一章

 ミトを閉じ込めていた、牢獄のような星奈の一族が住む村から両親とともに出て、龍神が天より降りてくる地、龍花の町に移り住んで早三日。
 夢で恋い焦がれた波琉が、まさかの龍神の王、紫紺様と分かった時の衝撃はまだ忘れていない。
 ようやく出会えた波琉に、ミトは未だに信じられない思いだ。
 実はこれは夢だと言われても、ミトは真に受けてしまうだろう。
 それほど波琉がそばにいるという事実はミトを戸惑わせた。
 そんなミトの心情を知ってか知らずか、後ろからミトのお腹に腕を回してピッタリとくっつく波琉の姿が、余計に戸惑わせている原因である。
「ねえ、波琉」
「なに?」
「近くない?」
「なにが?」
 ふたりの距離がだと言わずとも分かるだろうに、波琉は本当に分からないのかきょとんと小首をかしげる。
「いや、まあ、いいんだけど……」
 本当はあまりよくない。
 ミトは波琉に恋しているわけで、それは波琉も同じ想いだと気持ちを確かめ合えて嬉しくて仕方ないのだが、波琉の体温を感じるほどの距離はミトの心臓をうるさくさせる。
 波琉ならばきっとミトが本気で嫌がったなら無理強いすることはないと思う。
 けれど、波琉から逃げたりしないのは、ミト自身が離れがたく感じているからだ。
 ずっと夢の中の妄想と思っていた波琉が、現実に存在していた。
 ミトにとってはなにより嬉しくて、もっとずっとそばにいたいとミトの心が叫んでいた。
 なので、あまりにも近い波琉に心臓が口から出そうなほど緊張していても、大人しくされるがままになっているのだ。
 ミトを後ろから抱きしめながら、波琉は片手でパソコンにDVDを入れて起動させる。
 始まったのは読唇術の講座だった。
「読唇術?」
「そうだよ。夢の中でミトが話している言葉を聞き取るためにね」
 波琉が夢の中で読唇術を使えていたのはこうして勉強していたからかと、納得したミトはふと思う。
「もう必要なくない?」
 なにせミトはここにいて、読唇術などなくとも言葉を交わせるのだから。
 すると、波琉は今気付いたとばかりな表情をする。
「あー、ほんとだね。つい癖でいつも通りにしちゃってたよ」
 のんびりとした話し方をする波琉は時々抜けている。
 そんな些細なことを知れるのもミトは嬉しかった。
 今までではありえなかったこと。
 波琉はDVDを取り出して入れ物に移すと乱雑にポイッと隅に投げる。
「教材は後で蒼真に片付けさせよう」
 神の世話を主な役目としている神薙で、波琉の専属をしている日下部蒼真は、ちょっとヤンキーで言葉遣いが悪い。
 そんな彼は波琉の前では丁寧な話し方をしていて、ミトはかなり違和感を覚えてしまった。
 なにせ蒼真との最初の邂逅では、とてもではないが堅気の人間には見えなかったのだから。
 しかし、口が悪いだけで結構面倒見がいいというのは、龍花の町に来るまでや、波琉の屋敷に住むことが決まってからの細やかな気遣いから見て取れた。
 波琉も頼りにしているようで、なにかと蒼真に言いつけているのを目にしている。
 蒼真ときたら頼み事をされると面倒くさそうにするものの、波琉になにを言われても逆らわないのだ。
 波琉の頼み事が些細なことだからではあるが、神薙とは龍神の無理難題を聞くためにいるようなものだから当然だと断言する。
 どんな難題にも応えられるように、神薙の試験はそれはもう難しいのだとか。
 しかし、それだけの試験を突破した神薙とて人間。波琉は滅多なことでは我儘を言わないので蒼真もやりやすいようだが、他の龍神に仕える神薙には胃薬が欠かせないそうな。
 龍神の勘気に触れると命を落としてもおかしくなく、神薙という役職は命懸けだと蒼真が真剣な顔をして言うので、ミトは頬を引きつらせた。
 そう聞くと、龍神は龍花の町の絶対的な存在なのだと感じさせられる。
 DVDを見ることをやめ、猫のようにミトに頬を擦りつける波琉からは想像ができないが、確かに波琉は人ならざる神なのだ。
