集中治療室から、私だけが追い出された。
それからどうやって帰ってきたのか、よく覚えていない。
気がつけば自宅近くの踏切で、電車が走り抜けるのを眺めていた。
「私は……どうして生きているんだろう」
水樹は、どうなるんだろう。
一緒に月を眺めたわずかな時間だけが、ふたりの思い出になるのかな?
目を閉じた。
カンカンと断続的な警報音が耳に突き刺さる。
「もういいかな」
水樹は治療を拒んだ。
香奈恵さんは「大丈夫だから」と抱きしめてくれたけど、絶望的なことばかり口にする。
私を追い出した医師は「任せてください」と言ったくせに、どうせ「全力を尽くしましたが――」って言い出す。
なにをやっても、誰と出会っても、私はひとりぼっちになる。そういう運命なのだ。
ゆっくりと足を前に出した。
「疲れちゃった」
それが私の最期の言葉になるのかな。そんなことを考えながら目を開けた。
あとは黒と黄色の縞がついた遮断機を持ちあげて、中に入るだけ。それだけで、すべての悲しみから解放される。
手をのばして遮断機をつかんだ。
でも、足が動かない。
――大丈夫だよ、私は死なない。約束する。
青空の下で約束をした。
「うぅっ……っ」
目の前を電車が通過していく。
つかんだ遮断機は、何事もなかったかのように私の手から離れてしまう。
止まっていた人たちが動き出して、呆然と立ちすくむ私だけが取り残された。
「渡らないの?」
後ろから声がしてハッとした。
振り返ると、控えめなロングスカート姿の女性がいる。
「あら、あなた。水樹先生の数学研究室にいた子よね?」
「今川……桃佳。どうしてここに?」
「水樹先生に会えないかなぁ、と思って散歩してたの。私のこと覚えててくれたんだ」
「忘れるわけないでしょう」
水樹の教え子で、数学研究室に押しかけてきた人だ。
勝手に許嫁だと言ったり、告白してフラれたり……水樹にキスをした。
燃えるような、赤い口紅の色をまだ覚えている。
ギリッと奥歯をかみしめて、目尻に伝っていた涙を慌てて拭った。
「そんな怖い顔して睨まないでよ。水樹先生はお元気かしら?」
ビクッと肩をすくめた。
「ご病気なの?」
「私はなにも言ってない。勝手に決めないでよ」
「目を見ればわかるわ」
今川さんがじっと見てきた。その視線にたじろいでしまう。
「目は口ほどにものを言う、ってことわざがあるでしょう。目から気持ちや感情が伝わるの。水樹先生、かなり悪いのかしら?」
「あんたには関係ない」
「死のうとしたくせに?」
胸がドキリとした。
「ぼぅっと突っ立って、遮断機に手をのばして。飛び込むのかなぁと思ったら、立ち止まって泣くでしょう。今から死にまーす、って必死にアピールしてたわよ」
「そんなことしてないッ」
目をそらせばつけ込まれる気がして、睨み返した。すると今川さんはふふふ、と笑い出す。
「ロミオとジュリエット」
「は?」
「水樹先生は美しいジュリエット。あなたはバカなロミオだわ。ジュリエットが死んだと勘違いして自殺するの。ね、あなたにそっくりでしょう」
ケタケタと笑ってから、冷たいまなざしで「バカみたい」と吐き捨てられた。
「あなたは、いつも自分のことばかりね。仮死状態から息を吹き返したジュリエットは、そのあと、どうなったのかしら?」
ロミオの短剣で後追い自殺をする。
一瞬、目の前が真っ白になった。
「もっと自立したら? ひとりの男に依存しすぎよ。あなただけが不幸だと思わないで。さようなら」
駆けていく今川さんの背中を見送った。
はじめて会ったときと同じ。今川さんは言いたいことを言って、去っていく。でも、その言葉が的確すぎて、激しい怒りはしゅんと身をひそめていた。
「……香奈恵さんに謝ろう」
香奈恵さんは、水樹が苦しむ姿をずっと近くで見てきた。
人工呼吸器をつけるリスクも、私なんかよりはるかに詳しい。だから悩んで、慎重な態度を示していたのに「殺さないで」と、まるで香奈恵さんが水樹を死なせるみたいな言い方だった。
私はなにも知らないで、見ないで、守られてきただけ。しかも、後ずさりをした。
死にそうな水樹が怖くて、逃げようとした。
最後の最後で水樹の手を離したのは……私だ。
香奈恵さんに「ごめんなさい」とメールを送って、しばらく考え込んでいた。
もっと自立したら? なんて言われても、どうしたらいいのかわからない。
ただ時が過ぎて、冬の寒さが身にしみる頃にようやく香奈恵さんから返事が来た。
『連絡が遅くなってごめん。カナ兄ぃは無事です。会いに来る?』
水樹は無事だった。
嬉しくて泣き崩れたけど、水樹が一番大変なときに逃げ出そうとした自分が許せない。
うじうじ悩んでいると、しびれを切らせた香奈恵さんがやってきた。
「カナ兄ぃに会いたくないの?」
首を横にふった。
「じゃあ、どうして。ユイならすぐ飛んでくると思ったのに」
「自分のことしか考えてなかったから」
香奈恵さんは理解不能、と言いたそうな顔をして眉根を寄せた。
「あたしだって自分のことしか考えてないわよ」
「香奈恵さんは水樹のことよく考えてる。私にはできない。怖くて、ただ怖くて、逃げ出そうとした」
「そりゃ、大切な人が危篤になったら気も動転するよ」
「水樹がなにかを伝えようとしたのに、わからなかった」
「あたしにもわからなかったわよ」
「でも香奈恵さんは、一番に水樹を支えて」
「家族だから当然でしょう」
