翌朝、学校終わりに波琉とデートできるとあって、朝からご機嫌のミトは、今にも鼻歌でもしそうな様子で波琉の部屋を訪ねた。
 学校へ出かける前の挨拶をするためだ。
「波琉、開けるね」
 中から返事が来る前に襖を開けると、ちょうどスパーン!と小気味よい音を鳴らして波琉が土下座している尚之の頭をハリセンで叩いているところだった。
「えっ?」
 笑顔のまま固まるミトに気づかず、尚之は顔をあげて再度懇願する。
「紫紺様、これでは足りませぬ。私めにはもっときつい一発をお見舞いしてくださいませ!」
 覚悟を決めたように頭を差し出す尚之に向けてハリセンを振りあげた波琉を、ミトが慌てて止める。
「波琉! なにしてるの!? 尚之さんがなにしたか分からないけど、叩いたりしたら駄目だよ! お年寄りは大切にしないとっ」
 ハリセンを持つ波琉の手を掴んで叱るミトに、波琉は困ったように眉を下げる。
「仕方ないんだよ、ミト。僕だって本当はこんなことしたくないけど、これは尚之が望んだことなんだ」
 苦渋に満ちた表情でハリセンを握りしめる波琉は、ミトを引き離してハリセンを両手で持ち直す。
「ミトどいてるんだ。尚之にはこれが必要なんだよ」
「波琉やめて!」
「よいのです、ミト様。これは私が受けねばならぬ試練なのです」
「そんな、尚之さんっ」
 と、そこに蒼真が入ってくる。
「……なに三文芝居やってんだ」
 心底あきれたように「アホか」とツッコむ蒼真に、尚之がくわっと目をむく。
「邪魔するでないわ! 今大事な日課の最中なのだ」
「ミトが勘違いしてるだろうが、くそじじい。ミト、お前はこっち来てろ」
 ちょいちょいと手招きされ、ミトは波琉と尚之を気にしながら蒼真に近寄る。
「紫紺様、とっととやっちゃってください」
「分かったよ……」
 波琉は嫌そうにため息をついてから、尚之の頭目がけてハリセンを振りかぶった。
 スパーン!とこれまた盛大な音を立てると、叩かれた当の尚之はそれはもう嬉しそうに頬を染める。
「んふふふ。ありがとうございます。今日もこれで元気よく過ごせますです」
 尚之は深々と座礼をしてから、スキップをするように部屋を出ていった。
「どゆこと?」
 ミトの中では、なにか失態を犯した尚之が波琉に叱られて、お仕置きでハリセンで叩かれているというものを想像していたのだが、それにしては尚之はすごく嬉しそうにしているではないか。
 交互にふたりの顔を見るミトの前で、波琉と蒼真はそれはもう深いため息をついた。
「さっきのはただのじじいの日課だ」
「ハリセンで叩かれるのが? なんで?」
 蒼真は身内の恥を晒すように、言いづらそうにしながらも口を開いた。
「紫紺様にハリセンで叩かれるとな、死んだ毛根が生き返り、肌つやがよくなって若返ると言われてるんだ」
「なんですか、それ?」
「知らねぇよ。紫紺様いわく、ハリセンと紫紺様の相性がよかったから、神気が漏れて影響が出たんじゃないかってことらしい」
 波琉に視線を向けると、困ったように笑っていた。
「僕にもよく分かってないんだよねぇ。なんでかそんな効果が出ちゃって」
「でだ。そんな効果を偶然にも発見したじじいが、若かりし毛根を取り戻すべく毎日叩いてくれるように紫紺様にお願いしてるってわけだ。紫紺様も人がいいから、じじいの我儘に付き合ってくだっさってるんだよ」
「決して僕が率先して尚之を虐めているわけじゃないからね。そこは勘違いしないでね」
 ミトに誤解されたくない波琉は、必死で言い訳する。
 若返るだなんて、にわかに信じがたい。
 けれど、波琉も蒼真も嘘を言っているようには見えない。
 ミトがまだ疑っているのがその表情で分かったのだろう。蒼真がつけ加える。
「神薙の間じゃあ、かなり有名な話だ。だから、俺を通して紫紺様にハリセンで叩いてくれないかって依頼がすげえ多いんだよ。まったく、毛が生えてきたのを喜んだじじいが本部で他の神薙に自慢したせいだ」
 やれやれという様子の蒼真に、ようやくミトも納得した。
「じゃあ、私も波琉に叩いてもらったら若返る?」
「ミトを叩くなんて絶対にしないよ」
「お前にはまだ必要ねえだろ」
 波琉と蒼真が次々に言い募る。
 確かにまだ十代のミトに若返りの効果も毛生えの効果も必要ないだろう。
 しかし、最近顔のシワを気にしている志乃が聞いたら、迷わず波琉にハリセンを渡すに違いない。
「お前ももしなんか言われたら断っとけよ。きりがないからな」
「分かりました。でも、先生と違って学校の子は、紫紺様が町にいることを確信してなかったみたいですけどね。『いるらしい』みたいな感じだったから」
