なんであたしが本を届けなきゃいけないの。
腹が立つから忙しいとか、時間がないとか適当な理由をつけて後回しにしていた。
九月になるとカナ兄ぃがしびれを切らしはじめたから、観念するしかない。
晴天の午後、暑い日差しを真上から浴びて、なつかしい通学路を歩いた。
高校を卒業してまだ二年。
母校はなにも変わっていない。
緑に囲まれた、広いグランドを走る生徒たち。大きな風がサッカーゴールをゆらして、砂埃が目に入りそう。
昇降口の反対にある、事務室へ急いだ。
「すみません、昨日連絡をした水樹香奈恵です。平塚先生は授業中ですか?」
「えーっと、三年生はまだ授業中ですが、二年生は……、あっ、この時間なら職員室にいますね」
「ありがとうございます」
さっさと帰ろう。そう思っていたのに、近くの教室では授業をしている。
少し覗いてみた。
先生は暑苦しそうに胸元を緩めて、チョークの音を走らせていた。生徒は積極的に質問をしたり、必死にノートをとったり。
夏休みを終えたばかりの三年生。勉強漬けだった日々を思い出して、応援したくなる。
「なつかしいなー」
あたしのクラスも一階にあった。つい寄り道をしたくなるけど、ダメ。
あのくそガキに会いたくない。
カナ兄ぃからも「ユイを見かけても、絶対に余計なことを言うな」と、きつく口止めされている。
病気のことを軽く教えて、入院先の病院だけは絶対に教えない。という意地悪なプランもあるけどね。
「…………」
カナ兄ぃは、どこまで本気なんだろう。
くそガキはまだ高校生だ。簡単に離れる未来しか見えてこない。
病気のことだって、いつまで隠すつもり?
あたしにはたくさんの情報があって、あのくそガキにはなにもない。フェアじゃない気がして落ち着かない。どこか心に引っかかってくる。
あれこれ考えながらピロティを歩いていたら、女子生徒の影を見つけた。
「どうしてわかってくれないのよッ!」
激しく言い争う声も聞こえてくる。
他人の喧嘩は嫌いじゃない。
好奇心をふくらませながら、声の方へ足を忍ばせた。
「一度でいいから会わせて」
「私だって会えない、って言ってるでしょう」
雑草が青々と生い茂る中庭の隅で、押し問答を繰り返している生徒が見えた。
「お願い、どうしても有名になりたいの」
手足の長い、モデルスタイルのかわいい子が頭を下げている。どこかのオーディションを受ければ、そこそこいいところまでいそうな子。
そして――。
「げッ」
思わず、声が出た。
こちらからは後ろ姿だけど、特徴のあるクセ毛に見覚えのある背丈。
久遠寺ユイだ。
「夏休みにオーディションを受けたの。でも全然ダメだった。ダンスだって、かわいさだって負けてないのに……。お願い、ユイのお父さんに会わせて。プロの目から指導してほしいの」
「だから、無理だって。離婚してから東京にいったきりだし、連絡先も知らない。あ、平塚なら知ってるよ。陽菜が平塚に聞いてよ」
離婚?
くそガキの親は離婚しているのか……。
父親は、プロ? なんのプロだろう?
それにしても、カナ兄ぃから聞いていたくそガキの印象は、大飯喰らいで、ボッチな生徒。でも今の態度は、ちょっと酷い。
目をうるませて、悲愴な顔でお願いしている同級生を邪険に扱う酷い女。
なるほど。カナ兄ぃの前だけいい子のふりをしていた、というわけだ。
やはりカナ兄ぃは、女を見る目がない。
「ユイのくせに口答えするの? またいじめてあげようか?」
ドスの利いた声だった。
かわいらしい生徒の顔つきが、化け猫のように変わっていく。
目を三角につりあげて、なんだか怖い。
「わ、私はもう陽菜のことなんか怖くない。勝手にすれば?」
「生意気ッ!」
くそガキは突き飛ばされて、青々とした雑草の上に倒れ込んだ。
あー、あー、かわいそうに。とても痛そうだけど、ちょっといい気味。なーんて思っていたけど、次の瞬間、目を疑った。
かわいい顔から恐ろしい顔へと変わった生徒が、サッカーボールでも蹴るかのように足をバックスイングさせた。
女の顔を、蹴り飛ばす気?