「だけど……」
あ、そう。と苛立つ声がした。
「それじゃ、もう二度とカナ兄ぃには近づかないでね。せっかく認めてやろうと思ったのに」
残念ね、とつけ加えてから、信じられないことを口にした。
「ユイがうじうじして来ないから、カナ兄ぃは担当の看護師さんとお付き合いすることになりました」
耳を疑った。
でも薄情な私より、看護師さんが傍にいてくれた方が水樹のためになる。それでもいきなりすぎて、言葉が出ない。
今までのすべてが消えていく喪失感は、想像以上に胸をえぐってきた。込み上げてくる涙をこらえるために下唇を噛んでも、視界がにじむ。
「はあ、まったく。この世の終わりみたいな顔をしないでよ。冗談よ、冗談。全部ウソです」
「言っていいことと」
「悪いことがあるんでしょう。わかってるわよ。これでユイからの「ごめんなさい」はチャラにしてあげる。……でもね」
本当に困ったことが起きた、とため息をついた。
「カナ兄ぃの意識が戻っても免疫力は落ちたままだから、五分以上の会話ができなかったの。だから、気づくのが遅れた。今日はその話をしに来ただけ」
「また悪い病気になった……とか? もう嫌だよ」
「そうじゃないけど」
香奈恵さんは腕を組み、「んー」と唸って、眉間のしわを深くした。それからしばらく考え込んで「記憶がない」とつぶやく。
「薬の副作用なのか、精神的なものか。呼吸が止まったとき、脳にダメージを受けていたのか。まったくわからないけど、ここ数年の記憶が飛んでる。記憶喪失みたいな?」
「そんなこと、あり得るんですか?」
「体の防衛反応で辛い体験を封じることはあるし、正常な心拍数を維持するための薬や、鎮痛剤にも記憶障害を起こす副作用があるから、ない話ではないけど……。あたしもこんなことはじめてだから戸惑うしかなくて。もちろん、はじめは普通だったのよ。奇跡的な回復を共に喜んで。でも」
水樹は首を傾げて「香奈恵……だよな?」と何度も聞いてくる。そこから違和感を覚えて、会話を続けていくうちに、苦しすぎる闘病生活をすっかり忘れていることに気がついたらしい。
「辛かったことを忘れてるなら、よかったかも。水樹は本当に苦しそうだったから」
「それが、ユイのことも覚えてないの」
「えっ?」
「確実にここ数年の記憶はないし、たまに十年くらい前の記憶も失ってる。日によって症状が違うから、やっぱり薬が悪いのかな。熊谷先生は脳の検査と薬を変えて様子を見るしかないって言ってたけど、ユイはどうする?」
どうすると聞かれても、目を白黒させるしかない。
「記憶がなくてもカナ兄ぃはあたしのこと覚えてるし、入院中だから生活も変わらない。別にどうでもいいけど、もしかしたらって考えちゃうわけ。ユイならカナ兄ぃの記憶を取り戻せるのかなぁ、って」
「そんなこと、私にできるの?」
「わからない。病気って想像以上に残酷で無慈悲だから、ユイが傷つくだけかもしれない。無理強いはしたくないから、どうする?」
香奈恵さんは真面目に話しているけど、まだ信じられない。もし本当なら、青すぎる空の下で一緒にお弁当を食べたことも、好きだからと言ってくれたことも、全部消えてしまう。それは私からすべてを奪うことだった。でも――。
「……会ってみる」
私の前世は悪人かなにかだったのかな? どうしていつもこうなるのか、考えてもわからない。
今川さんに「あなただけが不幸だと思わないで」と言われたけど、どこをどう見ても不幸でいっぱい。
「大丈夫? カナ兄ぃは本当にユイのこと覚えてないよ」
「きっと泣き出すと思う。それでも会いたい」
だんだん腹が立ってきた。
自ら進んで不幸に飛び込もうとしている。
水樹に会っても「あなたは誰ですか?」という視線を向けられて、ボロボロとみっともないほど泣くんだ。
私に明るい未来なんてひとつもない。それならどん底まで落ちてやる。
半ば自暴自棄になりつつ、信じてみたい気持ちがかすかにあった。
水樹ではなく、私を。
心には、真新しい風がすっと通り抜けるような感覚がある。
目を閉じればいつだって、雲ひとつない青い空が見える。
鏡のような輝きの中で、朗らかに笑う水樹がいる。
水樹が忘れても、私が覚えていればいい。
これが綺麗事なのかどうか。会って確かめたい。
「水樹に会います」
私の答えに香奈恵さんは満足そうな目をして、すぐに出発した。
「心の準備はいい?」
大きくうなずくと、香奈恵さんは病室の扉を開ける。
「カナ兄ぃ、調子はどう?」
「問題はないけど……、香奈恵、だよな?」
少しかすれた低い声が耳に届くと一瞬で胸が高鳴り、涙が出そう。
「今日は久遠寺ユイさんがお見舞いに来てくれたよ。ユイ、早く入って」
強引に腕をつかまれて、水樹の前に。
慌ててにじんだ涙を拭いたけど、形のいい目がじっと私を捕らえている。頬がみるみる熱くなるのを感じた。
すると水樹が優しくほほ笑んだ。
「はじめまして、香奈恵の友だち?」
覚悟はしていた。でも、「はじめまして」の言葉を聞くと、胸にぽっかり穴が開く。
「違うわよ、久遠寺ユイだよ。カナ兄ぃの彼女!」
「えっ!?」
ひとまわり大きな声をあげた水樹は「ウソだろう」と言いたそう。
さらにじっと観察するような視線を投げつけてから「あっ」と目を見張った。
「ユイちゃんだ。兄貴の病院で迷子になってた……違う?」
私は香奈恵さんと顔を見合わせた。
