なんであたしが本を届けなきゃいけないの。
 腹が立つから忙しいとか、時間がないとか適当な理由をつけて後回しにしていた。

 九月になるとカナ兄ぃがしびれを切らしはじめたから、観念するしかない。
 晴天の午後、暑い日差しを真上から浴びて、なつかしい通学路を歩いた。

 高校を卒業してまだ二年。
 母校はなにも変わっていない。

 緑に囲まれた、広いグランドを走る生徒たち。大きな風がサッカーゴールをゆらして、砂埃が目に入りそう。
 昇降口の反対にある、事務室へ急いだ。

「すみません、昨日連絡をした水樹香奈恵です。平塚先生は授業中ですか?」
「えーっと、三年生はまだ授業中ですが、二年生は……、あっ、この時間なら職員室にいますね」
「ありがとうございます」

 さっさと帰ろう。そう思っていたのに、近くの教室では授業をしている。
 少し覗いてみた。 

 先生は暑苦しそうに胸元を緩めて、チョークの音を走らせていた。生徒は積極的に質問をしたり、必死にノートをとったり。
 夏休みを終えたばかりの三年生。勉強漬けだった日々を思い出して、応援したくなる。

「なつかしいなー」
 
 あたしのクラスも一階にあった。つい寄り道をしたくなるけど、ダメ。
 あのくそガキに会いたくない。

 カナ兄ぃからも「ユイを見かけても、絶対に余計なことを言うな」と、きつく口止めされている。
 病気のことを軽く教えて、入院先の病院だけは絶対に教えない。という意地悪なプランもあるけどね。

「…………」

 カナ兄ぃは、どこまで本気なんだろう。
 くそガキはまだ高校生だ。簡単に離れる未来しか見えてこない。
 病気のことだって、いつまで隠すつもり?

 あたしにはたくさんの情報があって、あのくそガキにはなにもない。フェアじゃない気がして落ち着かない。どこか心に引っかかってくる。
 あれこれ考えながらピロティを歩いていたら、女子生徒の影を見つけた。

「どうしてわかってくれないのよッ!」

 激しく言い争う声も聞こえてくる。
 他人の喧嘩は嫌いじゃない。
 好奇心をふくらませながら、声の方へ足を忍ばせた。

「一度でいいから会わせて」
「私だって会えない、って言ってるでしょう」

 雑草が青々と生い茂る中庭の隅で、押し問答を繰り返している生徒が見えた。

「お願い、どうしても有名になりたいの」

 手足の長い、モデルスタイルのかわいい子が頭を下げている。どこかのオーディションを受ければ、そこそこいいところまでいそうな子。
 そして――。

「げッ」

 思わず、声が出た。
 こちらからは後ろ姿だけど、特徴のあるクセ毛に見覚えのある背丈。
 久遠寺ユイだ。

「夏休みにオーディションを受けたの。でも全然ダメだった。ダンスだって、かわいさだって負けてないのに……。お願い、ユイのお父さんに会わせて。プロの目から指導してほしいの」
「だから、無理だって。離婚してから東京にいったきりだし、連絡先も知らない。あ、平塚なら知ってるよ。陽菜が平塚に聞いてよ」

 離婚?
 くそガキの親は離婚しているのか……。
 父親は、プロ? なんのプロだろう?

 それにしても、カナ兄ぃから聞いていたくそガキの印象は、大飯喰らいで、ボッチな生徒。でも今の態度は、ちょっと酷い。
 目をうるませて、悲愴な顔でお願いしている同級生を邪険に扱う酷い女。

 なるほど。カナ兄ぃの前だけいい子のふりをしていた、というわけだ。
 やはりカナ兄ぃは、女を見る目がない。

「ユイのくせに口答えするの? またいじめてあげようか?」

 ドスの利いた声だった。
 かわいらしい生徒の顔つきが、化け猫のように変わっていく。
 目を三角につりあげて、なんだか怖い。

「わ、私はもう陽菜のことなんか怖くない。勝手にすれば?」
「生意気ッ!」

 くそガキは突き飛ばされて、青々とした雑草の上に倒れ込んだ。
 あー、あー、かわいそうに。とても痛そうだけど、ちょっといい気味。なーんて思っていたけど、次の瞬間、目を疑った。

 かわいい顔から恐ろしい顔へと変わった生徒が、サッカーボールでも蹴るかのように足をバックスイングさせた。
 女の顔を、蹴り飛ばす気?

