主治医の熊谷先生が僕に微笑みかけた。
「朝晩は涼しくなりましたね」
「そうですね」
愛想よく返事したものの、無菌室にいるからわからない。
水色の空に薄雲が張りついているのを目にして、ほんの少し秋を感じる程度だ。
早くここから出たい。
「水樹さん、骨髄移植の日程ですが」
熊谷先生は四角い顔をキョロキョロさせた。
「妹なら来てませんよ」
僕の言葉に残念そうな顔をする。
五十路手前で頭には白いものが混じっているのに、やたらと香奈恵のことを聞いてくる。
看護師さんからの情報だと、息子の嫁を探しているらしいが冗談じゃない。
「最近、お忙しいのですか? まさか、デート」
「さあ、知りません」
顔も見たくないと怒ってから、香奈恵は来なくなった。
でもそのかわり、メールを頻繁に送ってくる。
件名を「お風呂あがりのユイ」とか「ユイの寝顔」とかにして、必ず目を通すように仕向けてくるから、たちが悪い。そして肝心の画像は後ろ姿だったり、手の一部が写っていたり、焦げたハンバーグもあった。
香奈恵は僕が降参するのを待っている。ユイの画像がほしいなら謝れ、と。
卑怯なやり方に屈したくない気持ちがあっても、
『すまん、僕が悪かった。くれぐれもユイを頼む』
あっさり降参だ。
それからソワソワして待っていたが、画像が来ない。二日ほど連絡がない。このようなことは今まで一度もなかった。
ユイも香奈恵もすぐ怒るから、あのふたりが仲良くやっているとは思えない。
「見にいきますか?」
「えっ! いいんですか?」
驚いて声をあげると、熊谷先生と看護師さんが目を瞬いた。
「構いませんよ。ここの病棟は、手術室と同等の空調設備を備えた無菌病棟ですから、ゆっくり見学してください」
「あっ……、病室を見る……ですか」
骨髄移植の治療がはじまる前に、無菌室から完全無菌室に移動する。それを「見にいきますか?」と聞かれただけだった。
ユイに会えるはずないのに、勘違いして恥ずかしい。
「水樹さん、車椅子にのりますか?」
「運動不足なので歩きます」
手すりをつかんで、ゆっくりと歩いた。
看護師さんは僕のペースに合わせてくれるが、熊谷先生は足早にいってしまう。少しペースをあげて歩いてみると、すぐに息が切れた。
「大丈夫ですか? 無理しないでください」
無理をしているつもりはない。入院する前なら、たいしたことない距離だ。それでも僕の体はボロボロで情けなくなる。
「こちらが完全無菌室です」
看護師さんが病室の扉を開けなくても、ガラス越しに室内がよく見えた。
ビニールのカーテンにベッド。これはあまり変わっていない。ただベッドの周りに冷蔵庫、電子レンジ、テレビ、コップ滅菌用の機器、洗面台などがぎっしり詰まっていた。
「狭い……ですね」
「動けなくなりますからね」
動けなくなるから、広くする必要がない。その通りかもしれないが、気分が滅入る。そして完全無菌室に入ったら、いよいよだ。
香奈恵の骨髄を受け入れる前に、抗がん剤の投与や放射線の治療で、僕の骨髄を真っ新な状態にしなければならない。
この処置で、智也は白目が内出血するほどの嘔吐を繰り返していた。
今までと比べものにならない治療が待っている。
もし、ユイに会うなら今しかない。だが、会ったあとに体調を崩すようなことになれば、ユイを苦しめてしまう。それだけは避けたい。
「もっと僕の体が丈夫なら、よかったのに」
「その丈夫な体を取り戻すために、我々がいるんです。水樹さんはしっかり寝て、体調を整えてください」
熊谷先生が誇らしげに胸を張った。
その姿は頼もしいが、僕は苦笑いをする。
「しっかり寝たくても、すぐ目が覚めてしまって」
「眠れないのは困ります。軽めの睡眠導入剤を出しておきましょう。では、また」
日中は誰かと話す機会があるから、まだいい。
消灯時間がすぎて、不安を助長させる暗闇が訪れると、悪いことばかりを考えてしまう。
ひとりになることが、こんなにも不安だとは思わなかった。
そしてまた日が暮れて夜が来る。
「睡眠導入剤を飲んで、早めに寝るか」
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出したら、コンコンとノックの音がした。