「あー、まあ、神薙と関わりもある教師と違って、生徒や一般人には詳細な情報は回りづらいからな。紫紺様は屋敷から出ないから実際に見た人間も少ないし、確証のない噂程度でしか広まらないんだろ。けど、お前がいる以上、今後は噂じゃなく確かな事実として周知されるはずだ」
「そっか……」
 苦い顔をするミトに、蒼真は気づく。
「なんか問題か?」
「昨日も言ったじゃないですか。学校で派閥ができてるの。もし私が波琉の相手だって分かったら、巻き込まれないかなって……」
 蒼真もミトの懸念を理解した。
「まあ、まず巻き込まれるだろうな」
「やっぱり……」
 がっくりと肩を落とすミトは、あきらめるしかないかと考える。
「なんかあったら紫紺様に助けを求めればいい」
「それがやなのに……」
 波琉の力をできれば使いたくないミトは、可能な限り避けようと心に誓う。
 そうして、気合いを入れて学校へ着いたミトは、ドキドキしながら教室へと入った。
 すると、入るやいなや、激しい怒声が聞こえてくる。
 よく分からないが、久遠の相手である皐月が、もうひとりの派閥のトップであるありすに向かって怒鳴り続けていた。
 朝っぱらから何事かと目を丸くするミトはその場で立ち尽くしてしまう。
「あんたのせいよ!」
 激しく興奮した皐月を、クラスメイトである男子生徒数人がかりで止めていた。
 女子生徒ではあまりの勢いに負けてしまうからだろう。
 今にも掴みかからんとしている皐月を、男子生徒が必死になって抑えている。
 そんな皐月と向かい合うありすはというと、
「私は知らないと言っているじゃないですか」
 皐月とは反対に、ひどく冷静に返していた。
 皐月はその冷静さが逆に癪にさわるとでも言わんばかりの形相で、飛びかかろうとしていたが、男子生徒のおかげでありすにまで手が届かない。
 いったいこれはなんの騒ぎだとあっけにとられるミトは、それ以上教室内に入ることをためらっていると、教室の後ろに集まっている生徒の中から雫を発見する。
 雫もミトを見ると、手招きをして口が『ミト』と動いた。
 声は出ていただろうが、小さすぎてミトまで聞こえなかったのだ。
 大きな声を出して皐月の注目を集めるのを避けるためだろう。
 派閥に入るのを勧められてから苦手意識を持ったミトだが、現状を教えてくれる知り合いは雫しかいないので、足早に近付いていく。
「おはよう、ミト。朝から災難よね」
「なにがあったの?」
 お互いヒソヒソと声をひそめる。
「正直私にもよく分からないんだけど、ありすさんが登校してくるや、皐月さんが突然喧嘩ふっかけたのよ。あれはもう難癖と言っていいかもしれない」
「難癖って?」
「なんでも、皐月さんが学校での生活態度を久遠様に叱られたそうなのよ。自業自得だし、ざまあみろって感じだけど、それをありすさんが告げ口したせいだって言い始めてね。ありすさんはそんなの知らないって言ってるのに聞く耳持たなくて、さすがに手が出そうになったから、ありすさんの派閥の男子が皐月さんを押さえてるって状態」
 雫の話を聞いていたミトは、冷や汗が流れ出しそうだった。
「あんたが久遠様に余計なこと言ったんでしょう!? そのせいで私はお叱りをうけたんだから!」
「ですから、私は知りません。私が他の龍神の方に、そんな軽くお会いできるはずがないではないですか。そもそも普段から問題行動が多いから叱られたのでしょう? 自分が悪いのに人のせいにしないでください」
「なんですって!? 格下のくせに生意気言ってんじゃないわよ!」
「格下とかそんなことは今関係ないと思いますが?」
 端から見ていたらどちらが年上か分からない。
 三つも年下の少女に言い負かされている。
 皐月はただ声を荒げるだけで、なんの証拠もなく決めつけていた。
 ミトはふたりのやり取りを耳にする度にここから逃げたくて仕方なかった。
 久遠より、学校での行動を叱られたという皐月。
 それは間違いなく昨日ミトが久遠に皐月の我儘をぶちまけたせいではないだろうか。
 波琉からも忠告されて、言い聞かせると謝っていたので間違いないだろう。
 元凶はありすではなくミトである。
 ありすは完全にとばっちりだった。
 言い出すべきか。
 いや、そんなことをしたら余計に場を混乱させるだけかもしれない。
 どうしよう……。
 無視するわけにもいかず、ミトは途方に暮れた。
「まったく、ぎゃあぎゃあと騒いではしたない。そんな風に癇癪持ちだから、久遠様に選ばれたにもかかわらず、あなたを支持する生徒が少ないのですよ」
「あんたに言われたくないわよ。周りに媚びて人を集めるなんて、そっちこそはしたないんじゃないの? そういえばあんたのとこは男も多いじゃない。体でも使ったのかしら?」
