今日もすごい青空だ。
 夏の勢いを一気に引き受けて、宝石のように輝いている。もくもくとした入道雲も心を躍らせる。そういえば、水樹が「冒険心をそそる雲」と言っていた。これがその夏の空なのかな? 

「水樹もどこかで見てるかな」

 青はいい。でも、今川さんのせいで赤色が大嫌いになった。
 そしてあの日から水樹に会っていない。夏休みに突入してしまった。
 会いたい気持ちがふくらんでも、私は忙しい。

「最悪……だ」

 夏休みなのに教室の机に突っ伏して弱音を吐く。
 
「ぬわぁーにが、最悪だ。久遠寺、このままだと三年生になれないぞ。ほら、背筋をのばして。しゃんとしなさい」

 いじめをなかったことにした平塚がい
 期末テスト、死ぬ気で頑張ったのに、結果は英語だけ平均点の半分以下。
 ダメだった。

 みんなは輝かしい夏休みをスタートさせたのに、私は補習授業。
 大嫌いな平塚とふたりっきり。
 この最悪な組み合わせから逃げ出すことも考えたけど、留年するわけにはいかない。

「久遠寺は、立派なお父様に感謝しろよ」
「どうして?」

 机から顔を上げて、平塚を睨んだ。

「前から何度も話しているが、おまえはよその学校へいった方がいい。今回の赤点で、留年からの退学という流れだったのに」
「お父さんに連絡したの?」

 思わず大きな声を出していた。

「当たり前だろ。懇談には代理人しか来ない。保護者を交えての進路指導もできない。さすがにこっちも困り果てたから、直接電話で話をしたら」

 ビシッと人さし指を一本立てて、「寄付金があった」とささやく。
 人さし指が一本、ということは……。

「百万円?」

 おそるおそる尋ねると、平塚は首を横にふった。

「一千万だ」
「いッ!」
「金持ちは違うねー。それから理事長も校長も大騒ぎよ。久遠寺の成績が悪いのは、教師の責任、とか言っちゃってさ」

 やれやれと言わんばかりの顔で、ため息をつかれた。
 父は世間の目を気にする人だから、娘が落ちこぼれて退学なんて許さない。
 無神経な男らしく、金の力で解決した。

 心の底から軽蔑する。
 私にも「金さえ渡しておけば大丈夫だろ」と、毎月決まった額を振り込むだけ。連絡ひとつしてこない。

「こっちだって忙しいのに。好きで久遠寺の勉強を見ているわけじゃないから、さっさと手を動かして」

 面倒くさそうな平塚にも、腹が立つ。
 よし、手を動かせと偉そうにするからノートに落書きをした。

 かわいらしくデフォルメした男の子を描く。
 髪はサラサラで、前髪はすっきり。緩めたネクタイに、着崩したシャツ。完成すると水樹になった。

 衝撃すぎる事件から日がたって、青空ばかり眺めていると頭は水樹のことでいっぱいだ。
 どこかソワソワして落ち着かない夏だから、この時期にしか味わえないことがしたい。

 電車にのって海へ。
 車窓からフッと流れ込む潮風に心を高ぶらせて、空よりも青い海へダイブ。

 暑さが和らいだ夕暮れに、ちょっと大人っぽい浴衣を着て夏祭りに出かけるのもいい。
 星が煌めく夜空を、大輪の花で飾る花火大会も捨てがたい。

 人混みで迷子にならないように、浴衣の袖をそっとつかんだりして……。水樹は浴衣も似合いそう。

 浴衣姿の水樹も描く。
 妄想が止まらなくなると、手が勝手に動いて楽しい。

 どうせ水樹に会っても恥ずかしさでワタワタして、ポンコツになる。いいところを見せようとしても空回り。 
 告白しても玉砕なのはわかっている。だからと言って、すぐに気持ちは切り替わらなかった。

