「ヒロくん」



優しい声でそう呼ばれた時は本当に嬉しい。

俺が藍子先輩と呼ぶと笑って応えてくれる。

普通にお喋りが出来るってこんなに素晴らしい事なんだなと思った。

金曜日の帰り道。

俺は1人で昼休みの出来事に浸っていた。

今日は隣に悟は歩いていない。

来週から甲子園の予選会があるみたいで、軽い練習とミーティングをするらしい。

レギュラーは確定なんて言われているみたいで、プレッシャーに怯えていた。

それでもいつものお調子者な性格は変わらない。

昼休みに藍子先輩の元へ行くと、しつこく教室で聞いてきたし、しまいには「ついに彼女がー!」なんて騒ぎ出す。

それを聞いた立花さんがキラキラした目で俺に質問責めを始めてカオスな状態になっていた。

俺は断じて藍子先輩とは付き合っていないし、友達だ。

恋愛感情なんて持っていない。

ただ、お喋りができればそれでいい。

なんで世の高校生はすぐに男女となると付き合うという考えに発展してしまうのだろうか。

まぁ、俺もその高校生の内に入っているのだが。



「ヒーくーん!」

「ん?光流?」



昼休みの出来事だけで頭がいっぱいになっている俺に後ろから元気な声が飛ぶ。

聞き覚えのある声は俺が振り向いた瞬間に背中に突撃していた。



「痛てっ」

「へへ。ごめんヒーくん!」

「光流、お前部活は」

「ちょっと、その……休んだ!」



悪気のない顔でそう言った光流。

しかし眉は下がっていて申し訳なさそうにしていた。



「なんかあったのか?」

「えっと…。その前にさ!今日僕の家に来ない?暇でしょ?」

「暇って決めつけるなよ。まぁ、特にやるとこはないけどさ」

「なら決まり!今日はお母さん達遅いんだ!」

「まさか俺を誘うためにサボったのか?」

「違うよ!そもそもサボりじゃないし……」

「光流?」

「何?」

「いや何でもない。行くぞ」



やっぱり何か隠しているのはわかった。

何年一緒に居ると思っているんだと俺は光流を横目で見ながら観察する。

声のトーンだって無理矢理上げている感じだ。

人とのトラブルか?

部活に行きづらくなったとか。

とにかく嬉しい内容では無いのはわかっていた。

でもそれを隠そうと光流は無理にでも話題を持ち出して話してくる。

俺は何も聞くことが出来ずに2人で光流の家に向かっていった。




ーーーーーー



「座って座って!」

「お邪魔しまーす」

「ヒーくんが好きなコーラ買っておいたから飲んで!」

「サンキュー」



光流の家は何年振りだろう。

中学生になってまともに時間も取れなかったからもしかしたら2、3年振りかもしれない。

光流は家に入るなり俺をリビングの椅子に座らせて、コーラを持ってくる。

事前に用意していたと言うことは連れてくる気満々だったのだろう。

やっぱりなんかあったなと確信に変わった。

自分の飲み物を持ってくる光流を待っている間に俺はコーラを飲みながらリビングを見渡す。

ほとんど家具の配置は変わっていない。

唯一変わっているとしたら家族写真が増えたところだ。本当に仲の良い家族だなと改めて思う。

光流の性格上、家族で撮るのは嫌だという人じゃないから余計に多く撮れるのかもしれない。

それでも少し羨ましく感じた。



「お待たせ!」

「ああ。コーラ美味いわ」

「よかった!キンキンに冷やしておいたから」

「と言うのはやっぱり連れ込んで俺になんか話したかったんだな」

「ま、まぁね……」



座った光流は図星のようで少し俯く。

さっきも思ったが、何年一緒に居ると思っているんだ。

それに加えて光流は本当にわかりやすい。

表情も行動も。

それでもなかなか口には出さない光流。

俺は急かすことなく、光流の言葉を待っていた。

またチラッとリビングを見ると、隅の方に電子ピアノが置いてあった。

確か前は光流の部屋に置いてあったはずだ。

何故リビングに移動したのだろう。

電子ピアノには綺麗に布が掛けられていてちゃんと丁寧に扱っているのがわかる。

俺の家にもグランドピアノは置いてあるが、やはり同じように手入れは念入りにやっていた。

作曲家である父親にとって相棒のようなものだからだ。

それでも全く家に帰らない父親にとってはもう相棒と言うよりかは少し地位が落ちた友達感覚だろう。

俺も弾かなくなったから週に1回母親が手入れする時に触られるくらいだ。



「ヒーくんあのさ…」

「ん?なんだ?」



やっと口を開いた光流。

俺が手に持つコーラはラベルの半分くらいまで減っていた。



「僕、ピアノ弾くのが怖くなっちゃった」

「え……」


太ももの上で手をグーにしている光流は微かに震えていた。

俺も突然の言葉にコーラを飲もうとした手が止まる。



「どういうことだ?」

「わからない。とにかく怖い…。手を鍵盤に置くと動かないんだ」

「そっか…」



怖くて辛いのは光流のはずなのに、俺の体から冷や汗が出てくる。

何故、俺の体は震えそうになっている?

光流の方を見ると目にはいっぱいの涙を溜めていた。



「ごめんヒーくん。せっかくヒーくんに教えてもらったのに…。ピアノ大好きなはずなのに。ごめん」

「謝るなよ。大丈夫だ。きっとスランプなんだよ。少し経てばまた弾けるようになるはずさ」

「でも、でも…」



ついに涙を流した光流の背中に俺は手を当てる。

やはり震えていた。

光流も、俺も。

2人の震えが合わさって振動になる。

それを誤魔化すかのように俺は背中を摩った。

それ以上は俺は何も言えなかった。