「ほら、二年ぐらい前に。壁のような坂の上にある病院で」
水樹があたふたしながら説明している。だけどそれは、十年以上昔の話。しかも、
「迷子になったことがあるけど、私じゃない。だって助けてくれたのは、確か……ナカちゃん。女の子だった」
今度は水樹と香奈恵さんが顔を合わせる。そしてふたりで笑い出した。
「それ、カナ兄ぃだよ。あたしが香奈恵だからカナちゃん。カナ兄ぃも「カナ」だから、泣き虫の「ナカちゃん」」
「そうそう。中学の頃までよく女の子と間違えられたからな。ズボンをはいて髪も短いのに」
楽しそうに笑っているけど、唐突すぎて事情が飲み込めない。
「あれ? やっぱり違った? 僕には智也って兄貴がいてね、病気で苦しんでるのになにもできないから……ひとりで泣いてた。そのときに、小さな女の子が薄暗い病院の中をウロウロしてて……。きみに似てたんだけど、年が違うか?」
水樹は首を傾げながら、話を続けた。
「自動販売機の前で立ち止まって、オレンジジュースをとてもおいしそうに飲んでた。名前を聞いたら元気よく手をのばして「ユイちゃんッ!」って答えるからかわいくて」
くすくすと笑ってからすぐにハッとして、「かわいかったけど、好きとかそういうんじゃなくて」と、顔を赤くしながら慌てふためいている。
時々少年のような笑みを浮かべるけど、水樹はいつも落ち着いた大人だった。今の水樹は別人みたい。
「きっとそれ、私です」
「やっぱり? ユイちゃんのおかげで僕の考え方が変わったんだ。命は救えなくても、人助けはできるだろ。僕にもまだやれることがあるかもしれないって、救われた。ありがとう」
深々と頭を下げている。
「すごいよ、ユイ。そんな昔から知り合いだったの?」
「……違う。知らなかった」
なんだろう。とてもすごい偶然なのに、嬉しくない。
「ユイのことは覚えてなくても、ユイちゃんを知ってるなら、また付き合えるよ。ね、カナ兄ぃ」
香奈恵さんは嬉しそうなのに、水樹は顔をしかめた。
「ユイちゃんはまだ高校生だろ。僕は……何歳だ? 香奈恵の話だと高校で先生やってて、教え子と? 付き合えないでしょう。普通は」
今川さんに「僕は生徒を女性として見ていない。生徒は生徒だ」と言い切ったときと同じ目をしている。
人懐っこさも親しみもない、教師の目。恋愛対象のカテゴリーから外された。
やっぱりな、という冷めた気持ちと、胸の奥底から熱く込み上げてくるものがある。
春、新緑の季節に出会って、夏の暑さの中で想いが通じた。
秋には淡い月明かりのもとでかけがえのない時間を手に入れて、冬は、やっぱり凍える季節になりそう。
それでも私は、水樹に伝えたいことがある。
「私の家族はバラバラで、ずっといいことなんてなかった。でも、水樹と出会えて変わりました。香奈恵さんは本当のお姉ちゃんみたいだし、水樹がいるだけで心強かった。寂しさや不安も薄くなって、最強になった気分でした」
はじめて出会ったとき、水樹は子どものように目を輝かせて、よくわからない話を一生懸命していた。
指切りをして、悔しいほど爽やかな笑顔を見せてくれた。
形のいい目に寂しさが浮かぶとなぜか気になって、どんどん好きになっていった。
「ありがとう、水樹。いつも助けられてばかりだったけど、幼い私が水樹を救っていたなら、私は「いらない子」じゃなかった。それだけで、もう……」
「ちょっとユイ、それじゃまるでお別れしてるみたいな言い方だよ」
香奈恵さんが愕然としておろおろしている。心の中でごめんなさいと謝って、ぐっとお腹に力を入れた。
「私はユイちゃんって呼ばれたくない。親しみを込めた声で、ユイって呼んでほしかった。結構大変だったんだよ。名前で呼んでもらうの」
ニシシと笑って見せた。
水樹の中にいる私をユイちゃんにしたくない。私は水樹と一緒に青い空を眺めた、久遠寺ユイだ。
「とにかく、水樹が無事で本当によかった。香奈恵さんもありがとう。私は大丈夫。強がってないよ。長居はできないから、これで」
ぺこりと頭を下げて、病室を出た。
都合のいい奇跡は起こらない。わかっていた。だから泣くもんか。
手をギュッと握りしめたのに、
「ユイッ! 待ちなさいよ」
香奈恵さんが追いかけてくるから、唇が小刻みに揺れる。
こらえていた最初の一粒がこぼれ落ちると、あとはボロボロだ。
「うぅっ……私のこと、全然思い出してくれなかった」
「ごめんね、ユイ。やっぱり辛い思いをさせちゃって」
「香奈恵さんは悪くない。水樹のバカァァッ!」
ぐしゃぐしゃに泣いてしまった。
よしよしと背中をさすられながら、病院のロビーまでなんとか歩いた。
一番端のロビーチェアーに腰をおろしても、涙が止まってくれない。
勢いよく鼻をかんだところで、香奈恵さんが語りかけてきた。
「カナ兄ぃだって、ユイのことを忘れたくて忘れたんじゃない。それは理解してほしい。病気って優しくないから、憎ったらしいほど残酷で理不尽なのよ。どれだけ愛していても、本人の意思とは関係なく忘れてしまうの」
こくんとうなずいたものの納得できなかった。
病気のせいだとしても、簡単に忘れてしまう存在だったと思ってしまう。
「カナ兄ぃを恨まないでね」
「そんなことしない。水樹には感謝しかないから」
「そっか。それならよかった」
背中をさする手がまた一段と優しくなった。
香奈恵さんは本当に水樹のことが大好きで、兄と妹だから離れることもない。羨ましいというか、妬ましくなってくる。
