学校の近くに一人で住んでいる美久ちゃんに連絡をしたら、二つ返事でOKを貰えた。
「いいよ、いいよ。いつでもおいでよ。せっかくだから若菜と恵梨香も呼ぼうっか?」 
 奇しくも教室以外で、三人のクラスメートと初めて顔を会わせることになった。 
「へえ……千紗んちのお弁当、けっこうおいしいじゃん……」
「ほんと。コンビニのより量も多いし、おかずもいろいろ凝ってる……」
「学校に近かったら、毎日買いに行くのにねー」 
 叔父が持たせてくれた二つの弁当は、四人でわけて食べた。夜の教室で毎日くり返されている他愛もない会話は、美久ちゃんの狭いアパートへ場所を移しても、変わらない。 
「でも毎日こんなにおいしいもの食べてたら絶対太る」
「大丈夫だよ。だって千紗は、全然太ってないじゃん」
「ほんとだ。ははっ」 
 三人の笑顔を見て会話を聞いてるだけで、私の心も軽くなる。
「毎日買いに来る人もいるよ。それもかなりの人数……」
 一瞬心に浮かんだ蒼ちゃんの面影を胸の奥に封じこめ、私は小さく笑った。 
「ねえーほらー……やっぱり近かったらよかったのに……!」
「はははっ」 
 夜の学校が始まるまでのわずかな時間、彼女たちから元気をわけてもらえて本当によかった。ほんの少し浮上した気持ちで、今日も休まず学校へ向かうことができる。目と鼻の先にある学校へ向かってアパートの部屋を出る時、美久ちゃんがポツリと呟いた。
「千紗……話を聞くくらいならいつでもできるからね……あまり役にはたたないかもだけど、あたしは口だけは固いよ」
「美久ちゃん……」
「最近、あのイケメン君、学校で見ないね……元気だしなよ……」
 あながち外れでもない指摘に、思わず涙が浮かびそうになり、少し慌てた。いろいろなことが重なり、すっかり自分が嫌になり、沈んでしまった気持ちだが、その原因の一つには、おそらく紅君の姿を見れていないこともある。『もう会わない』と言われ、仕方がないと思った。悲しかったが納得した。だがそれは理解したという意味で、私の目は自然と紅君の姿を探してしまっている。ちらりと見るだけでいいから、また会えないかとずっと探し続けている。 
(本当に……どれだけ特別なんだろう……)
 そういう相手に小さな子供の頃に巡り会えた。辛いことも苦しいことも山ほどあるが、その奇跡にだけは感謝したい。心から感謝したい。そう思いながら俯けていた顔を上げ、何気なく目を向けた道路の向こうに、その人を見つけた。 
「あれ? ひょっとして噂をすればってやつじゃない……? ねえ千紗? あれって……」 
 学校の正門の前で、次々と登校してくる生徒たちに時々小突かれながら、笑って立っているのは確かに紅君だ。私が見まちがえるはずはない。
「学校やめたわけじゃなかったんだね……よかったじゃん」
 バチンと私の背中を叩き、美久ちゃんたちはそのまま歩いていく。紅君が立つ校門へ向かう。しかし私は先へ進むことができず、じりじりと後退りした。
「千紗……? 何やってんの?」
 みんなが私を呼ぶ声に、紅君がゆっくりとこちらをふり返ろうとするので、その仕草を全て見届ける前に、私は踵を返して学校とは反対の方向へ駆けだす。 
「えっ? ちょっと千紗! どこ行くのよ!」
 三人が慌てる声を背中に聞きながら、走るスピードを上げた。紅君が走って追いかけられないと知ってて、こういう逃げ方をする私は酷い人間だ。だがなんと思われてもいい。やはりもう会えない。話す言葉も、見せる顔も、もういったいどうしたらいいのだかまるでわからない。 
「おい紅也!」
「紅也君‼」
 騒めきと共に、彼をひき止めようとする声が背後からいくつも聞こえるので、私は悟る。きっと紅君は私を追いかけている。 
(もういい! もういいよ!)
 私は無我夢中で駆けた。 
「来ないで! 紅君!」
 足は止めないままに大声で叫んだ瞬間、私のすぐ近くでゴオオッという音が聞こえた。
「え……?」
「とまれえっ!! ちい!」
 紅君の叫び声に文字どおり足が止まって動けなくなり、それで初めて私は、自分がいつの間にか、あれほど怖くて近づけなかった大通りに、今にも飛び出しそうになっていたと知った。 
「何やってるんだ! 何やってるんだよ!」
 彼にとっての最速の速さで、足をひきずりながら私のところまで来た紅君が、固まってしまったように身動き一つできない私を、道路からひきはがすようにして連れ去る。腕を掴んで、ひっぱるように歩かされ、安全な場所まで連れていかれた。 
「心臓が止まるかと思っただろ!」
 それはまさしく私のセリフだった。真っ白になったまま、何も考えられない状態の頭で、ただ彼の名を呼ぶ。
「紅君……」 
 ――彼は何と言った?
 これまで決して名前で呼ばなかった私のことを、先ほど何と呼んだのだろう。その呼び名は、亡くなった父が幼い私を愛情いっぱいに呼んだ名で、だから子供の頃、偶然にも紅君がそう呼んだ時、懐かしくて嬉しくて私は涙が止まらなかった。だけどその名前で私を呼ぶ人は、もういない。紅君が記憶を失ってしまった今、もう誰もいないはずだった。 
「何? 俺が嫌いなら、大丈夫……もう会いに来たりしないから! ちいがちゃんと逃げないで兄さんと向きあうなら、俺はもう二度と、ちいの前に姿を現わさない。だから……」 
 昂った感情のままに一気に言葉を吐きだしていた紅君が、はっとしたように私の顔を見た。
「ちい……あれ? ……俺……?」
 驚いたような、とまどった顔。思わず私まで、息が止まりそうになる。 
(まさか思い出したの? 紅君……記憶が戻ったの?) 
 言葉にしようかどうしようかと迷った次の瞬間、私の視界の中で、紅君の長身の体がふいに全身の力が抜けたかのように、ぐらりと横倒しになった。 
「紅君!!」
 そのままアスファルトに叩きつけられようとした頭を、私は間一髪で抱き止める。固く閉じた長い睫毛と、蒼白な顔色に私自身も血の気が引く思いをしながら、声を限りに叫んだ。
「誰か! 誰か来て! 紅君を助けて!!」 
 大好きな薄い色の髪をきつく胸にかき抱きながら、喉が潰れるほどに何度も叫んだ。
「お願い! 助けて!」
 それは奇しくも、四年前のあの事故で、私が言いたかったのに言えなかった言葉だった。
これまで何百回となく夢に見た。道路の中央に横たわる紅君にトラックがつっこんでいく光景。助けたくて、誰かに彼を救ってほしくて、だがあの時の私はそれを口にすることができなかった。夢の中でも、私はただの一度として紅君を救えなかった。
 あの時の苦しい気持ち、悲しい気持ちを、今全て贖うかのように、叫び続ける。
「お願い! お願い!! 紅君を助けて!」
 ぴくりとも動かない、誰よりも大切な人を抱きしめ、声が枯れるほど叫んだ。