その後も波琉とのんびりと他愛のない話をしていると、部屋の扉の外から母である志乃の声が聞こえてきた。
「ミト~。入っていいかしら?」
「うん、どうぞ」
すっと襖を開けて入ってきた志乃は、仲よさそうにくっついているミトと波琉を見て微笑ましげに相好を崩す。
しかし、その後ろから顔を見せた父親の昌宏はじとっとした眼差しをしていた。
「少しくっつきすぎじゃないか?」
「恋人同士なんだからあんなものでしょ」
「いや、しかしだな……」
なおも不満そうな昌宏の横腹に肘鉄を叩き込み、志乃は本題に入る。
「ミト、これから私たちスーパーに行ってこようと思ってるんだけど、ミトも行く?」
「スーパー……」
ぱあっと表情を明るくしたミトは目を輝かせながら即答した。
「行く!」
「ふふふ。そう言うと思ったわ」
期待通りの答えに笑みを浮かべる志乃は、隣にいる波琉にも視線を向ける。
「波琉君も一緒に行く?」
「ミトが行くなら行こうかな」
少し考えた末に出した波琉の答えに対し、ミトには聞こえないほどの大きさで「来なくてもいいのに」とふて腐れたようにつぶやいた昌宏に、志乃が再び肘鉄を食らわせる。
「ぐっ……」
痛みに悶える昌宏を無視して、「私たちは玄関で待ってるから、準備していらっしゃいね」と告げて志乃は昌宏を連れて部屋を出ていった。
ミトは胸のドキドキが止まらない。
「わーわー、波琉どうしよう。スーパーだって。私初めて行く。なに着ていけばいいんだろ」
ずっと小さな村の中から一歩たりとも出たことのないミトだ。
当然村にはなかったスーパーなんて場所に足を踏み入れたことはない。
テレビで流れていただけの情報しかなく、テレビの中はミトにはいつも輝いて見えていた。
そんな場所に行けるとあって、ミトは高揚感を抑えきれない。
すかさずミトは自室に行くと、部屋にある衣装箪笥を開いた。
そこにはこれまでミトが使っていたものだけでなく、波琉が用意させた、村で暮らしていたミトには少々お洒落すぎる洋服も混じっている。
こんなお洒落な服をいつ着るのかと思っていたが、今こそがその時だとミトは中でも一番かわいらしいワンピースを手に取った。
気分はどこぞの高級ラストランでフルコースでも食べに行くような気分だ。
素早く着替えて波琉に見せに行く。
「どう? おかしなところない?」
「ミトはなにを着てもかわいいよ」
にっこりと微笑む波琉の言葉は参考になるようでなっていない。
「波琉はその格好で行くの?」
波琉はいつも屋敷内でいる時と変わらぬ和服姿で、外出とあってか、そこに一枚薄い羽織を羽織っている。
もちろん波琉にはとっても似合っている。むしろ和服だからこそ波琉の神々しさが増しているように思えるが、その服装でスーパーに行っては目立つのではないだろうか。
そう思っていると、部屋に蒼真がやって来た。
「紫紺様、お出かけとお聞きしましたが本当でしょうか?」
「そうだよ」
「まじで言ってます?」
「うん。なにか問題?」
蒼真はなんとも言えない複雑な表情でため息をついた。
「この十六年、我々がなにを言おうと興味を示さずに屋敷内に引き籠もっていた方が、突然スーパーに行くと聞かされれば誰もが俺と同じ反応をしますよ」
「だって、ミトが行くって言うからさ」
すると、蒼真の視線がミトに向かう。
「お前どこに行く気だ」
「どこってスーパーです」
「その格好でか?」
「変ですか?」
蒼真は静かにうなづいた。
「えー」
「ちょっとスーパーに買い物に行くだけだろう。高級料亭に行くわけじゃないんだから普通の服にしとけ」
「だって、初めてのスーパーなんですよ! ちゃんとおめかしして行かないと」
「スーパーはおめかしして行くとこじゃねえよ。にしても、初めてってまじか。まあ、あの村にいたならそうだよなぁ」
蒼真は舌打ちして波琉に視線を向ける。
「あいつら少ししめといた方がよかったですかね?」
「気持ちは分かるけど、やりすぎると尚之がうるさいからねぇ」
「紫紺様ならじじいに気づかれずにできるでしょう?」
「まあ、それはまたの機会にね」
くっくっくっと、あくどい笑みを浮かべる蒼真と、ほわほわとした笑みを浮かべる波琉の対比が激しい。
浮かべている笑みから受ける印象は真逆なのに、どちらも背筋が寒くなるのはなぜだろうか。
これ以上この話を続けさせるのはまずいと、ミトの勘が告げている。
「は、波琉、そんなことより早くスーパー行こうよ」
「うん、そうだね」
にっこりと笑みを向けてくるその顔からは、先ほどまでのえもしれぬ怖ろしさは感じなかった。
「ということで、僕もスーパーに行くから。いいよね?」
「お心のままに」
蒼真はその場で座礼すると、玄関に向かうミトと波琉の後ろからつき従った。
「蒼真さんも一緒に行くんですか?」
「龍神様が出かけるのに、神薙が屋敷でのんびりしていられるわけないだろ」
「そういうものですか」
「お前にもそのうち分かる」
蒼真は波琉には礼儀正しいが、ミトには気安い態度でいる。
本当ならば、波琉が伴侶として認めた時点で、ミトもまた神薙である蒼真が仕える存在となった。
言葉遣いにも気をつけるべきなのだが、言葉遣いの荒い蒼真を最初に知ってしまっているからか、蒼真から『ミト様』と呼ばれた時、全身を鳥肌が襲ったのである。
丁寧な言葉をかけられるも、あまりにも蒼真に似合わなさすぎて、普段通りにしてくれとミトが懇願したのだ。
波琉も言葉の使い方ぐらいでぎゃあぎゃあ騒ぐ性格ではなかったため、蒼真はミトとミト家族には普段通りの態度でいるようになった。
ちなみに蒼真の祖父である尚之は、波琉同様、丁寧にミト家族へ接してくれている。
臨機応変な蒼真とは違い、紫紺様の伴侶に無礼な態度ではいられないと、頑なに首を縦には振らなかった。
それ以上は逆に我儘になってしまうと、尚之も蒼真にも好きなようにしてくれと落ち着いた。
玄関へ行くと、黒スーツにサングラスという裏社会で生きていそうな強面な男性三人に、志乃と昌宏がぺこぺこと頭を下げていた。
それを見たミトは両親になにがあったのかと顔色を悪くする。
「お父さん! お母さん!」
「あら、ミト。やっと来たのね」
ミトの心配をよそに、志乃はけろりとした表情で、いつもと同じ笑みを浮かべている。
これに面食らったのはミトである。
「えっと……、その人たちは?」
見るからに怪しげな男性たちにチラチラと視線を向けるミトに、志乃は朗らかに笑う。