「香奈恵さんは嬉しい? 水樹と別れるから」
背中をさする手が、ピタリと止まった。
「ちょっと悔しいかな」
予想外の答えが返ってきたから、顔をあげた。
「あたしとユイは、どこか似たところがあるのよね。だからカナ兄ぃは、ユイの中に妹を感じて世話を焼きたくなったのかと思ってた。カナ兄ぃもかなり世話好きだから。でも、まったく違ってた」
はああ、と盛大なため息をついて、背もたれに体を預けている。
短い沈黙のあと、香奈恵さんは正面から私の方に向きなおした。
「ユイを見つけたときから、心の奥底で出会えたと思ったのかな。カナ兄ぃを救ってくれたユイちゃんに」
「さっぱり意味がわかりません」
「忙しさの中でユイちゃんとの記憶は消えてたでしょう。ユイと再開しても忘れたままだった。それでも大切な思い出として心の奥底に眠っていたから、引き寄せられたのかな、って」
「……だと嬉しいです」
そんなことあり得ないと思っているから、弱々しい声しか出なかった。
「今の状況と似てると思わない? ユイのこと忘れても、きっと無意識のレベルで覚えてるから、また好きになると思うよ」
ますます信じられなくて、今度は声すら出なかった。
「頑固者め。これならどう? いいもの見せてあげる」
そう言って私に押しつけてきたのは、ラミネート加工された写真。水樹とのツーショットだった。
「裏を見て」
「これは……私の名前?」
「そうだよ、久遠寺ユイって書いてある。カナ兄ぃの近くにいつもあった」
左手で書いたような震えた文字が並んでいた。
水樹は数学の先生だから、頭がいい。性格も顔もよくて、サラッと書いた文字まで綺麗だったから、愕然としたことがある。その水樹が書いた文字とは思えないほど、形が崩れていた。
「一命を取り留めても、カナ兄ぃの闘病生活は過酷だった。手のけいれんや全身が握りつぶされるような痛み。薬の量も増えて、記憶が薄れていく前兆があったのかもしれない。だからその下に」
大切な人、と書いてあった。
「香奈恵さんはずるいな。やっと泣き止んだのに、こんなのを見せられたら……」
文字から想いが伝わってくる。
一時は治療を拒んでも、もう一度だけ必死になって生きようとした。それは私が病院に駆けつけたから。
一緒に桜を見る約束を果たそうとしてくれた。
「これでもまだ別れたい? カナ兄ぃはモテるよ。今はまだでも一年もすれば、新しい恋人をつくっちゃうよ」
「水樹が幸せになるなら……」
いいような気がした。でもすぐに、水樹が他の人と付き合うと聞いたときの衝撃を思い出す。あれは香奈恵さんの冗談だったからよかったけど、この世の終わりが来たようだった。
私はフェイスタオルで荒々しく涙を拭った。
「水樹が幸せならそれでいい……って、やっぱりよくない。私はそんなお人好しじゃないッ!」
「そうだよ。それでこそ、図々しいユイだよ。まだ諦める必要はないって」
「ん?」
「だって、カナ兄ぃの彼女候補はあたしがひと睨みするだけで離れていくのに、ユイは違った。気骨のある人は嫌いじゃないの。頑張ってほしいわけ」
香奈恵さんは絶対に、私のことを好きと言ってくれない。それでも応援してくれるなら心強いけど……。
「今の私じゃ恋愛対象外だし、どうしよう」
教師と生徒の壁。この高さは身をもって知っている。
ただの生徒に戻ったから、私も今川さんと同じ立場だ。アプローチしてもきっと逃げてしまう。
せっかく入った気合いもむなしく、心が縮んでいく。すると香奈恵さんがいいことを思いついたみたいに、両手をポンッとならした。
「あたしはカナ兄ぃに近づく悪い女をすべて排除してきたのよ。これからだってそうする。ユイはしっかり勉強して、卒業しなさい」
「なんだか水樹がかわいそう……」
「もとの生活に戻るだけよ」
フンッと鼻を鳴らして、顔を背ける。
敵にすると怖い人でも、味方になってくれたらこれほど頼もしい人はいない。水樹には悪いけど、香奈恵さんを心の底から頼ってしまう。
「よしッ、私も目標に向かって頑張ります!」
ぐっと拳に力を込めて、気合いを入れた。
「進路が決まったの?」
「えっ、あ……、はい。無理かもしれないけど進学して……」
「聞こえない。ここはハッキリ宣言して、退路を断ちなさい」
「えぇぇぇ、そんなぁ。絶対に笑わないでくださいよ」
香奈恵さんの耳もとで、胸のうちをそっと伝えた。
「それ、無理でしょう。今から間に合うの?」
私の目標を笑わなくても、現実にそった的確な反応をするから辛い。
「だから言いたくなかったのにーッ」
「ごめん、ごめん。でも頑張ってね。応援してるよ」
恥ずかしさで丸まった背中をバシッとたたかれた。背中が一気にピンとのびる。
いつの間にか涙は乾いて、笑顔しかない。
水樹と過ごした時間はわずかでも、かけがえのないものでいっぱいだった。
いつだって澄んだ光を放つ空がある。
心に焼きついた青は決して色あせない。
だから私は一歩、前に踏み出せた。
新しい風に包まれて、自分の道を歩いていくよ。
いつかまた会える。
その日を信じて――。
それからどうやって帰ってきたのか、よく覚えていない。
気がつけば自宅近くの踏切で、電車が走り抜けるのを眺めていた。
「私は……どうして生きているんだろう」
水樹は、どうなるんだろう。
一緒に月を眺めたわずかな時間だけが、ふたりの思い出になるのかな?