 憧れは憧れのままで、ひっそり片思い。それが一番楽しいかもしれない。
 ふと他の人が気になった。

 美咲は、水樹のことどこまで好きなんだろ? ただかっこいいからキャッキャしているだけ?
 平塚も水樹の前だと態度が変わる。

 私はいつも自分のことで精一杯だから、他の人の気持ちを考えたことがなかった。
 なんでもかんでも恋バナに結びつけてくる人を、くだらないと切り捨ててきた。

 人を好きになるって、自分以外の誰かと関わることなのかな。

 ずっと避けていた道にポンッと放り込まれてしまった。
 水樹のせいだ。
 水樹が悪い。……電話番号とかメールアドレスとか、なにか連絡先を聞いておけばよかった。

 少しかすれた低い声、ききたいなぁ。

「久遠寺は絵がうまいな。それ水樹先生か?」
「うわッ、急に声をかけないでよ。びっくりするじゃない」

「あのな、おまえは勉強するためにここにいる。落書きして遊ばない」

 テキストで軽く頭をたたかれた。

「痛いなぁ。教師の責任なんでしょう。水樹はもっと上手に教えてくれた」
「平塚先生、水樹先生だ。散々世話になっといて、呼び捨てにするな」

「夏休み、水樹は学校にいないの?」
「敬語を使いなさい」

 上から目線で、うるさい。
 いじめをなかったことにした恨みは深く、敬語を使う気になれない。でも、休日の水樹がなにをしているのか、まったく知らない。些細なことでも情報がほしかった。

「平塚先生は、水樹先生のことをご存じでしょうか?」
「ほほぅ、久遠寺は敬語を使うことができるのか」

 白々しく驚いた顔をしやがった。
 その姿がとても不愉快でムッとした。

 平塚もそれがわかっているのに、注意してこない。ふふふと勝ち誇った顔をする。

「水樹先生とは年が近いから、去年の夏は二泊三日の旅にでた」
「水樹とふたりで旅行にいったの!?」

「また呼び捨てか。水樹先生の妹さんや他の先生も誘って、楽しかったぞ」
「あ、そう」

 勝ち誇った顔の意味を知って、ますます面白くない。
 平塚はただ自慢したいだけだ。旅行にいくほど仲がいいでーす、って。

「今年もはりきって計画したけど、入院しちゃったからなぁ。水樹先生」
「は?」
「水樹先生は入院中だ」

 すべての思考回路がピタリと止まって、しばらく平塚の言葉が理解できなかった。
 ただ手にぐっと力が入って、シャーペンの芯がパキッと折れた。それからやっと声が出る。

「どこか悪いの?」
「さあな。でも教師にはよくあるのよ。胃に穴が開いたとか、精神疾患とか」

「水樹、死んじゃうの?」
「バカなこと言うな。見舞いにいったら元気そうにしてたし、大丈夫よ」
「見舞いって、どこの病院? ここから近いの? すぐにいる?」

 質問攻めの私を見て、平塚はニヤリと笑った。

「このテキスト、残り十ページ。全部終わらせて、小テストでいい点数をとれば教えてやろう」
「卑怯者め」

「そんなに睨むな。最近の水樹先生は大変だったから、体調を崩しても仕方ないかな」
「非常勤だし、暇じゃないの?」

「非常勤でも先生の仕事は大変なんだぞ。バカにするな」
「してないですぅー。知らなかっただけですぅー」

 唇をとがらせて、そっぽを向いた。

「久遠寺、よく聞け。水樹先生は、おまえと紺野のトラブルに介入して、問題になったんだ。ほら、紺野は成績優秀で期待の星だろ。非常勤なのにその生徒を泣かしたら、上からも保護者からも吊し上げ」

「陽菜が悪いのに?」
「正しいことをしても、すみませんでしたと謝る気持ち、久遠寺にはわからないだろうな。あれじゃ胃も痛くなる。おまけに数学研究室だ」

 胸にぎくりときた。

「狭い部屋にふたりでいるところを、何度か目撃されている。変な噂になる前に注意しようと思ったんだが、おまえも水樹先生も眉間にしわ寄せて、険しい顔でテキストと睨めっこだもんな。あれはほほ笑ましかったよ」

 優しさの塊のような水樹でも、勉強になると甘えを許さない。
 妥協も一切しないから、数学の成績はぐんとのびた。

「まあ、久遠寺パパに感謝だな。寄付金のおかげで数学研究室のことは黙認。数学ができるようになったから、おまえの首も皮一枚でつながっている。あとは英語だ。早く終わらせろ」
「あー、やだ、やだ。あんな人の世話になっているなんて」

「人気俳優なのに。昨日もテレビで」
「うるさい。勉強の邪魔」
「久遠寺、もうちょっと口の利き方に気をつけろ」

 グチグチと言い合いながら、テキストを解いて暗記していく。
 これが水樹なら、愚痴や文句をこぼすたびに、問題が一問ずつ増えたっけ。
 最終的には一言の文句も許さないほどスパルタだったから、数学は解けるようになった。