「この方たちがね、スーパーまで車で送ってくれるんですって。その上荷物持ちまでしてくれるっておっしゃるからお礼を言っていたのよ」
「あ、そう……なんだ……」
ミトは自分の早とちりを知った。
てっきり強面の男性たちにカツアゲにでもあっているのかと思ったが、よくよく考えればここは紫紺の王が住む屋敷。
そんな神のおわす場所で、神の伴侶の身内に危害を加えるはずがないのだ。
「こいつらは護衛兼荷物持ちだ。紫紺様が出かけるのに誰もつけないわけにはいかないだろ。それにお前たち家族も龍花の町になれてないしな」
そう言った蒼真は、強面の男性のひとりに問いかける。
「頼んでたものはできたか?」
「はい。こちらです」
蒼真は男性からカードのようなものを受け取った。
そして、それをそのままミトと昌宏と志乃に配る。
不思議に思いながら確認すると、それのカードには身分証と書かれていた。
それぞれに、いつの間に撮ったのか、顔写真が載っている。
「それは龍花の町で暮らすに当たって絶対必要になってくる身分証だ。なくすなよ」
「はーい」
ミトは身分証から目を離さないまま素直に返事をしたが、両親のカードとの違いに気づく。
「蒼真さん。私のと、お父さんお母さんのとでカードの色が違うんですけど、意味があるんですか?」
ミトのカードは金色で、両親のカードは黒色だった。
「ああ。金色は花印を持ってる奴、黒色はその身内。ちなみに神薙は青色だ。色でどういう立場の人間か見分けられるようになってる」
分かりやすく違いを説明するために、蒼真は自分の身分証も見せてくれた。
「波琉は?」
「龍神様に身分証なんかいるわけないだろ。その存在自体が身分証みたいなもんだ」
「それもそっか」
銀色の髪と紫紺の瞳と、見とれるほどの美しい容姿は、どこからどう見ても人間には見えない。
そして蒼真は、ミトの顔写真の横にある赤い花のマークを指さす。
「その花のマークが龍神の伴侶と認められた者につけられるものだ。まだ龍神が迎えに来ていなかったり、拒否された花印の奴にはそのマークはつかない」
「へぇ」
「この町は特殊だ。龍神のために作られた龍神をもてなすための町。だからこそ、龍神の伴侶に選ばれたどうかは、この町でのお前の扱いに大きな影響を及ぼすことになる」
蒼真があまりにも真剣な顔で説明するものだから、ミトの顔も強張る。
「なにか悪いことがあるんですか?」
「よくも悪くも、この町は龍神を中心に回ってるってことだ。暮らしていたら自然と身に染みてくる。まあ、紫紺様に選ばれて、これまでの境遇より悪い状況にはならんだろうから、そこは安心しといて大丈夫だろう」
蒼真は安心させるようにポンポンとミトの頭を軽く叩く。
村での扱い以上悪くならないなら問題はない。
「じゃあ、車に乗って行くぞ」
八人乗りのミニバンの助手席には蒼真が乗り、運転席には強面の男性のうちの一人が座る。
ミトたちは後部座席に乗り込む。
ミトたちが乗った車の後ろからは別の車で、強面の残りの男性が乗ってついてきている。
向かうのは龍花の町の中心部。そこよりやや西寄りの商業施設が集まる地区だ。
そこはスーパーだけでなく、飲食店や生活用品など、買い物をする店が多くある。
主に西側に、人々が住む居住区があるため、そういう立地になっているようだ。
龍花の町の人口はおよそ二万人弱。
それが多いのか少ないのか分からないが、小さな村しか知らないミトは大都会に来たかのような気持ちだ。
「おお~、人があんなにたくさん歩いてる!」
「これで騒いでたら疲れるぞ。午後になるともっと人が増えるんだから」
大興奮のミトをバックミラーで確認しながら窘める蒼真の言葉に、ミトは驚く。
「もっと!?」
「午後になれば学校を終えたガキどもが、寄り道したり遊ぶために集まってくるからな」
「ふわぁ、すごい……」
ミトは別の世界に来たかのように驚きと同時に感心する。
「スーパーまでもう少しだから大人しくしてろ」
「はーい」
座席に深く座り直し隣を見ると、波琉が微笑ましげに見ていたので、ミトは少し恥ずかしくなった。
話を変えるように志乃に声をかける。
「お母さん、もう家の方は大丈夫なの?」
「ええ、もうすっかり綺麗になって、電気、ガス、水道も通してもらったわ。そして念願のネットもつながったわよ」
それはミトにとってなんとも嬉しい報告だ。
これまで村長によりミトはネットといったものを使えなかった。
情報はテレビや雑誌から。
ネットを自由に使えると思うだけで心が浮き足立つ。しかし……。
「まだ三日しか経ってないのに、もう生活できるようになったんだね」
「ほんとすごいわよねぇ。お母さんもびっくりよ。いろんな方々が尽力してくださったおかげね」
両親が暮らしているのは屋敷の建物ではなく、波琉が村から家そのものである。
家ごと持ってくるとはさすがの蒼真も思わなかったのか、庭にドーンと現れた一軒家に頬を引きつらせていたものだ。
しかし、それからの行動は早かった。
庭に持ってきた実家に電気、水道などをつなげるために業者を手配し、たったの三日という短期間で人が住めるに不便のないように整えてしまったのだ。
蒼真がすごいのか、龍花の町の職人がすごいのかはミトには判断がつかないが、両親がすぐそばで不自由なく暮らせるならこれ以上の喜びはない。
さらに波琉は、村長の家で飼っていた、黒猫の黒と白い犬のシロまで連れてきてしまっていた。
本人たちの強い希望で一緒についてきたらしい。
動物の言葉が分かるミトは、二匹に話を聞いたが、元飼い主である村長たちへの未練など一切なく、クロは屋敷の縁側で昼寝をし、シロは迷子になりそうな広い庭を我が物顔で走り回っている。
未練どころか開放感すら感じされられる。
おそらく二匹の頭の中では、元飼い主たちへのことなど隅に追いやられているに違いない。
ミトとしては、二匹がそれで幸せだというなら問題ないので、村長たちの所へ帰れと言うつもりもなかった。
知らぬ土地で仲のよい友人たちがいるのは、むしろ大歓迎だ。
そうこうしていると、車はスーパーの駐車場に停まった。
両親に続いてミトと波琉が降りると、他の買い物客の視線が波琉に集まるのが分かる。
ヒソヒソとなにかを話しているようだが、ミトの所まで声は届かない。
村で嫌な視線にさらされ続けたからだろうか。
向けられる視線は、これまでミトが向けられていたような嫌悪感を含んだものではないとすぐに気づく。
