視線を向けた先には紺色のブレザーを着た女子生徒がおり、なにやら大きな声で騒いでいる。
「なにしてんのよ、あんた!」
 何事かと周囲の生徒も視線を向けていたが、「またかよ」とか「女王様は今度はなにに怒ってんだ?」という声が耳に入ってきた。
「女王様?」
 首をかしげるミトの隣で、雫が不快そうに顔をしかめた。
「あの子は私たちと同じ特別科の高校三年の、美波皐月さんよ。正直同じくくりにはしてほしくはないけど」
 雫がミトにも分かるように説明してくれたおかげで、騒いでいる女の子がどんな子か判明した。
 特別科ということはホームルームで教室にいたことになるが、雫同様にミトの記憶にはない。
 つり目がちの目に、つけまつげのつけすぎと思えるほどのバサバサのまつ毛。
 すっぴんのミトからは考えられないほど濃いメイクをしており、明るい茶色の髪の毛も緩やかな巻き毛でばっちりセットされている。
 ふたつしか歳が違うだけのようだが、化粧っ気のないミトと比べたらずっと大人のように見えた。
 ミトが彼女を観察している間も、皐月はそばにいたえんじ色のブレザーを着た中学部の女子生徒に、鬼の形相でぎゃあぎゃあと叫んでいる。
「そこは私の場所よ! 誰の許可を得て勝手に座ってんのよ!」
「す、すみません……」
「謝って済むと思ってんの!? 久遠様に言いつけてやるんだから! あんたなんて私のひと言で町から追い出すことだってできるのよ!」
「すみません、許してください!」
 どうやら皐月が普段使っている席に、怒鳴られている女の子が座ってしまったようだ。
「ねえ、雫。ここって席が決まってるの?」
 だとしたら、自分も誰かの席に勝手に座ったことになってしまわないかと心配もあった。
 とはいっても、あそこまで激怒しなくてもいいと思う。
「そんなのないわよ。あの女が勝手に自分の席だって決めつけてるだけ。あそこ窓側で日当たりも景色も一番いいのよね。自由席だから誰が座ってもいいんだけど、あんな風にあの女が占有しちゃってるもんだから誰も座らないようにしてるの。怒られてる子は知らなかったか間違ったかしちゃったのね。かわいそうに」
 女の子は未だに皐月に平身低頭で謝罪していた。
 そしてその様子を周囲の誰もが気がついているのに、助けに入ろうとする者はひとりもいない。
 まるで間違えてしまった女の子の方が悪いとでもいうように、我関せずだ。
 身を縮こまらせて罵声を浴びせられるまま耐えている女の子を見ていると、村で真由子の虐めに逆らえずにいた自分と重なってしまった。
 見ていられなくなったミトが止めに入るべく立ちあがったが、腕を雫に掴まれる。
「どうするつもり? まさか止めに入ろうなんて考えてないわよね? そうだったらやめときなさい」
「どうして?」
「ミトは来たばかりだから知らないだろうけど、あの女には伴侶となる龍神がいるの」
「それがなんの関係があるの?」
 伴侶がいようと、あそこまで怒鳴りつけることはないはずだ。
「大ありよ。いい? 同じ花印を持っている子でも、龍神に選ばれたか選ばれていないかじゃ、この町での発言力が大きく違うの。龍神に選ばれてるってことは、絶対的な権力を得たのと同じことなのよ。あの女が女王様って言われてるのも揶揄してってわけだけじゃない。実際にこの学校であの女は女王様のような存在なんだから。同じ特別科でも私たちとは違うの。そんな相手の不興を買うようなことをしたら、今度はこっちがひどい目に合わせられちゃうわよ。あの中学部の子はかわいそうだけど、見て見ぬふりするのがこの学校で……ううん、この町で平穏に暮らせる正しい生き方なの」
 間違っていることを間違っていると言えないことのなにが正しいというのか。
 ミトはそんな生き方はしたくなかった。
 だって、それでは村で暮らしていた時となにも変わりはしない。
 自分はもう自由なのだ。強者にただ従うだけなんて嫌だ。
 ミトは雫の手を振り払った。その時……。
「皐月さん、もうそれぐらいにしていただけませんか?」
 激昂する皐月に声をかけたのは、眼鏡をかけたおさげの女の子。どことなく真面目そうな雰囲気を感じる。
 えんじ色のブレザーを着ていることから中学部であると分かる。
「あっ、ありすさんが来たならもう大丈夫ね」
 雫はそう言ってほっとしたような表情をした。
「ありすさん?」
「そうよ。桐生ありすさんって言ってね、彼女も特別科の生徒なの。中学部の三年生だけどとてもしっかりしていて、特別科の中心的人物なの」
「けど、さっき私には助けに入るなって言ったのに……」
 態度の違う雫に不満を募らせるミトに、雫が苦笑気味に説明する。
「ありすさんは別よ。彼女も龍神の伴侶に選ばれた人間だから」
「伴侶に選ばれてたらいいの?」
「まあ、端的に言えばそうね。この町では花印を持っていることが最高のステータスだけど、花印を持っている人の中にもランクが存在するの。さっき言ったように、龍神に選ばれているかどうかよ。花印は龍神の伴侶になれる証だけど、実際に迎えに来てくれて伴侶になり、天界にあがれるのはほんのひと握り。龍神に選ばれたら同じ花印の中でもひとつ飛び抜けることができるの。町でも発言力が全然違うんだから。この学校で龍神に選ばれているのは皐月さんとありすさんのふたりだけ。だからこの学校はふたりを中心に回ってるの」
 同じく龍神に選ばれた伴侶だから、皐月にも物申せるとういことなのか。
