本日の授業を終えるチャイムが鳴る。
 待ちに待った瞬間にミトの頬は興奮でわずかに紅潮していた。
 ホームルームが終わるや、一番に教室から飛び出す。
 あまりの早さに皐月が難癖をつけてくる隙もない。
 玄関では特別科の生徒を迎えに来た車で列ができていたが、その一番前をミトの迎えの車が陣取っている。
 普段ならば、龍神に選ばれた皐月、ありすの車が格の順に玄関に近い位置に並んでいるはずだった。
 けれど、今日はミトの車が先頭に停まっている。
 理由は言わずもがな。
 現在、龍花の町で誰よりも尊い波琉が、車に乗っているからだ。
 けれど、その前におそらくなにかしらの問題があったのだろう。
 蒼真が車の外で目を光らせて、皐月とありすの車の運転手を威嚇していた。
 運転手はビクビク怯えているので、蒼真がヤンキーのごとく威圧したに違いない。
 運転手にはご愁傷様としか言いようがないが、神が乗っている車に喧嘩を売ったり文句をつければ処罰があってもおかしくないのだ。
 そうこうしていると他の生徒も車の順番の違いに気がついたようで、ヒソヒソと話している。
 なにを話しているかまで分からないが、皐月でもない、ありすでもない車の主は誰だと噂しているのだろう?
 ミトがそんな中で先頭の車に向かうと、多くの視線を感じる。
 注目される真っ只中を歩いてフルスモークの車に乗り込めば、視線は気にならなくなった。
 車の中にはミトが待ち望んでいた波琉がにこりと微笑んで、手を広げ待っている。
「ミト、お疲れ様」
「波琉」
 おいでと言われる前に波琉に飛び込めば、優しく腕に包まれ、ミトはほっとする。
 大きな巨木のようにどっしりとした安心感。
 神聖で、優しく、温かみのある波琉ならではの特別な空気は、誰にも真似できない。
 ミトは波琉でいっぱいにするように大きく息をした。
 香水などはなにもしていないのだが、なにかの花の香のような匂いが、いつもしていた。
 よくよく思い出してみると、それは夢の中に一面に咲いていた花の香りだったような気がする。
 夢を見なくなった今はもう確認しようにもできない。
 けれど、そんなものはどうでもいい。
 こうして夢ではなく、波琉が抱きしめていてくれるのだから。
「今日はミトが喜ぶところをいろいろ行ってみようね」
「どこに行くの?」
「行ってからのお楽しみ。蒼真、よろしくね」
 助手席に座っている蒼真に向かって、波琉はにっこりと笑う。
 どことなく圧を感じるのは気のせいだろうか。
「はいはい。ちゃんと手配は済んでますよ~」
 おざなりな返事をしながら、蒼真はなにやらスマホをずっとさわって文字を打ち込んでいるようだった。
 しばらくすると車が止まり、蒼真が先に出て、後部座席に座るミトがわのドアを開ける。
 その流れるような動作にミトは目をキラキラさせる。
「蒼真さん、執事みたい!」
 今日はいつもの神薙の装束ではなく、スーツを着ているから、なおさらそう感じる。
 燕尾服ならもっとよいのだが。
「神薙は一応執事の教育も受けるんだよ。龍神様方のお世話をするから似たようなものだしな。喜んでないでとっとと下りろ」
 動きは執事だが、口を開くとすべてが台なしなのが残念だ。
 まあ、口調はミトが丁寧にしないでくれと言ったせいなので仕方ない。
「はーい」
 蒼真に手を借りて車を降りると、なんともお洒落なお店の前だった。
 しかしなんの店かは分からないでいると、ミトに続いて車を降りた波琉がミトの手を引く。
「ここが波琉の行きたいお店?」
「うーん、正確にはミトを連れてきたかったお店かな」
 首をかしげつつ店の中に入ると、なんの匂いだろうか。香水のようなとてもいい香りが店中に満ちていた。