「ねえ、ミト。やっぱり寝る部屋は一緒にしない? その方がずっとそばにいられるし」
「無理無理無理」
 波琉の屋敷で暮らすに当たり、ミトには波琉の隣室に私室を与えられたが、当然寝るのも別々だ。今のところは。
 ミトが激しく拒否すると、波琉は不満そうに眉をひそめる。
「どうして?」
「だって波琉が隣で寝てると思っただけで寝られなくなっちゃうもん!」
 日中でさえ波琉の近さに心臓の鼓動が激しいのに、寝る時までそばにいたら心臓が休まらない。
「ミトは僕の伴侶になるんでしょう? 夫婦は同じ部屋で暮らすものじゃないの?」
「世の夫婦皆が皆そうじゃないから」
「そうなの? 僕はその辺りのこと疎いから分からないんだけど」
「えっと、たぶん?」
 聞き返されてミトも曖昧な返しになってしまう。
 ミトの両親である昌宏と志乃が同じ寝室を使っているのは分かっているが、よその家庭の生活状況までは知らない。
 けれど、テレビでは家庭内別居なるものもあるのだと言っていたので間違いではないはず。
「ミトも知らないんじゃない」
「そうだけど、急には無理だよ。ドキドキしすぎて眠れなくなっちゃうから」
 頬をほんのりと赤く染めながら恥じらうミトに、波琉は目を見張る。
「……うん。やっぱり寝る時は別々にしよう」
「ん?」
 どうして急に意見を変えたのかと不思議がるミトの頬を、スリスリと親指で撫でる。
「ミトがかわいすぎて襲っちゃいそうだからね」
 ほわほわとした人畜無害そうな笑顔で、言ってることは身の危険を感じるものだった。
「ミトも困るでしょう?」
 困るなんてものではない。
 心臓がいくつあっても足りなくなってしまう。
 言葉をなくしてるミトを、波琉はかわいいと愛でるように、よしよしと頭を撫でる。
「夢も見なくなったし、ミトと一緒にいたかったけど仕方ないか」
 その言葉にミトははっとする。
 龍花の町に来てからというもの、それまで見ていた波琉の夢をいっさい見なくなってしまったのだ。
「どうして夢を見なくなったの? これまで欠かさず見てたのに」
 別に夢で会えなくとも目を覚ませば波琉にいつでも会えるのだから必要ないと言えばそうなのだが、やはりちょっと残念であるし疑問が残る。
「うーん、推測でしかないんだけど、たぶん天帝のいたずらかな?」
「天帝?」
 前にも幾度か聞いた、よく分からない単語まで飛び出したので、波琉の回答だけでミトが理解するのは難しかった。
「そうだね、どこから話そうか……。まず龍神っていうのは天界という場所で暮らしててね、龍神には龍神をまとめる四人の王がいるんだよ」
「波琉はその王様のひとりなんでしょう?」
 四人の王のことは多少蒼真から教えられたのでミトにも知識があった。
 といっても、ほとんど知らないのと一緒のわずかなものだ。
「そうだよ。紫紺の王である僕の他に、白銀と漆黒と金赤がいるんだけど、金赤は僕と同じで花印を持った者を伴侶に迎えてたんだ」
「星奈の一族を追放した龍神様」
「うん」
 ミトからすると、金赤の王は星奈の一族を追放した神というイメージが強かった。
 それゆえか、少し怖い印象を抱いている。
 しかし、それを否定するかのように、波琉は金赤の王のことを話す。
「伴侶にベタ甘で、見てるこっちが恥ずかしくなるぐらい伴侶のことを溺愛しててね。まあ、僕も今ならその気持ちも分かっちゃうから次に会うのがちょっと気まずいなぁ。ほら見ろとかからかわれちゃいそう」
「波琉の話を聞いてるとあまり怖そうに感じないね」
「龍神の中では僕と一緒で比較的温厚な部類だよ。だから、昔の星奈の一族はなにをして、そんなに金赤を怒らせたのかびっくりするぐらい」
 なぜ星奈の一族が追放されたのかはミトも知りたい問題だ。
 しかし、龍花の町では禁句扱いになっている上、百年も前のこととなると、知っている者が見当たらないのだからしょうがない。
