドキドキして、気を抜けば頬が緩む。
陽菜と対峙して怖かったのに、水樹が来てくれて喜んでいる。
さようならの意味を込めて鍵を置いてきたのに、黙って受け取った。そしてあの写真の人が彼女じゃないと聞いて……。
チョロいな私。
単純すぎて嫌になる。
家に帰ってから鍵に合うストラップを探したけど、おばあちゃんがつくったビーズの虎や、餃子の形をしたキーホルダーなどヘンテコなものしかない。
「あ、これにしよう」
ベテランの木工職人がつくった、イルカのキーホルダー。
つるつるした手触りと、海を閉じ込めたような青い鈴が綺麗。鼻を近づけると、かすかに森の香りがする。
水樹に見せよう。そう思っても、昨日は数学研究室を飛び出した。思いっきり睨みつけたし、朗らかな水樹でも怒ったかもしれない。
どうしよう。どうする?
一晩中考え込んでいたから、今朝はとても眠い。
水樹を信じたい気持ちと疑う心がグラグラ揺れたままでもう疲れた。
「今日は休もうかな」
学校は楽しい場所じゃない。
それならいかなきゃいいのに、サボると二度と学校へいけなくなるような気がして、制服に着替えてしまう。
サクサクのメロンパンをお腹に詰めてから家を出た。
「陽菜に会いませんように!」
カバンの中には上靴が入っている。水樹の絵を靴箱に入れてきたから、仕返しされそうで怖い。
絵を見つけた陽菜は、火の玉のように怒り出すだろうな。
緩やかな坂道を歩きながら憂うつな気分と戦っていた。
学校が近づくと、体育館からかけ声とボールの音がする。
校門をくぐると逃げ出したくなった。昇降口に陽菜がいる。
まだ私に気がついていないから、思わず回れ右をして校舎の隅に駆け出した。
心臓が壊れそうなほどバクバクして、手が震えている。後ろから陽菜が追いかけてきそうで、怖い。
「逃げなきゃ」
慌てて数学研究室に飛び込んだけど、水樹はいない。
静まり返った室内にはコーヒーのほろ苦い香りと、私が連れてきた朝の匂いがする。
「私がいないときは、コーヒーを飲むんだ」
水樹の椅子にどかっと腰をおろして、頬杖をついた。
ここではまろやかな甘さのお茶しか知らない。コーヒーをすすめられたことは一度もない。
子ども扱いされたようでイライラする。同時に、私はなにをやってるんだろうとむなしくなった。
カチコチと規則正しい音を立てる壁時計は、八時十五分。ノートを破って「昨日はごめんなさい」と書いたけど、クシャッと丸めた。
「ゴミ箱は……」
机の近くにゴミ箱がない。
目についたのは、ペンキが入っていそうなブリキの缶。半透明のゴミ袋が見えるから、これがゴミ箱?
中をのぞき込むと、手紙が捨ててあった。
ピンクの便せんに、ハートが描かれた手紙。思わず拾い上げて読みそうになったけど、パッと手が離れた。
ゴミ箱の傍に写真が落ちていた。
それは水樹と知らない人が腕を組んでいる写真。
ロングスカートのしとやかな女性が、いかにも嬉しそうな顔をして笑っている。
「水樹の彼女……かな?」
目を見張る美人でもないし、控えめで地味な感じ。でも、浮いたような赤い口紅が、水樹のために一生懸命メイクしたと物語っている。
私はゴミ箱から離れて、机の引き出しを開けていた。
カラフルな寄せ書きのほかにも、平塚や保健の先生と一緒の写真もある。どこかの旅館で他の先生もいる。
どの写真の水樹も心の底から楽しそうで、私に見せる顔とはまったく違う。
ハンマーで頭を殴られた気分だった。
「なんだ、そういうことか」
どこかの正義の味方みたいに水樹は『みんな大好き』なんだ。
だから私に手を差し伸べた。
やっぱりただそれだけのことだった。
「……いらないよ」
誰にでも向ける優しさはいらない。
曇ったガラス窓に大きく『水樹のバカ』と書いてみた。するとすぐに水滴がしたたり落ちて、文字は崩れていく。
バカは私だった。
写真なんか見なきゃよかったと後悔している。
今日の空は青くない。水樹もいない。
色鮮やかだった思い出が、すべてねずみ色に塗り替えられていく。
昨日からなんとなくわかっていたことでも、ハッキリした証拠が胸に突き刺さって痛すぎる。