どちらかというと畏怖といった方が正しいかもしれない。
スーパーの入り口には、それなりの人数の買い物客が集まっていたが、波琉に先を譲るように道ができるのを、ミトと両親は困惑した表情で見ていた。
しかし、蒼真や強面の男性たちは当然といった顔で、堂々と客たちのど真ん中を歩いて行く。
男性たちはきょろきょろ周囲を見渡したかと思うと、蒼真に向かってうなづき、それに蒼真も答える。
「紫紺様、問題なさそうです」
「じゃあ、買い物しようか。……けど、どうするの? これはなに?」
店内の手前にあるカートとカゴを見て首をかしげる波琉に、ミトがカートを手にする。
「このカートにこっちのカゴを乗せて押していくのよ。それで、カゴに欲しい物を入れていくの」
得意げに説明するミトに、志乃が慌てて別のカートを持ってくる。
「ミト、そっちは小さな子供が乗れるようになっているお子さん連れの方用のものだから、私たちが使うのはこっちのカートよ」
「えっ、そうなの?」
すると、隣で笑いを押し殺したような声が聞こえ、見ると波琉が必死って笑うのを我慢していた。
蒼真も顔を逸らして肩を震わせている。
「スーパー初めてなのに知ったかぶって無理するから」
「だ、だって……」
蒼真の指摘にミトは恥ずかしさが込みあげてきて、顔を真っ赤にした。
「波琉も蒼真さんも笑いすぎ!」
「ごめんね、ミトがあんまりにもかわいいから」
波琉はそう言って優しく抱きしめてくるものだから、別の意味でミトは顔を赤くする。
「はいはい。イチャつくのは後にしてさっさと買い物をしましょう。ここでじっとしていたら他の客の邪魔になりますから」
パンパンと手を鳴らす蒼真にうながされて、まだ一歩も店内に入っていないことを思い出す。
「ほら、ミト。行くわよ」
「あっ、待ってお母さん! 私がカート押したい」
志乃から奪い取るようにカートを手に持ち、その後を波琉がニコニコとした表情でついてくる。
「うわぁ、食べ物がいっぱいある」
スーパーなのだから当然のことでも、ミトはそんな当たり前の光景すら見たことがなかった。
しかし、驚いているのは以外にも、ミトの両親もであった。
「あらあら、こんなにたくさん品揃えがあるなんて、やっぱり田舎の小さなスーパーとはわけが違うわね」
「確かにな。見たことない食材や商品がたくさんあるぞ」
と、ミトに負けず劣らず目を輝かせている両親は、目についたものを次から次へと入れていく。
「これは志乃の手料理が楽しみだな」
「任せてちょうだい」
両親の会話を、ミトは羨ましそうに見ていた。
屋敷での食事は、来てからずっと屋敷で準備してくれていたが、これからもご厄介になるわけにはいかないと、家がちゃんと手入れされたのを機に、両親たちは自分たちで用意することに進言した。
その中には当然自分も含まれていると思っていたミトだったが、ミトは屋敷の者が用意した食事を、屋敷で食べなければならないという。
自分ひとりだけ仲間はずれにされたのだ。
そこには、あまりミトを離れたところにやりたくないという波琉の願いが反映された結果だった。
離れるもなにも、両親の住む家は窓を開ければ見える場所にあるというのに。
龍花の町という特殊な場所だからだろうか。屋敷の決定権はすべて波琉にあり、ミトでも覆せなかった。
それならば波琉も一緒に食事を取ればいいのだが、波琉はあまり食に興味がないらしい。
龍神は人間のように食べなくても問題はなく、あくまで嗜好品という扱い。
龍神にもいろいろな者がおり、食に大変興味がある者もいれば、波琉のように興味のない者もいるという。
だったらなおさら家族と一緒に食事を取りたい。
神薙はあくまで使用人のような扱いなので、主人と一緒に食事をすることはないらしく、屋敷で食事をすることになれば、ミトひとりで食事をすることになる。
そんな寂しい食事の時間を過ごしたくはなかった。
ミトは波琉の袖をちょんちょんと引っ張る。
「ミト、どうしたの?」
「やっぱり食事はお父さんとお母さんと一緒がいい」
これまでもずっとそうしてきたのだから……。
途端に困ったように眉を下げる波琉に、なんだか悪いことをしている気持ちになったが、ここで負けると後で後悔するとミトも負けじと見つめる。
「うーん……」
「波琉も一緒に来ればいいじゃない。だって目と鼻の先に家があるんだし」
「僕は食事を取らないから」
「取ったらいいじゃない。美味しいよ?」
答えに迷っている波琉の様子からは、食事をする気がないということが伝わってくる。
そこへ一石を投じたのは志乃だった。
「波琉君はあんまり食事が好きじゃないのね」
「好きじゃないというか、興味がないかな。龍神である僕がわざわざ食事をする必要性も感じないし」
「でも、ミトの作った食事なら食べてみたくはない? うちの人も、私が作る愛妻弁当はどこの料理にも負けないぐらい美味しいって言ってくれるのよ」
「愛妻弁当?」
波琉には聞き慣れなかったその言葉。
「愛する妻が愛する旦那様のために作る愛情たっぷりの料理よ」
「愛する旦那様に……」
なにやら志乃が口にしたワードが波琉のなにかを大きく動かしたようだ。
波琉はミトの顔を見てにっこりと微笑んだ。
「ミト、僕に作ってくれる?」
「いいけど、屋敷だと屋敷の人が調理してくれるから、お母さんたちの家で一緒に食べる時でないと」
「じゃあ、分かった。屋敷じゃなくて家でご飯食べていいよ。けど、僕も連れていってね」
「も、もちろん!」
いかにして波琉を説得しようかと悩んでいた問題があっさりと解決してしまった。
ぴょんと飛びつくように波琉の腕に抱きつけば、その後ろで志乃がぐっと親指を立てていた。
ミト以上に波琉の扱いを心得ているかもしれない。
そして、今日の夕食にと、たくさんの商品をカゴに入れていき、満杯になったところでお菓子コーナーがミトの目に入った。
引き寄せられるように近付けば、見たこともないたくさんの種類のお菓子が並んでいる。
「はう!」
ここは天国か?と錯覚するほど、ミトの心臓は打ち抜かれた。
スーパーに来たことのないミトは、当然だが知っているお菓子の種類もたかがしれている。
たまに志乃が買ってくるポテトチップスや、チョコレートなどいうお菓子をもらうだけで、自分で選んだことはない。
テレビのCMで見て食べたいと志乃に要望を出したこともあるが、村近くのスーパーでは新商品が置いてあるほど品揃えが豊富ではなかった。