「やめなさいッ!」

 危ない。と、感じると同時に、体が勝手にくそガキを守っていた。
 ただの口喧嘩なら止めるつもりはなかった。
 でも今のは確実に頭を蹴ろうとした、危険な行為。かわいい顔をして、やることがえげつない。

「……香奈恵さん?」

 くそガキが驚いた顔をしている。
 そりゃそうよね。あたしだって、あんたを助ける気なんて、これっぽっちも持っていなかった。
 はああ、と深いため息をついてから、汚物を眺めるような視線でふたりを睨みつけてやった。

「あんたたち、ちょっと職員室にいこうか」
「えっ、嫌よ」

 くそガキの頭を蹴ろうとした、かわいい顔の暴力女が逃げようとする。

「逃がすわけないでしょう」

 手首をつかんで、あらっぽくねじった。

「い、痛い。離してッ」

 雑草の中で体を起こしたくそガキは、瞬きを繰り返している。
 つかまれた手を、必死になって振り払おうとする暴力女。
 どちらも大嫌いだけど、女の顔を蹴ろうとしたのは許せない。
 
「ほら、くそガキもさっさと立って。職員室にいくよ」
「……久遠寺ユイです」

 いい加減に名前を覚えてよ。と、言いたそうな顔。
 助けてやったのに、腹が立つ。

 そして、ぎゃー、ぎゃー、うるさかった暴力女も職員室では静かにしている。
 あたしが一から説明すると、平塚先生はあきれ顔のまま口が半開きだった。

「その話は、本当か?」
「あたしが通りかからなかったら、そこの暴力女がくそガキの頭をフルスイングで蹴り飛ばしてます」

 ビシッと指さすと、暴力女は顔を真っ赤にして「違います!」と叫んだ。
 それからボロボロと泣き出して、話にならない。

「泣けばなんでも許されると思ってるの? おめでたい頭ね」
「香奈恵ちゃんは、ちょっと黙っておこうか。暴力女じゃなくて、紺野陽菜さん。くそガキは久遠寺ユイさん。名前で呼んであげて」

 くそガキがムッとした表情を見せた。
 暴力女は否定したのに、くそガキはそのまま。思わず噴き出しそうになった。
 平塚先生とも仲が悪いようだから、この勝負、暴力女の勝ちか。なーんて考えていると、暴力女の口が開いた。

「平塚先生、聞いてください。ユイが……意地悪なんです」
「わかった、わかった。まずは紺野の話を聞こう」

「幼い頃から夢があって……。俳優かアイドル、芸能人になりたいんです」
「は? 紺野は国立大学にいって、弁護士を目指すんじゃなかったのか?」
「美人弁護士もかっこいいけど、ほら、どちらかというと、かわいいタイプでしょう。だから、芸能人に」

 暴力女がチラッとこっちを見た。
 意見がほしいのなら、言ってやる。

「まあ背も高いし、スタイルもいいから、芸能人になれるんじゃないの? 性格は腐ってるけど」
「香奈恵ちゃんは黙ってて。それで、その夢と久遠寺にどういう関係が?」

「……ユイのパパは久遠寺公康だもん。口利きだってできるでしょう」
「だからできないって、何度も言ってるでしょう!」
「久遠寺も落ち着いて。職員室で声を張り上げるな」

 あたしは頭の中を整理した。
 くそガキの父親が有名人で、その人に会いたいから頭を下げていた。でも願いを聞いてくれない。

「もしかして……くそガキにケガをさせたら、父親が飛んでくると思ったの?」

 図星、というような目をしている。

「あきれた。平塚先生、いつからあたしの母校はバカばっかりになったの?」
「香奈恵ちゃん、落ち着いて」

「ちょっと待ってよ。それじゃ、陽菜がずっと私の靴を捨てたり、教科書に落書きをしたりしていたのって……。そんなくだらない理由だったの?」
「くだらなくないわよッ! 人の夢にケチつけないで」

 この暴力女以外は、全員「くだらない」と冷めた目をした。するとまた激しく泣き出す。

「あー、職員室で泣かない。紺野、よく考えてみろ。嫌がらせをして、嫌われて、そんな人に口利きをするわけないだろ」
「でも……有名に……なりたくて。一度でも会えれば、きっと……。必ず、スカウトしたくなるから……」
「平塚ぁ、私、教室に戻っていい?」

