「ねえ千紗! 一年生のあの格好いい子と知りあいだって本当?」
「本当だよねー。だって毎日一緒に学校来て、一緒に帰ってるもんねー」
「そうなのっ?」
夕方からの教室。二年生に進級しても変わらないクラスメートたちは、くっつけた机から身を乗り出し、三人とも私に顔を近づけてきた。四月を迎え、私の通う夜間高校にも少しの新入生が入学した。入学式から一週間、紅君の、どこにいてもみんなの視線を集めてしまうところは、やはり変わっていなかったようだ。すっかり話題の人になってしまっている。
「ねえ私に紹介して!」
「待ちなよ美久……千紗の彼氏だったらどうするの」
「ええっ! そうなの!」
勝手に盛り上がり、勝手に驚いている三人が可笑しく、私は笑った。
「違うよ……知ってる人の弟なの」
紅君のことをそういうふうに説明し、笑っていられる自分が不思議だった。
「知ってる人って……ははーん、そっちが千紗の彼氏か……じゃあ彼氏の弟?」
「ち、違っ! 蒼ちゃんと私はそんなんじゃ……!」
それなのに話が蒼ちゃんに及ぶと、大慌てで余計なことまで口走ってしまう。
「なるほど、彼氏は『蒼ちゃん』ね……で? 弟君の名前は?」
「…………!」
思わず頭を抱えて机に突っ伏した。蒼ちゃんが私のことを『僕の好きな人』と言ったのは確かだが、私はその言葉に答えを返していない。蒼ちゃんは答えを求めなかった。ただ私に、「これまでと同じように一緒にいてほしい」と言った。だから私はその言葉どおり、何も変わらずただ毎日ほんの少しの時間を彼の隣で過ごしている。
(これって何て言ったらいいんだろう……蒼ちゃんが私の彼氏? なんだか違う気がする……)
急速に速くなる鼓動と、一気に顔に集まり始めた大量の血液に頭がクラクラする。
「新入生の彼の名前は紅也君。片桐紅也君……でも本当に私と蒼ちゃんはそんなんじゃ……」
真っ赤になっているだろう頬を押さえながら、必死でくり返す私に、隣の席に座る美久ちゃんが少し真剣な顔で手をあわせた。
「ねえ……千紗が構わないんだったら本当に紹介して? 弟君のほう」
(紅君を……?)
途端に胸が痛んだ。
『好きです。俺の彼女になって下さい!』
紅君自身は忘れてしまった言葉を、私は今でもありありと覚えている。真剣な表情も、私に向かって深々と下げられた茶色い髪の頭も、私の手を包みこむように握りしめた小さな手も、忘れたことなどなかった。
『俺は絶対にちいを忘れないから! ちいが寂しくなったらいつだって飛んでくるから……だから、いつか迎えに来てもいい? 俺がこれから住む町に……いつか、ちいも連れて行ってしまっていい?』
小さな紅君があの時必死で私に伝えてくれた決意は、悲しいことに現実にはならなかった。私のせいで叶えられなかった。しかし――。
『好きです、紅君。大好きです』
精一杯の思いで自分が口にした言葉と、彼が向けてくれた満面の笑顔。そして――。
『うん。俺も大好き。ちい』
私だけにくれた言葉はやはり捨てられない。どうしても捨てられない。気がついたらガタンと椅子を鳴らし、私は立ち上がっていた。
「嫌だ……だめ……」
(紅君を他の人に紹介するなんて……私にはできない!)
