「特に赤くなったりはしてないね」

家の近くにある個人病院の先生はパソコンを打ちながら俺に向かってそう言った。無造作に伸びている髭がここまで似合うとはと思えるようなイケメンおじさん、いわゆるイケおじの先生だった。
昨日妹と約束した病院での診察は原因はわからず、とりあえず咳止めの薬とのど飴のような水色の薬を処方してもらった。帰る途中にコンビニに寄っておにぎりを2つとペットボトルの水を買って、これまた近くの公園に足を運び、朝ご飯として食べる。咳は出なかったものの、飲み込む時に詰まる感じが何度かあって水を常に左手に持ちながらおにぎりを食べた。

「薬は、昼からでいいか」

本来であれば、デザートもコンビニで買って食べたかった。しかし昨日の夜妹と買いに行った瓶ケーキを食べた時に盛大にむせり、胃の中に入ったほとんどのモノが出てしまった。おかげで味もわからなかったし、何かを食べることへの恐怖心が小さく湧き出てしまった。体は拒否しているけど心はスイーツを欲している。それでも小さな恐怖が俺の行動を制限していた。もし甘いものが食べたくなったらしばらくはゼリーかヨーグルトになるだろう。おいしいけどボリュームが少ないから気が進まない。でも体調がよくなるまでの我慢だ。どうせすぐにケロッと治る。治ったらおいしいスイーツのお店に行こう。今度は影月さんや、松本先輩達と一緒に。
そう考えるとだんだんとスイーツ欲は収まってきて気持ちが晴れ上がる。家に帰ってベッドの上でスイーツ店を調べようと俺はベンチから立ち上がる。

「おっと」

立ち上がろうと脚に力を入れるが急に脱力してしまってよろける。ベンチの背をつかんだから前に倒れることは避けられたけど力が入りにくい脚に驚いてしまう。風邪だからといってここまで酷いものだろうか。いや、風邪だと診断されたわけではないから風邪と言っていいのかわからないけど。力は本調子ではないけど歩けないほどではない。俺はつかんでいたベンチの背を離して立て直すとゆっくりと息切れしないように家に帰った。








診察から数日後、俺の体はまたおかしくなっていた。手足に力が前よりも入りにくくなると同時に動くのが辛くなってきた。例えば駅の階段。足を1歩1歩動かすのがゆっくりでまるで老人のようだった。それに加え、つまずく回数も多い。登りは何とか大丈夫だけど、下りはとても怖くて今は階段は使わなくなり、エレベーターやエスカレーターを利用するようになった。
3週間後、少し治まっていたはずの咳がまた出始めた。以前と比べて痰が絡む咳が多くて、何回も部屋と洗面所を行き来した。その度にベッドや椅子から立ち上がると転びそうになる。時々何回踏ん張っても力が入らない時もあった。体がおかしいのに熱は出てないしだるさというのもない。それなのに、自分の体を上手くコントロールできなくてイライラしていた。
そんな時、一緒に暮らしている母親が俺の様子を見て整形外科に連れて行ってくれた。最初は俺1人で行こうとしたけど「心配だから一緒に行く」と頑固に譲らなかった母親は仕事を休んで車を出してくれて、2人で整形外科に向かった。

「うーん」
「どうですか、先生」
「骨とかには異常はないです。しかし、話を聞いたところ少し心当たりがありまして…」
「というと?」
「息子さんは確か、食べ物の飲み込みにくさと痰が絡む咳。そして手足に力が入らないですよね」
「はい、そうです」
「具体に手足に力が入らないと言うのは、例えばどのような場面ででしょうか?」
「椅子やベッドから立ち上がる時とか…。最近だとペットボトルの蓋が開けにくい時があります」
「そうですか……。お母様、脳神経外科への紹介状をお渡しします。当院のうな整形外科では見ることが難しいです」
「の、脳神経!?息子はどこが悪いんですか!」
「落ち着いてください。私自身、脳神経専門ではないので断定はできませんが息子さんから聞いた症状だとALSに近いのではないのかなと。しかし確実にそうだとは限りません。あくまで私の考えです」
「ALSって、寝たきりになるやつですよね?」
「病状が悪化すればそうなります。しかし先程も言った通り私の予想です。詳しくは脳神経外科の先生に調べてもらってください。その方が確実なので」