「できたッ!」

 電子辞書を頼りつつ、テキストを終わらせた。小テストは「やり直し」を三度繰り返してから、合格点をとった。

「水樹はどこの病院にいるの?」
「ここからそれほど遠くない距離だ」

 平塚はスマホを開いて教えてくれた。
 制服のままでいくなら、学校の恥にならないようにと釘を刺してくる。いちいちうるさい。

「いいか、五階のナースステーションに面会受付ノートが置いてあるから、まずはそれに記入する。もし看護師さんがいたら、きちっと挨拶をしてから病室にいけ。そうそう、病室では静かにしろよ。苦しくて入院している人もいるから、絶対に大きな声は出すな」

 まるで幼い子どもに一から教えるような口調だった。
 しゃくに障るけど、今は水樹のことが心配すぎて反抗する気になれない。
 ノートも筆箱も乱暴にしまって、弾丸のように飛び出した。
 
 空調のきいた教室から一歩外に出ると、むわっとした夏の暑さが容赦なく襲ってくる。それでも長い廊下を走って、階段は三段飛ばしでおりる。
 無機質な四角い病院が見えるまで、汗が滝のように流れても走り続けた。
 
「ここか……」

 汗を拭いて、病院の自動ドアをくぐり抜けた。
 診察時間外なので、一階の外来は電気が消えてひっそりしている。

 入ってはいけない場所に足を踏み入れているようで、暑さの汗とは違う汗がにじむ。
 逃げるような足取りでエレベーターに向かった。

 病院は、騒々しい学校と違ってとても静か。
 誰もが小声でぼそぼそとしゃべって、当然だけど笑顔がない。

 点滴をした人とすれ違うと、変に身構えて心が落ち着かない。なぜかどんどん緊張してくる。
 五階のナースステーションに到着する頃には疲れ切っていた。

「あれ?」
 
 面会受付ノートの場所はすぐにわかったけど、ナースステーションには誰もいない。
 ここで水樹の病室を聞こうと思ったのに、もぬけの殻だ。
 
「探してみるか」

 軽い気持ちで歩きはじめた。
 でも廊下は看護師さんの忙しそうな足音と、ストレッチャーを押す音であふれている。「すみません」と声をかけても、「お見舞いの方はナースステーションで――」と言われて終了。

「自力で探すしかないか」

 ここでふと気がついた。
 どの病室にも入院患者の名札がない。

 部屋番号の下にネームプレート入れがあるのに、空っぽ。これじゃどこに水樹がいるのか、まったくわからない。
 困り果てて立ち止まっていると、パジャマを着た人がジロジロ見てくる。
 制服姿の私は、完全に場違いなところにいるようだった。

「どうしよう……」

 近くの病室をのぞき込んだ。
 四人部屋のようだけど、どこも薄い緑色のカーテンで閉ざされている。

 ズカズカと中に入って、カーテンを開けるわけにはいかない。完全に詰んでしまった。
 でも、一番奥のカーテンから「またな」と、小さな声がした。

 その声に私の心臓が大きく反応する。
 短い言葉だけど聞き覚えのある声に、胸が熱くなった。

「水樹ッ」

 平塚から「病室では静かにするように」と、口酸っぱく言われたのに、嬉しさが勝って大きな声が出た。

「あなた、誰?」

 一番奥のカーテンから出てきたのは、水樹じゃなかった。
 長い黒髪をひとつに束ねた女が、怪訝そうな顔をしている。

 さっきのは絶対に水樹の声だった。間違えるはずない。それなのに、知らない女が現れた。
 眉間にしわができるのを感じた。そして「あなたこそ、誰?」と聞く前に、女の後ろからヒョコッと水樹が顔を出した。

「ユイ、どうしてここに?」

 入院したと聞いて心配した。私のせいで本当に胃に穴が開いていたら、どうしようと不安だった。
 ぶっ倒れそうなほど暑いのに、ずっと走ってここまでやってきた。

 その結果がこれ? また知らない女がいる。
 ツカツカと靴音を立てて病室の奥までいった。

 腹が立つ。
 新たに現れた女を押しのけて、私は水樹の胸ぐらをつかみ上げていた。