けれど、ここはより取り見取り。
ポテトチップスひとつにしても、カゴに入りきらない種類と味があることを初めて知った。
ひとつ、またひとつと小さな子供のように目をキラキラさせて商品を手にしていくと、あっという間に両手で抱え込んでもこぼれ落ちそうなほどの量を手にしていた。
「お母さん、これも買って!」
「あらあら。たくさん持ってきたわねぇ」
志乃は困ったような顔をしつつも、大量の商品を戻してこいとは言わなかった。
ミトの初めての買い物である。
それぐらいは許してあげようという優しさなのだろう。
バサバサとカゴに入れたら、山盛りになってしまったが、ミトは大満足だった。
後は会計をして帰るだけだとレジに並んでいたところで大問題が発覚する。
「お母さん、お金足りる?」
「全然考えてなかったわ」
志乃は財布の中身を確認してから昌宏に視線を向ける。
「あなた、余計めに持ってきてる?」
「えっ、俺もそんなに持ってきてないぞ。志乃が用意してきてると思ってたし」
「こんなに買う予定じゃなかったんですもの」
志乃は困ったように眉を下げる。
「お金が足りなかったら、ミトのお菓子を返さないと駄目ね」
「えぇっ!」
ガーンと、ひどくショックを受けた顔をするミト。
しかし、お金がないものは仕方がない。
両親は村で共働きだったとは言え、村での細々とした仕事では、大きな稼ぎは得られなかった。
さらには同じ仕事量をしていても、自分たちだけ給料を減らされていたりといった嫌がらせも受けていたのである。
そんな理由も重なって、ミト一家は贅沢できるほどの蓄えがない。
「蒼真さん、私も十六歳だし、この町でならバイトできるでしょうか?」
これまではバイトなんて考えることすら許されなかった環境だが、一族から解放された今なら両親のために自分も働き手のひとりとなれるのではないかと期待する。
金がないなら稼げばいい。かなり切実な問題だった。
そんなことを思ったが、蒼真からは「アホか!」という鋭いツッコミが返ってきた。
「紫紺様の伴侶を雇ってくれるとこがあるわけねぇだろ」
「どうしてですか?」
「扱いを間違えたら神の怒りを買うかもしれない爆弾を誰が好んで持ちたがる?」
爆弾とは言い得て妙だ。
波琉を見ていれば分かるが、ミトをとても大事にしている。
そんなミトに労働のためとはいえ注意しようものなら、逆に波琉が威圧しにやって来かねない。
働き先としてはとんでもなく扱いづらい従業員となるだろう。
龍神のために存在するこの町で龍神に睨まれたら生活などできなくなってしまう。
ある意味ミトは危険物と同じ慎重な扱いが必要になってくる。
「えー、じゃあどうやってお金稼げばいいんですか?」
「お前は稼ぐ必要はない。ちょっと来い」
ミトを引っ張ってレジの前に立たせる。
すでに商品はレジに通されており、合計金額がうなぎ登りであがっていく。
両親の顔色が優れないのを見るに、お金が足りないのだろう。
お菓子は諦めねばならないかとがっくりとするミトに、蒼真がうながす。
「さっき渡した身分証は持ってるか?」
「はい」
ポケットに入れていた金色のカードを取り出す。
「それを店員に渡せ」
合計金額が出たレジは、とても三人家族とは思えない値段を出している。
そんな中で身分証がなんの役に立つのかと疑問に思いながらレジをしていた店員にミトの身分証を渡すと、そのカードをレジに通した。
すると、モニターに出ていた金額が0になったのである。
「へっ?」
素っ頓狂な声をあげるミトには状況が理解できていない。
「ほら、後がつっかえてるから荷物を台に移動させろ」
護衛としてついてきた強面の男性たちが、三つ分にもなるカゴを台に移動させてエコバッグに荷物を詰めていく。
それを手伝うことも忘れて、ミトと両親は蒼真に説明を求めた。
「蒼真さん、どういうこと?」
「これが花印を持った奴に与えられる特権のひとつだ」
ミトは首をかしげる。
「花印がある奴が持つ金色のカードを出せば、スーパーはもちろん、ほとんどの店を無料で利用できる」
ぎょっとするのはミトだけではなく両親もである。
「それってつまり、どれだけ買ってもお金はいらないってこと?」
「そうだ。けど、これは花印を持ってる奴だけだぞ。身内が持つ黒い身分証は半額だから半分は支払わないと駄目だ」
「いや、それでも半額なの!?」
驚くべき待遇だ。
「何度も言うが、それだけ龍花の町は龍神方を重要視してるってことだ。花印を持ってる奴と関係者は、その恩恵のおこぼれに預かってるだけだ」
「おこぼれってレベルじゃないと思うんだけど……」
途端に自分の持っている金色のカードが恐ろしくなった。
例えるなら、まるで大金を現金で持っているかのような怖さである。
「だから絶対になくすなよ」
ミトと両親は勢いよく首を縦に振る。
そうこうしている間に、強面の男性たちにより荷物が詰め終わっていた。
スーツにサングラスの男たちが、両手に食材の入ったエコバッグを持っている姿はなんとも違和感がある。
ミトも持とうとしたが頑なに拒否され、そのまま屋敷へと戻ってきた。
さすがに家の冷蔵庫に詰めるのはミトと志乃が行ったが、この一日の買い物で冷蔵庫と冷凍庫の中はぎゅうぎゅう詰めになってしまった。
「これはしばらく買い物に行かなくてもよさそうね」
「えー、明日も行きたい」
不満顔のミトは、スーパーでの買い物がかなり楽しかったのだろう。
しかし、冷蔵庫はすでに悲鳴をあげているのでしばらくはお預けだ。
その夜、久しぶりに我が家で食事を取った。
ミトの隣には波琉の姿があり、食への興味がないと言っていたのが嘘のように、興味津々におかずを箸で突いていた。
「ミト、これなに? 腐ってるの?」
「納豆だよ。発酵食品だから体にいいのよ」
意を決したように食べた波琉にミトは楽しそうに問う。
「美味しい?」
「うーん、微妙……」
波琉は天界でも食事をすることなどほとんどなく、人間界の食事情も知らないようで、ミトにとっては当たり前の食べ物にも初めての初めての反応を見せていたので、ミトはそれが楽しくて仕方がない。
「波琉、梅干し食べる?」
「美味しいの?」
「うん、すごく美味しいよ」
梅干しを丸々一個口に放り込んだ波琉は、直後顔を手で覆って体を震わせた。
その様子がおかしく、ミトは大笑い。
「あはははっ」