 くそガキが帰ろうとするから、あたしも便乗しようと思った。
 でも暴力女が立ち塞がる。

「ユイなんか大嫌いッ! はじめは、少し困らせてやろうと思っただけだった。上靴をちょっと隠して、困っているところに穂乃花が持っていく。そんな計画だったのに、ユイは空っぽの靴箱を見て、困る様子を見せない。涼しい顔をして新しい上靴を買ったのよッ」

 はじめはなんの話かわからなかった。
 よくよく聞けば、暴力女の父親はリストラされて、家計が苦しい。授業料全額免除の特待生を維持することで、どうにか高校へ通っている。

 私服はファストファッションやフリマサイトを駆使して、メイク用品も百円ショップでそろえて。少ないお小遣いでやりくりしているのに、ポンポン新しいものを買う、くそガキ。憎しみが募ったらしい。

「ユイは金持ちだから、いつも平気な顔をして……。それが悔しくて……夏休みにお母さんが倒れて……。働きすぎなの。家計を助けたくて……有名に……なれば……」

 他人が羨ましくて、憎くなる気持ち。そこそこ理解できるけど、していいことと、悪いことがある。
 言いたいことが山ほどあるけど、それは平塚先生に任せよう。どうまとめるのか、お手並み拝見。
 涼しい顔で高みの見物を決め込む。そう決めたけど、忘れないうちに渡すものがあった。

「くそガキ、これをあんたに」

 本の入った袋を投げつけた。

「重いッ。なんですか、これ」
「あんたがバカだから、カナ兄ぃが心配して選んだ本よ。……って、嬉しそうな顔するんじゃないッ」

 あーあ、今日は本当に最悪な日だ。こうなるような予感がしたから、いきたくなかった。
 小難しい勉強の本をもらって、頬を赤く染める奴なんてはじめて。あたしは、くそガキを喜ばせるために来たんじゃない。

 さっさと帰ろうとしたのに、平塚先生がポンコツだった。

「まあこれで、紺野も久遠寺も言いたいことをハッキリ言えたな。紺野は久遠寺に謝れ」
「……ごめんなさい」
「ほら、久遠寺も」

 は?
 思わずくそガキと顔を見合わせた。
 言いたいことをいたのは、暴力女だけ。
 口を挟もうとしたら、

「私の方こそ力になれなくて……。ごめんね、陽菜」

 お互い謝って、握手をして、それでおしまい。小学生かよッ。
 職員室を出て、真っ先にくそガキを呼び止めた。

「今の握手で許したの? まったく理解できないけど、あれでいいの?」
「よくないです」

「どうして言い返さないの? 被害者なのに頭を下げて、バカみたい」
「どうせなにを言っても、平塚は陽菜の味方だから。落ちこぼれは落ちこぼれらしく、おとなしくしてます」

 口では不満げに話している。だけど、カナ兄ぃからの本を嬉しそうに抱えて、ご機嫌だ。腹が立つ。

「やっぱりカナ兄ぃに、ふさわしくない」
「……それも自覚してます。ずっといらない子だったから」

「誰かにいらないって言われたの?」
「お母さん」

 くそガキの言葉が小さな針になって、胸に刺さった。
 トモ兄ぃを救えなかったあたしも「いらない子」

 母さんの愛情はトモ兄ぃの命と一緒に、この世から消えてしまった。でも、あたしにはカナ兄ぃがいて、父さんもいてくれた。
 さっき、ユイの親は離婚したとか言っていた。

「なるほどね、全部わかった気がする。カナ兄ぃがいつも心配してるわけが」
「心配……今もしてくれてるんだ。なんだか信じられなくて」

「カナ兄ぃを疑うの?」
「だって水樹は大人だし、かっこいいし、モテそうだし。……好きって言われても、あれは夢だったんじゃないかなって……」
「はああああああ? あんた、そんなこと言われたの!?」

 両手でユイの胸ぐらをつかみ上げていた。
 信じられない。

 恋愛感情よりも、保護者が子どもを見守っているような心境だと考えていた。
 頬をリンゴみたいに真っ赤にして……ムカつく。

「水樹は、……元気にしてますか?」
「うっ」

 言葉に詰まって、手が離れた。

「元気ならそれでいいけど。二学期がはじまったのに水樹がいなくて、ちょっと寂しいかなって」
「あ、そう。あたしは毎日カナ兄ぃに会ってるけど、寂しいなら忘れれば? もっと年の近い男を探しなよ」