「いらっしゃいませ~」
 にこやかにお辞儀する店員の女性は「こちらへどうぞ」と店内にいくつもあった椅子にミトを案内するよ。
 戸惑うミトに波琉はにこりと笑い座らせると、店員はミトの肩周りを覆うようなケープを首に回しつけた。
「えっ、波琉? ここなんのお店?」
 どうしたらいいのかと困惑するミトは、未だになんの店か分からないでいる。
「美容室だよ」
 問いに対する答えを聞くと、途端にミトの目が大きく開き輝き始めた。
「ここが!?」
「ミト、来たいって言ってたでしょ」
 これまでミトの髪は母親である志乃が切っており、一度もお店で切ったことがない。
 切ると言っても志乃にプロのような技術があるはずもなく、長さを合わせる程度でしかなかった。
 それ故、野暮ったさのあるミトの髪。
 テレビで紹介される美容室などを見ながら、ミトは憧れを抱いたものだ。
 志乃に切ってもらうのが嫌というわけではないが、プロに切ってもらいたいと常々思っていたミトが、蒼真から渡されたガイドブックに美容室があるのを発見して目が釘付けとなっていた。
 しかし、波琉に興味があるとは思えず口には出さなかったのに、波琉はミトの小さな仕草に気づいたということか。
 美容室に来られたこともだが、ミトの心に気づいてくれたことがなにより嬉しい。
「デートの前にかわいくしてもらうといいよ。まあ、そうでなくてもミトは十分かわいいんだけどね」
「は、波琉」
 恥ずかしげもなく褒める波琉に、ミトは頬を染める。
 店員がなんとも微笑ましい眼差しを向けてくるのが、余計に気恥ずかしい。
「これからデートなんですね。精一杯頑張らせていただきますよ~。まずは、カタログを見ながらお好みのスタイルを探してみましょうか」
 店員はたくさんのヘアカタログを持ってきてくれた。
 それを見ながら、あれがいいこれがいいと話し込んでいるミトを、少し離れたところから波琉は嬉しそうに見つめていた。
 髪の長さはそれほど変えず、綺麗にまとまるようにカットしてもらい、最後にデートと聞いた店員が、編み込みをしてかわいらしくヘアアレンジをしてくれた。
「かわいい……」
 思わずそんな言葉が口から漏れた。
 全身が映る鏡の前で、右を向き合左を向き、後ろを向いたところでソファーに座って待っていた波琉と視線が合った。
「波琉、どう?」
「さらにかわいくなったよ」
 ミトははにかむように笑う。
 村を出てからそう日は経っていないのに、波琉はたくさんの経験をさせてくれる。
 ミトの心を満たすのは、大きな幸福感と波琉への感謝。
 この気持ちをどう伝えたらいいのだろうか。
 自分は波琉になにも返せないというのに。
 ミトは波琉に近付いて手を握った。
「波琉、私どうしたらいい? すごく幸せなの。髪を切ったぐらいって波琉は思うかもしれないけど、言葉で言い表せないぐらい嬉しくて仕方なくて……。それだけじゃない。スーパーに行けたのも、学校に通えるのも、全部波琉が村から助けてくれたからよ。どうやって波琉にお礼したらいいのか分からない……」
 波琉には手に入らないものなんてないのだろうし、自分ができることはないとミトは落ち込む。
「僕がしたいだけなんだから必要ないけど、もしお礼をしてくれるなら、ミトにはすごく簡単なことがあるよ」
「なに?」
「ずっとそばにいて。僕から離れないで。それがミトにしか与えられない僕の幸せだから」
「波琉……」
 波琉はソファーから立ちあがり、ミトを引き寄せるとおでことおでこをくっつける。
「ミト。感情に疎い僕に命を吹きこんでくれた大切な人……。君が笑っていると僕も嬉しいんだよ。だからたくさんのことをしよう。ミトがこれまでできなかったたくさんのことを、この町で実現しよう」