「やめなさいッ!」
危ない。と、感じると同時に、体が勝手にくそガキを守っていた。
ただの口喧嘩なら止めるつもりはなかった。
でも今のは確実に頭を蹴ろうとした、危険な行為。かわいい顔をして、やることがえげつない。
「……香奈恵さん?」
くそガキが驚いた顔をしている。
そりゃそうよね。あたしだって、あんたを助ける気なんて、これっぽっちも持っていなかった。
はああ、と深いため息をついてから、汚物を眺めるような視線でふたりを睨みつけてやった。
「あんたたち、ちょっと職員室にいこうか」
「えっ、嫌よ」
くそガキの頭を蹴ろうとした、かわいい顔の暴力女が逃げようとする。
「逃がすわけないでしょう」
手首をつかんで、あらっぽくねじった。
「い、痛い。離してッ」
雑草の中で体を起こしたくそガキは、瞬きを繰り返している。
つかまれた手を、必死になって振り払おうとする暴力女。
どちらも大嫌いだけど、女の顔を蹴ろうとしたのは許せない。
「ほら、くそガキもさっさと立って。職員室にいくよ」
「……久遠寺ユイです」
いい加減に名前を覚えてよ。と、言いたそうな顔。
助けてやったのに、腹が立つ。
そして、ぎゃー、ぎゃー、うるさかった暴力女も職員室では静かにしている。
あたしが一から説明すると、平塚先生はあきれ顔のまま口が半開きだった。
「その話は、本当か?」
「あたしが通りかからなかったら、そこの暴力女がくそガキの頭をフルスイングで蹴り飛ばしてます」
ビシッと指さすと、暴力女は顔を真っ赤にして「違います!」と叫んだ。
それからボロボロと泣き出して、話にならない。
「泣けばなんでも許されると思ってるの? おめでたい頭ね」
「香奈恵ちゃんは、ちょっと黙っておこうか。暴力女じゃなくて、紺野陽菜さん。くそガキは久遠寺ユイさん。名前で呼んであげて」
くそガキがムッとした表情を見せた。
暴力女は否定したのに、くそガキはそのまま。思わず噴き出しそうになった。
平塚先生とも仲が悪いようだから、この勝負、暴力女の勝ちか。なーんて考えていると、暴力女の口が開いた。
「平塚先生、聞いてください。ユイが……意地悪なんです」
「わかった、わかった。まずは紺野の話を聞こう」
「幼い頃から夢があって……。俳優かアイドル、芸能人になりたいんです」
「は? 紺野は国立大学にいって、弁護士を目指すんじゃなかったのか?」
「美人弁護士もかっこいいけど、ほら、どちらかというと、かわいいタイプでしょう。だから、芸能人に」
暴力女がチラッとこっちを見た。
意見がほしいのなら、言ってやる。
「まあ背も高いし、スタイルもいいから、芸能人になれるんじゃないの? 性格は腐ってるけど」
「香奈恵ちゃんは黙ってて。それで、その夢と久遠寺にどういう関係が?」
「……ユイのパパは久遠寺公康だもん。口利きだってできるでしょう」
「だからできないって、何度も言ってるでしょう!」
「久遠寺も落ち着いて。職員室で声を張り上げるな」
あたしは頭の中を整理した。
くそガキの父親が有名人で、その人に会いたいから頭を下げていた。でも願いを聞いてくれない。
「もしかして……くそガキにケガをさせたら、父親が飛んでくると思ったの?」
図星、というような目をしている。
「あきれた。平塚先生、いつからあたしの母校はバカばっかりになったの?」
「香奈恵ちゃん、落ち着いて」
「ちょっと待ってよ。それじゃ、陽菜がずっと私の靴を捨てたり、教科書に落書きをしたりしていたのって……。そんなくだらない理由だったの?」
「くだらなくないわよッ! 人の夢にケチつけないで」
この暴力女以外は、全員「くだらない」と冷めた目をした。するとまた激しく泣き出す。
「あー、職員室で泣かない。紺野、よく考えてみろ。嫌がらせをして、嫌われて、そんな人に口利きをするわけないだろ」
「でも……有名に……なりたくて。一度でも会えれば、きっと……。必ず、スカウトしたくなるから……」
「平塚ぁ、私、教室に戻っていい?」
くそガキが帰ろうとするから、あたしも便乗しようと思った。
でも暴力女が立ち塞がる。
「ユイなんか大嫌いッ! はじめは、少し困らせてやろうと思っただけだった。上靴をちょっと隠して、困っているところに穂乃花が持っていく。そんな計画だったのに、ユイは空っぽの靴箱を見て、困る様子を見せない。涼しい顔をして新しい上靴を買ったのよッ」
はじめはなんの話かわからなかった。
よくよく聞けば、暴力女の父親はリストラされて、家計が苦しい。授業料全額免除の特待生を維持することで、どうにか高校へ通っている。