その日の食卓はなんとも賑やかで幸せな空気に満ちていた。
「ミト~。入っていいかしら?」
「うん、どうぞ」
すっと襖を開けて入ってきた志乃は、仲よさそうにくっついているミトと波琉を見て微笑ましげに相好を崩す。
しかし、その後ろから顔を見せた父親の昌宏はじとっとした眼差しをしていた。
「少しくっつきすぎじゃないか?」
「恋人同士なんだからあんなものでしょ」
「いや、しかしだな……」
なおも不満そうな昌宏の横腹に肘鉄を叩き込み、志乃は本題に入る。
「ミト、これから私たちスーパーに行ってこようと思ってるんだけど、ミトも行く?」
「スーパー……」
ぱあっと表情を明るくしたミトは目を輝かせながら即答した。
「行く!」
「ふふふ。そう言うと思ったわ」
期待通りの答えに笑みを浮かべる志乃は、隣にいる波琉にも視線を向ける。
「波琉君も一緒に行く?」
「ミトが行くなら行こうかな」
少し考えた末に出した波琉の答えに対し、ミトには聞こえないほどの大きさで「来なくてもいいのに」とふて腐れたようにつぶやいた昌宏に、志乃が再び肘鉄を食らわせる。
「ぐっ……」
痛みに悶える昌宏を無視して、「私たちは玄関で待ってるから、準備していらっしゃいね」と告げて志乃は昌宏を連れて部屋を出ていった。
ミトは胸のドキドキが止まらない。
「わーわー、波琉どうしよう。スーパーだって。私初めて行く。なに着ていけばいいんだろ」
ずっと小さな村の中から一歩たりとも出たことのないミトだ。
当然村にはなかったスーパーなんて場所に足を踏み入れたことはない。
テレビで流れていただけの情報しかなく、テレビの中はミトにはいつも輝いて見えていた。
そんな場所に行けるとあって、ミトは高揚感を抑えきれない。
すかさずミトは自室に行くと、部屋にある衣装箪笥を開いた。
そこにはこれまでミトが使っていたものだけでなく、波琉が用意させた、村で暮らしていたミトには少々お洒落すぎる洋服も混じっている。
こんなお洒落な服をいつ着るのかと思っていたが、今こそがその時だとミトは中でも一番かわいらしいワンピースを手に取った。
気分はどこぞの高級ラストランでフルコースでも食べに行くような気分だ。
素早く着替えて波琉に見せに行く。
「どう? おかしなところない?」
「ミトはなにを着てもかわいいよ」
にっこりと微笑む波琉の言葉は参考になるようでなっていない。
「波琉はその格好で行くの?」
波琉はいつも屋敷内でいる時と変わらぬ和服姿で、外出とあってか、そこに一枚薄い羽織を羽織っている。
もちろん波琉にはとっても似合っている。むしろ和服だからこそ波琉の神々しさが増しているように思えるが、その服装でスーパーに行っては目立つのではないだろうか。
そう思っていると、部屋に蒼真がやって来た。
「紫紺様、お出かけとお聞きしましたが本当でしょうか?」
「そうだよ」
「まじで言ってます?」
「うん。なにか問題?」
蒼真はなんとも言えない複雑な表情でため息をついた。
「この十六年、我々がなにを言おうと興味を示さずに屋敷内に引き籠もっていた方が、突然スーパーに行くと聞かされれば誰もが俺と同じ反応をしますよ」
「だって、ミトが行くって言うからさ」
すると、蒼真の視線がミトに向かう。
「お前どこに行く気だ」
「どこってスーパーです」
「その格好でか?」
「変ですか?」
蒼真は静かにうなづいた。
「えー」
「ちょっとスーパーに買い物に行くだけだろう。高級料亭に行くわけじゃないんだから普通の服にしとけ」
「だって、初めてのスーパーなんですよ! ちゃんとおめかしして行かないと」
「スーパーはおめかしして行くとこじゃねえよ。にしても、初めてってまじか。まあ、あの村にいたならそうだよなぁ」
蒼真は舌打ちして波琉に視線を向ける。
「あいつら少ししめといた方がよかったですかね?」
「気持ちは分かるけど、やりすぎると尚之がうるさいからねぇ」
「紫紺様ならじじいに気づかれずにできるでしょう?」
「まあ、それはまたの機会にね」
くっくっくっと、あくどい笑みを浮かべる蒼真と、ほわほわとした笑みを浮かべる波琉の対比が激しい。
浮かべている笑みから受ける印象は真逆なのに、どちらも背筋が寒くなるのはなぜだろうか。
これ以上この話を続けさせるのはまずいと、ミトの勘が告げている。
「は、波琉、そんなことより早くスーパー行こうよ」
「うん、そうだね」
にっこりと笑みを向けてくるその顔からは、先ほどまでのえもしれぬ怖ろしさは感じなかった。
「ということで、僕もスーパーに行くから。いいよね?」
「お心のままに」
蒼真はその場で座礼すると、玄関に向かうミトと波琉の後ろからつき従った。
「蒼真さんも一緒に行くんですか?」
「龍神様が出かけるのに、神薙が屋敷でのんびりしていられるわけないだろ」
「そういうものですか」
「お前にもそのうち分かる」
蒼真は波琉には礼儀正しいが、ミトには気安い態度でいる。
本当ならば、波琉が伴侶として認めた時点で、ミトもまた神薙である蒼真が仕える存在となった。
言葉遣いにも気をつけるべきなのだが、言葉遣いの荒い蒼真を最初に知ってしまっているからか、蒼真から『ミト様』と呼ばれた時、全身を鳥肌が襲ったのである。
丁寧な言葉をかけられるも、あまりにも蒼真に似合わなさすぎて、普段通りにしてくれとミトが懇願したのだ。
波琉も言葉の使い方ぐらいでぎゃあぎゃあ騒ぐ性格ではなかったため、蒼真はミトとミト家族には普段通りの態度でいるようになった。
ちなみに蒼真の祖父である尚之は、波琉同様、丁寧にミト家族へ接してくれている。
臨機応変な蒼真とは違い、紫紺様の伴侶に無礼な態度ではいられないと、頑なに首を縦には振らなかった。
それ以上は逆に我儘になってしまうと、尚之も蒼真にも好きなようにしてくれと落ち着いた。
玄関へ行くと、黒スーツにサングラスという裏社会で生きていそうな強面な男性三人に、志乃と昌宏がぺこぺこと頭を下げていた。
それを見たミトは両親になにがあったのかと顔色を悪くする。
「お父さん! お母さん!」
「あら、ミト。やっと来たのね」
ミトの心配をよそに、志乃はけろりとした表情で、いつもと同じ笑みを浮かべている。
これに面食らったのはミトである。
「えっと……、その人たちは?」
見るからに怪しげな男性たちにチラチラと視線を向けるミトに、志乃は朗らかに笑う。