 軽く触れるキスを額に落とし、波琉は泣きたくなるほど優しい笑顔を浮かべた。
「デートはまだこれからだよ。次に行く場所も決めているんだ。ミトはケーキは好き?」
「好き!」
 ミトは期待に満ちた目をする。
「まさかっ」
 興奮を抑えきれない様子のミトに、波琉はクスクスと笑う。
「カフェの予約蒼真に頼んでおいたから今から行こうね」
「やったー。波琉大好き!」
 喜びを爆発させ波琉に抱きつく。
「僕も大好きだよ。早く行こうか」
「うん」
 店を後にする。カフェは現在地から近いということで、車には乗らず徒歩で向かう。
 腕を組んで歩く姿はデートそのものど。
 まあ、その周囲を蒼真やスーツ姿の男性たちが取り囲んでいるのでふたりきりとは言えないのだが、それでも波琉と出かけられるのは嬉しかった。
 たどり着いたお店はミト好みのかわいらしい内装のカフェで、ショーケースには宝石のように輝く色とりどりのケーキが並んでいた。
「どうしよう。どれも気になる~」
 両頬に手を当ててジタバタするミトを楽しげに見つめる波琉は、店員を呼ぶ。
「とりあえず全部持ってきて」
「えっ」
 ミトは『全部』という言葉にびっくりして目を丸くして固まったが、店員はご機嫌で「かしこまりましたぁ」と店の奥に消えていった。
「波琉、そんなに食べられないよ」
「食べられなきゃ残せばいいよ。蒼真たちもいるしね」
 確かに蒼真や護衛として近くのテーブルに座る護衛の人たちを含んだら、全部食べられなくはなさそうだ。
「とりあえずひと口ずつ食べて、気に入ったのだけ食べればいいよ。他は蒼真たちが食べてくれるから気にしないでいいからね」
 なんという金持ちの食べ方。
 蒼真が隣のテーブルから「紫紺様、俺甘い物嫌いなんですけど」なんて言っていたが、波琉は黙殺した。
「お待たせいたしました~」
 にこやかな顔で両手いっぱいにケーキの乗ったお皿を持ってきてくれた店員が、どんどんテーブルに載せていく。
 それはミトはひと口ずつ食べていき、それらは周囲のテーブルへと回されていく。
 どれも美味しく、ミトが人生で初めて食べたものばかりだ。
 これを自分だけで楽しむのは忍びない。
「波琉、テイクアウトしてもいい? お父さんとお母さんにも食べてもらいたいの」
「それもそうだね。じゃあ、全種類包んでもらおう」
「ふふっ、そんなにたくさん持ち帰ったらびっくりしちゃうね」
「ミトも一緒にまた食べればいいよ」
 嬉しそうにミトは頷いた。
 しかし、波琉が先ほどからひと口も食べていないことに気づく。
「波琉は食べないの?」
「あー、うーん」
 食への興味がほぼないと言っていた波琉だが、最近はミトの家で食事を共にするようになって変わってきた。
「ケーキも美味しいよ?」
「じゃあ、ミトが食べさせて?」
「えぇ」
 波琉はいたずらっ子のような顔で口を開けた。
 ミトの反応を楽しんでいるのが分かる。
 動揺しつつ、波琉にも食べさせたかったミトは、躊躇いがちに波琉の口にケーキをひと口差し入れた。
 もぐもぐと口を動かす波琉をうかがう。
「どう? 美味しい?」
「うん。初めて食べたけど結構美味しいね。ミトが食べさせてくれたからかな」
 なんとも嬉しそうに微笑む波琉に、ミトは言葉をなくしてしまう。
「じゃあ、次はそっちのがいいな」
「えっ、また?」
「ほら、あーん」
 こうして波琉が満足するまで食べさせることになった。
 端から見たらバカップルでしかない。
 あきれを含ませたなんとも言えない顔をしている蒼真の方が見られなかった。
 そうしてデートを終えたわけだが、ミト以上に波琉の機嫌がよくなっていた。