看護師さんならノックは形だけで、僕の返事を待たずに入ってくる。じっと扉を見つめても、誰も入ってこない。
誰かいるのか? と声をかけて、ようやく扉が開いた。
「寝てた? ごめんね」
現れたの香奈恵だった。
「久しぶりだね、カナ兄ぃ。元気にしてた?」
「……元気なわけないだろ」
薬を口に放り込んで水を飲んだ。そして電気をつけようとしたら、
「電気はつけなくていいよ。ほら、月が出てるから」
墨で塗りつぶしたような暗闇に、丸い月がくっきりと浮かんでいる。
「綺麗だな。そういえば今日、骨髄移植の説明があった」
「いよいよだね。大丈夫?」
「気持ちが落ち着かない。大人になれば結婚して、子どもができて、当たり前のように家庭を築けると思ってたのに」
「別に結婚しなくても子どもがいなくても、今の世の中、幸せに生きていけるよ」
「まあ、そうだけど。ユイはどう思うかなぁって」
「え! 結婚とか子どもとか考えてるの? ユイはまだ高校生だよ」
「そうだけど、ほら、……やっぱり、もういい。おまえにこんな話をしてもなぁ」
金色の月を眺めて、ため息をついた。
このまま寝てしまうには惜しいほど美しい月でも、立っているだけで疲れてしまう。
ベッドに戻ろうとしたら、香奈恵の後ろでなにかが動いた。
「ん?」
のぞき込もうとしたら、「見つかった、どうしよう……」と消え入りそうな声がした。
「カナ兄ぃ、よ、よかったわね。ユイの気持ちが知りたいんでしょう? だから、ほら、つ……連れて……き……まし……た?」
僕の様子をうかがいながら、香奈恵の声も小さくなっていく。
いつ急変するかわからないから、面会時間はあって、ないようなものだった。だが、家族以外の面会は禁止されている。
無菌病棟は管理が厳重だから、ユイが来るはずないのに……。
香奈恵の後ろからユイがちょこんと顔を出して、すぐにまた隠れた。
「は? なに? 今の……、本当に……ユイ?」
思わず目を疑った。
月明かりしかない病室でも、香奈恵が「怒らないでー」と目をつぶっているのがわかる。その後ろでユイが身を小さくしていた。
「あ、あたしは悪くないからね。ユイがカナ兄ぃに会いたいって泣くから。何日か我慢させたんだけど、ほら、あたしはドナーでしょう。もうすぐ入院だし、ユイをひとりにしておけなくて……カナ兄ぃ?」
驚きすぎて見開いた目から、すっと涙がこぼれ落ちた。
闘病中は絶対に会わないと決めていたが、込み上げてくるものが多すぎて、言葉にならない。……だが、さっきの話を聞かれている。
ベッドに腰をおろして、頭を抱えた。
ユイはまだ高校生なのに、結婚とか子どもとか。先走った話を聞かれてしまった。死んだふりしたいくらい恥ずかしい。
「ほ、本当に香奈恵さんは悪くないの。私が水樹に会いたいって、わがまま言って。嫌なら、もう帰るから」
僕が黙り込んだから、かなり怒っていると勘違いされた。
ユイと香奈恵は顔を見合わせて、病室から出ようとする。
帰したくなかった。
「いいから、そこに座って。今、電気を」
「待って、電気はつけないで。ちょっと前に、熱中症でぶっ倒れたのよ。ほら、あたしと違ってユイの鼻は低いでしょう。だからおでこをぶつけて、あざに」
「ち、が、い、ま、す。カバンがあったから斜めに倒れて、鼻をぶつけなかっただけですぅー」
「大丈夫なのか?」
ユイに近づこうとしたら、香奈恵が右手を突き出して「ストップ」と。
「あまり動き回らないで。カナ兄ぃの状態が一番いいときを狙ってきたけど、立ってるだけで疲れるでしょう。話はベッドに入って、楽な姿勢になってから。ユイも長話はできないからね」
「しばらく来なかったのに、香奈恵はなんでも知ってるな」
「医師の卵をなめないで。それじゃ、五分後にー」
片手をひらひらさせて、香奈恵は病室を出た。
しんと静まり返って気まずい。ユイはおでこを気にして下を向いたままだ。
「倒れたって本当か?」
こくんとうなずいて、壁のような坂道に挑戦して倒れたことを話してくれた。
「僕が余計なことを言ったから、ごめんな。おでこ以外は平気か?」
「あ、謝らないで。私の準備不足だったの。思いつきでいったから、お茶がなくて。でも、あの坂は本当に壁だった。水樹が話してた通り、すごく綺麗な青で、空にのぼってるみたいだったよ。おでこ意外は、膝もぶつけちゃって」
