三章

 タイミングよくチャイムが鳴ったことで、ありすの派閥に入るかは明言することなく雫とは別れ、授業を受ける教室へと戻った。
 午後の授業は散々なほど頭に入ってきてくれず上の空。
 それでも、紫紺の王の伴侶であるミトを叱る教師はいなかった。
 そのまま授業が終わって、ホームルームを行う教室へ行くと、ミトのために用意された椅子と机が一番後ろに用意されていた。
 自分の席に座り、よくよく観察してみると、確かに食堂で騒いでいた皐月美波も、諫めていた桐生ありすの姿があった。
 もちろんいろいろと話を聞かせてくれた雫の姿も。
 雫は後ろを向いて小さく手を振ってくれたが、ミトは曖昧な笑みで振り返すに留める。
 友達を作りたいと意気込んでいたのに、雫を含めて仲良くなれそうな気がしない。
 雫は確かに気さくに話してくれて好印象だったはずなのに、どうしてこうなってしまったのか。
 殺伐とした教室内の空気にすでに嫌気がさしている。
 ホームルームが終わり、雫が近寄ってくる気配を察したミトは、鞄を抱えて素早く教室を後にした。
 また派閥のお誘いなんてされては適わない。
 今のミトにはどちらが正しいのか判断がつかず、そんな状態で派閥に入れられてしまったら後で後悔するに違いない。
 とりあえずこれは相談だと、蒼真の待つ玄関へ行くと、蒼真が煙草をくわえながら車に寄りかかっていた。
 駆けてくるミトを見つけると、煙草をボリボリと食べてしまった。
 ぎょっとするミトは思わず足を止める。
「煙草食べちゃったんですか!?」
「煙草じゃねぇよ。これは煙草の形したお菓子だ」
「なんて紛らわしい」
 煙草を食べてしまったのかとびっくりしたではないか。
「俺は煙草の煙は嫌いなんだよ」
「じゃあ、なんで煙草吸ってるみたいにくわえてたんですか?」
「格好いいだろ」
 あきれて言葉が出なかった。
「なんだ、そのなんか言いたそうな顔は」
「別に……」
「それより学校初日はどうだった? 楽しめたか?」
 学校の話になりミトははっとする。
 とりあえず車の中に入ると、車は屋敷に向けて動き出す。
「蒼真さん、なんですか、この学校は! 私の思ってた学校と全然違うんですけど!」
 怒りを含ませながら不満を蒼真にぶつけるミト。
 蒼真が、けけけっとなんとも楽しそうに笑っているのが、さらに腹立たしい。
「特別科の奴らが派閥争いでもしてたか?」
「知ってたんですか?」
「いや、ただの予想だ。なんせ俺が学生の頃も、特別科の奴らが誰が一番偉いかで争ってやがったからな。それに他の科の生徒が巻き込まれるのもいつものことだ」
「いつものことだなんて……」
 そんな学校嫌だ……。
 ミトががっくりしていると、蒼真が悪い顔をして口角をあげる。
「そんなに巻き込まれるのが嫌だったら自分のことをぶちまけてやったらいい。自分は紫紺様に選ばれた伴侶だから自分の言うことを聞け!ってな」
 ミトはふくれっ面で蒼真をじとっと見る。
「そんなことしません!」
「なんでだ? それが一番平和な解決方法だ。紫紺様に逆らえる龍神は今この町にはいないからな」
「けど、それは波琉が偉いんであって、私が偉いんじゃないもん! 波琉が言うなら分かるけど、私が使っていい言葉じゃないです!」
 どいつもこいつも、格だとかどっちが偉いとか、それは龍神の間の話であって、人間同士のつき合いには関係ないはずだ。
 だというのに……。
「私は波琉が好きだから一緒にいるの。紫紺様だからじゃない。それなのに、波琉の価値で競うような真似したくなんてない」
 まるで互いのアクセサリーを見せびらかしてどちらが高価か競うようなやり方に吐き気がする。
「今ものすごくなにかに八つ当たりしたい気分です……」
 湧きあがるなんとも言えない不快感に耐えていると、蒼真がわしゃわしゃとミトの頭を撫でた。
「わわっ、なんですか?」
「……お前はいつまでその気持ちを持ったままでいられるんだろうな」
 どことなく悲しげな蒼真の眼差しにミトはなにも言えなくなる。
「今の気持ちを絶対に忘れるなよ」
「しばらくは忘れませんよ、こんな不快な気持ち!」
「そうかそうか」
 くくくっと、蒼真は今度は声をあげて笑った。

 屋敷に着くや、ミトは波琉な部屋を目指した。
 長い長い廊下を爆走しようとも怒られることはない。
 そこへ、黒猫のクロが通りかかった。
『あっ、ミトおかえり。あのね──』