私服はファストファッションやフリマサイトを駆使して、メイク用品も百円ショップでそろえて。少ないお小遣いでやりくりしているのに、ポンポン新しいものを買う、くそガキ。憎しみが募ったらしい。
「ユイは金持ちだから、いつも平気な顔をして……。それが悔しくて……夏休みにお母さんが倒れて……。働きすぎなの。家計を助けたくて……有名に……なれば……」
他人が羨ましくて、憎くなる気持ち。そこそこ理解できるけど、していいことと、悪いことがある。
言いたいことが山ほどあるけど、それは平塚先生に任せよう。どうまとめるのか、お手並み拝見。
涼しい顔で高みの見物を決め込む。そう決めたけど、忘れないうちに渡すものがあった。
「くそガキ、これをあんたに」
本の入った袋を投げつけた。
「重いッ。なんですか、これ」
「あんたがバカだから、カナ兄ぃが心配して選んだ本よ。……って、嬉しそうな顔するんじゃないッ」
あーあ、今日は本当に最悪な日だ。こうなるような予感がしたから、いきたくなかった。
小難しい勉強の本をもらって、頬を赤く染める奴なんてはじめて。あたしは、くそガキを喜ばせるために来たんじゃない。
さっさと帰ろうとしたのに、平塚先生がポンコツだった。
「まあこれで、紺野も久遠寺も言いたいことをハッキリ言えたな。紺野は久遠寺に謝れ」
「……ごめんなさい」
「ほら、久遠寺も」
は?
思わずくそガキと顔を見合わせた。
言いたいことをいたのは、暴力女だけ。
口を挟もうとしたら、
「私の方こそ力になれなくて……。ごめんね、陽菜」
お互い謝って、握手をして、それでおしまい。小学生かよッ。
職員室を出て、真っ先にくそガキを呼び止めた。
「今の握手で許したの? まったく理解できないけど、あれでいいの?」
「よくないです」
「どうして言い返さないの? 被害者なのに頭を下げて、バカみたい」
「どうせなにを言っても、平塚は陽菜の味方だから。落ちこぼれは落ちこぼれらしく、おとなしくしてます」
口では不満げに話している。だけど、カナ兄ぃからの本を嬉しそうに抱えて、ご機嫌だ。腹が立つ。
「やっぱりカナ兄ぃに、ふさわしくない」
「……それも自覚してます。ずっといらない子だったから」
「誰かにいらないって言われたの?」
「お母さん」
くそガキの言葉が小さな針になって、胸に刺さった。
トモ兄ぃを救えなかったあたしも「いらない子」
母さんの愛情はトモ兄ぃの命と一緒に、この世から消えてしまった。でも、あたしにはカナ兄ぃがいて、父さんもいてくれた。
さっき、ユイの親は離婚したとか言っていた。
「なるほどね、全部わかった気がする。カナ兄ぃがいつも心配してるわけが」
「心配……今もしてくれてるんだ。なんだか信じられなくて」
「カナ兄ぃを疑うの?」
「だって水樹は大人だし、かっこいいし、モテそうだし。……好きって言われても、あれは夢だったんじゃないかなって……」
「はああああああ? あんた、そんなこと言われたの!?」
両手でユイの胸ぐらをつかみ上げていた。
信じられない。
恋愛感情よりも、保護者が子どもを見守っているような心境だと考えていた。
頬をリンゴみたいに真っ赤にして……ムカつく。
「水樹は、……元気にしてますか?」
「うっ」
言葉に詰まって、手が離れた。
「元気ならそれでいいけど。二学期がはじまったのに水樹がいなくて、ちょっと寂しいかなって」
「あ、そう。あたしは毎日カナ兄ぃに会ってるけど、寂しいなら忘れれば? もっと年の近い男を探しなよ」
「無茶を言わないでください」
「あんたまだ高校生だよ。うまくいくわけないでしょう」
「……香奈恵さんに言われなくてもわかってます。前に、目の前で水樹にフラれる人を見たんです。いずれ私も同じようにフラれるだろうなって。でもフラれたからって、すぐに「次の人!」ってならないでしょう。簡単に切り替えられないなら、想い続けてもいいかなって。誰にも迷惑かけないし」
「へぇー、意外と一途なんだ」
「私の声を聞いてくれたのは、水樹だけだから」
カナ兄ぃからの本をギュッと抱きしめる、その手が辛そう。
「今は水樹に会えなくなっちゃったけど、たくさん守ってもらったし、まだ気にかけてもらえてるなら、嬉しいかな」
涙がこぼれるのを必死に我慢している様子が痛々しい。
「ねぇ、高校生のくせにひとり暮らしなんだって?」
「……えぇ、まぁ」
あたしの心は揺れていた。
カナ兄ぃが病気を克服して元気になれば、また元通りの生活がはじまる。
でも、元気になれなかったら?