おもむろに足を組みながら、スカートをたくしあげた。
丸々とした膝に、青あざと腫れたようなあとが痛々しく残っている。だが太ももの一部も、青白い月明かりの中にぼうっと浮かぶから、目をそらした。
「あとは……お母さんが再婚するって」
「えっ?」
「お父さんもお母さんも離婚してるから、平気なはずなんだけど、……心のどこかで待ってたみたい。バカみたいだよね。家族がそろうことなんて、絶対にないのに」
ユイはにっこりと、口じりにえくぼを浮かべた。
「すっかり忘れてたけど、確かにあったんだ。お父さんと、お母さんと、私で笑ってたときが……。それを思い出しちゃって」
その声がとても辛そうだった。
「ごめんな、傍にいてやれなくて」
「水樹が謝らなくても」
「病気のことも隠してたし……、泣かせてばかりで」
「水樹に会えたから、もういいや。……水樹は私に会いたくなかったのに、ここに来てごめんなさい」
ユイはまたうつむいた。膝に置いた手にギュッと力を入れているのか、手の節が白くなっている。
「誤解しないでほしい。僕が難病を患ってなかったら、ずっと楽しい日が続いていたと思う。ユイに治療する姿を見せたくないんだ」
そっと手を重ねると、ようやく顔をあげてくれた。でもすぐに顔を伏せる。
泣き出しそうな顔が一瞬見えたが、話を続けた。
「移植前に致死量の抗がん剤を投与されて、同時に、水分の点滴で抗がん剤の毒素を排出するんだ。この処置で兄貴は死ぬほどの苦しみを味わった。さらに放射線治療で強い副作用に襲われて……治療の中止を求めてきたのに、僕は「頑張れ」としか言えなかった。狭い病室から出してやりたかったのに、苦しめることしかできなかった。それを今でも悔やんでる」
あの日のことを思い出すと、胸の奥が痛い。酷いことをしたのに、のうのうと生きているのが申し訳なくなる。
「僕の大切な人に、そんな思いをさせたくないんだ。だから」
もうここへは来ないでほしい。そう言いかけたが、ユイの小さな手に力が入るのを感じた。
言葉にしなくても、ユイは知っている。「ここに来るな」と言われることを。
そしてまた我慢するんだ。
小さな体に抱えきれないほどの重荷を背負って、大丈夫と強がる。手に力を込めて、その準備をしている。
せっかく会えたのに「来るな」は違う。もっと違う形で大切さを伝えたい。
これが最期になるかもしれないから……。
「ユイ、おいで」
ベッドから抜け出して、月を眺めた。もう僕は教師ではない。
「水樹、寝てないと」
「平気。それよりも、ほら。月光浴」
まぶしすぎる太陽と違って、窓から差し込む月明かりは優しい。
「月光浴には睡眠の質をあげて、リラックスする効果があるらしい」
「あ、それ聞いたことがある。美容にも効果があるって」
僕の横でユイも月を眺める。
愛らしい目をくりくりさせて、僕の言葉を信じていた。
おでこのあざを気にしてよく顔を見せてくれないから、明るい窓辺に誘っただけなのに。
「かわいいな」
「え、丸いから? かわいいより綺麗だよ」
青白い月光を浴びたユイがかわいいのに、月の話だと思っている。本当に無邪気で、無防備で、愛しい。
「僕が……元気になればいいだけか」
「ん?」
「病を克服すれば、いつでも会える。ユイに辛い思いをさせない。そう考えたら、乗り越えられる気がしてきた。ありがとう」
頭をなでるとユイは嬉しそうに目を細めて、顔をほころばせた。でもまたすぐにハッとして、ワタワタしながらおでこを隠す。
そこまで気にすることなのか。首をひねると「女心は繊細で複雑なの!」と、目をつりあげる香奈恵が浮かんだ。
「そういえば、よくここに来られたな。家族以外は面会できないはずだが」
「それは、香奈恵さんが」
「妹の妹ってウソをついたのか?」
ユイは違うと首をふった。それから耳を赤くして「こ……」とだけ口にした。
こ? と聞き返してのぞき込むと、ユイの口は「い」の形で止まっている。ピンときた。
「そっか、恋人か。恋人は家族みたいなものだから……って、ユイ?」
耳を隠して、背を向けていた。
少し前屈みになった丸い背中から、恥ずかしさと照れがあふれているようだった。