「ごめんね、クロ。後でね」
 ただ、早く波琉の顔が見たかったミトは、なにかを話そうとしていたクロに足を止めることなく通りすぎた。
『人間は忙しないわねぇ』
 猫ながら達観したような言葉を発するクロは、『まあ、そのうち来たらわかるからいいか』と、意味深なことを口にしてミトとは反対の方へと歩いていった。
 ミトは大きな足音を立てながら波瑠の部屋まで走ると襖を勢いよく開いた。
「波琉、ただいま!」
 とりあえず今すぐ波琉の顔を見たいと勢いよく飛び込んだはいいものの、部屋にいたのは波琉だけではなかった。
 長く伸びた赤毛に、赤の混じった茶色い瞳。
 波琉よりもわずかに年上に見える青年は、見ただけで人間ではないことが分かった。
 まとっている空気が人間とは違うのだ。
 そう、まるで波琉のように強いオーラのようなものを感じる。
 蒼真がここにいたら、それは神気だと説明してくれただろうが、あいにくとここにはミト以外には波琉と男性しかいない。
 思わぬ来客の存在に、ミトは動きを止める。
「ご、ごめんなさい! お客様がいるとは思わなくて」
 ミトは慌てて部屋を出ようとしたが、波琉は笑顔で止める。
「大丈夫だよ。こっちにおいで」
「いいの?」
「うん。そもそも彼はミトを見に来たようなものだからね」
「私?」
 ミトは疑問符を浮かべながら波琉の隣に座る。
 男性と向かい合う形になり、嫌でも男性の姿が視界に入ってくる。
 じっと見つめるのは失礼だと目の置き場に困った。
 男性は突然入ってきたミトに嫌な顔をせず、柔和な笑みを浮かべていた。
「えっと……。波琉と同じ龍神様……で合ってる?」
 確認するべく問えば、波琉はよくできましたと褒めるようにミトの頭を撫でた。
「そうだよ。彼は久遠。伴侶を見つけた僕にお祝いをしに来たんだよ」
 ミトの心の中で“久遠”という名前が引っかかったが、喉のすぐそこまで出てきそうで出てこない不快さを感じる。
「なんだっけ?」
「なにが?」
「名前をどこかで聞いた気がしたんだけど、たぶん気のせいだから大丈夫」
 ミトは小骨が刺さったままのような気分だったが、気のせいで済ませることにした。
「ミト様と申しましたかな? この度はおめでとうございます」
 そうして頭を下げる久遠にミトは慌てふためく。
「頭をあげてください! 龍神様にそんなことさせたと蒼真さんが知ったら、きっと叱られます」
「蒼真とは?」
「僕の神薙だよ」
 首をかしげる久遠に、波琉が説明をつけ加えた。
「神薙ごときが、紫紺様の伴侶となられる方を叱るのですか?」
 信じられないという顔で眉をひそめる久遠に、波琉はクスクスと笑う。
「蒼真は僕に対しても遠慮がないからねぇ。叱るぐらいはするかもね」
「人間ですよ? 立場はわきまえさせなければ」
「蒼真はいいんだよ。僕がそれを許してるからね。大人しくなった蒼真なんて面白くもなんともないし」
 久遠になんと言われようと、波琉が意思を変えることはない。
 蒼真もまさか龍神でも格の高いふたりが、自分の話をしているとは思うまい。
 しかも不敬かそうでないかの問答をされているのだ。
「しかし、不敬でしょう」
「久遠は真面目だねぇ。そういうところはほんと瑞貴と似てるよね。王の補佐や側近は皆真面目すぎるよ」
「あなたが寛大すぎるのだと思いますよ」
 久遠はやれやれというように肩をすくめる。
「ふたりとも仲がいいのね」
 思わずというように口に出したミトの言葉を、波琉も否定しない。
「まあ、そうだね。彼は僕とは別の王の側近でもあるから、天界でも会う機会が多くてね」
「王の側近……」
 やはりなにか忘れている気がしてならない。
 首をかしげて考え込むミトに、波琉が思い出しように問いかけた。
「そういえば学校はどうだったの? 楽しめた?」
「ぐっ……」
 ミトは言葉に詰まって、そっと視線をそらせた。
「なにかあったの?」
 途端に心配そうにする波琉に申し訳なくなりながら、ミトは今日の出来事を話すことにした。
「なんかすごいところだった……。花印を持った子が集まる特別科ってのがあるんだけどね、そこではふたりの龍神に選ばれた子がいて、それぞれ派閥を作ってバチバチやり合ってるみたいなの」
 思い出すだけでも気疲れしてくる。
「私にも派閥に入ってくれって頼まれた」
「入るの?」
「まさか」
 入るつもりは微塵もない。
