臆病な僕は、きっと治療に耐えられないだろうな。
 みっともない泣きごとを言って、苦しんで、当たり散らして――死ぬ?

 娯楽の少ない病室に閉じこもっていると、くだらないことばかり考えてしまう。
 生まれてきた者は必ず死ぬ。その時期が早いのか、遅いのか。違いはそれだけ。
 智也の命が消えたのは早かった。

 はじめはよく笑っていたのに、食べることも水を飲むこともできなくなった。
 点滴をすれば嘔吐を繰り返して、拷問を受けているようにしか見えない。こんなにも辛い思いをしているのだから、必ず治ると信じていた。

 励まして、未来の話をして、頑張ろう……。そればかりを繰り返していた。
 だから罰が当たった。

 教師の仕事もうまくいかない。
 気分の浮き沈みが激しくて、ふらりと屋上へ足を運んだ。

 鉄の扉にぶら下がった鍵に手をかけたとき、なぜか智也の死に顔が浮かんだ。
 柩の中で眠る姿。たくさんの花に囲まれて綺麗だった。悲しいはずなのに、「よかったな」と。

 僕は酷い人間だ。
 そして鍵は、智也が死んだ八月二十七日の四時、八二七四で開く。
 扉の先に、智也が待っているような気がした。

 でも僕の目に映ったのは空。
 地上から仰ぐ空とはまったく違う色をした、青い空。

 鏡のように輝いて、僕を圧倒してくる。
 狭い病室で「……殺してくれ」と頼んできた智也に、一番見せたかった色がそこにあった。

 それから度々空を眺めて気がついた。
 理不尽はいつも突然やってくる。

 ちっぽけな僕ひとりの力では、どうすることもできないのに、足掻いて、もがいて、立ち向かおうとする。だから苦しい。
 この世から僕が消えても、空の青さは変わらない。智也の死もそれと同じ。

 薄情な考えだが、どうにもならないことが世の中にはたくさんある。
 諦めることも大切だと。

 今の僕はどうだろう。
 健康な香奈恵の体を傷つけてまで生きたいか?
 それよりもっと酷いことをユイにしてしまった。

 なにかあったら僕が助けにいく、そう約束したのに守れない。
 夏休みの屋上で、終わりにしておけばよかった。

 ――学校を辞めたら……、私は生徒じゃない。水樹には関係ない人になるんだ。

 ユイの言葉に、思わず「そうじゃない」と言ってしまった。
 驚くほど素直な気持ちをぶつけてくるから、僕もウソがつけなくなった。

 いつからだろう。ユイが特別になったのは。

 なにかに怯えて落ち着きをなくしたユイが、僕の姿を発見すると、目にパッと光が宿る。そして嬉しそうに駆け寄ってくる。
 表情が豊かだから、眺めているだけで面白いし、心が安らいだ。

 でも、唯一の安らぎだったユイに、ギラギラと輝く太陽の下で、僕はなにをしようとした?
 手のひらについた血を眺めて、病の重症化を悟ったのに、僕は……。

 唇の端についた血を、ハンカチで拭ってくれたユイに。
 柔らかい小さな手が僕にふれたから、その手をつかんで――。

「……まいったなぁ」

 あのとき、突然沸きあがった抑えがたい欲情。
 前髪がふれると甘い香りがして、ほしくなった。
 まだ幼い高校生の生徒を、自分のものにしたくなった。

 口の中に残る、錆びた鉄のような苦々しい血の味がなければ。
 目が覚めるような冷たい風が吹かなければ、ユイの真っ白な未来を壊していたかもしれない。
 生命の危機を感じて自暴自棄になった醜い心に、巻き込もうとした。……いや、もう巻き込んでいる。