「この方たちがね、スーパーまで車で送ってくれるんですって。その上荷物持ちまでしてくれるっておっしゃるからお礼を言っていたのよ」
「あ、そう……なんだ……」
ミトは自分の早とちりを知った。
てっきり強面の男性たちにカツアゲにでもあっているのかと思ったが、よくよく考えればここは紫紺の王が住む屋敷。
そんな神のおわす場所で、神の伴侶の身内に危害を加えるはずがないのだ。
「こいつらは護衛兼荷物持ちだ。紫紺様が出かけるのに誰もつけないわけにはいかないだろ。それにお前たち家族も龍花の町になれてないしな」
そう言った蒼真は、強面の男性のひとりに問いかける。
「頼んでたものはできたか?」
「はい。こちらです」
蒼真は男性からカードのようなものを受け取った。
そして、それをそのままミトと昌宏と志乃に配る。
不思議に思いながら確認すると、それのカードには身分証と書かれていた。
それぞれに、いつの間に撮ったのか、顔写真が載っている。
「それは龍花の町で暮らすに当たって絶対必要になってくる身分証だ。なくすなよ」
「はーい」
ミトは身分証から目を離さないまま素直に返事をしたが、両親のカードとの違いに気づく。
「蒼真さん。私のと、お父さんお母さんのとでカードの色が違うんですけど、意味があるんですか?」
ミトのカードは金色で、両親のカードは黒色だった。
「ああ。金色は花印を持ってる奴、黒色はその身内。ちなみに神薙は青色だ。色でどういう立場の人間か見分けられるようになってる」
分かりやすく違いを説明するために、蒼真は自分の身分証も見せてくれた。
「波琉は?」
「龍神様に身分証なんかいるわけないだろ。その存在自体が身分証みたいなもんだ」
「それもそっか」
銀色の髪と紫紺の瞳と、見とれるほどの美しい容姿は、どこからどう見ても人間には見えない。
そして蒼真は、ミトの顔写真の横にある赤い花のマークを指さす。
「その花のマークが龍神の伴侶と認められた者につけられるものだ。まだ龍神が迎えに来ていなかったり、拒否された花印の奴にはそのマークはつかない」
「へぇ」
「この町は特殊だ。龍神のために作られた龍神をもてなすための町。だからこそ、龍神の伴侶に選ばれたどうかは、この町でのお前の扱いに大きな影響を及ぼすことになる」
蒼真があまりにも真剣な顔で説明するものだから、ミトの顔も強張る。
「なにか悪いことがあるんですか?」
「よくも悪くも、この町は龍神を中心に回ってるってことだ。暮らしていたら自然と身に染みてくる。まあ、紫紺様に選ばれて、これまでの境遇より悪い状況にはならんだろうから、そこは安心しといて大丈夫だろう」
蒼真は安心させるようにポンポンとミトの頭を軽く叩く。
村での扱い以上悪くならないなら問題はない。
「じゃあ、車に乗って行くぞ」
八人乗りのミニバンの助手席には蒼真が乗り、運転席には強面の男性のうちの一人が座る。
ミトたちは後部座席に乗り込む。
ミトたちが乗った車の後ろからは別の車で、強面の残りの男性が乗ってついてきている。
向かうのは龍花の町の中心部。そこよりやや西寄りの商業施設が集まる地区だ。
そこはスーパーだけでなく、飲食店や生活用品など、買い物をする店が多くある。
主に西側に、人々が住む居住区があるため、そういう立地になっているようだ。
龍花の町の人口はおよそ二万人弱。
それが多いのか少ないのか分からないが、小さな村しか知らないミトは大都会に来たかのような気持ちだ。
「おお~、人があんなにたくさん歩いてる!」
「これで騒いでたら疲れるぞ。午後になるともっと人が増えるんだから」
大興奮のミトをバックミラーで確認しながら窘める蒼真の言葉に、ミトは驚く。
「もっと!?」
「午後になれば学校を終えたガキどもが、寄り道したり遊ぶために集まってくるからな」
「ふわぁ、すごい……」
ミトは別の世界に来たかのように驚きと同時に感心する。
「スーパーまでもう少しだから大人しくしてろ」
「はーい」
座席に深く座り直し隣を見ると、波琉が微笑ましげに見ていたので、ミトは少し恥ずかしくなった。
話を変えるように志乃に声をかける。
「お母さん、もう家の方は大丈夫なの?」
「ええ、もうすっかり綺麗になって、電気、ガス、水道も通してもらったわ。そして念願のネットもつながったわよ」
それはミトにとってなんとも嬉しい報告だ。
これまで村長によりミトはネットといったものを使えなかった。
情報はテレビや雑誌から。
ネットを自由に使えると思うだけで心が浮き足立つ。しかし……。
「まだ三日しか経ってないのに、もう生活できるようになったんだね」
「ほんとすごいわよねぇ。お母さんもびっくりよ。いろんな方々が尽力してくださったおかげね」
両親が暮らしているのは屋敷の建物ではなく、波琉が村から家そのものである。
家ごと持ってくるとはさすがの蒼真も思わなかったのか、庭にドーンと現れた一軒家に頬を引きつらせていたものだ。
しかし、それからの行動は早かった。
庭に持ってきた実家に電気、水道などをつなげるために業者を手配し、たったの三日という短期間で人が住めるに不便のないように整えてしまったのだ。
蒼真がすごいのか、龍花の町の職人がすごいのかはミトには判断がつかないが、両親がすぐそばで不自由なく暮らせるならこれ以上の喜びはない。
さらに波琉は、村長の家で飼っていた、黒猫の黒と白い犬のシロまで連れてきてしまっていた。
本人たちの強い希望で一緒についてきたらしい。
動物の言葉が分かるミトは、二匹に話を聞いたが、元飼い主である村長たちへの未練など一切なく、クロは屋敷の縁側で昼寝をし、シロは迷子になりそうな広い庭を我が物顔で走り回っている。
未練どころか開放感すら感じされられる。
おそらく二匹の頭の中では、元飼い主たちへのことなど隅に追いやられているに違いない。
ミトとしては、二匹がそれで幸せだというなら問題ないので、村長たちの所へ帰れと言うつもりもなかった。
知らぬ土地で仲のよい友人たちがいるのは、むしろ大歓迎だ。
そうこうしていると、車はスーパーの駐車場に停まった。
両親に続いてミトと波琉が降りると、他の買い物客の視線が波琉に集まるのが分かる。
ヒソヒソとなにかを話しているようだが、ミトの所まで声は届かない。
村で嫌な視線にさらされ続けたからだろうか。
向けられる視線は、これまでミトが向けられていたような嫌悪感を含んだものではないとすぐに気づく。