言葉足らずで、自分の思いをそのまま口に出す私に、腹を立てる人は多い。もし自分が平凡な家庭に育っていたとしても、やはり親しい友人などできなかったのではないかと思うほど、私はぶっきらぼうな口のきき方しかできない。それなのに彼女は――昼間は美容院で働くおしゃれで可愛い美久ちゃんは、表情を強張らせたりせず、プウッと頬を膨らませ、私の背中を力任せにバシンと叩いた。
「なによお、千紗のケチ!」
「ケ、ケチって……」
「さては……お兄ちゃんも、弟君も独り占めする気だな!」
うしろの席からも、その隣の席からも手が伸びてきて、背中をバシバシ叩かれる。
「いいなあ、千紗!」
「いいな、いいな!」
冗談交じりにかけられる言葉に、内心嬉しくて涙が浮かびそうになりながら、私は反論した。
「違うわよ! そんなんじゃないんだから!」
「いいなー」
キャラキャラと笑う彼女たちの笑顔は、前に蒼ちゃんが言っていたように、本当に今の私を支えてくれるかけがえのないものだと思った。
ネオンの輝く街を出発した列車は、五分も経たずに都会を離れ、闇に沈む静かな町へと私を連れ帰る。片道十分の電車での通学時間を、私はこの春から紅君と一緒に過ごすことになった。
「ボディーガードにでもしたら?」という蒼ちゃんの言葉を真に受けたわけではない。しかし新学期の初日に偶然駅のホームで一緒になり、それから自然と毎日同じ電車の同じ車両に乗っている。とはいえ、美久ちゃんたちが羨ましがるような何かがあるわけでもなかった。紅君と私は並んで座らないし、特に言葉も交わさない。だが私は、ただそこに彼がいてくれるだけで安心する。ほっと落ち着く。彼がどう思っているのかはわからないが、私にとって紅君は、やはり特別な存在だった。
「ねえねえ……いつもこの電車に乗ってるよね? 高校生?」
真っ暗な窓に映る紅君の姿をぼんやりと眺めていた私に、ふいに声をかけてくる人がいた。大学生くらいだろうか。長めの髪で耳にピアスをいっぱいつけた、派手な服装の男だった。
(嫌だな……)
返事をしないでいると、ますます近づいてくる。
「街に毎日通ってんの? 今度一緒に遊びに行かない? いい店知ってるよ?」
黙ったまま首を横に振ると、馴れ馴れしく隣に座ろうとした。
「えー? いいじゃない……」
でも私の隣には、それより先に別の人が座った。肩が触れるほどすぐ近くに腰を下ろされ、茶色い髪が視界の隅に映り、私は心臓が止まるかと思った。
(紅君!)
紅君は私の肩へ腕を廻しながら、目の前に立つ男を見上げた。
「いくら誘ったって無駄ですよ?」
痛いくらいの力強さでぐっと近くにひき寄せられ、息が止まる。
「なんだよ……男連れかよ……」
舌を鳴らして去って行くその人の何倍も、おそらく私のほうが驚いていた。
(紅君……?)
とまどいながら見上げた彼の顔は、とても近い位置にある。困ったように眉根を寄せている、綺麗な横顔。緊張で心臓が止まってしまいそうだった。
「明日からしばらく電車の時間を変えよう……もう一本遅くなっても平気?」
問いかけに深く考えず一瞬頷いてから、私ははっと我に返った。
「紅君が私にあわせる必要はないよ! 私は一本遅らせるから、紅君は気にしないで!」
「なんで? そっちこそ気にしなくていいよ。俺は兄さんに頼まれてるんだから……」
ズキリと胸が痛み、舞い上がっていた心が一気に現実へひき戻された。
(そっか……蒼ちゃんに頼まれたから助けてくれたんだ……)
嬉しいのに悲しい。自分でも困惑するほど、私の感情は複雑すぎる。
「俺だって、他の奴が隣に座ってるところなんて見たくないし……」
「紅君……?」
彼はいつも、ふいに思いもかけないようなことを言うので、余計にわけがわからなくなる。肩を抱いていた腕を下ろし、少し距離を置いて座り直した紅君は、私にもう一度顔を向けた。
「その呼び方……」
指摘されて、はっとする。いつの間にか私は、彼を昔のままに『紅君』と呼んでいた。再会してからはずっと『紅也君』で通していたのに。
(馬鹿だ! なにやってるんだろう、私!)
慌てて言い訳を探そうとする私に、紅君は真顔で呟いた。
「俺には記憶がないから、お前は『紅也』だよって言われても、なんだかピンとこなくて……」
「紅君……?」
突然飛躍した話に首を傾げ、また無意識に彼を昔の呼び名で呼んでしまい、私は手を口に当てる。紅君が思いがけず笑顔を見せた。
「いいよ。そのままでいい。そんなふうに呼ばれて……初めて自分は『紅也』なんだって実感した。不思議だ……なんだか納得がいった」
小さなものではあったが、昔の彼を思い出させるような笑顔に、また微かに胸が痛んだ。
(そうだよ! あなたはまちがいなく紅君なんだよ!)