「初々しいな。そんなに照れなくても」
あまりにもかわいかったから、後ろから抱きしめた。
「は? 別に、照れてないし。勘違いしないでッ」
僕の腕の中でジタバタと暴れながら、怒っている。それもかわいい。
難しいことは考えずに、柔らかくて温かい、この温もりだけを守ろうと決めた。
それなのに、急に目の前が曇った。
頭からさーっと血の気が引いていく。
「水樹!?」
倒れそうになった。悲鳴みたいな声が耳に入っても、突然の不調に余裕がない。
壁にもたれて、時間を確認した。
「さっき、睡眠導入剤を飲んだから……それのせいだ。眠い」
窓際からベッドまで五、六歩しかない。たったそれだけの距離でも倒れそうで、足を前に出すのが怖かった。
「看護師さん、呼ぼうか?」
お願いしようと思ったが、香奈恵が病室を出てからもうすぐ十分。面会は十分以内だから、そろそろ――。
「五分たったよー。ユイ、帰る準備して……って、は?」
ノックもせずに香奈恵が入ってきた。
そして香奈恵の目に映ったのは、壁にもたれて息を切らしている僕と、寄り添うユイだ。安静の「あ」の字もない。
「バカ、バカ、バカッ! なにやってるの。カナ兄ぃ、どうして起きてるの。寝てないと。それに、ユイッ」
さらに厳しい声が続いた。
「カナ兄ぃにはふれるなって、言ったよね。ただでさえ免疫力が落ちてるのに」
「やめろ、ユイは悪くない。月が綺麗だから僕が誘っただけだ。それよりも手を貸せ。眠くて……」
「眠い?」
「ほら、さっき飲んでただろ」
睡眠導入剤の袋を指さすと、香奈恵も時間を確認した。それからユイをチラッと見て、手を貸してくれた。
「まずはベッドに座って、呼吸を整えて」
深呼吸を繰り返すと、少し落ち着いた。もう大丈夫と笑って見せたが、香奈恵は脈を測ろうとする。
その手を振り払った。
香奈恵は僕のウソに気づいていた。
さっき飲んだ睡眠導入剤は、効いてくるまで十五分から三十分かかる。
ずっと立っていたから、貧血を起こしている。すぐに見抜かれた。
今の僕がこのまま無理をすれば、全身のあらゆる場所に酸素欠乏の症状が起こるだろう。
運悪く心臓の酸素が欠乏してしまったら、狭心症を引き起こすが、そんなことユイに知られたくない。それよりも、まだ傍にユイがいてくれるから……。
「写真、撮りたい。そこに僕のスマホがあるから」
「わかったから、しゃべらないで。ユイはカナ兄ぃの横に」
重い頭をあげると、不安に押しつぶされそうなユイがいる。
手をのばして引き寄せた。
「心配するな、眠いだけだから。笑って」
細い肩を抱いて耳もとでささやくと、青くなったユイの顔が面白いほど赤らんでくる。
「はい、撮るよー」
カシャッと、勢いのいいシャッター音がした。
「それ、……印刷して。消毒しやすいように、ラミネート……」
「わかった、って言ってるでしょう。早く、寝て。ユイ、帰るよ」
ユイの目に、まだ怯えの色が残っていた。
安心させてやりたいのに、息が苦しい。
もどかしさに苛立ちが募って、奥歯をかみしめた。するとユイの表情が変わる。
「水樹、大丈夫だよ!」
僕の手をとり、まっすぐな目をした。
「今度はひとりでいかないから。桜を。春になったら空に咲く桜を水樹と一緒に見たい。ううん、きっと一緒に見てるから、安心して休んで」
澄み切った青空に浮かぶ桜と、柔らかい風に運ばれてくる土の匂い。
真新しい春の陽気を思い浮かべると、力強い生命を感じた。
「楽しみだな」
そう声に出したつもりだが、意識がぼうっとしてよくわからない。でもユイが、はにかみながら嬉しそうな顔をするから、ゆっくりと目が閉じていく。
このときなぜか、もう二度と会えないような気持ちになった。
翌日、目が覚めるとユイはいない。
いつもと同じ朝を迎えて、検温、血圧測定、体重測定、採血やら点滴がはじまる。
あまりにも代わり映えしない時間が続くから、昨日のことが夢や幻のように感じてしまう。だが、午後になると香奈恵が来た。
「カナ兄ぃ、写真できたよー」
「早いな」
はにかんだ笑顔のユイと僕がいる。
あれは夢ではなかった。ホッとする気持ちと、夢さえ見ない、深い眠りに落ちる間際の気持ちを思い出す。