 僕の役目はユイをサポートすることだった。
 友人関係や勉強。少しでも高校生活が楽しかったと笑えるように、ほどよい距離をとって「いい先生」でいるべきだった。

 ユイの未来は無限に広がっているから、取り返しのつかない深い傷を背負わせてはいけないのに、夏の暑さにのぼせて流された。

 ユイを手放したくない。これは僕の、無責任なわがままだ。
 香奈恵がいたら、「うじうじ悩んでバカじゃない。さっさと病気を治して、会いにいけば?」って、笑われそう。
 あいつの強さが羨ましい。

「カナ兄ぃ、起きてる?」
「うわッ、びっくりした。今日はもう来ないと思ってた」

「そんなに驚かないでよ。ユイに本を渡して、もう大変な一日だったのよ」
「なんで本を渡すだけで、大変な一日になるんだ?」

「そりゃ、あたしがユイの家までいったからよ」
「学校に来てなかったのか?」
「いたわよ。紺野陽菜って暴力女に蹴り飛ばされそうだったから、あたしが助けてきた」
 
 状況がよく飲み込めない。
 僕がいない間に、ユイを助けてくれたのはありがたい。だが、香奈恵が余計なことに首を突っ込んだことだけはわかる。
 
「ユイは……大丈夫だったのか?」
「うーん、大丈夫なんじゃない。あたしが暴力女を平塚先生に突き出したから」

「おまえはいったい、なにをやってんだ」
「こっちが聞きたいわよ。それよりも、ユイのマンション。あれ、なに」

 香奈恵は興奮した様子で、高級ホテルのようなエントランスにコンシェルジュがいて、セキュリティレベルの高さを語った。
 父親が有名人で金持ちなのは知っている。それでもまだ想像以上の場所に住んで、裕福な暮らしをしているのかと思うと、苦笑いしか出てこない。

「家の中も豪華だったのか?」

 頬を引きつらせて尋ねたが、香奈恵の顔がすっと平らになった。

「ユイの部屋にはなぁーんにもなかった。椅子も食器もユイの分しかなくて。考えられる?」
「ひとり暮らしだから、普通だろ」

「それでも誰か来たとき用に、コップぐらいはあるはずでしょう。お金持ちなんだから、好きなものたくさん買って、遊んで、あっという間に自堕落な生活になりそうなのに、ぬいぐるみのひとつもないの。ガランとした部屋が寂しすぎて、ゾッとした」
「そんな大袈裟な」

「自分のことを「いらない子」とか言って、昔のあたしみたいだったよ。お母さんに好かれたくても、なぜか冷たくてさ。大好きなのに嫌われて、愛されてないんだーって」
「香奈恵、母さんは……」

「わかってる。トモ兄ぃのことがあったから、複雑なんでしょう。ユイもそれに似てるのかな。女の子のひとり暮らしだから、安心安全な住まいに守られて、愛情がないわけでもなさそうなのよ。でもそれに気づいてない。ちょっと腹が立って、カナ兄ぃのこともあったから……嫉妬した」

「僕のこと?」

 嫌な予感がした。

「あたし、話したよ。カナ兄ぃのこと」
「絶対に言うなって、あれほど……」

「カナ兄ぃが助かる道を手放そうとするから、全部、話した。骨髄移植をしなかったら、悪い道を選ぶなら、ユイは悲しむよ。四月に会う約束をしたんでしょう?」

 僕は頭を抱えた。
 命が助かっても、その先は?

 心身が疲れ切った体に、再発の懸念。病は一生つきまとう。
 きっと仕事もうまくいかない。教師は体力のいる仕事だから、また教壇に立てるとは限らない。不安だらけの未来だ。

 こんな大人がユイを幸せにできるはずがない。やっぱりあのとき、「学校を辞めたら……、私は生徒じゃない」の言葉に、「そうだよ」と答えるべきだった。

「……帰れ」
「カナ兄ぃ」
「顔も見たくない。明日から荷物は看護師さんに預けてくれ」

 ごろんと横になって、ふとんをかぶった。

「カナ兄ぃは間違ってる。トモ兄ぃと同じ、移植しない道を選んで贖罪のつもり? 誰も喜ばないよ。かっこうばかりつけて……。弱くてもいいじゃない。病気なんだよ。みっともなくなんかない。ボロボロになっても生きてほしい。一緒にいたいって思うのは、わがままなの?」