母親ふーっと鼻で大きくため息をついた。俺は突然の事で頭の理解が追いつかない。
『ALS』
単語は聞いたことあるけど、どんな病気かはわからない。しかし母親の口から「寝たきりになるやつ」という言葉を聞いて恐怖が俺を襲ってくる。先生は紹介状の紙に名前などをすらすらと書いて母親に手渡しで預けて「お大事に」の言葉と共に俺達は診察室を出て行った。

「保那、大学は次いつあるの?」
「明日。でも明後日はない」
「なら明後日、私と一緒に紹介された大学病院に行こう?お仕事のことは心配しなくていいから」
「ああ。わかった」

駐車場に止めてあった車に乗り込むと母親はスマホのカレンダーアプリを開いて予定を確認していた。明後日行く大学病院はここら辺では有名な病院だった。行ったことは無いけれども以前、スイーツ巡りの時に通ったことがあった。綺麗な外装はいかにも清潔感があってとても大きい建物と広い敷地が印象的で記憶に残ってる。アプリを確認し終えたのか、母親は車を発進させた。

「……やっぱり明日行こう。大学休める?」
「えっなんで?」
「歩くのだって辛いでしょ?それに本当にALSだったらと考えると…」
「あのさALSってどんな病気なの?名前は聞いたことあるんだけど」
「確か、筋肉の力が低下する病気だった気がする。酷くなっちゃうと寝たきりになったり、喋れなくちゃったったりするの。でも完治はあまり無い病気らしくて。本当にそれくらいしかわからない。間違ってる部分もあるかもしれないけどね」
「だったらやばいじゃん。どうしよう…」
「ひとまず明日、大学病院へ行ってみよう?時間かかるかもしれないから本でも持っていったら?」
「うん……」
「大丈夫」

母親は優しい声で家に帰るまで何度も大丈夫と言ってくれたけど俺はそれで落ち着けるわけでもなく、目線はキョロキョロと通り過ぎる景色を見ていた。
もし、寝たきりになったら。もし、喋れなくなったら。考えるだけで恐ろしい。ちゃんとした診断されてもいないのに俺の中ではALS患者になってしまってた。





「大丈夫なの?お兄ちゃん」
「わからん」
「何かあったらすぐ呼んでね。部屋にいるから」
「ああ」

家に帰ってからはまるでこの世界が終わり、俺自身は死んだかのようにベッドで横になっていた。どうせ立ち上がれないし、腹が減っても飲み込むのが難しい。そう考えてしまうともう廃人のようになってしまった。このままいっそ死んでしまえれば。なんて現実味のないことがポンポンと頭の中に浮かぶ。妹が母親から話を聞いたのか、俺の部屋に来ても顔を見ずに適当に返事をする姿を見て一言二言で話を切り上げて部屋に戻ってしまった。
部屋は静かだった。
いつもなら動画の音や、歌手の声が部屋に音を撒き散らかしているだろう。しかし動画なんて、歌なんて聴ける状態ではなかった。でもなんか寂しいという感情が沸々と湧いてくる。いや、これは寂しいでは無い。怖いだ。ALSなのであれば普通の生活は困難になる。そんな現実の怖さと、苛立ちに力無い腕をスマホに伸ばした。うつ伏せになってスマホを枕に置き、ポチポチといじる。誰でもいい。誰かの声が聞きたい。誰かにぶつけたい。俺は1番上にあったトーク欄を押した。

『この間は誘って貰ったのに行けなくてすみませんでした』

トーク欄の最後にやりとりした時の言葉は丁寧すぎる文章だった。