嫌な予感だけがずっと尾を引いていた。
「朝晩は涼しくなりましたね」
「そうですね」
愛想よく返事したものの、無菌室にいるからわからない。
水色の空に薄雲が張りついているのを目にして、ほんの少し秋を感じる程度だ。
早くここから出たい。
「水樹さん、骨髄移植の日程ですが」
熊谷先生は四角い顔をキョロキョロさせた。
「妹なら来てませんよ」
僕の言葉に残念そうな顔をする。
五十路手前で頭には白いものが混じっているのに、やたらと香奈恵のことを聞いてくる。
看護師さんからの情報だと、息子の嫁を探しているらしいが冗談じゃない。
「最近、お忙しいのですか? まさか、デート」
「さあ、知りません」
顔も見たくないと怒ってから、香奈恵は来なくなった。
でもそのかわり、メールを頻繁に送ってくる。
件名を「お風呂あがりのユイ」とか「ユイの寝顔」とかにして、必ず目を通すように仕向けてくるから、たちが悪い。そして肝心の画像は後ろ姿だったり、手の一部が写っていたり、焦げたハンバーグもあった。
香奈恵は僕が降参するのを待っている。ユイの画像がほしいなら謝れ、と。
卑怯なやり方に屈したくない気持ちがあっても、
『すまん、僕が悪かった。くれぐれもユイを頼む』
あっさり降参だ。
それからソワソワして待っていたが、画像が来ない。二日ほど連絡がない。このようなことは今まで一度もなかった。
ユイも香奈恵もすぐ怒るから、あのふたりが仲良くやっているとは思えない。
「見にいきますか?」
「えっ! いいんですか?」
驚いて声をあげると、熊谷先生と看護師さんが目を瞬いた。
「構いませんよ。ここの病棟は、手術室と同等の空調設備を備えた無菌病棟ですから、ゆっくり見学してください」
「あっ……、病室を見る……ですか」
骨髄移植の治療がはじまる前に、無菌室から完全無菌室に移動する。それを「見にいきますか?」と聞かれただけだった。
ユイに会えるはずないのに、勘違いして恥ずかしい。
「水樹さん、車椅子にのりますか?」
「運動不足なので歩きます」
手すりをつかんで、ゆっくりと歩いた。
看護師さんは僕のペースに合わせてくれるが、熊谷先生は足早にいってしまう。少しペースをあげて歩いてみると、すぐに息が切れた。
「大丈夫ですか? 無理しないでください」
無理をしているつもりはない。入院する前なら、たいしたことない距離だ。それでも僕の体はボロボロで情けなくなる。
「こちらが完全無菌室です」
看護師さんが病室の扉を開けなくても、ガラス越しに室内がよく見えた。
ビニールのカーテンにベッド。これはあまり変わっていない。ただベッドの周りに冷蔵庫、電子レンジ、テレビ、コップ滅菌用の機器、洗面台などがぎっしり詰まっていた。
「狭い……ですね」
「動けなくなりますからね」
動けなくなるから、広くする必要がない。その通りかもしれないが、気分が滅入る。そして完全無菌室に入ったら、いよいよだ。
香奈恵の骨髄を受け入れる前に、抗がん剤の投与や放射線の治療で、僕の骨髄を真っ新な状態にしなければならない。
この処置で、智也は白目が内出血するほどの嘔吐を繰り返していた。
今までと比べものにならない治療が待っている。
もし、ユイに会うなら今しかない。だが、会ったあとに体調を崩すようなことになれば、ユイを苦しめてしまう。それだけは避けたい。
「もっと僕の体が丈夫なら、よかったのに」
「その丈夫な体を取り戻すために、我々がいるんです。水樹さんはしっかり寝て、体調を整えてください」
熊谷先生が誇らしげに胸を張った。
その姿は頼もしいが、僕は苦笑いをする。
「しっかり寝たくても、すぐ目が覚めてしまって」
「眠れないのは困ります。軽めの睡眠導入剤を出しておきましょう。では、また」
日中は誰かと話す機会があるから、まだいい。
消灯時間がすぎて、不安を助長させる暗闇が訪れると、悪いことばかりを考えてしまう。
ひとりになることが、こんなにも不安だとは思わなかった。
そしてまた日が暮れて夜が来る。
「睡眠導入剤を飲んで、早めに寝るか」
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出したら、コンコンとノックの音がした。