「綺麗ごとばかり言うな」

 背中を向けているから、香奈恵の表情はわからない。だが、「あ、そう」と恐ろしく冷たい声がする。

「さっき外で消毒してきたから、スマホ、使うね」
「出ていけ」

「……あちゃ、ものすごい着信歴」
「香奈恵、聞いてるのか?」

 苛立つ声と共に起きあがると、スマホを突き出してきた。
 ユイからの着信歴で埋め尽くされている。

「あー、もしもし。今、あたし、とっても忙しいから」
『ふざけるなッ! 返せッ。泥棒ーッ!!』

 なつかしいユイの声が耳に飛び込んできた。しかも威勢のいい怒鳴り声。
 香奈恵がなにか悪さをした。瞬時に理解できたから「おい」と呼びかけると。

「うるさいッ! ここは病院なの静かにしてッ」

 僕とユイを叱りつけてきた。
 それから戦闘モードの香奈恵とユイの激しいバトルがはじまる。よくわからないけどノートがどうこう、聞こえてくる。

「返してほしかったら、とりに来て。詳しいことはメールするから、荷物をまとめておきなさい!」

 フンッと鼻息をあらくして、スマホの電源を切った。そして激しい怒りを残した目で、僕を見下ろす。

「というわけで、しばらくユイを家で預かることにした」
「は?」

「だって、ひとり暮らしなのに自炊もできないのよ。一通りの家事ぐらいは仕込んであげないと。あれじゃお金がなくなったら生きていけなくなる。あのガランとした部屋も気に入らないから、今、決めた」
「勝手に決めるな。ユイの気持ちは? 学校だって」

「学校はこの時期、文化祭や体育祭の準備で授業も減るし、クローゼットの中に大きなスーツケースもあったから、大丈夫よ。あ、そうだ。カナ兄ぃの部屋を使うから、一時帰宅のときは実家に帰って。お父さんにも伝えとく。実家は病院だから安心でしょう」

 また無茶を言い出した。頭が痛くなる。

「それでは帰ります。あたしの顔は見たくないんでしょう。じゃあね」
「ちょっと、待てッ!」

 呼び止めても真っ赤な舌を「ベェー」と出して、いってしまう。
 僕は無菌室(ここ)から出られない。
 ユイの連絡先も知らない。

 ストレスは大敵だが、イーッとなって頭をかきむしった。
 昔から突っ走る香奈恵には勝てない。
 僕が連れてくる女性はすべて気に入らないようで、いつも邪魔してくる。

「ユイ、……大丈夫かな」

 心配をしても、なにもできない。
 再び寝転がって、白いだけの天井を眺めた。

 難病を患う僕よりも、ユイにふさわしい人がどこかにいる。それなのに、香奈恵というとんでもないものに巻き込んでしまった。
 ユイに会うのを嫌がっていたから、接触はしない。そう考えていたが甘かった。完全に読み違えた。

「頼むんじゃなかった……」

 浅はかな自分が情けない。どうして僕はいつも選択を間違える?
 深いため息しか出てこない。

 すべてを知って、ユイは怒っただろうな。泣いていたら、悪いことをした。
 ここで生きることをあっさり手放したら、香奈恵の言った通りになる。努力しない姿は見せられない。
 ナースコールを押した。

「水樹さん、どうかしましたか?」
「お忙しいときにすみません。主治医の熊谷(くまがや)先生に伝えてください」

 香奈恵は本当にお節介だ。
 周りの迷惑を考えないで、ただ一直線に、イノシシみたいに突き進む。
 ユイに酷いことをするなら、おちおち死んでいられない。

「骨髄移植、受けます」

 僕の口から謝ろう。
 病を隠していたこと。香奈恵が想像を絶する迷惑をかけたこと。

 そうなると、智也のところにはまだいけない。
 ごめんな……。