 意地が悪そうに口角をあげながら、皐月は己を押さえているありすの派閥の男子生徒に視線を向けた。
 これに黙っていられなかったのは、ありすの派閥の女子生徒である。
「ありすさんはそんなことしないわよ!」
「そうよ、そうよ! 実際に男子だけじゃなくて、私たちだってあなたよりありすさんの方がいいもの!」
「ひがんでるんでしょ? 皆、相手にしない方がいいわよ」
 反論された皐月は、声を発した女子生徒たちをにらみつける。
「雑魚は黙ってなさいよ。しょせん龍神様にも迎えに来てもらえない、用なしが! あんたたちと私じゃ立場が違うのよ。私はいずれ久遠様と天界へ行くんだから」
 女子生徒たちは悔しそうに唇を噛みしめている。
 皐月が言うように、彼女たちが龍神に選ばれず、皐月が選ばれたことは事実なのだから。
 その差はどうあっても縮めることはできない。
「あら、反論できない? 桐生さんほど身の程知らずってわけではないみたいね。あんたたちもそいつより私についた方がいいわよ。どう転んだって久遠様に勝てるわけがないんだから」
 あはははっと高笑いをする皐月に、ミトは知らず知らずのうちに眉をひそめていた。
 虎の威を狩る狐のように、さも自分が偉いように振る舞う。
 それはミトが嫌っていた真由子の存在を思い出させる。
 村長の威光をちらつかせて、取り巻きを作り、ミトを虐げていた。
 村長の存在が後ろにあるので、ミトは逆らえないと分かっていての行い。
 まるで真由子と同じではないか。
 にらみつけるように皐月を見ていると、ふとこちらを向いた皐月と目が合った。
 皐月はニヤリとした笑みを浮かべ、ミトに近付いてくる。
「ねえ、あなた転校してきた子よね? 転校してきたばかりだけど、状況は分かるわよね? あなたは私と桐生さんと、どっちにつくの?」
 自分につくのが当然と疑っていない顔でミトを見る皐月に、ミトは冷めた眼差しを向ける。
「私は誰にもつかないわ」
「なんですって?」
「あなたも、桐生さんも、どっちも嫌だって言ってるの」
 決して心が揺れることなく、はっきりと告げた。
「龍神の後ろ盾がなかったらなんにもできない。龍神のおかげで多くの待遇を受けられてるのに、それを自分の我儘のために利用してるあなたにつくなんて絶対に嫌よ」
 皐月は怒りを抑えているようにヒクヒクと口元を引きつらせながら説明する。
「あなたは新参者だから知らないんでしょうけだね、わ、私は金赤の王の側近である久遠様に選ばれた伴侶なの。この町で私に逆らえる人間なんていないんだから」
「だからなに? それは久遠さんが偉いだけで、あなたはなんにも偉くないじゃない」
「なっ!」
「そんな虎の威を狩るような真似をして恥ずかしくないの? 自分にはなんにもできませんって言っているようなものじゃない。もう一度言うけど、あなた恥ずかしくないの? 私なら穴があったら入りたくなるけど」
 しんと静まり返った教室内。
 ミトにきっぱりと告げられた皐月は、怒りからなのか、体を震わせて顔を赤くしている。
 普段皐月に反抗心を抱いているありすの派閥の生徒も、ここまではっきりと言ったミトに驚いた顔で言葉を失っている。
 きっと久遠の伴侶である皐月にこんな風にもの申した者はいなかったに違いない。
 あのありすですら、一応は言葉を考えてしゃべっているようだった。
 バックにいる久遠を警戒していたのだろう。
 ありすも驚いたように目を大きく見開いている。
「ふ、ふざけるんじゃないわよ。私にそんなこと言って後で後悔するんだからね! 久遠様に言いつけてやるわ!」
「どうぞ、お好きなように」
 昨日会った久遠は、皐月の我儘を告げた時に恥じ入るかのようにしていた。
 龍神ではあるが、人間の常識も持ち合わせた人だと感じたのだ。
 きっと皐月が事実をねじ曲げてなにかを言ったとしても、ちゃんとした判断ができる方だとミトは思った。
 だから大丈夫だと、自信を持って皐月に反抗する。
「久遠さんがあなたの言葉を信じてくれるといいですね」
 最後の嫌みも忘れない。
 皐月は我慢ならないと怒りをぶつけるように、近くにあった机を蹴り飛ばしてから教室を出ていった。
 その後を皐月の派閥の人間だろう生徒が追いかけていった。
 ただでさえ少ない特別科の生徒が三分の一減った状態で、チャイムとともに担任の草葉が入ってきた。
 昨日は騒がしかったホームルームは、嘘のように静まり返り、草葉はなにがあったんだと困惑しているようだった。
 そして一限目が終わった頃には、星奈ミトと仲良くした者は制裁するという皐月の言葉が広まっていたのである。