看護師さんならノックは形だけで、僕の返事を待たずに入ってくる。じっと扉を見つめても、誰も入ってこない。
誰かいるのか? と声をかけて、ようやく扉が開いた。
「寝てた? ごめんね」
現れたの香奈恵だった。
「久しぶりだね、カナ兄ぃ。元気にしてた?」
「……元気なわけないだろ」
薬を口に放り込んで水を飲んだ。そして電気をつけようとしたら、
「電気はつけなくていいよ。ほら、月が出てるから」
墨で塗りつぶしたような暗闇に、丸い月がくっきりと浮かんでいる。
「綺麗だな。そういえば今日、骨髄移植の説明があった」
「いよいよだね。大丈夫?」
「気持ちが落ち着かない。大人になれば結婚して、子どもができて、当たり前のように家庭を築けると思ってたのに」
「別に結婚しなくても子どもがいなくても、今の世の中、幸せに生きていけるよ」
「まあ、そうだけど。ユイはどう思うかなぁって」
「え! 結婚とか子どもとか考えてるの? ユイはまだ高校生だよ」
「そうだけど、ほら、……やっぱり、もういい。おまえにこんな話をしてもなぁ」
金色の月を眺めて、ため息をついた。
このまま寝てしまうには惜しいほど美しい月でも、立っているだけで疲れてしまう。
ベッドに戻ろうとしたら、香奈恵の後ろでなにかが動いた。
「ん?」
のぞき込もうとしたら、「見つかった、どうしよう……」と消え入りそうな声がした。
「カナ兄ぃ、よ、よかったわね。ユイの気持ちが知りたいんでしょう? だから、ほら、つ……連れて……き……まし……た?」
僕の様子をうかがいながら、香奈恵の声も小さくなっていく。
いつ急変するかわからないから、面会時間はあって、ないようなものだった。だが、家族以外の面会は禁止されている。
無菌病棟は管理が厳重だから、ユイが来るはずないのに……。
香奈恵の後ろからユイがちょこんと顔を出して、すぐにまた隠れた。
「は? なに? 今の……、本当に……ユイ?」
思わず目を疑った。
月明かりしかない病室でも、香奈恵が「怒らないでー」と目をつぶっているのがわかる。その後ろでユイが身を小さくしていた。
「あ、あたしは悪くないからね。ユイがカナ兄ぃに会いたいって泣くから。何日か我慢させたんだけど、ほら、あたしはドナーでしょう。もうすぐ入院だし、ユイをひとりにしておけなくて……カナ兄ぃ?」
驚きすぎて見開いた目から、すっと涙がこぼれ落ちた。
闘病中は絶対に会わないと決めていたが、込み上げてくるものが多すぎて、言葉にならない。……だが、さっきの話を聞かれている。
ベッドに腰をおろして、頭を抱えた。
ユイはまだ高校生なのに、結婚とか子どもとか。先走った話を聞かれてしまった。死んだふりしたいくらい恥ずかしい。
「ほ、本当に香奈恵さんは悪くないの。私が水樹に会いたいって、わがまま言って。嫌なら、もう帰るから」
僕が黙り込んだから、かなり怒っていると勘違いされた。
ユイと香奈恵は顔を見合わせて、病室から出ようとする。
帰したくなかった。
「いいから、そこに座って。今、電気を」
「待って、電気はつけないで。ちょっと前に、熱中症でぶっ倒れたのよ。ほら、あたしと違ってユイの鼻は低いでしょう。だからおでこをぶつけて、あざに」
「ち、が、い、ま、す。カバンがあったから斜めに倒れて、鼻をぶつけなかっただけですぅー」
「大丈夫なのか?」
ユイに近づこうとしたら、香奈恵が右手を突き出して「ストップ」と。
「あまり動き回らないで。カナ兄ぃの状態が一番いいときを狙ってきたけど、立ってるだけで疲れるでしょう。話はベッドに入って、楽な姿勢になってから。ユイも長話はできないからね」
「しばらく来なかったのに、香奈恵はなんでも知ってるな」
「医師の卵をなめないで。それじゃ、五分後にー」
片手をひらひらさせて、香奈恵は病室を出た。
しんと静まり返って気まずい。ユイはおでこを気にして下を向いたままだ。
「倒れたって本当か?」
こくんとうなずいて、壁のような坂道に挑戦して倒れたことを話してくれた。
「僕が余計なことを言ったから、ごめんな。おでこ以外は平気か?」
「あ、謝らないで。私の準備不足だったの。思いつきでいったから、お茶がなくて。でも、あの坂は本当に壁だった。水樹が話してた通り、すごく綺麗な青で、空にのぼってるみたいだったよ。おでこ意外は、膝もぶつけちゃって」