ユイが薄氷の上を歩いているようで、ゾッとする。
きつく口止めされているけど、万が一の心構えはあった方がいい。
「決めた。学校が終わったらココに連絡ちょうだい。あんたの部屋を見せてよ」
「ええぇ!?」
連絡先を乱雑に書き留めたメモを押しつけた。
「拒否権はないからね。じゃあ」
ポカンと口を開けたままのユイをあとにした。
「顔は普通。プロポーションは貧乳で子ども。ずば抜けていいところが、まったく見当たらない。年も離れているのに」
カナ兄ぃから告白したの?
信じられない。
最悪の事態が訪れて、どこかでカナ兄ぃのことを知ったら、ユイは壊れるよ。
残された者の悲しみや辛さは一番よく知っているくせに、それを高校生に押しつける気なの?
そんなこと、カナ兄ぃらしくない。ふたりはもっと話し合うべきだ。
「あっ……」
病は急激に悪くなった。説明する時間も、未来を語る時間も、カナ兄ぃには残されていなかった。
いつも自分のことより周りを気遣うのに、今回だけは自分の気持ちを優先させたってこと?
少し会えないだけで、「寂しいよ」って泣き出しそうな弱虫には背負えない。ユイは脆すぎる。今日、見ただけでもわかるのに、どうして……。
はじめてカナ兄ぃがなにを考えているのか、わからなくなった。
「くっそう! 腹が立つ。なんであたしが心配をしなきゃいけないのよッ!」
ブツブツ言いながら外へ出ると、セミの鳴き声が一層騒がしい。
カナ兄ぃはのんきなところがあるから、どうにかなるって軽く考えていそうな気もしてくる。
「はあー、今日は本当に最悪な日だ」
空を仰ぐと四階建ての校舎の上に、目が痛くなるほど輝いた白い雲と、青い空が見えた。
一度だけ、ここの屋上へいったことがある。
透き通る、青一色の空に心が震えた。それなのに、綺麗すぎる空の下でカナ兄ぃの横顔は孤独だった。
何年たっても、トモ兄ぃを励まし続けたことを後悔して、自分を責め続けている。
そんなカナ兄ぃが「誰かの力になりたい」と言ったとき、あたしもすごく喜んだ。
教師の道を選んだときも応援した。
はじめての生徒が暴走して、メチャクチャになったけど、非常勤講師として再出発してくれた。
これでもう安心だと思ったのに、屋上から見える空が綺麗すぎて怖かった。誰かを救う前に、カナ兄ぃの心がポキッと折れて、青い空へと消えてしまいそうで……。
赤い線はまだ屋上に残っているのかな?