 けれど、どうやって避けようかと悩んでいる。
「普通に断って納得してくれるかなぁ」
 明日もきっと派閥に勧誘してかるのではないかと、考えるだけで頭が痛くなりそうだ。
「そんなに問題なの?」
「美波皐月って子がすごく我儘で、被害に遭ってる子が多いみたい。私も目をつけられないように気をつけとかないといけないかも。もうひとりの桐生ありすって子は真面目そうな感じだったけど、結局はやってることは同じだよなぁって思っちゃって。どっちも龍神頼りなんだもん」
 ミトが話すに従い、空気がヒヤリとしていることにミトだけが気づいていない。
「久遠」
 にっこりと笑っているようでいて目が笑っていない波琉に、久遠が深々と頭を下げた。
「面目次第もございません」
「どういう教育をしてるのかな? 万が一にもその子がミトになにかしたら、僕は絶対に許さないよ?」
「承知しております。皐月には私からきちんと言って聞かせます」
「頼んだからね?」
 温厚な波琉の怒りを感じ取ったミトは戸惑いながら、波琉と久遠を交互に見つめる。
「波琉? どういうこと?」
「今ミトが名前を出した美波皐月という子は久遠が選んだ伴侶なんだよ」
「ああー!」
 そこでようやく久遠の名前と、昼間雫から聞いた皐月の相手である龍神の名前とが合致した。
「そうだ、確かに金赤の王の側近って言ってた」
 目の前の彼がそうなのだとようやく理解したミトは驚きでもって見つめた。
「皐月が迷惑をかけたようで申し訳ない」
「いえ、私はなにもされてはいないので」
「そうか。紫紺様の選ばれた方になにもなくて安心しました」
 ほっとした顔をしつつも、すぐに久遠の顔は険しくなった。
「どうやら帰っていろいろと話をせねばならぬようです。本日はこれにて失礼いたします」
「うん。よくよく立場を理解させるんだよ」
 のんびりとした話し方だが、波琉の眼差しは紫紺の王という名にふさわしい強いものだった。
 一礼して久遠が帰っていった後、ミトは自己嫌悪に陥っていた。
「あー、なんかやだなぁ」
「なにが?」
 波琉は「よいしょ」と言いながらミトを持ちあげて膝の上に乗せる。
「だってさっきの告げ口したみたいじゃない」
「本当のことなんだから問題ないよ」
「確かに本当のことだけど、波琉も久遠さんも、波琉の伴侶である私になにかしないようにって動いてくれたわけでしょう?」
「そうだね」
「なんか波琉の威光をちらつかせて言うこと聞かせたみたいじゃない。私は波琉を利用して偉ぶりたくないのに」
 偉いのは波琉であって自分ではないという思いは、どうしたって変わらない。
「そんなことを気にしてたの? ミトのためならいくらでも僕のことを利用してくれていいんだよ」
「そんなのやだ! 私は波琉とは対等でいたいの。波琉は勝ち負けを決めるための道具じゃないんだから。もし利用するなんてことになったら、私はきっと自分が許せなくなる」
 だから絶対に嫌だと、まるで駄々っ子のように告げる。
 すると波琉はこれまでにないほどに優しい眼差しで微笑んだ。
「ミトはいい子だね。素直で汚れていない真っ白だ。いつまでそのままのミトでいてくれるのかな? でも、たとえ汚れてしまっても、それはそれで見てみたい気がするな」
 ニコニコと機嫌がよさそうに波琉はミトの頭を撫で、その手をミトの頬に滑らせる。
 そして、ゆっくりと顔を近付け、額に軽く触れるだけのキスをした。
 いやらしさのない、まるで親が子にするような親愛を含んだ口付けだったが、それだけでもミトは頬を赤く染めた。
「うーん、これでも赤くなっちゃうの? 正直足りないんだけどなぁ」
「た、足りないってなにが!?」
「まあ、いろいろと。言葉にしちゃうとミトがパニック起こしちゃうからやめておこうね?」
 その言葉ですでにパニックを起こしそうである。
「そうそう、蒼真からもらった雑誌は読み終えたから、明日学校帰りにデートしようか?」
「えっ、本当に!?」
「うん。ミトの行きたそうなところはバッチリ頭の中に入れたよ」
「どこに行くの?」
 問うと、波琉は不敵に微笑んだ。
「それは行ってからのお楽しみ。その方がドキドキを味わえるからね」
 波琉とのデート。
 それが待っているというだけで、明日の憂鬱な学校を楽しい気持ちで過ごせるだろうとミトは思った。
 明日が早く来ないだろうかと、ドキドキする胸の鼓動が抑えきれなかった。