いつまで黙っていたんだろう。

いつ光流の家から出たのだろう。

俺もショック過ぎて覚えている事が少ない。

自分の家に帰って、気づけばグランドピアノの前に立っていた。

弾こうとは思わないけど足がその場から動かない。

俺にとっては苦痛の種でしかないこのピアノはいつもと変わらず、静かに置いてあった。

3分位か。

ピアノを見つめている俺に人影がやってくる。

心の中でため息をついた。


「何してるの?」

「……」

「ピアノ辞めたんでしょ。ていうか音楽自体」

「ああ、」

「なら退いて。今から使うんだ」

「お前はバイオリンだろ」

「学校の音楽会でクラスのピアノ担当に選ばれたんだ。全く、推薦した奴らが憎いよ。ただでさえバイオリンで忙しいのに。自分の時間が取れなくて大変だ」

「憎いとか言うな」

「兄さんだってお父さんのことそう思っているはずだけど?」

「なら言い方を変える。口に出すな」



俺は後ろから話しかける学ラン姿に睨みつけると、そのまま部屋に戻った。

久しぶりの弟との会話は喧嘩で終わる。

あいつと話す時はイライラが止まらない。

性格上、見下すタイプの弟は音楽から逃げた俺を余計に見下す。

自分の方が圧倒的に上と思っているらしい。

それも全部、父親の影響だろう。

あいつの言葉を借りるのなら憎い。

でも俺は口に出さなかった。

部屋へ入ると持っていたカバン、光流に貰ったコーラを投げ捨てる。

炭酸だからとか関係なかった。



「イラつくし、どうしたらいいかわからないし、何なんだよ…」



当たるものが何も無い俺はベッドに寝転がって手を叩きつける。

当然殴った感触は全くない。

手は少しだけベッドに沈んだ。

明日から土日で学校は休み。

きっと我が家ではぶっ通しでピアノ音が流れているはずだ。

2階の俺の部屋に対してピアノがある防音の部屋は1階。

それでも耳を敏感に鍛えられていた俺は微かな振動と音が聞こえる。

忌々しい。

それでも俺は口には出さずに、ただ天井を見てため息をついていた。




ーーーーーー



土曜日の昼頃、俺は部屋の扉のノックの音で我に帰った。

起きる時間は大体決まっているから寝過ごすことはあまりない。

平日6時30分起床。

休日8時30分過ぎ起床。

体がそれに慣れていた。

休日の朝は母親が作ってくれた朝食を食べてすぐ部屋に逃げ込む。

その直後に弟が起きてくる。

寝起きの悪い弟は、いつもトゲトゲしい言動をするくせにそれ以上にトゲが鋭くなる。

本当に厄介な奴だ。

1つ悪口でも言ってやろうか。

低身長ナルシストって。

心の中でそう言ってやると俺は少しスッキリする。

そして弟から逃げるように部屋に入った後は、決まったようにアイドル動画を見る。

扉を叩かれるまで3時間ほど熱中してしまった。

今日はイヤホンを付けていたから余計にわからなくて、無断で開けた母親が文句を言う。



「イヤホンしてた」

「何回も呼んだのよ!今日お母さん午後からレッスンのお仕事あるから昼と夜は適当に食べてて」

「わかった」

「ヒナタはピアノ弾いている。放っておいていいから」

「言われなくても放っとくよ」

「じゃあ行ってくるね」

「いってらっしゃい」



開ける時とは逆に静かに扉を閉めて降りて行く母親。

俺は横になっていたソファから起き上がる。



「あいつの名前なんて久しぶり感凄いな…」



ヒナタ。

俺の一応弟の名前だ。

血が繋がっているくせに、同じ家に住んでいるくせに名前なんてお互いに呼ばない。

元々あいつは俺のことを兄さんと呼ぶ。

でも本当は呼びたくないはずだ。

仲の悪い奴のことを兄として呼ぼうなんて思わない。

それでも呼んでくるのはきっと血の繋がりという契約があるからだろう。

なんでこんなにも性格が違うのか。

緩い性格の俺と完璧主義な弟。

真逆だ。

俺はソファから離れて机に向かう。

課題でもやろうかと思った。

しかし途中で時計が目に入り止まる。



「もしかたしたら……」



時刻は昼を回った午後12時。

もう少しで30分経つ。

俺は机に向かうのを辞めて肩掛けバッグにスマホ、財布、その他諸々を入れて部屋を出る。

可能性が無いわけじゃない。

藍子先輩がカラオケ店の前で歌っているということが。

この前遭遇した時、昼頃から歌っていたと笑って藍子先輩は言っていた。

それならば家からの距離を考えてちょうど会えるかもしれない。

俺は微かな望みを懸けて1階に降りる。



「あっ」

「……」



途中、防音室の前を通ると弟とバッタリと対面する。

藍子先輩に会おうと部屋を出たのに何故最初に弟と会ってしまうのか。

通常のしかめっ面で俺を見る弟。

手には楽譜を持っていたから学校関連の練習とわかった。



「邪魔」

「出かけるから邪魔は居なくなるよ」

「ならさっさと出て行ってくれない?まだ僕は練習があるんだ」



俺を避けて自分の部屋に戻ろうとする弟。

後ろを振り返った俺はその背中が小さく感じて、光流と合わさって見えた。



「ヒナタ」

「…何」

「無理するなよ」

「余計なお世話だ」



心配の言葉をかける俺の方を見ることもなくスタスタと歩いて行った。

俺もそのまま家を出る。

声をかけてしまったことに後悔しながら。

余計なお世話なんて可愛くない返事はまた俺をイラつかせる。

一瞬だけ光流と被さってしまった俺の目が馬鹿だった。

しかしこんな表情では藍子先輩と会えない。

両手で頬を軽く叩いて、俺は顔を柔らかくする。

藍子先輩を見ればきっと辛いことも忘れられるはずだ。

軽くなった表情で俺は会えるかわからない人の元へ向かうために歩き出した。