空がカナ兄ぃを連れて行かないように、すがる思いで引いた赤い線は、この世とあの世の境界線。
まさか再び境界線に立たされる日がくるなんて、思ってもみなかった。
手でひさしをつくって、澄み切った青い空を睨む。
この先なにが起ころうと、あたしは後悔しない道を選ぶ。
カナ兄ぃに叱られても、嫌われても、……看病を拒否するぐらい怒ったら……、絶縁されたら困るけど……決めた。
ユイにすべてを話そう。
大切な人を失って傷つく姿を、あたしはもう見たくない。
腹が立つから忙しいとか、時間がないとか適当な理由をつけて後回しにしていた。
九月になるとカナ兄ぃがしびれを切らしはじめたから、観念するしかない。
晴天の午後、暑い日差しを真上から浴びて、なつかしい通学路を歩いた。
高校を卒業してまだ二年。
母校はなにも変わっていない。
緑に囲まれた、広いグランドを走る生徒たち。大きな風がサッカーゴールをゆらして、砂埃が目に入りそう。
昇降口の反対にある、事務室へ急いだ。
「すみません、昨日連絡をした水樹香奈恵です。平塚先生は授業中ですか?」
「えーっと、三年生はまだ授業中ですが、二年生は……、あっ、この時間なら職員室にいますね」
「ありがとうございます」
さっさと帰ろう。そう思っていたのに、近くの教室では授業をしている。
少し覗いてみた。
先生は暑苦しそうに胸元を緩めて、チョークの音を走らせていた。生徒は積極的に質問をしたり、必死にノートをとったり。
夏休みを終えたばかりの三年生。勉強漬けだった日々を思い出して、応援したくなる。
「なつかしいなー」
あたしのクラスも一階にあった。つい寄り道をしたくなるけど、ダメ。
あのくそガキに会いたくない。
カナ兄ぃからも「ユイを見かけても、絶対に余計なことを言うな」と、きつく口止めされている。
病気のことを軽く教えて、入院先の病院だけは絶対に教えない。という意地悪なプランもあるけどね。
「…………」
カナ兄ぃは、どこまで本気なんだろう。
くそガキはまだ高校生だ。簡単に離れる未来しか見えてこない。
病気のことだって、いつまで隠すつもり?
あたしにはたくさんの情報があって、あのくそガキにはなにもない。フェアじゃない気がして落ち着かない。どこか心に引っかかってくる。
あれこれ考えながらピロティを歩いていたら、女子生徒の影を見つけた。
「どうしてわかってくれないのよッ!」
激しく言い争う声も聞こえてくる。
他人の喧嘩は嫌いじゃない。
好奇心をふくらませながら、声の方へ足を忍ばせた。
「一度でいいから会わせて」
「私だって会えない、って言ってるでしょう」
雑草が青々と生い茂る中庭の隅で、押し問答を繰り返している生徒が見えた。
「お願い、どうしても有名になりたいの」
手足の長い、モデルスタイルのかわいい子が頭を下げている。どこかのオーディションを受ければ、そこそこいいところまでいそうな子。
そして――。
「げッ」
思わず、声が出た。
こちらからは後ろ姿だけど、特徴のあるクセ毛に見覚えのある背丈。
久遠寺ユイだ。
「夏休みにオーディションを受けたの。でも全然ダメだった。ダンスだって、かわいさだって負けてないのに……。お願い、ユイのお父さんに会わせて。プロの目から指導してほしいの」
「だから、無理だって。離婚してから東京にいったきりだし、連絡先も知らない。あ、平塚なら知ってるよ。陽菜が平塚に聞いてよ」
離婚?
くそガキの親は離婚しているのか……。
父親は、プロ? なんのプロだろう?
それにしても、カナ兄ぃから聞いていたくそガキの印象は、大飯喰らいで、ボッチな生徒。でも今の態度は、ちょっと酷い。
目をうるませて、悲愴な顔でお願いしている同級生を邪険に扱う酷い女。
なるほど。カナ兄ぃの前だけいい子のふりをしていた、というわけだ。
やはりカナ兄ぃは、女を見る目がない。
「ユイのくせに口答えするの? またいじめてあげようか?」
ドスの利いた声だった。
かわいらしい生徒の顔つきが、化け猫のように変わっていく。
目を三角につりあげて、なんだか怖い。
「わ、私はもう陽菜のことなんか怖くない。勝手にすれば?」
「生意気ッ!」
くそガキは突き飛ばされて、青々とした雑草の上に倒れ込んだ。
あー、あー、かわいそうに。とても痛そうだけど、ちょっといい気味。なーんて思っていたけど、次の瞬間、目を疑った。
かわいい顔から恐ろしい顔へと変わった生徒が、サッカーボールでも蹴るかのように足をバックスイングさせた。
女の顔を、蹴り飛ばす気?