口に出して言えない言葉を、心の中だけで叫ぶ。
「だからいいよ……これからもそんなふうに呼んで……そして兄さんが一緒にいれないところでは、ボディーガードに使って……ね?」
蒼ちゃんの冗談を、紅君は純粋に実行しようとしている。似ているようで似ていない、似ていないようで似ている兄弟の共通点は、優しいこと。園長先生の言葉を借りるならば、『自分が辛い思いをしたことがある』人間だから、相手にもとても優しくできること。
自分にはもったいない申し出に、私はいつも蒼ちゃんにそうしているように「ごめんね」と謝りはせず、本音のままに頭を下げた。
「ありがとう……」
(守ってくれて、そんなふうに言ってくれて、笑いかけてくれて、本当に本当に――)
「ありがとう」
くり返す私に紅君の笑顔は大きくなる。いつか蒼ちゃんや昔の紅君にも負けない満面の笑みになるのではないかと思うほどの鮮やかな笑顔が、胸に痛くて眩しかった。
「本当だよねー。だって毎日一緒に学校来て、一緒に帰ってるもんねー」
「そうなのっ?」
夕方からの教室。二年生に進級しても変わらないクラスメートたちは、くっつけた机から身を乗り出し、三人とも私に顔を近づけてきた。四月を迎え、私の通う夜間高校にも少しの新入生が入学した。入学式から一週間、紅君の、どこにいてもみんなの視線を集めてしまうところは、やはり変わっていなかったようだ。すっかり話題の人になってしまっている。
「ねえ私に紹介して!」
「待ちなよ美久……千紗の彼氏だったらどうするの」
「ええっ! そうなの!」
勝手に盛り上がり、勝手に驚いている三人が可笑しく、私は笑った。
「違うよ……知ってる人の弟なの」
紅君のことをそういうふうに説明し、笑っていられる自分が不思議だった。
「知ってる人って……ははーん、そっちが千紗の彼氏か……じゃあ彼氏の弟?」
「ち、違っ! 蒼ちゃんと私はそんなんじゃ……!」
それなのに話が蒼ちゃんに及ぶと、大慌てで余計なことまで口走ってしまう。
「なるほど、彼氏は『蒼ちゃん』ね……で? 弟君の名前は?」
「…………!」
思わず頭を抱えて机に突っ伏した。蒼ちゃんが私のことを『僕の好きな人』と言ったのは確かだが、私はその言葉に答えを返していない。蒼ちゃんは答えを求めなかった。ただ私に、「これまでと同じように一緒にいてほしい」と言った。だから私はその言葉どおり、何も変わらずただ毎日ほんの少しの時間を彼の隣で過ごしている。
(これって何て言ったらいいんだろう……蒼ちゃんが私の彼氏? なんだか違う気がする……)
急速に速くなる鼓動と、一気に顔に集まり始めた大量の血液に頭がクラクラする。
「新入生の彼の名前は紅也君。片桐紅也君……でも本当に私と蒼ちゃんはそんなんじゃ……」
真っ赤になっているだろう頬を押さえながら、必死でくり返す私に、隣の席に座る美久ちゃんが少し真剣な顔で手をあわせた。
「ねえ……千紗が構わないんだったら本当に紹介して? 弟君のほう」
(紅君を……?)
途端に胸が痛んだ。
『好きです。俺の彼女になって下さい!』
紅君自身は忘れてしまった言葉を、私は今でもありありと覚えている。真剣な表情も、私に向かって深々と下げられた茶色い髪の頭も、私の手を包みこむように握りしめた小さな手も、忘れたことなどなかった。
『俺は絶対にちいを忘れないから! ちいが寂しくなったらいつだって飛んでくるから……だから、いつか迎えに来てもいい? 俺がこれから住む町に……いつか、ちいも連れて行ってしまっていい?』
小さな紅君があの時必死で私に伝えてくれた決意は、悲しいことに現実にはならなかった。私のせいで叶えられなかった。しかし――。
『好きです、紅君。大好きです』
精一杯の思いで自分が口にした言葉と、彼が向けてくれた満面の笑顔。そして――。
『うん。俺も大好き。ちい』
私だけにくれた言葉はやはり捨てられない。どうしても捨てられない。気がついたらガタンと椅子を鳴らし、私は立ち上がっていた。
「嫌だ……だめ……」
(紅君を他の人に紹介するなんて……私にはできない!)
言葉足らずで、自分の思いをそのまま口に出す私に、腹を立てる人は多い。もし自分が平凡な家庭に育っていたとしても、やはり親しい友人などできなかったのではないかと思うほど、私はぶっきらぼうな口のきき方しかできない。それなのに彼女は――昼間は美容院で働くおしゃれで可愛い美久ちゃんは、表情を強張らせたりせず、プウッと頬を膨らませ、私の背中を力任せにバシンと叩いた。
「なによお、千紗のケチ!」
「ケ、ケチって……」
「さては……お兄ちゃんも、弟君も独り占めする気だな!」
うしろの席からも、その隣の席からも手が伸びてきて、背中をバシバシ叩かれる。
「いいなあ、千紗!」
「いいな、いいな!」
冗談交じりにかけられる言葉に、内心嬉しくて涙が浮かびそうになりながら、私は反論した。
「違うわよ! そんなんじゃないんだから!」
「いいなー」
キャラキャラと笑う彼女たちの笑顔は、前に蒼ちゃんが言っていたように、本当に今の私を支えてくれるかけがえのないものだと思った。
ネオンの輝く街を出発した列車は、五分も経たずに都会を離れ、闇に沈む静かな町へと私を連れ帰る。片道十分の電車での通学時間を、私はこの春から紅君と一緒に過ごすことになった。
「ボディーガードにでもしたら?」という蒼ちゃんの言葉を真に受けたわけではない。しかし新学期の初日に偶然駅のホームで一緒になり、それから自然と毎日同じ電車の同じ車両に乗っている。とはいえ、美久ちゃんたちが羨ましがるような何かがあるわけでもなかった。紅君と私は並んで座らないし、特に言葉も交わさない。だが私は、ただそこに彼がいてくれるだけで安心する。ほっと落ち着く。彼がどう思っているのかはわからないが、私にとって紅君は、やはり特別な存在だった。
「ねえねえ……いつもこの電車に乗ってるよね? 高校生?」
真っ暗な窓に映る紅君の姿をぼんやりと眺めていた私に、ふいに声をかけてくる人がいた。大学生くらいだろうか。長めの髪で耳にピアスをいっぱいつけた、派手な服装の男だった。
(嫌だな……)
返事をしないでいると、ますます近づいてくる。
「街に毎日通ってんの? 今度一緒に遊びに行かない? いい店知ってるよ?」
黙ったまま首を横に振ると、馴れ馴れしく隣に座ろうとした。
「えー? いいじゃない……」
でも私の隣には、それより先に別の人が座った。肩が触れるほどすぐ近くに腰を下ろされ、茶色い髪が視界の隅に映り、私は心臓が止まるかと思った。
(紅君!)