目を閉じた。
カンカンと断続的な警報音が耳に突き刺さる。
「もういいかな」
水樹は治療を拒んだ。
香奈恵さんは「大丈夫だから」と抱きしめてくれたけど、絶望的なことばかり口にする。
私を追い出した医師は「任せてください」と言ったくせに、どうせ「全力を尽くしましたが――」って言い出す。
なにをやっても、誰と出会っても、私はひとりぼっちになる。そういう運命なのだ。
ゆっくりと足を前に出した。
「疲れちゃった」
それが私の最期の言葉になるのかな。そんなことを考えながら目を開けた。
あとは黒と黄色の縞がついた遮断機を持ちあげて、中に入るだけ。それだけで、すべての悲しみから解放される。
手をのばして遮断機をつかんだ。
でも、足が動かない。
――大丈夫だよ、私は死なない。約束する。
青空の下で約束をした。
「うぅっ……っ」
目の前を電車が通過していく。
つかんだ遮断機は、何事もなかったかのように私の手から離れてしまう。
止まっていた人たちが動き出して、呆然と立ちすくむ私だけが取り残された。
「渡らないの?」
後ろから声がしてハッとした。
振り返ると、控えめなロングスカート姿の女性がいる。
「あら、あなた。水樹先生の数学研究室にいた子よね?」
「今川……桃佳。どうしてここに?」
「水樹先生に会えないかなぁ、と思って散歩してたの。私のこと覚えててくれたんだ」
「忘れるわけないでしょう」
水樹の教え子で、数学研究室に押しかけてきた人だ。
勝手に許嫁だと言ったり、告白してフラれたり……水樹にキスをした。
燃えるような、赤い口紅の色をまだ覚えている。
ギリッと奥歯をかみしめて、目尻に伝っていた涙を慌てて拭った。
「そんな怖い顔して睨まないでよ。水樹先生はお元気かしら?」
ビクッと肩をすくめた。
「ご病気なの?」
「私はなにも言ってない。勝手に決めないでよ」
「目を見ればわかるわ」
今川さんがじっと見てきた。その視線にたじろいでしまう。
「目は口ほどにものを言う、ってことわざがあるでしょう。目から気持ちや感情が伝わるの。水樹先生、かなり悪いのかしら?」
「あんたには関係ない」
「死のうとしたくせに?」
胸がドキリとした。
「ぼぅっと突っ立って、遮断機に手をのばして。飛び込むのかなぁと思ったら、立ち止まって泣くでしょう。今から死にまーす、って必死にアピールしてたわよ」
「そんなことしてないッ」
目をそらせばつけ込まれる気がして、睨み返した。すると今川さんはふふふ、と笑い出す。
「ロミオとジュリエット」
「は?」
「水樹先生は美しいジュリエット。あなたはバカなロミオだわ。ジュリエットが死んだと勘違いして自殺するの。ね、あなたにそっくりでしょう」
ケタケタと笑ってから、冷たいまなざしで「バカみたい」と吐き捨てられた。
「あなたは、いつも自分のことばかりね。仮死状態から息を吹き返したジュリエットは、そのあと、どうなったのかしら?」
ロミオの短剣で後追い自殺をする。
一瞬、目の前が真っ白になった。
「もっと自立したら? ひとりの男に依存しすぎよ。あなただけが不幸だと思わないで。さようなら」
駆けていく今川さんの背中を見送った。
はじめて会ったときと同じ。今川さんは言いたいことを言って、去っていく。でも、その言葉が的確すぎて、激しい怒りはしゅんと身をひそめていた。
「……香奈恵さんに謝ろう」
香奈恵さんは、水樹が苦しむ姿をずっと近くで見てきた。
人工呼吸器をつけるリスクも、私なんかよりはるかに詳しい。だから悩んで、慎重な態度を示していたのに「殺さないで」と、まるで香奈恵さんが水樹を死なせるみたいな言い方だった。
私はなにも知らないで、見ないで、守られてきただけ。しかも、後ずさりをした。
死にそうな水樹が怖くて、逃げようとした。
最後の最後で水樹の手を離したのは……私だ。
香奈恵さんに「ごめんなさい」とメールを送って、しばらく考え込んでいた。
もっと自立したら? なんて言われても、どうしたらいいのかわからない。
ただ時が過ぎて、冬の寒さが身にしみる頃にようやく香奈恵さんから返事が来た。
『連絡が遅くなってごめん。カナ兄ぃは無事です。会いに来る?』
水樹は無事だった。
嬉しくて泣き崩れたけど、水樹が一番大変なときに逃げ出そうとした自分が許せない。
うじうじ悩んでいると、しびれを切らせた香奈恵さんがやってきた。
「カナ兄ぃに会いたくないの?」
首を横にふった。
「じゃあ、どうして。ユイならすぐ飛んでくると思ったのに」
「自分のことしか考えてなかったから」
香奈恵さんは理解不能、と言いたそうな顔をして眉根を寄せた。
「あたしだって自分のことしか考えてないわよ」
「香奈恵さんは水樹のことよく考えてる。私にはできない。怖くて、ただ怖くて、逃げ出そうとした」
「そりゃ、大切な人が危篤になったら気も動転するよ」
「水樹がなにかを伝えようとしたのに、わからなかった」
「あたしにもわからなかったわよ」
「でも香奈恵さんは、一番に水樹を支えて」
「家族だから当然でしょう」
「だけど……」
あ、そう。と苛立つ声がした。
「それじゃ、もう二度とカナ兄ぃには近づかないでね。せっかく認めてやろうと思ったのに」