「やめなさいッ!」
危ない。と、感じると同時に、体が勝手にくそガキを守っていた。
ただの口喧嘩なら止めるつもりはなかった。
でも今のは確実に頭を蹴ろうとした、危険な行為。かわいい顔をして、やることがえげつない。
「……香奈恵さん?」
くそガキが驚いた顔をしている。
そりゃそうよね。あたしだって、あんたを助ける気なんて、これっぽっちも持っていなかった。
はああ、と深いため息をついてから、汚物を眺めるような視線でふたりを睨みつけてやった。
「あんたたち、ちょっと職員室にいこうか」
「えっ、嫌よ」
くそガキの頭を蹴ろうとした、かわいい顔の暴力女が逃げようとする。
「逃がすわけないでしょう」
手首をつかんで、あらっぽくねじった。
「い、痛い。離してッ」
雑草の中で体を起こしたくそガキは、瞬きを繰り返している。
つかまれた手を、必死になって振り払おうとする暴力女。
どちらも大嫌いだけど、女の顔を蹴ろうとしたのは許せない。
「ほら、くそガキもさっさと立って。職員室にいくよ」
「……久遠寺ユイです」
いい加減に名前を覚えてよ。と、言いたそうな顔。
助けてやったのに、腹が立つ。
そして、ぎゃー、ぎゃー、うるさかった暴力女も職員室では静かにしている。
あたしが一から説明すると、平塚先生はあきれ顔のまま口が半開きだった。
「その話は、本当か?」
「あたしが通りかからなかったら、そこの暴力女がくそガキの頭をフルスイングで蹴り飛ばしてます」
ビシッと指さすと、暴力女は顔を真っ赤にして「違います!」と叫んだ。
それからボロボロと泣き出して、話にならない。
「泣けばなんでも許されると思ってるの? おめでたい頭ね」
「香奈恵ちゃんは、ちょっと黙っておこうか。暴力女じゃなくて、紺野陽菜さん。くそガキは久遠寺ユイさん。名前で呼んであげて」
くそガキがムッとした表情を見せた。
暴力女は否定したのに、くそガキはそのまま。思わず噴き出しそうになった。
平塚先生とも仲が悪いようだから、この勝負、暴力女の勝ちか。なーんて考えていると、暴力女の口が開いた。
「平塚先生、聞いてください。ユイが……意地悪なんです」
「わかった、わかった。まずは紺野の話を聞こう」
「幼い頃から夢があって……。俳優かアイドル、芸能人になりたいんです」
「は? 紺野は国立大学にいって、弁護士を目指すんじゃなかったのか?」
「美人弁護士もかっこいいけど、ほら、どちらかというと、かわいいタイプでしょう。だから、芸能人に」
暴力女がチラッとこっちを見た。
意見がほしいのなら、言ってやる。
「まあ背も高いし、スタイルもいいから、芸能人になれるんじゃないの? 性格は腐ってるけど」
「香奈恵ちゃんは黙ってて。それで、その夢と久遠寺にどういう関係が?」
「……ユイのパパは久遠寺公康だもん。口利きだってできるでしょう」
「だからできないって、何度も言ってるでしょう!」
「久遠寺も落ち着いて。職員室で声を張り上げるな」
あたしは頭の中を整理した。
くそガキの父親が有名人で、その人に会いたいから頭を下げていた。でも願いを聞いてくれない。
「もしかして……くそガキにケガをさせたら、父親が飛んでくると思ったの?」
図星、というような目をしている。
「あきれた。平塚先生、いつからあたしの母校はバカばっかりになったの?」
「香奈恵ちゃん、落ち着いて」
「ちょっと待ってよ。それじゃ、陽菜がずっと私の靴を捨てたり、教科書に落書きをしたりしていたのって……。そんなくだらない理由だったの?」
「くだらなくないわよッ! 人の夢にケチつけないで」
この暴力女以外は、全員「くだらない」と冷めた目をした。するとまた激しく泣き出す。
「あー、職員室で泣かない。紺野、よく考えてみろ。嫌がらせをして、嫌われて、そんな人に口利きをするわけないだろ」
「でも……有名に……なりたくて。一度でも会えれば、きっと……。必ず、スカウトしたくなるから……」
「平塚ぁ、私、教室に戻っていい?」
くそガキが帰ろうとするから、あたしも便乗しようと思った。
でも暴力女が立ち塞がる。
「ユイなんか大嫌いッ! はじめは、少し困らせてやろうと思っただけだった。上靴をちょっと隠して、困っているところに穂乃花が持っていく。そんな計画だったのに、ユイは空っぽの靴箱を見て、困る様子を見せない。涼しい顔をして新しい上靴を買ったのよッ」
はじめはなんの話かわからなかった。
よくよく聞けば、暴力女の父親はリストラされて、家計が苦しい。授業料全額免除の特待生を維持することで、どうにか高校へ通っている。