どちらかというと畏怖といった方が正しいかもしれない。
スーパーの入り口には、それなりの人数の買い物客が集まっていたが、波琉に先を譲るように道ができるのを、ミトと両親は困惑した表情で見ていた。
しかし、蒼真や強面の男性たちは当然といった顔で、堂々と客たちのど真ん中を歩いて行く。
男性たちはきょろきょろ周囲を見渡したかと思うと、蒼真に向かってうなづき、それに蒼真も答える。
「紫紺様、問題なさそうです」
「じゃあ、買い物しようか。……けど、どうするの? これはなに?」
店内の手前にあるカートとカゴを見て首をかしげる波琉に、ミトがカートを手にする。
「このカートにこっちのカゴを乗せて押していくのよ。それで、カゴに欲しい物を入れていくの」
得意げに説明するミトに、志乃が慌てて別のカートを持ってくる。
「ミト、そっちは小さな子供が乗れるようになっているお子さん連れの方用のものだから、私たちが使うのはこっちのカートよ」
「えっ、そうなの?」
すると、隣で笑いを押し殺したような声が聞こえ、見ると波琉が必死って笑うのを我慢していた。
蒼真も顔を逸らして肩を震わせている。
「スーパー初めてなのに知ったかぶって無理するから」
「だ、だって……」
蒼真の指摘にミトは恥ずかしさが込みあげてきて、顔を真っ赤にした。
「波琉も蒼真さんも笑いすぎ!」
「ごめんね、ミトがあんまりにもかわいいから」
波琉はそう言って優しく抱きしめてくるものだから、別の意味でミトは顔を赤くする。
「はいはい。イチャつくのは後にしてさっさと買い物をしましょう。ここでじっとしていたら他の客の邪魔になりますから」
パンパンと手を鳴らす蒼真にうながされて、まだ一歩も店内に入っていないことを思い出す。
「ほら、ミト。行くわよ」
「あっ、待ってお母さん! 私がカート押したい」
志乃から奪い取るようにカートを手に持ち、その後を波琉がニコニコとした表情でついてくる。
「うわぁ、食べ物がいっぱいある」
スーパーなのだから当然のことでも、ミトはそんな当たり前の光景すら見たことがなかった。
しかし、驚いているのは以外にも、ミトの両親もであった。
「あらあら、こんなにたくさん品揃えがあるなんて、やっぱり田舎の小さなスーパーとはわけが違うわね」
「確かにな。見たことない食材や商品がたくさんあるぞ」
と、ミトに負けず劣らず目を輝かせている両親は、目についたものを次から次へと入れていく。
「これは志乃の手料理が楽しみだな」
「任せてちょうだい」
両親の会話を、ミトは羨ましそうに見ていた。
屋敷での食事は、来てからずっと屋敷で準備してくれていたが、これからもご厄介になるわけにはいかないと、家がちゃんと手入れされたのを機に、両親たちは自分たちで用意することに進言した。
その中には当然自分も含まれていると思っていたミトだったが、ミトは屋敷の者が用意した食事を、屋敷で食べなければならないという。
自分ひとりだけ仲間はずれにされたのだ。
そこには、あまりミトを離れたところにやりたくないという波琉の願いが反映された結果だった。
離れるもなにも、両親の住む家は窓を開ければ見える場所にあるというのに。
龍花の町という特殊な場所だからだろうか。屋敷の決定権はすべて波琉にあり、ミトでも覆せなかった。
それならば波琉も一緒に食事を取ればいいのだが、波琉はあまり食に興味がないらしい。
龍神は人間のように食べなくても問題はなく、あくまで嗜好品という扱い。
龍神にもいろいろな者がおり、食に大変興味がある者もいれば、波琉のように興味のない者もいるという。
だったらなおさら家族と一緒に食事を取りたい。
神薙はあくまで使用人のような扱いなので、主人と一緒に食事をすることはないらしく、屋敷で食事をすることになれば、ミトひとりで食事をすることになる。
そんな寂しい食事の時間を過ごしたくはなかった。
ミトは波琉の袖をちょんちょんと引っ張る。
「ミト、どうしたの?」
「やっぱり食事はお父さんとお母さんと一緒がいい」
これまでもずっとそうしてきたのだから……。
途端に困ったように眉を下げる波琉に、なんだか悪いことをしている気持ちになったが、ここで負けると後で後悔するとミトも負けじと見つめる。
「うーん……」
「波琉も一緒に来ればいいじゃない。だって目と鼻の先に家があるんだし」
「僕は食事を取らないから」
「取ったらいいじゃない。美味しいよ?」
答えに迷っている波琉の様子からは、食事をする気がないということが伝わってくる。
そこへ一石を投じたのは志乃だった。
「波琉君はあんまり食事が好きじゃないのね」
「好きじゃないというか、興味がないかな。龍神である僕がわざわざ食事をする必要性も感じないし」
「でも、ミトの作った食事なら食べてみたくはない? うちの人も、私が作る愛妻弁当はどこの料理にも負けないぐらい美味しいって言ってくれるのよ」
「愛妻弁当?」
波琉には聞き慣れなかったその言葉。
「愛する妻が愛する旦那様のために作る愛情たっぷりの料理よ」
「愛する旦那様に……」
なにやら志乃が口にしたワードが波琉のなにかを大きく動かしたようだ。
波琉はミトの顔を見てにっこりと微笑んだ。
「ミト、僕に作ってくれる?」
「いいけど、屋敷だと屋敷の人が調理してくれるから、お母さんたちの家で一緒に食べる時でないと」
「じゃあ、分かった。屋敷じゃなくて家でご飯食べていいよ。けど、僕も連れていってね」
「も、もちろん!」
いかにして波琉を説得しようかと悩んでいた問題があっさりと解決してしまった。
ぴょんと飛びつくように波琉の腕に抱きつけば、その後ろで志乃がぐっと親指を立てていた。
ミト以上に波琉の扱いを心得ているかもしれない。
そして、今日の夕食にと、たくさんの商品をカゴに入れていき、満杯になったところでお菓子コーナーがミトの目に入った。
引き寄せられるように近付けば、見たこともないたくさんの種類のお菓子が並んでいる。
「はう!」
ここは天国か?と錯覚するほど、ミトの心臓は打ち抜かれた。
スーパーに来たことのないミトは、当然だが知っているお菓子の種類もたかがしれている。
たまに志乃が買ってくるポテトチップスや、チョコレートなどいうお菓子をもらうだけで、自分で選んだことはない。
テレビのCMで見て食べたいと志乃に要望を出したこともあるが、村近くのスーパーでは新商品が置いてあるほど品揃えが豊富ではなかった。