水樹には彼女がいて、旅行するような友だちもたくさんいて、私とは違う世界に住んでいた。
「バイバイ、水樹」
私は数学研究室の鍵を机に置いて、その場から去った。
またひとりぼっち。
これから授業がはじまるというのに、泣きそうで嫌になる。
ぐっと奥歯をかみしめて、二年生の教室が並ぶ廊下で立ち止まった。
このまま屋上にいくことだってできる。
足が教室とは違う方向に動きはじめたけど「待ちなさいよ」と、呼び止められた。
「陽菜……」
「上靴の絵、上手だったよ」
その声はどこまでも明るいのに、目が笑っていない。
激しい怒りの炎をうちにため込んで、いつぶつけてやろうかとほくそ笑む陽菜がいる。
「ユイのくせに、生意気なことするのね」
「…………」
やはりいつも上靴を捨てているのは陽菜。水樹の絵を見て激怒している。
「梅雨時は湿気が多くて大変だね。クセ毛が爆発してみっともない」
フッと鼻で笑って、ぐっと近づいてきた。
「言い訳を聞いてあげてもいいよ。最近、いじめの相談をしてるんだって?」
陽菜は同級生。
格闘家でもないし、噛みつきもしない。いまここで殴ってこないことも知っている。それなのに、さげすむ声と怒りに満ちた大きな目で睨まれると怖い。
陽菜が近くにいるだけで心臓を強く握りつぶされるような感覚がする。
胸が苦しくなって、呼吸が乱れる。
身を縮めて廊下を見ることしかできない。
「気持ち悪い子ね。いい加減にこっちを見なさいよッ!」
肩を強く押された。
梅雨時の廊下はよく滑り、震えた足と硬直した体ではうまくバランスがとれなかった。
押されたら押されたまま、私は弱々しい棒きれのように倒れていく。
「危ないッ!」
声がした。
その瞬間、ジメジメとした嫌な匂いを日なたの香りが打ち消した。
「え?」
陽菜がポカンと口を開けて、驚いた顔をしている。
私もびっくりして、魚のように口をパクパクさせた。
堅くて冷たい廊下に後頭部から倒れそうだったのに、骨格のしっかりとした、厚みのある胸にすっぽり収まっていた。
水樹の大きな手が私の肩を抱いて、後ろから支えてくれた。
「いまのは危ないぞ。頭から落ちそうだった」
「どうしてここに?」
ゆっくりと体を起こしてくれたけど、水樹は私の質問に答えなかった。形のいい目を鋭くとがらせて陽菜を見ている。
「水樹?」
あまりにも険しい表情を見せるから、私はシャツの裾を引っ張った。
水樹はハッとして朗らかな笑みを浮かべたけど、またすぐにもとの表情に戻って私の前に立った。
「きみは、久遠寺さんの後ろから僕が来るのを見ていたはずだ。それなのに久遠寺さんを突き飛ばした。教師の前でいい度胸だな。名前は?」
「教師? あなた非常勤じゃない。私の名前を聞いたって、なあーんにもできないくせに笑わせないで」
陽菜は水樹のネームプレートを指さして、勝ち誇った顔をしていた。
非常勤講師は決められた時間に授業をするだけ。学級担任にはなれないし、生徒指導も行えない。
弱い立場の人には、いつだって強気な陽菜だった。
「ユイもバカよね。非常勤にいじめの相談をしたって無駄なのに」
「へぇ、詳しいな。僕のこともリサーチ済みだったとは。そんなに久遠寺さんのことが好きなのか」
「はあぁ? バカじゃないの。この状況で好いてるように見えるの?」
「だって、久遠寺さんのことが嫌いなら、無視すればいいじゃないか。それをわざわざ追い回して、僕のことまで調べて。そんなに気になるのか?」
からかうような水樹の声に、陽菜の頬がピクピク動いていた。そしてみるみるうちに怒りで顔を赤くしていく。
「追い回してないし、気にしてるわけないでしょう。ユイが気持ち悪くて目障りなだけよッ!」
「おや? 真っ赤な顔をして、図星だったか。これは、これは、邪魔しちゃったかなぁー?」
火に油を注ぎまくっている水樹を止めなきゃ。頭ではわかっていても、私は恐ろしくて一歩退いていた。
怒りが頂点に達した陽菜は肩を震わせて、今にも平手打ちが飛んできそう。
「陽菜ちゃん、もうやめよ。教室に戻ろう。一時間目は体育だよ」
騒ぎを聞きつけて、教室から飛び出してきたのは穂乃花だった。いつも陽菜の顔色をうかがって、威圧的な態度と視線に逆らえない人。