「無茶を言わないでください」
「あんたまだ高校生だよ。うまくいくわけないでしょう」

「……香奈恵さんに言われなくてもわかってます。前に、目の前で水樹にフラれる人を見たんです。いずれ私も同じようにフラれるだろうなって。でもフラれたからって、すぐに「次の人!」ってならないでしょう。簡単に切り替えられないなら、想い続けてもいいかなって。誰にも迷惑かけないし」

「へぇー、意外と一途なんだ」
「私の声を聞いてくれたのは、水樹だけだから」

 カナ兄ぃからの本をギュッと抱きしめる、その手が辛そう。

「今は水樹に会えなくなっちゃったけど、たくさん守ってもらったし、まだ気にかけてもらえてるなら、嬉しいかな」

 涙がこぼれるのを必死に我慢している様子が痛々しい。

「ねぇ、高校生のくせにひとり暮らしなんだって?」
「……えぇ、まぁ」

 あたしの心は揺れていた。
 カナ兄ぃが病気を克服して元気になれば、また元通りの生活がはじまる。

 でも、元気になれなかったら?

 ユイが薄氷の上を歩いているようで、ゾッとする。
 きつく口止めされているけど、万が一の心構えはあった方がいい。

「決めた。学校が終わったらココに連絡ちょうだい。あんたの部屋を見せてよ」
「ええぇ!?」

 連絡先を乱雑に書き留めたメモを押しつけた。

「拒否権はないからね。じゃあ」

 ポカンと口を開けたままのユイをあとにした。

「顔は普通。プロポーションは貧乳で子ども。ずば抜けていいところが、まったく見当たらない。年も離れているのに」

 カナ兄ぃから告白したの?
 信じられない。

 最悪の事態が訪れて、どこかでカナ兄ぃのことを知ったら、ユイは壊れるよ。
 残された者の悲しみや辛さは一番よく知っているくせに、それを高校生に押しつける気なの?
 そんなこと、カナ兄ぃらしくない。ふたりはもっと話し合うべきだ。

「あっ……」
 
 病は急激に悪くなった。説明する時間も、未来を語る時間も、カナ兄ぃには残されていなかった。
 いつも自分のことより周りを気遣うのに、今回だけは自分の気持ちを優先させたってこと?

 少し会えないだけで、「寂しいよ」って泣き出しそうな弱虫には背負えない。ユイは脆すぎる。今日、見ただけでもわかるのに、どうして……。 

 はじめてカナ兄ぃがなにを考えているのか、わからなくなった。
 
「くっそう! 腹が立つ。なんであたしが心配をしなきゃいけないのよッ!」

 ブツブツ言いながら外へ出ると、セミの鳴き声が一層騒がしい。
 カナ兄ぃはのんきなところがあるから、どうにかなるって軽く考えていそうな気もしてくる。

「はあー、今日は本当に最悪な日だ」
 
 空を仰ぐと四階建ての校舎の上に、目が痛くなるほど輝いた白い雲と、青い空が見えた。 
 一度だけ、ここの屋上へいったことがある。

 透き通る、青一色の空に心が震えた。それなのに、綺麗すぎる空の下でカナ兄ぃの横顔は孤独だった。
 何年たっても、トモ兄ぃを励まし続けたことを後悔して、自分を責め続けている。
 
 そんなカナ兄ぃが「誰かの力になりたい」と言ったとき、あたしもすごく喜んだ。
 教師の道を選んだときも応援した。
 はじめての生徒が暴走して、メチャクチャになったけど、非常勤講師として再出発してくれた。 

 これでもう安心だと思ったのに、屋上から見える空が綺麗すぎて怖かった。誰かを救う前に、カナ兄ぃの心がポキッと折れて、青い空へと消えてしまいそうで……。
 
 赤い線はまだ屋上に残っているのかな?
 空がカナ兄ぃを連れて行かないように、すがる思いで引いた赤い線は、この世とあの世の境界線。
 まさか再び境界線に立たされる日がくるなんて、思ってもみなかった。

 手でひさしをつくって、澄み切った青い空を睨む。
 この先なにが起ころうと、あたしは後悔しない道を選ぶ。

 カナ兄ぃに叱られても、嫌われても、……看病を拒否するぐらい怒ったら……、絶縁されたら困るけど……決めた。
 ユイにすべてを話そう。
 大切な人を失って傷つく姿を、あたしはもう見たくない。