けれど、ここはより取り見取り。
ポテトチップスひとつにしても、カゴに入りきらない種類と味があることを初めて知った。
ひとつ、またひとつと小さな子供のように目をキラキラさせて商品を手にしていくと、あっという間に両手で抱え込んでもこぼれ落ちそうなほどの量を手にしていた。
「お母さん、これも買って!」
「あらあら。たくさん持ってきたわねぇ」
志乃は困ったような顔をしつつも、大量の商品を戻してこいとは言わなかった。
ミトの初めての買い物である。
それぐらいは許してあげようという優しさなのだろう。
バサバサとカゴに入れたら、山盛りになってしまったが、ミトは大満足だった。
後は会計をして帰るだけだとレジに並んでいたところで大問題が発覚する。
「お母さん、お金足りる?」
「全然考えてなかったわ」
志乃は財布の中身を確認してから昌宏に視線を向ける。
「あなた、余計めに持ってきてる?」
「えっ、俺もそんなに持ってきてないぞ。志乃が用意してきてると思ってたし」
「こんなに買う予定じゃなかったんですもの」
志乃は困ったように眉を下げる。
「お金が足りなかったら、ミトのお菓子を返さないと駄目ね」
「えぇっ!」
ガーンと、ひどくショックを受けた顔をするミト。
しかし、お金がないものは仕方がない。
両親は村で共働きだったとは言え、村での細々とした仕事では、大きな稼ぎは得られなかった。
さらには同じ仕事量をしていても、自分たちだけ給料を減らされていたりといった嫌がらせも受けていたのである。
そんな理由も重なって、ミト一家は贅沢できるほどの蓄えがない。
「蒼真さん、私も十六歳だし、この町でならバイトできるでしょうか?」
これまではバイトなんて考えることすら許されなかった環境だが、一族から解放された今なら両親のために自分も働き手のひとりとなれるのではないかと期待する。
金がないなら稼げばいい。かなり切実な問題だった。
そんなことを思ったが、蒼真からは「アホか!」という鋭いツッコミが返ってきた。
「紫紺様の伴侶を雇ってくれるとこがあるわけねぇだろ」
「どうしてですか?」
「扱いを間違えたら神の怒りを買うかもしれない爆弾を誰が好んで持ちたがる?」
爆弾とは言い得て妙だ。
波琉を見ていれば分かるが、ミトをとても大事にしている。
そんなミトに労働のためとはいえ注意しようものなら、逆に波琉が威圧しにやって来かねない。
働き先としてはとんでもなく扱いづらい従業員となるだろう。
龍神のために存在するこの町で龍神に睨まれたら生活などできなくなってしまう。
ある意味ミトは危険物と同じ慎重な扱いが必要になってくる。
「えー、じゃあどうやってお金稼げばいいんですか?」
「お前は稼ぐ必要はない。ちょっと来い」
ミトを引っ張ってレジの前に立たせる。
すでに商品はレジに通されており、合計金額がうなぎ登りであがっていく。
両親の顔色が優れないのを見るに、お金が足りないのだろう。
お菓子は諦めねばならないかとがっくりとするミトに、蒼真がうながす。
「さっき渡した身分証は持ってるか?」
「はい」
ポケットに入れていた金色のカードを取り出す。
「それを店員に渡せ」
合計金額が出たレジは、とても三人家族とは思えない値段を出している。
そんな中で身分証がなんの役に立つのかと疑問に思いながらレジをしていた店員にミトの身分証を渡すと、そのカードをレジに通した。
すると、モニターに出ていた金額が0になったのである。
「へっ?」
素っ頓狂な声をあげるミトには状況が理解できていない。
「ほら、後がつっかえてるから荷物を台に移動させろ」
護衛としてついてきた強面の男性たちが、三つ分にもなるカゴを台に移動させてエコバッグに荷物を詰めていく。
それを手伝うことも忘れて、ミトと両親は蒼真に説明を求めた。
「蒼真さん、どういうこと?」
「これが花印を持った奴に与えられる特権のひとつだ」
ミトは首をかしげる。
「花印がある奴が持つ金色のカードを出せば、スーパーはもちろん、ほとんどの店を無料で利用できる」
ぎょっとするのはミトだけではなく両親もである。
「それってつまり、どれだけ買ってもお金はいらないってこと?」
「そうだ。けど、これは花印を持ってる奴だけだぞ。身内が持つ黒い身分証は半額だから半分は支払わないと駄目だ」
「いや、それでも半額なの!?」
驚くべき待遇だ。
「何度も言うが、それだけ龍花の町は龍神方を重要視してるってことだ。花印を持ってる奴と関係者は、その恩恵のおこぼれに預かってるだけだ」
「おこぼれってレベルじゃないと思うんだけど……」
途端に自分の持っている金色のカードが恐ろしくなった。
例えるなら、まるで大金を現金で持っているかのような怖さである。
「だから絶対になくすなよ」
ミトと両親は勢いよく首を縦に振る。
そうこうしている間に、強面の男性たちにより荷物が詰め終わっていた。
スーツにサングラスの男たちが、両手に食材の入ったエコバッグを持っている姿はなんとも違和感がある。
ミトも持とうとしたが頑なに拒否され、そのまま屋敷へと戻ってきた。
さすがに家の冷蔵庫に詰めるのはミトと志乃が行ったが、この一日の買い物で冷蔵庫と冷凍庫の中はぎゅうぎゅう詰めになってしまった。
「これはしばらく買い物に行かなくてもよさそうね」
「えー、明日も行きたい」
不満顔のミトは、スーパーでの買い物がかなり楽しかったのだろう。
しかし、冷蔵庫はすでに悲鳴をあげているのでしばらくはお預けだ。
その夜、久しぶりに我が家で食事を取った。
ミトの隣には波琉の姿があり、食への興味がないと言っていたのが嘘のように、興味津々におかずを箸で突いていた。
「ミト、これなに? 腐ってるの?」
「納豆だよ。発酵食品だから体にいいのよ」
意を決したように食べた波琉にミトは楽しそうに問う。
「美味しい?」
「うーん、微妙……」
波琉は天界でも食事をすることなどほとんどなく、人間界の食事情も知らないようで、ミトにとっては当たり前の食べ物にも初めての初めての反応を見せていたので、ミトはそれが楽しくて仕方がない。
「波琉、梅干し食べる?」
「美味しいの?」
「うん、すごく美味しいよ」
梅干しを丸々一個口に放り込んだ波琉は、直後顔を手で覆って体を震わせた。
その様子がおかしく、ミトは大笑い。
「あはははっ」
その日の食卓はなんとも賑やかで幸せな空気に満ちていた。