残念ね、とつけ加えてから、信じられないことを口にした。
「ユイがうじうじして来ないから、カナ兄ぃは担当の看護師さんとお付き合いすることになりました」
耳を疑った。
でも薄情な私より、看護師さんが傍にいてくれた方が水樹のためになる。それでもいきなりすぎて、言葉が出ない。
今までのすべてが消えていく喪失感は、想像以上に胸をえぐってきた。込み上げてくる涙をこらえるために下唇を噛んでも、視界がにじむ。
「はあ、まったく。この世の終わりみたいな顔をしないでよ。冗談よ、冗談。全部ウソです」
「言っていいことと」
「悪いことがあるんでしょう。わかってるわよ。これでユイからの「ごめんなさい」はチャラにしてあげる。……でもね」
本当に困ったことが起きた、とため息をついた。
「カナ兄ぃの意識が戻っても免疫力は落ちたままだから、五分以上の会話ができなかったの。だから、気づくのが遅れた。今日はその話をしに来ただけ」
「また悪い病気になった……とか? もう嫌だよ」
「そうじゃないけど」
香奈恵さんは腕を組み、「んー」と唸って、眉間のしわを深くした。それからしばらく考え込んで「記憶がない」とつぶやく。
「薬の副作用なのか、精神的なものか。呼吸が止まったとき、脳にダメージを受けていたのか。まったくわからないけど、ここ数年の記憶が飛んでる。記憶喪失みたいな?」
「そんなこと、あり得るんですか?」
「体の防衛反応で辛い体験を封じることはあるし、正常な心拍数を維持するための薬や、鎮痛剤にも記憶障害を起こす副作用があるから、ない話ではないけど……。あたしもこんなことはじめてだから戸惑うしかなくて。もちろん、はじめは普通だったのよ。奇跡的な回復を共に喜んで。でも」
水樹は首を傾げて「香奈恵……だよな?」と何度も聞いてくる。そこから違和感を覚えて、会話を続けていくうちに、苦しすぎる闘病生活をすっかり忘れていることに気がついたらしい。
「辛かったことを忘れてるなら、よかったかも。水樹は本当に苦しそうだったから」
「それが、ユイのことも覚えてないの」
「えっ?」
「確実にここ数年の記憶はないし、たまに十年くらい前の記憶も失ってる。日によって症状が違うから、やっぱり薬が悪いのかな。熊谷先生は脳の検査と薬を変えて様子を見るしかないって言ってたけど、ユイはどうする?」
どうすると聞かれても、目を白黒させるしかない。
「記憶がなくてもカナ兄ぃはあたしのこと覚えてるし、入院中だから生活も変わらない。別にどうでもいいけど、もしかしたらって考えちゃうわけ。ユイならカナ兄ぃの記憶を取り戻せるのかなぁ、って」
「そんなこと、私にできるの?」
「わからない。病気って想像以上に残酷で無慈悲だから、ユイが傷つくだけかもしれない。無理強いはしたくないから、どうする?」
香奈恵さんは真面目に話しているけど、まだ信じられない。もし本当なら、青すぎる空の下で一緒にお弁当を食べたことも、好きだからと言ってくれたことも、全部消えてしまう。それは私からすべてを奪うことだった。でも――。
「……会ってみる」
私の前世は悪人かなにかだったのかな? どうしていつもこうなるのか、考えてもわからない。
今川さんに「あなただけが不幸だと思わないで」と言われたけど、どこをどう見ても不幸でいっぱい。
「大丈夫? カナ兄ぃは本当にユイのこと覚えてないよ」
「きっと泣き出すと思う。それでも会いたい」
だんだん腹が立ってきた。
自ら進んで不幸に飛び込もうとしている。
水樹に会っても「あなたは誰ですか?」という視線を向けられて、ボロボロとみっともないほど泣くんだ。
私に明るい未来なんてひとつもない。それならどん底まで落ちてやる。
半ば自暴自棄になりつつ、信じてみたい気持ちがかすかにあった。
水樹ではなく、私を。
心には、真新しい風がすっと通り抜けるような感覚がある。
目を閉じればいつだって、雲ひとつない青い空が見える。
鏡のような輝きの中で、朗らかに笑う水樹がいる。
水樹が忘れても、私が覚えていればいい。
これが綺麗事なのかどうか。会って確かめたい。
「水樹に会います」
私の答えに香奈恵さんは満足そうな目をして、すぐに出発した。
「心の準備はいい?」
大きくうなずくと、香奈恵さんは病室の扉を開ける。
「カナ兄ぃ、調子はどう?」
「問題はないけど……、香奈恵、だよな?」
少しかすれた低い声が耳に届くと一瞬で胸が高鳴り、涙が出そう。
「今日は久遠寺ユイさんがお見舞いに来てくれたよ。ユイ、早く入って」
強引に腕をつかまれて、水樹の前に。
慌ててにじんだ涙を拭いたけど、形のいい目がじっと私を捕らえている。頬がみるみる熱くなるのを感じた。
すると水樹が優しくほほ笑んだ。
「はじめまして、香奈恵の友だち?」
覚悟はしていた。でも、「はじめまして」の言葉を聞くと、胸にぽっかり穴が開く。
「違うわよ、久遠寺ユイだよ。カナ兄ぃの彼女!」
「えっ!?」
ひとまわり大きな声をあげた水樹は「ウソだろう」と言いたそう。
さらにじっと観察するような視線を投げつけてから「あっ」と目を見張った。
「ユイちゃんだ。兄貴の病院で迷子になってた……違う?」
私は香奈恵さんと顔を見合わせた。
「ほら、二年ぐらい前に。壁のような坂の上にある病院で」