おもむろに足を組みながら、スカートをたくしあげた。
丸々とした膝に、青あざと腫れたようなあとが痛々しく残っている。だが太ももの一部も、青白い月明かりの中にぼうっと浮かぶから、目をそらした。
「あとは……お母さんが再婚するって」
「えっ?」
「お父さんもお母さんも離婚してるから、平気なはずなんだけど、……心のどこかで待ってたみたい。バカみたいだよね。家族がそろうことなんて、絶対にないのに」
ユイはにっこりと、口じりにえくぼを浮かべた。
「すっかり忘れてたけど、確かにあったんだ。お父さんと、お母さんと、私で笑ってたときが……。それを思い出しちゃって」
その声がとても辛そうだった。
「ごめんな、傍にいてやれなくて」
「水樹が謝らなくても」
「病気のことも隠してたし……、泣かせてばかりで」
「水樹に会えたから、もういいや。……水樹は私に会いたくなかったのに、ここに来てごめんなさい」
ユイはまたうつむいた。膝に置いた手にギュッと力を入れているのか、手の節が白くなっている。
「誤解しないでほしい。僕が難病を患ってなかったら、ずっと楽しい日が続いていたと思う。ユイに治療する姿を見せたくないんだ」
そっと手を重ねると、ようやく顔をあげてくれた。でもすぐに顔を伏せる。
泣き出しそうな顔が一瞬見えたが、話を続けた。
「移植前に致死量の抗がん剤を投与されて、同時に、水分の点滴で抗がん剤の毒素を排出するんだ。この処置で兄貴は死ぬほどの苦しみを味わった。さらに放射線治療で強い副作用に襲われて……治療の中止を求めてきたのに、僕は「頑張れ」としか言えなかった。狭い病室から出してやりたかったのに、苦しめることしかできなかった。それを今でも悔やんでる」
あの日のことを思い出すと、胸の奥が痛い。酷いことをしたのに、のうのうと生きているのが申し訳なくなる。
「僕の大切な人に、そんな思いをさせたくないんだ。だから」
もうここへは来ないでほしい。そう言いかけたが、ユイの小さな手に力が入るのを感じた。
言葉にしなくても、ユイは知っている。「ここに来るな」と言われることを。
そしてまた我慢するんだ。
小さな体に抱えきれないほどの重荷を背負って、大丈夫と強がる。手に力を込めて、その準備をしている。
せっかく会えたのに「来るな」は違う。もっと違う形で大切さを伝えたい。
これが最期になるかもしれないから……。
「ユイ、おいで」
ベッドから抜け出して、月を眺めた。もう僕は教師ではない。
「水樹、寝てないと」
「平気。それよりも、ほら。月光浴」
まぶしすぎる太陽と違って、窓から差し込む月明かりは優しい。
「月光浴には睡眠の質をあげて、リラックスする効果があるらしい」
「あ、それ聞いたことがある。美容にも効果があるって」
僕の横でユイも月を眺める。
愛らしい目をくりくりさせて、僕の言葉を信じていた。
おでこのあざを気にしてよく顔を見せてくれないから、明るい窓辺に誘っただけなのに。
「かわいいな」
「え、丸いから? かわいいより綺麗だよ」
青白い月光を浴びたユイがかわいいのに、月の話だと思っている。本当に無邪気で、無防備で、愛しい。
「僕が……元気になればいいだけか」
「ん?」
「病を克服すれば、いつでも会える。ユイに辛い思いをさせない。そう考えたら、乗り越えられる気がしてきた。ありがとう」
頭をなでるとユイは嬉しそうに目を細めて、顔をほころばせた。でもまたすぐにハッとして、ワタワタしながらおでこを隠す。
そこまで気にすることなのか。首をひねると「女心は繊細で複雑なの!」と、目をつりあげる香奈恵が浮かんだ。
「そういえば、よくここに来られたな。家族以外は面会できないはずだが」
「それは、香奈恵さんが」
「妹の妹ってウソをついたのか?」
ユイは違うと首をふった。それから耳を赤くして「こ……」とだけ口にした。
こ? と聞き返してのぞき込むと、ユイの口は「い」の形で止まっている。ピンときた。
「そっか、恋人か。恋人は家族みたいなものだから……って、ユイ?」
耳を隠して、背を向けていた。
少し前屈みになった丸い背中から、恥ずかしさと照れがあふれているようだった。
