翌日の朝、いつものようにイヤホンを付けて登校した後、職員室の前で保健の先生に呼び止められた。

鈴木先輩に関する事だろうなとは一瞬でわかったが、あまり嬉しい話ではないのも同時にわかった。

何を言われてしまうのだろう。

先生は眉を下げて申し訳なさそうに俺を見る。



「おはよう。その、藍子ちゃんの事なんだけどね。ちょっと会えないみたいなの。でも勘違いしないで!九音くんのせいとかじゃないから。私にも詳しく教えてくれなかったけど九音くんに何か非があったわけではないって言ってた。だからごめんね」

「わかりました。伝言ありがとうございます」

「ううん。…大丈夫?」

「大丈夫です。話していてわかりましたが、鈴木先輩は話すのが苦手なのかなって思いました。それに俺は初対面だったし余計に無理させちゃったのかもしれません」

「そんなに責めないで。藍子ちゃんも良い気分転換にはなったと思うから。3年生だし、色々と考えることも沢山あるからね」

「はい…」

「はい!話は終わり!引き止めてごめんね!授業寝ちゃだめだよ!」

「寝ませんよ。失礼します」



軽く頭を下げて先生に背を向ける。

突然の嫌な話なのに、悲しい話なのに、今の感情は俺にはわからなかった。

別に泣くわけではない。

目頭が熱くなるわけでもない。

大体、無理矢理話そうとした俺が悪いから。

保健の先生から言われた「責めないで」の言葉を忘れて俺は自分を責め出す。

昨日はそんな素振りは見せなかったのに。

一応言葉は交わせたのに。

教室に行く気にはなれなかった。

授業までは時間がまだある。

俺の体は今は向かわなくても良い場所に歩き出した。

ただ、現実逃避をしたかったから。


ーーーーーー



音楽室と書かれたプレートが貼ってある扉を開ける。

防音になっているため普通の教室よりも扉が重い。

音楽室は鍵が空いていることが多いから、今日もすんなりと入れた。

独特の空間に「嫌い」の文字が頭の中で浮いてくる。

それでも俺は気持ちをかき消して、音楽の中央にあるピアノへと向かっていた。

鍵盤の上には布が被さっており、それを外して畳むと近くの机に置く。

そして俺は鍵盤に人差し指を置いてみた。


ドの音が音楽室に響き渡る。

ドの鍵盤は始まりの音。

だから俺は演奏をする前に必ずドを何回も押していた。

続いてレを押す。

1音の残響が聞こえなくなる瞬間まで俺は目を瞑っていた。

指を鍵盤から外して、ピアノの椅子に座る。

俺は白と黒の鍵盤を見ながらある言葉を思い出していた。



「鍵盤には命が吹き込まれている。雑に叩けば痛がって音も尖るし、逆に優しすぎても不満で嫌がる音になる。確かに強弱は大事だ。でもそれとこれとは違う。鍵盤1つ1つに敬意を持ちなさい。ピアノはお前が居なくては弾けない。対してお前はピアノが無ければ奏でられない。勿論私もそうだ。これをちゃんと覚えておきなさい。ヒロ」



小学校低学年の時に言われた父親からの言葉。

でも実際は父親の口から放たれた言葉は、結局は誰かの入れ知恵を借りたものだろう。

思い返せば父親には親らしいことはしてもらえなかったし言ってもらえなかった。

だからこそ母親には感謝しているし、父親以上に好きだ。

俺にも、弟にも分け隔てなく接してくれる母親の存在は大きかった。



俺はふと何も考えずに鍵盤に指を乗せて弾き始める。



(このフレーズはなんだっけ?)



指に任せて無心で弾いていると自分でも何を弾いているかわからない。

でも少し弾いていけばヒントが増えて答え見えてきた。



「あっ、そっか。鈴木先輩が歌っていたamaのAメロだ」



何で今この曲を?と勝手に動く指に不満を持つ。

わかった途端俺は弾く指を止める。

Bメロに到達する前に終わってしまった演奏は盛り上がりなんてなかった。

鈴木先輩の事を1回リセットしようと嫌いなピアノを弾いたのに、意味が無い。



「俺、何やってるんだろ」

「誰がいるのか?」



俺が俯いた瞬間、音楽室の重い扉が開く。

それと同時に音楽担当教師の田所(たどころ)先生が顔を出した。

若い教師の田所先生は生徒からも人気で支持率が高い。

俺はあまり喋ったことないけど。



「ん?九音か。どうした?」

「あ……いえ…」

「ピアノ弾くのか?」

「…久しぶりです」

「上手いな」

「え?」

「音が聴きやすい。スッと入ってくる感じだ。良ければもう1回聴かせてくれないか?」



田所先生は俺の側に来てそう言う。

俺は小さく頷いてまた鍵盤に両手を乗せた。

先生は俺の苗字知っていたらしい。

そんなことを考えながらamaの曲を次はBメロまで弾いてみる。



「……うん。九音の音はいいな。僕とはまた違う音だ」

「そう、ですか」

「でももっと綺麗な音が出せると思うが。なんかあったのか?」

「えっと……」

「ああ、そろそろ1時間目だな…。九音。2択だ」

「2択?」

「体調が悪いからここで休む。それとも体調が悪いまま授業に行く」

「そ、それってサボりですか?先生が言っていいこととは思えませんが…」

「何を言ってる。実際お前は体調が悪い。いや、心調の方が合っているか。担任の先生には僕から言っておくよ。生徒の悩みを聞くから時間をくれと言ったら1時間くらいは許してくれるだろう」



先生らしからぬ提案に俺は戸惑いながらも小さく頷く。

田所先生は「よし!」と笑った後、音楽室の電話機から職員室に電話し始めた。

悩みと言っても鈴木先輩から遠ざかってしまったというくだらないことなのに授業を休んでしまって罪悪感が出る。

でも、心のどこかでは休めて良かったという気持ちが隠れていた。