水樹があたふたしながら説明している。だけどそれは、十年以上昔の話。しかも、
「迷子になったことがあるけど、私じゃない。だって助けてくれたのは、確か……ナカちゃん。女の子だった」
今度は水樹と香奈恵さんが顔を合わせる。そしてふたりで笑い出した。
「それ、カナ兄ぃだよ。あたしが香奈恵だからカナちゃん。カナ兄ぃも「カナ」だから、泣き虫の「ナカちゃん」」
「そうそう。中学の頃までよく女の子と間違えられたからな。ズボンをはいて髪も短いのに」
楽しそうに笑っているけど、唐突すぎて事情が飲み込めない。
「あれ? やっぱり違った? 僕には智也って兄貴がいてね、病気で苦しんでるのになにもできないから……ひとりで泣いてた。そのときに、小さな女の子が薄暗い病院の中をウロウロしてて……。きみに似てたんだけど、年が違うか?」
水樹は首を傾げながら、話を続けた。
「自動販売機の前で立ち止まって、オレンジジュースをとてもおいしそうに飲んでた。名前を聞いたら元気よく手をのばして「ユイちゃんッ!」って答えるからかわいくて」
くすくすと笑ってからすぐにハッとして、「かわいかったけど、好きとかそういうんじゃなくて」と、顔を赤くしながら慌てふためいている。
時々少年のような笑みを浮かべるけど、水樹はいつも落ち着いた大人だった。今の水樹は別人みたい。
「きっとそれ、私です」
「やっぱり? ユイちゃんのおかげで僕の考え方が変わったんだ。命は救えなくても、人助けはできるだろ。僕にもまだやれることがあるかもしれないって、救われた。ありがとう」
深々と頭を下げている。
「すごいよ、ユイ。そんな昔から知り合いだったの?」
「……違う。知らなかった」
なんだろう。とてもすごい偶然なのに、嬉しくない。
「ユイのことは覚えてなくても、ユイちゃんを知ってるなら、また付き合えるよ。ね、カナ兄ぃ」
香奈恵さんは嬉しそうなのに、水樹は顔をしかめた。
「ユイちゃんはまだ高校生だろ。僕は……何歳だ? 香奈恵の話だと高校で先生やってて、教え子と? 付き合えないでしょう。普通は」
今川さんに「僕は生徒を女性として見ていない。生徒は生徒だ」と言い切ったときと同じ目をしている。
人懐っこさも親しみもない、教師の目。恋愛対象のカテゴリーから外された。
やっぱりな、という冷めた気持ちと、胸の奥底から熱く込み上げてくるものがある。
春、新緑の季節に出会って、夏の暑さの中で想いが通じた。
秋には淡い月明かりのもとでかけがえのない時間を手に入れて、冬は、やっぱり凍える季節になりそう。
それでも私は、水樹に伝えたいことがある。
「私の家族はバラバラで、ずっといいことなんてなかった。でも、水樹と出会えて変わりました。香奈恵さんは本当のお姉ちゃんみたいだし、水樹がいるだけで心強かった。寂しさや不安も薄くなって、最強になった気分でした」
はじめて出会ったとき、水樹は子どものように目を輝かせて、よくわからない話を一生懸命していた。
指切りをして、悔しいほど爽やかな笑顔を見せてくれた。
形のいい目に寂しさが浮かぶとなぜか気になって、どんどん好きになっていった。
「ありがとう、水樹。いつも助けられてばかりだったけど、幼い私が水樹を救っていたなら、私は「いらない子」じゃなかった。それだけで、もう……」
「ちょっとユイ、それじゃまるでお別れしてるみたいな言い方だよ」
香奈恵さんが愕然としておろおろしている。心の中でごめんなさいと謝って、ぐっとお腹に力を入れた。
「私はユイちゃんって呼ばれたくない。親しみを込めた声で、ユイって呼んでほしかった。結構大変だったんだよ。名前で呼んでもらうの」
ニシシと笑って見せた。
水樹の中にいる私をユイちゃんにしたくない。私は水樹と一緒に青い空を眺めた、久遠寺ユイだ。
「とにかく、水樹が無事で本当によかった。香奈恵さんもありがとう。私は大丈夫。強がってないよ。長居はできないから、これで」
ぺこりと頭を下げて、病室を出た。
都合のいい奇跡は起こらない。わかっていた。だから泣くもんか。
手をギュッと握りしめたのに、
「ユイッ! 待ちなさいよ」
香奈恵さんが追いかけてくるから、唇が小刻みに揺れる。
こらえていた最初の一粒がこぼれ落ちると、あとはボロボロだ。
「うぅっ……私のこと、全然思い出してくれなかった」
「ごめんね、ユイ。やっぱり辛い思いをさせちゃって」
「香奈恵さんは悪くない。水樹のバカァァッ!」
ぐしゃぐしゃに泣いてしまった。
よしよしと背中をさすられながら、病院のロビーまでなんとか歩いた。
一番端のロビーチェアーに腰をおろしても、涙が止まってくれない。
勢いよく鼻をかんだところで、香奈恵さんが語りかけてきた。
「カナ兄ぃだって、ユイのことを忘れたくて忘れたんじゃない。それは理解してほしい。病気って優しくないから、憎ったらしいほど残酷で理不尽なのよ。どれだけ愛していても、本人の意思とは関係なく忘れてしまうの」
こくんとうなずいたものの納得できなかった。
病気のせいだとしても、簡単に忘れてしまう存在だったと思ってしまう。
「カナ兄ぃを恨まないでね」
「そんなことしない。水樹には感謝しかないから」
「そっか。それならよかった」