紅君は私の肩へ腕を廻しながら、目の前に立つ男を見上げた。
「いくら誘ったって無駄ですよ?」
痛いくらいの力強さでぐっと近くにひき寄せられ、息が止まる。
「なんだよ……男連れかよ……」
舌を鳴らして去って行くその人の何倍も、おそらく私のほうが驚いていた。
(紅君……?)
とまどいながら見上げた彼の顔は、とても近い位置にある。困ったように眉根を寄せている、綺麗な横顔。緊張で心臓が止まってしまいそうだった。
「明日からしばらく電車の時間を変えよう……もう一本遅くなっても平気?」
問いかけに深く考えず一瞬頷いてから、私ははっと我に返った。
「紅君が私にあわせる必要はないよ! 私は一本遅らせるから、紅君は気にしないで!」
「なんで? そっちこそ気にしなくていいよ。俺は兄さんに頼まれてるんだから……」
ズキリと胸が痛み、舞い上がっていた心が一気に現実へひき戻された。
(そっか……蒼ちゃんに頼まれたから助けてくれたんだ……)
嬉しいのに悲しい。自分でも困惑するほど、私の感情は複雑すぎる。
「俺だって、他の奴が隣に座ってるところなんて見たくないし……」
「紅君……?」
彼はいつも、ふいに思いもかけないようなことを言うので、余計にわけがわからなくなる。肩を抱いていた腕を下ろし、少し距離を置いて座り直した紅君は、私にもう一度顔を向けた。
「その呼び方……」
指摘されて、はっとする。いつの間にか私は、彼を昔のままに『紅君』と呼んでいた。再会してからはずっと『紅也君』で通していたのに。
(馬鹿だ! なにやってるんだろう、私!)
慌てて言い訳を探そうとする私に、紅君は真顔で呟いた。
「俺には記憶がないから、お前は『紅也』だよって言われても、なんだかピンとこなくて……」
「紅君……?」
突然飛躍した話に首を傾げ、また無意識に彼を昔の呼び名で呼んでしまい、私は手を口に当てる。紅君が思いがけず笑顔を見せた。
「いいよ。そのままでいい。そんなふうに呼ばれて……初めて自分は『紅也』なんだって実感した。不思議だ……なんだか納得がいった」
小さなものではあったが、昔の彼を思い出させるような笑顔に、また微かに胸が痛んだ。
(そうだよ! あなたはまちがいなく紅君なんだよ!)
口に出して言えない言葉を、心の中だけで叫ぶ。
「だからいいよ……これからもそんなふうに呼んで……そして兄さんが一緒にいれないところでは、ボディーガードに使って……ね?」
蒼ちゃんの冗談を、紅君は純粋に実行しようとしている。似ているようで似ていない、似ていないようで似ている兄弟の共通点は、優しいこと。園長先生の言葉を借りるならば、『自分が辛い思いをしたことがある』人間だから、相手にもとても優しくできること。
自分にはもったいない申し出に、私はいつも蒼ちゃんにそうしているように「ごめんね」と謝りはせず、本音のままに頭を下げた。
「ありがとう……」
(守ってくれて、そんなふうに言ってくれて、笑いかけてくれて、本当に本当に――)
「ありがとう」
くり返す私に紅君の笑顔は大きくなる。いつか蒼ちゃんや昔の紅君にも負けない満面の笑みになるのではないかと思うほどの鮮やかな笑顔が、胸に痛くて眩しかった。