「初々しいな。そんなに照れなくても」
あまりにもかわいかったから、後ろから抱きしめた。
「は? 別に、照れてないし。勘違いしないでッ」
僕の腕の中でジタバタと暴れながら、怒っている。それもかわいい。
難しいことは考えずに、柔らかくて温かい、この温もりだけを守ろうと決めた。
それなのに、急に目の前が曇った。
頭からさーっと血の気が引いていく。
「水樹!?」
倒れそうになった。悲鳴みたいな声が耳に入っても、突然の不調に余裕がない。
壁にもたれて、時間を確認した。
「さっき、睡眠導入剤を飲んだから……それのせいだ。眠い」
窓際からベッドまで五、六歩しかない。たったそれだけの距離でも倒れそうで、足を前に出すのが怖かった。
「看護師さん、呼ぼうか?」
お願いしようと思ったが、香奈恵が病室を出てからもうすぐ十分。面会は十分以内だから、そろそろ――。
「五分たったよー。ユイ、帰る準備して……って、は?」
ノックもせずに香奈恵が入ってきた。
そして香奈恵の目に映ったのは、壁にもたれて息を切らしている僕と、寄り添うユイだ。安静の「あ」の字もない。
「バカ、バカ、バカッ! なにやってるの。カナ兄ぃ、どうして起きてるの。寝てないと。それに、ユイッ」
さらに厳しい声が続いた。
「カナ兄ぃにはふれるなって、言ったよね。ただでさえ免疫力が落ちてるのに」
「やめろ、ユイは悪くない。月が綺麗だから僕が誘っただけだ。それよりも手を貸せ。眠くて……」
「眠い?」
「ほら、さっき飲んでただろ」
睡眠導入剤の袋を指さすと、香奈恵も時間を確認した。それからユイをチラッと見て、手を貸してくれた。
「まずはベッドに座って、呼吸を整えて」
深呼吸を繰り返すと、少し落ち着いた。もう大丈夫と笑って見せたが、香奈恵は脈を測ろうとする。
その手を振り払った。
香奈恵は僕のウソに気づいていた。
さっき飲んだ睡眠導入剤は、効いてくるまで十五分から三十分かかる。
ずっと立っていたから、貧血を起こしている。すぐに見抜かれた。
今の僕がこのまま無理をすれば、全身のあらゆる場所に酸素欠乏の症状が起こるだろう。
運悪く心臓の酸素が欠乏してしまったら、狭心症を引き起こすが、そんなことユイに知られたくない。それよりも、まだ傍にユイがいてくれるから……。
「写真、撮りたい。そこに僕のスマホがあるから」
「わかったから、しゃべらないで。ユイはカナ兄ぃの横に」
重い頭をあげると、不安に押しつぶされそうなユイがいる。
手をのばして引き寄せた。
「心配するな、眠いだけだから。笑って」
細い肩を抱いて耳もとでささやくと、青くなったユイの顔が面白いほど赤らんでくる。
「はい、撮るよー」
カシャッと、勢いのいいシャッター音がした。
「それ、……印刷して。消毒しやすいように、ラミネート……」
「わかった、って言ってるでしょう。早く、寝て。ユイ、帰るよ」
ユイの目に、まだ怯えの色が残っていた。
安心させてやりたいのに、息が苦しい。
もどかしさに苛立ちが募って、奥歯をかみしめた。するとユイの表情が変わる。
「水樹、大丈夫だよ!」
僕の手をとり、まっすぐな目をした。
「今度はひとりでいかないから。桜を。春になったら空に咲く桜を水樹と一緒に見たい。ううん、きっと一緒に見てるから、安心して休んで」
澄み切った青空に浮かぶ桜と、柔らかい風に運ばれてくる土の匂い。
真新しい春の陽気を思い浮かべると、力強い生命を感じた。
「楽しみだな」
そう声に出したつもりだが、意識がぼうっとしてよくわからない。でもユイが、はにかみながら嬉しそうな顔をするから、ゆっくりと目が閉じていく。
このときなぜか、もう二度と会えないような気持ちになった。
翌日、目が覚めるとユイはいない。
いつもと同じ朝を迎えて、検温、血圧測定、体重測定、採血やら点滴がはじまる。
あまりにも代わり映えしない時間が続くから、昨日のことが夢や幻のように感じてしまう。だが、午後になると香奈恵が来た。
「カナ兄ぃ、写真できたよー」
「早いな」
はにかんだ笑顔のユイと僕がいる。
あれは夢ではなかった。ホッとする気持ちと、夢さえ見ない、深い眠りに落ちる間際の気持ちを思い出す。
嫌な予感だけがずっと尾を引いていた。