背中をさする手がまた一段と優しくなった。
香奈恵さんは本当に水樹のことが大好きで、兄と妹だから離れることもない。羨ましいというか、妬ましくなってくる。
「香奈恵さんは嬉しい? 水樹と別れるから」
背中をさする手が、ピタリと止まった。
「ちょっと悔しいかな」
予想外の答えが返ってきたから、顔をあげた。
「あたしとユイは、どこか似たところがあるのよね。だからカナ兄ぃは、ユイの中に妹を感じて世話を焼きたくなったのかと思ってた。カナ兄ぃもかなり世話好きだから。でも、まったく違ってた」
はああ、と盛大なため息をついて、背もたれに体を預けている。
短い沈黙のあと、香奈恵さんは正面から私の方に向きなおした。
「ユイを見つけたときから、心の奥底で出会えたと思ったのかな。カナ兄ぃを救ってくれたユイちゃんに」
「さっぱり意味がわかりません」
「忙しさの中でユイちゃんとの記憶は消えてたでしょう。ユイと再開しても忘れたままだった。それでも大切な思い出として心の奥底に眠っていたから、引き寄せられたのかな、って」
「……だと嬉しいです」
そんなことあり得ないと思っているから、弱々しい声しか出なかった。
「今の状況と似てると思わない? ユイのこと忘れても、きっと無意識のレベルで覚えてるから、また好きになると思うよ」
ますます信じられなくて、今度は声すら出なかった。
「頑固者め。これならどう? いいもの見せてあげる」
そう言って私に押しつけてきたのは、ラミネート加工された写真。水樹とのツーショットだった。
「裏を見て」
「これは……私の名前?」
「そうだよ、久遠寺ユイって書いてある。カナ兄ぃの近くにいつもあった」
左手で書いたような震えた文字が並んでいた。
水樹は数学の先生だから、頭がいい。性格も顔もよくて、サラッと書いた文字まで綺麗だったから、愕然としたことがある。その水樹が書いた文字とは思えないほど、形が崩れていた。
「一命を取り留めても、カナ兄ぃの闘病生活は過酷だった。手のけいれんや全身が握りつぶされるような痛み。薬の量も増えて、記憶が薄れていく前兆があったのかもしれない。だからその下に」
大切な人、と書いてあった。
「香奈恵さんはずるいな。やっと泣き止んだのに、こんなのを見せられたら……」
文字から想いが伝わってくる。
一時は治療を拒んでも、もう一度だけ必死になって生きようとした。それは私が病院に駆けつけたから。
一緒に桜を見る約束を果たそうとしてくれた。
「これでもまだ別れたい? カナ兄ぃはモテるよ。今はまだでも一年もすれば、新しい恋人をつくっちゃうよ」
「水樹が幸せになるなら……」
いいような気がした。でもすぐに、水樹が他の人と付き合うと聞いたときの衝撃を思い出す。あれは香奈恵さんの冗談だったからよかったけど、この世の終わりが来たようだった。
私はフェイスタオルで荒々しく涙を拭った。
「水樹が幸せならそれでいい……って、やっぱりよくない。私はそんなお人好しじゃないッ!」
「そうだよ。それでこそ、図々しいユイだよ。まだ諦める必要はないって」
「ん?」
「だって、カナ兄ぃの彼女候補はあたしがひと睨みするだけで離れていくのに、ユイは違った。気骨のある人は嫌いじゃないの。頑張ってほしいわけ」
香奈恵さんは絶対に、私のことを好きと言ってくれない。それでも応援してくれるなら心強いけど……。
「今の私じゃ恋愛対象外だし、どうしよう」
教師と生徒の壁。この高さは身をもって知っている。
ただの生徒に戻ったから、私も今川さんと同じ立場だ。アプローチしてもきっと逃げてしまう。
せっかく入った気合いもむなしく、心が縮んでいく。すると香奈恵さんがいいことを思いついたみたいに、両手をポンッとならした。
「あたしはカナ兄ぃに近づく悪い女をすべて排除してきたのよ。これからだってそうする。ユイはしっかり勉強して、卒業しなさい」
「なんだか水樹がかわいそう……」
「もとの生活に戻るだけよ」
フンッと鼻を鳴らして、顔を背ける。
敵にすると怖い人でも、味方になってくれたらこれほど頼もしい人はいない。水樹には悪いけど、香奈恵さんを心の底から頼ってしまう。
「よしッ、私も目標に向かって頑張ります!」
ぐっと拳に力を込めて、気合いを入れた。
「進路が決まったの?」
「えっ、あ……、はい。無理かもしれないけど進学して……」
「聞こえない。ここはハッキリ宣言して、退路を断ちなさい」
「えぇぇぇ、そんなぁ。絶対に笑わないでくださいよ」
香奈恵さんの耳もとで、胸のうちをそっと伝えた。
「それ、無理でしょう。今から間に合うの?」
私の目標を笑わなくても、現実にそった的確な反応をするから辛い。
「だから言いたくなかったのにーッ」
「ごめん、ごめん。でも頑張ってね。応援してるよ」
恥ずかしさで丸まった背中をバシッとたたかれた。背中が一気にピンとのびる。
いつの間にか涙は乾いて、笑顔しかない。
水樹と過ごした時間はわずかでも、かけがえのないものでいっぱいだった。
いつだって澄んだ光を放つ空がある。
心に焼きついた青は決して色あせない。
だから私は一歩、前に踏み出せた。
新しい風に包まれて、自分の道を歩いていくよ。
いつかまた会える。
その日を信じて――。