「私は、まねき亭というお店に住み込みで雇ってもらえると聞いただけなんです」

 社員寮などの福利厚生が充実している職場なのだと思っていた。それならお給料がそこそこでも、贅沢をしなければ生きていける。お正月には弟にお年玉も上げられるかもと期待したのだ。

 真剣な目で正面に座る千里を見つめると、彼は「ふぅ」と息を吐いてからここがどういうところなのかを語りはじめた。

 ここ『まねき亭』は、人間の住む“現世(うつしよ)”と人ならざる者たちの住む“幽世 (かくりよ) ”の狭間に存在している店。やって来た客がお茶を飲みがてら店主に悩みを相談する。その悩みを解決できれば、店主である千里は『徳』を積めるらしい。

「徳を積んだらどうなるんですか?」
「化け猫から猫神に昇進できるのよ」

 なぜ聞かれた千里ではなくウサギが答えるのだろうと思いながら、「へぇ」と相槌を打ったのだが。

「え! 昇進⁉」

 一拍あけてから思いきり驚いたら、「そこですの?」と呆れられたが、親切にも詳細を説明してくれた。

 いわゆる“普通のネコ”として生まれ、死ぬまでの間に神様になにかの理由で八つの命をもらえることがある。
その八つの生を生きている間に妖力が高まり、九生すべての猫生(じんせい)を終える際に徳の高さを神に認められば、晴れて猫神になれるそうだ。

 ちなみに現世(うつしよ)で完全な人型をとることができるのはひと握り。妖力の高いあやかしのみで、千里はそのひと握りの中に入るという。

「俺にはおまえが必要なんだ」

 それまで黙っていた千里が放った言葉に、不覚にも胸がドキッとした。
 けれどすぐに気がついた。この世のものとは思えないほど眉目秀麗な男性からそんなセリフを言われたら、誰だってそうなるに違いない。ましてや璃世はそんなことは誰からも言われたことがないのだ。免疫がなくて当たり前だと。
 
「神様になるのに私が必要ってどういうことですか? まさか乙女の生き血を……」

 自分で口にしながら背筋が寒くなった。ブルッと身震いをした璃世に、千里が呆れた視線を寄越す。

阿呆(あほう)。そんな下品なことするか。しかもそれじゃあ徳を積むどころか神の怒りを買うだろうが」
「あ、そっか……」

 ひとまず害をなすことはないのだとわかってほっとする。

 千里の話によると、独り身のままでいるうちはどんなに徳を積んでも半端者扱いだそう。妻帯者でないと社会(神様)的信用を得られないなんて、まるで人間世界と同じようだ。

 すると突然隣から声がした。

「話がまとまったようですので、アタクシは先に休ませていただきますわね。今日は色々あって疲れましたの」

 なにがまとまったのかさっぱりわからないけれど、璃世がなにかを言う前にテーブルからソファーに下りた白ウサギは、端に置いてあるクッションにピョンと跳び乗り、すぐにコテンと横になった。すぐさまスースーと寝息が聞こえてくる。

(え、はやっ!)
「寝つきよすぎか」

 頭の中で思ったのと同じようなセリフが聞こえ、思わずプッと噴き出す。すると千里がこちらに顔を向けた。

「そういうことだから、おまえ、俺の嫁になってもらうぞ」
「そんなっ、横暴すぎでしょ!」
「人聞きが悪いな。仕事と衣食住を確保できるんだ。悪い話じゃないと思うが?」
「で、でも……」

 いくら璃世が路頭に迷いかけているとはいえ、出会ったばかりの――しかも化け猫に嫁げと言われてもすぐにうなずけるはずがない。言葉に詰まった璃世に、千里がダメ押しのように言う。

「ここ以外に行く当てはあるのか?」
「うっ……」
「とりあえず契約のことはまた明日話をしよう。こいつがいることだし、今夜はもう店じまいにする」

 千里はすやすやと眠る白ウサギに視線をチラリとやるとすぐ、璃世の返事を待たず入り口へ行き、のれんを店の中に取り込んだ。

「ほら、ぼんやりしていないでついて来い。家の方を案内するから」
「え、あ……はい」

 流されるまま泊まることになってしまったけれど、断っても行くところがない。ここはおとなしく千里の言うとおりにして、明日改めて断りを入れた方が得策だろう。

 そう考えてうなずいた。

 けれどこの翌朝、目が覚めた瞬間に自分の浅はかさを思い知ることになろうとは、このときの璃世は思いもよらなかったのだった。