私服はファストファッションやフリマサイトを駆使して、メイク用品も百円ショップでそろえて。少ないお小遣いでやりくりしているのに、ポンポン新しいものを買う、くそガキ。憎しみが募ったらしい。
「ユイは金持ちだから、いつも平気な顔をして……。それが悔しくて……夏休みにお母さんが倒れて……。働きすぎなの。家計を助けたくて……有名に……なれば……」
他人が羨ましくて、憎くなる気持ち。そこそこ理解できるけど、していいことと、悪いことがある。
言いたいことが山ほどあるけど、それは平塚先生に任せよう。どうまとめるのか、お手並み拝見。
涼しい顔で高みの見物を決め込む。そう決めたけど、忘れないうちに渡すものがあった。
「くそガキ、これをあんたに」
本の入った袋を投げつけた。
「重いッ。なんですか、これ」
「あんたがバカだから、カナ兄ぃが心配して選んだ本よ。……って、嬉しそうな顔するんじゃないッ」
あーあ、今日は本当に最悪な日だ。こうなるような予感がしたから、いきたくなかった。
小難しい勉強の本をもらって、頬を赤く染める奴なんてはじめて。あたしは、くそガキを喜ばせるために来たんじゃない。
さっさと帰ろうとしたのに、平塚先生がポンコツだった。
「まあこれで、紺野も久遠寺も言いたいことをハッキリ言えたな。紺野は久遠寺に謝れ」
「……ごめんなさい」
「ほら、久遠寺も」
は?
思わずくそガキと顔を見合わせた。
言いたいことをいたのは、暴力女だけ。
口を挟もうとしたら、
「私の方こそ力になれなくて……。ごめんね、陽菜」
お互い謝って、握手をして、それでおしまい。小学生かよッ。
職員室を出て、真っ先にくそガキを呼び止めた。
「今の握手で許したの? まったく理解できないけど、あれでいいの?」
「よくないです」
「どうして言い返さないの? 被害者なのに頭を下げて、バカみたい」
「どうせなにを言っても、平塚は陽菜の味方だから。落ちこぼれは落ちこぼれらしく、おとなしくしてます」
口では不満げに話している。だけど、カナ兄ぃからの本を嬉しそうに抱えて、ご機嫌だ。腹が立つ。
「やっぱりカナ兄ぃに、ふさわしくない」
「……それも自覚してます。ずっといらない子だったから」
「誰かにいらないって言われたの?」
「お母さん」
くそガキの言葉が小さな針になって、胸に刺さった。
トモ兄ぃを救えなかったあたしも「いらない子」
母さんの愛情はトモ兄ぃの命と一緒に、この世から消えてしまった。でも、あたしにはカナ兄ぃがいて、父さんもいてくれた。
さっき、ユイの親は離婚したとか言っていた。
「なるほどね、全部わかった気がする。カナ兄ぃがいつも心配してるわけが」
「心配……今もしてくれてるんだ。なんだか信じられなくて」
「カナ兄ぃを疑うの?」
「だって水樹は大人だし、かっこいいし、モテそうだし。……好きって言われても、あれは夢だったんじゃないかなって……」
「はああああああ? あんた、そんなこと言われたの!?」
両手でユイの胸ぐらをつかみ上げていた。
信じられない。
恋愛感情よりも、保護者が子どもを見守っているような心境だと考えていた。
頬をリンゴみたいに真っ赤にして……ムカつく。
「水樹は、……元気にしてますか?」
「うっ」
言葉に詰まって、手が離れた。
「元気ならそれでいいけど。二学期がはじまったのに水樹がいなくて、ちょっと寂しいかなって」
「あ、そう。あたしは毎日カナ兄ぃに会ってるけど、寂しいなら忘れれば? もっと年の近い男を探しなよ」
「無茶を言わないでください」
「あんたまだ高校生だよ。うまくいくわけないでしょう」
「……香奈恵さんに言われなくてもわかってます。前に、目の前で水樹にフラれる人を見たんです。いずれ私も同じようにフラれるだろうなって。でもフラれたからって、すぐに「次の人!」ってならないでしょう。簡単に切り替えられないなら、想い続けてもいいかなって。誰にも迷惑かけないし」
「へぇー、意外と一途なんだ」
「私の声を聞いてくれたのは、水樹だけだから」
カナ兄ぃからの本をギュッと抱きしめる、その手が辛そう。
「今は水樹に会えなくなっちゃったけど、たくさん守ってもらったし、まだ気にかけてもらえてるなら、嬉しいかな」
涙がこぼれるのを必死に我慢している様子が痛々しい。
「ねぇ、高校生のくせにひとり暮らしなんだって?」
「……えぇ、まぁ」
あたしの心は揺れていた。
カナ兄ぃが病気を克服して元気になれば、また元通りの生活がはじまる。
でも、元気になれなかったら?
