僕は難病を患って、ちょうど一年前に退院した。

 退院しても感染予防の徹底を告げられ、食事は調理後二時間以内に食べることや、まな板や包丁は熱湯をかけてから使用することなどなど。
 窮屈な生活だった。

 特に食生活は過酷で、生肉、生魚、生卵、半熟卵もダメ。生クリームもカスタードクリームも蜂蜜もダメ。外食はもちろん、コンビニの惣菜パンや弁当もダメだった。
 カフェでコーヒーを飲むくらいは許されると思っていたのに、それも笑顔で「ダメです」と言われてしまった。

 骨髄移植をしてから免疫のシステムが正常に戻るまで、最低でも一年はかかる。その間の不摂生は命に関わるから、この一年間、ずっと我慢してきた。
 しかし、僕は入院生活をよく覚えていない。

 これは不思議な感覚だった。
 お酒を飲み過ぎて記憶がないときとは違う。かすかになにかを覚えているのに、思い出そうとすると記憶の糸が急にぼやけて、すっと消えてしまう。

 まるで思い出すのを体が拒否しているようだった。
 
「香奈恵、やっと普通の生活に戻れるから、明日、外食するか?」

 妹を食事に誘ったが、あっさり断られた。

「明日はユイの卒業式だよ。こっそり参加してびっくりさせようかと」
「いくら仲のいい友だちでも、ユイちゃんのお父さんやお母さんに叱られるぞ」
「……カナ兄ぃのバカ。まだ思い出さないの?」

 香奈恵は急に怒り出す。そういえば、突然怒り出す子がもうひとりいたような?
 腕を組んで考えた。

「入院中の記憶がかすかにあるけど、思い出そうとするとぷつりと消えてしまうからなあ」

 ふと一冊のノートが目についた。
 ページをめくると英語のノートだった。

「高校レベルの英語か? なんでこんなところに。……ん?」

 真面目に勉強をした形跡は半分だけ。あとは落書きでいっぱい。香奈恵が好きそうなデフォルメキャラがいる。

「あれ?」

 デフォルメキャラのひとりがスーツ姿だった。緩めたネクタイに、着崩したワイシャツ姿もある。

「これ、僕に似てるな」

 前髪をゆらす風を感じると、ふと記憶が戻った。
 鉄の扉の向こうに広がる、青いガラスのような空をひとりで眺めていた。
 堅苦しいスーツを着崩して、ぼんやりと。だが、このだらしない姿を生徒に見せたことはない。

「生徒?」

 うわごとのようにつぶやいた。

「わわわッ、そのノートは見ちゃダメ。ユイに殺される」
「ユイ?」
「あー、もう面倒くさいな。いい加減に思い出してよ。あれから一年たったんだよ」

 なにかを思い出そうとしたが、また白くぼやけて煙のように消えていく。

「ユイはね、頑張ったんだよ。赤点や補習ばっかりだったのに、看護師になるって決めてからは別人みたいに。目標があるってすごいね」

 ふーん、と気のない返事をすると、キッと睨まれた。でもすぐに肩を落として残念そうな目をする。それから急に胸を張った。

「カナ兄ぃが倒れそうなときや闘病中も、あたしがずっと支えていたでしょう。その姿をみて、看護師になるって決めたみたい。あたしがかっこいいんだって」

 ふふんと自慢げな顔をした。

「これであたしが医者でしょう。ユイが看護師で、病院の経営はカナ兄ぃに任せるの。完璧すぎるのに、早く思い出してよ」
「そんなこと言われてもなぁ」
「カナ兄ぃの薄情者! 石油ストーブの灯油が切れたから、よろしく」

 あっかんべー、と舌を出す。
 どうして僕が責められるのかわからない。

 ベランダに出るとさらに風が冷たかった。だが、もう少しで満月、というふくよかな月が明るい。

 前にも丸々とした月を眺めた気がする。
 どこで?
 
 首を傾げたが思い出せない。
 覚えているのは――、月を眺める横顔が無邪気で、無防備で……。丸い膝の青あざとおでこを気にしていた。

 いつもならここで記憶の糸が切れていくのに、面白いほどつながりはじめた。
 月明かりに包まれたユイがまっすぐな目をしている。

 ――春になったら空に咲く桜を水樹と一緒に見たい。

「どうして忘れていたんだ?」

 鮮明に思い出すと、心の高ぶりと焦りが抑えきれない。 

「香奈恵ッ!」
「どうしたの、急に大きな声を出して」

「明日が卒業式って、本当か?」
「カナ兄ぃ、ユイのこと思い出したの?」

 僕はユイにひどいことをした。
 また笑ってくれるかわからないが、春の足音は近い。

「ユイに話したいことがたくさんあるんだ」

 まもなく桜の季節がやってくる。



 <了>