「うるさいッ、命令しないで」
「そ、そんなつもりは……」
穂乃花が泣きそうな顔でおろおろする中、廊下が騒がしくなってきた。
「穂乃花がかわいそう」
「怒鳴らなくてもいいのに」
「あの先生、誰?」
騒ぎを遠巻きに見ている生徒。教室から廊下をのぞき込む生徒。それぞれが口々に勝手なことを言い出して、収拾がつかない。
なかでも「紺野さんってそういう趣味だったの?」と、キャッキャッ笑い騒ぐ声が多くて、陽菜はますます怒りの色をにじませていた。
陽菜は怒ると顔が赤くなるタイプ。でもそれが裏目に出て、真っ赤な顔をした陽菜と、水樹の後ろで怯える私。
えー、私は陽菜に告白されて「それはちょっと」とドン引きしている姿に見えるのか。水樹の言葉のせいで、もうメチャクチャだった。
「大好きな子をいじめたくなる気持ちはわかるが、高校生だからな。もう少し大人になれないか?」
大きくうなずきながら悪意のある笑みを浮かべる水樹は、もう陽菜を見ていない。わざと通る声を出して、集まってきた生徒に聞かせている。
「あー、もう、バカバカしいッ! エロ漫画の読み過ぎよ! くそ教師めッ」
捨て台詞を吐いて、陽菜は教室へ戻ってくれた。
「ひっどい言葉だな……あ、大丈夫?」
私は首を左右にふった。
水樹が来てくれるとは思いもよらなかった。しかも、気に入らないなら無視すればいい。わざわざ嫌がらせをするために追い回さないでほしい。
陽菜に向かって言いたかった言葉をすべて言ってくれた。
驚きと嬉しさがごちゃ混ぜになって、混乱している。たくさんの言葉があふれているのに、声が出ない。
ただ目に涙がたまって泣き出しそうだった。
「まだ泣くな。ここで泣くな。もうすぐ一時間目がはじまるから」
「わかってる……でも」
「ほら、晴れ間が出てきたぞ」
水樹が窓を開けて空を眺めるから、一緒に並んで同じ空を見た。
灰色によどんだ雲が去っても、空はまだ薄墨色だった。
どこにも澄んだ青はない。でも、小さな白い点が鈍く光っているのが見えた。
それが雲に隠れた太陽の光だと気がつくと、涙は寸前のところで止まって落ちなくなった。
「水樹のことがよくわからない。どうしてここに?」
「数学研究室の鍵、机の上に忘れてたから」
イルカのキーホルダーがついた鍵をポケットから取り出した。
それは忘れたんじゃなくて、もういらないって意味だったけど、水樹の顔が嬉しそう。
投げたボールを満面の笑みを浮かべて持ってくる、愛犬のコロンにそっくりだ。
私は黙って鍵を受け取った。
「さっきの生徒が紺野陽菜か? 複雑な悩みがありそうな生徒だな」
「陽菜に悩みなんかあるわけないよ。意地悪なくせに友だちに囲まれて、賢いし。学年トップの常連だよ。おまけに背が高くてスタイル抜群だから、モデルみたいにかわいいし」
ムッとして答えると水樹は口元に笑みを浮かべた。
「ユイの方がかわいいと思うよ」
「は?」
心臓がまたドクンっと大きな音を立てた。
すると急に耳が熱くなって、水樹の顔が見られない。
「そ、そういうことは、彼女にだけ言えばいいのに。私、見たんだから。おとなしくて控えめな人と水樹が……写真で……腕を……」
「机の中を見たのか?」
「違う、ゴミ箱の近くに写真が落ちてたから」
「ああ、あれか。あの人は彼女じゃない。前の学校でトラブルになった生徒だ。おっとチャイムが鳴った。教室に入れ」
水樹の手が私の背中をポンッと押した。
いままでに感じたことがない温かさが、水紋のように広がっていく。
心の中にあった雨雲が、一気に真っ白な雲へと生まれ変わっていくような、とても不思議な感覚がした。
でも、トラブルになった生徒ってどういうこと?
聞きたくても今の私はきっとリンゴ顔だ。「かわいい」と言われた衝撃が大きすぎた。
席についても胸がドキドキして、気を抜けば頬が緩む。
陽菜と対峙して怖かったのに、水樹が来てくれて喜んでいる。
さようならの意味を込めて鍵を置いてきたのに、黙って受け取った。そしてあの写真の人が彼女じゃないと聞いて……。
チョロいな私。
単純すぎて嫌になる。