「話が逸れちゃったね。天界はそんな感じで四人の王によってまとめられてるんだけど、王の上には天帝という神様の頂点に立つ存在がいるんだ。龍神を生み出した親であり、眷属として僕たちを治める存在がね」
「もっと偉い神様がいるんだ」
「天帝自ら作り出した眷属である龍神たちは天帝を崇め、手足となって働いているんだ。けれど生み出した龍神には欠陥があってね、感情といった心が弱かったんだ」
「弱い?」
 ミトは理解できずに疑問符を浮かべる。
「そうだな……。たとえば誰かを愛おしいと感じたり、友と笑い合ったり、嬉しかったり悲しかったり、そういう人間には当たり前の感情がほとんどなかったんだ」
 波琉は一拍おいてから苦笑する。
「少し前の僕がそうだった。心がないわけじゃない。けれど、感情が揺さぶられるような激しい気持ちを抱くことができなかった」
「できなかったって、過去形なの?」
「そうだね。過去形だ」
 波琉はとても愛おしげにミトに微笑み、ミトの頬を撫でた。
「ミトが僕のすべてを変えてくれたんだよ。ミトのことを考えるだけで嬉しくなって、かと思えば心配で落ち着かなくなる。星奈の一族相手に怒りのあまり抑制がきかなくなったり。ミトが僕の見える世界を変えてくれたんだよ」
「わ、私はなにもしてない」
「そうかもしれないけど、そうじゃない。ミトの存在が僕に大きな影響を与えてくれるんだ。そして、それこそが天帝の望んだものだったんだろうね」
 ここまで言われてもミトにはまだピンとこない。
「無感情な龍神に心を与えてくれる存在。それが花印を持った人間の伴侶なんだよ。天帝の思惑通り僕はミトを得て激しい感情というものを手にしたけど、きっと普通に出会っていたら僕はミトに興味を抱かないかもしれないと心配したのかもね」
 波琉はおかしそうにクスクスと笑う。
「僕とミトの夢をつなぐことで対処した。そしてミトと出会ってもう夢を介して会う必要はないと思ったんだろう。すべては天帝の気まぐれ。いたずらみたいなものだよ」
「天帝は私に波琉を任せてくれたってことなのかな?」
「かもしれないね」
 そうだったらいいなと、ミトは思う。
 波琉の伴侶として自分は波琉の親とも言える天帝に認められたのだと、胸を張れる気がした。
「天界には人間の伴侶がたくさんいるの?」
「いいや。始まりこそ龍神に感情を与えるためだったけど、天界に連れられてきた伴侶たちの影響か、今はもう僕のように感情の揺れが少ない者はごく少数だ。今の天界にいる龍神たちはなんとも個性的な面子ばかりだよ。特に僕の補佐をしている瑞貴って子がいるんだけどね、同じ龍神の奥さんを愛する愛妻家を自称しているよ」
「龍神同士で結婚するんだ」
「そもそも龍神には人間のように結婚という概念はないんだけど、生涯の伴侶として龍神を選ぶ者は多いよ。逆に人間を選ぶ方が少数だ。なにせ、いつ花印が浮かぶかも分からない上、人間とはやはり価値観が違うからね。花印が浮かんでも人間界に降りずに放置している龍神は少なくないよ」
 花印を持っているからといって必ず龍神の伴侶に選ばれるわけではない。
「なら、波琉はどうして人間界に来たの?」
「うーん、瑞貴にほぼ強制的に天界を追い出された感じだったけど、ちょっと期待してたのかもしれない。金赤のように僕だけの愛する人が欲しいって。おかげで僕はミトを手に入れられた」
 波琉はニコリとミトに微笑んだ。
「腰の重い僕を追い立ててくれた瑞貴には感謝しないといけないね」
「私も瑞貴さんに会ってみたいな」
「いずれ会うことになるよ。ミトが人間の寿命を終えて天界に一緒に行く時になればね」
 波琉は簡単に言ってくれるが、まだ十六歳のミトの寿命が終わるのは、人間にしたら気が遠くなるほど先のこと。
 そこを波琉はあまり理解していないようだ。
 確かに人間と龍神とは大きな価値観の違いがあるらしい。