ユイが薄氷の上を歩いているようで、ゾッとする。
きつく口止めされているけど、万が一の心構えはあった方がいい。
「決めた。学校が終わったらココに連絡ちょうだい。あんたの部屋を見せてよ」
「ええぇ!?」
連絡先を乱雑に書き留めたメモを押しつけた。
「拒否権はないからね。じゃあ」
ポカンと口を開けたままのユイをあとにした。
「顔は普通。プロポーションは貧乳で子ども。ずば抜けていいところが、まったく見当たらない。年も離れているのに」
カナ兄ぃから告白したの?
信じられない。
最悪の事態が訪れて、どこかでカナ兄ぃのことを知ったら、ユイは壊れるよ。
残された者の悲しみや辛さは一番よく知っているくせに、それを高校生に押しつける気なの?
そんなこと、カナ兄ぃらしくない。ふたりはもっと話し合うべきだ。
「あっ……」
病は急激に悪くなった。説明する時間も、未来を語る時間も、カナ兄ぃには残されていなかった。
いつも自分のことより周りを気遣うのに、今回だけは自分の気持ちを優先させたってこと?
少し会えないだけで、「寂しいよ」って泣き出しそうな弱虫には背負えない。ユイは脆すぎる。今日、見ただけでもわかるのに、どうして……。
はじめてカナ兄ぃがなにを考えているのか、わからなくなった。
「くっそう! 腹が立つ。なんであたしが心配をしなきゃいけないのよッ!」
ブツブツ言いながら外へ出ると、セミの鳴き声が一層騒がしい。
カナ兄ぃはのんきなところがあるから、どうにかなるって軽く考えていそうな気もしてくる。
「はあー、今日は本当に最悪な日だ」
空を仰ぐと四階建ての校舎の上に、目が痛くなるほど輝いた白い雲と、青い空が見えた。
一度だけ、ここの屋上へいったことがある。
透き通る、青一色の空に心が震えた。それなのに、綺麗すぎる空の下でカナ兄ぃの横顔は孤独だった。
何年たっても、トモ兄ぃを励まし続けたことを後悔して、自分を責め続けている。
そんなカナ兄ぃが「誰かの力になりたい」と言ったとき、あたしもすごく喜んだ。
教師の道を選んだときも応援した。
はじめての生徒が暴走して、メチャクチャになったけど、非常勤講師として再出発してくれた。
これでもう安心だと思ったのに、屋上から見える空が綺麗すぎて怖かった。誰かを救う前に、カナ兄ぃの心がポキッと折れて、青い空へと消えてしまいそうで……。
赤い線はまだ屋上に残っているのかな?
空がカナ兄ぃを連れて行かないように、すがる思いで引いた赤い線は、この世とあの世の境界線。
まさか再び境界線に立たされる日がくるなんて、思ってもみなかった。
手でひさしをつくって、澄み切った青い空を睨む。
この先なにが起ころうと、あたしは後悔しない道を選ぶ。
カナ兄ぃに叱られても、嫌われても、……看病を拒否するぐらい怒ったら……、絶縁されたら困るけど……決めた。
ユイにすべてを話そう。
大切な人を失って傷つく姿を、あたしはもう見たくない。