 皐月に対峙するありすは、泣きながら謝罪する女の子の肩を抱く。
「ちょっと席を使ったぐらいでこんなになるまで虐めるなんて最低だと思わないんですか?」
 ありすは皐月をぎっとにらみつけるが、皐月とてその眼差しの強さは負けていない。
「なによ。私の席を勝手に使うのが悪いんでしょう!」
「この食堂は自由席です。誰がどこに座ろうと咎められるいわれはありません。座っていたならあなたが他の席を使えばいいじゃないですか」
「ここは私がずっと使ってる席よ。普通科の分際で私の席を取るのが悪いわ」
「まるで小さな子供ですね。小学部からやり直したらどうです? 精神年齢がちょうど合うのではありませんか?」
 その言葉に皐月はかっと顔を赤くする。
「あんた、年下のくせに生意気なのよ。いつもいつもなにかある度にしゃしゃり出てきて、優等生のつもりなの!? あんまりうるさいと久遠様にお仕置きをしてもらわないといけないわね」
 歪んだいやらしい笑みを浮かべる皐月を前にしても、ありすは顔色ひとつ変えなかった。
「久遠様は良識のある方と聞いています。あなたの我儘に振り回されるとは思えません」
「あら、じゃあ、確かめてみる? 実際に久遠様が出てきて困るのは、あなたの龍神の方じゃないのかしら?」
 そこで初めてアリスの顔が悔しそうに歪んだ。
 それを見て皐月は気をよくして、にやりと口角をあげる。
「ふふふ、あははは。同じ龍神に選ばれたっていっても所詮久遠様には足下にも及ばないんだから、いいかげん身のほどを知りなさいな」
 皐月は先ほどまで席の争いをしていたことも忘れて、機嫌よさそうに食堂を後にした。
 食堂は再びいつも通りの喧噪を取り戻す。
「一応、なんとかなったみたい。でも、やっぱり皐月さんの方が龍神様を出してきたらありすさんには勝ち目がないわね。ほんとあの女ったら忌々しい。久遠様じゃなかったらこんなに幅をきかせることもできないくせに」
 眉をひそめる雫を、ミトは表情をなくして見ている。
「久遠様って?」
「皐月さんを伴侶に選んだ龍神よ。さっき花印の子は龍神に選ばれたかで発言力が変わってくるって言ったけど、それだけじゃなくくて、相手の龍神の格にも左右されるの」
「格?」
「龍神は四人の王が一番上に存在しているんだけど、さすがに知ってるわよね?」
 あまりにも知らないことの多いミトに、雫は確認するように問いかける。
「うん」
 ミトはこくりと頷くと、雫は続ける。
「王が一番格が高く、その次が王の側近、そして他の龍神の順で偉くてね、皐月さんは金赤の王の側近である龍神に選ばれたの。おそらく学校内だけじゃなくて龍花の町に降りてきている龍神の中で一番偉いんじゃないかしら? 噂では紫紺の王が龍花の町にいるって話だけど、見たって聞いたことがないからほんとのところは分からないのよね」
 ミトは反応に困った。
 波琉は龍花の町に降りてきて十六年、一度も外に出たことがない上に、屋敷の人たち以外との接触もなかったと言っていたので、存在が噂でしか伝わっていないのだろう。
 しかし、ミトが来たことでスーパーやに出かけたり、デートの約束もしているので存在が周知されるのはもう間もなくかもしれない。
「まあ、紫紺様は今関係ないわね。ありすさんも皐月さんも龍神の庇護のもとにあるけど、お相手の龍神の格は皐月さんの方が圧倒的に上だから、久遠様の名前を出されると、ありすさんもなかなか思うように皐月さんを止められないのよね」
「なるほど」
 自分の龍神が誰よりも格上だと分かっているから、皐月もあれだけ我儘放題なのか。
 ここは龍神のためにある町だ。きっと龍神を盾に取られたら教師と言えど注意することができないのだろう。
 そんな中で唯一対抗できるのが、同じく龍神に選ばれたありすだが、ありすの龍神では皐月の龍神に劣るので、完全に制御不能となっているということなのか。
 きっと波琉なら止められるのだろうなと、波琉の姿が頭をよぎったが、自分が波琉の伴侶だとは雫に言いはしなかった。
 偉いのは波琉であって、ミトではないのだ。
 波琉の威光を盾にしてしまったら、皐月と変わらない。
 なにより、波琉を利用しているようで嫌だった。
 ミトがそんなことを考えているとも知らずに、雫はさらに続ける。
「今の学校ではね、ただふたり、龍神に選ばれたありすさん派と皐月さん派とで派閥ができてるのよ。中学部ながら生徒会長もしていて、皐月さんの被害に遭った子を助けてくれる正義感も強いありすさんを支持する子が多くてね。だけど、やっぱり格上の龍神を相手に持つ皐月さんを支持する子も一定数いるの。まあ、皐月さんの方は人望じゃなくて損得勘定で指示されてるだけだけど」
「雫はどっちなの?」
「私はありすさん派よ」
 答えを聞くまでもなく、ミトはなんとなく分かっていた。なにせ、高校二年の雫が、中学三年のありすを『さん』づけで呼んでいる時点で対等ではないように感じたのだ。
 胸を張って堂々とありす派だと口にする雫は、ミトの手を握った。
「ねえ、ミトもありすさんの派閥に入るわよね? 皐月さんみたいな女についたらきっと不幸になるもの。断然ありすさんの方がいいって保証するわ」
 思い返してみると、雫は最初に話しかけてきた時、どの派閥に入るかありすに聞いてこいと言われたと口にしていた。
 最初から派閥に入れるために声をかけてきたのだ。
 それを理解すると、友人ができると喜んでいた気持ちが萎んでいくようだった。